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 周囲のあちこちで、パチパチとはぜる火。 
 
 どん、と地面に放り出されるという事はなく。 
 崩れ落ちる砂、蟻地獄の流砂に乗っかるような形で、あたしはずるずると、 
 崩れゆく土人形に座り込むような格好、地面へと降ろされつつあった。 
 
 あたしの視点からして見れば、雑巾の姿が揺らめき消えたと思ったら、 
 気がつけば崩れ落ちる鱗女の隣に佇むその姿があった、としか見えなくて。 
 
――ああ、でも。 
――問題なのはそこじゃあなく。 
 
 
 即座に踵を返した雑巾が、炎と死体と残骸の中。 
 何かを見回したと思ったら、おもむろに屈み込んで。 
 
 ……比較的使用と損傷が少ないと思われる、手ごろな両刃のロングソードを。 
 
 
――その瞬間、雑巾が何をするつもりなのか 
「……やめてよ」 
――なんでだか、一瞬にして分かった。 
 
「…もういいよ、ぞうきん、やめようよ……」 
 体が小刻みに震えるのは、もう痛みと寒さと恐怖だけのせいではないだろう。 
 相手は、あの鱗の女はもう気を失っている。気を失ってしているが…… 
「…もう十分だから。…ね? だから、もうやめよう…?」 
 長剣を右手に近づいてくる雑巾に、けれどその言葉はとても虚しい。 
 …雑巾の顔は、あの無表情から少しも変わってはいなくて。 
「いいよ、もう、もういい、…だめだよ、もうたくさん、…たくさんでしょっ!?」 
 歩みは止まらない。止まらず、歩は進められ、やがて横たわる緑色の傍ら。 
 意識を喪失し、けれどまだ生きている相手に対し。 
「だめ……ぞうきん、だめぇっ、だめだよぉっ! もう止めて! お願いっ、お願…… 
 柄を握り、逆手、切っ先を首筋に定めて掲げ上げられた長剣。 
 
「やめてぇぇぇぇぇぇ――――…………ッ!!」 
 
 
 
 どちゅっ と。 
 
 …始めてあたしの耳にも聞こえた、生々しすぎる湿ったような音。 
 ひっ と息を漏らして身を竦めたあたしの目に、けれど後頭部から首、背にかけての 
 鱗の部分を避けるようにして斜め、……延髄の辺りに向けて、抉るような一撃。 
 …突き裂く、なんてそんな優雅なものじゃない。 
 鉄の杭を捻じ込むような、そんな叩きつけられた鋭利な鋼の先端に、 
 気を失っているはずの女の人の体が、…多分反射か何かなのだろう、ビクンと痙攣し。 
 
 そして引き抜かれた切っ先に連動しての、何か違和感を感じさせる全身の『緩み』に。 
 
 ……もう『終わった』のが、素人であるはずのあたしの目にもよく分かった。 
 
 『殺す』というより、文字通り『壊す』という方が正しいような剣。 
 『いかに二度と動き出さないようにするか』、ただその点にだけ的を絞ったような剣。 
 それを振るうのは…… 
 
 
 
 ぱちぱち ぱちぱち と、火のはぜる音。 
 暗闇を払った頭目の最初の一撃の時に、荷物の中の油か何か、 
 あるいはそれを含んだ毛布に引火でもしたのだろう。 
 山火事になる気配はないが、それでも溶けた雪、水溜りの上に踊る火は幻想的で。 
 
「…なん、で……」 
 泣き腫らした目で、呆然とつぶやくあたしに対して。 
 
「――何故?」 
 同じように幻想にすら見える、相変わらずの現実感を喪失した雑巾の姿、 
 立体映像、投影されたホログラフのような『それ』が呟く。 
「…決まっている、『害悪』だからだ」 
 そこには罪の意識や苦渋の色すらなく、生命を殺めた事への心の重みも無い。 
 …本当に、能面をつけた機械が、ただ音声を出しているような、そんな印象を受ける姿。 
 
「殺人、傷害、強盗、窃盗、強姦、放火、…そしてS級国際犯罪者への供与従犯。 
こいつらは各々が皆、二度三度死刑にしても足りぬぐらいの罪状を持っていた。 
加えて、【特一級捕縛命令】は左軍・右軍の両要員に礼状無しでの誅殺権限を―― 
 
「…ち……がう…」 
 気持ちが挫けそうになるのを堪えながら、それでもこいつの言葉を遮り断ずる。 
「…そういうの……聞いてるんじゃ、ない」 
 命令だからとか。法律にそう書いてあるからだとか。許可されているからだとか。 
 …そういう事を、『何故殺していいか』とその根拠及び許可権原を聞いてるんじゃない。 
 
「……なん、で」 
 音も無いのにコートの裾が風に翻う、そんな光景は実際奇妙なものだったが。 
 だけどそれがどういう原理なのかを聞く前にも、まず。 
 
 
「…だから、『害悪』だからだ」 
 ……だけど、またしても届かなかった。 
 
「こいつらは、社会を害した」 
 …そういう事を。 
「秩序を、害した」 
 …そういう事を聞きたいんじゃないのに。 
「全体を、害した」 
 …『あの』雑巾の口から、そんな言葉が出るのを聞くのは、とても辛かった。 
 
「公共の福祉に逆らい、集団生活の協調と調和を乱し、他人の財貨法益を違法な手段で害し、 
義務をまっとうせず、他者の権利を剥奪し、そのくせ自らの権利は振りかざし、 
よって法の絶対性、またル・ガル王制公国への国民の信頼と、他国への威信をも辱め……」 
 言っている事は、全て『正しい』。 
 全て正しい『道徳規範』、全て正しい『社会秩序』、全て正しい『当然の概念』であって。 
 …でも、だからこそとても、…とても異常だった。 
 
「……何よりも、【善】に、【正義】に、殺さず盗まず傷つけずの【道徳】に反旗を翻した」 
 ──暖かさが、少しも無い。 
 確かに善・正義・道徳ではあっても、その元にあるはずの心や肉が欠片も感じられない。 
 
 そう、さながらそれは、 
 『正しい事は正しい事だから正しいのであって、だから守られなければならない』という風に。 
 そんな、まるで1+1は必ず2であるというような、数学の世界にも似た無機質さ。 
 0か1かでしか判断できない、アナログではないデジタルの世界。 
 とても理路整然としていて、究極絶対の真理の公式を表すのに最も適した世界であり…… 
 ……だけどだからこそ、『理論』『法則』という名の『詭弁』にしか聞こえない。 
 
「周囲に『益』を生まずに『害』のみ及ぼす。社会に『利』を生み出さずに『損』のみ発する」 
 あまつ、利益、損害だなんて。 
「許容限度外の損失発生源、…『排除』・『除去』されて然るべきの、社会不適合者達だろう?」 
 
 …『社会』は、そんな数字ゲームで表され得るもの? 
 常に黒字を生み出す生産ラインは優遇されて、逆に赤字しか生まないラインは冷遇され、 
 一定期間・一定以上の赤字でもって廃棄される、そんな工場経営にも似たものなのか? 
 ……『害』しか生み出さない『命』は、排除されても誰にも文句を言えない? 
 
 
――違う 
――違うと 
 
 
「…なん、でえぇ……」 
 ボロボロと涙を零しながら、気がついたら問いかけていた。 
 
「…なんっ、でッ…、……なんでええぇぇぇ…ぅ、ぐずっ」 
 …殺されかけて、犯されかけた身で、こんな事を言うのは分不相応なのかもしれなくても。 
 ぼろぼろ泣きながら、鼻水を垂らしすすって言うような事じゃ、ないのだろうけど。 
 
 ――…でも。 
 ――じゃああの哀しみは、なんだったのか? 
 ――土人形に頭を握られた時に、流れ込んできたあの感情のうねり。 
 ――自分への憤り、相手への怒り、社会への憎しみ、失われてしまった仲間達への愛。 
 ――そしてそれら全てを覆い尽くして染め上げるような、哀しみ、哀しみ、また哀しみ。 
 
 ――害とか、益とかじゃないだろと。 
 ――0と1だけじゃないだろと。 
 ――…心は。 
 ――…心はどうなる? 
 ――とても哀しい出来事から、自らも哀しい存在になってしまった者は、どうなる? 
 ――とても不幸な出来事から生まれてしまった、不幸な存在は―― 
 
 
 …だけど、それを見透かしたように、今の雑巾は。 
 
「――哀れであれば、何をしてもいいのか」 
「っ!!」 
 まるで突き放すように。 
 
「不幸であれば、盗んでも、殺しても、傷つけても、許されるのか」 
 無機質に、機械の言葉で。 
 
「飢えた兄弟を養う為に、通りがかりの一般市民を殺して財布を奪った貧民の子イヌは、 
子供だから、生きる為には仕方なかったからという理由で、減罪されうると?」 
 正論を。 
 
「強姦されたショックで正気を外し、結果男という男を裏路地に引き摺り込むようになり、 
無差別通り魔殺人を繰り返すようになった哀れな狂人の女は、狂うが故に無実?」 
 間違いなく正論を。 
 
 
「哀れなら、何をしてもいいと?」 
「ちっ…」 
 …だけど、冷たい。 
 
「可哀想なら、何をしても仕方ないと?」 
「ちがっ、ちが――」 
 冷たい。冷たい。冷たい。 
 
「…つまり、殺され・奪われた側である善良勤勉な市民の『命』の重さは、その程度のだったと? 
犯人が不幸で、哀れであれば、罪の減免の為に簡単に秤に乗り得る、その程度の重さだと?」 
「――っっっ!!」 
 
 
 ちがう、と 
 そんなことを言いたいんじゃないのに、と 
 
 …でも、じぶんはいったい誰と話しているんだろうと 
 そんなおもいにも、駆られてやまない。 
 
 何よりぞうきんが、あのぞうきんが 
 こんなにも冷たく氷のようだという、そのことが一番 
 
 
「ちが――「「…殺めた命は百を越え、いまさら更正の見込めるような相手でもない。 
ここでこいつらを排除しなければ、この先更に多くの命が失われていたのは明白だ」 
 正しい。でも。 
「ちがう、そうじゃ――「「ならば『百』の命が失われる前に、『二十七』の命で」 
 正しいが、どこまでも。そして。 
「ちがっ……「『千』の財貨が奪われる前に、『二十七』の命でもって終止の符を」 
 どこまでも硬く冷たく。だけどあたしは。 
 
 …経済学の、世界だ。 
 『-100<-27、-1000*0.1<-27、よって得られる利益の中で、最大のものは-27だ』と。 
 『それ以外はただ損失を拡大するだけだから、だからそれを選ぶのだ』と。 
 …一つの命が、ただ+1という記号数字でもってのみ表される、ただ数字の大小の世界。 
 
 …『正義』という、『善人』という言葉を聞いた時、世の誰もが少なからず思うだろう。 
 軽々しく『正義』を口にするなと。軽々しく自分は『善人』だなんて名乗るなと。 
 世をひねた、嘲笑の目で見る者達など、おこがましいとさえ、偽善者とまで罵るだろう。 
 真の善などこの世に無いと。正義なんてものも結局は個人のエゴを基とするものだと。 
 
 でも、と。 
 ならば、と。 
 そのような善と正義を否定する者達に対し、「ならば」と作った者達が居たのだろう。 
 …誰も文句を言えない様な、究極絶対の純粋正義、純粋善を。 
 
 
「更なる『害』が生まれる前にその源泉を。次なる『損』が生まれる前にその根源を」 
 完全完璧な理想形の【善】。 
 完全完璧な理想形の【正義】。 
「…排除し、除去し、それによって被害が拡大する事を防ぎ、損害の量を最小に留める」 
 余分な泥、余分な肉を、全てことごとく削ぎ落とされて。 
 99.99%まで純度を高められた、純粋氷晶のような【善】と【正義】に。 
 …でも、そこに『哀しみ』の存在余地は? 
 
「社会全体における、実現可能な最大の利益、最小の損害。最大の幸福、最小の不幸」 
 完全に平等、完全にえこ贔屓無し。 
 10の損命よりも1個の命で、100の財貨よりも1個の命で。 
 終わらせ、済ませ、それで問題無しとして。 
 『総体としての全体の意識』に、数字で表されうる『社会全体の損益』にのみ乗っ取り。 
 全ての個を排して、『相対的社会規範』、ただそれだけに従い動き。 
「それを目指さんが為、その為にあるのが、法であり、秩序であり、正義であり――」 
 でもそれは。 
 
 
「――そして、それが全てだ「「……だまれ」 
 そこには、『心』が。 
「だからこそ正義は害悪に対しては容赦「「…だま…れぇぇぇっ…」 
 
 ――確かに、それは完全完璧な【正義】だろう。 
 誰にも文句の言わせない、差別やえこ贔屓無しの究極【正義】。 
 
 たとえ相手が、自分の育ての親だったとしても、死刑犯罪者と分かれば迷わず殺し。 
 相手が子供であろうと、狂人であろうと、死刑犯罪者だからと躊躇わず殺し。 
 相手が女、自分を愛してくれた恋人とあっても、社会の害悪と判れば、次の瞬間殺す。 
 えこ贔屓なし。どこまでも平等。社会の為に。全体の利益の為に。 
 『なぜならばそれが正義だから』と、その他全てを轢き潰し、ただ正義の故に実行される。 
 
 
 ――だけど、けれどその『剣』は。 
 
「何を勝手な期待を。悪には鉄槌、それこそが正義「「だまれえ…っ!」 
 
 ――肉を持ち、心を持った、一人の人間が振るうには余りにも。 
 
「この身はただ全体の意思の、『相対的社会規範』の「「だまれえッ!!」 
 
 ――『総体としての社会の意思』。そんな重すぎる完全の『剣』、不完全な一人の『個人』に。 
 
「『仕方のな――「「だまれええええっ!!」」 
 
 ――振るえるわけがないのだ、扱えるわけがないのだと。 
 ――今のあたしには、判っていて。 
 
 
 
 ……だって。 
 
 ……『逃げている』のが、判れたから。 
 
 
 相変わらず、無表情、無感情な声で、淡々と、まるで機械のような音声で。 
 …初対面なら、まず判らなかっただろう。 
 付き合いが薄かったら、『化け物め』の一言を感想に、そこで全てを終わらせてただろう。 
 
 ――だけど、次第に早口に。 
 ――まるであたしの反声を塞ぎ遮るかのように、どんどんどんどん、矢継ぎ早に。 
 
 …かつてあたしが、そうしたように。 
 必死に壁を打ち立てて、あたしとの間に幾層もの、分厚い石の壁を作り立て。 
 その間に奥へ奥へと逃げ込もうとしている雑巾の姿が、でも、あたしの目には。 
 
 
「……仕方ないんだ。…社会というのは、そういうものだから」 
 相変わらずの、無機質無情の声に表情。 
「『オレ』達はケダモノじゃあない。…野を四足で駆け回るような、野獣じゃあない」 
 ――だけど確実に、『揺らいで』来ているのがあたしには分かった。 
 
「イヌであり、ネコであり、故に社会を作り構成し営み、集団生活を営む『人間』だ」 
 本当に言葉の端々、分からないぐらいの微妙な差。 
「でも、そうやって沢山の人間が集まって、アイデンティティあるコミュニティーを形成する時。 
…どうしても、どうやっても、どれだけ防ごうとしても、それでも生まれてしまう『もの』がある」 
 例えばいつの間にか、 
 『この身』『我々』から『オレ』『オレ達』に変わった一人称。 
「誰もが、みんなが、全員が幸せになりたいと望む結果、どうしても生まれ、生じてしまう『もの』」 
 例えばいつの間にか、宣誓文めいた文調が、ほんの少しだけだが。 
「軋轢と、ひずみ。競争に勝てた者と、勝てなかった者。…運の良い者と、悪い者」 
 そしてその中に生まれた―― 
 
 
「…そこから生まれるんだ。哀しい、哀しい、けれど社会の毒でしかない、『哀しい者』が」 
 ――否定していたはずの、『哀しい』という単語。 
 
「…みんな、みんな、弱いから。…決して必ず、強くは無いから」 
 ――胸が苦しいかのような、その詰まり。 
 
 
「飢えたか、壊されたか、奪われたか、害されたか、…あるいは守り切れなかったか。 
哀しみに捕われ、哀しみに飲まれ。溢れる哀しみを、己の内に留め切れなくなった者が」 
 人間なら。ケモノでないなら。ケダモノでないなら。 
「…故に『怒り』と『憎しみ』の炎を、自分一人では操り吹き消す事ができなくなり。 
あるいは膨らみ腫れた『妬み』『嫉み』を、己が理性正気の範疇に抑え切れなくなり」 
 それが生きる時、心が生まれる。 
「またある者は、『力』への渇望、『金』への渇望、『愛』への渇望に、完全に執心し捕われて。 
…そして『絶望』と『狂気』に、自分以外、世界の全てを壊してしまわずには居られなくなる」 
 それが生きる時、社会が生まれる。 
 
「…この哀しみの性質の悪い所は、悪性の病原体のように『伝染』する事」 
 次第に言い訳がましくなって来た言葉の内容を。 
「哀しみに哀しみへと変えられた者が、その哀しみ故にまた別の他者を哀しみに変える。 
…最初に奪われ、壊された者が、それ故にまた奪い殺すようになり、それがまた別の…」 
 だけどあたしは、責められなかった。 
「……腐敗のように、壊疽のように、際限なく。一つの哀しみがまず周囲を侵し破壊し。 
……それに耐え切れず飲み込まれた者が、さらにその周囲に哀しみの矛先を向け…」 
 傲慢とも言える、その内容を。 
「…だから『誰か』が」 
「切り捨て」 
「切り落とし」 
「除去し」 
「排除しなければいけない」 
 だけどあたしは、非難できなかった。 
「…最大の利益、最小の損害の為に、哀しみという名の、毒を、害悪を、滅ぼす者が」 
 
  哀しい。 
  哀しい。 
  だれもが哀しい。 
  生まれてしまった憎悪の焔に、壊さずにはいられなくなってしまった者も。 
  社会の軋轢に押し潰されて、滅びに向かわざるを得なくなった狂人も。 
  みんなが哀しく。 
  とても哀しく。 
  ……だけど一番、哀しい者は? 
 
「もちろん、癒されるべき者も、救われるべき者も、治療されるべき者もいる」 
 目の前にいるのは、立体映像たる殺人マシーン。 
 黒衣を纏った、在るのに在らじ、命を刈り取る【グリムリーパー《死神》】 
 あらゆる敵を屠殺し廃する《国家の犬》、《秩序の剣》の代行者。 
「…だけど同じ位、もう手が届かない者、余りにも他への侵食が早すぎる者も……」 
 …でもあたしは、きっと『目が悪い』のだろう。 
 さっきからその奥に、尻尾を丸めて震えてるイヌが一匹、いるように見えて、仕方なく。 
 
 
 
「…『仕方ない』んだよ」 
 ――それが社会と、いうものなのだから。 
「…仕方…なくない…」 
 ――それが社会と、いうものなのであっても。 
 
「…仕方ないんだ」 
「…仕方なくない」 
 気のせいか、始めて機械の声が。 
「仕方ないんだ」 
「仕方なくない」 
 …ううん、気のせいじゃない、無機質無感情だった、棒読みの声が。 
 
「仕方ないんだ」 
「仕方なくない」 
「仕方ないんだ!」 
「仕方なくない」 
 
 …滑稽の極みなのかもしれない。 
 どんな矢、どんな魔法、どんな武器さえ捌き逸らしたその絶対防御が。 
「仕方ないんだっ!!」 
「仕方なくない!」 
 ヒトの、女の、最弱の、ボロボロの。 
 そんな弱い存在の、取るに足らない言葉なんかで。 
 
「しかたな…「「仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ 
仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだっ!!」 
 
 ……壊れるなんて。 
 
「仕方ないんだ仕方ないんだ仕方ないんだ「「しか……」」仕方ないんだ!仕方ないんだ! 
仕方ないんだ!仕方ないんだ!「「し…」」仕方ないんだ!!仕方ないんだ!! 
仕方ないんだ!!仕方ないんだ!!仕方ないんだ!!仕方ないんだ!!仕方な―― 
 
 ……誰が決めたんだろう。 
 『国家側』、『体制側』、『秩序側』、『保守側』、『権力側』、『官憲側』。 
 あらゆるささやかな想いを踏み躙り、轢き潰して【秩序】を押し通すそれらの側が。 
 ……《国家の犬》は、《国家の剣》は、哀しんだりなどしないなどと、誰が。 
 《国家の犬》は、哀しんではいけない、哀しむ資格などないと、誰が。 
 
 社会は醜い、世界は汚いと、それゆえに疎み壊そうとするのは簡単だけど。 
 自分は弱い、あいつは強い、人は醜いと、諦め開き直り当てこするのは簡単だけど。 
 …でも、それでもそんな、人の世界、社会の醜さを知った上で。 
 それでも、秩序を混沌の海へと還さぬよう、社会を維持する為に戦い続ける者達は、じゃあ。 
 
 
 
「仕方な――「「うっさいっ!! だまれえっ!!!」」 
 
 叫んで、遮った言葉に、存在感の無いその黒いトレントコートの姿が、ほんの少し…ブレる。 
「…あっち…、行けよお…っ! …『お前』なんかあっ!!」 
 …だけど、今ならあたしも、察しがつけられた。 
 
「社会の意思だか、ル・ガルの威だか、正義だかなんだか知らないけどっ! 
『お前の話』なんかっ、『お前の意思』なんか、聞いてんじゃないんだよおっ!!」 
 二重人格、分裂症、乗っ取り、憑依、洗脳、命令etc、考えられるものは色々あったけど。 
 この違和感、このおかしさ、機械のような言葉、完全な無表情、棒読みの宣誓文。 
 
「あたしはっ……雑巾の言葉が……ききたいんだ……」 
 …『何か』が、『誰か』が雑巾に取り憑いて、雑巾の存在に重なって。 
 国家の意思を、全体の統括意識を、現実に具現化させる為の、『依代』に。 
 全ゆえに、決して具現化させ得ないはずのそれを降ろす為の……『道具』に、『剣』に。 
 
 
 …冴えない、使い古した雑巾みたいな色の小汚い毛並、ごろごろ、だらだらで。 
 顔は怖くて、目つき悪くて、図体ばっかでかくて、なのに性格は正反対で。 
 冬なのに庭駆け回らないで、コタツで寝転がってミカン片手にテレビ見るようなイヌで。 
 口にネギ突っ込まれては泣き、ニンジンが食卓に上がっただけで「うげぇ」という顔をする。 
 盤上ゲームをしては(駒を動かす予定の先をチラチラ何度も見るので)負け、 
 トランプでババ抜きをしては(ババが掴まれた瞬間一気に嬉しそうになるので)負け、 
 リニアモーターカーの話に興奮し、コンコルドの話に続きをせがみ、 
 鉄腕アトムの話をしてやったら感動し、逆にフランダースの犬の話をしてやったら大号泣。 
 国際・軍事・歴史関係のハードカバーに混じって、 
 なぜか本棚にあるのがペット関連の本と、美味しいお菓子屋のガイドブック。 
 動物が大好きで、虫が大好きで、釣りが趣味で、だけど下手の横好きで。 
 
 『ほらほら、トンボトンボ〜!』と言いながら捕まえたらしいトンボ片手に 
 尻尾ぶんぶん振って駆け寄ってきたところをバケツに片足突っ込んですっ転んで 
 その拍子に折角干した洗濯物を竿ごと倒して泥まみれにし怒り狂ったあたしに 
 げしげし頭ぶっ叩かれて泣きながらごめんなさいごめんなさい言うような馬鹿なんだぞ? 
 …拾ったヒト奴隷と、『友達になろう、なれるはずだよ』とか考える馬鹿なんだぞ!? 
 ……実はあんなに強かった癖して、一度もあたしに手を上げた事の無かった馬鹿っ…… 
 
 
 
 ……上官か? 将軍か? 議会の議長? 王様? 民衆? 社会? それとも国そのもの? 
 
「かえ…してよぉ…っ」 
 ボロボロと零れる涙が止まらないのは、傷の痛みのせいか、心のタガが緩んでいるせいか。 
 
 ……誰だよ、そこのどいつだよ、一体。 
 こんな『一番誰もやりたがらない役目』を、よりにもよってこいつの両手に押し付けたのは。 
 人の、不完全な『個』である身には持てないはずの、『全体』という名の完璧の剣を。 
 むりやりこいつの両手に持たして、押し付けたのは。 
 
「何勝手に……雑巾の体、使ってんだよぉ……」 
 優しくなければ剣を振るえない? 優しさを忘れた者に剣を振るう資格はない? 
 
 …誰だよ、最初にそんな事言った奴。 
 …誰だよ、最初にそんなふざけた事を言った奴。 
 『死刑の執行』なんて、それこそ同じ快楽殺人者同士に任せておけばいいだろうが。 
 …なんでよりにもよって、こんな優しい奴に『この剣』を持たす? 
 …なんでよりにもよって、こんな優しいだけが取り得のようなバカに『この剣』を持たした? 
 
「ぞうきんを、だして。……だせよおおっ!」 
 そんな剣を……剣を『主』に、持ち主を『得物』にと乗っ取ってしまうような、 
 忌まわしき完全の剣を、こいつの手から叩き落して取り落とさせてやりたくて。 
 
 …ああ、でも、だけど、…あたしも同罪か? 
 言いつけを破って、危ない外に逃げ出して、捕まったところを助けてもらって。 
 …その忌まわしいはずの完璧の剣に守られた身のあたしも、同じ立場か? 
 ……『強者』にぶら下がる事しかできない、『弱者』の立場か? 
 
「なんっ…で、あんた、が…」 
 悔しい、悔しい、悔しい悔しい悔しい。 
 代わりたくても代わってあげられない、守られてばかりの無力な自分が。 
 
「なんで、こんな事っ! …なんで、あんたがぁっ、こんな事しなくちゃぁっ―― 
 
 
 
 
 
――ふわりと。 
――虚像が、実像になるように。 
――テレビの中の波の海が、本物の波の海に変わるように。 
 
「――違うよ」 
 忽然と目の前に現れた、鼻突く血臭と、脂や胆汁のなのか苦味を感じさせる臭い。 
 風をはらんで、ばたばたとコートの裾が翻る音や、 
 ぽたん ぱたん と水滴が滴り落ちる音が耳を打つと共に。 
 
「…こっちが、本当の、『オレ』なんだ」 
 頼り無さそうな、おぼろげな色を宿した緑の瞳。 
 あの、なんだか困ったような表情で。 
 
 …あたしの知っている、いつもの雑巾が立っていた。 
 
 
――汚い、 
 ……凄惨、なんてそんな美麗な表現で表されるような状態じゃなかった。 
 目だけは緑色のままに、雑巾色の毛を持っていたはずの顔の半分以上が血を吸って、 
 パチパチと揺れる火明かりに照らされるのは、ぬらぬら、てらてらと光る錆茶と赤茶。 
 そこに土砂や、脳漿が絡まって、毛の間には砂や砂利が挟まり。 
――酷い臭いの、 
 …頭からバケツ一杯分の豚の血を被った所に、牛脂と土砂をまぶしたらこうなるんだろう。 
 ぐずぐずの、どろどろ。 
 『鮮血を浴びた姿は冷たくも美しく』なんて表現が、間違いだという事をあたしは知った。 
 戦うという、殺すという事が美しいと言う、そんな連中の言葉を二度と信じるのをやめた。 
――浅ましい、 
 あの怒涛の山津波の一撃を、完全には回避できなかった証拠なのだろう、 
 防水防脂とは見られても、ズタボロに切り裂かれ切れ切れになった闇色のトレンチコート。 
 コートの裂け目に溜まる血と、あとはこびりつく砂、脂かはたまたどこの部分の体液なのか。 
 多分全身擦傷だらけ、本人の血も滲んでいるのだろうが、傷口が泥まみれでは、どうにも。 
 
――血と、脂と、砂と汚液にずぶ濡れの、汚泥に塗れた、汚れイヌが一匹。 
 
 …でも、だけど。 
 それは間違いなく、あたしが待ち望んでいた、あたしのよく知る雑巾だった。 
 何だかずうっと会っていなかった様にも思える、心のどこかで対面を待ち望み続け…… 
 ……そして最も、顔を合わせる事を恐れていた相手。 
 何を言ってあげればいいのか判らなくて、怖くて、顔を合わせたくなかった、…そんな相手。 
 
 
 …泣けばいいんだろうか? …笑えばいいんだろうか? 
「……ごめん、な」 
 なんで開口一番、よりにもよってあたしが一番聞きたくなかった言葉を話し。 
「……怖かったよ、な」 
 どうしてそんな震えながら、同じく震えたような眼でこっちを見るんだと。 
 …なんで悪いのはあたしの方なのに、お前の方が謝るんだと。 
 
「でも、さ」 
 でも、諦めたような表情で言う雑巾の言葉は、その端的さと軽さに反し、あまりにも重く。 
 小首を傾げられても、痛ましさしか沸いてこず。 
 
「…な?」 
 寂しそうな、哀しそうな目で、似合いもしないのに、ちょっとだけ肩を竦めて。 
「…オレは、『汚い』だろ…?」 
 泣き笑いの顔、なんだか泣きそうな目で、雑巾が言うのが見えた。 
 
 
 
 
 
「……うっ、うわああああああああああぁぁぁ――――――――っっ!!」 
 
 
 
      ※     ※     ※     < 9 >     ※     ※     ※ 
 
 
 
 邂逅は、瞬時に終わった。 
 
 すかさず雑巾の気配があの無色無機質なものに戻り、 
 翻った黒衣に、音はなく、つられて動く空気もなく、悪臭も消し飛び、 
 構えられた体勢、構えられた剣、叫び声が上がった方向に対して、向けられる体。 
 その先に居たのは―― 
 
「な、な、な、なんだよぅコレ、なな、なんですかぁコレ――――――ッ!?!?」 
 あたしと同じか、それよりも背の低い男の子。 
 見覚えのある猫耳に、見覚えのある茶色の髪、見覚えのある純白のだぶだぶコート。 
 
 ――あの猫耳君。 
(……生きてたんだ!) 
 姿が見えないと思っていたら、いつの間にか輪から離れていたらしい。 
 いきなり目の前に突きつけらたのだろう、杖に縋ってビクビクブルブルのその姿に。 
 ――だけど次の瞬間、機械に戻ってしまった隣の雑巾にハッとする。 
 
 …あったのは、二つの気持ち。 
 『あんな小さな子まで死なせちゃいけない』 
 そして。 
 『……こいつに、あんな小さい子まで殺させちゃいけない』 
 
「だめっ! 雑巾、だめっ!!」 
 痛む右太腿に痛む左手、鉛みたいな体を引き摺って。 
 それでも雑巾の血で濡れた左手に手を伸ばして。 
 
「っ!!」 
 ――だけど、乱暴に振り払われ、突き飛ばされて。 
 …その視界に。 
 
 
 ひらりと立ち昇った、白い煙のようなもの。 
 
 
 ドンッ! 
 音に驚いてそっちの方を見やると、右前方、向かって斜め右前の大木に、しゅうしゅうと。 
 ……白い煙を上げて、巨大な氷の刃が突き刺さっているのが見えて。 
 
「あぁあぁあぁあぁあ、く、く、く、くるなっ、くるなぁ〜〜〜〜〜〜〜!!」 
 突き出された猫耳君の、オモチャのような杖の先端に見える白煙の名残りに、 
 今の氷の刃を、目の前のこの小さな男の子が出したのだと言う事に気がついた。 
 
 土人形に石つぶて、炎の雨に氷の雨と、散々見せられた奇想天外バトルに、 
 流石にこの辺にもなると、一瞬にして目の前の男の子が相当危険な相手なのだと判り。 
 ……でも、それでも、あんな子供は、と。 
 思わずそんな気持ちで、自分を突き飛ばした雑巾の事を見やると。 
 
 
「……茶番は止めろ、ディンスレイフ」 
 
 
「…え?」 
 唐突な意味不明の言葉にあたしは首を傾げ、猫耳君の叫びが一瞬止まり。 
 
「お、お、お、お師匠様っ!? い、いるんですよね? みみ、見てないで―― 
「――茶番は止めろと言っているんだ、S級国際犯罪者、『揮奏者ディンスレイフ』」 
 
 ――ピタリと、猫耳君の震えが止まった。 
 
「…お前の手にあるその杖は、約200年前に蛇国の旧ザッハーク帝国の 
帝城宝物殿から盗取されたと言われている形而環杖『カドゥケウス』、 
同じくその法衣は、かつて虎国の至宝であった王天衣『ガーヴオブローズ』だな?」 
 
 生まれた妙な静寂の中に、雑巾の声が響き渡り。 
 
「…巧妙に魔力を抑えてはいるようだが、あいにくこちらは資料で形状を確認済みだ。 
弟子の一人が二つも纏っていい持ち物か、法の目を掻い潜ろうなどという浅智は止せ」 
 
 いつの間にか石の様に固まった表情に、スッとその猫目が細められ。 
 
 クンと向けられたのは、天使の翼がついた宝珠を先端に、 
 それを抱くように白黒二匹の蛇が絡みついた意匠の、オモチャのような変な杖。 
 それが、なんでか、あたしへと。 
――え? 
 
 
 ……今度は、ちゃんと見えたし、すぐに何が起こったかも理解できた。 
 
 キラリ、と杖の宝珠を中心に、視界に広がった白い光に。 
 即座にそれを遮り占有した赤茶と黒。 
 ギィン! と音を立てて振り抜かれたのは、残光を残すほどの雑巾の剣。 
 寸瞬送れてドンと言う音に大木にめり込むのは…… 
 ……これが本日二枚目となる、巨大な氷の刃だった。 
 
 
 
「……浅智? 浅知恵?」 
 ゆらり、とたなびく冷気の残滓に、しばしばの沈黙の間をもって。 
「茶番? 法の目? 掻い潜る?」 
 タン、と突き出されていた杖を床に突き立てて。 
 
 ハシバミ色の、目、耳、尾。とても綺麗な、特に伸ばしてもいない普通の茶髪。 
 これまた普通の肌の色に、あたしと比べても同程度か、それ以下の背丈に、体格に。 
 右手に持つのは、先端に天翼付きの宝珠を、杖身に白黒の二蛇を絡めた造りの杖。 
 いかにも魔法使いな純白のローブを纏い、余した裾をずるずる引き摺り。 
 ふわふわのぷにぷに、耳も尻尾もひょこひょこ、マダラというらしい、ネコの男の子。 
 
 ――だけどそんな、そんな可愛らしい猫耳少年が。 
 
「…分かってないなぁ。分かってないよ」 
 ――こんな酷薄そうな、嫌な笑顔を浮かべるなんてのは。 
 
 
「――『騎士様は戦いました』」 
 ふいに、猫耳君が唐突に意味不明な言葉を上げる。 
「――『お姫様ではなく、花の令嬢でもなく、愛した奴隷の少女を救う為に』」 
 とても澄んだボーイソプラノで、まるで歌うかのように朗々と。 
 
「『名誉の為でもなく、お金の為にでもなく。血塗れになって、泥だらけになって、 
それでも奴隷の少女を攫った盗賊達に、たった一人で立ち向かったのでした』」 
 振り仰ぎ、両手を広げ、オペラ歌手のように歌うその姿は。 
 だけど死体だらけ、残骸だらけ、炎の中、血の海にあっては違和感の極地で。 
 ……とてもいびつで、何かが狂った。 
 
「『偉大なるは、愛の力、想いの力。そうしてついに悪い盗賊達は倒されて、 
少女は檻から解き放たれました。…ああ、でも、なんという事でしょう!!』」 
 ――騎士様という言葉が、誰を意味しているのか。 
 ――奴隷の少女というのが、誰を意味しているのか。 
 
「『一番幼かった、瀕死の少年盗賊の放った矢が、少女の心臓に深々とっ!』」 
 おどけた様に、大げさに身振り手振りで歌う姿は、……でも。 
 
「『何と世は無情! 何と争いとは虚しいものなのでしょうか! 冷たくなった少女を胸に、 
血塗れの騎士様は雪の中、いつまでもいつまでもすすり泣くのでした……』、と」 
 つまり、それは。 
 
 
「…中々の良い悲劇でしょ? 身分違いの恋がね、だけどそんな身分とは全く関係ない所で 
破れる、そんな世の無常さ、カタルシスが、なかなかのいい味出してると思ったんだけど…」 
 同意を求めるように、こちらを眺めて、天使の笑顔で、……でも。 
「……なんで、邪魔するかなぁ?」 
 心の底から、とてもとても残念そうに。 
 まるで、遊び心を理解してくれない大人に対し、イタズラをしかけた子供がぶぅたれるように。 
 …だけど、そんな取るに足りない理由で、あたしは。 
 
 ――ぞくりと、今更のように悪寒が走る。 
 あたし、さっき本当に殺されかけたんだ、と、今更のように。 
 雑巾が前に居て、二度剣を振るってくれなければ、今頃氷づけで上下半身泣き別れ、 
 ……死んでたんだと、今更のように。 
 
 
「あまつ、わざわざ触らなきゃ良い神に触っておいて、『茶番』だの『浅智』だの『法の目』だの」 
 ――何かが。 
 
「…これだからイヌって嫌いなんだよね、真面目バカっていうか、興が無いっていうかさ。 
すぐ正義なんてくだらないもの振りかざして、勝てない相手にも平気で喧嘩売ってくるんだもん。 
まだ危なくなったら逃げて、身の危険を感じたらこっちに合わせてくれるネコやウサギの方が」 
 
 むせ返るような、血の匂い、脂の匂い、それが燃えて煤ける匂いに、肉の焼ける匂い。 
 死体の海と、血の海の中、そんな異臭悪臭に囲まれて平然と、ただ残念そうに、子供らしく。 
 
「…そっちのヒトの女の子死なせてくれたら、君のことは生かしといてあげようかと思ったのにさ」 
 ――何かがおかしい。 
 
 
 でも、やがて呆れたような、忌々しそうな表情で両手を上げて肩を竦めると。 
「まあでも、これはそこのハウンドさんが悪いってわけでもないか」 
 杖をつきつき、てふてふとそんな音を立てるようかのように死体の合間を歩き。 
「そもそも一番悪いのはこい――っと、」 
 ふいにくるりと白裾を翻して。 
 
 
 「―― 《 破幻 ・ 界破 》 」 
 
 ―― カ ン ―― 
 
 
 ……と。 
 地に打ちつけられた杖に、金属音めいた乾音が辺りに響き渡り。 
 
「…マナー悪いなぁ」 
 『ざしゃり』、とぬかるみに足を踏み出した雑巾の足の音。 
 消えていたはずの血の匂い、脂の匂い。 
 空を切る音と、はためく黒衣の波打ちの音が。 
 なによりも完全に消えていたはずの生の気配、存在の気配が。 
「人が演説や真相の告白をしてる時は、割り込まないのがサーガ《叙事詩》の鉄則でしょ?」 
 まるで形持たぬ霊的存在が受肉したかのように一瞬にして色づき、 
 木から落ちたサルが、けれど瞬時に慌てて木の上に戻る。 
 その様にして虚像から実像に戻された雑巾が、即座に実像からまた虚像に戻り。 
 ただ。 
「ほんと、人生を愉しむ余裕がないねぇ、イヌさんは」 
 くすくすとせせら笑った相手に対し、ほんの刹那見せられた雑巾の緊張した全身が、 
 何か、あたしには完全に捉え切れないハイレベルの攻防があったのだというぐらいは。 
 
「でも、とにかく! …そもそも一番悪いのは、こいつらなんだもんね」 
 そうして杖をふりふり、ぽてぽて歩き。 
 
 そこで始めてあたしは。 
 この熱気に溶けかけた雪、砂土の荒れ狂った周辺、血と泥とぬかるみの中。 
 …ずるずると引き摺る白コートの裾には、だけど少しの湿りも泥も。 
 ビチャビチャと音を立てる事無く、ぬかるみに靴をめり込ませる事も無く、 
 水溜りの上に波紋を広げながら「ぽてぽて」「てふてふ」歩く相手に気がついた。 
 
――染み一つない猫耳に、泥跳ね一つない、櫛通されてるであろう優雅な猫尻尾。 
――柔らかで、純粋そう、愛らしい印象も、そりゃ受けるだろうさ。 
――…何一つ。 
――…何一つ、 汚 れ て い な い んだから。 
 
 
 
「――クズめ」 
 
 どすっ と言う音にびっくりしてそちらを注視すると。 
 
「…大口叩いておいて、このザマか」 
 あたしの指をへし折った、あのオオカミ男の頭目の死体が。 
 男の子に思いっきり蹴り飛ばされて、微かに動き、揺れるのが見える所だった。 
 頭を、それこそ全力で蹴られたのだろう……もう意味の無い歯を、血と共に何本か飛ばし。 
 なのに蔑みの色を隠そうともせず。 
 
「下品で、美しさもなく、華も無い。…遊び心もなければ、手口もただ堅実でワンパターンなだけ」 
 虚ろで濁った、もうどこも見ていない瞳に対して、 
 ――何かが 
「…なのにその癖、『弱い』『無能』と来るんなら、もう本当に、とりえなしじゃん?」 
 さっきまで動いて、確かに笑い、生きていたものに対して、 
 ――何かがおかしい 
「無駄に下劣で、うすらデカで。 剣や槍ならまだしも、汗臭い重斧なんか振り回してさ」 
 テレビや漫画の中じゃない、本物の死体、本物の失われた命に対して、 
 ――何か 
「さっさと退場するわけでもなければ、最後まで見苦しく、美しくなく、ウィットも無いよ」 
 悪人でも、それでも『何十年という人生』、『唯一の人格』の重さを持っていたものに対して、 
 ――何かが、決定的にズレて。 
「…ホント、かませイヌにもなりゃしない。エキストラ《其他大勢》の中でも、三流中の三流だね」 
 ――なかま……だったんだろう? 
 ――いのち……だったんだろう?、と。 
 
「…あ、いや、実は感謝してるんだけどね? こいつ、僕の一番嫌いなタイプだったからさ?」 
 なのにこの男の子は、「あっ」とばかりにこちらを振り向いて。 
[…食欲・性欲・睡眠欲しかない蛮獣の癖に、無駄に矜持ばかり高くて、あの態度なんだもん。 
唯一不満があるとすれば、ハウンドさんに全部おいしいトコ持ってかれちゃった事ぐらいで…」 
 非礼を詫びる様に、だけど全然、完全に見当違いな、ズレた事を言い。 
 
 ―― 一体、『何を』するつもりだったのか。 
「……仕事が終わったら、あとで絶対に痛い目見せてやろうと思ってたのに、さ…」 
 すうっと目を細めると、嫌悪と嘲笑の混じった目、口元を歪めてそう呟く。 
 ボロ雑巾みたいに薄汚れた、銀色だった塊に。 
 とても純粋で、冷たくて。 
 まるで道端の乞食か、マナーの悪い奴が捨てていった生ゴミでも見るみたく。 
 
「…ハッ、…まあいいや」 
 吐き捨てるような息と共に。 
 くん、と手に持っていた杖を優雅に動かして。 
 
 ベキベキッと。 
 
 何かが引き剥がされるような、持ち上げられるような音がした。 
 見れば先刻の山津波、土砂に飲まれてひき潰され、押し倒された木々の中。 
 ……王宮の柱ぐらいはある、長さ太さの倒木が。 
 
 ――宙に、ふわりと浮いていて。 
 
「とりあえず、居るだけで目障りだよ、こんなの」 
 ぐぅんと、そんな大風を起こしながら、だけどまるでバトンのように軽々と回されたそれ。 
 宙高く、引かれ、持ち上げられ、……狙いをつけられ。 
「やっ…」 
 短く漏れてしまった自分の声に、だけど。 
 ……『ぼうとく』という言葉が、一体何の為にあるのかを。 
 
「はい、 じ ゃ ・ ま 」 
 
 どぢゅッ と。 
 
 …さっき聞いたのよりも、もっと鈍くて、水気を含んだ、嫌な音。 
 衝撃の瞬間、だけど人形みたいにがくんと揺れる、弛緩したそれ、撒き散らされる茶の汚液。 
 一度見たら、一度聞いたら絶対にトラウマになる光景、音を前に。 
 フォークで突き刺したソーセージを、持ち上げでもするみたいに『軽々』と。 
 
 離れたところから。 
 自分が直接、手を汚す事無しに。 
 純白の白に、笑って。 
  
「ていっ」 
 杖の一振り。 
 突き刺し、持ち上げた『銀色だったもの』を、まるで遊びで小石でも投げるみたいに。 
 
 ……だけど、 ぎ ゃ ん と轟音を立てながら雪山の空気を切り裂いて。 
 土砂に開けた樹海の中、炎の光も届かない闇の奥に、大質量のものが、轟然と。 
 
 ――そして遠くで何かが、ぶつかる音。 
 ――『ぐちゃり』とも、『みちゃり』とも聞こえた、何かが砕けて、潰れる音。 
 
「ごたいじょうっ♪ …っはははははは」 
 
 
 
「……なん、で」 
「は……」 
 思わず漏れたあたしの呟きに、なんでか猫耳君の笑いが止まった。 
 雑巾は、相変わらず無言で、あたしの前に立ちはだかるかのように立っている。 
 あたしなんかの呟きが、なんで相手の気に止まったのかは判らないが…… 
「……なんで……仲間じゃ―― 
「あれ? あれれ? あれあれあれあれあれ?」 
 ……突然、まるで珍獣か絶滅危惧指定種でも見かけたかのように。 
 
「もしかして、自分のこと散々痛めつけて、殺そうとした相手にまで同情してる? 
…ワァ、もしかしなくてもセイジョサマ? すごいっ、なんてジヒブカイっ」 
 
 ――そんな小ばかにしたような、仰天したような、嬉々としているかのような声に。 
 ――ぞろりと、何か胸の奥、お腹の底に走るものがあった。 
 
 セイジョサマとか、ジヒブカイとか、そのニュアンスが何を指し示すのかは察しがついた。 
 叙事詩や英雄譚……そしてあたしがいた世界のゲームやマンガの中に出てきたような、 
 敵の死にも涙を流し、二言目には『争ってはいけません』と叫ぶような、正統派ヒロイン。 
 ……近年では不景気のせいか、話題に上っては『奇麗事を』とか『偽善者め』とか、 
 そんな風に言われ、ほとんどの人間から叩かれて批判される事の多い、そんな存在。 
 …それを揶揄して、相手はあたしの事を、『セイジョサマ』と呼んだのだと。 
 
 ……だけど、そんな。 
 あたしでなくたって、普通の人間、普通の価値観の、庶民一般人なら、普通叫ぶよ。 
 セイジョサマでなくたって、ジヒブカクなくたって、普通の人間だったら、叫ぶよ。 
 ――なんだよこれ!――って。 
 
 …必要もないのに、相手をわざと苦しませながら、いたぶって殺してる奴が居たら。 
 もう死んでしまってる部下に、「無能が」「役立たずが」って何度も蹴りいれてるバカが居たら。 
 生きる為でも、信念の為でも、譲れないものの為でも、心の内に哀しく燃える炎の為でもない、 
 …ただ自分の愉しみの為だけに、無差別に人を殺すような奴が居たら。 
 
 
「仲――「「仲間?」」 
 なのに猫耳君は、とても可愛らしく小首を傾げて。 
「はは、仲間だなんて。…そんな勘違い、しないで欲しいな」 
 おどけた様子で、心外だなぁという風に、首を振った。 
「ただの依頼者と依頼人の関係――エンシュツコウカ、チリバナだよ」 
 …もしもお花畑の中でだったなら、誰もが見惚れるような可愛い仕草。 
 …だけど血肉と脳漿、死体と悪臭を背景にしては、おぞましくしか映らない笑顔で。 
 
 ――エンシュツコウカ? 
 ――チリバナ? 
 
「…な〜んかね、星天の動きがおかしいから、占盤に卦を立てて占ってみたら、 
ウサギのところでなんか妙な動きがあるっぽいからさぁ」 
 くるくるくるくる、手に持った杖を手持ちぶたさに回しながら。 
「面白そうだからそれの様子見がてら、久しぶりにアトシャーマにちょっかい出して、 
適当になんかぶん盗って来ようと思ってさ、…だからその為の、エンシュツコウカ」 
 てふてふてふてふ、行ったり来たりで歩き回りつつ、だけど。 
 
「……ボクねぇ、盗みにつまんない手口、二回同じ手口を使うの、嫌いな主義でさ」 
 ピタリと止まって、笑う顔の中には。 
「…そりゃさ、別に一人でこっそり盗みに入っても良かったんだけど、 
そんなのただ確実で安全なだけで、『華』が無いでしょ? 『華』が?」 
 ――『一人でも別に良かった』? 
「何より、敵側の登場人物が一人だけともなると、それだと出来る事にも、限りがね」 
 ――『華』? 『登場人物』? 
 
「…無血無傷も、それはそれでいいけどね。でもやっぱり、敵味方でドンパチ火花の 
ぶつかり合いがあって、お互い何人か『散って』くれた方が、物語に『重み』も出るし…」 
 まるで、これから歌劇の脚本でも書くかみたいに、『散って』と、『重み』と。 
 …だけどそれが、決して重くなんか無く、何か薄っぺらで。 
 『一人の命』の重みを、『一人の人生』の重みを指してなんか、これっぽっちもいないのが。 
 
 立ち止まり、芝居がかった動作で、両手を掲げ。 
「……何より、ウサギはオヤサシイから」 
 そう言って表れる、こんな可愛らしい容姿におよそ似つかわしくない、嫌味な笑顔に、 
 ――なんだろう 
 
「…バカなんだよ、最後まで傷つけるのを躊躇って、死で全てを解決するのを怖がって。 
味方の傷や死にだけでなく、相手の傷や死にまで心を痛めるんだ」 
 全てを小ばかにして、あざけ笑ったようなこの笑顔に、 
 ――なんだろう、この 
 
「……見てて、 す ご く 楽 し い よ 」 
 
 ――見ていて、聞いてて、とても胸の奥がざわざわする、この感覚 
 
 
 ―― エンシュツコウカ ―― 
「……演出、効果…?」 
「そう!」 
 ―― チリバナ ―― 
「……散り、花?」 
「そう! その通り!!」 
 
 笑うような、夢見るような、…理想を語るような、そんな晴れ晴れとした表情で。 
 出来の悪い生徒に、よく出来ましたと言うみたく。 
「音だけ、光だけ。熱もなければ人を殺せもしない、役立たずでこけおどしの花火魔法でも…」 
 ……『命』が。 
「…だけど夜空を照らして、『彩る』くらいは、できるじゃない?」 
 ……『彩り』? 
 
 
 ククッ、という相手の笑いに。 
 ……きっとその時のあたしは、とても間抜けな表情をしていたのだと思う。 
 
 そんな折角のご高説にも無様なあたしの顔に、猫耳君はちょっと顔をしかめ。 
「…あっと、ごめんなさい。そう言えばお姉ちゃんはヒトだから、ボクの事が判らないんだっけ?」 
 だけどすぐにポンと手を打つと、にっこりと笑った。 
 
「それじゃあ話が掴めなくて当然か。 礼を失したよね、ごめんなさい。 …そして改めて――」 
 
 トン 
 と地を蹴ったつま先が、だけど次の瞬間ふわりと宙に漂う。 
 地面という余計な障害を失った純白のコートが、重力に従うままにゆったりと垂れ、 
 やがて吹き付ける冬の風を受けて、はたはたと空中にたなびきだす。 
 
「――始めましてっ♪ 各国王侯貴族豪商の、神宝級・国宝級の宝剣宝具、財貨・魔導器の 
窃盗を専門にしてる、稀代の大怪盗こと天才大魔法使いのディンスレイフちゃんでぇっす♪」 
 
 血と、泥と、膿に塗れた世界の中で。 
 杖を握りつつ、天に向かって突き出された握り拳に、左手のブイサイン。 
 場違いなくらいに明るい声が、本来ならその場を白けさせるのだろうが。 
 
 ……でも、さすがに『宙に浮かびながら』ともなれば、きっと誰もが唖然と、白ける事すら。 
 
 
 ――そうして、突き上げた拳をゆっくりと戻し。 
 ふざけた色を宿していた瞳を、またあの酷薄そうなすうっと細い猫目に戻して。 
 
「…もっとも、そこのイヌのお兄さんや、他のみんなの大勢は……」 
 
 ――闇に浮かび上がるのは純白の白。 
 愛嬌を漂わせて耳をピピピッと震わせ、ゆらりゆらりと背後の尻尾を揺らしながら。 
 『泥の黒衣』を睥睨し、『最弱の生物』を見下ろして、笑う姿は凛然と。 
 
「……『 S級国際犯罪者ディンスレイフ 《 トリックスターズ・ディンスレイフ 》 』とか、 
『 揮奏者ディンスレイフ 《 コンダクター・ディンスレイフ 》 』とかって呼ぶみたいだけど、ね」 
 
 
 
      ※     ※     ※     < 10 >     ※     ※     ※ 
 
 
 
 ――『本物の魔法使い』なんて、数える程だと。 
 そう何気ない会話の中で、かつて雑巾から聞いた覚えがある。 
 
 決して無敵の、万能の力ではない。 
 しかも持って生まれた才能素質に、大幅に依存する、差別の原因にもなりうる力。 
 使える奴は使えるが、使えない奴はどこまでも使えない力だと。 
 
 だから世にいう『魔法使い』のほとんどが、半端な才能しか持たなかったり、 
 あるいは途中で道を挫折した、『二流魔法使い』や、『半端魔法使い』、『魔法使い崩れ』。 
 加えて例え一流であっても、その全てが戦いに秀で、超常の強さを誇るわけでもなく。 
 
 デスクワークで一流の者、研究者として一流の者、儀式や陣術、記述や刻印に一流の者、 
 霊薬の作成が一流の者、魔導器を作るのが一流の者や、近年では魔洸機械に一流の者、 
 逆に火の魔法はからっきし、水の魔法はからっきし、または攻撃の魔法しか使えぬ者、 
 そんなこんなで、一流と言っても、一重に千差万別、案外現実とはつまらないもので。 
 
 ……叙事詩や歌劇、英雄譚に出てくるような、正真正銘の『魔法使い』たる『魔法使い』、 
 『賢者』の中の『賢者』と呼ばれる存在なんて、大陸中探したって、『数える程しか』とも。 
 
 
 
「ほら、またぁ!」 
 ――カ ン―― と。 
 ムッとしたような声と共に、再度何か、硬い物を叩くがごとき響乾音。 
 …だけど今度は、杖先を地面を打ちつける必要すらなく。 
 無造作に宙を叩いた杖に、何かが打たれ、波打ちさざめき―― 
 ――揺らいだ『何か』に、雑巾が虚しく、ザシリと地面にたたらを踏む。 
 
 音を立てず、匂いを立てず、気配も殺した、歩く幻影、触れぬはずの影。 
 …なのが、無様にも実体に戻されて、だけど再び虚ろの影に隠れようと…… 
 
「無駄」 ――カ ン―― 
 …した所を、またそこからはたき落とされて。 
 
「無駄」 ――カ ン―― 
 さらに隠れようとした所も、暴きだされて。 
 
「無駄、無駄、無駄だってば」 ――カ ン―― ――カ ン―― ――カ ン―― 
 落とされ、暴かれ、叩き出され。 
 
「……しつこいよ?」 ――カ ン―― 
 …何度も聞いていると、何だか耳にじーんと来るような、空気を微震さす嫌な振動。 
 頭の中がくゎんくゎんするその音に、思わずあたしが頭を抑えた所で…… 
 
 ……とうとう雑巾は、諦めたらしかった。 
 
 
「…感心しないな、その隙あらば幻術仕掛けようとする余裕の無さ」 
 今やあたしの目の前に立ちはだかるのは、血臭に包まれた生身のイヌ。 
 剣を構え、立ち塞がりながら、だけど地べたに這い蹲らされた、泥にまみれし汚れイヌ。 
「…騎士道精神、正々堂々の『せ』の字もないよ、…みっともない」 
 相変わらず無表情で、一言も発せずに無言で相手と対峙してはいるけど、 
 …だけど一歩も動けない、そこに雑巾がどれだけ追い詰められているかが理解できた。 
 
 ――ヒトのあたしには、全く判れない次元だったけど。 
 だけど先程あれだけの暴威を振るった雑巾が、一太刀も叩き込めずに立ち尽くす、 
 …それだけのハイレベルな攻防が、この二者の間にはあるらしかった。 
 
 
「……確かにまぁ、すごいとは思うよ」 
 譲歩するように腕を組んで、空中に腰掛ける姿勢を作り、猫耳君が言う。 
 …手放した杖がきっちり空中に浮かんでいるのが、どういう原理なのか判らないが。 
「三人ほどに『目』を借りさせてもらってたから、温泉に入りながらゆっくり見れたけどさ」 
 さらりと飛び出した『この言葉』に、…本当はこの時点で既に気づくべきだったのだが。 
 
 …でもただでさえ怪我と寒さ、それでなくても矢継ぎ早に起こる信じられない出来事、 
 信じられない言葉……信じられない『人間』の存在に、 
 あたしの脳の回転速度は、完全にマヒというか、感覚が鈍り、ただただもう呆然と。 
 
「【吸音結界】に、【消臭結界】」 
 ううん、ひょっとしたらすでに、 
 ぴくんと耳を動かして猫耳君のその意味深に言われた言葉に耳を傾ける辺り。 
「…どっちも珍しくも無い、日常生活で利用されるような、音だけ、臭いだけ消す魔法だね」 
 ほんの一瞬、唐突に明かされた「は?」な事実と光景にあっけを取られたその間隙をぬわれ。 
 …既にあたしは、ディンスレイフが使う魔術の中に陥っていたのかも知れなかった。 
 
「…初歩中の初歩、房事の喘ぎ声や粗相の隠匿に使われるような最下位の結界術だけど、 
お兄さんのそれは、極限までそれを突き詰めて、発展させたやつ……そうだよね?」 
 …実際、話し方は上手かったのだ。 
 『声自体』は綺麗で、だけど落ち着いた、甲高く耳障りではない、耳にうっとりと来る声。 
 言葉のイントネーションやアクセントは絶妙で、すんなりと耳に入って来。 
 
「…詠唱無し、補助具も無し、だけどとんでもない速度と精密さでの、展開消去、縮小拡張。 
たいした技術力、そしてそんなたいした技術力があっても、その若さであんな乱戦の最中、 
それこそ呼吸をするのと同じくらいに乱れなく使用できるだなんて、相当訓練したんじゃない?」 
 しかもそれが雑巾の事を褒めるような内容だったから、 
 実際不覚で不注意だったとは思ってるけど――だけど心の底では、多分ちょっと嬉しくて。 
 
「『ボクでも』一昼一夕には……10年、20年、みっちり訓練を積まなきゃ使えそうに無いし。 
何よりもそのアイディアが素晴らしいね、『吸音結界』に『消臭結界』を、そう使うとは」 
 
 ――だからこそ、恐ろしい相手なのかも知れなかった。 
 ――それが『言葉巧みに』を代名詞とする、悪い魔法使いとしての性質柄だったのか。 
 ――『S級国際犯罪者』と呼ばれるほどの、経験や能力から来るものなのか。 
 ――言葉だけでも人を殺せる、『話術』に長けた『本物の魔法使い』としての業だったのか。 
 
「『吸音結界』は音――強度限界量までの『全ての空気の振動・振幅』を遮断するわけだから、 
非常に堅固な物を作れば、空気の流れすら巻き起こさない。…なるほど、幽霊にもなれるよ」 
 ――いずれにせよこいつは、この一見無邪気そうに見える猫耳の少年は。 
 ――その気になれば、きっと言葉だけで人を操れる、つまりはそれぐらいの。 
 
「……それに、何よりもあの【ディフレクション】! 
あれほど見事で精緻な【ディフレクション】は、そうそうお目にかかれたもんじゃないね」 
「でぃふ…」 
「【ディフレクション】」 
 思わず反復してしまったところに、ピシリ、と指を一本立てられた右手を向けられて。 
 相手の笑顔に一瞬たじろいでしまった時点で、既にあたしは、完全に術中に。 
 
 
「PDR……『プロテクション《防御》』、『ディフレクション《偏向》』、『リフレクション《反射》』。 
イヌの国の魔法軍事転用学における、構築完了・発動済みの魔法に対しての三防衛類型」 
 
 ……甘い声に。 
 
「プロテクション《防御》は一番簡単でポピュラーなやつ、…要するにほとんどの壁、盾、結界、 
バリアーやシールドとかもかな? …とどのつまりは受け止め、あるいは吸収・無効化する物。 
中にはアブソーブ《吸収》を分けてAPDRの四類型にすべきって声もあるけど、これは少数説」 
 
 わざわざこっちを見て、にっこり笑われ相づちを促されては、 
 思わずそれを返さずにはいられず。 
 
「逆にリフレクション《反射》は反射、魔法のベクトルをひっくり返して相手にそのまま返すやつ。 
代表的なトコでは呪い返しとか、鏡を使って相手の術を返す魔法とかがこれに当たるけど、 
でも力技でなんとかなるプロテクションや、高い技術だけあればいいディフレクションと違って、 
それら両方のパワーとテクニックが必要とされる、PDRの中でも最も難しく繊細な守り方だよ。 
大抵は大掛かりな器具や、特定条件が要件とされ、失敗確率や失敗時のリスクも一番大きい」 
 
 しちめんどくさく、小難しい内容のはずのそれが。 
 今までに聞いたどんな先生の授業よりも分かり易く、面白そうなものに聞こえ。 
 
「そして【ディフレクション《偏向》】。これは反射でも受け止めでもない、『逸らす』守り方だね。 
どっちも大量の魔力が必要になる《防御》や《反射》と違って、使う力はほんの少しでいい。 
ほんのちょっとだけ力を加えて、5度、10度だけ攻撃の角度・方向を逸らす、それで守るんだ。 
身代わり護符や形代みたいな、被害を何か別のものに転化するものも、これの一種かな? 
…余りに大きすぎる力や、範囲の広すぎる力はそもそも逸らしても無駄って欠点があるけどね」 
 
 身振り手振り一つが、何ていうか優雅で、惹き寄せられるものがあり。 
 気が付いたら、こくんこくん、と。 
 聞いている事を相手に伝える為の、相づちを。 
 
「…ただ、実際これ、『ディフレクション《偏向》』は、本当にとんでもない『技術』が必要でね。 
飛んでくる十個の火の玉、それを全部最小限度の力で、自分に当たらぬ程度に方向を変える、 
……それがどれくらい面倒で大変な事か、お姉ちゃんには想像できる? 
空間認識能力や、単位時間当たりの情報処理能力とかの、魔法以外の才能も必要になるしさ」 
 
 『想像できる?』と話題を振るわれ。 
 呆けた頭、思わず先生に質問された時みたいに、自分の意見を述べようとして。 
 
 
「――聞くな」 
 バサリと目前に広げられて、合った目線を遮った黒い布地に、その声に。 
 あたしはハッと我に返って。 
 
「…とまあ、こんな具合でいいですか? 先生こと、本場イヌのおまわりさん?」 
 
 聞いて来る向こうの声を無視し。 
「……思い出せ、あいつがさっき、マルコ・サイアスの死体に何をして見せたか」 
「あ……? ……――っ!!」 
 痺れた意識に首を傾げ……だけど思い出したそれに、急速に意識が覚醒する。 
 
 どぢゅっ という、あの永遠に耳に残るだろうとても湿った音。 
 
「…忘れるな。 辛いだろうが、それを常に心に思い浮かべていろ。…そうすれば大丈夫だ」 
 身震いした体に、だけどその言葉がとても。 
「……あいつは、その気になれば、囁く甘言と誘惑の声だけで、意のままに相手を操れる」 
 前を向いたままの、あの機械の言葉だったけど、とても。 
「心を、空けるな。…『取られる』ぞ」 
 
 
「…酷いねえ、これこそが本来の『魔法使い』の本懐なのに」 
 笑って宙に立ち上がるのは、猫耳君……ううん、ディンスレイフとかいう犯罪者。 
「本当に。『言葉巧みに誘惑し、相手を惑わし貶める。魔導は魔道。言の葉こそは言の魂』。 
…最近の、研究室に籠もりっきりでろくに話術も使えない自称『魔法使い』の引き篭もりや、 
攻撃魔法ばっか知ってれば『魔法使い』だと思ってる奴らに、言って聞かせてやりたい位だよ」 
 そんな言葉一つ、言い回し一つ、仕草一つ、全てが人を惹きつける『何か』を纏い。 
 ……だけどあたしは、耳を塞ぐ。 
 大切なのは見た目じゃない、声の調子じゃない、表情じゃない……『中身』だ。 
 
 
「…ま、確かにお兄さんは凄い、凄いよ凄い」 
 立ち上がって、杖を掴み、にっこりと笑うディンスレイフ。 
「――超高技術・高熟練度の『吸音結界』、『消臭結界』に『ディフレクション』。 
…そこに『幻術』を組み合わせてるんだから、なるほど、着眼点は素晴らしいね」 
 そうやって空中を歩く姿はあでやかで、顎に手を当てる仕草は優雅の極み。 
 フェロモンというより、可愛らしい少年というその姿形をして放たれる、 
 男女の区別無しに効果を及ぼすであろう『カッコカワイイ』のオーラとも言うべきそれに。 
 
「『視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の、いずれにも捉えられないなら居ないも同じ』ってわけだ」 
 …真面目な話、冗談抜きで。 
 例え作られた物でも、実際耳に溶ける様に心地良い声、絶妙の抑揚、柔らかさ、暖かさ。 
 ほんの少しでも気を抜いたら雑巾が言うように、心を取られそうになるそれに。 
 正気でもキツいというか、それに耐えるだけでもう精一杯のあたしであって。 
 
「相手への威圧・動揺効果も素晴らしい、なんせ攻撃が『一見』全く当たらないんだからね。 
そこに幽霊みたいに切りかかって来るんだもん、そりゃ怖がりもするよ、無敵にも見えるよ。 
……でもねぇ……」 
 
 ――だけど、それが。 
 
 
 
「……はっきり言って、つまらないよ」 
 
 その一瞬にして、一気に何かが楽になるのが分かって、あたしは両手を降ろし顔を上げた。 
「面白くないよ、『華』が無い」 
 誘惑の言葉は効かないと分かったからなのか、 
 そこからはまたさっき見たく、睦言を囁くような甘さが消え、怜悧に冷たく。 
 
「不意打ち、騙し討ち、バックアタック。ハッタリ、ハッタリ、またハッタリ。 
ひたすら小手先の手を重ねて重ね、欺き騙して、それで確実な勝利をもぎ取って――」 
 ふいに向けられた顔に。 
「――お姉ちゃんは気がついてなかったかも知れないけどさ、酷いよ? このお兄さん」 
 またあの気持ちを、あの胸がぐるぐるするような気持ちを。 
 
「…さり気なく戦ってる間にも、地味に幻術使って剣の刃先を五センチ誤魔化したり、 
幻の投げナイフで相手が怯んだ所で、本物のナイフ投げるだなんて卑怯な真似したり。 
一歩踏み込んで無いのを踏み出したように見せかけたり、ひたすらそういうのばっか」 
 そんな相手の、雑巾をバカにするような蔑みの口調に。 
 ――でも、と。 
「…見栄えもしない、パッと見地味、観客にもどう凄いのか、どういう仕組みなのかも判らない、 
そのくせネタ晴らしをされたら……なーんだ、そういう原理かって、思ったでしょ、お姉ちゃん?」 
 ――そんな事思わなかった、勝手に決めるな、と。 
 ――確かに卑怯かもしれなくても、と。 
 ――直接手を下さず、離れた所から、血も浴びず、泥も浴びないお前の方が、と。 
 
 
「――それがさぁ、二流なんだよね」 
 吐かれた言葉にただでさえ寒い周囲の温度が、さらに数度ほど下がったような気がした。 
 
「ね? ハウンドのお兄さん、小さいのでいいから、ちょこっと火の球撃って見せてよ?」 
 先刻までとはうって変わって逆、嘲るような、冷たい刃のようなその言葉。 
 並の人間なら即凹み、メンヘルさんなら即座に首吊るんじゃないかってくらいの、 
 それはそれは見事なまでの皮肉と嘲笑、茨の言葉。 
 身振り手振り、イントネーションも、いつの間にかさっきまでとは全く逆の方向の優雅さに。 
 …人の劣等感や、自分が小さな存在だという事を思い知らせる、嫌味だが高貴な優雅さに。 
「氷の刃、石つぶて、カマイタチ、小さいのでいいから、出して見せてよ?」 
 …それにも無言で、決して揺るがない雑巾だったが、……だけどあたしは知っている。 
 
「…… 出 来 な い ん で し ょ ? 」 
 
 クスクスと子供らしく、けれど子供ゆえの残酷さ、そして子供にまでと感じさせる何か。 
 純粋ゆえの鋭利。 
 自分が汚れ、惨めだという自覚のある者ほど、きっとこれには耐えられないのだろう。 
「確かにすごいよ、お兄さんの場合、技術はすごい……『技術』はね」 
 寒々とした冬の空気に、氷の王子と見紛うかのような冷徹の嘲笑を浮かべ、 
 地上50cmほど、バタバタとはためく、汚れない故の残酷の白に。 
 
「だけど、それ以外は『並以下』だね? だって悲しいくらいに魔力をセコセコ節約してるもん」 
 ――ああ、そうか 
 ――甘く囁き、誘惑に堕とすだけが『話術』というわけでもないだろう。 
 ――そう思うと、相手の狙い、変化した声色、相手が今度はどっちを狙ってきたのかも。 
「 だ か ら 二 流 、 二 流 な ん だ よ 。 所詮はね」 
 一言一言、放たれた言霊一つ一つが冷気と雹、氷のつぶてになるような。 
「何がしたいの? そんなただ強いだけの、ただ上手に人を殺せるだけの地味で卑怯な剣で? 
『華』もない。『魅』せるものも無い。そんなつまんない剣で相手に勝てて、楽しい? 嬉しい?」 
 地獄の底まで相手を引き摺り落とす為に作られた、作られたとは分かっていてもな声色に。 
 
 ――ぎゅっと、雑巾のコートの下、ズボンの端を握ってやった。 
 …後ろからじゃ雑巾の顔色は分からないし、こいつの心の中なんて覗けやしないけど。 
 ……それがどれだけ効果があるのか知れなくても、それでもあたしにだって、出来る事を。 
 
 
「…………」 
 蔑むような目で、仰々しくこちらを見ていたディンスレイフが。 
 …またふいと視線を変えて別な方向に顔を向ける。 
 
「…まあ、それを言ったら、そんな二流のお兄さんに負けたこいつらは、三流だけどね」 
 
 
 
 その台詞に、気がついた時には、体勢はそのままに宙を横滑りして。 
「三流と言えば、このおばちゃんにも幻滅しちゃったな」 
 ごんごんと、うつ伏せになった女の人の頭を杖で叩くディンスレイフ。 
 …もう、死んでる人間の頭を、石でも叩くみたいに。 
 
「せっかく取ったあのポジション、とっととお姉ちゃんの頭握りつぶしていればいいのにさ? 
変に迷って、妙なところで欲張るから、結局中途半端、何にも出来ないままに死んじゃった」 
 それが挑発行為、こちらをからかって遊んでいるに等しい行為なのだとしても。 
「特に最後の、なにあれ? っははははは」 
 わざとこちらの神経を逆撫でして、反応を愉しむ子供の行為なのだとしても。 
 
「お姉ちゃんをくれる? …冗談、今さらもうヒト奴隷なんて遊び飽きたよ」 
 …なんなんだ。 
「実験台になってもいい? …傲慢だね、自分に価値があると思ってる証拠だと思わない?」 
 …なんなんだろう、こいつは。 
 
「お金は必要なだけ払う?」 
 …ぐるぐるぐるぐる、あたしの胸の奥、お腹の中で膨れ上がり続けるこの気持ちは。 
「何でもするから?」 
 …怒りと表現するのすら生易しい、お腹の中が茹だるようなこの気持ちは。 
 
 
 
 ――と。 
「……ばっかみたい」 
 一転して笑い声を収め、トーンダウン、蔭りを見せたその声に。 
「……これだから、『弱い』奴らは」 
 だけど嘲りと蔑みの表情は、決して張り付いて消える事はなく。 
 
「ちょっとお金がある奴は、お金を使えば誰とでも取引できると思ってる。 
ちょっと他人にないものを持ってる奴は、それを売りに駆引を持ちかけてくる。 
ちょっと体に自信のある奴は、肉体を代金に相手と交渉できると思ってる。 
あまつ頼めば、お願いすれば、誰か強い人が、弱い自分を助けてくれるのが当然みたいに…」 
 ――そこにあたしは、【禁忌】を見る 
「…愚かだね、常に相手が、自分と同じく他との交渉をしなければ生きていけないと思っている。 
愚かだね、常に相手が、自分と同じく弱く頼り合わねば生きていけない存在だと思ってる」 
 ――死姦、獣姦、近親相姦、人肉食などよりも遥かに遠く 
「金しか無い奴は金で、能力しかない奴は能力で、体しかない奴は体で、 
他に何か持ってる奴はその何かで、そして何も無い奴は善意だの好意に訴えて来て」 
 ――同族殺したる殺人に近くて、けれど更なるその先にあるもの 
「…そして相手が『そんなの別に要らない』って言ったら、途端に慌てて、怒り出すんだ。 
まだ欲しいのか、これならどうだ、これで売ってくれ、譲ってくれ、協力してくれ…ってさ」 
 ――『社会を営む生き物』ならば、決して至ってはいけないはずの 
 ――『協力し合いながら生きていく生き物』ならば、絶対に至ってはいけないはずの 
 
 ――【大禁忌】、【最大禁忌】 
 
 
「ばっかみたい、うっとおしい」 
 ――そんな人間が 
「本当に強い人間は、そもそも他と交渉する必要なんてないのにさ、それを分かってないよ」 
 ――そんな人間が、本当にいるなんて 
「ボクはあくまで自分の楽しみの為だけにさ、気まぐれで力を貸してやっただけだってのに」 
 ――狂人と、本当に極々一部の、極少数の人間だけだと思っていたのに 
 ――いわゆる『何事にも例外が』ということわざの。 
「次からは向こうの方から、金で、体で、能力で、何かで、生意気にも交渉を持ちかけて来て」 
 ――だけどこいつは、その『例外』? 
 
「そんなに誰もが自分と同じ弱い存在、強い存在なんて居ないんだって思い込みたいのかな? 
… 押 し 付 け な い で 欲 し い よ ね 、そ ん な 勝 手 な 思 い 込 み 。う っ と お し い よ 」 
 ――最大禁忌をその身に顕し 
 ――人の身に余るはずの『その剣』を、けれど軽々と使いこなし、わけもなしに振り回せる 
 
 ――全ての秩序と社会を敵に回しても、なお傲然と笑える《つよきもの》 
 
 
 
「……まあ、でも」 
 すぱん、と勢いよく杖を払って 
 仰向けになっていたヘビの女の人の体を、ディンスレイフがひっくり返した。 
「お陰で物語にも、ボクには添えられない華が加わったから、まあ良しとするか」 
 黄土色に濁った硝子玉の蛇眼を眺める目に、だけど労わりや、慈しみの色など。 
 
「……はな?」 
 ぴこぴこと可愛らしく猫の耳を動かして 
「……華!?」 
 ひょこひょこと微笑ましく背後の尻尾を揺らして。 
 
「そう、華。…『惨めさ』という名前の、最高の華」 
 思わず叫んだあたしに返されるのは、子供好きならたまらないだろう、最高の笑顔。 
 誰もが羨む美しさ、誰もが愛するだろう風貌を持ちながら。 
「だって『惨めさ』は、喜劇にとっても悲劇にとっても、常に欠かせない最高のスパイスだもんね」 
 だけど心も、最高に。 
 
「必死に手を伸ばして、あがいて、喚いて、努力して。…だけど届かず、叶わないで。 
嗚呼現実は無情! 結局惨めに、無様に、何一つ報われること無く、野垂れ死ぬ!」 
 
 道化か、オペラ歌手、あるいは俳優か。 
 何を気取るのか、大仰かつ優雅に為されるその一挙一動は。 
 
「幸福を引き立たせる為の最高の並べ石! 一つの奇跡を輝かせる為の999の非情な現実!」 
 
 だけど全ての命を、石ころくらいにしか。 
 全ての命を、地虫くらいにしか。 
 
「……そうは思わない? ねぇお姉ちゃん?」 
 『哀しみ』を。 
 あの、『哀しみ』を。 
 世界の、全ての、『哀しみ』を。 
 『華』だと。 
 『愉快』だと。 
 『喜劇のスパイス』だと、『悲劇の並べ石』だと。 
 
「……なに…さま……?」 
 今なら叫ぶことが出来て。 
 ……そして叫ばずにはいられなかった。 
 
 『強い身体』もなく、『強い魔力』もなく。『地位』も、『金』も、『知識』もない……ヒト奴隷。 
 唯一の取り得のはずの『美』でさえも、「中の上の十人並……でも『二流』だね」と嗤われて。 
 ……『愛』すらも満足に手に入れられない、弱くも愚かと笑われるような、この身なら。 
「…何っ、様っ、の――」 
 
 
 
「――《王様》だよ」 
 なのに、ただ一言に倣岸と。 
「君達、群れ合いや馴れ合い。…『助け合い』って称して、お互い遠慮のし合い、譲歩のし合い、 
妬み合い、憎み合いながらじゃないと生きていけない様な、《よわきもの》達とは根本的に違う」 
 『容姿』、『表情』、『声調』だけなら、どう見ても愛らしく可愛らしくしか見え聞こず。 
「劇場の神《デウスエクスマキーナ》にて、舞台《せかい》を彩る舞台監督《コンダクター》。 
其他大勢とは違う者《マエストロ》にて、楽団《ひとびと》を指揮する指揮者《コンダクター》」 
 ……だけどそんな態度が、抑え切れない、胸糞の悪くなる心の震えを運んでくる。 
 
「天上の上、玉座に座して」 
 全てを知る者たるその力を、だけど一切遠慮する事無く振りかざし。 
「酒盃を片手に、全ての弱者を睥睨す、ただ唯一の、真の王者」 
 全てを持つ者たるその刃を、だけど躊躇う事無く他者に対して向ける。 
「『社会』や『秩序』に頼らねば在れぬ、君達とは違う、真の意味での《つよきもの》」 
 隠そうともしない、嘲りの笑い。 
 抑えようともしない、蔑みの笑い。 
 
「……そう、」 
 明らかに自分の言葉に酔い痴れた、余裕の優雅、うっとりとした声色と共に。 
「……こんな風に、ね」 
 
 
 
 ふわり、と翻された左手。 
 そんな何気なく、ごくごく普通にふわりと翻された左手に。 
 
――気が付けば、緑があった。 
 
 翡翠の色に。 
 淡く明るい緑の色に輝く。 
 
――緑光の巨鳥 
 
 そして 
 ふわりと翻された手が。 
 
 オーケストラの指揮者がそうするみたく。 
 くん と、僅かに上に―― 
 
 
「―― 《飛べ、ヘレスベーグ》 」 
 
 
 
 ――ふいに胴を引っつかまれた手に。 
 横抱きにされて。 
 いきなりの浮遊感。 
 しばらくの疾空感。 
 大地が迫り…… 
 ……そして当然、もんどりうって地面に転がる。 
 
 当たり前だけどその時に打った右膝の傷は痛み。 
 当たり前だけどその時にぶつけた折れた左手の指は激痛をもたらしたが。 
 だけど再びの辛痛に仰け反りながらも、転がり、天を向いた顔。 
 目に、耳に、入ったものは。 
 
――ギャン、と鼓膜を叩く、とてつもなく耳に痛い何かの高波長音と共に。 
――さっきまで居たところの後ろ側、 
――羽根を広げた鳥の形の、緑の光にぶつかって、 
――くるくると宙を舞う、あたしの両手でも抱えきれないような太さの大木が一本。 
 
 そしてぶつかり、もんどりうって崩れ、砕けた鳥形に、 
 爆ぜた力の塊、かつての巨大な風の刃、辺りに吹き荒れる突風と砂埃。 
 …そこに どぉんっ と、綺麗な切断面を見せて落ちる巨木。 
 
 カマイタチ? ウインドカッター? 
 …ううん、ていうか、そんな言葉で表されるようなもんじゃない、そもそも次元が…… 
 
 
「…やっぱり『言葉』では死なせられないか。…相手が一人なら何とかなったんだろうけどな」 
 ……舞い上がる火の粉や砂に、左腕に掻き抱かれて。 
 気がつけばべったりと血に濡れた黒衣の中だったが、今更それを気にする暇は無い。 
 ――刹那、返されたスナップに。 
 振り切られた雑巾の右手から放たれた、三条の銀光が…… 
 
「…『指の間に挟んでの三本撃ち』なんて出来っこない、それぐらいはボクにも判ってるよ」 
 その内二閃は杖の一振りで溶けて消え。 
 
「…本当は一本しか投げてなくて、二本は幻。…二流の浅知恵だね、やっぱり」 
 ……そして最後の一閃は、ピタリと宙に、…否、相手の眼前でくるくると。 
 
 
「そうだ、せっかくだから、見せてあげようか」 
 顔のまん前で回転する投げナイフごしに。 
「これがさっき言ったPDRの内の第三型、【リフレクション】だよ、お姉ちゃん?」 
 ディンスレイフが、にこりと微笑んで。 
 
「――《 なんじは あめのははや 》」 
 
 宙に溶け消えていくような、美しいボーイソプラノ。 
 
「《 いての こころを うつし おうい か がいい かを ここに しめせ 》」 
 
 だけどその意味不明の言葉に、ぎちりと、回転するナイフが妙に震えたと思ったら。 
 
 
――ガアンッ!―― 
 
 と。 
 ほんの一瞬、瞬きの内に。 
 金属の擦れ合う音に、剣を振り払った格好の雑巾、ナイフの姿はもうどこにも見えない。 
 …ヒュウ♪とあのオオカミの頭目のマネをして、賞賛の口笛を吹くのはディンスレイフだ。 
 
「…凄いね、必中必殺の【返し矢】を目視で強引に弾き返すか。…どんな動体視力なんだか」 
 ククッと笑ってかわされる意味不明の専門用語に。 
 ……もうあたしは、何が起こったんだかさっぱり分からなくて。 
 これじゃ助力どころか、解説者にだってなれそうにない。 
 
 
「……ねえ、本当に考え直さない?」 
 ただディンスレイフは、杖を傾けながら笑って。 
「最初に言ったけど、そこのヒトの女の子を目の前で死なせさせてくれるんなら、 
本当にハウンドのお兄さんは生かして逃がしてあげてもいいんだよ?」 
 
 ――その言葉なら、あたしにも理解できるものだった。 
 
「…本当に、むしろ感謝してるんだ。お兄さん一人にやられてるようじゃ、 
こいつらだって所詮はその程度だったって事なわけだし……」 
 くつくつと笑って、杖を手の中で弄ぶ姿はナマジャリクソガキそのもので。 
「……僕も不良品掴まされずに済んだわけだから、むしろ喜んでる位でさ。 
あーほんと、先に兎国に予告状出したりなんかしとかなくて正解だったよ」 
 紡がれる言葉は、相変わらず腐った、反吐の出るようなものだったけど。 
 ……でも。 
 
「邪魔されて、計画もオシャカにされちゃったからね、ムーンストーン攻めも止めたげるよ。 
…言った通り、一度失敗した計画を再度見苦しく持ち出すのは、僕の美学に反するんでさ」 
 ……あたしが死ねば、雑巾は助けてくれる? 
 ……あたしが死ねば、雑巾の役に立てる。 
 
 それでもまだ、どこかで信じられないと強く思っていたあたしの耳にも。 
「あ、信じられない? …はは、でもね、こう見えてもボク、一度自分からした約束は、 
よっぽど相手がバカをしない限りは、最後まで守るようにしてるんだよ?」 
 …でもその言葉に、この提案は、とても魅力的な。 
 
 …ちらり、と頭目だったオオカミ男を投げ飛ばした方向を。 
 蔑んでいたはずの相手の方を、見やって放つ言葉には。 
「…ゲームやロールプレイにおいて、『ルール』を守る事は何よりも大切だからね。 
遊んでくれる相手が誰も居なくなっちゃったら、流石にボクも困るもの」 
 
 こいつがヤバイ相手だと。 
 それもとんでもなくヤバい相手で、さっきのオオカミ男やヘビ女でさえ、 
 まだ優しかったと思える位にイカれた相手であるという事は。 
 …あたしにだって、理解できて。 
 
 
 
「――それに何の意味があるんだ」 
 言葉を発しようと、前に身を乗り出そうとしたあたしの体を。 
 無感情の言葉、でも雑巾の手がまるで匿うみたいに、ぎゅっと後ろに押し込んだ。 
 思わず何か言おうとしたあたしだけど、 
 …でもその赤茶色のものが乾いてこびりついた手に、何も言えなくて。 
 
「……あは、言ったでしょう? 『惨めさは最高の悲劇喜劇のスパイスだ』って」 
 
 ――…すごい、泣きたくなった。 
 ――浮かび漂う、音だけなら耳に心地良いはずの目前の猫耳少年の言葉に。 
 ――それこそが相手を喜ばすものなんだと、分かっていても。 
 
「『最愛のペットを囮に見捨てて逃げ出すご主人様と、そんなご主人様に見捨てられたペット』」 
 
 ――力が欲しいけど、無い。 
 ――そんな全ての人達を、恐らく自分の玩具に変えて、弄んできたのだろう目の前のガキ。 
 ――そして加えて、なによりも。 
 ――そんなあたしを、絶対に前に出そうとしないかのよう、ぐぐっと籠もる雑巾の腕の力に。 
 
「歯軋りして自己嫌悪する、だけどやっぱり他人よりも自分の命が可愛かったご主人様と…」 
 どこまでも聴き易い抑揚で、耳に溶け入ってくる至上の声が、 
 だからこそ、今はとてつもなく耳障りだった。 
「そんなご主人様の背中に向けて、いつまでもいつまでも掛けられる悲痛な泣き声叫び声…」 
 怒りでも。罵りでも。恐らくどんな言葉でさえ。弱いあたしの放つものなら。 
 …だけどきっとこいつにとっては、こいつを愉しませる為のものにしかならない。 
 
 ……ああ、確かにこいつは、強いのだろう。 
 非難の、罵倒の、中傷の。 
 …どんな言葉でも、だけど『言葉』なんて物なんかでは、絶対に傷つかない位には。 
 
「弱く、醜く、浅ましく、だけど故にこそ美しき世界。これこそが、これこそが最も素晴らし――」 
 誰が。誰ならこいつを―― 
 
 
 
――カチャリ 
 
 音に。 
 ぱたぱたと翻り、たなびく黒衣に。 
 だけどいつの間に立ち上がったのか、半身を前に出して、構えられる剣。 
 向けられる先に居るのは、ディンスレイフ。 
 
 ……つまり、答えは。 
 
 
「……バカだねぇ、イヌは」 
 口上を述べるのを邪魔されたのに苛立つわけでもなく、 
 そんな黒衣よりも頭1.5個分小さな子供が、だけど呆れたような溜め息をついた。 
 …ああでも、子供に見えても、『七代祟る』で有名なよう、猫の寿命は650。 
 ……39年生きてる雑巾よりも、ひょっとしたら相手は30年? 50年? 70年? 
 
「一応ボクもネコ、勝てない相手、割に合わない仕事からはとっとと逃げるのが信条だから、 
どうにもイヌさん達のその考え方、その信条は理解できないよ」 
 諦めたように首を振り、子供なのか、大人なのか。 
「どうして、勝てない相手にも向かってくるかな? … 本 当 に 、 バ カ だ よ ね 」 
 だけど子供特有の純粋ゆえの邪悪と、大人特有の腐敗ゆえの邪悪を併せ持ち。 
 
 
「まあいい、一応願ったヘビさんは居たんだっけ」 
 ――ふわりと空中を移動して、冬の夜に翻るのは汚れなき白。 
 
「闇の巫女と言うにはしわくちゃの、『ヒロイン?冗談!』なおばちゃんだったけど」 
 右手の上座に立ち浮かぶのは、愛嬌と凛然、知性を併せ持つ、猫の少年魔法使い。 
 闇に挑むかのごとく燦然と、夜に翻るのは純白の白、汚れなき無垢に気高き自由。 
「しわくちゃよれよれの哀れな老女、狂女のわめきに、最後に呼び出された邪神・悪魔。 
…そういうシチュエーションも、そこそこ現実味有り、…まあ舞台設定としては、悪くはないか」 
 対して左手の下座に立ち構えるは、血泥に汚れた獣人の犬男、冴えなくつまらぬ暗殺者。 
 闇に紛れるその黒は、決して白の様には強く在れぬ、夜に隠れた秩序の徒、汚濁の僕。 
 
 人と獣。 少年と大人。 白のコートと黒のコート。 究極の自由気侭と究極の権力秩序。 
 叙事詩や英雄譚では、どちらが味方でどちらが敵か、一目で判る構図だったが。 
 
「…それじゃ、僕が呼び出された邪神の役をやるから、 
お兄ちゃんはそれと戦う騎士様、お姉ちゃんは騎士様の守るヒロインの役ね?」 
 けれど、それでもこの現実の血肉と炎の中で。 
 まだ『邪神の役』、『騎士様役』、『ヒロイン役』などという言葉を、笑って言える白の子は。 
「光の剣を振りかざし、勇者が召喚された邪神と戦う、ヒロイックサーガのラストシーンだよ? 
…大丈夫、手加減はしてあげるから。一瞬で終わらせたりだなんてそんなつまら―― 
 
 
 
「――《国家の剣》だ」 
 燐、と相手の口上を遮った、面白くも抑揚もない機械の言葉。 
 
 ……でも、そうだ、その通りだ。 
 ……光の剣なんか、サーガなんか、最初から無かった。 
 
「……この剣は、《国家の剣》」 
 それが、どんなに傲慢な、官憲の象徴たる言葉でも。 
 観客から野次の飛ぶような、興醒めの言葉でも。 
 
「混沌の極地、貴様のような傲然の絶対強者から、全ての弱き者を守る為の…」 
 ほかの誰もが見てくれなくても。 
 悪役め、やられ役めと、こいつの物語なんか、誰もが見てくれなくても。 
 
「…狂人を屠り、毒を滅する、秩序の剣」 
 ――それでもあたしが、こいつを見る。 
 ――他の誰もが見ないなら、あたしがこいつの物語を、全部見る。 
 
 
 
 しん、と静まり返った空気の中。 
 《秩序の剣》、その言葉の語尾が音引く澄み切った空気の中で。 
 
「…はは」 
 ディンスレイフ、猫耳君は。 
「…ははは…っははははははははは」 
 バカにしたように。 
「あっははははははははははははははははははははははははは!!」 
 どこまでも理解できないというように。 
 
「…はっ、この期に及んで、まだ『みんなの為』、『社会の為』とか抜かすんだ!?」 
 どこまでも、愚かで力の無い者達を世界の無駄としか眺めない。 
 それでも無駄な足掻きしか出来ない弱者を、全て不要と、路傍の石と切り捨てる。 
「秩序だの、全体の利益だの、平和の為、世界の為とか抜かすんだ!?」 
 何故世界に《秩序》なんてものがなければいけないのか、分からない。 
 …ううん、分かっていても、でも自分には必要ないからと、世話になった事なんてないからと、 
 押し付けられた、邪魔なもの、うっとおしいものとしか思ったことが無い。 
 …それだからこそ、雑巾の言葉が欠片も理解できないのだろう、そんな様子で。 
 
 
「――いいだろう、かかっておいでよ」 
 
 …だからこそ、雑巾のそんな言葉が、とても癇に障ったらしかった。 
 
「せいぜいその劇場の剣、何の役にも立たない『国家の剣《かざりもの》』をへし折られて、 
尾っぽ丸めてキャンキャン泣きわめく羽目にならないよう、注意しながら、ね」 
 ばさり、と。 
 周囲の闇に挑戦するかのようにはためく傲慢の純白に。 
 振りかざされた杖から、ぽたん、と。 
 
「――奇跡の乱発は、物語の質の低下を招くだけ」 
 小さく一つ、火が落ちて。 
 落ちた地面、爆ぜるその火の、火の粉から。 
「999の惨く厳しい現実があるから、…だからたった一つの奇跡が輝くんだ」 
 …赤い蝶が。 
 赤い光を放つ、赤橙の蝶が。 
「そしてそんな奇跡の星が輝くのは、いつも物語の主人公の上」 
 炎で出来た蝶が、ゆらゆらと。 
 鱗粉の代わりに、火の粉を飛ばし、また飛ばし。 
「世界の為なんて奇麗事じゃない、ただ大切な人の、愛の為にだけ戦うような勇者の上にだ」 
 飛ばした火の粉から、また蝶が。 
 その火の粉から、また蝶が。 
「その奇跡の星を輝かすために、999の端役脇役エキストラの死が彩られ…」 
 ゆらゆら ゆらゆら ゆらゆら ゆらゆら 
 ゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら 
 
 
「…だからこそサーガ《叙事詩》は美しく、だからこそ観劇《シネマ》は大衆にも歓迎される」 
 分かってないバカを蔑むような。 
 自分に言われた事一つまともにできない、無能な人間を忌々しく見るような目で。 
 そんなディンスレイフの周囲、彼の白のコートを薄オレンジ色に照らし染めて。 
 
 …そして今までもそこそこ明るかったその周囲を。 
 まるで中央に巨大なキャンプファイヤーでも出来たかのように煌々と照らし出す、 
 その赤の照明は。 
 
「努力型主人公? 成長型主人公? あるいは一般人型主人公?」 
 モンシロチョウサイズで薄羽の、芸術的とも呼べるだろう、そんな炎で出来た、美しい『蝶』。 
 ゆらゆらゆらゆら、四枚羽を交互に動かし、また揺らめかせ。 
 生きているのか、魔法の技なのか、不思議と熱さは感じさせない、幻想的光景。 
 ……ただ。 
 
「生まれは二流でも、三流でも、努力し続ければ、いつか必ず頂点たる敵の大ボスに届く?」 
 10や20じゃ、とても利かない、…50、…80、…ひょっとすると、100。 
 ディンスレイフを守るように、うじゃうじゃと纏わりついた蝶の数は。 
 ちょっと尋常じゃないというか、圧巻で。 
 見たところ熱さが漂って来ない様子に、何かの手品か、幻術かとも思ったのだが。 
 
 ――ふわりと一羽。群れよりちょっと飛び出したのが。 
 浮かぶディンスレイフの足元の、放り出されていた、誰かの持ち物と思しき短剣に触れ。 
 
「―― 流 行 ら な い ん だ よ 、今時そんなもの」 
 次の瞬間、じゅ…と音を立てた短剣が、瞬時に真っ赤になって白熱し。 
 てろりと溶けた金属が、ぼとぼとと地面に、何百度あるのか判らない液溜まりを作るに及び。 
 
 
―― 「だけど、『数える程しか』の存在ではあっても」。 
―― 「けれど確かに、またそれらは」と、そうも雑巾は話してくれた。 
―― 皇族血統、規格外、あるいは特異点とか、突然変異と呼ばれる者で。 
―― 多くは王族、まれに平民、遡れば建国の神に名を連ねる、超常の才を持った異能者達。 
 
―― 例えば隣のネコの国、現女王にしてネコの国一番の医学者・科学者・魔法使いである、 
―― 『血塗れのフローラ』こと『ブラッディ・フローラ』、三大博士『フローラ・マギステル』。 
―― たった一人でネコの国を今の地位まで押し上げたとさえ囁かれる、 
―― 現在生きる規格外存在の中でも、最も偉大、最も強力と目される「いとつよきもの」。 
 
―― あるいはそのネコの国の現将軍、大陸無双で知られた槍のリナこと『赤将軍リナ』。 
―― 諸事情があって放逐され、現在幽閉の身と聞いたが、イヌの国では『猛将軍レガード』。 
―― 眠りながら運命を操るとさえ言われる、因果の女王、『兎国現女王アナヒータ』。 
―― 既に死せりとは言え、フローラ以前の最偉大と呼ばれた、『故蛇国大帝ザッハーク』。 
 
―― ある者は武芸に、ある者は魔道に、またある者は政治や学問、商売の才能にもまた。 
―― 2物3物どころか、10物20物も与えやがる天を恨みたくもなる、そんな常識外の存在達。 
―― 一般庶民、一般人では、まずお目にかかれぬ、雲の上の人々。 
―― 正真正銘の一流であり、規格を外れた力を誇る、超一流、人外ならぬ獣外の存在。 
 
 
「……教えてあげるよ、現実の厳しさ、非情さってものを」 
 そんな雲の上の存在の、一般人には縁遠いはずの存在……なのであるのだが。 
 
「……教えてあげるよ、世界にはいくら努力したって、決して届かないものがあるって事を」 
 ……目の前にいるのは、どうやらどうも、その一人らしく。 
 
 
―― ほとんど多くのそんな人々は、人々の為に己の力を使うことを選ぶのだが。 
―― でも、中には当然もちろん、それとは正反対の道を選んだ者が居た。 
―― 『 どうしてこんな奴らの為に、ボクの力を使ってあげなくちゃいけないの? 』 と。 
―― ただ、『 自 分 の 為 だ け 』 に、その獣外の力を使うことを選んだ者が。 
 
―― 現在でも、認定を受けたのは大陸全土でも両手に足るほどしか存在しないが。 
―― 『もの』と『ていど』によっては、たった一人でも社会を乱せ。 
―― 『武』に『魔』に異才を持つのなら、たった一人でも一個小隊、一個中隊と渡り合える。 
―― そんな危険すぎる個人を前に。 
―― たった一人でも世界の全てを敵に回して、なお傲然と笑えるような者に対し。 
―― Aまでしかなかったその概念の上、特別に作られたのがその言葉。 
 
 
―― S級国際犯罪者《トリックスターズ》 
 
―― 全ての『秩序』を、壊す者 
 
 
 
「『呼び出された邪神と、騎士様は死力を尽くして戦いました』」 
 接触した木切れを一瞬で木炭に変え、あるいは接触した金属を一瞬で液状にし。 
 だけどそんな炎の蝶を、肩に、腕に、もたげた手の甲に止まらせて。 
「『愛した奴隷の娘を守るために、死に物狂いで、全力を尽くして邪神と戦いました。 
…相手が自分よりも遥かに強い、絶対に勝てない相手だと、分かっていてもです』」 
 踊る炎の中に翻る白裾、優雅に笑い、半開く唇から零れるは、耳に溶けるような涼やかな歌。 
 蝶達に囲まれて力む事無く、半分だけ姿勢を崩して宙に佇むのは、猫耳と尻尾の美少年。 
 少年のようで大人であり、子供の無邪気さに大人の余裕、無垢のようでいて汚れも嗜む。 
 美を持って、力を持って、魔をも持ち、愛すらも意のまま、もちろん富をも忘れない。 
 『華』の極地。物語の主役。…在り得ぬ筈の存在。…テレビ《観劇》の中の生き物。 
 
「『もしもここで騎士様がサーガの主役、一流だったなら、一発逆転、【奇跡】が起きて』」 
 全ての隠れ場所を剥ぎ取られ、喉を鳴らして唾を飲み込む泥血だらけの雑巾を前に、 
 唱える呪文もなし、予備動作もなし、ただ しゃん と、杖を一振りするだけで。 
 背後の瓦礫、黄色に輝き、浮かび上がったのは大小全部で十数個の石。 
 
「『あるいは奴隷の娘に特別の力があれば、天に祈りが、【奇跡】が舞い降りるのでしょうが』」 
 その背後に匿われて座り込むしかなく、奥歯を噛んだボロボロのあたしを前に、 
 同じく しゃん と。 ただ くん と杖の先を動かすだけで、その上空。 
 バチバチという音、白い光、何か放電現象を起こしながら、次第に肥大す光球群。 
 
「『だけど残念、現実は非情。 騎士様は二流、娘は無能、頼みの【奇跡】も舞い降りず…』」 
 石礫に混じり、雷球に混じり、 
 さらに掲げた杖の横、青く輝く、最初は氷の塊が幾数個、次第にツララとなり始め。 
 
「『哀れ騎士様はなぶり殺し、無能の奴隷の娘はそれを黙って見ている事しか出来なくて。 
そして二人とも、結局散々邪神に嬲られ弄ばれた後、見るも無惨に殺されてしまいました。 
何一つ何かを為せぬ内、何一つ願いの届かぬままに、何一つ愛を実らせられず』」 
 翻しただけの左手の動きに、地を這うように緑光が走り、砂塵を巻き起こすつむじ風が数個。 
 更に前に突き出された左手の先に紅、幾つかの火蝶を巻き込んで、渦巻き生まれる炎の球。 
 
 …だけどあたしはその瞬間、確かに見た。 
 
「『ああ、ですが、観客の皆さん、悲しむ事はございません』」 
 
 奴隷ヒトの対極、雑種イヌの対極。 
 『弱さ』の対反、『秩序』の正反、究極の『強さ』、究極の『自由』 
 誰もが従う社会規範を踏み越えて尚、笑って在れるだけの強さと美しさを持つはずのそれが。 
 
 …『人』の誰もが忌み嫌うような、『ケダモノの王』の笑みを浮かべて左手を振るい―― 
 
「『なぜならこれが現実。…現実なんて、所詮はこんなものなのですから』」 
 
 
 石礫、雷球、氷柱、鎌鼬、火球。 
 
 ――その『全部』が、『まとめて』『一遍に』飛んできた。 
 
 
 
< 続→【結の事】 > 
 
                                       【 狗国見聞録 転の事-2 】 
                          〜 社会と全体を重んじる、法と秩序と軍人の国 〜 

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