「王都のね、軍の落下物研究所の方で引き取ってもらえる事になったから」 
「……は?」 
 
 いきなり言われた内容を理解できず、間抜けな声をあげるあたしに、 
 ほんの少しだけ寂しそうに顔を歪め、雑巾は静かに言葉を続ける。 
 
「……お別れ、って事」 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 1 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
 あの日から、更に三週間ほど過ぎた日の事。 
 
 気まずさの局地、 
 今や針のむしろとなり果てたここでの生活の中で、 
 精神的に困憊の極みにあったあたしを、なぜかその日の夜、雑巾が改まって通信室 
 ――この建物の二階部分、妙な機械やら設備がごまんとある司令室めいた部屋―― 
 へと呼び出して。 
 ……告げられたのが、この言葉だった。 
 
「【落ち物】と【上の世界】の研究で一番進んでるのはネコの国だから、 
本当はそっちの研究機関に連絡がつけられれば良かったんだけどね」 
 椅子に背をもたれて、申し訳無さそうに雑巾が言う。 
 そうやって両手を膝の前に組みつつ、肩をすくめる代わりに小首を傾げる様は、 
 はっきり言って外見のガラじゃないというか、インテリジェントな姿だったが。 
「────…」 
 ……完全に思考の止まったあたしには、そんな事など目に止まるはずもなく。 
 
 
「…オレのツテじゃ、さすがにそこまでは無理だったから。…だからね?」 
 
――オワカレ? オワカレッテ、ダレト? ナニヲ? 
 
 カタン、と椅子を動かして雑巾が身体をどかすと、 
 背後にある小さめのモニター画面が、結果的に視界の中心にやって来る。 
 
 変な結晶体がガラス球の中で浮いてたり、硝子筒の中をビリビリが走ってたり。 
 …もう何十年も前の、真空管のたくさんついた旧式の大型スパコンを連想させる 
 これらの設備には、不法入国者を感知する魔法のレーダーとしての機能の他、 
 軍部を始めとしたイヌの国内の各種国家機関の情報を閲覧できる情報端末や、 
 メールに似た擬似通信文書送受機器としての役割もあるのだと聞かされた。 
 (…もっとも、マウスすらない完全コマンド入力式タイプ、送れるのも文書だけと、 
 20年前の初期パソコン通信並の容量・機能しか持っていないようなのであるが) 
 
 …そして液晶の代わりに、薄い水晶板への魔洸の投射を映像原理としてる 
 そのディスプレイに映るのは、もうだいぶ見慣れたこの国の文字の羅列。 
 
 
     ――発信 国立落下物軍事研究所第3局 私用文書021-000215714 
     ――宛先 第764番国境警備局 RE:私用文書021-000215682 
     ――用件 『検体としてのヒト(♀)引取りの要望に関して』 
 
――ケンタイ? ヒト(♀)? ヒキトリ? 
 
「友達が勤めてるんだ、ここ。 …そいつに無理言って頼んでさ。 
……あ、『検体』とか書いてあるけど、ここはそんなんじゃないからね?」 
 水晶板が放つきらきらとした幻想的な輝きが、瞬きを忘れた目には痛かった。 
 耳に入った言葉の意味が、よくわからない。 
 
「ちょこっと血を採られたり、変なテストさせられたりはするかもしれないけど、 
民間のと違って、そんな酷い事とか、危ない事はされないはずだから」 
 矢継ぎ早に口を動かすあいつに、妙な誤魔化しを感じたのは気のせいだろうか? 
 あたしが聞きたいのは、そういう事じゃないっていうのに。 
 
「ただ、手続きの関係でどうしても向こうに行くのは春になってからに―― 
「……どうして」 
 
 
 遮った言葉が震えていなかったのは、我ながら奇跡だと思ったりもした。 
 …その時の自分がどんな顔をしていたかまでは、ちょっと想像したくなかったが。 
 
「……どうして?」 
 ……しばらくは、低く響く機械の作動音だけがその場を支配する。 
 一体”なにが”『どうして』なのか。 ”なにを”『どうして』と聞いているのか。 
 それはあんまりたくさんありすぎて、自分でも何が何だかよく判らなかったけれど。 
 
 
 
「……だって、ここじゃお前、絶対に幸せになれないよ」 
 
 伏目がちな目を、ついと持ち上げて言った雑巾の言葉の中には、断定の響きがあった。 
「…え?」 
 意外な、それもかなり予想外の答えに、あたしは思わず素っ頓狂な声を上げ、 
 
 
「帰りたいんだよね? 元の世界に」 
 …だけど確信と共に指摘された言葉に、あたしは否定を提示する事ができない。 
 
「だったら、ここじゃお前の望みは叶わない」 
 あたしが何も言い返さないのを肯定と受け取ったのか、 
 雑巾はなんだか悲しそうな微笑を作ると、断定の言葉をそのまま続けるが。 
 ……それはやっぱりあたしには、首を振ることが出来ない内容で。 
 
「こんな所に、…こんな辺鄙な山奥の、左遷軍人の流刑場みたいな場所に 
いつまでも居たって、元の世界に帰れる日なんて一生やって来ないよ」 
 そう、そうだ、その通りだ。 
 こいつの言っている事は全て事実だ。こいつの言っている事は全て正しい。 
 『帰れなく』『叶わなく』『やって来ない』、全てことごとく正しくも事実だ。 
 ――たった一つを、除いては。 
 
「だから、ここに居るくらいだったらまだ王都の、それも『落下物』を研究してる 
きちんとした研究機関に籍を移した方が、ずっと帰れる可能性は高いだろ?」 
 
 
 さも『オレ、頭いいだろう?』とでも言いたそうな、務めて明るく振舞った声。 
 …だけどこいつがこういう声を上げる時は、大抵は背後の尾っぽが 
 千切れんばかりにブンブンブンブン元気良く振れているもんだというのに、 
 …見れば当のそれは、くたり、と力なく垂れ、ピクリとも動いてはいなかった。 
 
 それが何を意味するか、判らないほどあたしもバカじゃあないのに。 
 本当に、こいつのこんな風に、バカで、阿呆で、詰めの甘いところを見るにつけ、 
 ……あたしは、いつも。 
 
 
「……あんたは、あたしがいないとダメじゃない」 
 ぽつん、と、無意識に零れ落ちた言葉でさえ、憎まれ口な自分が悲しい。 
 悲しいが…… 
 
「まともに料理も洗濯も出来ないようなイヌが、何言ってんのよ」 
 ……でも、これもまた正しい事実のはずだった。 
 あたしがここに居たって、帰る望みも機会も無い事と同じくらい。 
 
 こいつがえらそうな事を言う度に、あたしはいつもこの伝家の宝刀を持ち出して。 
 その度にこいつは『…そ、それは…』と口籠もってしまって。 
 だからあたしは、今度もそうなるとばかり思って、この宝刀を持ち出したのだが。 
 
 
「……うん。…でも、いいんだ。…それはもう」 
 ぺきん、と。 そんなあたしの予想に反し。 
 
「…出来るだけ、お前に怒られないように、俺も一人でも頑張ってみるから」 
 必殺の切込みがやんわりと、だけど強い意志を込めた言葉で退けられた時、 
 あたしは初めて――本当に今更だが――この自分が『伝家の』だと思い込んでいた 
 短剣の刃が、いかに薄っぺらで、取るに足らないものだったのかを。 
 …自分がどれだけ浅はかな夢を抱いていたのかという事を、思い知らされて。 
 
「……努力してみせるから、…もういいんだ」 
 
 
 
「ふざけんじゃねぇボケッ! 何が努力するだよっ!!」 
 バシン! と。 
 気がついたら机をぶっ叩いて、思いっきりあいつに詰め寄っていた。 
「大丈夫!? 努力する!?」 
 『何勝手にキレてんのあたし?』、と冷静に判断する脳の一部とは別に、 
 なんでだか胸の中が熱くて、カーッと喉の上、鼻の奥の所が熱くなって。 
 
「あたしが来る前は、缶詰と軍の保存食だけで三食済ませてたとか言う奴が?」 
――怖いんだぞ生活習慣病とか、うまいもん食った方が元気も出るだろとか。 
 
「半年近く部屋の掃除してなかったとか言う奴が? 
換気扇やコンロ周りの掃除だなんて一度もしたことなかったとか言う奴が!?」 
――カビとか、ハウスダストとかで、変な病気になったらと思うと。 
 
「言われなきゃ風呂にも入らないし! 顔も洗わないし! 歯も磨かないし! 
冷蔵庫には物入れっぱなしだし、服なんていつまでも同じの着てるような……」 
――色々、色々、『それ』はたくさんたくさん、あり過ぎて。 
――……あり過ぎて。 
 
 
 
「――優しいな、本当に」 
 ……なのに、そのたった一言で。 
 たった一言で、猪突猛進の勢いだったはずのあたしの気勢は見事に捌かれ。 
 一瞬前まで激情の最中にあったはずのあたしは、 
 口をパクパクさせたまま、その場にたたらを踏まなければならなくなった。 
 
 いや、だって、今まさにヒステリーを起こしてる女に対して『優しい』はないだろと、 
 あたしとしちゃ普通に考えて、そう思ってしまったんだけれども。 
 …目を合わせてみれば、雑巾はいつもの通り、 
 よく観察していなければ判らないくらいの微かな微笑を浮かべて笑っていて。 
 …そんな時のこいつの目で見つめられると、 
 あたしはどうしても怒る気になれず、結果として怒りも雲散霧消してしまい。 
 
 
「その優しい気持ちは、すごい嬉しいよ。……でも、」 
 ――いつも、こうなのだ。 
 結局あたしは、いつもこいつを怒れなくて、……憎めない。 
 
「…でももう、決めた事だから」 
 『好き嫌いの多さ』や、『身だしなみのだらしなさ』、『自堕落さ』など、 
 明らかにこいつが悪くてあたしが正しい事だったら、あたしが怒る事も出来るけど。 
 …だけどそうじゃない、逆に向こうが正しかったり、 
 あるいは誰にも正しいとも悪いとも言い切れないような事柄で、 
 あたしがこいつの意志に勝てた事は――思うに一度もなかったような気がする。 
 ……ちょうどたった今、あたしがこいつの意志を曲げられずにいる様に。 
 
「だから、もういいんだ」 
 力なく、しかし再度左右に首を振るこいつに、あたしはただただ歯噛みする。 
 情けなく、流されやすく、線が細そうに見えて、…だけどこいつはあたしよりも頑固で。 
 やんわりとした物腰の癖に、けれど自分が間違ってないと信じた事は絶対に譲らない。 
 頼り無さそうに見えて揺らがない、柳の木のようなこの姿勢は、 
 こいつがこの世界でも一人で生きていける、強い生き物だという証拠なのだろうか? 
 …あたしみたいな一人で生きていけない、か弱くひ弱な『ヒト』とは違う? 
 
 どれだけ背を伸ばしても届かない? 
 どれだけ手を伸ばしても、こいつの意思決定には干渉できない? 
 あたしはこいつにとって、どうでもいい存在だったんだろうか? 
 居ても居なくなっても何とかなる、片手間の暇つぶし? 
 
 
「……本当に、今までどうもありがとう」 
 
 挙句、言うに事欠いてこれだよ。 
 ……そんな顔して『ありがとう』って言われたら、もう何にも言えないじゃないか。 
 あんまり強くて、眩しくて、正しくて、温かくて。 
 どこまでも真っ直ぐで純粋で、あまりにも透明で一本筋が通っていて。 
 
 
 
「……優しいのは、あんたの方でしょ?」 
 だからその前にたじろいで、怯むことしか出来ない捻くれ者のあたしには、 
 せいぜいこの程度の皮肉を返すのが関の山。 
 
「……どうして、ここまでしてくれるの? あたしは、ヒト奴隷なのに」 
 売ってよし、使ってよしの、何したって罪を問われないはずの治外法権の奢侈品に。 
 どうしてここまで世話を焼いて、色々気を使って心を配り。 
 
「その気になれば、あたしに何だって出来るはずなのに」 
 それだけの強さと力と地位があるのに、露ほども振るおうとはしないだなんて。 
 優しいにも、お人好しで無欲すぎなのにも、程がある。 
 
 なのに、こんな拾った当たりくじをわざわざ交番に届けるようなマネをしといて、 
 それなのに『お前は優しいな』だなんて、そんなの絶対、おかしいだろうと。 
 優しいのはあたしの方じゃなくて、お前の方だろと、大きな声で。 
 
 
「……優しくなんかないさ、…これっぽっちもね」 
 ふんわり笑う、こいつに対し。 
「オレはただ、当たり前の事をしてるだけ」 
 優しいと言われて首を振る、こいつに対し。 
「……だってオレがお前の立場だったら、きっと嫌だって思うはずなんだから」 
 
──大きな声で。 
 
「いきなり知らない世界に連れて来られて、知ってる奴なんか一人もいなくて、 
それなのにお前は奴隷だって言われて、なんか当然みたいにこき使われて」 
 
──大きな声で、少しくらいこき使ったって誰も文句言わないだろ、と。 
──大きな声で、身の回りの世話くらい別にやってあげたっていいよ、と。 
 
「ぶたれたり、蹴られたり、その上…そういうご奉仕…とかも強要されてさ」 
 
──あんたはそんな事絶対にしないでしょうが、と。 
──そんな事しないあんたとだから、今まで一緒に居てきたんでしょうが、と。 
 
「なのに家族にも友達にも二度と会えなくて、元の世界にも帰れないだなんて、 
そんなの絶対、オレだって嫌だって思うはずだから」 
 
──だから、ここに居ろよって命令されたって、あんたが言うなら、別にあたしは。 
――恩を仇で返したがらないのは、何もあんた達イヌだけの特権じゃないのに、と。 
 
 ……元の世界よりも、家族よりも先に。 
 思わずそう考え、叫びたくなってしまう自分が、なんだか、酷く、みじめだった。 
 もうどこにも行きたくない、ここに居たいと、外に出るのが怖いと、 
 そう心のどこかで思っている、そんな自分が、なんだか、とても…… 
 
 
「……ヒトは、――お前は、【道具】じゃないだろ?」 
 
 ……ああそうだ、確かにあたしは『人間』だ。 
 『イヌ』ではなく、『イヌ』にもなれず、『道具』にだったらなれそうだけど、 
 けれど『道具』になんてなりたくないと思っているはずの、『一人の個人の人間』だ。 
 …なのに、あたしは一体何を考えているんだろう? 
 …あたしは一体、何がしたい? 
 
「【道具】じゃないのに、【道具】扱いして。 
自分達より劣って、力の無い生き物だから、【道具】扱いしてもいいって思う。 
…そういう考え方がオレ、なんていうか凄い……イヤっていうかさ、」 
 
 こいつがあたしを『道具』にしたくないのだという事は、十分過ぎるほど判ってる。 
 だから、それだからこそあたしは、こいつの気持ちに答えなきゃいけない。 
 ……でも、だけど、あたしは。 
 
「…お前にも家族がいるんだろ?」 
 ……ああ、そうとも。 あたしには、家族がいる。 
 一人っ子で、お父さんは小さい頃に病気であっさり死んじゃったけれど、 
 母さんと二人で、田舎の祖父母に助けてもらいながら暮らしていて。 
 外国文学の翻訳で食ってる母さんは、こいつと同じ、典型的な家事ダメ仕事人間で、 
 ……だけど娘の目にも親馬鹿で、娘に何かと甘えてくるような人だから、 
 突然行方不明になったあたしの事を、きっと心配して取り乱していそうだった。 
 お祖父ちゃんお祖母ちゃん達も、ショックで病気になったりしてなきゃいいんだけど。 
 
「…友達が、いるんだろ?」 
 ……ああ、そうだとも。 友達だって、いた。 
 サチにもユキにもサヤカにも、お別れの一言だって言ってないのだ。 
 …特にユキからなんか、ダビング用に借りたMD借りっ放しで。 
 クラスにも、部活にも、先生達に対しても、まだ遣り残した事がたくさんあって。 
 
「…帰る家が、あるんだろ?」 
 
 
 ――そうだ、あたしは帰りたいのだ。 
 帰りたいと、思っていたのだ。 
 …だから帰りたいと、思わなければいけないのだ。 
 
「……だったら、オレにはそんな権利ないよ」 
 この世界に落ちてきた初めの頃、あたしが何としてでも元の世界に戻ってやると。 
 半ばどす黒い考えに身を浸してすら、切にそれを願っていたように。 
 帰りたいと、思っていなければいけないのだ。 
 今だって。 あの時と同じ様に。 帰りたいと。 思っていなければ。 
 
「……オレ以外のどんな誰にも、お前を【道具】扱いする権利なんてない」 
 …だって、それが『普通の人間』だったら、当たり前の事だもの。 
 普通の、真っ当な、常識ある『人間』だったなら、それが当たり前なんだもの。 
 あたしは『ヒト』でなく『人』なんだから、それが当然のことなんだ。 
 ほんの少しでも帰れる望みがあるのなら、そっちの方へと行かなくては。 
 元の世界に戻れる可能性が、少しでも多い方の道を選ばなければ。 
 ……選ばなければ、それはあまりにも。 
 家族よりも、友達よりも、元の世界よりもこっちを選ぶだなんて、あまりにも。 
 
「誰もお前の中の『それ』を汚して、束縛して良い理由なんてないはずだよ」 
 家族に、友達に、もう一度会いたくて堪らない気持ちは本当で。 
 あの家に、あの空気に、あの毎日に、あの文明世界に帰りたいのも本当で。 
 ……だから尚更、そんな事、あったりしちゃいけないんだ。 
 あたしは『人』だから。『ヒト』じゃないから。『人間』だから。『犬』じゃないから。 
 こんな、あたし達の世界とは全然違う、何もかもが違い過ぎる異世界で、 
 『人』とは違う、『人』じゃあない、『違う存在』のはずのケダモノ達に囲まれてて。 
 なのに家族や友達や元の世界よりも、もっとウェイトの大きいものが―― 
 
 
 
「……うん、そうだね」 
「……ああ、そうだろ?」 
 
――生まれてしまった『その認識』を、大量の『帰りたい』で埋め尽くして。 
 
「あんたの言う通りか。帰れる可能性があるなら、諦めちゃダメだよね」 
 我ながら白々しいとは思ったが。 
「そうだよ、……『仕方がないから』で割り切っちゃったりしたら、ダメなんだろ? 
諦めなかったら、諦めない限りは、きっと、絶対、なんとかなるよ!」 
 意気込んだこいつの励ましの声に押されてしまって、 
 結局頭の中に浮かんだ台本を、そのまま読み上げ続ける事にした。 
 
「……帰れるといいな、元の世界に」 
 労わりでいっぱいのその言葉が、なんだかとても胸に苦しかった。 
 
 
 
 
 
 最後に。 
「あと、最後に一つ、聞きたいんだけど」 
「……?」 
 退室際、一つだけ聞いておきたい事があって、あたしは雑巾に声をかけた。 
 
 
「……これ決断したきっかけって、やっぱりあたしに『あれ』してる所を見られた事?」 
「っっっ!!!」 
 
 ……ビビリ具合からすると、予想通り地雷直撃だったらしい。 
 あたしの冷ややかな眼差しに、ジト目で見られてるとでも思ったんだろう、 
 雑巾はぎょっとした様子で、背筋をぴしんっと伸ばし上げると。 
「そっ、それはっ、それは……」 
 言葉を、詰まらせて。 
「……それは。その。えと。 ……それと、これとは。 ………関係、ない、よ…」 
「…そう」 
 
 だけど、ついつい脇に逸らした視線に、あたしは十分なだけの答えを入手した。 
 
――つまり、『それが決断の理由の全てではない』けれど。 
――さながら、『それも決断の理由の一つにはなった』程度ではあるという事か。 
 
「聞きたかった事はそれだけ。…ありがとね」 
 全ての賽の目が振り終えられた後で、過去を悔いるのは馬鹿のする事だが。 
 いっそ追い出されるなら疎ましがられて、と思う今のあたしには、 
 あいつのこの答えは、ほんの少しだけ心を軽くしてくれるものにも思えたのだった。 
 
 
 
 
 
 ――その日の深夜、布団に入って目を閉じた時。 
 『帰りたい』の山の下、二重三重の鎖に縛られたはずのその『気づき』が、 
 ふいにキラリと、山の下から輝きを投げかけて来るのを心に感じた。 
 
「……ストックホルムなんとかよ」 
 思わず呟いた言葉が、真っ暗闇に吸い込まれて消える。 
 
 ……そこには崩壊の予兆と爆弾とを抱え、 
 それでも震えながら必死に眠りにつこうとする、馬鹿な小娘しかいなかったとしても。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 2 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
 台風の目という奴だったのだろう。 
 
「……おはよう…………」 
「お、おはよう」 
 何とも言えない居心地の悪さに際悩まされてきたこの数週間と違って、 
 その時のあたしの心は凪の海よろしく、静謐な平穏に包まれていた。 
 
 ……ただし全てが灰色の。 
 ……どこまでも続く、灰色の海の平穏に。 
 
「ど、どうしたんだお前? 何か悪いモンでも―― 
「……別に。…それよりもう朝ご飯できてるから、早く食べなさいよ」 
 目に見える景色も、聞こえる声も、心の中も、全てことごとく灰色で。 
 無声映画のモノクロフィルムみたいなその世界は、 
 だけど決してあたしの心に波風を立てない、無彩色の風景を作っていた。 
 
 心の中ではじゃりじゃりと、まるで石臼が石片を砕くよう、 
 常に灰色の砂がこぼれ撒き散らされるような重さと粉っぽさが存在していたが。 
 …何も考えたくないその時の自分には、その重砂感が心地良く。 
 疲れが酷くて全身もダルく、とにかく体を動かすのが億劫で仕方なかったけれど。 
 …激情の「げ」すらないという意味では、その気疲れはありがたくすらあった。 
 
「でもお前、病気―― 
「……だから大丈夫だってば。ちょっと……寝不足なだけ」 
 
 灰色はいい。 
 こいつの心底心配そうな声を聞いても、何も感じないのがその証拠だ。 
 白はないけど黒もない。 
 正しい事はないけど間違った事もない。 
 そこに喜びや幸せは無いけれど、悲しみや不幸もやって来ない。 
 永遠にゼロだけど、どこまでもどこまで安定している。 
 だから波一つ立たず。 
 ……故に、ここは平穏で―― 
 
 
 
 ――だけど、それでも人の心は動くもので。 
 外界からのあらゆる刺激を前に、定点に留まり続けるなんて、土台無理な話で。 
 
 ……現に後から雑巾に聞いたら、 
 この時のあたしは、まるで幽霊みたいな青白い顔をしていたという。 
 
 …その辺りからして既にあたしの限界が近く、相当に切羽詰ってたのが判るんだけど、 
 それでもこの時のあたしとしては、『それ』を。 
 もう既に生まれてしまい、だから大量の『帰りたい』で沈め誤魔化した『それ』を。 
 絶対に、どうしても、なんとしてでも、認めるわけにはいかなくて。 
 
 
 
 ……それでも、数日は持った。 
 
「…な、なあ」 
「……なに?」 
 それでも平穏という名前の灰色の沼は、そこまでこいつの言葉を飲み込んでくれた。 
 
 …だから、それなのにあたしが耐えられなくなったという事は、 
 ひとえにこいつの鈍感さが。 
 普通の男だったら敢えて身を引くか、未練がましくもしつこく食い下がるかする所で、 
 これまでと何一つ変わる事無くあたしに接して来なんかした、 
 こいつの究極的なまでの鈍感さが悪かったとしか、他に考えようが無く。 
 
――…なんでこいつが女にもてないのか、その時なら何となく判るような気さえした。 
――ようは天然の天才なのだろう、…『相手の女の側に、恥をかかせる事』の。 
 
 
「…その……ほら、もうすぐお別れなんだから、さ」 
「…………」 
 赤っぽい蛍光の下、画質も音質も良くないテレビを横に、コタツに向かい合い。 
 いつもの夕食の食卓、いつもの居間の光景の中で。 
 もくもくと飯を口に運ぶあたしに、おどおどしながらもお伺いを立てる雑巾。 
 
 そんな、『ひょっとしてワザとか?』と疑いたくなるくらい、 
 わざわざ無神経に過ぎた古傷をほじくり返すこいつのこんな言動にも、 
 もうあたしは何も感じない。 
 …上から照りつける赤っぽい照明を目に煩わしく感じたり、 
 …煩雑なテレビからの雑音がこの上なく耳に五月蝿く感じられたりはしても、だ。 
 
 
「…今の内に色々お話とか、いっぱいしといた方がいいとか思う……んだけど」 
 分かってないな、と思う。 
 今更一体何を話すというんだろう。 
 そんな事したって、ますます別れの時と、その後が辛くなるだけだと言うのに。 
 そんな事すら知らないで、こいつは一体何を求めているんだろう? 
 
「だからさ、何かお話してくれよ、…なっ?」 
 馬鹿だなぁと思う。 
 これであたしを精一杯元気付けようとしてるつもりなんだから、本当に馬鹿だなぁ、と。 
 
 大きな体に反比例する小心さで、おずおずとあたしの顔色を伺っていた雑巾が、 
 その時ふと、何か妙案を思いついた様にほんの少しだけ笑顔になった。 
 
 
「…ほら、『りにあもたーあかー』の話とか」 
 
 
――だから『りにあもたーあかー』・『りにあもったっか』じゃなくてリニアモーターカーだろうがと。 
――そう思ったところで、何かが。 
 
 ことん、と手に持っていた茶碗を置く。 
 
――何かが、ぷつりと。 
 
「………れ」 
「?」 
 
――ぷつりと、音を立てて。 
 
 
 
「黙れっ!!」 
 
 バン、と両手の平をテーブルの上に叩きつけて、あたしはその場に立ち上がった。 
 ……垂直に伸ばした腕が、たちまち小刻みに震え出す。 
 ……喉の奥が、心臓のところが、すごく熱い。 
 
「……なんなんだ……?」 
 そんな震える声が、安全弁を失ったあたしの口から零れ落ちた。 
 波一つなかった灰色の湖面が、急速にごぼごぼと赤く泡立ち始める。 
 (とうとう来たか)という、極めて他人事なコメントを残し、 
 あたしの頭の中の、冷静で理性的なあたしは、一瞬にして消滅した。 
 
―― ああ、ヤバイ。 
 
「なんなんだよ……なんなんだよお前はっ!!」 
 あたしの怒号を前に、雑巾は、きょとんとしていて。 
 どうして怒鳴られるのか判らず、あっけに取られたように、ポカンとしていて。 
 
―― これは、もう、止まらない。 
 
「そんなにあたしを生殺しにするのが楽しいか! 
そんなにあたしが自分から、自分の意思で『おちてくる』のを見るのが楽しいかっ!!」 
 ……そんなんじゃないって、判ってるはずなのに。 
 
 
 
「……どうして、襲わないのさ……」 
 
 震える喉から、漏れてはいけないものが漏れ出て行く。 
 喉がカラカラで、目の奥が熱くて。 
 
「……なんで、優しくするの? 
命令して、言う事聞かないならぶって、無理矢理言う事聞かせればいいじゃない。 
……なんで、対等扱いするの? 
あたしはひ弱で、魔法も使えなくて、奴隷で、なのに生意気で、役立たずじゃない」 
 
 雑巾の顔に、みるみる深刻なものが混じっていくのが。 
 ……『あの時』と同じ、取り返しのつかなさを体現した絶望の色に染まっていくのが、 
 あたしはすごくいい気味で、だけどとても怖くて、申し訳なくて。 
 
「なんでそんなにいい奴なの? 
…お陰で憎めないでしょ? 恨めないでしょ? これっぽっちも、ほんの少しも」 
「違―― 
「違わない!!」 
 
 ピシャリと言いつけてやった時、ズキンと痛んだのは、他でもないあたしの胸。 
 
 憎たらしくて、憎らしくて、…だけど憎めなくて。 
 だから結局、その汚いものは、いつだって全部あたしに返って来て。 
――だから『毒』だ、『鏡』なのだ。 
――こいつがあまりにいい奴で。 
――こいつがあまりに純粋だから。 
――あたしは否が応にも、自分の弱さを。 
――弱さを、汚さを、醜さを、思い知らされ、見せ付けられ。 
――まるで鏡に映したように、そっくりそのまま、跳ね返されて。 
 
 …ぜいぜいと荒い息を吐いて、雑巾との間に距離を取るあたしの顔に、 
 浮かんできたのは……多分、狂気の笑みだったのだと思う。 
 
 
「…だってあんたは、強いじゃない、あたしが居なくても生きていけるぐらい。 
せいぜい家事ぐらいしかとりえが無い、口先だけのあたしと違って。 
……十分な力があるじゃない、自分一人でもこの世界で生きていけるだけの! 
誰かに守ってもらわないと生きてけない様な、脆くてひ弱な【ヒト】と違って!!」 
 辛いけど、心の底からいい気味だった。 
 決して言葉にしては、確かな形として認識にしてはいけなかったはずのものを、 
 確かな厚さを持った壁として、こいつとの前に打ち立てていくのは。 
 
「……『あれば便利だけど、別になくても生活に困るほどじゃない』程度の、 
お金持ちの間で人気の『ペット』、『贅沢品』の【ヒト奴隷】と違って、さ……」 
 胸がギリギリと痛んだけれど、笑い出したいくらい小気味良かった。 
 壊されたくなくて必死に守ってきたものを、いっそ自分の手で破壊するというのは。 
 敵に破壊されるぐらいならばと、グチャグチャのメチャメチャにしてやるのは。 
 
「そんな『別になくたって困らないもの』を、 
『手放そうと思えばすぐに手放せるぐらいの価値の無いもの』を、 
情けと、憐憫と、同情と、戯れだけで、ここまで上手に世話できるんだもん。 
あんたは優しいよ、…間違いなくすんごく優しい【イヌ】だよ」 
 『優しい』ければ、常に良いと思っているこいつが。 
 『請願』や『提示』が、常に『命令』や『強制』に勝ると思い込んでいるこいつが。 
 『ヒト』と対等な友達になれるだなんて、絵空事を本気で信じてるこいつが。 
 
 
「…でも、ね……」 
 お門違いだと判っていても、それでも悔しくて、悔しくて、たまらなくて。 
 せめて一矢報いてやりたくて、その一心で。 
 
「…だったら、あたしは、あんたの『何』?」 
 壊される前に、壊してやりたくて。 
 壊される前に、壊れてしまいたくて。 
 
「……『犬』? …『猫』? 『兎』?『文鳥』?『ハムスター』? 
それとも水槽の中の『金魚』か『亀』? 虫篭の中の『バッタ』か何か? 
…ああ、でもあたし、一応あんたの身の回りの世話はできるわけだし。 
道具じゃないとか言っておきながら、その実『全自動家事マシーン』?」 
 
 言ってやった瞬間、あいつの顔が、苦渋に歪むのが分かった。 
 何が『道具扱いしたくない』だよと、嘲りの笑いを浮かべながら。 
 あたしは、言っちゃいけない事を。 
 かなり、ていうか絶対に、言っちゃいけない事を。 
 
 
 
ぱた 
 
「………は」 
 
 言ってしまった瞬間、水滴がテーブルの上に落ちるのが分かった。 
 ……気のせいか、視界がぼやけているような気も。 
(――あれ? なんで、水?) 
 そう思ったのが我に還る……夢から覚める、合図だった。 
 
 
ぱた 
 
「……う………あう…?」 
 目の奥、喉、胸の熱さは、気がつけば耐え難いほどに達していた。 
 心だけじゃなくて、なんだか喉が痛いし、目や鼻もピリピリする気がする。 
 だけど、ほっぺただけはなんだか、一筋冷たい。 
 
ぱた 
 
――なんで、そんな、ありえない 
 そうは思っても、両眼から頬を伝って滴り落ちるこの水滴は紛れも無い現実で。 
 
――どうして、こんなものが、こぼれるんだ 
 そしてその冷たさは、破滅という名の坂道を自分から進んで転がり落ちる、 
 その快感に酔い痴れていたあたしを、シラフに引き戻すには、十分な。 
 
――うそだ、うそだ、うそだうそだうそだ 
 …ふいに焦点を定めたところで、呆然と佇む雑巾の姿が目に入った。 
 思わず合わせてしまったあいつの目の中には、やっぱり憤激も憎悪もなくて。 
「あ……」 
 そんな間抜けな声と共におずおずと手を伸ばしてきたあいつの目の中に、 
 『労わり』が、『慈しみ』が、『謝罪』『同情』『善意』があるのを見た時。 
 
 
――あたしの中で冷めた狂気は、次の瞬間恐怖に変わった。 
 
 
「触るなあっ!」 
 バチンッ、と。 
 
 ――怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。 
 ――見られた。見られた。見られた。見られた。見られた。 
 
 叫んで、伸ばされたあいつの手を、思いっきり引っぱたき、また叩き落した。 
 もうそこには破滅への快感なんてなく、ただただ苦痛と恐怖しかなかったけれど、 
 ……だけどあたしはもう、後戻り出来ない所まで来てしまっていて。 
 ……だって―― 
 
「……あんたがあたしに、触って欲しくないってんなら!」 
 ――触るな――と。 
「あたしもあんたに、触ってなんか……欲しくない…っ!」 
 だってこいつは、そう言ったのだ。 
 
「どうせ……『イヌ』になんか、なれないっていうならっ」 
 ぱた、ぱた、と落ちる水をこらえながら、奥歯を噛んで、両手をギッと握って。 
 
「完全に無意識で無防備な状態だと、…思わず跳ね除けちゃうような相手なら! 
剥き出しの心に触られて、生理的に拒絶しちゃう様な生き物でしかないんなら!」 
 震えそうになる声を必死で抑えながら、あたしは言葉を紡ぎ上げる。 
 
「だったら最初から……『対等』になんか、扱おうとしない、でよぉ……」 
 
――本当は知っているんだ、どうしてあたしが今、涙を流しているのかも。 
――知っているんだ、どうしてこんなにも雑巾の事が憎たらしいのかも。 
――これ程までに痴態を見られた事に対する恐怖に打ちのめされている、その理由も。 
 
「いい迷惑よ……あんたの……ていのいい…おためごかしの……道具にされて」 
 
――こいつが悪い。 
――中途半端な偽善と優しさで、あたしに『夢』を見させた、こいつが悪い。 
――…それよりもっと悪いのが、勝手にそんな『夢』を見てしまったあたしだとしても。 
 
「おかげで……あたしは。 ……なんで……あんたなんかの事――」 
 
 
 
 ――そこから先を言う事は、さすがに出来なかった。 
 それは震えが酷くなって、これ以上正調を保っていられない声のせいでもあったし、 
 言葉に出すのが憚られるほどの重みをもった、その言葉の内容のせいでもある。 
 
「……あたしを、壊すな……」 
 
 ぼそり、と一言漏らした言葉を残して。 
 あたしはそのまま、居られなくなったその場所から逃げるように駆け出した。 
 外は暗く、寒い冬の夜の闇だったけれど、 
 少なくとも今の此処よりはまだ、そこは居心地の良い場所に思えたのだ。 
 
 
 
 
 
「…あ……」 
 ――外は寒いぞ危ないぞ、とか。 
 ――魔法も使えないのに明かりも持たないでどうするんだ、とか。 
 言いたい事は色々あったし、 
 普通だったらすぐに追いかけたいところだったのだが。 
 
「………あ」 
 ペタンとその場に――実際にはドスンだったが――座り込む。 
 外の冷気が流れ込んでくる、開け放たれたままのドアも、 
 つけっぱなしのテレビから聞こえてくる、耳障りな視聴者の笑い声も、 
 すべてそのまま、何とかしようという気にもなれない。 
 
「……これで………」 
 これがお前が望んでいた事だろうがと、そう言い聞かせてみるけれど。 
「……これで、良かったんだよ……」 
 体育すわりで膝に顔を埋めたその胸には、ザワザワと変な痛痒が走る。 
 
「……だって、オレは……」 
 判っていた事。 
 だけど、それでも、さっきのあの泣き顔を思い出したら、 
 胸が締め付けられるように苦しくて。 
 何も考えないよう心を空っぽにしたまま、膝に顔を押し付けて、 
「……オレは、汚いよ……」 
 もう何も、考えたくなく―― 
 
 
 
――どれくらい、そうしていたのだろうか。 
 
 チリリン、チリリンと言う音に、何の音だろうというぼんやりとした思考が働いて、 
 次の瞬間にはガバッと、まるでバネみたいに跳ね飛び起きた。 
 
(…本部の方からの遠話連絡!?) 
 
 正直に言えば、とてもじゃないが今はそんな気分じゃない。 
 めんどくさいから放置してしまいたいと、事実できるものならそうしたかったのだが。 
 
(…定時連絡は済ませてる、特に何か予定のある日ってわけでもない……) 
 
 腐っても軍人。…それでなくても彼は、 
 『私』の方はアレでも、その分『公』の方はきっちりケジメをつけるタイプのイヌである。 
 こちらからの日の二度の定時連絡をサボった事はないし、 
 『こっちに来てからは』それでも失態なく無難に仕事をこなして来た方だった。 
 ……なのにこの時期、向こうから遠話回線を開いてまでの連絡が来るという事は。 
 
 
 二箇所ある音の出所の内のより近く、子機のある自分の部屋の机の前には、 
 ポンポンと数歩大きく足を進める事で簡単にたどり着くことが出来た。 
 
 ――ふるふると振動する水晶の前に、欠片も躊躇しなかったわけではない。 
 実際、それに手を伸ばしかけて、ほんの少しだけ指先が止まったのは事実だ。 
 さっきの彼女の言葉と涙は、間違いなく彼の心に大きくしこりを残している。 
 ……だけど、それでも彼は。 
 
 目を閉じ、大きく息を吐くと、遠話用クリスタルの共振数を通話モードへと調整する。 
 再び目を開いた時、そこに立っているのは『私』としての彼ではない。 
 
「コネクション・オープン。こちらビー・ジー・ディー、セブン・シクスティフォース。 
……常直のズィークバル軍曹です、応答願います」 
「通話状態、良好を確認。こちらバスティオン・リンチンチン、…緊急事態だ」 
 
 
 
「……ディン、スレイフが?」 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 3 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
――今夜の天頂に浮かぶのは、世にも珍しい、仲良く並んだ対称の双月。 
――公転軌道・周期共に違う二つの月が同時に天極する、縁起が良いらしいこの夜を。 
――だけどあたしは、どうしても好きになる事が出来なかった。 
――…ここが地球じゃないという事を、否が応にも思い出さされる夜だからだ。 
 
 
 走る。走る。 
 身を刺すような寒気の中、あたしは夜の闇をただひたすらに走る。 
 
 昼の間からちょくちょくとこの辺りの散歩は繰り返していて、 
 それに加えて今日は星月が雲に隠されることなく、 
 足元の白い雪に反射してほんのりと辺りを照らしてくれていた事が、 
 あたしにとっては不幸中の幸いだった。 
 
 ネオンもない、電灯もない、車のライトもない、唯一星明りだけの闇の中を、 
 よろけても、躓いても、とにかく走り、走り続ける。 
 踏み込んだ靴の中に雪が入っても、伸び垂れた枝で二の腕を擦っても。 
 濡れた頬に当たる冷たい風が痛くたって、どこまでも。 
 
 
――だけど、そんな無茶な走り方がいつまでも続くわけもなく。 
 
 べしゃぁっ 
 
 とうとう張り出した木の根に蹴躓いて、あたしは盛大に雪の上へとすっ転んだ。 
 全身雪まみれになりながらもすぐに立ち上がろうとし、 
 ……だけどそのまま、木の幹に寄りかかるようにして崩れ落ちる。 
 
「…うっ……く…、うぁ……っぅ」 
 ぽたぽた落ちる水には、顔の熱で溶けた雪以外のものが混じっている。 
 必死でそれを堪えようとしても、こみ出てくるそれは抑え切れない。 
 
 
――魔法の言葉は、何度も唱えた。 
 『あたしは人間の、年下の、脛毛濃くない可愛らしい美少年が好みなんだ』とか、 
 『猫耳犬耳のショタッ子は好きだけど、こんなうすらでかい馬鹿はいらない』とか、 
 『全くもってあたしの好みの正反対だろうが』と、何度も何度も。 
――『帰りたい』はずなんだと、そう思い込もうともした。 
 だってあたしは人間で、現に最初の頃はあんなに帰りたがってて。 
 普通の、まともな、薄情でない、正常な思考と価値観を持った一般人だったなら、 
 こんな世界で高々半年、故郷の家族や友人並に大事な物なんか、できるはずがと。 
 
 ぐっと積もった雪を握り締めた両手の中に、手の熱で溶けかけた雪が冷たい。 
 だけどそうでもしないと、溢れそうになる物を堪える事なんて出来そうになく。 
 
――『ストックホルムなんとか』だと、笑って捨てようともしたさ。 
 聞きかじった知識に聞いた覚えのある、銀行強盗と人質との馬鹿げた恋愛。 
 過度のプレッシャーの下、異常な境遇に置かれた男女が、 
 錯誤の果てにお互いを特別な存在だと思い込むようになる、確かそんな現象。 
――そうだ、だからこれは良くある思い違いだと。 
 『一つ屋根の下で男女が暮らす』という特殊な条件下の生活なんだもの、 
 そういう風に感じてしまうような『勘違い』、あって当たり前だと、あって当然だと。 
 こんなのは『そういう感情』じゃない、ただそれっぽく見えるだけの物だと、 
 
 何度も。 
 何度も何度も。 
 何度も何度も何度も何度も。 
 
「なんで……あたし…あんなのに……」 
 
 …思ったのに、けれど結局それは消えてくれなく、むしろますます強くなって。 
 挙句しっかりとした形を持って生まれてしまったそれは、 
 どれだけ埋めて無意識の底へと押し返そうとしても、全然消えてなんかくれやせず。 
 
 
「…あんなのに…惚れちゃったりなんか……してるのよ、…ばかぁぁ……」 
 
 
 顔が引き攣り、肩がガクガク震えるのは、寒さのせいだけじゃないだろう。 
 震える自分の体を両腕に抱き、あたしは自棄になった者特有の笑いを浮かべる。 
 
「……相手は……人間じゃないじゃんかぁ……」 
 
 あの気まずさも、イライラも。この胸の痛みも、もやもやも。 
 あたしらしからぬヒステリー、抑え切れない憎たらしさ、溢れて止まらない涙、 
 その全部がたった一言で、 
 全て納得いく理由の下に収まってしまうのが、癪と言えば癪だった。 
 
 
 ……好きだ。 
 あいつが、大好きだ。 
 たとえ『勘違い』や『錯誤』なのだったとしても、それでも好きなものは好きらしく。 
 止まれと言われて、止まれるようなものでも無いようで。 
 …しかもものすごく悔しいが、どうやらぞっこんラヴというやつらしい。 
 
 恋愛らしい恋愛をした経験の無いあたしでも、それだけは流石に理解できる。 
 …『お別れ』と言われてここまで胸が痛むのは、それしかないのだと察しもつく。 
 ……ただ傍に居たいと、それだけを願うのが、どういう事なのかも。 
 
「……あり…えない…よ……」 
 ――『元の世界に帰りたい』という気持ちより、 
 『傍に居たい』という気持ちの方が強いという事が、一体どういう事なのかも。 
 
 
 
 バカで、だらしなくて、甲斐性なしで、気が弱く、引っ込み思案の、見掛け倒しで。 
 だけど一緒にいるとふわふわして、とっても暖かい気持ちになる。 
 ずっと気張って生きてきたあたしが、思わず脱力してしまう程のお子ちゃま天然だけど、 
 そこがまた変な魅力というか、気がつけば肩の力が抜けてるんだ。 
 
 優しくてふよふよな動物好きかと思ってたら、意外な所で律儀で頑固で真面目だし。 
 イヌだなあガキだなあと思ってたら、妙な所で人間の男と大差ない仕草を見せる。 
 バカだねアホだねカワイイねと思ってたら、変に色っぽく大人だったりする時もあり。 
 …正直、なんでこいつモテないんだ?と。 …中身、結構良かったりしないか?と。 
 
 美味しいもの作ってあげなきゃと、食事に気を配る様になったのはいつからだろう? 
 あいつの身の回りや服装に、いちいち五月蝿く口出しするようになったのは? 
 なんだかんだと言いながら、あたしがあいつに甘くなり始めたのはいつ頃から? 
 あいつの為に役に立てる事はないか、無意識に探すようになったのはいつの話? 
 
「…は…、…なんだ……」 
 思っていて、ふっと気がついた事がある。 
 今更気がついたって、遅い事。 
「……あたし、ひょっとしなくても、けっこう健気な…ヒト召使いじゃん……」 
 
 
 …そうだ、あいつが笑ってくれるのが、すごく好きだった。 
 あいつにありがとうって言ってもらえるのが、すごい嬉しかった。 
 最初は恩返し程度で、助けてもらったお礼だと。 
 こいつがあんまりだらしないから、仕方なく居ついてやってるんだと言い訳しながら、 
 いつの間にかあいつが喜んでくれるのが嬉しくて、少しでも役に立てるようにって。 
 
 ……それを今まで生きてきた中で、一番生きがいのある時間だったと言うのは、 
 やっぱり心ならず『落ちて』来たはずの異世界人としては、やはり問題があるだろうか。 
 帰りたいと言う気持ちが全く無いわけではないにせよ、 
 『向こう』の生活と家族と友人を、『こっち』の生活とあいつとで天秤に掛けて、 
 どっちとも選べなくなってしまったのは、やっぱり大いに問題有りだろうか。 
 
 
 
「……っ」 
――だけどもう遅い、何もかもお終いなんだ―― 
 
 ……そう考えると、また体の奥から熱いものが込み上げてきて、 
 あたしは雪の上に四つんばいになると、 
 赤い眼をしながらぜーぜーと荒い息をつかなければならなかった。 
 本当を言えば、なりふり構わずワンワンギャンギャン泣いてしまいそうだったのだが、 
 だけどそれをしてしまったら、……多分もう何もかも抑えきれない。 
 
 『捨てないで』 
 そのたった一言が言えれば良かったのに。 
 
 『捨てないでくださいご主人様、どうかお傍に居させてください』 
 その一言で、もしかしたら何かが変わったかもしれないのに。 
 
 …だけど言えない、可愛げの無い召使いがあたしという人間で。 
 あんな簡単に手放されるのも、そういう愛嬌の無さが大きな理由だったんだろう。 
 
 …そうやって普段から見栄を張って、強く見せかけて、やせ我慢して。 
 だから手放したって大丈夫だろと、お前は強いもんな、頑張り屋だもんなと、 
 そう言われ振られてしまう原因を作ったのは、他でもないあたし自身。 
 今だ前の世界の常識や、益体もないプライドなんかに拘って。 
 自ら膝をつく事ができず、弱い癖に自分の弱さを認められず。 
 
 
 
――ああそうだとも、昔のあたしは、『強かった』。 
元の世界、故郷の国で、あたしは確かに『強く』、故に『勝ち組』だった。 
 
勉強も出来た。友達も居た。素行は公正で、先生達からの評判も良かった。 
あいにくと運動音痴ではあったが、その分体力はつけたし、部活も演劇を選んだ。 
……ここで帰宅部なんて選ぶ奴は、既に『負け組』だと思っていたから。 
 
顔は十人並だけど、その分それ以上悪くならないよう細心の注意を払った。 
凹凸には気を使わずに済んだとは言え、それでもダイエットには気を配ったものだ。 
各種の家事の腕を磨いておいたのも、母子家庭だったからというのもありこそすれ、 
全ては将来、安定高収入の旦那を確保するという最終目標を見越してのもの。 
反面、適度に雑学やファッションの知識を仕入れこそすれ、 
どこぞの馬鹿共みたくに、羽目を外し過ぎて道を外さぬ様にも注意を払った。 
 
勝気なクラスのまとめ役。しっかりとした芯を持った、陰気ではない優等生。 
下級生の面倒見は良く、先生達の受けも良く、かといって付合いが悪いわけじゃない。 
間違っていないと思う事にはどこまでも強気に、だけど大人の引き際も弁えて。 
大いに反感を買い、あるいは慕われるかこそすれ、だけど皆の評価はいつも一緒。 
 
――『あいつは鼻持ちならない奴だけど、だけど確かに強い女だ』―― 
 
それが『強い』という事で、それが『勝ち組』だという事だった。 
良い高校、良い短大に入り、安定した高収入職について、そして最後は玉の輿。 
競争社会についていけなくなる事もなく、マニアックな趣味やオタク道に走る事もなく、 
ウザがられない程度に距離を取りつつ、広く積極的な交友関係を持てるという事。 
 
…だから猫耳ショタっ子のCGサイト巡りは、親友にも内緒の密かな趣味。 
…う○た○介の単行本全巻は、本棚の裏に隠して友達にも見せた事がない。 
…○バル○文庫やル○ー文庫の恋愛小説の山なんて、もっての他。 
やたらめったらに迂闊なカミングアウトをする奴は、周りを引かせるただのバカだ。 
共通一般でない趣味の話題しか口に出せない人間は、その時点で既に負け組だ。 
 
――そうして、だから、認めてくれた。 
――前の世界では、誰もが、社会が、あたしの事を、『強い』と、『優れている』と。 
 
勉強が出来、良い高校、良い大学に入るという事が、『強い』という事だった。 
部活に情熱を注ぎ、きちんとした功績を残しているという事が、『強い』という事だった。 
根暗でも引き篭もりでもない、友達の多い人気者という事が、『強い』という事だった。 
マイナー・マニアック・アブノーマルな趣味を持たないという事が、『強い』という事だった。 
容姿に優れ、体脂肪率が少なく、スタイルがいいという事が、『強い』という事だった。 
 
そしてそうすれば、例え何人かから大いに嫌われ反感を買っていたって、 
それは社会的に強く、社会的に優秀な、社会的に認められた人間だと言う事だった。 
…逆にどれだけ優しい人間でも、勉強も運動もダメな根暗君では意味がなく。 
…どれだけその分野に優れていても、それがマイナーな分野なら認められず。 
…どれだけ中身が良くたって、外見が悪ければ、そもそも誰も見てくれやせず。 
 
『万人に好かれる』事が無理な以上、『社会一般に認められる』事が重要で。 
どれだけクソな人間でも、『社会一般に認められる』以上その人格は保証され。 
逆に社会から認められない、『負け組』と認定されるような人間であれば、 
どれだけ心優しくても、努力していても、一芸に秀でていても、全く無駄だった。 
 
……だからあたしは、社会一般に認められる人間たるよう努力した。 
だからあたしは、『強く』あろうと、『勝ち組』であろうと、努力し続けた。 
 
『負け組』のレッテルを貼られ、嘲笑の下に晒されるなんて、耐えられそうになかった。 
社会に必要の無い歯車だと、居ても居なくてもどうでもいい存在だと言われ、 
『欠陥品』の札を貼られて、『優良品』達からゴミ、クズ呼ばわりされる事が。 
…ああはなってはいけませんと、後から来る者に比較の対象として指差される事が。 
 
――ただ、お陰でその努力は、大いに実り。 
――だから昔のあたしは、『強かった』。 
 
『強い女』、そう見られる事自体は、別に悪い事でもない。 
クラスメイトや部活の後輩から、尊敬の眼差しで見られるのは悪くなかったし、 
男女呼ばわりされたって、男子生徒達と対等に渡り合える事は優越感をもたらした。 
あたしの態度や優等生ぶりが癇に障るらしい連中から嫌がらせを受ける事はあっても、 
それがより劣った者達の嫉妬やっかみだと思えば、むしろ清々しい程気分が良かった。 
……だってあたしは、『強かった』んだもの。 
 
社会一般のはかりで強く優秀と認定されるが故の、絶対的な安定秩序。 
そのはかりを基準に、誰もがあたしの事を尊敬し、その実力を認め…… 
 
……故に、別に誰かに好かれようと特別な努力をする必要は、そこにはなく。 
右を向いても左を向いても人間ばかりのあの世界では、 
本当の親友なんて、たまたま出会えたごく少数、一握りの波長の合う人間とだけ 
作ればいいような関係で、100人の中から2〜3人も見つかれば十分な物だった。 
残りの大勢は、せいぜいメールを交わすぐらいの、飾り物としての友人で。 
些細なきっかけから友達となり、ソリが合わなければハイさようなら。 
……その程度の。 
 
そんな振る舞いが、少なくともあの国では許されていた。 
別に特別誰かに好かれたいとも思わぬ振る舞いを取ることが、許されていた。 
だって、あたしは、『社会』に、『強い』と、認められていたんだもん。 
社会に強いと認められてさえいれば、それで良くて、安心してられて。 
 
 
 
 そうして、あの日。 
「……はは……」 
 あの森の中に座り込んでいる自分に気がついたあの日。 
 
 前の世界でのあたしの完璧な人生計画、積み上げてきた努力、社会的評価は。 
 …全部、全部、全部全部こっぱ微塵のミジンコちゃんに砕け散った。 
 
「…はは…は……」 
 後に残ったのは、気位ばかり高い、口やかましいヒトのメス。 
 
 社会が与えてくれる評価の上に胡坐をかいて、誰からも好かれようとしなかった、 
 生意気な自分中心主義の、プライドと社会常識でがんじがらめの小娘だ。 
 
 金も、地位も、名誉もない。 頼りになる経歴、家族も友人も後ろ盾もない。 
 労働資本にもならない脆弱な肉体に、特別な知識や魔法が使えるわけでもない。 
 取り得と言えば家事ぐらいしかない、『弱い』、『弱い』、『弱い』あたしだ。 
 
………ない。 
…からない。 
 
「……わかんない…よ……」 
 
 
 たった一人の ―― 一匹のイヌに好かれなければいけないというのに、 
 お陰でどうやったら好きになってもらえるのか、全くこれっぽっちも分からない。 
 
 …好かれたいと思っているのに、どうやって人に好かれたらいいのかが。 
 そもそも、そんな本心を相手に見せる事すら出来なくて、 
 素直になれない口から出るのはいつだって、憎まれ口や皮肉、罵詈雑言。 
 
 
 上手な媚の売り方も知らない。 
 愛想のふり撒き方なんて分からない。 
 愛嬌なんて、どうやって作ればいいのか、検討もつかない。 
 
 ……ううん、違う、怖いんだ。 
 怖くて、そして、恥ずかしい。 
 上手に出来るかどうか……否、出来るわけ無いって、心のどこかで判ってるから。 
 
 下手な媚の売り方をして、あいつに「気持ち悪い」って言われたらどうしようと思う。 
 突然一転して愛想や愛嬌をふり撒くようになったはいいが、 
 そのせいでますます不興を買ったり、空気が気まずくなったらどうしようと思う。 
 ……だから結局、何にも出来ない。 
 
「……う……ぐずっ、ヒック」 
 よろよろと立って、カチカチ震える歯に垂れる鼻水を啜り上げながら、 
 あたしはきっと相当みっともないであろう顔で、またふらふらと森の奥へと歩き出す。 
 少しでもあそこから離れたく、少しでもどこか遠くへと。 
 
 どうしたらいいのか、もう何もかも分からない。 
 これまであたしがして来た事は何だったのか、そしてこれからどうすればいいのか。 
 どうすればあいつの歓心を買えるのか、それともあいつを憎むべきなのか。 
 『獣姦』は前の世界では賎視の対象で、だけどあたしの好きになった相手はイヌで。 
 違う世界に来てまで元の世界の常識に縋りつく事を愚かと言われても、 
 じゃあそれを捨てて、次は何を頼りに、どう振舞ったらいいのかが見当がつかず。 
 前に進めばいいのか、後ろに戻ればいいのか、此処に留まるべきなのか。 
 『あたし』は何なのか。何をもって『あたし』なのか。『あたし』はどこにいるのか。 
 ――どうすれば、どういう『あたし』なら、あいつは喜んで、褒めてくれるのか。 
 
「……もう………やだ………」 
泣きじゃくりながらふらふらと歩く足に、ぽろぽろと剥落するもの。 
 
 本当を言えば、15年間使い続けてきた仮面の下に、確かにそれはいる。 
 …澄ました顔の裏で、エッチな事、いやらしい事に興味があるあたし。 
 …傲慢な表情の裏で、周囲のみんなの視線や評価にビクビクしてるあたし。 
 …強情な顔の裏で、甘えんぼうで、泣き虫で、……とても弱い、あたし。 
 …本当は褒めて貰って、頭を撫でて貰って、偉いね、凄いね、お前がいないとダメだよって。 
 ――ああ、だけど、それをどうしろと? 
 
「…もう…やだぁ……っ」 
号泣一歩手前。 
半年とプラス1〜2ヶ月間、痩せ我慢と強がりで必死に保ち続けてきた正気が。 
異世界という環境で、その下にむりやり押し込められて来た、不安と、弱さと、怯えが。 
 
 『正解』がどれで、『間違い』は何なのか、だれも教えてくれない。 
 こういう時どうすればいいのか、調べる為の本もサイトもテレビ番組も無い。 
 相対的に正しい、安心して従う事のできる社会規範がない。 
 相談し、参考に出来る友人や家族など、マネしたり頼ったり出来るものもない。 
 …だから全部、自分で決めなきゃいけないのに。 
 誰にも頼らず、何もかも自分一人で選んで、何もかも自分一人で決めて、 
 そしてその責任全て、我が身を持って負わなければいけないというのに。 
 ――いざ全てを奪われて裸になってみれば、あたしは、それが怖くて。 
 ――選んで、そしてその責任と結果を全て自分で負うという事が、怖くて。 
 ――怖くて、弱虫で、何一つ選択出来なくて。 
 
「もうやだあぁぁっ!」 
もう限界。 
もう誰に押されなくても、完全に弾け飛び、自壊する、……正にその時。 
 
 
 
 
 
 ふいにドンッ、と。 
 何かに足に体当たりされでもしたような衝撃を受けて、 
 あたしはつんのめるように、その場に再度すっ転んだ。 
 
 
 足に当たる雪が冷た……いや、熱い。 ……熱い?  ……あつ…… 
 
 
 
「っぁあああああああああああああっ!?!?」 
 …寸瞬遅れ、暗い視界にカツッと音を立て、前方の大木に何かが刺さる。 
 
 何が起こったのか、咄嗟には理解できなくて。 
 ……もうただ、『痛い』、としか分からなくて。 
 
 右太腿を中心として全身に走る激痛にのたうちながら、 
 それでも好奇心に負けて、痛みの中心部――自分の足に目を向ける。 
 
 ……暗闇の中に辛うじて見える、破れたズボンと、そこから雪の上に広がる黒いもの。 
 
――あれ? なに? この黒いの? ていうか何が起こったの? 
――てか、痛い、痛いよ、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛――… 
 
 
 あまりに激痛に涙も引っ込んだ中、 
 少しでも痛みを減らそうと、エビみたいに体を丸めて無駄な努力をしていると、 
 ザク、ザクと、雪を踏みながら何かが近づいてくる音が聞こえて。 
 
「やったか?」 
「……いや、掠っただけみたいだ」 
 ザシリと、誰かが蹲ったあたしの後ろ、見下ろすような形でそこに立った。 
 ……雑巾の声じゃない、違う誰か二人組の声。 
 
「……おい、こいつまさか…」 
「…ん?」 
 痛みに思考が寸断される中、それでも辛うじて雑巾の『その言葉』を思い出したのは、 
 悲しいかな乱暴に髪の毛を引っ掴まれて、 
 まるで『モノ』でも持ち上げるみたくに吊り上げられてからであった。 
 
「…っぁっ」 
「……やっぱり! 見ろよ、どこの誰だと思って見りゃ、こいつ野良のヒトだぜ?」 
「マ、マジか!?」 
 
――ここは国境間際の山奥で、お世辞にも治安がいいとは言えない場所だから―― 
――だから、危ないから勝手に外に出たらダメだよ?―― 
 
 明らかに真っ当な職の者とは思えない、武装した大柄な犬頭が二匹。 
 まるで道端に落ちてた金塊でも見るような、下卑た目で見つめられ。 
 …あたしはようやく、自分がどれだけバカな事をしでかしたのかを、気がつき始めていた。 
 
 
 
 
 
 
 ガルヴォルン《輝黒鋼》の鎖布が縫いこまれた黒装束の上から、 
 ずしりと重い黒コートを羽織る。 
 夜の闇に紛れる事を、闇への跳梁を想定して作られたそれは、 
 GARM第五局員が任務時に纏う、正式な装束、執行衣だ。 
 
「…………」 
 
 ……嫌な予感がして、堪らない。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 4 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
 焚火を囲んだ一団の中に突き飛ばされ、あたしの体は無様にも雪の上へと転がった。 
 視界の大部分を占める、雪に乱反射したちらちらという火の明かりと。 
 物色するような周囲からの視線が、撃ち抜かれ、打ちのめされた我が身に痛い。 
 
「…本物のヒトみたいだな」 
「しかも首輪つけてねえトコを見ると野良だぜ?」 
 20人くらいはいるのだろう、ほとんどが獣人姿……イヌのオスなのだろうか? 
 大部分をあの監視所の中で過ごし、こんなにたくさんのイヌ達に囲まれた事の無い 
 あたしには、それはそれだけである種の恐怖感を与えるのに十分な状況だったが。 
 
「……オイコラ、体に傷がつくようなマネはしてねえだろうな?」 
「ええまあ、弓を使ったんで足があの通り以外は、 
ちょっと暴れたんで横っ面引っぱたいて黙らせてやったぐらいで―― 
「馬鹿野朗っ!!」 
 ガッという鈍い音と、ヒッいう息の詰まったような悲鳴。 
 赤く腫れて痛む頬と、たらたらと赤いものが流れる太腿を引き摺ってそちらを見れば、 
 あたしを連れてきた二人組の片割れが、 
 場の中心、一際体格のいい、オオカミっぽい犬人間に猛然と殴り倒されている所だった。 
 
「よりによって顔殴る奴がどこにいやがる! ヒト奴隷はツラが第一なんだぞ!?」 
「…すっ、すいやせん、お頭っ、ご容赦をっ」 
 
 ――そいつだけ。 
 ――明らかに他の連中と雰囲気が違うのが、あたしにも判る。 
 周りを囲むイヌ達よりも、更に頭一つ分大きい背丈と、より筋骨隆々とした屈強な体。 
 そこを覆うのは銀色の、だけどどこか硬質で、近寄り難さを匂わす冷たい毛並みだ。 
 あの雑巾よりも更に鋭く険悪な目つきに、より切れ込んで尖がった三角の耳は…… 
 
 ……ひょっとしなくても、もしかして本当にイヌじゃなくてオオカミだとか言うんだろうか? 
 いや、あたし自身『イヌ』と『オオカミ』の正確な違いなんて、詳しくは知らないのだけれど。 
 だけど明らかに周囲の犬達よりも……孤高さ? 気高さ? 冷酷さ? 
 ……そんなものを漂わせて、長柄の重戦斧を背負ったその蛮戦士めいた巨躯は、 
 このオオカミ野朗がこの集団のボスなのだという事を、如実に語る要因ではあり。 
 
 
「ふふふ……珍しいわねぇ」 
「…っ!?」 
「……って、あら? …ねぇ、でもこの子、なんか女の子みたいよ?」 
 と、突然顎に手を掛けられ、思わず振り向いてギョッとする。 
 
 長キセルを片手に、チャイナドレスっぽい両脇にスリットの入った緑衣を着るのは、 
 ……髪の代わりに、頭部に鱗を生やした妖怪女。 
 妙に艶っぽい仕草で煙をくゆらせるその姿は、何か年季の入った熟女ぶりを感じさせ、 
 TVその他で犬耳猫耳の女の人を見慣れていたあたしでも、 
 この鱗女の登場には、ついつい驚きに目を見開く。 
 
「メスだとぉ!? てめぇ、人を期待させといてまたロクな儲けにもならねぇもん 
拾って来やがって! 拾ってくる前にオスかメスかも確かめられねえのか!」 
「うああああっ、お頭っ、勘弁をっ、ご勘弁を〜〜」 
 
     …メスか。  …なんだメスかよ…   オスに見えるけどなぁ…… 
 
 その声に、ざわざわと周囲から落胆の言葉が沸き起こった。 
 …足を怪我したあたしを地べたに引き摺ってここまで連れてきた二人組の片割れが 
 頭目らしき人物(犬物?狼物?)にボッコボコにされてるのは少しだけいい気分だったが、 
 ……それよりこの先、一体あたしの運命はどうなるのか、ふいに背筋がぞくりと。 
 捕まえてみても、売る価値がないとくれば、結果としてその先にあるのは―― 
 
 
 
「…あのぉ、待ってくださーい……」 
 
 ――と。 
 だしぬけに、群れ為す犬頭達の背後から上がったのが、その妙に幼く甲高い声。 
 両側に分かれた人垣を縫って、ぽてぽてと前に歩み出たのは。 
 
「ええと、その、ご師匠様からのお言葉ですが、『メスだからって馬鹿にはできない、 
少なくともこれ一匹でお前達の並の仕事十数回分の稼ぎにはなるはずだ』…って」 
 
 ――こんな状況じゃなかったら、ひょっとすると見惚れていたかもしれない。 
 色抜き染め粉ではこうはいかない、はらりと落ちる、地毛と思しき綺麗な茶髪。 
 そこに黄褐色というか薄茶色というか……はしばみ色? 
 それ系の瞳をおどおどと曇らせ、同時に同色の大きな耳をひこひこと揺らし。 
 
「見た所、メスと言ってもかなり若いみたいですし、容姿もまあまあ悪くない。 
それに加えて黒髪白肌は、ヒト奴隷の中でもかなりレア度の高い方ですから…」 
 
 天使の羽根がついた宝珠を先端に、それを迎えて白黒二つの蛇が杖部分に 
 絡みついた意匠の、なんだか玩具みたいな『妙な杖』を片手に持って。 
 背丈が足りず、裾をだぼだぼさせた純白のコートをずるずる引き摺る、 
 年の頃は10〜14の……『猫耳』と『尻尾』がついた、美少年。 
 
「ネコの……なるべくならシュバルツカッツェまで引っ張っていって直売りすれば、 
手堅い所8000、上手くいけば15000セパタの値は付くだろうとのお話です」 
 
 求め願っていたはずのものにこんな状況で出会う、運命の皮肉を思わず笑う。 
 ……本当に、惜しい話だ。 
 全身を駆け巡る激痛と、熱く熱を持った右太腿さえ無ければ、 
 あたしの事だ、『萌え!』と叫んで喜びに踊り狂っていたんだろうに。 
 
 
「15000セパタぁ? 冗談よしな、こんな小娘のどこにそんな値段が付くんだってんだ!」 
 
    …15000?  いや、だけど確実なのは8000って…  …にしたって桁が… 
 
 周囲のどよめきを代表するよう、頭目らしい大男が揶揄を含んだ大声を上げた。 
 セパタというのは……確か隣のネコの国の通貨だっけ? 
 
「……お師匠様のおっしゃるお言葉が、信じられないと言うおつもりで?」 
 そんな頭目の言い草が癇に障ったのか、ひょこひょこと頭目の方に向き直る猫耳君。 
 
「ハッ! …これから共働きしようってのに姿も見せねぇでおいて、 
そのくせ自分のマダラの愛妾使ってこっちの動きを逐一監視するようなジジィの、 
一体どの言葉を信用しろって言いやがんだよ!? ええ?」 
 相手が子供だからか、あるいは賊の頭目というプライドと職人気質からか、 
 せせら笑うような表情で売り言葉に買い言葉を返すのは、両手を組んだオオカミ男。 
 ニヤニヤとした口の端には、つっかかりとか、当てつけの匂いが感じられて。 
 
「…………」 
 そんな頭目の無礼に、無言でだが、けれど猫耳君の猫目がスッと細められる。 
 ……どうも色々複雑と言うか、あまり係わり合いになりたくない内情があるらしい。 
 あたしを完全に無視し、何やら険悪な空気がバチバチ高まってくのが傍目にも判る。 
 
 
 ――が。 
「はいはいマルコ、そ・こ・ま・で」 
 コツン、とキセルでオオカミ野朗の頭をはたいたのは、先だっての鱗女だ。 
 『姐さん』『姐さぁ〜ん!』等と、後ろからホッとしたような声が多数上がっている所を見ると、 
 ひょっとしなくとも、彼女がこの集団のNo.2なのだと見て取れる。 
 
「仮にも客人、それでなくも今回の大仕事の依頼主の使いなのよ? 
相手が相手だし、機嫌損ねたらただじゃ済まない事ぐらい判るでしょうに。 
それでなくたってこんな子供に八つ当たりして、みっともないったらありゃしない…」 
「なっ……ア、アイニィ、だがなぁ! 
俺らの稼業、ナメられたらお終いだって事ぐらいお前も―― 
 
「――お黙り」 
 
 ピシリ、と。 
 身の丈1.5倍もあろうかという大男と、その背後に控えた屈強な獣人達を、 
 そのただ一喝で黙らせる鱗の女。 
 …No.2どころか、集団の影の実力者を思わせる見事な采配っぷりだった。 
 
「…あんたらも見たでしょうに、関所丸々を一瞬で灰にした、あの大魔法」 
 しん、と静まり返った中に響く声。 
「…世の中にゃ、見栄張っていい相手と分の悪い相手がいるもんなのよ。 
魔法使い達の間じゃ、『ディンスレイフ』は確実にその一人。 
ネコやカエルに変えられたくなきゃ、あれを扱き下ろす言葉は慎むんだね」 
 
「そうだそうだー。お師匠様は世界最強の魔法使いなんだからなー」 
 よほど『お師匠様』とやらの事が好きなのだろうか、 
 猫耳君がうって変わって嬉々とした表情で、杖をブンブンしながら歓声を上げる。 
 それを見たオオカミ男はムッとしたようにそれを睨んだけれど、 
 即座に鱗女にジロリとねめつけられて、文字通り蛇に睨まれたように押し黙った。 
 
 ただ、そんな怖いお姉さんもどうやら子供には甘いらしい。 
 くるりと反転すると、途端に優しい顔をして猫耳君の目線に顔を合わせ。 
 
「…というわけで、ごめんなさいね? うちのバカはどうにも血の気が多くて。 
でもあれがバカなのはいつもの事だから、ボクもあんまり気にしないでね♪」 
「って、おいこらアイニ―― 
「うん、ありがとう、 『 お ば ち ゃ ん 』 っ ! 」 
 
 
…………(カラーン) 
 
 
「…………どう、いたしまして」 
 落っこちたキセルに。 
 ……少し、妙な沈黙があったような気もしたが。 
 
 こめかみを引き攣らせつつもムキにならない辺り、やっぱり大人の女だなあ、と。 
 痛みを紛らす思考の一環に考えてみて、脂汗にへらへらと笑う地べたのあたし。 
 
 ……こんな漫才を繰り広げている間にも、 
 見張りとおぼしき連中の何人かが、ちゃっかりあたしにも周囲にも気を配ってて、 
 なんだかんだで逃げられそうに無い事が、何ていうんだか、すごい腹立だしかった。 
 …ううん、太腿からタラタラ血を流してる顔面蒼白の怪我人を傍に、 
 平然とこんな漫才を繰り広げてる時点で、すでにマトモな連中じゃないのか。 
 
 
「ともかくっ、このヒトは連れて行く価値があるとお師匠様は判断なされました! 
仕事が終わるまで五体満足だったら、上乗せ報酬を出してもいいそうでーすっ」 
 口に両手を添えて猫耳君が大声で叫べば、 
 周りの二十人近い犬人間達は大いに盛り上がって歓声を上げる。 
 
 …それをどこか遠くの、どこか違う世界での盛り上がりなんだと、 
 そう言い聞かせていたあたしの耳を、唐突に一気に現実に引き戻したのは。 
 
「…ところでお頭、一つお聞きしたい事があるんでやすが」 
「なんだ?」 
 騒ぎの中で一匹のイヌが、おもむろに挙げた質問。 
 
 
 
「こいつの味見は……しても構わないんでしょうかね?」 
 
 
 
――背中に、氷を入れられたような感覚が走った。 
 
「なんでもヒトとのナニは、まるで溶けちまうような……」 
 視線が、一つ、二つ、…四つ、八つ、十を越えて。 
「他のとは比べ物にならないくらいの快感だって、もっぱらの噂じゃないですか」 
 もう一度あたしに、集まって来る。 
 
「バカだなテメェ、そりゃオスの尻の穴の話だろ―― 
「野朗の尻の穴でそんだけイイっていうなら」 
 厭らしいものを含んだ声色で、下衆な笑いを漏らしながらそいつが言う。 
 
「…オンナの方の前の穴がどんなもんなのか、試してみたいと思いやせん?」 
 
 
 ――夢だと、思いたかった。 
 ゴクリ、と唾を飲む音が、風に混じって複数聞こえてくるのも。 
 
 ――傷の熱にうなされて見ている、悪い夢なんだと思いたかった。 
 地に伏せた目の後ろ、向けた背の背後で、奴らが顔を見合わせる気配がするのも。 
 
 ――でも同時に。 
「……なんで皆、ボクの方を見るんですか?」 
 
 ――同時にもう一つの声が聞こえるのも事実だ。 
「…まぁ、そりゃ確かにお師匠様、おっしゃってますけど」 
 
 ――これがお前の望んでいた事なんじゃないか?、と。 
「『下手の素人や、入れられても痛がるだけの生娘はかえって値が下がるから、 
適度に閨事を仕込むのはオスであれメスであれ悪くない』…って」 
 
――そうだ、望んでいた事だろうが。 
――生殺し、中途半端に生かされて、憎む事もできない世界にいるよりは。 
――汚されて、穢されて、完膚なきまで叩き潰される方がまだマシだと。 
 
「そいつぁありがてえ」 
 それなのに、じりじりと自然な動きで、 
 退路を断つような形にあたしの周りを囲んでくるコボルトモドキ共に。 
 
「俺らがヒトを抱ける機会なんて、こんな時でもなきゃねえわけだし」 
 恐慌と、震えが込み上げてくるのは何故だろう? 
 
「……何より溜まってんだ、ここ数日ロクな女も抱かしてもらってないお陰でな」 
 
 自分の愚かさを責める、この気持ちはなんだろう? 
 
 
 
「…って、今ここでやるんですか? この寒いのに、お盛んなんですね」 
 何日かぶりかのオンナを前に、目をぎらつかせる野朗共を前にして、 
 呆れたように耳をカリカリするマダラの少年ネコ。 
「ははっ、コタツで丸くなるのが大好きな子猫ちゃんにゃ、ちぃっとばかし早かったか? 
…それとも何だ? こう寒くちゃ、坊主だとおっ立つもんも立たねえか? ッハハハ!」 
 女を抱いた事のない子供をからかう様な、輪の外縁に立つオオカミの男の嘲笑に、 
 マダラネコの少年は、黙してコメカミに指をあて、何を切り返すわけでもなく―― 
 
「……あら、どこに行くの?」 
 ――ふわりと踵を返して背後の林の中に消えようとしたのを、ヘビの女が呼び止めた。 
「……お師匠様がおっしゃるには、この先に良い温泉があるそうなんです」 
 『彼』の弟子たる少年は、くるりと振り向き、コメカミから静かに指を離す。 
「ボクとお師匠様は向こうで『楽しみます』から、そっちはそっちでお気になさらずご自由に」 
 
「っはは、なるほどね。…せいぜい温かいお湯に浸かりながら、 
優しいお師匠様に尻の穴でもほぐして貰―― 
「それより、おばちゃんはどうするの? 一緒に来ない?」 
 男の揶揄を無視し、しかも態度一変、マダラの少年は人懐っこく女の方に向き直った。 
 背後の忌々しげな舌打ちも気にしない。……中々のイイ性格である。 
 
「…残念だけど、あたしはこの馬鹿達が羽目を外して、あのヒトの女の子を 
うっかり壊しちゃったりしないよう見張ってないといけないからね」 
 さすがにもう『おばちゃん』にも動揺無く、煙をくゆらせて微笑するその姿は、 
 まるで目を離せない悪ガキ達を見張る保母のようにも慈悲深く。 
「…それになかなか楽しいものよ? ただ『黙って見てる』というのもね」 
 それでいて『今このような状況』においては、それは遥かに似つかわしくない。 
 
「……特にあの子、なんだか昔のあたしに似た匂いがするのよね」 
 
 ひたと見据えるその先には、例のヒトメスの若々しく張りのあるうなじがあり。 
 その凝視の源の真下を見れば、化粧でも隠しようない皺と弛みがあり。 
 ……全てを包容するような笑みの下には、気づくか気づかないかの、剣呑な光。 
 
「…ボクさ、このメンツの中じゃおばちゃんが一番まともだって今の今まで思ってたけど」 
 騒ぎの外で、ふいに少年が聞こえるか聞こえないかの小さな声を漏らした。 
「逆だね。……おばちゃんが一番、おっかないや」 
 
 相手によっては、クソガキが!という言葉が返されてもおかしくないその言葉に。 
「……ええ、そうよ? ……女はいつだって、男より怖いんだから」 
 女はキセルの灰を落としながら、うっとりとしたようにそう笑った。 
 
――騒ぎの最外の外縁で。 
――林の中へと翻る白コートと、真正面に視線を戻す饐えた女とが交わした会話。 
 
 
 
「……生意気なガキですね。ヨボヨボの爺さんのお稚児さんのくせして」 
 木々の合間に消えたその姿に、一人騒ぎの輪から外れた若いイヌが呟く。 
「こら、さっきマルコにも言ったでしょう? そんな事迂闊に言うもんじゃないって」 
「ですが姐さん」 
「ですがもだってもない」 
 一転して子供を窘めるような、例の独特の気迫を持った女の口調に、 
 …しかしこの青年は渋々と、何か言いたそうにしながらも従ったが。 
 
 …そんな相手の様子に、アイニィは懐から煙草の包みを取り出すと…… 
「――監視役には弟子だけつけて、本人は楽隠居かと思ったら、そうじゃないみたい」 
「へ?」 
「…関所を一瞬で消したあの魔法、間違いなくディンスレイフ本人が放ったものよ。 
あれだけの無茶苦茶、そこらの腕の良い魔法使い程度に出来て堪るもんですか」 
 
 新しい煙草を詰めながら、少しだけ眉を顰め小声で呟く。 
 隠形、動物変身、透体化……一体どんな魔法を使ったかは知らないが、 
 ともかく本人が何らかの形でこの近くに居ると、そんな確信を彼女は抱いていた。 
 …そう、現にあの少年も言っていたではないか、『お師匠様と楽しんでくる』と。 
 
 ディンスレイフ程の大物になれば、迂闊に衆人に姿を見せるわけにもいかない。 
 それが判っているのからこそ、彼女は頭目たるオオカミの男ほどには、 
 かの悪名高い大魔法使いに腹を立てる事はなかったのだが。 
 
(……ここまで見事に、存在感を消されちゃね) 
 あれだけの魔法を使ってみせる、溢れんばかりの力を持った存在が、 
 それとなく探りを入れてみた自分の探知の網に露ほどにも掛かる事無く、 
 完璧に気配を消して、この近辺に潜んでいる。 
 ……その事がどうにも彼女の劣等感を刺激し――自分が二流の魔法使いだという事を、 
 嫌でも思い知らされてしまうので、この蛇の魔女としては。 
 …どうしても彼の存在と合間見えてしまう事だけは、願って避けたいと思っていたのだった。 
 
――(…それでなくとも引っかかるのが、あの子の手にあった『あの杖』よね) 
――(気のせいだと思いたんだけど、でもあれってやっぱり……) 
 
 
 
「そんな事ないっすよ! 姐さんの魔法だって全然負けてないですって!」 
 だけど、思考を遮ったのは。 
 混じり気無しの、尊敬が籠もった強い声。 
「何ていうか、もうドカーンと岩とか! 砂とか! ボンボンぶっ飛ばして! 
えーっと、それにあれ、…確かゴーレムでしたっけ?」 
「……ジンよ」 
 手品を前にした子供の様な、およそ子供っぽい事この上無いその声に、 
 鉄火石でキセルに火を付けながら、苦笑と共に切り返す。 
 
 ――作れるのは『地』のみ。 こうやって自分のキセルに火を灯すのにも、 
 いちいち石を打たなければならないような、半端魔法使いだったとしても。 
「そうそうそれ! 姐さんだってそんな凄い魔法使いじゃないですか!」 
 このような輝きを持った目で見られるのは、悪くない。 
 故郷で村一番の神童と言われていたあの頃の心に、ほんの少しだけ戻れるから。 
 
「ねぇ、そんな事よりも、…貴方はあっちに行かなくていいの?」 
 ゆっくりと煙を吐いて、アイニィは目の前の青年に身をしな垂れ掛ける。 
 半変温たる彼女には、とても暖かく感じられる相手の体温。 
 質の良い香り煙草から立ち上がるのは、花の蜜にも似た蠱惑的な香りだ。 
「せっかくのメスのヒトでしょうに。楽しんでくればいいじゃない?」 
 
「え…、お、俺は…その…」 
 無駄に気位が高い上に、変に頭が切れて付き合い難い上流階級のイヌ達と違い、 
 同じイヌでも『雑種』や『賎血』、『貧民』と呼ばれる彼ら最下層のイヌ達は、 
 基本的には愚かで単純で……まぁはっきり言って、あまり頭の良い連中では無いが。 
「……姐さん一筋、だから」 
 …しかしその愚かさは、ヘビの彼女、アイニィには、決して不快な物とは映らない。 
 
 何故なら、彼らは確かにバカだけど。 
 ……けれど絶対に、嘘をつかない人種でもある。 
 悲しいぐらいに、愚直で、律儀で――… 
 
 …――向こうの人垣でも盛り上がっているのだろう、ふいに盛大な笑い声が上がった。 
「……こんな所でしちゃったら、流石に皆にあたし達の事が皆にバレちゃうから」 
 ねっとりとした口づけで、細長い舌でチロチロと口内をくすぐってやる。 
 年端もいかない小娘しか知らない若い身には、これはかなぁり刺激が強いはずで。 
「……続きは山を降りた後、宿を取ったら、たっぷりね…?」 
 こんな年上が相手でも、ぽうっとした表情でコクリと頷く姿は、やはり可愛いの一言だ。 
 
――全く、流石にヒトには負けるとは言え。 
異種族間の恋愛も、それ程珍しい話では無くなった今日日の昨今、 
やはり若いツバメにするのなら、イヌの雑種に限るというものだ。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 5 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
 ――キモチワルイと思う。 
 
「へっへっへ……」 
 狭まってくる輪の先頭にいるのは、あたしを引っ張ってきた二匹の一人、 
 さっき散々、『お頭』と呼ばれるオオカミ野朗に殴られていた間抜けな方だ。 
「見つけたのは俺らなんだから、当然一番最初に突っ込むのも俺ら二人だよなぁ」 
 気の早いのが既にズボンのベルトに手を掛けているのを見て、 
 あたしは慌てて、上げかけた視線を地面へと戻す。 
 
「おいおい、前と後ろと口とで、一度に三人は出来るだろ?」 
 ――キモチワルイ 
「バカ、両手も入れりゃあ一度に五人はいける」 
 ――キモチワルイキモチワルイ 
「…って、せっかくのヒトなのに手コキかよ! せめて口か尻かが最低条件だろ!?」 
 ――キモチワルイキモチワルイキモチワルイ 
 
「待て、待て」 
 だがそんな囃し声の向こうから、割って入る一ランク上の声。 
「ああ、お頭……って、のぉあっ!?」 
 蛮声の筆頭だった『間抜け』が、その声と共に横へと押し飛ばされる。 
 
 焚火の熱で溶けた雪を踏みしめて、外側から輪の中に割り込んできたのは、 
 例のオオカミめいた……マルコとか呼ばれていた、この盗賊団のボスだ。 
 周囲をじろりと睥睨し、ニヤリと漏らす笑みには不敵さというか、風格すらあり。 
 
「女を捕まえた時、まず最初に花を摘むのはオレだって決まりだろうが」 
「そ、そんな!」 
「お、お頭ぁ、んな殺生な…」 
「そうですよ、いくらなんでもそりゃあ…」 
 
「つべこべ言うんじゃねえ!!」 
 空気が振動したのではないかと言う程の、裂然とした恫喝。 
 ただその一声で周りの反論を黙らせ、ボスとしての威厳を示すと共に。 
「…安心しろや。 今夜も、そして道中もまだまだ長いんだ。 
お前ら全員、順番に一人ずつ、分け隔て無しに公平な分だけ抱かしてやるさ。 
そん時に前の穴でも後ろの穴でも上の穴でも、好きな所を使やあいい」 
 ……だけど飴を与える事も忘れない。 
 
「リデュー、アーバン、ベクテ、バロン、てめぇらは弓持ってしっかり見張りに立て」 
「お、お頭、なんで俺らが――」 
「馬鹿がっ、寝惚けてんのか!? まだここら辺は国ざかいのナワバリがあやふやんトコだ、 
国境警備のハウンド《軍の犬》共だけでなく、ビレトゥスの糞共や狼国の偽善者気取りにも 
因縁つけられっかも知んねえんだぞ!? 分かったらとっとと持場につきやがれ!! 
……それでシディア、てめぇはそこらの木切れで人数分のクジでも作ってろ。 
猟犬共を振り切っといて、ヒトの取り合いで仲間割れなんて洒落になんねえからな!」 
「へいっ! 了解でやすお頭っ!」 
 
 ……なるほど、これが『イヌ』の――『群れ』のリーダーというものかと。 
 蛮獣そのものの見た目と違い、言葉尻こそ乱暴でも手際良く命令を下すのは、 
 伊達にイヌ達と束ね上げ、小集団内の王として君臨するだけはあるのだろうとも。 
 ……あるのだろうとも、思うのだが…… 
 
「さて、可愛い嬢ちゃん」 
 ――それでも ザッ、と音を立ててあたしの目の前に立ったそいつの姿は。 
 
「…お楽しみと、いこうじゃねえか」 
 ――あいにく野蛮なケダモノ以外の何者にも見えない、蛮獣野獣、そのものだ。 
 
 
 
「へぇ」 
 グイと顎を持ち上げて、俯いたままのツラを上げさせてみれば。 
「良い目だねえ、嬢ちゃんよ」 
 ヒュゥ♪、と感嘆の口笛も漏れる。 
 毛は黒いのに肌は白く、珍妙な耳に角も無ければ尾があるわけでも無し。 
 加えてお世辞にも『上』とは言えない、小便臭いガキの面構えだったが。 
 
 全体的に丸みを帯びた童顔、幼さの残る柔らかな顔立ちに。 
 けれど瞳の中にあるのは、燃え上がらんばかりの強い意志と気概の色。 
「……さしずめウサギの顔形に、ネコの魂ってところか」 
 なるほど、『その手』の趣味がある人間には、実に堪らない代物だろう。 
 きっと適度に反抗し、適度に無駄な抵抗をしてくれて。 
 事実彼自身、飼っていて実に楽しめそうな、躾けがいのある子猫だとも思う。 
 ――思うが、やはり何よりも、 
 
「へっ、…やっぱオンナ犯るったらこうでなきゃな」 
 抵抗も泣き叫びもしない女を抱くのだったら、そこらの宿場でも出来るのだ。 
「ほら、黙ってねえで、何か言ってみな? え?」 
 ギリギリとこちらを睨みつけながらも、よく観察すれば地についた両手は震えている。 
 うっすらと泣き腫らした跡のある目は、知っててやってるのか、酷く扇情的だ。 
 では果たして、そんな口から出るのは、恨み言か、命乞いか。 
 自然好奇心を掻き立てられた彼が、ぐっと顔を近づけてその顔を覗き込むと。 
 
「――近づくんじゃねえよ、雌じゃないのに盛りつけてるようなカマ犬が」 
 
 
 
「近づくんじゃねえよ、雌じゃないのに盛りつけてるようなカマ犬が」 
 そう言った瞬間、周りの空気が停止するのが判った。 
 
――負けるもんか。 
「臭いんだよ、口臭酷い。あんたのツラって犬の小便みたいな匂いするわ」 
 でも、他のヒト達から見られたら、馬鹿だねえと笑われる事でも。 
 何意気がってんの、そこは素直に従うトコでしょと、そう言われる場面であっても。 
 
――負けるもんか。 
「入れる穴さえありさえすりゃあ、イヌでもネコでも、ヒトでもオッケーってんなら、 
最初から後ろにいる、あんたの子分共のケツでも借りてりゃいい話じゃない。 
そんな簡単な事も判らないだなんて、意外と頭悪いのね。 …馬鹿じゃない?」 
 
――負けるもんか。 
 
 負けない。負けない。絶対に負けない。 
 こんな連中が相手だからこそ、尚更あたしは負けるわけにはいかない。 
 
 ……あたしが負けたのは、『あいつ』に対してだけだ。 
 ……あたしが心を許したのは、『あいつ』に対してだけ。 
 『こいつら』に対してなんかじゃない。 
 こんな『犬畜生』の、心根の腐ったような『ケダモノ』共に対してじゃない! 
 
     「うわ…」  「よ、よりによってお頭に…」  「ありゃ殺されるぜ……」 
 
 そんな囁き声を背後に、怖くなかったと言えば嘘になる。 
 …むしろ怖い。死ぬほど怖い。 
 ともすれば震えそうになる語尾を必死に抑えなくてはいけなかったし、 
 しっかりと奥歯を噛み締めていなければ、途端に奥歯がガタガタ言い出しそうで。 
 なのに一体お前は何をやってるんだと言われても。 
 それでも。 
 
――なのに。 
「ッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」 
 哄笑が。 
 あたしだけでなく、背後の手下共まで驚き身を竦めるような、唐突な哄笑。 
 夜気を切り裂いて、仰ぎ見る双月に投げかけられる、高らかな笑い。 
 
「……いいね、いい、実にいいぜ、嬢ちゃんよ、最高だ!」 
 ゲラゲラと、余程おかしかったとでもいうのか。 
 涙さえ浮かべて、あたしの顎に掛けた手へと頭目の男は力を込める。 
「なる程、こいつがヒトか! こういうのがヒトか! はは、なるほどな、道理で」 
「……っく!」 
 そのまま服の襟へと落とされた手が、ぐいと上へのベクトルを持った。 
 重力に引かれて、襟首が締まる。 
 荒々しい毛並、凶悪なくらいの太い腕に、あたしは軽々と宙吊りにされる。 
 …そこにぶつけられるのは、掘り出し物のオモチャでも見るような、好事家の目。 
 
 ――歯牙にも掛けられていない。 
 ――完全にコケにされている。 
 …そう分かった時、胸の中がカッと熱くなり、奥歯に込められる力が増した。 
 
 喜ばせる気で言ってやったつもりなどこれっぽっちも無かったのだが。 
 だけど冷静に考えてみれば、殺戮、略奪、陵辱、破壊。 
 …そのような場面を、何度も目の当たりにし、また当事者となってきたこの男に対し、 
 あたしみたいな何の力も持たないヒトのメスの罵詈雑言が、 
 どれだけの効果を持つのか、……むしろ喜ばせるだけではないかとも。 
 ……それでも。 
 
「ウサギほどの体力も無くて、トラほどの魔力も無い癖に、 
魂の強さ輝きだけはネコ以上と来てやがる! …いいねえ、ますます気に入ったよ。 
そのちっこい体に似合わねぇナイスな悪垂れ口も、顔に似合わない気の強さも」 
 ……震える肩を抑えて、睨むしかできない、そんなあたしを。 
 傲慢不遜、下卑た笑いを口の端に上らせながらも、群れの頂たる覇将の風格で。 
「気に入ったが――」 
 
 
――アニメや漫画の中だけだと思っていた。 
 
――平均で60kg近く、女の体でも40kgある人間の体が…… 
 
 まよこに ふっとぶだなんて 
 
 
 
 喉輪を締め上げられた手が突然離されたと思った瞬間。 
 丸太みたいに筋骨隆々とした脚による回し蹴りが、轟然とあたしの腹に叩き込まれた。 
 
「……ッがアっ!!?」 
 
 飛んで。 
 背中から、大木の幹に叩きつけられる。 
 喉から、声にならない、絶叫が。 
 
 胃の中のものが、逆流する。 
 肺の空気が、全部出たのが分かった。 
 
 何よりも、頭が真っ白になる程の。 
 内臓が破裂したんじゃないかと、そう思ってしまう程の。 
 
 叩きつけられたリバウンドで、前につんのめって。 
 膝の矢傷、後頭部、背中、お腹、肺に内臓。 
 体の中を荒れ狂う、四重奏に、五重奏。 
 立っている事も出来ない、膝から崩れ落ちそうな。 
 
「――それと、躾けのなってるなってないは、また別の話だ」 
 
 そこを更に髪を引っ掴まれて。 
 
 引き摺り倒されるというよりは。 
 もう地面に叩きつけられると言った方が正しいような。 
 それくらいの力で。 
 
「――ッっぁ!!」 
 
 バチンと。 
 まるで三,四階から、コンクリートの地面に叩きつけられたかと、思ったくらい。 
 焚火の熱で溶けてザラメ状になった雪が、全身をしたたかに打ち擦る。 
「……それと俺は【イヌ】じゃねえ」 
 擦り傷。刺し傷。打ち身。しもやけ。凍傷。吐き気。 
 寒い。熱い。痛い。辛い。痛い。苦しい。痛い。吐く。吐く。吐く。吐く。 
「純血純正の由緒正しき、ルクディアンサに連なる【オオカミ】の血統だ」 
 
 
 
「…ゲエエッ、げっ、ガッ、がアゥあ、ぅ、っゲエえエエエッ! ゲボッ、げボっ!」 
 
 イモリみたいに這いつくばったままで。 
「ガハっ、ゴほっ…うエ、…うあ、うあぁ…ぅあぁあぁぁ……グッ、ガあアアアぁっ!!」 
 朝食べたもの、昼食べたもの、さっき食べたもの。 
 全部全部、雪の上へと吐き戻した。 
 
 えずいて、えずいて、えずいて、えずいて。 
 出るのが胃液だけになっても、もう全然止まらなくて、体が、壊れたみたいに。 
 内臓が破裂……してたら、そもそもこんな事考えてる余裕すらないんだろうが、 
 だけど破裂したんじゃないかと、そう思ってしまうくらいの鉛のような。 
 
「っははははは、おい、どうしたんだ? ん?」 
 …そんなあたしの頭の上から、投げかけられる声。 
「小便臭いツラなんてお断りなんだろ? なのに自分でツラゲロ臭くしてどうすんだよ」 
 そんな言葉に唱和するように、その向こうからドッと沸き起こる笑い声。 
 
 ……ああ、これが、違いかと。 
 『ヒト』と、『オオカミ』――ううん、『ヒト』と、『それ以外』との違いかと。 
 
 パワー、タフネス、スピード。 
 その全てが人間より上で、そのうえ更に魔法と呼ばれる超常の技を使う個体までいる。 
 ……勝てるわけがない。 
 ……勝てるわけがないんだ、弱いが故に、奴隷でしかないヒトの身では。 
 
――でも、それでも。 
――それでも、あいつは。 
――雑巾は。 
 
 
「ははははははははは……は……」 
 オオカミ野朗の爆笑が、どうして唐突に途切れたのかは知っている。 
 
 頭が痛くて。 
 喉と口の中は逆流した胃液でガラガラ。 
 吐き気は収まらず。 
 両手はガクガク、呼吸は乱れ、肩のブレも消えず。 
 射られた右太腿は、もうほとんど感覚がマヒして動かなくて。 
 真冬の寒気と雪に接した肌は、あちこちでシモヤケになり赤くなっていたけど。 
 
「…………」 
 這いつくばって、口の周りを吐瀉物まみれにしてうずくまったまま。 
 ありったけの力を目に込めて、あたしは目の前のケダモノを睨み上げてやった。 
 
 
 ――八ヶ月前の、落ちて来たばかりのあたしだったなら。 
 正直ここまでは頑張れなかっただろう、この時点で既に尻尾を振っていただろう。 
 …だけど今のあたしには。 
 『この八ヶ月間』が、確かに此処に在る。 
 
 ……笑うな、と言いたかった。 
 あいつと似たような姿形をして、そんな下卑た笑い声を上げるなと。 
 ……その目を止めろ、と言いたかった。 
 あいつと同じ、見た目はキツい目つきの中に、昏い炎を燃やすのは止めろと。 
 『人』を『ヒト』とも思わない、虫けらでも見るような目をするのは止めろと。 
 
 それが許せない、許せない。 
 ……そしてだからこそ、負けられない。 
 
 弱くて、力も無くて、何の役にも立てない、そんな『ヒト』という存在に対し。 
 あいつがあたしに向けてくれた、あの優しさの為にも。 
 あいつがしたかった事、あいつが信じたかった事の為にも。 
 ただ一人、あたしを自由に出来る資格があるとするなら、それは―― 
 
 
 
 ――ぞわりと。 
「……おい、お前ら……」 
 上がった声の冷たさに、僅かに残っていた周囲の笑声すらやんだ。 
 
「…わりぃなあ、あとで順番に一人ずつ、十分なだけ抱かしてやるって言ったが……」 
 ウェアウルフ《狼男》どころか、トロール《石鬼》やオーガ《獣鬼》と見間違う程の巨躯から。 
 ……吹き上がるのは、ぞっとするような恐怖と冷気。 
 
「どうやらそいつは、当分オアズケの話になりそうだ」 
 前言を翻すような自分達のボスの言葉に、だけど周りの誰も文句を言おうとしない。 
 ……文句を言わせないだけの何かが、その場を完全に支配していたのだ。 
 
「……こいつは、俺が潰すわ」 
 ジャリ、と溶けた雪を踏みしめて歩み出る音。 
 そこに収まった両眼は、冬の空に浮かぶ上空の二つの月よりもなお冷たく。 
 瞳中に踊るのは、もう嘲笑と愚弄の赤い炎でなく、嗜虐と征服欲に彩られた蒼い焔。 
 遊び半分でのなぶり殺しから、本気での組み伏せにモードを変えた貪狼の目。 
 
「――俺が、モノにする」 
 
     「……あーあ、お頭、完全に本気になっちゃったよ」 
     後ろの方で、囁くような声があがる。 
     「バカだな、あのヒトメス。……俺しらね〜っと」 
     哀れむような、同情するような。 
     「処女喰い、巫女喰い、清女喰い……好きだよねえ、お頭も。……キキッ」 
     それでも好き者がいるのか、歪んだ笑い声も。 
 
 
「躾けてやるよ、骨の髄までな、可愛い子猫ちゃん」 
 ギラギラと輝く鋭利な氷の眼差しに、洗練されたものを与えるのは狂気の光。 
 心底楽しそうなものを含んだ、知性を持つ者独特の闊達な声。 
 なまじ『知恵』を持つがこそ、ともすれば四足たるケモノよりも尚性質の悪い。 
 
「オトコ無しじゃ生きられねえ体にしてやる。種汁好きのアバズレにだ」 
 ――負ける、もんかと。 
 そう誓ったばかりのはずなのに、歯の根が噛み合わず、カチカチ鳴るのは、何故なのか。 
 
「てめぇの腐れマンコにくっさいチンポぶち込まれながら、 
ケツ突き出しながら『こくまろちんぽミルク注ぎ込んで』って叫び声上げて、 
おいちぃおいちぃって言いながら野朗の肉竿しゃぶるようになるまで、な」 
 ――冗談きついんだけど、と。 
 ――…そんな憎まれ口一つ出ないくらい、喉が凍ってしまうのは、何故なのか。 
 
 
「雪山は好きだぜえ? 冬の雪山はよ」 
 
 カチャカチャとベルトに手を掛ける音を立てながら、 
 前髪を掴まれて、ぐいっと顔を持ち上げられる。 
 
 ――しない 
 
「それが白くて、険しくて、誰も頂上まで登った事のない程高い山だったら、尚の事いい」 
 
 ――ぞうきんは そんな いまのおまえみたいな かおなんかしない 
 
「……そういう山こそ、『乗り甲斐』があって堪んねえのよ」 
 
 ――かおなんか しない 
 
 
 
< 続→【転の事-2】 > 
 
                                       【 狗国見聞録 転の事-1 】 
                           〜 そこは蛇の北東、猫の北、狐の北西、狼の南 〜 

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