緑の濃い季節になった。  
 湊はふと思い立って窓辺に寄り、外を見た。  
 特別何を思うでもなく見下ろした砂地に、身体の大きい男が一人、こちらに向かって急ぎ足で歩いてくる。  
 彼女に会いに来るものなど一人しかいなかったから、離れの主人である鷹に他ならない。  
 ひややかな湊の視線を感じとったのか、鷹は立ち止り、眩しそうに手をかざしながらこちらを見上げた。  
 目が合った。鷹は口元を歪めた。湊は眉をひそめて窓を離れた。  
 ――鷹は、なんと言うだろうか。  
 再び腰掛けるでもなく、部屋の端から端をうろうろし、窓に背を向け、振り向く格好で再び眼下の敵を探す。鷹の影は既にない。  
 湊が表情を作るよりも早く、湊の部屋の扉が開いた。  
「…………」  
 いつもそうだが、何と言って出迎えたものか分からない。  
 おかえりなさいのはずはなく、お久しぶりも、こんにちはも、二人の関係に全くそぐわず、湊は押し黙って彼を迎える。  
 何かを湛えた鷹の無表情を見つめていると、自然、湊の胸もざわついた。  
 鷹の腕が湊に伸びた。彼は湊の肩まで伸びた髪を両手で掬い、手の平から髪をこぼしながら、湊の頬をすべすべと撫でた。  
 一言も言葉を交わさないまま、鷹が噛みついてきた。  
 口づけと言うには生易しい。  
 獲物を食べつくす勢いのような鷹のそれは、彼の一部始終を表すように乱暴で、情熱的で、平たく言っていつも興奮気味である。  
 いつもはできるだけ拒むのだが、なぜだろうか、今回は湊の胸にいつもと違う感情を持って受け入れられた。  
 けれども鷹の名前を一度でも呼んでしまうと、言葉にしてしまうと、そこにある僅かな温もりが霧散してしまう気がして、湊は黙って鷹の二の腕を掴んだ。  
 鷹の鎖骨に額を押しつけて、じっとする。  
 鷹はびくりとして固まった。  
 いつまでも黙っていたかったが、そういうわけにはいかない。  
「……教えてほしい」  
 確かめなければならなかった。  
 鷹の答えがどうしようもないものだったとして、湊はそれを甘受しなければならない、どうしようもない負い目がある。  
「痛めつけるためだけに私を抱いてるのか」  
「そうだ」  
 鷹の返事は呆気なかった。  
「私のことが憎いのだな」  
「…………」  
 二つ目の質問に対する答えはなかった。答えるまでもないということだと湊は解し、それでも、と続けざまに問う。  
「ずっとか」  
 頼りなく響く。  
「ずっとだ」  
 半ば予想がついていたものの。湊の両手指はそっと温度を落とした。  
 鼻先にある鷹の顔をどうしても見れず、彼女は足元を、自分の衣服の降り落ちる床を見続けた。  
 白い布が滲んだ。ぽとぽと落ちる水滴が自分の涙だと気付いて、湊は狼狽した。  
「おい――」  
「では、もう、私は謝らぬ」  
 湊は下腹部に手を置いた。  
 未だ名のない「それ」が哀れで、自分は泣いているのだと思った。  
「お前の家族を私の親が殺したと言うなら、私の家族をお前も殺すのだ」  
「何を言っている」  
「子ができた」  
 鷹は虚を突かれた顔をした。  
「お前と私の子だ。だが、産めぬ。この子ごとお前に憎まれ続けるなど耐えられない。きっと……」  
 湊は気付いた。  
「きっと私まで、お前のことを憎んでしまうよ」  
 ――どんなに辱められても、罵られても、憎まれても。  
 この男を心底憎むことができなかったから、苦しかったのだ、と。  
 
・  
 
 湊が泣いていた。  
 必要以上に動揺している自分に、鷹は気付かざるを得なかった。  
 自分好みに湊の髪を伸ばさせると決めた日以降、どんなに手ひどく罵っても湊は泣かなくなっていた。  
 その代わり、行為の最中、うわごとのように「ごめんなさい」と繰り返すようになった。  
 大変に鬱陶しい口癖だったのでやめさせたかったが、また泣かれると思うとそちらも鬱陶しく、言わせるに任せた。  
 馬鹿め。  
 醜い。  
 薄汚い。  
 そんなちょっとした罵りに謝られ続けると、手ごたえもなく、だんだんつまらなくなり、鷹も最近は黙って抱くことにしている。  
 どうしてあの女がこんなに憎いのだろうかと、軍の元同期に尋ねてみたことがあった。  
 便宜上、俺の女が、と前置きして。  
「最近つまらない。反抗しない」  
 吐きだすと、旧来の友人は珍しそうに鷹を見てこう答えた。  
「いいことではないですか。従順な女と言うのは」  
「泣きも笑いもしないんだぞ。いいことなわけがあるか。面白くもない」  
「鷹様だって、滅多なことでは泣きも笑いもしないでしょう」  
「あの女はそうではない。よく笑うし、よく泣く。もしやそうやって反抗しているのかもしれない。気にいらん」  
「……随分とご執心ですね」  
 言葉多く語りすぎたことを鷹は悔いた。  
 それほど憎いのだ、という言葉はなんとか言わずにおいた。  
 それほど憎いに、違いない。  
 湊の首は細かった。そこに噛みつくと、彼女はか細く鳴いた。  
 彼女の腕も細かった。彼女が無意識になるその間、恋人にするようにその腕が縋りついてくると、我も知らず引き寄せ、抱きしめた。  
 ――ごめんなさい。  
 そういった「現象」の一つ一つが積み重なり、段々と、どうして憎いのか、思い出さなくてはならないようになっている自分に気付いていないほど、鷹は馬鹿ではない。  
 ただ、この執着を憎しみによるものだと思うことはたやすかったし、そうするべきなのだと鷹は思った。  
 なぜならば、この女の親は俺の家族を皆殺しにしたから。  
 長年の独裁、謀りの中にいた先王は気が触れた。誰も信用しなくなり、宮廷は血に染まった。  
 なぜならば、この女は。  
 
 
 三の姫、湊の遊び相手兼護衛として、鷹が過ごした日はごく短かく、一年にも満たない。  
 それでも、鷹が湊のことを忘れたことはなかった。  
 花のように笑う少女は彼が初めてずっと傍にいたいと思った相手で、それは本来そうなるはずであった。  
 湊には知らされていなかったが、順調に行けば鷹は彼女と結婚するはずであった。  
 鷹の父が仕組んだよくある政略結婚で、それがうまく行けば李家は祀の国で盤石の地位を築き上げられる。  
 ――鷹、もっとこっちに来い。蝶がおる。  
 ――はいはい。  
 くるくると遊ぶ、愛らしい許嫁。  
 誰も損をしない計画であったが、ある日それはあっけなく消え去った。  
 鷹と乳母らが僅かに目を離した隙に、湊が城内で迷子になった。間もなく鷹が発見、保護したのだが、誰ぞかの陰謀だろう、その出来事が気が触れ始めていた湊の父に伝わった。  
 鷹家の人々と湊を面前に呼び、祀王は震え声で言った。鷹にではなく湊に。  
 ――湊、どうして迷子になったのだ。誰がお前を危険な目に遭わせた。  
 屈託なく、彼女は答えた。  
 ――鷹とかくれんぼをしてた。鷹はなかなか見つけてくれん。  
 湊は鷹に抱きついた。  
 その場にいた全員が二人を見た。祀王は目を閉じた。  
 
 そこからはあっけなかった。  
 鷹と、鷹の父――現在の新帝、李曜が処断されずに済んだのは、ひとえに運が良かったからだ。  
 鷹が真っ先に責任を取らされるはずであったが、優秀気鋭の彼を殺すのは忍びないと多数の掬いの手が伸びたらしい。  
 鷹の代わりの首がいくつかと、李家の没落とを引き換えに、鷹と曜は一命を取り留め、生き残った李曜は密かに謀反を企て、誅殺の嵐が吹き荒れる時勢の中、着々と準備を行った。  
 殺伐とした生活の中、鷹は大人になった。  
 祀家への恨みごとばかりを耳にし、自らも復讐を決意して邁進した。  
 復讐。誰へのか。分別なく馬鹿な返答をした幼い少女へのか。  
 祀王を憎むには憚らぬ。けれども当初、湊を憎むには迷いがあった。見失った自分が悪い。無垢な少女を憎むのは余りにみっともないのではないか、と。  
 けれども、二度と口を効くことのかなわなくなった湊が日々美しく成長し、鷹の知らない誰かと楽しそうに笑っているのを見かけると、どうしようもなく腹立たしくなった。  
 ある日、湊の縁談が決まったという噂を聞いた。相手は高貴な家の出の優男で、鷹も名前だけは知っていた。  
 どうしてだかわからない。が、それ以降、何もかもどうでも良くなり、鷹は復讐に専心した。  
 幼い少女だからどうした。祀の血をひく娘であることに違いない。  
 もしかしたらあの時の言葉も、鷹が気に入らず、わざと発したのかもしれぬ。  
 祀転覆の三か月ほど前のことだろうか。  
 宮の廊下で鷹は湊とすれ違った。彼女が彼を見た。賢そうな、きらきら輝く茶色の瞳が、鷹を見上げた。  
 振り返って恥じ入るほど心乱れた鷹とは裏腹に、湊はふいと鷹から目を逸らし、客人らしき――婚約者かもしれない――隣の男に笑いかけ、鷹には挨拶一つせず立ち去ったのだ。  
 絶対に、もう二度と、俺から目を逸らさせぬ。  
「探せ!」  
 空になった湊の部屋を見たときのことを、鷹は思い出す。燃え上がるような執着を。  
 本当はこのためだけに父に協力したのではないか。  
 湊を手に入れ、自らと親の悪行を思い知らせ、服従させ、閉じ込めて、一生自由にさせないために。  
 そうして、手に入れて、今、湊が泣いている。  
 
 鷹はひとまず衣服を湊に着せた。掛け布で包み、震えて俯く女の肩を持った。  
 湊を傷つけるならば、勝手にしろと捨て置けば、それで済むはずだ。  
「…………」  
 けれどいつまでたっても鷹の口から言葉がでなかった。  
 湊の濡れたまつ毛をじっと見ていると、そうしなくてはならない気がして彼女の瞼に口づけた。  
 湊が戸惑った表情で鷹を見た。  
「別に、俺は、構わん。お前が俺の子を産んでも」  
 言葉にすると何かが押し寄せた。  
「産め。絶対。子どもごとお前をずっと傍に置いてやる」  
 言いきって、息を吐く。  
 存外、恥ずかしい意味が込められているような気がして、鷹は一人憮然とした。  
 湊が悲しそうに首を横に振った。  
 先ほどの湊との問答を思い返し、これまでの自分を思い返す。  
 どうして彼女が孕むまで抱き続けてしまったのか。  
 憎いからに違いない。仇敵の子を産ませ、育てるなど、最高の復讐になるだろう。  
 彼女の中に精を放つ瞬間は毎回、控え目に言って、幸福だった。  
 達成感と征服感、満たされる所有欲。  
 入れたまま、荒く呼吸する女に軽く圧し掛かり、強く抱きしめる。名前を呼んで、呼ばれる。  
 その時の感情は例えようがない。  
 今更その感情に名前を付けて、この執着に憎しみ意外の名前を付けて、湊に紐解いてやるなど、想像ができなかった。  
 
 身動きが取れない。  
 重苦しい空気に耐えかねたのか、愛想を尽かしたのか、湊が立ちあがって逃げようとした。  
 すぐさまその腕を掴んで引っ張ると、彼女は短く悲鳴を上げて寝台に倒れ込んだ。  
「悪い――」  
 口をついて出た言葉と、知らず手を差し伸べた自分に、鷹は混乱した。  
 いつもならそのまま乱暴に跨って、犯してやるはずだった。  
 湊も驚いた顔をしている。  
 子どもができたからなんだと言うのだ。湊が湊でなくなったわけではあるまい。  
「……その、さっき」  
 鷹は口を開いた。何か言わなければ間がもたない。  
「いくつか誤りがあったので訂正する。お前を痛めつけるためだけに抱いているわけではない。  
 俺はそれなりに愉しんでもいる」  
 何を言っているんだと言いたげな湊の呆れ顔に気付かず、鷹は朴訥と喋り続けた。  
「お前のことは確かに憎い、はずだが、生まれてくる子どもまで憎いとは限らない」  
「そう、か」  
「そうだ。半分は俺の血だ」  
「…………」  
 湊が溜息をついた。  
「――お前はこれまで何度も謝ったから、口汚く罵るのはやめにしてやる。これでどうだ」  
「何が」  
「産めるか」  
 ちょっと、鷹は息を飲んだ。  
 注視しなければ分からないほど僅かに、湊が笑ったのだ。  
「そんなに産んでほしいのか」  
「そういうわけでは」  
「嬉しい」  
 今度こそはっきりと、湊は笑った。  
「お前が私のことをどう思っていても、それだけで嬉しい。私は思ったより、女だったようだ」  
「…………」  
 ようやく、鷹は自分の失敗に思い至った。  
 湊は何やら幸福な誤解をしているらしい。  
 鷹が彼女を娶って大切にするだとか、子どもを溺愛するだとか、毎晩愛を囁くとか、そういう確約をされたとでも言いたげな笑顔だ。  
 鷹が初めて見る種類の彼女の笑顔。  
「……どうとでも受け取れ」  
 憎々しげに呟くに留めたのは、嫌味が思いつかなかったからだ。  
 湊に見惚れ、動かなかった目を無理やり逸らす。  
「なんにせよ、飽きるまで飼ってやる」  
「飽きるまでか」  
「そうだ。思いあがるな」  
 鷹は立ちあがった。部屋の出口まで歩いて、寝台に引き返し、そこに座る彼女を無理やり横たわらせた。  
「寝ていろ」  
 湊を抱きしめた一瞬、彼女は緊張したようだったが、何もされないと分かると力が抜けたように肩を落とした。  
 くそ、と吐き捨てて、部屋を後にする。  
「鷹」  
 不安げに呼ばれ、彼は立ち止った。  
「温かい物を持ってくるだけだ」  
 病気じゃないんだから、と言った湊の言葉を背に、鷹は部屋を出て従者を呼んだ。  
 温かい飲み物と、妊婦にいい果物と、精のつくその他諸々――を、強いて湊に食べさせるために。  
 
・  
 
 湊が窓から見下ろすと、身体の大きい男が振り向きもせず立ち去るのが見えた。  
 わざと振り向かないようにしているのかもしれない、という想像は少し可笑しかった。  
 鷹のことをどう思っているのか、実のところ掴み切れていないのが現状だ。  
 優しく抱かれると嬉しい。勘違いをしそうになるくらい。  
 酷いことを言われると悲しい。  
 けれど、言葉通りではない行動もあって、それはとても嬉しい。  
 立ち去り際、鷹が初めて言った言葉がある。  
「行ってくる」  
 言った後、湊が驚いて黙っていると、鷹はしまったという顔をした。  
 そのままむっつりと押し黙って立ち去り、振り返らずにいそいそと帰っていく大きな体躯。  
 湊は軟らかく腹を撫でた。  
 この子が日向にでることができなくとも、健康に幸せに、大きくなるまで。  
 鷹は飽きず、憎んでくれるだろうか。  
 
 
 
 
 その後。  
 鷹の人生には生涯にわたる尽きぬ悩みが付きまとい、彼はそれに飽かず悩み抜いたとのこと。  
 独身を貫いたと言われる鷹に、一人の妻とたくさんの子どもがいたというのは、正史には記されてはいないものの、市井の読物語の中ではごく当たり前に知られていたとかなんとか。  
 
 
 
 
 
 おしまい  
 

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