辺境は超山奥の国境警備局には、年末年始や親戚周り、初詣すらもございません。 
 
蕎麦をすすり、雑煮を食べて、年末年始の特別テレビ番組を見ながら、 
一人と一匹で寂しくゲーム(と言っても単純なカードゲームとか盤上ゲームとかだ)を 
していたら、いつの間にやら正月七日は終わっていた。 
…せっかく異世界に来たってのに、なんだよこの夢の無い正月の過ごし方は。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 1 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
「うまうま♪」 
「…だから手掴みで食べるの止めなさい…ってあーもう遅いか」 
 
なまじ毛が生えているだけに余計にあんこが絡まっていく手を眺めながら、 
あたしは溜息と共に、前もって用意してあった濡れた手拭を渡してやる。 
はぐはぐと幸せそうにおはぎを食べる雑巾の背後には、 
通信機器やら書類やらが散乱した汚い卓上が広がっており。 
……んなアンコ塗れの汚い手で重要書類を触ったら、 
ろくでもない事になるだろうというのはあたしにだって想像できた。 
 
「は〜♪ このどっしりと濃厚な、けれどけして単調ではない複雑玄妙の…」 
「判ったから。判ったから話しながら食べるのは止めなさい。こぼしてるから」 
 
犬の癖に、男の癖に。 
こいつは甘いもの嫌いが見たらヒキツケ起こす程の、超々超絶甘党野朗だ。 
 
とりわけ最近はあたしが作ってやるあたしの故郷のお菓子―― 
――『和菓子』がお気に入りのようで。 
現に今、珍しくも傍目にも判るほどに口元をえへらえへらと緩めながら、 
幸せ絶頂といった感じで口の周りをアンコ地獄へと変貌させていた。 
…『素朴だけど深い』とか、『甘味に確かな重さがある』とかほざきながら、 
どこぞのお店と比べていっちょ前に評論家を気取る辺り、相当の筋金入りなのだろう。 
 
 
……ホント、こんなこいつでも、仕事をしてる時だけは一応まともで。 
 
(……黙って仕事してれば、結構キリッとしてて見栄えがあるのにねぇ……) 
腐っても一応国家公務員、書類や通信機器に向かって手を動かす姿は凛々しく、 
定時連絡の声なんかはハスキーだと……まぁ百歩くらい譲れば、思えるのに。 
 
 
…目の前にいるのは、満ち足りた表情で両手を拭き拭きするアホっぽそうな犬。 
 
ものの数分と立たない内に綺麗になってしまったお皿を片手に、 
あたしは溜め息が出そうになるのを堪えて、小脇にお盆を抱え直した。 
 
 
「……それじゃ、あたしはお風呂入ってくるから。判ってるだろうけど、 
あんた絶対に外でちゃ駄目よ。覗きに来たら晩飯抜きだからね?」 
「おう!」 
 
さすがのこいつも、それくらいのデリカシーはあるらしい。 
元気良く返事を返した雑巾を尻目に、あたしは部屋を後にしようとして…… 
 
 
………… 
 
 
てくてくてくてく  ぐしぐしぐしぐし 
 
 
「…ぅあ、な、なにすんだよお」 
「口の周りもちゃんと拭く! 手だけ拭きゃいいってもんでもないでしょうがっ!!」 
 
――そうして。 
いきなり口元をゴシゴシやられて痛かったのだろう。 
まるで子供がぶーたれるような目が、あたしの目線とぶつかって来る。 
 
「…ったく」 
そんなあまりに邪気のない様子をされては、なんだか怒る気も失せてしまい。 
腰に手を当てて、形だけは睨みつけながら。 
 
「…本当にあんたは、こういう所に全然気が回らないんだから……」 
手間の掛かる弟か、子供でもいたらこんな気分にでもなるんじゃないかと、 
そんな気持ちで何気なく言っただけの、そのつもり。 
 
……だったのだが。 
 
 
 
 
 
「……ほ、ほほ、ほっといてくれよ、そんな事…!」 
 
……んん? 
なんだ、どうした、歯切れが悪いな? 
 
ぷいっとそっぽを向くと、そのままくるっと机に戻っちゃって。 
…以前までなら、ここで二、三往復苛烈なやり取りがあったはずなのだが。 
どうも最近、こんな感じのが増えた気がする。 
 
「そんな言い方ないでしょ? 大体あんた――」 
 
それがなんだか、あたしとしてはひどく面白くなくて。 
思わず肩に手を伸ばし、そんなこいつに少々ヤキ入れたろうかとも思ったのだが。 
 
 
 
 
 
「うるさいな!!」 
 
 
 
 
 
ぱしん、と。 
思ったよりも強い力でそれを撥ね退けられて、あたしは不覚にも…… 
……ポカンをアホ面を作ったまま、とにかくもうびっくりしてしまっていた。 
 
これまでに一度も聞いた覚えのない、明らかに何かに苛立った様な声。 
 
あの雑巾が。 
ボケボケとニコニコとノンビリノンキの塊のような雑巾が。 
まさかこんな声を挙げる事ができるだなんて今の今まで思いもせず。 
 
そんな、何か虚を突かれたとでも言うか―― 
――ついつい忘れていた盲点を、いきなり思い出さされたような気がして、 
あたしがなんとも言えず、固まっていると。 
 
 
「オレさ、今いそがしいの! 去年一年間のこの区域であった出来事を 
全部まとめて一覧表にして王都の方に送らなきゃいけないの! 
すんごい忙しいの! 分かる? 分かるよね? 分かってくれるよね? 
だから邪魔。じゃまなの。じゃーまー。だからほらあっち行った、しっし!」 
 
 
…………。 
……をいコラ。 
……なんだその蝿でも追い払うかのような手つきは、イヌの分際で。 
 
 
 
「…ああ、そうですか、わかりましたよ!!」 
 
自然にそう言い返す事ができたのは、いつの間にかその場の空気が 
あたしにも馴染み深いものに戻っていたからだと言う事を。 
一瞬見えた、あのどうしようもなく苛立ったような刺すような気配が、 
いつの間にかあいつの中から消えていたからだと言う事を。 
 
「それじゃお言葉通り出て行きますよ、ふーんだ!」 
 
気がつけなくて、あたしはずかずかと部屋を二つ横断すると、 
置いてあった洗面用具一式を引っつかんで、そのまま外へと足を向けた。 
……『おふろ』は、外にあるのだ。 
 
 
 
 
 
 
 
 
――静まり返ったその部屋の中に、バシッ、バシッという音だけが響く。 
たった一人しかいないその空間に、その音だけが響いている。 
 
出所は、ついさっき彼女が出て行った居住用スペースの奥の部屋。 
出しているのは、無言で机に向かった男のしっぽ。 
 
バシリ、バシリと。 
親愛と喜びに振るのが左右にで、恐怖や不安を隠すために丸めるのなら、 
上下に振って床に叩きつけるのは、さながら動揺と苛立ちの為。 
 
イライラを誤魔化すかのように、何度も持ち上げ、持ち上げては、 
椅子の縁の所に、幾度となくその大きな尻尾を叩きつける。 
……例えば苛立った人間が、無意識に机を指でコツコツやるように。 
 
バシリ、バシリ、バシン、バシン!と。 
それが段々、大きく大きく。 
 
平静に仕事をしているかのように見えても、 
そんな尾先の動きを見れば、彼の内心の動きも手に取るように知れた事だろう。 
……もちろん誰もいないからこそ、彼の方も止めないのだが。 
 
バシン! バシン! バシン! バシン! 
バシ!バシ!バシ!バシ!バシ!バシ!バシ!バシ! 
バシバシバシバシバシバシバシバシバシバシバシバシバシバシバシバシ…… 
 
 
 
ガターン 「うああーー!! くそっ!!」 
 
おもむろに叫んで立ち上がると、掴んでいたペンを机の上に叩きつける。 
はずみで部屋の隅まで転がってく、椅子の滑車のカラカラと言う音に混じり、 
ぜーはーぜーはーと、深呼吸のできそこないみたいな荒い呼吸が混じる。 
 
 
「…………ちくしょ……」 
 
 
ぽつりと漏らした声。 
いつものように険しい縁取りに収まった緑の双眸は、 
気のせいか少しだけ歪み、潤んで見えた。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 2 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
さすがに軍の施設だからか、魔洸(=この世界の電気のようなもの)は通ってる。 
そのお陰で電話みたいなののも通じるし、コンロの火を使うにも問題はない。 
……ただ、さすがにこんな山奥まで水道管は通っていないらしく。 
 
 
 
「…あー、どうしよう……」 
 
ほかほかと湯気の上がる池の前に立って、 
あたしは手を擦り合わせながらそう呟いた。 
 
 
飲料水その他を、いちいち近くの川から汲んでくるのとかは、 
正直面倒くさくって、かつての『蛇口を捻れば水』な生活が懐かしいのだが。 
……これだけは、あたしにとってはツイてたというかなんというか。 
 
 
『山奥。バスなし。水道なし。悪路・交通悪し。だけど徒歩五分温泉有り』 
 
 
…五右衛門様よろしくドラム缶風呂に入ったり、 
あるいはこのクソ寒いなか水垢離をしなくても済んだ理由が、ここにある。 
 
目の前にあるのは、よくテレビとかでニホンザルとかクマとかが 
冬景色の中湯治に入ってたりとかしそうな、こじんまりとした素敵な温泉。 
…温泉。…ああ温泉っ。ビバおんせん!! 
 
……つーかあたし、実は温泉大好きなんだよね♪ 
婆臭いって言われるかもしれないけど、大学に入ったらバイトでお金溜めて 
全国温泉郷巡りしようって、中学生から真面目に考えてるような温泉愛好家だし。 
 
なんていうかさ、あれだよね〜♪ 
入ってて、「ああ、あたし今じわじわと健康になってるんだー」って 
感じがモリモリするのがいいよねっ? 
……プラシーボ効果なのかもしんないけどさ、気分的によ気分的に! 
 
うん、だからもう、温泉は大いに結構なんだけど。 
ていうかすんごい嬉しいし、毎日温泉のこの環境はむしろ願ったりなんだけど。 
…たった一つ、問題点があるとすれば。 
 
 
        ああ温泉 入る時天国 出る時地獄(字余り) 
 
 
 
「うあ〜、ちくしょうさみ〜、くっそどうすっかなおい」 
 
勢いで飛び出て来たはいいけれど。 
手袋や耳当てどころか、マフラーやフード、コートすら着て来ずに、 
室内着のままで出てきてしまったのに気がついたのは、 
間抜けな話だが、延々山道を登り、いざ温泉の前に立った時だった。 
 
おいおい寒がりだなぁ、なんて笑わないで欲しい。 
見渡せば銀世界、白帽子を被った針葉樹林と高山植物が身を連ね、 
気温はたぶん氷点下、しかも空気が薄いからか、体感温度はさらに下。 
 
――イヌの国の山岳部の冬って、まぢで寒いのだ。 
――ホント、洒落にならんほどに。 
 
「…………」 
 
故に、ただでさえ今だって少なからず極寒地獄なのに、 
これに『温泉に入った後』という条件がついた日にゃ、どんな寒さになるか判らない。 
…冬の湯冷め、というのは想像以上に恐ろしいもので、 
事実、あたしは愚かにもその極寒地獄を二度ほど我が身で体験し、 
しかもその内一回は……。 
 
 
「……も、戻ろう」 
 
その瞬間、せっかくエッチラオッチラ道無き獣道を登って来たというのに 
バカバカしいなと思いつつも、あたしは一端引き返す事に心を決めた。 
これは別にあたしがマメな性格だからとか、 
慎重な性格だからとか、そういうのとは一切関係のない事だ。 
 
 
 
――『ヒト』は脆い 
――『ヒト』は弱い 
 
…この世界に来てから、何かにつけて目にする言葉。 
たいした力もなく、身体は小さく弱く、動きはとろくさくて、魔法は欠片も使えない。 
そのくせほんのちょっとした事で死んでしまって、持ってもせいぜい80年。 
特にメスの方が脆くてダメで、あっという間に死んでしまう。 
 
すごいの(狼人とか虎人とかの強そうなの)になると 
素手でブロック粉砕したりするのがザラなこの世界の標準では、 
とにかくヒトは、弱くて脆くてダメな生き物らしい。 
 
…事実、こう見えても健康には自身のある方で。 
…運動は得意じゃなかったが、演劇部やってる以上タフさには自信があり。 
向こうじゃ少なくとも、男子との体力さなんて感じた事はなかったのに。 
 
……こっぴどく湯冷めした日の翌日、ちょっと体調崩したかなと思ってたら、 
そのまま丸三日寝込む羽目になり、完全に体調を取り戻すまでに更に四日、 
計一週間を費やしてしまうに及んで、あたしはそれを、まざまざと痛感させられた。 
…あたしはその、脆い方のヒトのメス……その当人なんだって。 
 
 
思えばこっちの世界に来た当初、雑巾に拾われた時も、 
ベットから起き上がれるようになるには、随分な時間を要した様に思う。 
……どうやらこの世界の病原菌その他は、 
どれもこれも、あたし達の世界のそれらよりもずっと強力でしつこいらしいのだ。 
もっとも、もっと強靭でタフな連中にとっ憑くのを標準としているのだから、 
それも当たり前と言えば当たり前の話なのだが。 
 
(…ほんと、これじゃはっきり言ってウサギかハムスターだよねー…) 
 
脆弱で、汚れやストレスに弱く、気を抜くとあっという間に病気で死んでしまう。 
……だから大切に守ってあげて、育ててあげなければならず。 
 
『病弱な深窓のお嬢様』な自分なんて、向こうじゃ想像した事もなかったが、 
現在のあたしは、残念ながらはっきり言ってしまうと、つまりはそれ…らしかった。 
 
 
 
――パキリ、と靴の下で枯れた小枝の鳴る音がする。 
怒りに任せて登って来ていた行きと違って、 
たった五分のそれでも、冷静になった帰りは酷く道程を長く感じる気が―― 
 
 
 
……だけど、足手まといが死んでもいやだったのも、また事実だ。 
それがあたしがたった一つだけ望む、この世界での居場所についての在り方。 
 
餌を貰って、守ってもらって、何一つ対価を払う事無く、愛されるがままに過ごし、 
安全な檻の中、愛玩動物として何一つ不自由なく暮らす。 
…そういう楽な暮らしに憧れる人には、何が不満だと言われるかもしれないが。 
だけどあたしという人間にしてみれば、そんな生活、意地でもごめんこうむる。 
 
 
なんていうか、どうにもあたしは……プライドの高い人間、なんだよね。 
 
意地っ張りで、負けず嫌い。 
案外挑発に弱く、何かにつけて―― 
――それが例えくだらない事についてであっても、すぐに他人と張り合ってしまう。 
『無能』や『役立たず』と言われる事が、他の何よりも耐えられない人種なのだ。 
 
けど、自分で言うのも何だが、こんなアホみたいに競争精神が強い性格のせいで、 
学業も上位の方、部活でも部長の座にまで登りつめる事が出来たのだろう。 
……おかげで元の世界では、男子とは悪友としては付き合えても 
恋愛対象としては見なされず、女子とはこの孤高の天上天下っぷりから 
ごく少数の親友を除き、慕われるか嫌われるかの極二択しかなかったけれど、だ。 
 
 
そうしてそんな、やたらと素直じゃなく意地を張るような気の強さは、 
学歴競争社会から解放され、もう高校受験や大学受験どころか、 
一流企業や玉の輿といった概念すら消失した世界に来ても……治らなかった。 
 
……馬鹿だと笑ってもらっても、構わない。 
だけどあたしは、無駄飯食いだなんて、やっぱり耐えられず。 
恩の買いっぱなしだなんてのも、やっぱり同じ様に耐え切れず。 
その感情が、『誇り』と言う名の箸にも棒にも掛からない無駄な概念から 
生まれるものだと判っていても、それでもそれは、屈辱の極みで。 
 
 
 
――パキンと。 
また、枯れ枝の音がするのを聞いて、 
あたしはようやく、どうしてこんなに道程を長く感じるのかに気がついた。 
寒い空気の中、本来なら家路に急いで加速するはずなのに、 
帰る場所が近づくに従って、足の歩みはのろのろと、もう半分、止まりつつさえ―― 
 
 
 
……それが、問題だった。 
せめてあいつが、打算や計算であたしに親切にしてくれていたのであれば。 
あるいはもっともっと、嫌な奴であってくれていたのであれば。 
 
それだったら別に、こっちも向こうもお互い様、 
恩を仇で返してやったり、精一杯の嫌がらせをしてやったり、 
あるいはそれこそ、あたしが最初にそういう考えを思い抱いたように、 
利用の対象として、『誇り』を捨てた卑屈なつき合いも、出来たのかもしれないが。 
 
 
「……いい奴なんだもんなぁ」 
 
…甘いのかな、とか、中途半端なのかな、とも思う。 
でも、本当に良い奴だと自分が認めた相手からの恩を仇で返すだなんて、 
そこまで下衆なマネは、やっぱりどうしてもあたしには出来なかった。 
これもまた、あたしの中にある『プライド』とかいう物がもたらす現象なのだとしても、だ。 
 
だから、冷徹な打算家にはなり切れず、かといって素直にもなり切れず。 
 
 
「……うわー、なんかあたし、さりげなく情けない?」 
 
分かっているのだ、それくらい。 
『家事手伝い』『おさんどん』としてでも、それでもあいつの傍にいて、 
日常生活の上で欠かす事ができない役割・仕事を担っている。 
……その事をどれだけ、あたしが自分の自己満足の充足に当てているか。 
 
『本当にあんたはだらしないんだから』 
『本当にあんたはダメなんだから』 
そうやって言う度に、あいつがしょんぼりがっかり項垂れるのを見て、 
あたしがどれだけ、そこに隠れた優越感を感じているか。 
 
 
何一つない殺風景な白い部屋の中で、三食と排泄・睡眠以外、 
ただひたすら椅子に座っている事だけを強要された人間は、 
意外なくらいの短期間で精神に変調を来たし、やがては狂ってしまうと聞く。 
 
…だから部活も、受験勉強も、将来計画も、何もかもが彼方に消えてしまって、 
『別に何もしなくてよくなってしまった』あたしにとっては。 
目指すべき『目標』が何一つなくなってしまい、 
元の世界に帰れる可能性の絶望性をあらゆるデータから証明されつつある今、 
もうそれ位しか生き甲斐と呼べるような物がなくなってしまったあたしにとっては。 
 
『此処』は、残された数少ない貴重なレーゾン・デートル――存在意義で。 
 
 
 
 
 
「……でも、やっぱ謝んないとダメだよね〜……」 
建物が見える所まで戻ってきて、 
寒い中わざわざ木に寄りかかって立ちつくしながら、 
それでもあたしは、やっぱり決心する。 
 
そりゃ、怒るよね。…当然だよね。 
いくらあの雑巾でも、三つ子の魂百まで――ってのはちょっと違うのかもしんないけど、 
だけど一応は、『男の子』…なわけなんだし。 
……いや、イヌだけどね? 
 
でも万物全ての知的種族に当てはめても通じる公理として、 
一定以上の年齢なのに、女の側からいつまでも『子供』『おこちゃま』扱いで、 
嬉しいと感じるような『男の子』はいない……はずだと思うのよ、うん。 
 
 
「……うん、謝ろっと」 
 
だから、いけすかない、プライドばっかり高くてダメなあたしだけどさ。 
それだからこそ、こういう時はきちんと謝らないとダメだと思うわけだ、うん。 
……だって普段から居飛車高に振舞っておいて、 
こういう時だけ言い訳して謝らずに逃げるだなんて、それこそ最低の女でしょ? 
プライド高いと自覚あるからこそ、ここで謝らないとダメだと思うわけ。ね? 
 
……機嫌直ってるかどうかは、正直不安だけど。 
でも、今日の晩御飯は奮発して肉料理にしてあげちゃうとかのオマケつきだったら、 
肉大好きで食い意地張ってるあいつの事だもん、きっと許してくれるハズ! 
 
 
「…よーっし、謝るぞー!!」 
 
うおー、と、意味も無くエイエイオーしてみながら、あたしは心機一転、 
な〜んかドロドロしてしまった心の中を入れ替えて、いつものあたしを持ち直した。 
こういうのは勢いが大事なんだよね、うんうん。 
 
だから「突撃ぃー!」とかなんとかいいながら、 
あたしは裏側を背中に勢いよく斜面を下って、監視所の入り口の方へと回り。 
そして―― 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 3 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーー!!!!」 
 
――僅か10分後、叫びながらもう一回温泉の所まで戻って来てたりとか。 
 
 
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーー!!!!」 
 
そのまま乱暴に服を脱ぎ散らかしていくあたし。 
……いや、女ですよあたし? …一応ね。 
 
 
「うおおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」 
 
挙句、そのまま子供がよくやるみたく、思いっきりジャンプして水面に飛び込む。 
……ばっしゃーん、と盛大に立つ水飛沫に、森の空気が微かに震えた。 
 
……ちなみに、タオルなんて当然巻いたりしてません。 
ホント、恥も色気もあったもんじゃないね、自分で言うのもなんだけど。 
 
 
 
湯面に広がる波紋。岩にぶつかっては砕ける小波。 
飛び込む時の音と、それ以前のあたしの絶叫に驚いたのだろう、 
ギャアギャアという鳥達の声が、周囲から次第に遠ざかっていく。 
 
 
……静寂。 
 
 
…何を不注意な、んな大声上げて、クマに襲われでもどうすんだという、 
そんな常識ある方々の諌声は大いに分かる。 
 
…でも、だけど、この時ばかりは。 
 
野垂れ死に寸前で山の中遭難してた時や、ここは別世界だって聞かされた時、 
あるいはもう帰れないって言われてた時でさえ、 
取り乱しこそすれ、それでも表面上を取り繕うだけの余裕はあった、あたしでも。 
 
 
「…ど。ど、ど、どどどどどどどどど、どうしようーーーーーー!!」 
 
…正真正銘、心の底から、完璧に取り乱しに取り乱しまくっていた。 
 
 
「…み、み、み、みちゃったよー、みちゃったよおぉぉーーーー!!」 
 
ばしゃばしゃと水を掻き分けながら、せっかく静かになったと言うのに、 
意味も無く水の中を行ったり来たりする混乱のあたし。 
…別に意味も無くそんな事をやっていたわけじゃない。 
じっとしてるととにかくもう恥ずかしくて、気まずくて、 
とてもじゃないが、動き回ってでもいないとやってられない状態だったのだ。 
 
 
 
「…おっ、おお、おつつけあたしっ、…そうだおちけつっ、…おちつけぇーい!」 
 
叫んで、どもりながら、ざばぁっと右腕を天に向かって振りかざしてみる。 
 
ざばぁっ 
 
………… 
 
………… 
 
……うん、無意味だ。 
 
 
 
「……あ、あうぅ、あうぅ〜、あうぅ〜、あううううぅぅ〜〜〜〜!!」 
 
半泣きになりながら、どこぞのアニメキャラなんぞが挙げそうな声などを 
連発して両手をバチャバチャと動かしてみもした。 
…いや、これは、我ながら恥ずかしいと思う醜態なのであるが、 
でもこの時は何でもいいから叫んでないとやってられなかったって事で、 
その、なんとかお目こぼしして貰いたいなと切に願う次第であってぇ…… 
 
 
 
…え? そもそも何を見たって? 
…………それは―― 
 
 
 
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 
…あたしが悪かったわけでは、ないと思う。 
勢い勇んで入り口の前に立った所で、イタズラ心半分、様子見半分で、 
音を忍ばせて入り込む方向に転換したのは、言い訳がましいかもしんないけど、 
その場のノリと思いつきとでもいうか、そんな悪気のあった事じゃなくて。 
 
むしろ軍人の癖に侵入者の気配に気がつけなかった雑巾の方が悪いと言うか、 
でもあの状況でそんな事を言うのはなんか酷なようにも思えるし。 
つまりはまあ、……事故だった、としか言い様がなくて。 
 
(……あれ?) 
築何十年かは知らないけど、もうだいぶ立て付けの緩んでると思われる、 
監視所内部の常駐警備兵用に作られた、八畳二間の和室スペース。 
完全に閉じず、ほんの少しだけ隙間が開いてしまう襖の綴じ目から覗いた時、 
さっきまで雑巾が座っていた所には、無人の椅子の背中だけしか見えなくて。 
 
…それでもう無用心にスパーンとですね、 
一息に襖を開けてしまったのがまずかったんだと思いますよ。 
 
 
 
 
 
「っ!?」 
 
そのしゅんかん あいつがおっきなからだを ビクッとさせたのだけは わかりました。 
 
「………え」 
 
あるべきはずのものがなくて、ないはずのものがあった。 
ぞうきんは……雑巾は、部屋の左隅の方にある、 
素人目にも寝心地が悪そうなのが判る、あいつのベットの上に座ってて。 
 
……どうしてそんな寝心地が悪そうに見えるのかは知っている。 
元々来客用の寝具なんてないこの監視所に一枚しかなかった敷布団を、 
あいつがあたしに使って良いと分けてくれたせいで、 
あいつは固い寝台の上に、薄いタオルケットだけを敷いて寝るようになった。 
…なにせこの監視所には、コタツはあってもソファーの一つすら無いもんだから。 
あたしは何度もその事を気にして、あいつの好意を辞退しようとしたのだが、 
「固い所で寝るのは慣れてるから」と、笑って取り合おうとはしなかった―… 
 
…―そのあいつが、そこに腰掛けていた。 
 
 
 
ズボンを履いていない……っていうか、足元まで下ろしていて。 
 
覆うものがない股の所で、何か毛むくじゃらの棒みたいなもの――としか 
遠目には判らなかったけれど――を握っていてだ。 
 
…いや、ていうかあれは棒なんかじゃなくて、あれだ、なんていうか、ほら。 
 
 
 
――とまあ、そんな風にあたしが固まっていた事情も、さもありなん。 
今時は中三でもその手の経験のある女の子は珍しくないらしいけれど、 
それでもあたしの住んでた町がかな〜りの田舎だったという事もあり、 
残念ながらあたしとしては、ジツブツを見るのは初めての経験だったりした。 
 
『ネットのエロ小説とかでは、姉弟相姦モノでこういうシーンがあったりするんだよー』 
ぐらいには知ってたけど、まさか、自分が、そんなシーンにご対面するなんて、 
ありえないっつーか、どっか別の世界の出来事だと思いっきし思ってて。 
 
……だからおそらく、何となく何をしているのかは理解できても、 
それを頭の中で噛み砕いて、反芻する事ができずにいたのだと思う。 
 
…ううん、反芻するだけの時間も与えられなかったというのが、正しいのか。 
 
 
 
「…っ」 
 
バットタイミングどころかワーストタイミング、という奴だったのだろう。 
…だから、本当にすぐの事だった。 
襖を開けて、目を合わせて、2〜3秒と経っていなかったと思う。 
雑巾が苦しそうに呻いて、何かを堪えるように身を縮込まらせようとして… 
 
 
「…っく、ぅ、ぅあっ、ああっ!」 
 
 
…だけど、できなかったらしくて。 
悲壮というか、絶望をはらんだ、聞いてていたたまれないような声とは裏腹に、 
白く質量のある液体が勢い良くしぶいて、宙にアーチを描くのが判った。 
 
「…あ……」 
ヒクン、ヒク、と、小刻みに腰のあたりを震わせながら、 
いつものあいつのそれとは違う、何か哀しさを含んだようなとろんとした目で、 
そんな声を漏らして飛び出るものを見ているあいつを見て。 
 
……あたしの頭は、この時点で完全にホワイトアウト。 
 
『ああ、実際には「どぴゅっ、どぴゅ」って音はしないんだなぁ』とか、 
『そういや犬は量が多いって聞くけど、あんなもんなのかなぁ』とか、 
『意外と飛ぶんだなあ』とか、あるいはその飛んだ白いのが床に落っこちてた 
古い書類の上に落ちるのを見て、『だから片付けておけって言ったのに』とか、 
そういうどうでも良いような事に関しては冷静に考えてたりもしたのだが、 
肝心の一番考えなきゃいけないはずの事に関しては完全に真っ白で、 
ただただカチンコチンに固まったまま、それを凝視するより他なかった。 
 
 
 
――そして、やがてそんな水音も聞こえなくなって。 
 
『過ぎ去ってしまった過去は決して巻き戻らない』という有名な言葉の意味を、 
これほどまでに重く感じた静寂はなかったと思う。 
 
……恐ろしく気まずい空気が、そこを完全に支配していた。 
 
雑巾の方は、焦点の合ってない目で自分の正面――飛び散った 
白いモノの方――を、なんだか疲れたような表情で眺めていて、 
あたしの方も開けた時の、襖に手を掛けたままのその体勢で、 
ただただそこに突っ立ってた――突っ立ってる事しか、できなかった。 
 
お互い、そうやって無言のまま。 
…どれくらいそうしていたのかは、はっきりとは判らない。 
実際には10秒くらいだったのか、はたまた一分近くもそうしていたのか。 
 
 
 
……ふいに雑巾が、頭をもたげて、こっちを見たのだ。 
 
…出会ったばかりの頃だったら、きっと判らなかっただろうけど。 
だけど今は、…半年以上一緒に暮らして来た今は、 
いつもと大差ないように見えるその表情に、 
どれだけのものが込められているのか、判りたくもないのに判ってしまった。 
 
くすんだ緑色の瞳の中には、さっき言った全てのもの…… 
――悲壮とか、絶望とか、とりかえしのつかなさとか、哀しさとか、諦観とか―― 
……そういった上手くいえない類のものが、全部、全部込められてて。 
 
たった一つ違ったのは、何か縋るような。 
悪い事をした子供が、必死に「ごめんなさい」とでも謝る様な、そんな色が。 
そんな目で、何かとんでもなく重たい目で、見つめられて、あたしは。 
 
 
『いやー、若いって良いねぇー、ハッハッハッハッハ……』 
とか、あるいは、 
『あらやだ! おかーさんお邪魔だったみたいね、ドゥホホホホホホホ♪』 
とか、もしくは、 
『ん、よく頑張った! 感動した、涙が出た!』 
とか…… 
 
……せめてなりとも、誤魔化すなりなんなり、すべきだったのだと思う。 
ちょうどあたしが、いつも雑巾の事を、そうやった軽〜く囃したてて、 
あるいはちゃかしているように。 
流して、あげるべきだったのだ。まるで何事も無かったかみたく。 
……それがせめてもの、礼儀という奴だったのだ。 
 
 
――なのにあたしがとったのは、考えられる中で一番最低の対応だった。 
 
 
 
無言で、静かに、襖を閉めた。 
敷居の上を、そろそろと。 
一言も発する事無く、カタンと音を立てて、反対側の襖とぶつかるまで。 
 
開けられたものを、閉じるように。 開かれたものを、閉めるように。 
 
そんな事をしたって、何も元通りになんか戻らないと判っていても、 
それでも薄い紙製の仕切があいつの視線を遮断してくれた時は、正直ホッとした。 
とんだ意気地なしだとか、根性無しだと罵られたって仕方の無い事だと思っても、 
それでも本当に、心のどこかで安堵したのだ。 
 
固まってしまった四肢を動かして、ギクシャクと。 
それでも音を立てないように、 
建物の中からもう一度外に出るのは、とてもとても苦労した。 
 
 
外に出たのが判った時、足の動きが自然に小走りになった。 
 
もう後ろに監視所の姿が見えない辺りまで来ると、それが疾走に変わって。 
 
そうやって走って、走って、走って、走って。 
 
いつの間にか全力疾走になる中、気がついてみれば、叫んでいた。 
 
……そうしてあたしは、ここに来た。 
 
 
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 4 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
暴れて、暴れて、騒いで、騒いで。 
 
ようやく冷静になって、落ち着いたら落ち着いたで、 
今度はさっきまでとは比べ物にならない位、手酷い虚脱感に襲われた。 
 
「…………」 
ぱしゃんと、お湯を掬っては落とすのを、無意味に繰り返してみる。 
繰り返してみる。 
……繰り返してみる。 
 
…ここで、 
『うわーあのエロ犬サイテー、なに人前でオナってんのサイアク氏ねよ』 
とでも罵ってしまえる程にあたしの脳みそがスカスカだったなら、 
どんなに楽だっただろうかとは思うのだけれども。 
 
 
――パシャン 
 
「……当たり、前…だよね……」 
 
軽蔑でも憤懣でもなく、浮かび上がってきた結論は、結局そういうものだった。 
 
 
…そりゃそうだ、普通に当たり前だろう。 
健全な精神、健全な嗜好、健康な若い成人男性の身体を持った男が、 
こんな女の「お」の字もないような辺境の僻地で、 
ブッダやキリストよろしくのストイックな生活なんて、送れるはずも無い。 
事実、女のあたしだってその、15の若い身空なわけだし、 
……こ、こっちに来てから人目を忍んでした事は……あるわけで。 
ましてや雑巾はその……男なわけだから、 
やっぱりあれだ……た、溜まったりとか?…する…んじゃないかと、思う。 
 
――パシャン 
 
それを、二人してあんな狭っ苦しい、 
鍵もついてないような八畳二間の中で寝食を共にしているのである。 
 
遅かれ、早かれ。 
いつかはこうなると、判っていて当然だったはずなのに。 
それなのにあたしが、そんな単純な事をすっかりさっぱり忘れていたのは。 
やっぱり、あたしが、あいつの事を…… 
 
――パシャン 
 
……これっぽっちも『男』だと見てなかったから、…なんだと思う。 
 
どこかで『犬』扱いというか…『犬』だと見たがっていたとでもいうか。 
あんまりあいつがいい奴で、そしておバカでしょうがない奴だから、 
どこかで御伽話やゲームの中から出てきた、そういう世界の存在だと。 
性欲とか、肉欲とか、嫉妬妬み嫉みの類とか、 
そういうものとは縁が無い、無垢な存在だと思いたがってたというか。 
 
……だけど、でも、だけど。 
この世界では、そう、あたし自身、すっかり他人事に思っていた事だったけれど。 
 
 
 
――ヒト召使いは、主にそういった『相手』としてでも重宝される―― 
 
 
 
――バッシャーン!! 
 
…手近にあった石を引っ掴んで、おもむろにお湯の中へと投げつける。 
兼々、何意味不明な事やってるんだと、他人から見れば呆れられるかもしれない。 
でもあたしにとっちゃ、全てそうでもしないとやってられない事なのだ。 
…多分あたしの顔は今、ものすごーく、赤い。 
 
……そうだ、出来るのだ。 
確かにあたしは【人】で、あいつは【イヌ】だ。 
そこには歴然とした『種族の差』という奴があって、 
『ヒト奴隷』とはどれだけヤったって子供は出来ないってのもそりゃ当然の話、 
だってそれってニセモノの関係、神様が定めた摂理に反してる事なんだもん。 
 
……でも、『可能か?』と聞かれれば、答えは『可能』。 
ちょうど大昔の軍隊で、下級兵士の性欲解消の為に『羊』が使われたという 
信じられないような逸話が残っているように。 
『できるか?』と言われれば、『できる』のだ。…いつでも、今すぐにでも。 
 
 
火が出そうなくらい顔が火照って、思わずあたしは湯船の中に半立ちになる。 
……さっき、ついつい条件反射で石を投げ込んだ時。 
ヒト召使いのもう一つの役割を思い出した時。 
バカバカしいとは思うけれども、ついつい考えてしまったのだ。 
 
 
『あたしがそっちのご奉仕もしてあげたら、あいつもやっぱり喜ぶんだろうか?』 
……って。 
 
 
 
(うわー、バカバカバカバカあたし、一体何考えてんのよ、アホか!もう!) 
 
ひとしきり虚しくも自分の頭をポカポカとやって、 
けれどそれが――雑巾があたしをそういう対象として扱うなんて事が、 
現実には有り得ない話であるという事も、また反面では理解していた。 
 
…そりゃあいつは、軍人さんだし、あんな凶暴そうな外見だけど。 
けれど少なくともその中身が、『穴さえあれば何でもいい』とか言い出すような 
ゲス野朗ではないという事は、他でもないこのあたしが保証する。 
 
いつだったか夕食の時に、あたしが『ねぇねぇ、あたしの胸って、 
イヌのあんたから見て実際どう見えるの? でかい? 小さい?』って聞いた時、 
思いっきりご飯噴いた後、転げ回ってむせまくってたから、 
多分ホモでもないと思うんだよね、うん。 
 
何よりあいつ、言ってたしね。『そういうのって何か嫌だ』って。 
 
 
 
…それを、あれだ、…どこぞの『メイドさんモノ』じゃあるまいし、 
あたしが、 
『あ、あの! …それではお慰めさせていただきますね、ご主人様…』 
とか、 
『うふふ、気持ちいいですかご主人様? 早く楽になって構わないんですよ…?』 
とか、 
『あは……♪ ご主人様のせーえき、あったかぁい……♪』 
とかだなんて。 
 
 
 
「いやいやいやいや、無理無理無理無理、っていうかあたしのキャラじゃねぇよ!」 
 
カクカクカクカクと高速で首を左右に振りながら、一人ツッコミによる一人否定。 
無理。無理ですよそんな、脳に蛆沸いたような台詞だなんて。 
さすがに『拷問』、『調教』とか、『薬漬け』といったファクターを通してだったら 
ありえなくも無いとは思うけれど、でも素のままでなんてほぼ確実に無理。 
…というかあたしの方からそういう行為を申し出てる光景自体、 
なんていうか想像できないというか、ほぼ確実に有り得ないと断定できる。 
 
……ん? なんでかって? 
 
 
 
 
 
「……だ、だってあたし、……そんな、ち、ちち、痴女違うしっ」 
 
理由=恥ずかしいから。 
 
 
 
 
 
……あ、そこ、笑うなよ!? 笑うなっつってんのよ!? 
そうだよ、悪いかよ、どうせあたしはそういうのですよ。 
『さばさばしてて気が強そうに見えて実は恋愛には奥手』っていう、 
いかにもにありがちなステレオタイプの女ですよ。 
友達感覚としてではフツーに男友達とワイワイつるめても、 
そういうのが絡んでくると途端にどうしていいか判んなくなっちゃう女ですよ! 
 
…でもそれがなんだっつんだ、だってそうでしょ? 普通皆恥ずかしいでしょ!? 
八百屋で大根売るのと同じ感覚で、体も売りまーすだなんて、アホちゃうか!! 
 
…だから、あ、ああ、『愛の告白』だなんてのもした事無いのに! 
こここ、こっちからさっ、ささ、『誘う』? 『誘う』だなんて、そんな無理!! 
あっ、いやっ! だからって誘いたいと思ってるわけじゃないからね?  
断じて!! 神懸けて!!! 肝に銘じてっ!!!!! 
 
…だ、だからだ! こういうのはやっぱり男の方がリードするべきだと、 
別に男尊女卑を推進するわけじゃないんだけど思うわけであってだ。 
…かといってあいつがあたしを押し倒すだなんて可能性も、 
さっき言ったみたいな感じだからまずありえないと言えるわけでだ。 
 
 
……というか、うん、そんな事する雑巾だなんてもう雑巾じゃないしね。 
んな事するようなら、とっくの昔にあたしの方で見限ってるよ。 
 
……そりゃあ、ヘタレだし。 
据え膳目の前にしても手ぇ出さないような、なんていうか不器用バカだけど。 
でもあたしが好もしいと思って、あいつの為に自分の意志で世話焼いてるのは、 
ひとえにあいつの、そういう面に対しての行為なんだもん。 
 
…あっ!! いやいやいやいや、『好もしい』っつってもね!? 
あくまで『好感が持てる』とか、そういう次元の問題だから! 
そこ、勘違いしなーい!! 
 
 
 
 
 
 
「……っくしゅん」 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 5 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
「……っくしゅん」 
 
 
――ふいに。 
――…唐突に酷い肌寒さを感じて、あたしはようやく正気に返った。 
 
気がつけば、勢い湯面から立ち上がってワタワタしてたけれど、 
冷静に考えてみりゃ、ここは真冬の雪山なのだ。 
 
…すぐに全身を襲う震えを感じて、そのままお湯に肩まで浸かる。 
身体の芯まで冷え切っているのを感じる辺り、 
どうやらあたしは今の今まで、相当別な世界に旅立っていたらしい。 
…誰も見てないとはいえ、隠す所も隠さず、素っ裸でだ。 
 
「……アホらし……」 
 
 
……ホント、そう思う。 
 
 
 
……そう思うけれど、でも、胸のしこりは、相変わらずで。 
 
 
 
……笑い事で済ませたかった。 
笑って、騒いで、暴れて、一人でボケて、突っ込んで。 
その勢いで、いつだってイヤな事は吹っ飛ばして来れた。 
……来れたのに。 
 
 
 
「……なんで…消えないの…?」 
 
…胸の中が、グルグルする。 
心がぎゅうっと締め付けられるみたいで、苦しくて、じっとしてられない。 
 
 
 
空を見上げれば、いつの間にかもうだいぶ薄暗くなって来ている。 
雑巾におはぎ持ってったのが三時ちょっと過ぎだったから、 
その後のドタバタを多めに勘定しても、 
今は大体4時半前ぐらいの時間帯だろうとは見当がついた。 
 
……北国の今の季節では、五時を回ると外はもう完全に真っ暗闇だ。 
今はまだほんの少し薄暗い程度だけれど、 
これが本当にあっという間に暗くなってしまう事を、あたしは経験上知っている。 
 
そうなったらもう、本当に危険。 
いくら星の明かりがすごいとは言っても、所詮は電灯もネオンも無い冬の雪山、 
凍えるような寒さの中、明かりも無しに無事に帰れる保証はない。 
凍死の可能性だって、冗談抜きで考えられる。 
……それなのに。 
 
 
 
「……帰りたくないよ……」 
 
『そんなこと有り得ないんだ』『心配する必要なんかないんだ』と、 
これだけ言い聞かせたのに、胸の痛みが消えない。 
『あたしから』と、『あいつから』。起こりえる全ての可能性が否定されても、 
それでもあたしの頭の中から、あの目が消えない。 
 
――あの目。 
あたしがあの気まずい空間から逃げ出す決定打となった、あいつのあの目。 
一方で自分を卑下して、こんな汚い自分を見ないでとでも訴えかけながら、 
でも反面で何かを必死に求めてて、縋りついてくるような目。 
 
普段の雑巾であれば、決してあんな風な目はしない。 
あのくすんだ雑巾色の毛皮と同じで、あいつの目はなんと言うのだろう、 
はっきりしないというか、ぼんやりしたとでもいうか。 
『緑の瞳』、『翠眼』と言えばカッコよく聞こえるかもしれないが、 
実際にはそんな美形にありがちな『澄んだ鮮やかな緑色』には程遠い、 
いつも焦点があってないような、そんな冴えない眼色をしていて。 
 
……そこに何かしらの力や光が籠もる事は、滅多になく。 
 
 
…無論、それがあいつの見た目に似合わないぽやっとした内面を表す 
数少ない外面的な特徴であるとも言えるし、慣れればそんなに 
悪いものでもない、むしろ暖かさがあって人好きのする目だとも思う。 
 
……だからこそ、いざあんな風な目をされてしまった時、 
その重さも二乗倍に分からされてしまった。 
 
 
――そう、重たかった。 
――重たかったんだよあの目。…それも恐ろしく、とんでもなく。 
 
 
これは演劇をしてた事からも来る、いわゆるあたしの人間観なのだけれど。 
人の視線や雰囲気というものには、やはり相応の『質量』が伴うものなんだ。 
 
例えば、適当でいい加減な演技をしてる奴は、その目も演技もなんだか『軽く』、 
逆に真剣に、完璧役になりきってる奴が、気迫の『重さ』だけで他を圧倒する様に。 
あるいは普段の日常のたわいもない雑談が『軽く』て気楽にできる分、 
真剣な悩みを相談をされた時など、その『重さ』に迂闊な返答が出来なくなる様に。 
 
 
 
そしてそういう尺度から見れば、あいつの目は。 
 
……込められているものは可能な限り読み取ったはずだったが、 
それでも尚、あまりに重く、重すぎて。 
 
とてもじゃないけど、あたしみたいな小娘が捌ききれる様な重たさではなくて。 
受け止めたら、あたしはそのまま潰れてしまいそうで。 
 
あたしの中の何か、壊れちゃいけないものが壊れてしまいそうで。 
 
 
 
――だから。 
――それだから、逃げ出した。 
 
怖くて。 
怖くて。 
なにより、自分を守るのに精一杯で。 
 
 
 
……逃げちゃった。 
……逃げちゃったんだよ、あたしは。 
一番逃げちゃ、いけないはずの場所で。 
 
しかも、さらに惨めなことにはだ。 
あたしが逃げたのは、怖かったのは、その『重さ』だけが理由ではなく。 
 
 
 
「………っ」 
 
…思い出して、無意識に手が股の間に伸びそうになったのを、 
あたしは持てる全精神力を持って押し留め、力ずくで腕を引き戻した。 
 
『ソレ』だけは、やってはいけないと思ったから。 
『ソレ』をやってしまったら、禁忌と言われる世界に踏み込んでしまう気がしたから。 
 
ごまかす為に思い浮かべるべき事も、考えるべき事も出尽くしてきて。 
必死に考えないようにしていたのが、もう限界に来てるのを感じる。 
…顔が熱いのは、何も恥ずかしさとお湯にのぼせたのとだけじゃなかっただろう。 
暴れ回って、身体を動かさずには入られなかったのも、多分同じ理由だ。 
 
…お湯にぬるぬるしたものが混じったりしてない事を、ただただ祈るしかない。 
 
 
 
――色気に当てられた。 
これがあたし自身、情けない話だと思うけど、それでももう一つの逃げ出した理由。 
 
あの時。 
手で顔を覆う余裕もなく、マジマジと見てしまったあの光景は。 
そのインパクトも相成って、結果としてあたしの脳裏に欠片も漏らさず、 
それはもうスローモーション再生が出来るくらいの鮮明度で、 
これでもかというくらいに焼きついてしまっていた。 
…正直、もう忘れたいと思っても忘れられない。…すんごい後悔してるけど。 
 
 
 
あれを、『きたない』とか、『けがらわしい』とは、思わなかった。 
『不潔だ』とも、『淫猥だ』とも、思わなかった。 
空白の中、ただとても――とにかく、『色っぽいな』、とだけ思った記憶がある。 
……俗な言い方をすると、『エロかった』というのだろうか。 
 
――見られた瞬間、怯えたようにビクリと身を震わせた姿も。 
――必死に堪えようとして…だけど出ちゃったのだろう、その時出した嘆声も。 
――ひくひくと、腰の辺りを中心に小刻みに震わせていた、あの痙攣も。 
――態度とは正反対に、勢い良く大量に飛沫いてしまっていた白い液体も。 
――それを見るあいつの虚脱の視線と、漏れた喘息も。 
――そしてあの、重たくて重たくて堪らない、怯え縋るようなあの瞳も。 
 
…思い出す度に、何だか背中が変にゾクゾクして、胸の辺りが熱くなる。 
そんな風になんか、思っちゃいけない、思うはずがないと、そう思ってるのに。 
 
…大きくて屈強な身体にも関わらず、野蛮さや粗野さが無いからなのだろうか。 
なんか見てて、痛々しいぐらいに儚そうで、脆そうで、繊細そうで。 
……信じられないかもしれないが、『綺麗だな』とすら、思ったくらいで。 
 
 
 
「……ずるいよね」 
 
卑怯だ、とすら思う。 
あんな目をして、あんな801なおねいさんが喜びそうな変な色気なんか見せて。 
…あれじゃまるっきり、『人間』そのものじゃんか。 
…あんな目も、あんな色気も、『人間』にしかできないもんじゃないか。 
 
……なんだよそんなの、ふざけてるよ。 
見た目は狼男の癖に、ちゃんと知性があって、性格があって、考え方があって、 
人間と大差ない心を持ってるだなんて、一体どこのご都合ファンタジー生物だよ。 
そんなん流石に……『間違い』だって、起こるでしょ? 
起こっちゃいけない『間違い』が、起こっちゃうかも、知れないでしょ? 
 
今までは『犬』だ、『イヌ』だって、割り切れて見てられたけど、 
でもそれが出来なくなっちゃったら、何が起こっちゃうか、分かんないでしょ? 
 
 
 
 
 
のろのろとお湯から上がって、身体を拭くためのバスタオルに手を伸ばす。 
心は気が進まないけれど、体は寒さを感じるから仕方のない事だ。 
その時タオルの隙間から覗く自分の身体に目をやってみれば、 
そこにあるのはあいつとは違い、体毛の生えてないつるつるとした肌。 
はえて産毛程度の、獣耳も、角も、尻尾も生えていないこの身体こそが、 
あたしが『ヒト』である証であり、同時に『人』である証でもある。 
 
 
「…そりゃ、ヤバいでしょうよ? …だって、【ジュウカン】だよ?」 
 
 
――だから、そういう気持ちを抱いてしまうって事は、そういう事。 
無理矢理とか、強要されてとか、クスリ使われてとかならいざ知らず、 
自分の方から進んでそういう行為に赴いてしまうって事は、つまりはそういう事。 
 
近親相姦、獣姦、死姦……あとは殺人と食人――同族殺しと共食いだっけ? 
まともな『人間』だったら、『人』としての自覚のある身だったなら、 
決してやっちゃいけないタブー中のタブーが、確かこの五個だったと思う。 
近代、同性愛が大目に見られるようになっても、これらの禁忌は変わらない。 
 
 
「…あたしは、『人間』だもん。……『ヒト』じゃないもん」 
 
見知らぬ繊維で出来たシャツに袖を通しながら、誰に言うともなく呟く。 
 
違う世界、違う価値観で、天涯孤独、知ってる顔なんか一人もいないのに、 
何を馬鹿な事に拘泥してるんだと言われるかもしれないけれど。 
でもそうなんだ、あたしは多分『捨てられない』、『割り切れない』方の人間なんだ。 
 
 
 
この世界に『落ちて』来る人間は、大きく分けて三種類。 
 
まず最初のは、そもそも『落ちる』時のショックに心臓が耐えられなかったり、 
あるいはあたしみたく『落ち方』や『落ち所』が悪くてそのままポックリ、なタイプ。 
……ある意味で一番不幸であり、そしてある意味で一番幸福な『ヒト』達だ。 
 
次に来るのが、この異常事態をすんなり『受け入れられ』、『割り切れた』人達。 
頭が柔らかかったり、思考が柔軟だったり、元々万事においてドライだったり、 
…もしくは前の世界にしがらみがなかったとか、嫌いだったとか、そういう『ヒト』。 
現実を直視できて、物事に深く拘らず、機転が利き、適応能力も高い彼らは、 
結果としてヒト召使いとしても高い評価を得て、良い仕事口にもありつける。 
子供のヒト奴隷が高く売れるのは、こういう思考の柔らかさにも理由があるらしい。 
 
…そして最後が、結局『割り切れなかった』、『受け入れられなかった』、そんな人種。 
極端な例だと、向こうじゃ会社社長だったとか、成功人生を順調に歩んでたとか、 
そういう『捨てられない物』が多すぎた人間が、大抵はここに該当してくる。 
 
降って沸いた奴隷身分と、前の世界での全てを失ったその事実に耐え切れなくて、 
目を閉ぎ、耳も塞じ、散々喚きたてて、目の前の現実を受け入れようとせず。 
…酷いのになると、これが夢だということを証明する為に高所から飛び降りたりと、 
誰かが手を下す前から自分で勝手に自滅する、そんな馬鹿までいる始末だ。 
…当然、ヒト奴隷としても無駄に気位ばかり高くて役立たずな事の方が多いから、 
売る側からも買う側からも評価は低くて……まず、ろくな末路は迎えない。 
――よっぽど良い主人に拾ってもらわないでも、しない限りは。 
 
 
 
上着を羽織って、マフラーを巻いた所で、はぁ、と小さく吐息が漏れた。 
お風呂上がりの濡れた顔には、暖かいはずのそれすら、冷たく感じる。 
 
――だからこそあたしは、この世界に来て六ヶ月も経つというのに、 
未だに『ヒト』でなく『人』のままだという、稀有なヒト奴隷だった。 
 
そしておそらくこれからも、あいつがそんなあたしを 
無理矢理『人』の座から『ヒト』の身へと引き摺り下ろすような、 
そんな事をする日はやって来ないのだろう。 
 
……そうなると、あとはあたしが自分で『人』から『ヒト』に堕ちるかだが。 
 
 
 
「……はは。 ……それこそ、無理だよ……」 
 
……その時こそ、『あたし』が『あたし』じゃなくなる日だろう。 
プライドだけで、強がりながらも辛うじて立ってられたあたしが、倒れる日だろう。 
『あたし』という『あたし』が、潰されてしまう。 
あたしの中の何か、壊れちゃいけないものが壊れてしまう。 
 
そんな予感が、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて、怖くて怖くて怖くて怖くて―― 
 
 
 
…ふわり、と鼻先に舞うものが目に映って、思わず上を見上げると。 
ちらちらと、灰色の空から、 
ふわふわとした雪の塊が無数に落ちてくるのが目に入った。 
……辺りはもう、だいぶ薄暗い。 
 
(……今夜は、吹雪かな) 
 
なんとなくそんな予感がしながら、あたしはぎこちなく足を前へと動かし始める。 
 
…たとえどれだけ帰り辛くても、 
もう、ホントに今帰らないと帰れなくなる、そんなヤバい刻限に差し掛かっていた。 
…たとえどれだけ帰りたくなくても、 
湯上りの身体も急速に冷え始め、体調を崩す危険性は高まりつつあった。 
 
…たとえどれだけ帰ってあいつと顔を合わせるのが怖くても。 
それでも、あたしが帰れる所は、あいつのいるあの部屋以外、他にない。 
選択の余地はなく、さもなくば冬山に野垂れ死にという選択肢しかないのだ。 
 
 
(……言い訳、考えないとな……) 
無駄なあがきだとは思いつつも、必死で『今まで通り』に戻れる方法を考えながら、 
あたしは黙って、視界も足場も悪くなった山道を、 
ただ黙々と、あいつが待っているあの八畳二間を目指して下り続けていた。 
 
……弱くて力もない癖に自分を捨てられない、こんな自分が本当にイヤだった。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
結局。 
言わなきゃいけない事、言い訳しなきゃいけない事、たくさんあった、はずなのに。 
 
「……お、おかえりっ!」 
「……た、……ただいま……」 
 
あいつが、白々しくも精一杯の声で、『おかえり』と言うのを聞いてしまったら。 
あたしはただ、『ただいま』と一言返すしかできなくて。 
……それで、後は両方とも、何にも言えなくなってしまった。 
 
 
当然、『それでおしまい今まで通り』、なんて事はありえなくて。 
さながら歯車の間に異物が挟まるように、次の日からのあたし達の関係は、 
何かギクシャクしたものへと、変わり始める事になり。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 6 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
それは、本当に些細な違い。 
例えばコップに入った水が、突然油に変わったような、 
その程度の、……けれど決定的な。 
 
例えば、ふとした拍子に目が合った時、 
どちらからともなくサッと目を逸らす様になったり。 
 
例えば、それまで自然に交わせてたはずのシモバナや突っ込んだ冗談が、 
どういうわけか全く行き交う事がなくなったり。 
 
例えば、夕食の食卓で会話が途切れてしまった時に、 
決まって言い様の無い気まずさがやってくるようになってしまったり。 
 
例えば、お互いほんの少しだけだったが、自然と相手を避けるようになったり。 
 
……そして極めつけは。 
 
 
 
 
 
「ねえ、雑巾」 
「…な、なに?」 
「…なんであんた、上着きてるの?」 
 
 
『蒸れるから』という理由で、あれほど上に何か着るのを嫌がり、 
冬だって家の中では上に何も着たがらなかった雑巾が、唐突に上着を着始めた。 
 
 
「…え、…あ、だってほら、……最近寒いし、さ」 
…今までだって十分寒かったと思うんだけど。 
 
「それにお前だって言ってるじゃん、…だらしないだろ?、やっぱり」 
…それはそうかもしれないけど、 
でもそんなしどろもどろに言われても、正直あんまり説得力ない。 
 
…で、立つとあたしよりも頭1.5個分高い所にあるこいつの顔を見てみれば、 
なんだか困ったような表情で、まごまごとこっちを見下ろしているし。 
 
…普段からズボンしか履いてないもんだから、もっとラフな趣味かと 
思っていたのだけれど、こうやって今こいつが着ているのを見てみれば、 
意外と上着を着崩したりしない、お堅い趣味なのだと判別できる。 
あるいは洗濯やアイロン掛けの過程でなんとなく気がついてはいたけれど、 
どうやらこいつ、あんまり派手な服というのは好みではなく、 
無彩色系や寒色系などの、地味なのを好んで着る性向があるらしかった。 
――分かってはいたけれど、外見に似合わず意外と消極君らしい。 
 
……ただ、それをいざこうやって見てみると……何というのだろうか? 
普段から上着を着たがらない、上半身裸のこいつに慣れてしまったからか、 
似合う似合わない以前に、それは酷く窮屈そうにしか見えなくて。 
 
「…別にいいけど、似合ってないよ?」 
「う…」 
 
言ってやったら、雑巾はなんかちょっと答えに詰まってたけど。 
でも今更『やっぱりあんたは上には何にも着てない方があんたらしいよ』なんて、 
……言えるわけがないじゃないか。 
 
「……なんだよ、大体、お前が――」 
「…お前が?」 
 
 
………… 
 
 
「……な、なんでも…ない……」 
「…………」 
 
言いかけて、けれど淀んでしまったあいつに。 
いつものように、呆れ半分見下し半分の視線を投げつけといてやったけど。 
でも、虫の予感めいた第六感に従い、『それ』を聞く羽目になんなくて良かったと 
安堵していたのは、……実は、あたしの方もだったりして。 
 
 
 
――そして、更に困った事なのは。 
――そういうのが何も、あいつの側に限った話ではないという事でだ。 
 
 
 
 
 
…たとえ気まずい雰囲気の中でも、食に関する追求意識が絶えないのは、 
何も人間に限った話ではないらしい。 
 
「……釣れないわね」 
「……ん」 
 
晩御飯のおかず用にと、近くの川に釣りに行った時の話。 
釣具と言っても、そこらの木の枝に糸と針金括りつけただけの様な粗末なもので、 
晩飯代稼ぎ以外の何物でもない、そんなレベルのものだったのだが、 
それでもこんな辺鄙な山奥でも出来る数少ない娯楽の一つとして、 
あたしは結構、なんだかんだ言って真面目にのめり込んでやっていた。 
 
「……!! うっしゃあ釣れたっ!!」 
「あぅ……」 
 
あたしに釣りの仕方を教えてくれたのは、もちろん例によって雑巾だったのだが、 
でも、どういうわけか、釣果はいつの間にかあたしの常勝になっていて。 
何が悪いというわけでもないはずなのに、 
なんでかあいつの竿には魚がちっとも寄って来ないのを見るにつけ、 
……可哀想だが、運が悪いという以外に他無く。 
 
「…ぞっうき〜ん♪ おっさかっな分っけて、あっげよっかぁ〜?」 
「……っっっっ!! …う、うっさい、うっさいんだよお前っ!」 
 
だけど、いずれにせよそれは、関係修復を図るにはもってこいの機会だった。 
それでも四時間ほどで三匹ほど入ったバケツを見せながら、 
にやにやとあいつをからかうあたしに対し、 
ムッとした表情でぷいっと明後日の方を向いてしまう雑巾。 
…何気ない、だけど久しぶりの変な居心地の悪さがない空気。 
 
 
 
――でも、その時。 
 
「ありゃ?」 
 
釣った魚を手繰り寄せようと糸に手を伸ばした所で、 
ボコッと言う音と共に、あたしの目の前の風景がぐらりと傾いだ。 
別にバランスを崩したわけでもないはずなのに、 
あたしの身体はどんどん重力とは違うベクトルの方へと傾いて行って―― 
 
 
「あっぶな!」 
 
 
――がくん、と。 
ひっさらわれた、という表現が正しいのだと思う。 
後ろに引っ張られたと思ったら、眩暈がするくらい視界が激しく揺れ動いて。 
たまらず手に持っていた釣り竿を手放すと、 
それはキラキラと冬の晴天特有の陽光に輝きながら…… 
 
……さっきまであたしが立っていた『足場一帯ごと』、 
3mほど下にある渓流へ、音も立てずにはたりと落ち、…するすると流されていった。 
 
…いや、実際には『ぱちゃん』、位の音はしたのかもしれないが、 
巨大な雪の塊が水面に落ちる盛大な音に隠れて、全然聞こえなかったのである。 
 
 
小規模な、雪庇崩落(せっぴほうらく)―― 
 
積もっていく内、次第に谷(川)側にせり出すように張り出していった積雪崖が、 
何かの拍子に塊ごと谷側に崩れ落ちる、そういう現象だと後で聞かされた。 
もっとも高々3mほどの滑落だったからそれほど危険は無かったとは思うけど、 
だけど下は冷たい冬の渓流、溺れるのが無理なほど浅いとは言っても、 
険しい岩肌を急な勢いで流れるそこは、多分落ちたら凄い冷たくて痛い代物。 
…捻挫か打撲、あるいは風邪かには、確実になっては居たと思う。 
 
「つ、釣り竿が〜……」 
…だっつーのに、それでもあたしが未練がましく、 
魚が針についたまま(※特にここ)で流されていく釣り竿を眺めていたら。 
「馬鹿っ! それどころじゃないだろ!」 
真上から、なんか珍しくも厳しい調子の雑巾の声に怒られて。 
 
 
――まうえから? 
 
 
「……あんな釣り竿なんて、どうせまたすぐに作れるよ」 
慰めるような雑巾の言葉を上辺に聞いて、あたしはぎしり、と硬直した。 
おへその所には、こいつの手袋要らずな手の感触がある。 
 
「……バケツも無事だったんだし、晩御飯にはそれで十分じゃん」 
雑巾は、事も無ければ苦も無さげに、飄々とそう言ってるけど。 
かの有名な、お姫様だっことかいう奴にはワンランク劣るけれども。 
――これは。 
――つまり。 
――いわゆる。 
 
「大体おまえ! オレ、あんま川岸には寄るなって散々言ってただろ!?」 
――山賊抱き? 人攫い抱き? 横抱え? 
 
 
 
 
「危ないんだからな、この季せ――「「っきゃあああああぁぁーーーっっ!!」」 
 
叫んで、暴れる。 
当然雑巾はぎょっとしたような顔をしてるけど、この際なりふり構ってられない。 
火照って熱い顔を見られたらと、思うだけでなこの状況なのだから。 
 
「お、降ろして、降ろしてよバカッ! スケベ! 変態! セクハラ犬ー!!」 
 
何がなんだかよく判らないといった様子で佇んでいた雑巾も、 
こう言われてやっと、自分がやってる事のとんでもなさに気がついたらしい。 
 
「あっ、う、わわわわっ」 
 
見る見るしどろもどろになると、ひとしきり右往左往し。 
かと思ったら、おもむろに両手であたしの両脇腹をむんずと掴んで。 
「わったっ、たっ、た!」 
まるで仏像でも安置するみたく、あたしをヒョンと持ち上げ目の前にストンと置いた。 
 
 
……あたしはお人形さんかよ、オイコラ。 
 
 
「す、すまん! ごめん! ごめんなさいっ!!」 
挺身低頭、謝る雑巾。 
…明らかに悪いのは不注意かつ事故ったあたしの方で、 
むしろそれを助けたあいつの方が謝られて然るべきなのだが。 
 
「バカっ! もうっ! 信じらんない、あーもう、なんなのよあんた、うあー!」 
「ご、ごめ……」 
完全に頭に血が昇っているあたしに 
そんな所に気を回す余裕なんてあるはずもなく。 
 
 
 
 
 
 
「…………ごめん」 
 
――搾り出したような雑巾の声を聞いた時には、もう我に返ったって遅かった。 
 
 
「……ほんとに、ごめん」 
目を伏せて謝る雑巾に、あたしは口をぱっくりと開けて…… 
 
――いや、悪いのは助けてもらったのに喚き散らしてるあたしでしょ? 
――なんであんた、そんなにお人好しなの? いくらなんでも優し過ぎでしょ。 
――怒んなさいよ、怒鳴んなさいよ、あんたにはその資格があるんだから。 
 
……だけど、さっきまでの言動の手前、何にも言えず。 
アホみたいに口をパクパクしながら、そんなあいつをただ見てるしかなくて。 
 
 
じわじわと過ぎていく無言の時間が、とてもとても苦しくて。 
 
 
「……戻ろう」 
あいつがそう言ってバケツを取るために背を向けた時、 
あたしはまたしても弁明の機会を逃がしたのだと、今更の様に気がついた。 
 
 
 
 
 
 
…お互い、ここまで露骨な反応をすれば、返って意識してるのが判ってしまい、 
逆にますます気まずくなる事ぐらい判っているはずなのだが。 
それでもそんな露骨な反応をしてしまう、そこに若輩としての悲しさがあった。 
これが大人の男女だったら上手く誤魔化す手に事欠かないのだろうが、 
ご存知の通りの青二才二匹、一度意識してしまったらもう止め方が判らない。 
 
 
……昔は寝付き良好おやすみ三秒、 
別に何の警戒心もなく、枕につくや否や熟睡できてたあたしだったのに。 
 
……今はふすま一枚隔てた向こう側の様子がどうしても気になってしまい、 
ほんのちょっとした物音にもビクつく毎日、…睡眠不足な日々が続いている。 
 
……雑巾の方も、前まではよくお風呂上りの毛繕い時に、 
あたしが背中のブラシ入れを買って出てやると、喜んで引き受けていたのだが。 
(あいつの抜け毛が散らばって困るのは、何を隠そう掃除するあたしなのだ) 
 
……こないだあんまり一人でやりにくそうにしてるのを見かけて、 
あたしがつい、「背中、やったげようか?」と声を掛けたら、 
「…いっ、いい! いらない!! いらない!!」と露骨に拒絶する始末。 
 
 
 
 『うあ〜〜〜〜〜♪ あ〜〜〜〜〜♪』 
 『うっさいわね、たかだか背中にブラシ掛けられただけで何至福の絶頂とでも 
 言わんばかりの緩みきった表情してんのよ、この犬っ! 犬がぁっ!』(ゲシゲシ) 
 『だってオレイヌだも〜〜〜〜〜〜ん♪』 
 
…と、愉快なドツキ漫才をしてられた頃がほんの三ヶ月前まであったのに。 
…もうあの頃には、戻れないんだろうか、と。 
 
そう思う事自体、徐々にではあるが状況が明らかに悪化してる証拠なのだと、 
あたしはどうにも、気がつけなくて。 
 
 
――そうしている内に、それが。 
――もっと決定的な出来事が、とうとうと言うべきなのか、やって来てしまった。 
 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 7 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
……そうだ、その日も確か。 
夕食の最中会話が途切れてしまい、なんとも居心地の悪い空気になってしまって。 
 
「……何か、こういうのって嫌よねー」 
あたしは何か話題を繋ごうと、テレビでやってたニュースに話題を振ったのだ。 
 
 
『――本日昼頃、王都ソティス西行政区で建設中の新議会議事堂において、 
魔術原理主義者の過激派によるものと思われる爆発テロが発生しました。 
付近の住民に被害はありませんでしたが、この爆発で現場で作業中だった 
土木作業員のイヌ合わせて5名が死亡、14名が重軽傷を負った模様です。 
右軍広報部の発表では、この事件に関し、 
魔術原理主義過激派集団【レタル・セタ】によるものと思われる犯行声明が――』 
 
 
…テレビの中ではそう言って、女のあたしから見てもかなり美人に見える、 
凛とした様子の犬耳女性アナウンサーが、淡々と手元の原稿を読み上げていた。 
 
…正直な感想を言えば、映像や画面効果はお世辞にも良いとは言えない、 
『向こうの世界の』と比べれば遥かにお粗末なニュース番組だったけれど。 
だけど『てれび番組』の放送が行われているのは、 
『ネコ』や『イヌ』の国を始めとしたごく一部の先進国家だけだと言うから、 
それでもこれは、まがりなりにもこの世界の最先端技術の賜物なのだろう。 
 
「……上の世界にも似たような連中が居たけどさ。 
多分これやった連中って、こういう何の罪もない土木作業員のおっちゃん達が 
死んでるの見ても、きっと『変革の為の尊い犠牲』だとかってぬかすのよね」 
 
『人間の盾』とか、『自爆テロ』とか、『はなから民間人だけを狙ったテロ』とか。 
…そういうのが公然と多用されるようなレベルには進んでないようだから、 
それでもまだこの世界はずっとマシで節度ある方なんだとは判るのだけれど。 
…しかしこういうのを見てると、おおかれすくなかれ、 
どこの世界の知的生命体の間にも似たような問題はあるのだなあ、と思ってしまう。 
 
「なーにが【レタル・セタ】――【気高き白犬】だってのよ。 
同族殺し……同じイヌ殺しといて、一体どこらへんが気高く純白なんだかねー。 
思想云々は留保できても、この傲慢なネーミングだけは胸糞悪いっつーのよ、 
雑巾、あんたはそこら辺どう思――」 
 
そこら辺、同じイヌの国の国民としてどう思ってるのか。 
純粋な興味から聞こうとしたあたしは、 
 
 
 
「――雑巾?」 
 
はたと、異変に気がついた。 
 
 
 
『――問題の新議事堂建設は、これまでにも計四度の反王国勢力による 
テロ行為の対象となっています。議会側はこれに対し、徹底的な交戦体制を 
維持する姿勢を見せていますが、そのような議会の強硬な姿勢に対して 
軍や国王府側からは反発の声も――』 
 
 
 
雑巾は、食べる手も止めたまま、テレビを食い入るように…… 
……ううん、虚ろな目で、まるっきり放心したように眺めていた。 
 
こいつが外見上表情のバリエーションに乏しく、 
その上ちょっと目を離すとぼんやりしてるのはいつもの事だったけど。 
…それでも、今回に限ってはただごとじゃないのが、即座に判る。 
 
「……ど、どうしたの? ちょっと大丈夫?」 
目の前で手をブンブンして見るけど、案の定と言うか、反応がない。 
こりゃ本当にヤバイかなとか思ってたら、 
 
 
 
「……でも、それが、『社会』が『社会』として成立していく為に、 
必要最小限度の『犠牲』だっていうのなら……」 
 
 
――呆けたように、ふいに雑巾が呟いた。 
 
 
「……それなら『犠牲』は、許されるんじゃ、ないのか…?」 
 
 
 
 
 
 
 
「――それは違うでしょ」 
 
……様子がおかしいとは思ったけど。 
それでもあたしは、そんなあいつの言葉に異を唱える。 
『話し相手』もあたしの仕事な以上、この手の討論は別に今日に始まった事じゃない。 
むしろ双方『対等』を心がけるこの関係では、それは結構頻繁に起きる事だった。 
 
「確かにあんたの言う事は正しいし、社会には犠牲が付き物なのかもしれないけど」 
 
平和大国と呼ばれた国でぬくぬくと育ってきたようなガキが何を言うか、 
と言われてしまうかも、しれないけれど。 
……だけどあたしはご存知の通りの性根で、『イエスマン』という言葉が大嫌い。 
専門家の偉い人や、あるいは実際に苦労してきた人が『そう言ってるから』って、 
『じゃあそれが正しいんだ』、『間違いはないんだ』って簡単に迎合してしまうのは、 
それはそれで何か間違ってると、そう思うのが常々のあたしの自論だった。 
 
 
「…でもそれを口に出して、言い訳にして、公然と振り翳したりしちゃったら、ダメよ」 
『仕方ないから』は、魔法の言葉。 
 
「事後的・消極的にならまだしも、事前的・積極的にそれを使うようじゃ、ダメ」 
簡単に諦めと納得を提供してくれる、魔法の言葉。 
 
「それが人間でも、国でもね。すくなくとも『仕方ないから』を何かにつけて 
積極的に持ち出すようなそんな連中が、ろくな事になった試しがないんだから」 
……だけどそれは、同時に強すぎる魔法だとも思う。 
 
 
歴史的に見ても、『仕方ないから』を積極的に多用し、また強要するように 
なってしまった国は、大抵その後、おかしな末路を辿ると相場が決まってるのだ。 
人間だってそうだ、安易に『仕方ないから』を言い訳に使うような人間は、 
大抵なにをやっても中途半端だし、何かを大成するという事がない。 
 
……思うに、まるっきり煙草や麻薬とおんなじなのだ。 
『仕方ないから仕方ないんだ』を言い訳にするのは、確かに便利で楽だけど。 
でも、仕方なくても頑張らなきゃ、何とかしなきゃダメなような状況だってあるのを、 
この言葉は簡単に切って捨てて、その気力を奪い、割り切らせてしまう。 
 
…だから、『仕方ないから』を濫用する人間は、少しずつ、少しずつ、ダメになる。 
最初は些細なきっかけからだったしても、だけど麻薬が強い常中性を持つように、 
それがもたらしてくれる心の安静と諦めの心地良さに溺れた人間は、 
最後には簡単に、『仕方ないから』にしがみ付いて、すがりつくような羽目になる。 
 
 
 
 
 
「……と、そうあたしは思うわけよ、オッケィ?」 
あたしはひとしきりそんな風に熱弁を振るうと、箸をくるくる回してみせる。が…… 
 
(って、…………うわ) 
 
 
……いたのは、ガラス玉みたいな目で、のっぺりとこっちを見つめる雑巾だった。 
 
「それは違う」と言うわけでもなく、「オレもそう思う」と言うわけでもなく。 
 
『焦点の定まらないぼんやりとした』どころか、その『ぼんやりとした』色すらない、 
空っぽな、あたしの顔を見てるんだか、見てないんだか判らない目で。 
 
 
「……ヒトが、ヒトを殺す、のは、禁忌なのか?」 
「は?」 
 
 
……また唐突に、意味不明な事を聞いてきた。 
人の話聞いてたのかよ?と、そう思わない部分もないではなかったのだが。 
 
「……だから」 
錆びたブリキが擦れるようなあいつの掠れた声に、それを口に出すのも遮られ。 
 
「おまえらの、世界でも。…ヒトがヒトを……『同族が同族を殺す』のは、 
何にも増して、忌まれなければいけないはずの、禁忌、なのか?」 
 
 
――知性持つ身であるはずの、人が住むあの世界には、禁忌がある。 
――近親相姦と、人肉食と、死姦と、……獣姦と。そして…… 
 
 
 
「……そうよ」 
反射と言ってもいいくらいの反応で、言葉は喉から滑り出た。 
 
「ていうか、普通どこでも絶対禁忌でしょ? ……同族食いと、同族殺しは」 
……微妙だからこそ扱いに困る、他の3つ4つの禁忌と違って、だ。 
 
 
 
 
 
――がたん、と音を立てて、雑巾が椅子から立ち上がった。 
 
「っちょっ!?」 
まだご飯なんて半分も喰いかけのままなのに、 
そのままスタスタとトイレの前を通り過ぎ、洗面所の方へと歩いていく。 
「ちょっと! どうしたのよ? ご飯まだ残って―― 
 
 
「……要らない、今日はもう」 
 
 
ボソリ、と投げつけられた言葉に、あたしはちょっと愕然とする。 
……今日のメインは、ハンバーグステーキ。 
あいつの大々好物だ、野菜と違い、残すという事自体ありえないはずなのである。 
「い、一体、どこ行―― 
 
 
「……ちょっと、一人で、風呂に…」 
 
 
左手に掴んだ洗面用具一式を掲げて、あいつがぶっきらぼうに言う。 
およそ、柔らかさというものが抜け落ちた声が、妙にあいつらしくない…… 
 
……っていうか、いや、そんな事はどうでもいいのだ。 
バッと外を見れば、完全な真っ暗闇。 
時間は既に七時を回って、しかも今日は曇りのせいか、星明りすらない。 
それを特に手提げランプも持たずに外に出るなど―― 
「バカ、時計見なさいよ! こんな時間に明かりもないのに風呂に……」 
 
 
――と。 
そこまで言って、自分がいかに愚問を発していたか、思い至った。 
 
 
「……ひどいな」 
すで半身を入り口のドアから外に出したままの格好で、雑巾が呟く。 
…ほんの少しだけ、そこに苦笑のようなものが混じった事に、 
なんでだか分からないけれど、心のどこかで安心してる自分を感じた。 
 
 
……くるくると、雑巾の手が変則的な動きを見せる。 
同時に何かを口中で含む様に呟いていたけど、それはあたしには聞き取れない。 
そしておもむろに、ひゅん、と音を立てて空を切った右手の指先には。 
 
……何か明るい、サッカーボール大の大きさの光の球が浮かんでいた。 
 
 
――魔法。 
――あたし達の世界にはなかった、この世界独特の不可思議な技術体系。 
 
 
「……これくらい初歩の照明魔法だったら、さすがにオレにも使えるよ」 
 
言って、そのままするりと、振り向く事なくドアの隙間から滑り出て行き。 
……そのままパタンと、入り口のドアが閉まる音だけが響いて。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   『あたしが好みなのは、年下で獣耳のかーいらしい美少年なのだ』 
 
 
…それからしばらくして、あいつは何事もなく温泉から部屋へと帰って来、 
そのまま何事も無く、自分の部屋へと引き篭もってしまった。 
……まるでそれがいつもの当たり前であるかの様に、本当に普通の動作でだ。 
 
…もっとも、これは何も今日に限っただけの話ではなくて、 
ちょっと前までの色々雑談してられた頃とは違い、 
お互い顔を合わせ辛い最近では、夜は大抵いつもこんな感じ。 
事実、これが昨日までだったなら、 
あたしはそんな雑巾の行動にどこかホッとする自分を感じながら、 
こちらからも深く干渉するような事は無く、 
洗い物と明日の下ごしらえを済ませたらとっとと寝てしまうのが常だったのだが。 
 
……だけど今日は。 
 
 
さっきの雑巾のどうにもおかしな様子が気になったあたしは、 
久しぶりに――それでも中の様子に十分気をつけながらおそるおそる―― 
雑巾が居場所にしてる、奥の八畳間への襖を開けていた。 
 
 
   『あたしが好みなのは、年下で獣耳のかーいらしい美少年なのだ』 
 
そして今、あたしは必死で自分を落ち着かせる為の呪文を唱えている。 
…いや、呪文って程でもないけど、とにかく平常心を保つ為の魔法の言葉。 
 
 
   『あたしが好みなのは、年下で獣耳のかーいらしい美少年美少年…』 
 
そうだ、決して今目の前で無防備に寝こけているような、 
図体ばっかでかくてしかも毛深い、生活のだらしなくて露出癖まである、 
39歳の気弱な犬っころ、もといウェアウルフモドキなんかではない! 
断じてない!!……はず、なんだけど。 
 
 
 
 
 
――大きめの椅子にもたれかかるようにして、雑巾はスースー眠っていた。 
 
風呂上りな事もあってさすがに今は上着を着ていなかったが、 
おかげで随分久しぶりに、他人行儀でないこいつの姿を見たようにも思う。 
今にもひっくり返りそうな位うしろに重心が掛かっているのに、 
それでもバランスが取れてるのは、椅子で寝るのに慣れてるからなのだろうか? 
お腹の上には『社会構成比較論』という、開いて伏せらたハードカバーがあり、 
他にも机の上に目を向ければ『魔洸以後〜犬猫貿易摩擦〜』とか、 
『治安維持平定の12命題』とか、なにやら難しそうな本が積み上げられている。 
 
…そんな中、電灯に照らされ、広い胸を上下させて寝息を立てている雑巾の姿は、 
なんだかとっても無防備で、同時に不思議な魅力というか、色気と言おうか… 
 
 
   『美少年美少年美少年びしょうねんびしょ……』 
 
 
……ふいに、あの時と同じなのだと、あたしは気がついた。 
 
閉じられた目、呼吸に合わせてふわふわと柔らかく揺れる上半身の体毛、 
レム睡眠だからなのだろうか、三角の耳と、椅子から横にはみ出た尻尾は、 
ピクピクと痙攣したり、意味も無くゆらゆらと動いたりしていて。 
 
……ああ、これか。 
この可愛らしさと純粋さ――もとい、妙な脆さと無防備さが、か。 
 
 
 
…『外身』は、毛皮の上からでも分かる位、異常に発達した胸板と腹筋。 
高い寿命限界と、そんな体格の良さに見合った身長は、強靭な生命力の表れで。 
【ヒト】より何倍も発達した身体能力に、さらには魔法という技術まで持ち合わせた、 
明らかに【ヒト科ヒト属ヒト】より強い生命体、脅威と警戒の対象のはずなのに。 
 
…一転して『中身』は、たまにまるでプリンよりも脆そうに見える事まである、 
そんなアンバランスさが醸し出す……つまりは、そういう『色気』なのか。 
軽々とあたしを横抱きにし、その気になれば殴り倒す事だってできるはずなのに、 
だけどできないこいつの中身の優しさ脆さ痛々しさ、…それが、『色気』の源泉か。 
 
 
…飲まれていくのが判っていても、目を逸らす事ができない。 
 
うなじの所をふかふかしたら、なんだかとても気持ち良さそうだなぁ、と。 
無性に触ってみたい気持ちが膨らんで、あたしはふらふらと近づいていく。 
 
…マンガとかでよくある、木陰で無防備に寝こけている可愛らしい女の子を 
見つけてしまった男の子の心理が、今更になってよく理解できた。 
 
 
――多分。 
『無防備なもの』には、人の性的興奮を刺激する何かがあるのだ。 
そしてそれは、おそらく本来決して無防備になりえないはずのものや、 
脆さなど見せるはずの無いものが脆さを露出させた時にほど、 
その落差を触媒として、対象に強く強く作用する。 
…お堅い仕事美人がうっかり見せた隙が、多くの男共をとりこにするように。 
…誰にも心を開かない頑ななものが、自分に対してだけ無防備さを見せる時、 
ほとんどの人間が、その事に対して強い満足感と優越感を抱くように。 
 
――だからこそ、こいつのこの無防備さは、あたしにとっては毒でしかないわけで。 
 
 
 
 
「ん…」 
 
あったかくてもさもさした感覚が右手に触れた所で、あいつが微かに、身じろぎした。 
一瞬心臓が止まるかと思ったが、今回は前回と違って、 
じりじりとにじり寄る間に言い訳を考えるだけの時間があったのが幸いだった。 
……そんな打算屋の自分にちょこっと自己嫌悪を感じたのは、まぁ事実だが。 
 
 
ゆるく閉じられていた瞼が、ゆっくり、うっすら、持ち上がる。 
天井を見てるんだか見てないんだか、焦点の定まってない視線を形作ると、 
そのまましぱしぱと、二度三度軽くまばたきするのが見えた。 
…外見に完全にそぐわない、とろんとした、邪気の欠片も無さそうな目。 
陽溜りの中で眠りこけている姿が似合ってそうな、ほわっとした空気。 
…思ったけど、寝起きにぱたぱた耳を動かすのは、なんでなのだろうか。 
 
……っていうか、うわ、ちくしょう。 
なんなんだよ、なんなんだよお前は、くそ。 
あたし、『そういう趣味』は一切ないのに、なかったはずなのに。 
 
 
 
「……何、そんな器用な格好で寝てるのよ」 
 
下手な演技は打たず、平静を装い、いかにも呆れたという様な口調で紡ぐ。 
いつものように、機先を制して、雑巾の側の非をなじるように。 
…猫を被るのは得意だったはずなのに、こいつの前ではそれが酷く難しい。 
…変じゃないか、不自然じゃないかといった事案が、気になって気になって仕方ない。 
 
……聞こえてはいるはずなのに、あいつはまだ夢見心地なのか、 
ぼーっとした表情で虚空を眺めていて。 
それが無性にムカついたあたしは、思わず雑巾の肩を乱暴に掴むと、 
「そんなとこで寝てたら、背骨痛くする―― 
 
 
 
 
 
 
「……触るな」 
 
 
 
 
 
 
――ああ。 
サックリ、なんて、笑い事で済むような生易しいレベルじゃ、なかったね。 
明らかにドスッ、とか、ドボッ、とか、そんな音がしそうな、そんなレベル。 
 
そんな音を立て、冷たく重い氷の刃が、腹の中に突き立てられると言いますか? 
……つまりはそのたった一言で、あたしはそれくらいのダメージを? 
 
 
 
とろんとしていた目が、その一瞬で急速に鋭く絞り込まれていた。 
瞳全体に拡散していた緑の光が、まるでナイフの刃みたいに一点に収束し。 
……そして思いっきり牙を剥き出しにされ、あたしはその一言を叩きつけられた。 
 
あくまで一瞬。 
それは本当に、ほんの刹那の出来事だった、…だけれども。 
 
気迫、闘気、殺気とでも呼んだらいいのか。 
ともかくその、放たれた気配のプレッシャーとも言うべきものだけで、 
『ヒト』にしか過ぎないあたしは、ビクリと簡単に恐怖に支配され、身を竦め。 
……そしてそれ以上に、色んな意味で、ショックを受けて。 
 
 
「……っぅ? ……え、…あ……」 
 
…勿論というか、なんというか。二、三歩たたらを踏んだあたしを見て、 
雑巾のそんな気迫はすぐに雲散霧消し、 
…すぐにいつもの途方に暮れたような、茫洋とした雰囲気が戻ってきた。 
 
 
「……いや、違う、…そうじゃなくて、えっと……」 
 
慌てたように、困惑するように、必死で取り繕おうとしているのが判ったけれど。 
だけどもう、何かが決定的に遅過ぎたし、なにより。 
 
 
「……触ら、ないで」 
命令が、懇願に変わり。 
 
「…いや、その……触らない方が、いいと、思う…んだよ……」 
懇願が、提案に変わっただけだけれど。 
 
だけど、言いたい事の骨子は、変わらないらしかった。 
 
 
 
――触るな―― 
 
 
 
「……そう、判った」 
三度深呼吸をして、カラカラに乾いた喉から、何とかそれだけ絞り出す。 
 
「…ごめん、勝手な事して…」 
「…あ……」 
酔いが醒めたと言うか、目が覚めたと言うか、 
とにかく頭の中は冷涼で、さっきまでの妄想の欠片も無い程、クリアーだった。 
……あんまりクリアーすぎて、複雑な思考が、何も出来ないくらいに。 
 
「じゃ、あたし、もう寝るから」 
振り向いて、襖に手を当てると、あいつの顔が見えなくなる。 
…今はまともに顔を合わせたくない気分だったから、 
やっと視線を外す機会が得られた事を、内心のあたしは喜んでいた程。 
 
 
「…でも、ちゃんとベットの上で寝なさいよ? …ほんとに背骨悪くするんだからね」 
 
これだけは言っておきたかった事を言うと、 
向こうの返事も聞かず、そのまま襖をパタンと閉める。 
 
 
 
 
 
――拒絶が欲しかったのは、事実だ。 
この曖昧模糊な関係に、はっきりとしたケジメが欲しいとは常々願っていたから。 
だから、喜ぶべきはずなのだ。 
あいつの『触るな』という言葉は、それを証明する確たる証拠たりえた以上。 
 
あいつがあたしに優しく接してくれようとするのは、 
あいつから見てあたしが弱く、不幸で、可哀想な下位の存在だからであって。 
だけどやっぱりその根底には、どうにもしようがない根源的な拒絶があって。 
 
……どこかで変な想像をしてしまうその余地を、 
すっぱりと断ち切ってくれたのだから、喜ばなければ、ならないはずで。 
 
 
「……なんか、疲れちゃった……」 
 
ぺたんと、着替える気力もなく、やっとこ敷いた布団の上に倒れこむ。 
 
――なのになんなんだろ、この空虚な感覚は。 
……分かんないよ、なんでこんな重くって粉っぽいパサパサした気持ちになるのかが。 
飛べないし、跳ねれないし……そもそも暴れて騒ぐ元気すら、沸いてこない。 
身体が鉛に侵されたみたく、どんどんどっかに沈んでいくような心地。 
四肢の力が抜けてしまって、何もする気力が、起こらない。 
 
 
……ふいに、ひょっとしたらあの時のあいつも。 
……あの『決定的瞬間』を見られちゃった時のあいつも、 
今のあたしと同じ様な気分だったのかなぁと、そんな思考が浮かんで来るけど。 
 
――でも。 
『同じ』だと思ってたのが錯覚で、やっぱり本当は『違う』んだと判った今では、 
どれだけあたし自身の体験を拡張したって、 
イヌであるあいつの心の中の推測なんか出来やしないんだと、 
妙に乾いた思考で、あたしはそう割り切ってしまった。 
 
…そうだ、分かるもんか。イヌや、ネコや、ウサギやトリの気持ちなんて。 
――だってあたしは、『人』なんだもの。 
――この世界の生き物とは、違うんだもの。 
 
 
 
 
もう、居心地の悪い、なんてレベルで済む様な段階じゃなく。 
顔を合わせるのすら辛い、朝が来るのが辛い、そのレベルにまで、 
それは到達しつつあった。 
…どうして辛いのかは、まだここでは置いておくとしても、だ。 
 
とにかくこの頃は、毎日がただただ、重苦しい空気と、暗澹たる気持ちで一杯で。 
…だから、そんな中の事だから、別段不思議な事でもなく、 
むしろ全く予測できなかった事の方が、きっとおかしな事だったんであろうと思う。 
 
 
 
……あいつが、主従関係の解消――『お別れ』の話を、切り出すという事を。 
考えられなかった、あたしの方が。 
 
 
 
 
 
 
< 続→【転の事-1】 > 
 
 
                                    【 狗国見聞録 承の事 】 
                                 〜 割り切れなかったヒトの目より 〜 

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