イヌの国の伝承説話の一節に、【ティンダロス】と呼ばれる魔犬が登場する。 
 
創世の時、世界が「過去」と「未来」に分けられる――すなわち時間の流れが始まる前。 
まず「浄」と「不浄」に分けられた世界の中で、不浄の側、 
汚泥の中より立ち上がった、イヌに似た姿の四足の生き物として、御伽話の中には登場する。 
彼らの母は原初の不浄そのものであり、故に彼ら自身「汚れの化身」と見なされる事が多い。 
 
性格は貪欲にして獰猛、粘着質で極めてしつこい、ストーカーの代名詞のごとき性情。 
汚れた空に映る、眺める事しか出来ない「清浄の世界」の全ての生き物達を憎み、妬み、 
また全ての「美しさ」「清らかさ」「生の気配」に常に飢え、乾き、ゆえに敵意を抱き、 
ギラギラとした瞳に憎悪と呪詛を浮かべながら、今日も泥濘の中を這い彷徨うのだと言う。 
 
伝承の中で担うのは、時越えの【禁忌】を侵した者に対しての罰則という「ロール《役目》」。 
昨今、有名な昔話『おろかな魔法使い』を、幼い頃に聞いた事の無いイヌは少ないと思うが、 
今回はその貴重な初版本が手に入ったので、まずはこの場を借りて紹介したい。 
 
 
――ある魔法使いが、長年の研究の末、未来を見通す水晶玉を作り出す。 
水晶の力で、何をすれば成功し、何をすれば失敗せずに済むのか分かるようになった 
魔法使いは、たちまち大金持ちになり、愛する人の愛、名誉、権力を手に入れるが、 
しかしある時、水晶の向こうに、自分を見つめる黒い影の姿を見つけてしまう。 
 
…時のおぼめく彼岸の岸辺、不浄の側にいるはずの、忌まわしき猟犬ティンダロス。 
禁忌を覗き、それと目を合わせ、匂いを覚えられてしまったその時から、 
時の果てを覗いてしまった魔法使いの周りでは、恐るべき怪異が起こり出すようになる。 
以下は初版本、原文のままの抜粋だ。 
 
 
     うなり声が聞こえるのです。 
     昼に、夜に。 
     街中の人ごみを歩いている時に、夜ウトウトとうたた寝をしている時に。 
     ハッとして振り向いても、だけどそこには何もいません。 
     気のせいかとも思うのですが。 
     けれど確かに、聞こえるのです。 
 
     (中略) 
 
     するどい牙が肩に食いこむのを感じ、魔法使いは悲鳴を上げました。 
     耳元に聞こえる、はっ、はっという荒い息づかい。 
     ぼたぼたと落ちる、ヨダレの音。 
     必死にふりほどいて、そして慌ててふり返っても。 
 
     だけどそこには、何もいません。 
 
     何もいないのです、部屋の中には。 
 
     …いえ、いいえ。 
     それでも、それが決して夢じゃないという確かな証拠として。 
     噛まれた牙のあとがついた、肩のキズ。 
     床の上にわずかに垂れた、蒼い膿のようなもの。 
     かすかに残る、蒼い煙。 
 
     魔法使いの部屋には、カギが掛かっています。 
     窓にも、ドアにも、内側から。 
 
     (中略) 
 
     どれだけ丈夫なカギ、丈夫なドアをつけても、無駄でした。 
     お願いして、お城の牢屋に入れて匿ってもらっても、それでも無駄でした。 
     どんな結界、どんなお守り、どんな護法円も、効果がありません。 
 
     昼に、夜に。 
     街中の人ごみを歩いている時に、夜ウトウトとうたた寝をしている時に。 
 
     今ではもう、眠ることすらできず。 
     周りに大勢人がいて、魔法使いと話をしている時でも、『それ』は来るのです。 
 
     お風呂に入っている時にも、トイレに入っている時ですら。 
     『それ』は容赦なく、ほんの少し魔法使いが気を緩めた瞬間、やって来るのです。 
 
     後ろから聞こえてくる、うなり声。 
     はっ、はっという、荒い息づかい。 
     ぼたぼたと落ちる、ヨダレの音。 
 
     たしたしと、部屋の隅から獣の四足が駆ける音が聞こえ。 
     たんっ、と魔法使いの喉笛に食らいつくために、力強く大地を蹴る音が聞こえ。 
     慌てて振り返っても、だけどやっぱりそこには何も。 
 
     今では全身包帯だらけ。 
     落ち窪んだ目でひぃひぃと枯れた息を吐く魔法使いの耳に、再び背後から。 
 
     たしたしと。 
 
 
――このように、現代版『おろかな魔法使い』もそれなりに怖い話として知られているが、 
しかし初版本の中に綴られるそれは、さらに陰湿な恐怖と狂気をじわじわと描いた、 
およそ子供向けとは言い難い、大変陰険かつ背筋が凍る逸話としての形を為している。 
 
現代版では未来を見る水晶を砕く事や、水晶に頼らず勇気を出して角の無い空間の中に 
ティンダロスを誘き寄せ閉じ込める事で、一応物語の円満な解決が図られるのに対し、 
初版ではティンダロスが「角」を通してこちらの世界に実体化する事には気がついたものの、 
角無き空間の完成まであと一歩という所で、魔法使いの狂死という形で幕が閉じられる事や、 
原題が『おろかな魔法使い』ではなく『時の腐肉喰らい』になっている事などが興味深い。 
 
そのせいか、現在でもイヌの国では「悪い事をする子の所にはティンダロス来るよ」と 
親に脅されては、ほとんどの子供が飛び上がって言いつけを守る光景がよく見られる。 
現に王都の普通学校でちょっとした調査を行ったところ、 
同じ昔話の悪役でも、【ティンダロス】は乱暴者の【ケルベロス】、二枚舌の【オルトロス】に次ぎ、 
3番目に子供達から嫌われた魔犬だったというアンケート結果が提出されている。 
(逆に一番人気だったのは、生命の樹の番犬、炎の四枚羽根を持つ天使犬【ケルビム】だ) 
 
 
…さて、しかし思うに、この『おろかな魔法使い』は初版本に見られるよう、 
決して本来はズルして楽したものは後で必ず痛い目を見るという、 
子供向けの訓戒話などに収まるものかと聞かれれば、私は非常に疑念を覚える。 
 
【禁忌】を侵し、また覗いてしまった一人の魔法使いが辿る、破滅と狂気の無惨な末路。 
…それは前出の通り、【禁忌】という名の大陸全種族にとっての当然共通の法と倫理を、 
なお踏み越えていこうとする世界への違背者達へのアンチテーゼではないだろうか? 
 
例えばジメイコン、すなわち 
【時】――『時間旅行』と『未来の完全予測』 
【命】――『永遠の生命』や『死者の蘇生』 
【魂】――『無からの魂の創造』、『魂の改造操作』 
 
魔道三大禁忌と呼ばれ、『この先に進むは人に在らずの神の領域』と歌われたこれらだが、 
けれど近年おおっぴらに着手し畏れ慄きの欠片も見せない、 
いわゆる『新人類』の魔法使い達が増えた事は、私のような古い時代の人間としては大変―― 
 
 
                      <…――王都ソティスの日刊紙、『タイムズ』のコラムより> 
 
 
 
      ※     ※     ※     < 1 >     ※     ※     ※ 
 
 
 
 それから帰るまでの事は、よく覚えていない。 
 
 気がつけばブツリと途切れて暗転した記憶、 
 …どうも安堵と気が抜けたのとで、あたしはいつのまにか意識を失ってしまったらしかった。 
 
 真っ暗闇の中で、ふわふわとたゆたう意識、浮き沈みする感覚。 
「──寝るな」 
 そんな声がどこからか聞こえてきたようにも思えたけれど。 
 だけど広い背中と、背負われたまま歩かれているからだろう、軽い振動が心地良くて。 
 
 そうしてそんな心地良さ、気持ちよさが。 
 …眠くなるのとは、また違う感じ。 
 ……どこかずっと暗いところに、どこまでも落ちて吸い込まれていくような。 
 ………左手と右腿の熱い痛みも、身を凍えさせるような寒さも、全てどこかに消えてって。 
 
 
 
 ──夢を見た。 
 
 
 
 赤っぽい照明。 
 見覚えのあるテレビに、ストーブとコタツがある、異世界なのに何故かの畳。 
 
(──帰って、来たんだ…)  
 …とてもよく知っている、くつろげる空間。 
 思わず安堵したあたしは、…でもすぐさま、何かおかしい事に気がついた。 
 
 
 俯瞰視点……とでも言えばいいんだろうか? 
 
 まるで天井辺りから見下ろすような視界の下に、雑巾と…… 
「おい! ……きろ!!」 
 ……壁際の寝台の上に横たわらされた、『あたし』が居る。 
 
 既視感を覚える光景、どっかで聞いたり読んだりしたような記憶のあるシチュエーション。 
 …何か、とてもヤバい気がしないわけでもなかったんだけど、 
 でもほつれる思考、歪む意識。 
 『夢の中』の視界は、なぜか時々古いテレビみたいにノイズが走って、コマ送りで。 
「…前! 馬……! …覚ま…よぉ……」 
 ザーザーという雑音がひっきりなしに聞こえるせいで、あいつの言葉は上手く聞き取れず、 
 …でも五月蝿いはずのそのノイズが、なぜか酷い心地良さをあたしにもたらしていた。 
 
 
 ──夢だ。 
 これは、夢だろう。 
 
 ……でも、『どこ』から『どこ』までが? 
 
 
 ──ひょっとして、これはあの子供の姿をとったネコの魔法使いが見せてるまやかし? 
 ──それとも、そもそもにしてあの叫んで飛び出してから一連の出来事全てが? 
 ──目が覚めたらいつもの朝で、いつも通り延々布団の中でゴロゴロしてる雑巾が? 
 ──…それとも、『落ちて』きてから今までの、その全てが夢だったんだろうか? 
 
 ……「だったらどんなにいいだろうか」とは思う。 
 あの激痛も、取り返しのつかない失敗も、あの取り戻したい日常も、帰りたい元の世界も。 
 全てが夢で、そうしてやり直せたのなら、どんなにいいかと。 
 あの時もっと早く学校から帰っていたら、あの時雑巾がシてるのを見ちゃったりしなかったら、 
 あの時暴言を吐いて飛び出してなかったら、…きっともっと、辛くも痛くもなかったと。 
 
 …こんなに苦しくもなくて。 
 ……こんなに辛くも痛くもなかったと。 
 
 ──でも。 
 
 
「い…だ! いや…! や…ろ! …めろ!!」 
(……あ…) 
 
 …いたのは、あたしがよく知っているいつものあいつ。 
 39年も生きてて、こんなでかい半分獣な図体のくせに、子供みたいで。 
 涙を流して、あたしの身体に縋りついているあいつは、…だけどあたしの知っている。 
 
 …ううん、違う。 
 ……最初から、全部あたしの知っているあいつだった。 
 
 不器用で、お人好しで、バカで騙され易くて。 
 気が弱くて、泣き虫で、臆病で。 
 救いようのないくらいのアホで。 
 ……だけど、だからこそどうにも見てらんなくて、どうしても放っておけないんだ。 
 
 たとえ痛くても、辛くても、苦しくても。 
 それでもせめてあたしだけは、こいつの味方で、支えてあげられる人間でいたいと思う。 
 …そうなりたい、そうありたいと、初めて心から本気で願えた相手。 
 だから分かち合ってやれるなら、どんなに痛くても、辛くても、苦しくても、だけど。 
 
 ……夢じゃ、困る。 
 …夢だったら、困る。 
 困るのだ、こいつ一人だけ夢の中に置きざりに、あたし一人だけ夢から覚めてしまうなんて。 
 ……そんなの、嫌だ。 
 
 
 ──気がつけばあいつはあたしを抱え、何かの水晶の小瓶を眺めていた。 
 コマ送りの視界の中で、蓋を開けて、匂いを嗅いで、ちょっと舐めて。 
「…じ……真正銘…本物…エリクシ……だよ。…………で…、…そっ!」 
 何か逡巡していたようだったけど、だけど意を決したようにそれをぐっと呷って、 
 あたしの顔と雑巾の顔とが重なったのが見えた、その瞬間。 
 
 …夢の中のはずなのに、確かに頬に触れるあいつの牙の感触を。 
 …口ん中に入ってくる、何か暖かくてザラザラするものの感触を、俯瞰視点の自分に感じた。 
 同時にごくんと、何かの液体が…… 
 
 ……すんげえ苦い。 
 
 …え? 苦い? 
 …って、に、苦? 苦ッ!? 
 ……に、苦、苦、苦、苦、苦苦苦苦にがニガ苦niga―― 
 
 
 
 
 
「んう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!(苦いわーーーーーーーーーーー!!)」 
「うおわっ!?!?」 
 
 
 叫んだ瞬間、覚醒した。 
 
 口を塞いでいた何かが出ていって、開いた目には飛び退いた雑巾の姿が映る。 
 
「うぇあぇえぅ!?!? うぁぅ? …っく!? …けっ、けほっ、けほっ!」 
 眠気なんて完全に吹っ飛んで、目がバッキリ開くくらいの、その苦味。 
 身体中がカッと燃えるように熱くって、何か奔流のようなものが駆け巡っている感覚。 
「げほっ、げほっ、げほっ、…な……っつぅっ!!」 
 気管に液体が入ってむせた喉に、全身を腕と足からの痛みが襲った。 
 
 赤っぽい照明。 
 見覚えのあるテレビに、ストーブとコタツがある、八畳二間。 
 
「……よかった……」 
 そうして目の前にある、泣き笑いのようなイヌの顔。 
 
 
 
──夢を見ていたような気がする。 
──覚醒してしまった今では、途端に雲を掴むようにおぼろげになって思い出せない、 
──だけどなにか、とても大事な夢。 
 
 
 
「…目、覚めたんだな」 
 ……『帰って来れたのだ』と気がつくのには、それから更にしばらくを要した。 
 
「お前、死にかけてたんだよ?」 
 咳き込んで、何がなんだか分からず混乱する頭に、そんな声が聞こえる。 
 ──死に、かけてた? 
 
「呼吸は虫の息だし、命の気配はみるみる小さくなってくし」 
 目前に手をついて、身を乗り出して潤んだ目をするコイツは、 
 だけど全身血や泥や怪我だらけ、ボロボロの黒コートに黒い鎖帷子をまとっていて。 
 ──あれ、なんで? 
 ──ていうか、こいつは……いや、雑巾だけどさ? 
 ──あれここ一体どこ……って、いやいつもの見慣れた風景だけど? 
 
「もう、ダメかと思ったんだ」 
 唐突な覚醒と『蘇生』の衝撃で、綯い交ぜになる夢と現実、錯綜する思考と記憶。 
 そんな雑巾の泣きそうな声が聞こえて。 
 ──あれ、なんであたし、どうしてこんな所で寝て。 
 ──つーか、なんか全身、特に左手と右腿がなんかメチャクチャ痛いんですけど。 
 ──確かあたし、…そうだ思い違いじゃなきゃ……── 
 
 
 そんな、俗に言う『記憶の混乱』症状を呈するあたしだったんだけど。 
「あ、そうだ」 
 横から伸びる、落ち着いて記憶をまとめる暇すら与えてくれないせっかちなイヌの、 
 だけどとても聞きなれた馴染み深い声に。 
「これ、飲んで。早く」 
 差し出された栄養ドリンクっぽいものを、何の警戒感も無しに受け取って飲んでしまう辺り、 
 ……後から冷静に考えてみると結構『重症』というか、なんというか。 
 無防備・無警戒、「こいつの存在に浸潤されまくりだなぁあたし」と、後々に思ってもしまう。 
 
 
 そうして、のたうつ程の苦さの後にの。 
 
「……あっま」 
 ――何コレ超甘い、と。 
 
 
 暗闇からの浮上のしたてでギンギンする頭の中に、ザラメでも流し込まれたような不快感。 
 これ一体何のシロップ原液かカルピス原液だと思うくらいの、吐きそうな甘さに。 
「我慢して飲んで。お薬だから」 
 ……だけど段々、思い出してきた。 
 
「…すぐに身体がポカポカしてきて、あと全然眠れなくなって、 
身体のあちこちがむず痒くなってくるだろうけど、別に変な薬じゃないからね」 
 (…それは、十分変な薬なんじゃないかなあ)と思いながら。 
 
「『不凍薬』って言って、低体温症や凍傷の――冬山で眠って凍死しない為の薬なんだ。 
身体が痒くなるのは、壊死した表皮細胞の修復に、新陳代謝が活発化するからだよ」 
 でもすごい真面目な薬効に、低体温症とか、凍傷という言葉。 
「はい、次はこれ」 
 じゃらじゃらと手の上に乗せられる、いくつもの錠剤、丸薬みたいなもの。 
「抗生物質に、栄養剤、…あとは体力つける薬」 
 どうしてそんなもの、…こんなにたくさんの薬を、飲まされなければならないのかは。 
「傷口から入った良くない雑菌とかに、身体が負けちゃったらダメだからね」 
 ──凍傷、低体温症、冬山の寒さ、一面の雪。 
 ──傷口、怪我、抉れた右腿、折れた左手。 
 ──弱った身体、犯されかけた身体、…殺されかけた身体。 
 
 ──殺戮と、黒衣。 
 
 
「ぞうきっ――「「いいんだ」」 
 ようやく思い出して。 
 ハッとして上げた顔、上げた言葉を。 
「何も考えなくていい」 
 ポンと肩に置かれた両手、だけど声の先を遮られた。 
「でも……ッツ!」 
 立ち上がろうとしたあたしの身体を突き抜ける、右腿の激痛。 
 そうしてそんなあたしの肩を、ぐっと押さえつけて立たせないようにして。 
 
「何も心配、しなくていい」 
 ──そこにあったのはあたしの知らない、 
 《剣》だった時のとはまた違う、らしくないくらいの真剣な眼差し。 
「…もう、終わったから」 
 でも、その手、その腕には、何か赤茶色い、異臭を放つものがこびり付いてて。 
「…もう何も、怖い事なんかない」 
 そんな事いうこいつ自身の方が、顔にも胸にもお腹にも、全身傷だらけ、火傷だらけで。 
「……だから早く、怪我の手当てをしよう?」 
 でも、そう言って笑った顔には、有無を言わせない強い何かがあった。 
 
 機械の無表情に、だけど哀しみと優しさが混じったぎこちないそれは。 
 生半可な言葉を全部遮るには十分で、あまりにも重く。 
 
 
 
「左手、出して」 
 そうして ずいっ、と目の前にどろっとした液体が入ってるツボを押し出す姿は。 
「これに、漬けて」 
 なんというかお医者さんみたいにテキパキしてて、無駄なく手際が良くて。 
 …でもだからこそ、どこかおかしかった。 
 
「う……」 
 有無を言わせない口調にうろたえながらも、でもこれ以上我が侭言って逆らえるはずもなく。 
「……ッ!!」 
 そうして紫色に変色し、普段の二倍にも腫れあがった指を水飴みたいな薬液につける痛み。 
 
「……骨、元の位置に戻して固定するから」 
 危ないと言われてたのに勝手に外に飛び出した結果の、身を駆け抜けるその罰の痛みに、 
 …だけどふいに、『──どうして雑巾、怒んないんだろ』、と。 
「……すぐ終わるけど、痛いよ?」 
 そう言って念を押してくるこいつは、むしろなんでだか本当に申し訳無さそうで。 
 …どこかで何かを押し殺しているように、あたしには見えて。 
 
 
 …あんまり長い間あまりに痛くて寒いので、どこか感覚が鈍磨していたところもあり、 
 なるべく触らないように、気にしてないようにしていたつもりだったけど。 
「ぃぎ…っ!!!」 
 それでもそれをぐっと掴まれて、折れた骨を動かされた時は、 
 幾度目かの涙が目に滲み、歯を食いしばっていても声が漏れてしまう程に痛かった。 
 
 べたべたする薬液に濡れた手に、すかさず添え木を当てられ、 
 同じく変な薬液に濡れた何か呪符っぽい物をぐるぐる、その上をさらに包帯で固定される。 
 ……ただ、つまりそれは痛くて触られたくない傷口に無理矢理触られるのと同じ事。 
「…っつぅ、…ぁ!!」 
 『それ以上』にも泣かずに耐えるこいつに対し、 
 『この程度』にも耐えられず泣き言を漏らしてしまう自分が、やっぱり情けなくて。 
 
 やがて巻き終った包帯、その上から指を当てた雑巾が小声で。 
「――*%[**&)%*{>*"$%(**@]/*」 
 
 
 
 ──呟かれた言葉に、しかし痛みがピタリとやんだ。 
 
 
 
「……へっ?」 
 これまで、じくじく、じくじくと身を蝕み続けていた左手の痛みが、一瞬にして消え。 
「…お、おおっ!?」 
 それどころか手首から先の感覚がない、なんとも奇妙な今の左手を。 
「す、すご――」 
 
 
「……すごくなんかないよ」 
 遮る声は。 
「……こんなの、大した事ない」 
 どういうわけか、『普段のこいつ』らしくもなく自嘲的。 
「ただ触圧覚、痛覚、温覚、冷覚を麻痺させて痛みを殺しただけで、治したわけじゃない」 
 そんな、何でもない事であるかのように言うこいつに、 
 でもそれだって十分凄い、現にこうして痛くないじゃないかとあたしは思うのだが。 
「…右足、出して」 
 でもこいつは、そうは思ってないらしく。 
「…また痛いけど、ちょっとだけ我慢な」 
 消毒液を出しながらの、そのどこか言いよどんだ言葉がそれを伝えている。 
 
 思い浮かぶのは次第に鮮明に、道筋だって思い出されてきた先刻の出来事。 
 あの殺戮、あの死闘、あの蹂躙。 
 あまりにもアレ過ぎてどこか現実感に欠けた、だけど夢ではない事も分かってしまう光景。 
 白馬の王子様の駆けつけとやらには程遠い、どこまでも凄惨で、血みどろな。 
 
「……ごめんな」 
 ──でもだからこそ、何をどうして謝るんだろう、と。 
 責められる理由はあっても、謝られる理由なんてありはしないのに、と。 
「オレに回復魔法が使えたら、もっとすぐ、楽に治してやれるんだけど」 
 自分だってボロボロの身体、返り血と泥のこびり付いた顔で、 
 だけどそんな、元はと言えばあたしが悪い、あたしのせいで招かれた凶事なのに。 
「……オレには、こういうのしかできないから」 
 あたしの右太腿に手際よく包帯を巻きながら言う様子は、でも何か哀しそうに見えた。 
 
「誤魔化して、騙して」 
 そこで初めて気がついた、着せられたもの。 
「嘘ついて、錯覚させて、幻見せて」 
 素肌に直接着せられた、麻っぽくてゴワゴワした、膝くらいまであるぶかぶかのシャツ。 
 背中にかけられた、この家に二枚きりしかない毛布の感触。 
「…そんなの、ばっかなんだ」 
 血の匂いに混じって、だけど確かにその匂いがする。 
 …『こいつ』の匂い。 
 
「何も創れないし、何も生み出せない」 
 話しかけながら手取り足取り、その声と大きな手、優しい手つきが何か安心できる。 
「本当は何も癒してないし、…守れてすら、きっといないんだ」 
 器用に包帯を巻くフカフカの手は、冬場のホットカーペットみたいに温もりがあって。 
「……ただ見せかけだけはそう見えるだけで、本質的なところでは、なんにも」 
 再度唱えた呪文に、右太腿の矢傷の痛みも消えた。 
 
 
「喉開けて」 
 ──違和感に、気がついた。 
「…うん、扁桃腺は腫れてないね」 
 九死に一生を得たはずなのに、それを喜ぼうとも、生の実感を確かめようとしない。 
「この擦り傷は、たぶん少し染みるよ?」 
 …自分はボロボロの返り血まみれのままで、手当ても何もしてないのに。 
 だけどあたしの方にだけはあれこれと気を使い、傷の一つ一つに消毒薬と軟膏を塗っていく。 
「この傷は、絆創膏だけで足りるね」 
 あたしの方にだけはあれこれと気を使って。 
 …だけど目の中に覇気がない。生きる気力みたいなものが感じられないのだ。 
 
「あと他に、痛いところはある?」 
 穏やかで、とても穏やかで……だけど『あまりにも穏やかすぎる』瞳を瞬かせて。 
「…そう。…なら、大丈夫だね」 
 そうしてそいつはほんわりと笑うと。 
 
 すっくと立つ。 
 
 
「眠れないかもしれないけど、それでも暖かくして、横になって安静にしてるんだ」 
 そう言って治療用具を抱えて八畳間、電灯の下から出て行こうと、 
 …傷の手当てが終わった以上はもう用無しとばかりに、作業めいた何かで出て行こうとする。 
 
 …それが何か、すごい嫌だ。 
 それ何か違うだろ、何かおかしいだろ、と。 
 
「…お前は【ティンダロス】のオレと違って、どこにでもいる普通のメスのヒトなんだから」 
 独り言めいて呟かれた言葉は、だけど二人の間に壁を作るために必要なもの。 
 逃げようとするあいつにとって、それはとても重要な事なのかもしれないけど。 
 
 思わず伸ばした手を。 
 
 
 
「──触るな」 
 
 
 
 ピシャリと撥ねつけられ。 
 いつかと同じように、頑なに拒絶され。 
 
 でも、でもだけど。 
 …今なら、分かる。 
 
 
 
「……触っちゃ、ダメだ」 
 
 怯えて、震えてる。 
 
 冷酷無比、あれほど悪鬼のように、殺戮マシーンのように命を壊せる存在が。 
 圧倒的強者、《獣の王》すらも罠に仕掛けて、身体を削ってまで肉薄できる戦闘マシーンが。 
 …どうしてこんな事で怯えて震えるのか、おかしな話だとは思うけれども。 
 
 
――『……な?』―― 
 自分は弱いヒトのメスとは違う強いイヌ、《国家の剣》だと言い訳しながら、 
 それでもその奥にあるもの、向こう側に見えるもの。 
――『…オレは、汚いだろ…?』―― 
 本当は今すぐごめんなさいと謝って、許してくださいとしゃがみ込んで震えてしまいたいのに。 
 それほど優しくて、本当ならそんな事できないくらい優しくて、弱いのに。 
 だけど同時に許されるはずがという諦めと哀しみに、剣を握らされた手、後ろに下がれない。 
 
 救いなんか要らない、自分は救われちゃいけないんだと一人で勝手に責任溜め込んで。 
 本当は誰かに肯定してもらいたいのに、手を握ってお前は悪くないよと言って欲しいのに、 
 不器用な痩せ我慢に意地張って、強いフリを続け、優しくないフリを続け。 
 
 ……こっちが泣きたくなるくらい、弱い生き物が向こうに見える。 
 
「ごめん、でも、…ホントにダメなんだ」 
 ほら、だって、今だって。 
 震える声に、荒い息。 
 背けた顔に、洩れ出たのはどこか泣きそうな声と、……隠しきれないケモノの欲望の色。 
 
「……ちょっと、『血』、見過ぎた」 
 ――そりゃ、冷静に考えてみればすぐ目の前。 
 襲っても誰も文句を言わないような女が、シャツ一枚羽織らされただけで座ってて。 
 
 『血、見過ぎた』と言った言葉の端に、ほんの僅かに滲んだのは、隠しきれない昂奮と歓喜。 
 『幻』と『嘘』と『見せかけ』に、平気そうな顔をして治療を行いながら。 
 ……しかし一体いつから、抑えてたのか。 
 
「頼むから。 ……本当に頼むから、来ないでくれよ?」 
 殺さずにはいられない血塗られた、だけどとても優しい生き物。 
 本当は誰も傷つけたくないという願いに、限界とばかりに戸口の柱に手を掛けて。 
 
「……襲われたく、なかったら」 
 
 滑りよろめくように階下、冷たい地下室へと降りていったのは。 
 ……でも紛れもなく、『人間』だったじゃないか。 
 
 
 
      ※     ※     ※     < 2 >     ※     ※     ※ 
 
 
 
 血に興奮し、昂ぶった精神。 
 股間のものを痛いくらい屹立させながら、ふらつく身体によろめいて降りる階段、 
 それでもなんとか、地下の物置きに転がり込んだ。 
 
 ──本当は、彼の方がずっと大怪我だった。 
 いくら痛みを殺せる、痛覚を遮断できると言っても、身体がボロボロなのに代わりは無い。 
 そうして幾ら『耐えられる』、『構造上耐えきれる』とは言っても、 
 隅々まで【魔素】に侵された体、肉体が重度中毒症状を呈しているのは紛れも無い事実。 
 
 
 その『驚異的な回復力』で、今は緩やかに収まりつつあるとは言え、 
 しかしそれでも今も精神から来る幻痛、それだけは肉体の痛覚遮断でも防げず。 
 
 凍結魔力の逆流による内部細胞の水分凍結でズタズタになったところを、 
 強引に振るい続けた上に、最後には肉体のリミッターまで外して使い捨てたその右腕は、 
 ティンダロスである彼を持ってしても修復には目算で48から72時間、 
 的確な治療を併用したとしてもそれだけの時間を要し、治療無しでは最悪二度と動くまい。 
 …その間は日常生活にはともかく、剣を握り振るうのはまず不可能。 
 
 それ以外では、ディンスレイフの放ったあの強力なウインドカッターによる腹部の傷 
 ――《輝黒鋼》ごしに『致命傷と見せかけた』が、それでも『大怪我』は免れられなかった―― 
 を含め、他に重度の打撲が一箇所、斬傷が三箇所、第U度の火傷が二箇所。 
 
 しかしその全てが、『極めて短期に修復可能な物である』のはせめてもの幸い。 
 骨折や、両手両足の切断、内臓破裂、裂片・鉄片・銃弾などの肉体内部への残留など、 
 そこまでいくと流石に彼も危険、専門施設への連絡が必要にもなるが、 
 しかし幸いなるかな、この程度だったら的確な応急処置と薬物投与で対応可能の範疇。 
 
 
 ……そうしてあのディンスレイフほどの相手とまみえてまでのその程度という事実を、 
 本来であれば喜ぶべきであり、通常であれば彼も素直に喜んでいたのかもしれないが。 
 
 ……しかし今は、とてもそんな気分ではない。 
 
 壁に寄っ掛かって座り込み、引っ掴んだ携帯栄養食を2、3枚無造作に齧りつつ、 
 だけどそうやって気分とは裏腹、 
 再生に必要な糖分と炭水化物の摂取行動を無意識に取らずにいられない自分に、 
 床に二滴、三滴、滴り落ちるものがある。 
 
 
 
 ……始めは確かに、『ペット』だった。 
 
 『ペット』だと、思っていた。 
 
 だからこそ拾えもしたし、裏の顔――《剣》では無い方の顔を見せられもしたのだ。 
 きっと同じイヌ、『人間』相手では、おそらくこうはいかなかっただろう。 
 
 なぜならティンダロスの彼の場合、私的交友関係一つ作るにしても監査の目が入るのが常。 
 他国の人間は勿論、たとえ同じイヌであっても、軍の許可がなされない相手に対して、 
 勝手に深い交友関係――恋人や親友、同居人など――を築く事は禁じられてさえいた。 
 それら全ては、私生活における密接な関係の中で、国軍の最高機密…… 
 ……【ティンダロス】という存在ゆえの彼の異質が、他者に露見する事を防ぐ為。 
 
 何よりたとえそんな制約が無かったとしても、それ以上に彼自身が人間を避けてもいた。 
 
 それはちょうどあのヒトの少女が彼の『本当の顔』と思っている顔を、 
 彼が同じティンダロスの仲間を含めた、極少数の者にしか見せてこなかった事実が物語る。 
 それ以外の軍の同僚・上司・部下に見せるのは、《剣》としての方の顔のみ。 
 
 『任務とあらば女子供さえ虐殺してみせるような、有能だけど無愛想でいけ好かない冷血漢』 
 
 それが軍内部での大方の――ズィークバル・ローヌ軍曹に対する周囲の見方だ。 
 ……誰も彼が、実は休みの日はカビとゴミに塗れた自室で、でも一日中ゴロゴロしながら 
 本にテレビにとぐうたら寝ては「はふぁ」と過ごすようなものぐさイヌだとは知らない。 
 
 
 ……いや、『人間』が嫌いだったんじゃないが。 
 ……ただ、『人間』が怖かった。 
 
 イヌでない、イヌすらも越えた、生体魔導兵器。 
 兵器で剣な……鋼の刃で出来た器物、拭っても落ちない程に血塗られたこの手で、 
 踏み込んできた相手を傷つける事も、そんな相手に「化物め」と傷つけられる事も嫌だった。 
 …なまじ希望があるから、手に入る可能性があるから辛くなる。 
 だったら最初から、絶対手に入らない事にしてしまえば。 
 
 だから甘い物好き、小動物大好きというのも、ずっとずっと、誰にも秘密の事だったのだ。 
 『自分の部屋』に入れた相手も、実はティンダロスの仲間を除いては彼女が初めて。 
 …だって無数の命を殺めた殺戮機械が、実はそんな性格だなんて、許されるはずが…… 
 ……ううん、許してほしくなかった。 
 許されてはいけないと思っていた。 
 
 ──そうしてだからこそそれは、『彼』が『彼』であり続けるためのささやかな楽しみ。 
 ちょっと贅沢して、おいしいものを食べて、休みの日はごろごろだらだら。 
 (王都時代は軍の官舎に住んでた為にペット飼えなかったので) 
 ペットショップのショーウィンドウにトランペット少年よろしくべったりと張りついて、 
 (通行人に気味悪がられながらも)小さな生き物達の愛らしい仕草に至福の時を過ごす。 
 ……そんな取るに足らない充足ではあっても、それでもこの灰色の日々、 
 また明日がやってくる、朝が来るのを恐れる毎日を、それでも乗り越えて行くのに不可欠な。 
 
 
 ……だから、彼女を拾った。 
 ……だから、彼女を拾う事が出来た。 
 人間ではダメでも、人権の無い、ペットでモノの、小動物の『ヒト』だったなら。 
 軍の制約にも引っかからず、彼の心も脅かさない……はず、だった。 
 
 
 それはハンターに執拗に狙われる、希少価値の高い保護動物を助けたような心持ちであり、 
 雨の日にダンボールに捨てられていた愛玩動物を、助けてあげられたような気持ちだった。 
 
 ドラゴンとかのカッコいい生き物も好きだが、可愛い生き物はもっと好きだ。 
 可愛い可愛い、可愛い生き物。 
 とても弱くて小さくて、ふよふよぷにぷに、見ててとても微笑ましくて。 
 ……だからとても、守ってあげたくなる。 
 
 
 ……守って、あげたかった。 
 
 いつか、いつか。 
 こんな【ティンダロス】になる前、遠い日の昔に夢見た、『正義の味方』のあるべき姿。 
 弱きを助け、弱きを守り、強きから庇い、強きを挫く。 
 
 今ではそんな、子供の頃夢見ていた『正義の味方』とは、ちょっと違う、 
 大人のこの身、血塗られた道の忌まわしき存在、殺戮機械にはなってしまったけれど。 
 ……だけどそんな遠い日に見た夢を、忘れた事はない。 
 ……心の奥底、誰の目からも本心に隠し続けていた、子供の頃のささやかな夢。 
 
 
 
――【 弱い、弱い、 実に弱いな、 お前達は! 】 
――【 そんなに誰かと手を取り合って、 誰かに肯定して貰わないと生きられないか! 】 
 
「……ッ!」 
 言葉と嘲笑を思い出して、心の中のもやもやを吐き出すかのよう、 
 ジークはひんやりとした地下室の壁を殴りつけた。 
 
 
 
 ――でも、だから今、こんなにも苦しくてたまらない。 
 抗生薬を飲んで、また火傷に薬を塗りながら、それでもその興奮と、『痛み』が収まらない。 
 
 傷だらけのあれを見つけて、ベットに横たわらせた、初めてのあの日。 
 
 ……『綺麗で、いい匂いのする生き物だなあ』と思い。 
 ……同時に『なんて脆くて力の無い、弱い生き物なんだろう』と思いもした。 
 
 自分がちょっと首に力を込めるだけで、簡単にへし折れてしまいそうな、華奢な骨と肉。 
 何でもないはずの風邪や感染症に、しかしすぐに負けて体調を崩す、脆弱な肉体。 
 
 ヒトが一般にどういう扱いをされているか、場所によってはどんな酷い事をされているか、 
 知っていたからこそ強い憤りをかき立てられ、内心の正義の心、保護欲を喚起され。 
 守って、大切にして、匿ってあげなければと決意して。 
 
 
      『黙れっ! よく見ろっ! なんだこの賞味期限が三ヶ月前らしき 
      世にもふざけた牛乳はっ! 普通に黒ずんで異臭放ってるだろうがっ! 
      なんでこんなもの後生大事に冷蔵庫に入れとくっ!? アホか! 
      ふざけろ! 殺されたくなかったらとっとと全部廃棄して来いっ!!』 
 
 
 ……だから素直に、ビックリした。 
 ……というか、フツーにビビった。 
 
 ちっちゃくて、脆くて、すぐ病気になる、力も体力も無い、魔法も使えない生き物は。 
 ――だけどものすごく『強く』て、そして……かなり、っていうか凄く……おっかなかった。 
 
 なんでだかよく分からないけど、でも言う事を聞かなきゃいけないような気がして、 
 不思議と怒られ怒鳴られてお尻を蹴られると、どういうわけか逆らえない。 
 半分腐ってうずたかくホコリの積もってた『自分の部屋』、『自分だけの領域』が、 
 しかし次々と綺麗に片付けられ掃除されてくのを、黙って見てるしかできなかった。 
 
 …主人によっては、無礼を働いたヒト奴隷を手打ちにするような者も少なくはないのに。 
 …というか、自分がその気になれば、一瞬でその首の骨をへし折れるのに。 
 強く、力のある、地位も上の自分に対し。 こんなに弱くて、小さくて、何の後ろ盾も無い者が。 
 ――どうして、ここまで出来るんだろう? 
 ――怖くないんだろうか、恐ろしくないんだろうか、自分の事が? 
 
 そんな、ちっちゃい弱者と生まれた弱い我が身を恨むわけでもなく、 
 力も、体力も、病気への抵抗もないのに、独楽鼠みたいにテキパキくるくる忙しく動き。 
 この小さな体のどこに、そんな元気、そんな活力があるのかと。 
 
 ……感動して、そうして自分が、とても恥ずかしくなった。 
 『弱い』というだけで可哀想だと、保護してあげなければと決め付けていた自分が、とても。 
 
 
 ――小さくて、怪我をしてて、可愛らしいのに、…だけど獅子を前にしても、威嚇をやめない。 
 ――こんなに弱くて何の力も持たないのに、絶対勝てない相手にも、最後まで誇り高く。 
 
 
 偏見を捨て、敬意を持って向き合ってみれば、そこからは後は素直に驚きの連続だった。 
 
 思っていたよりも遥かに頭が良く、言って来る事にも、乱暴だが一本筋が通っている。 
 食卓の席で語られる異界の技術話や、イヌの彼には及びもつかない発想に思想、 
 どれも興味深く新鮮で、また感動と興奮を与えてくれた。 
 …なぜ彼らヒトを誰もが奴隷扱いするのか、終いには理解できないと思いさえもした程だ。 
 
 すぐに怒って、時には彼をぶん殴ったり、蹴っ飛ばしたりなんて事もあったけど、 
 でもそういう時は、大抵は彼の方に非があって、生活にだらしなさが見られる場合の話、 
 …裏側にある、乱暴な言葉に隠された不器用な優しさが、すぐに彼には分かる様になった。 
 そうして悪いと思ったり、やり過ぎたと思った時には、向こうの方からきちんと謝ってくる、 
 気高くも不器用ながらものその潔さ、その『心の匂い』を、くすぐったくも気持ち良いと思った。 
 
 ――綺麗な心。 
 ――心地良い『匂い』。 
 
 ……怒ってもらえるというのが、すごく新鮮だった。 
 好き嫌いをすると、自堕落すると、本気で怒ってもらえて、怒鳴られるというのが嬉しかった。 
 綺麗に掃除された部屋で、ご飯を作ってくれて、洗濯してくれる人がいるというのが。 
 真剣に自分の話し相手になってくれて、時に本気で反論もしてくれる相手がいるというのが。 
 
 そうして、怒る、意見する、引っ叩く、主人に逆らう。 
 そんな事したら主人の怒りを買って殺されるかもしれないのに、それでも真っ向から、 
 主人の為を思うからこそ、我が身を第二に、耳に痛い諫言をぶつけてきてくれて。 
 媚も、保身も、怯えもない。 
 他人には厳しく、だけど自分にはもっと厳しく、ただただ真摯で気高くて。 
 
 ――すごいと思った。 
 ――すごく、すごく……すごく嬉しかった。 
 
 ――きれいな、きれいな、きれいな心。 
 ――とても、とても『いい匂い』。 
 
 
 そうして二ヶ月、三ヶ月と。 
 最初は全然馴れなかった手負いの小動物が、だけどちょこっとずつ見せるようになった、 
 薄く覆った硬質のガラスの中からの時折覗く、無防備な思慕と好意の色。 
 
 ……『その匂い』に、心の底から酔った。 
 ねっとりと甘く濃密で、だけど柔らかく暖かい、くらくらするくらいの『その匂い』に。 
 
 傷つけたくも、傷つけられたくもないと。 
 ずっと一人で生きてきて。 ずっと一人で暮らして来て。 
 …でもだけど、だからそれがそんなに素晴らしい物だと、その時初めて知ったのだ。 
 
 その小さくて強い生き物が、だけど自分だけに、本当に時々だけど見せる、 
 ドキドキする素の笑顔、甘えた仕草、ぎゅーっと抱きついてくるその動作。 
 その全部が自分へと注がれる、きらきらした物、きれいな物、いい匂い、温もりを。 
 
 ――欲しいなと。 
 
 
 
「………っ」 
 包帯を巻き終った手が、そのまま力なくへたれて垂れた。 
 
――【 欲しい物を手に入れる事のできないだけの『弱さ』を、『優しさ』と称して 】 
――【 なぜ奪えない? なぜエゴをエゴと認められない!? どうして飾り、また隠す! 】 
 
 ずるずると、壁に沿って床に倒れ込みながら。 
 ズボンにテントを作って痛いくらいの屹立は、しかし衰えるどころかむしろますます。 
 
 
 
 ぞっとする程のその暗い気持ちを、最初に感知した時は、「え?」と。 
 
 ……でもそれは少しずつ、そうして着実に彼の中で強く大きく、確かな物にとなっていった。 
 
 【ティンダロス】であるジークの性欲は、極めて薄く希薄な方……のはずだった。 
 性欲だけでなく食欲・睡眠欲も、その気になれば一週間寝ずに起きていられる身体、 
 機能の最小限を残して停滞させ、飲まず食わずで2〜3週間近く肉体を持たせる事も出来る。 
 性欲だって、週に一度でも処理しておけばそれで十分事足りる、 
 そんな風に『必要とされる機能以外をある程度自発的に閉じる事が出来る』能力を備えられ、 
 そう造られて、またそういう風に訓練されているはずだったのだ。 
 ……なのに。 
 
 絶対怒られるし、殴られるからやらなかったが。 
 でも最初は、あの温かくて柔らかそうな身体を『ぎゅ〜→ふにふに』したいなぁ、と。 
 次第に、あいつの身体を『色々いぢくって』『いぢめてみたり』とかしたいなぁ、と。 
 ぼうっとした頭に、だけどそんな事を考える事が多くなって。 
 
 
 ――淫夢を見るようになったのは、いつからだったろうか? 
 
 ある朝、目を覚ましたら下着がヌルヌルのベタベタだった。 
『…う……あ…?』 
 どこかすっきりしない、むしろ寝る前より疲れたような霞掛かる思考に、 
 尻の辺りまで広がる気色悪い感触、…夢精したのだと気がつくのには、しばらく掛かった。 
 
 16の時の精通以来の二度目の経験だったのだから、まあ無理もなく。 
 ……そして同時に、ありえないはずでもある事だった。 
 ある程度の身体能力の操作が出来、不要な機能を『閉じて』おく事ができる彼にとって、 
 沈静化に置かれているはずのその生殖機能が夢精――つまり勝手に暴発するなど、 
 少なくとも【ティンダロス】になり、そして精通を迎えての20余年、一度とて無かった事。 
 
『………??』 
 首を傾げながらも、その時はそんな自分のティンダロスとしての機能の変調と、 
 そのベトベトの下着をどうやって彼女にバレない様に処理するか、 
 それらばかりに頭がいって、『夢の内容』についてまでは、ちっとも頭が回らなかった。 
 
 ――その時は、まだ。 
 ――でも、すぐに嫌でも。 
 
 
 
 匂い。匂い。いい匂い。 
 柔らかそうな、抱き心地の良さそうな、温かそうな身体。 
 
 だけど親しみを寄せてくれるようになればなる程。 
 心を許してくれるようになればなる程。 
 
 手を伸ばせばすぐ届く所にある、その『清浄の煌めき』。 
 『原初の不浄』、…汚れて血に濡れた自分とは、明らかに違う。 
 
 『抱きしめて寝たらきっと気持ちいいんだろうな』、とか。 
 『抱いたままずっと離さないでいられたらどんなにいいだろうな』、とか。 
 …段々、洒落にならない事を考えてしまうようになり始める中。 
 淫夢が次第にはっきりと、起きた後でも鮮明な記憶として残るようになり始め…… 
 
 ……その頃にはもう、怖くなり始めていた。 
 自分の中にあるものの、その密かな願望の正体にも、薄々と。 
 
 
 ――音の無い夢の中で、ぱたぱたと蜘蛛の巣に掛かった蝶みたく逃げようと。 
 ――それを押さえつけて、両手両足で器用にあいつの四肢の動きをを封じ。 
 ――首筋に噛み付いて組み敷いて、股の間には肉の楔を突き立てる。 
 ――逃げられないのに、それでもぱたぱた暴れる彼女が愛しい。 
 
 ――無音の中でも、相手が泣いて嫌がってるのは明らかで。 
 ――でもそれを、笑って見てる。 
 ――やがて肉棒がビクビクと痙攣して迸りが出るのを感じると共に。 
 ―― 一瞬身体をビクつかせた後、泣いて諦めたように暴れるのをやめて。 
 ――それを、自分は、最高に満たされた気分で。 
 
『――っ!!』 
 ガバッと、そこでようやく跳ね起きたところで。 
『…う…あ…』 
 下着をぬらす、べっとりとした感覚は変わらない。 
 そんな事、もう幾度目だっただろうか? 
 
 
 週に1度の処理だったのが、週に2度の処理になって。 
 それが二日に1回、一日1回。 
 
 ……寝る前にちゃんと抜いたというのに、それでもそんな夢に目が覚めて。 
 パンツ一枚をべと濡れにしてしまう程の白濡れを見つけるなんて事まで起こり始めたのが、 
 奇しくも昼間、彼女に『シている所』を見られた、 
 正にその日の夜だったってのがもう救いようがなかった。 
 
 【ティンダロス】であるはずの自分が、『何故?』 『どうして?』 
 …なんて自問自答してみても、だけど本心では、もう理由なんて知れている。 
 
 だって今ではもう、暇が出来れば、空白になった頭に悶々と。 
 
 
 ……生まれて初めて。 
 他の為ではない、ただ自分の為だけに、何かをこんなにも『欲しい』と思ったのだ。 
 そうしてだから―― 
 
 
 ――だから、『遠ざけなければ』と必死になった―― 
 ――他ならばともかく、欲しいと思ったものの内容が、兎にも角にもやば過ぎる―― 
 ――あいつが困るのはそれでも分かっていたけれど―― 
 ――でもこんなの、話せるわけがないし、知られるわけにもいかない―― 
 
 ――自分が正気でいる内に、あいつをどこかに逃がさなければと―― 
 ――自分が理性を保ってられて、あいつを襲って、犯してしまわない内に……―― 
 
 ――……食い殺してしまわない内に、早く―― 
 
 
 
「う……ぁ…ああ…!」 
 呻いて、四つんばいになって身体を突っ張らせる。 
 それは肉体的な傷から来るものではない、言い様のない心の苦しさ。 
 
 ──その兵器的な特性から来る、極めて多大な心の『キャパシティ《許容限界値》』。 
 薬物・魔法による精神拷問や、魔素中毒による精神障害など、 
 よって外部からの精神干渉に対しては、常人の数十倍の耐久性を誇る【ティンダロス】だが、 
 しかしそれでも、その自律思考性を優先したが故に。 
 ……機械には無い、人間としての善悪判断、集団帰属能力、感情理解力、状況判断能力を 
 保持したままの兵器化を最重要項目としたが故に、ただ一つ、避けようの無い欠点として。 
 …自身の心の内より生まれた情動には、常人並の脆さしか持たないという、その短所。 
 さながら『落ちモノ』として時々落ちて来る映画のフィルムの中で、 
 人の感情を芽生えさせた機械が、それ故に機械の考え方を出来なくなり葛藤するように。 
 …人の心を持たされたまま兵器にされた以上、ただそれだけはどうしようも。 
 
 
 ――何より彼……ジークは既に、やってはいけない事をやってしまっていた。 
 
      「……ディン、スレイフが?」 
      「そうだ、だから周辺の警備局常駐員は、各自警戒して自衛索敵に専念するように。 
      間違っても功を焦って、独断専行で屋外警邏や対象追跡などを行わない事だ」 
 
 ――出ていたのは、【第764番国境警備局局長】たる彼に対しての、待機・警戒命令だけ。 
 
      「……それ、だけ、ですか…?」 
      「? 通達は以上で全文だが? サージェント・ズィークバル」 
 
 ――【GARM】本部よりの連絡など、最初から無く。 
 
      「…『パランティア《禁忌》を覗いた者に対する、ル・ガルの黒犬の発動命令』は?」 
      「……?? 『質問』の意味が取れないのだが」 
 
 【ティンダロス】としての彼に対する、掃討命令・追跡命令なんか出ていない。 
 アナグラムを全く解さなかった通話相手の様子からも、それは容易に想像がついた。 
 ……冷静に考えれば、それも当然の話。 
 何より彼は今、謹慎処分としてここに飛ばされてきたわけなのだから。 
 いくら近くにいるからと行って、出動命令が降りるわけはなく―― 
 
 ――なのに黒衣を身に纏った。 
 ……とどのつまり、これは完全な彼の独断専行。 
 許可も無いのに独断で、この【ティンダロス】としての力を、軍規に反して私的な目的の為に。 
 
 そうして、それは。 
 
 
 
「あ…ああ……ああああああああっ!!」 
 情けなくも涙を流して、這い蹲る。 
 でもそれは、当然の事。 
 それは命題崩壊、自己否定を意味する、彼にとっての最大の禁忌。 
 
 見張りに立っていた四人を排除して、そのまま不意打ちの機会を狙って潜むべきだったのに。 
 彼女が自分の名前を呼ぶ声を聞いたら、気がつけば輪の中に飛び出してしまっていた。 
 最優先から外れた行動方針、【ティンダロス】としてはおよそ不合理極まりない行動。 
 
 初めて、非戦闘員である誰かを庇いながら戦った。 
 勝算の無い勝負に、90%に届かない確率の下、何度も何度も無謀な賭けと選択を。 
 最優先から外れた戦い方を。最効率を選ばない戦い方を。 
 
 そんな【ティンダロス】らしくない事この上ない戦い方。 
 同時に完全な【ティンダロス】では、絶対に出来ない戦い方。 
 
 そうして―― 
 
 
 
――【 『愛』なんて、『信』なんてない、ただの錯覚なんだよそれは! 】 
 
(…違…う……) 
 と、ひんやりとした床に横たわった身、 
 涙目にそう言いたくても、でも言えないのが分かっている。 
 
 欲しい。 
 欲しい。 
 欲しい欲しい欲しい。 
 
 ……その欲望、そのドス黒い想いは、だけど『愛』なんて素晴らしいものではないだろう。 
 
 
――【 全ては主観、全ては錯覚、全ては分かり合えていると信じたいがためだ!】 
 
 ヒクヒクと痙攣する太腿の筋肉にギュッと足を閉じ、 
 …でもじゃあ彼の心の中にあったあの気持ちは何なのか。 
 
 秩序の為に、法の為にと『半分』では言いながら、 
 …でも残り『もう半分』、《剣》ではない方の心に自分が思っていた事。 
 《剣》を振るって戦っている時に、確かに胸の内にあったあの昏い想い。 
 
 
 服はボロボロ、骨を折られて四つんばいに押さえつけられ、泣かされてるあいつを見た時に、 
 《剣》じゃない方の心の中で、はじけ飛んだものがあったのだ。 
 
 ――皆殺しにしている瞬間、確かに楽しいと思った。 
  コイツラガ苛メタ 
  コイツラガ アイツヲ嗤ッテ、泣カシタンダ 
  ……『オレノ』アイツヲ 
 ――首領であるマルコ・サイアスの胸をぶち抜いてやった時、快感さえ感じた。 
  アイツノ涙ヲ見テ 楽シンダ 
  アイツノ服ヲ破イテ、勝手ニアイツノ裸ヲ見テ楽シンダ 
  アイツヲ傷ツケテ、虐メテ甚振ッテ楽シンダ 
  ……『オレノ』ナノニ 
 ――泣くあいつの前でヘビの魔女にトドメを刺した時なんか、心奥では狂喜乱舞してさえ。 
  許サナイ、許サナイ、許サナイ! 
  オレノダ、オレノダ、オレノダ!! 
  ヨクモ オレノコイツヲ 取ロウトシタナ! ヨクモ オレノコイツヲ 奪オウトシタナ! 
  ……殺シテヤル!! 
 ――死んだフリをしながら、だけど機械の演技の仮面の下で。 
 ――決して表には出ない煮えたぎったマグマ、何度心の中では跳ね起きただろう。 
  何ガ美シイダ、何ガ素晴ラシイダ 
  ソンナノ、言ワレナクタッテ ズット前カラ オレノ方ガ ヨク知ッテル 
  ソレヲ勝手ニ 後カラ来テ 
 
  オレガ 拾ッタンダ 
  オレガ 一番最初ニ 見ツケタンダ 
  コノ、キラキラシタモノ 
  コノ、トテモ良イ匂イノスル 綺麗ナモノ 
  『オレノ』ナノニ 
  『オレダケノ』ナノニ 
  ……ヨクモ!! 
 
 
 《剣》でない方の彼の、そのまた半分……四分の一には、確かに哀しみを抱きながら。 
 ……でも残り四分の一にあったのは、確かに歓喜と、歪んだ欲望。 
 
 
 そうして、殺して、殺して、殺して、殺して。 
 
 …殺しに酔う事は、これまでにもあった。 
 殺戮と血の匂いに酔って、血の昂ぶりを覚える事は。 
 
 ……でも、あんなに。 
 …あんなに、『楽しい』と。 
 あんなに『殺すことを楽しい』と、殺す相手を『いい気味だ』と思ったのは。 
 
 …そうだ、でも楽しかった。 
 自分の大切なものを盗ろうとした奴らを、叩き潰して。 
 自分の、自分だけの大切なものを奪い返して、取り戻して、もう一度この手に掴むのは。 
 
 それはとても、とても楽しく、快感で―― 
 
 
――でもそれは、『正義』から最も遠いもの。 
――『正義の味方』、『法の使徒』のする事じゃ。 
 
 
 『《剣》の自分』と、『《剣》じゃない方の自分』。 
 『公の自分』と、『私の自分』。 
 
 ティンダロス・ジークとしての自分と、誰にも見せた事の無いただのジークとしての自分と。 
 好きも嫌いもない器物の自分と、そんなもう一人の自分が大嫌いな自分とが。 
 
 ……分けておかなければ、切り離しておかなければならないはずの。 
 決して混ぜてはいけないはずのものが、だけど一緒くたになってしまったのを感じた。 
 
 嫌って、本当は疎んじて、触ろうとしなかったその《剣》の柄に。 
 しかし喜んで手を添えて、初めて自分の意思で、私欲の為にと振り回したのだ。 
 
――でもそれは。 
――それは絶対に『やっちゃいけない』はずの事だった。 
――《剣》と、《それ以外》とに、自分をくっきりと分けたあの日から。 
 
 
 
      ※     ※     ※     < 3 >     ※     ※     ※ 
 
 
 
「……ッ!」 
 ──欲しい。 
 ──欲しい。 
 ──あいつが欲しい。 
 
      多重魂載兵器ティンダロスは、101人分のイヌの魂を重ね合わされて誕生する。 
      人工規格外存在たる彼らが、そんな多重魂という性質から得た利点は数多いが、 
      しかし最大の欠点、その精神面な不安定さはどうしても取り除けなかった。 
      だって一つの器に、大きすぎる程の魂の重さ。 
      大容量、圧倒的な許容限界量《キャパシティ》を持つ精神は、しかし大きく、多すぎて。 
 
 ……でもそれは、それが抑え切れなくなる事だけはまずいのだ。 
 
 ネコの成人女性とヒトの成人男性ですら、まだ約1.5〜2倍の身体能力格差があるのである。 
 『すぐに壊れる』『すぐに病気になる』『すぐに死んでしまう』、 
 そんなヒトのメスに対する世間一般の風評は、だけどあながち、誇張表現でもない。 
 職務柄、ヒト奴隷の密売に手を染める闇商人の摘発に関わった際に、 
 そうやって『使い潰されて』、『壊されて』転がされたヒトの女達の姿を、ジークは見てきた。 
 
 そしてそれは、自分がブレーキを忘れて獣欲のままに彼女を蹂躙し食い荒らした、 
 その果てにある光景とも、また重なり得るもの。 
 
 
――【 ホント、中途半端だねお前達は。 傲慢にもなりきれない、獣にも戻れない 】 
――【 森の木々、野の獣を踏みにじりながら生きてるくせに、だけど蹂躙もしきれない 】 
――【 何をそんなに恐れるの? 何をそんなに怖がってるの? …ははははははっ 】 
 
 
      通常の彼だったら、そんな言葉に惑わされたりはしなかったかも知れない。 
      純粋な《剣》の状態で在れた彼だったら、露程も動揺なんかしなかったかも知れない。 
 
      …でも、公私を混同させてこの剣を振るってしまった今は。 
      『公』の耳でなら耐えられた言葉を、だけど『私』の耳でもまた聞いてしまった今回は。 
      ぐらついたその存在意義と、ヒビの入った自我、 
      『任務という言葉』や『戦場の緊張』に縛られていた交戦中はともかく、 
      こうやって今、それが弛緩するに伴って、じわじわと彼の心を侵食し。 
 
      なによりも、弱いのだ、『私』の方の彼は。 
      お前が悪いんだと後ろ指を差されれば、すぐにビクついて、泣き出してしまう程に。 
 
 なのに。そんな事してしまったら、彼女を壊してしまうのに。 
(…ちが…う………オレ…は……) 
 ……壊したい。 
 
      ──ううん、それでなくても、もうそれ以前に。 
      中央での取り返しがつかないあの大失敗、こんな所へと謹慎もかねて送致され。 
      その時点でもう綻びは、崩壊は始まっていたのかもしれなかった。 
 
      …いつからだったろうか、完全なはずのこの刀身に、微細な罅が生まれ始めたのは。 
      無関係の市民ごと、ターゲットを屠らなければいけなかった任務の時から? 
      消さなければいけない目撃者、子連れの母親を親子まとめて殺した時から? 
      強盗の仕業と見せる為、屋敷中、老婆から赤子までを殺さねばならなかった時から? 
 
 壊したくないのに、壊したい。 
 喰い殺したくないのに、食べてしまいたい。 
 壊れてしまったあいつなんか、もう自分が欲しかったあいつじゃなくて。 
 食べてしまったら、もうあいつはそこには居ないのに。 
 だけどそれでも飲み込んで、自分の中に取り込んでしまいたいと。 
 
(…お……れは…っ) 
 
 ……だってそうすれば、ずっと一緒、ずっと一つだ。 
 ……もう誰にも触らせない。誰にも危ない目になんか合わさせない。 
 
      酔ったのは、血の匂いに対してだけじゃなかった。 
      …背後にそっと寄り添われた、彼女の『匂い』にもまた酔ったのだ。 
 
      その揺ぎない信頼、謝罪と祈り。 
      心の全てが彼へと向けられて、小さな手がせめて自分を支えようと背に添えられる。 
 
      『一歩も退けない』事を、あれ程喜んだ事は初めてで。 
      『守れる』事を、あれ程喜んだ事は初めてだった。 
      …そうしてまた、手当ての時の、彼が生きていた事への心からの安堵のその匂い。 
 
(…ち…がう、オレは……) 
 泣かせたくないのに、泣かしたい。汚したくないのに、汚してやりたい。 
 思う存分いじめ倒して、心行くまで意地悪してやりたい。 
(そんな……ことしたく……) 
 彼女が自分の事を見ていないと、すごくイライラして不安になって。 
 自分の方を、自分だけの方を見させてやりたくなる。 
(…ない……んだ……) 
 あいつはモノじゃないのに、道具じゃないのに。 
 でも心の底では自分のモノにして、道具にしてしまいたいと思っている自分がいる。 
 大好きなのに、穢したくないのに。 
 首輪をつけて、鎖をかけて、逃げられないようにした後、思う存分穢して、蹂躙して。 
 
 欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。 
 汚して、泥を塗って、自分と一緒、自分と同じに。 
 あの笑顔も、あのいい匂いも、あの綺麗なものも、あの暖かい想いも。 
 指も、髪も、肌も、瞳も、涙も、心も、声も、全て全て。 
 
 ――どうして?と言われても、上手くは言えないし、論理的にも説明できないけど。 
 
 ……ただ。 
 
 こんなフカンゼンでキタナイ、ヨゴレタ自分だけど。 
 ……でも、あれを手に入れられたら。 
 あの『きらきら』を。 
 あの弱くても確かに輝く『きらきら』を、飲み込んで、自分の腹の中に収められたならば。 
 …その時自分は。 
 もっと完全な生き物になれるような気がする。 
 ……なんとなく、そうとしか。 
 
      そうして『サクリフィ・セル』――自爆魔法の為にとしがみ付いた構えたあの瞬間。 
      《秩序の剣》を語りながら、だけど本当は彼女の為に。 
      国家の為にという言葉に迷いを感じていた彼が、やっと見つけた死んでもいい場所。 
      喜んで死ねると思ったあの瞬間、そこにはなんの死への恐れも無く。 
 
 
 
「……ゥ…ぅゥ…」 
 まるで心臓がタコ糸でぐるぐる巻きにでもされたがみたく、 
 きゅうきゅうと締め付けられるように胸が苦しい。 
 腰と床に挟まれて、ズボンの布を限界まで突き上げる強張ったそれは、 
 擦りも触りもしていないのにじんじんと、快と不快の入り混じったむずむずを。 
 
 
 ――ジークは12の時に【ティンダロス】になり、その後15の時から二次性徴を迎え始めた。 
 だからそれ以前の、喜怒哀楽を始めとする原初的・基本的な感情だったらよく理解できるが。 
 
 生き物の限界に近づいて以来、止まった『時』。 
 薄められた心、極限まで肥大化した精神、そうして機械と、兵器となる為の訓練の日々。 
 快楽を伴った拷問を想定しての、房中術や性技については仕込まれても、 
 だけど結局それは、教えられたままのものをそっくりそのまま覚えたに過ぎず。 
 
 ……つまり彼は、知らなかったのだ。 
 その胸を締め付けられるような感触に、性器を中心にして虫が這うように蠢くむずむず。 
 …それが『切ない』という感情で、それが『欲情』しているという事なのだとは。 
 
 
「いやっ…だ…」 
 泣いて、叫んで。 
 情動を理性で制御不能、そんな状況に陥ったのすら彼にとっては初めてで恐ろしく。 
「嫌……」 
 聖域たる彼女を――俗に言う『オカズ』なんかにはしたくないと。 
 頭ではそう思っても、でも。 
「嫌だっ!!」 
 ぶるっと震えた股。 
 クッと反り返った尻尾に、きゅうっと張り詰めたモノが一杯になった感覚。 
「いっ――」 
 
 
 ビクッ、ビクッ、ビクッ…と。 
 
「………ぁ…」 
 ズボンの上からでも判る、屹立の痙攣。 
 
「…………」 
 急所防具の中に溢れかえる気持ちの悪い感触が無くても、 
 達してしまったのがすぐに分かる。 
 
「……は……ぅ…」 
 漏らした息に、横たえた身をきゅっと縮込めて。 
 …やってくるのはいつもと同じ、どうしようもない惨めさと、自分への卑下。 
 
「…ぅあ……っく」 
 鼻に香る、血の匂い。 
 まだ身に残る、殺戮の衝動。 
 …そうして手や背中に残った、あいつの匂いと暖かさ。 
 ――そうしてぽろぽろと頬毛をだらしなく塗らす、熱いもの。 
 
「うっ……うっ……うぇっ…」 
 …朝になれば、きっと消えている、きっと収まっている。 
 だからそれまでは、ここでこうして。 
 落下物研究所の引き取り人が来る四月まで持つかどうか、もうかなり怪しかったけれど。 
 …だけど耐えるしかない。 
 ……自分が、耐えるしかない。 
 
「ぅ……っ……っ……――」 
 そうやって打った寝返り。 
 涙でぼやけた視界。 
 
――ガチャン 
 抜けない全身の緊張に立ちっぱなしな耳が。 
――ギィッ 
 ……信じられないものを、捉えた。 
 
 
 
「…………お」 
 左手と右腿を包帯に巻いて、無事な右手にはバケツを持ち。 
 着るものも着ず、膝上まで隠すぶかぶかの、しかし着せてあげたのは彼のシャツ。 
「お…前……」 
 ──彼女しか居ないのが分かってても。 
 それでも開いた地下室のドア前に立つ彼女を見て、目を疑った。 
「バカ、なんで……」 
 彼が欲して止まない存在であって。 
 同時に汚したくて、喰いたくてたまらない存在でもある。 
「…なんで、来るんだよ……っ」 
 こっちが必死にここまで降りてきて、上に上がっていこうとする気持ちを抑えているのに。 
 わざわざ狼の巣穴に自分から入ってくるようなマネを―― 
 
 ――…どうしてこのヒトの少女は、するんだろうか。 
 
 びっこを引きながら片手でよたよたとバケツを持って。 
 入り口からふらふらとこっちに近づいてくる少女を見て、何しに来たんだと思う以上に。 
「来る、な……」 
 ヒトは弱いのだ。イヌの、【ティンダロス】の自分と違ってとてもとても。 
 こんな冷たい地下室まで降りてきて。…あれほど安静にしてろと言ったのに。 
「ダメ、だろお前。…寝てなき「「……うる、さい……っ」」 
 
 だけどそんな、至極まっとうな意見を言ったはずの彼の言葉が遮られて。 
 
「……う……ぐすっ…」 
 しかも相手が泣いているのまで見るに及び、今度こそジークはギョッとした。 
 
 それは、困る。 
 彼女に泣かれると、ジークはすごく困ってしまう。 
 なんでだか理由はよく分からないけど、とにかくすごく困ってしまうのだ。 
 困ってしまうのだが―― 
 
 
「……来るな」 
 ――それでも、来ないでもらいたかった。 
「……来ないで、くれよ」 
 怯えたようにあとずさっても、すぐに背中に冷たい石壁が突き当たる。 
 
「…頼むから、こっち、来ないでくれよ」 
 おかしな光景。 
 あれほどの殺戮をしてのけた存在が、たった一人、ヒトの少女を恐れて怖がるなど。 
 
「頼――「「……いっ、やだぁ…っ」」 
 だけどそう言って、泣きながら近づいてくるその少女こそが、 
 誰にも見せてこなかった本当の彼を、『弱い』からこそ唯一知りえた存在だった。 
 …ティンダロスであるジークの心の核を砕き、殺す事だってできる唯一の。 
 
「触わっちゃ、ダメなんだ」 
 
 血と、脂と、泥砂に汚れ。黒い衝動。血の興奮。 
 …襲ってしまう。 
 
「お前が、『汚れ――」 
 
 穢してしまうと。 
 
 
 
「うっさい!!!!」 
 べちっ、と。 
「べっ!?」 
 顔に叩きつけられた何か。 
 
 それがお湯で濡らされたタオルなんだと気がつくと同時に、 
 ……何か暖かいものに、抱きつかれた。 
 
「ば、か…っ」 
 ずるりとずり落ちたタオルの向こうに、震える泥混じりの黒髪が見える。 
「…なに、…勝手に、自分、一人で」 
 びっこを引き引き持って来たバケツが、お湯の入ったものだと判った。 
「おまえッ、どうして、そんな…」 
 支離滅裂な言葉、キッと睨みつけた瞳は潤んでいて。 
 
「…汚く、ない!」 
 ぐしぐしと乱暴に頬を擦られた濡れタオルに、こびり付いたどろっとした赤茶と砂粒。 
 初めて自分の顔が、相当酷い有様だったのだという事に気がつく。 
「汚くない! 汚くない! 汚くない!!」 
 そういう彼女の顔や髪だって、泥だらけ、煤だらけで酷い様子で。 
 お前の方こそ女の子なのに、と。 
「あんたは、絶対、汚くなんか、ないっ……」 
 そんなジークの呆けたような思考の前で、奥歯を噛み締めたまま少女はぶるぶる震えると。 
「きたなく、なんか……ないぃ……ぃ……ッ」 
 ぺたん、と真っ黒になったタオルを彼の胸の上に落として。 
 
 
 ……たった、それだけの事だ。 
 戦えるわけでも、特殊な能力があるわけでもなく、包帯の巻き方一つロクに知らない。 
 できる事と言ったら、こうやって体中についた血と砂を拭う事ぐらい。 
 
 
「…ごめっ…んな…さい…」 
 嗚咽を洩らしながら謝ってくるのは、許せないから? 
 言いつけを忘れて勝手に飛び出し、助けてもらった挙句大怪我まで負わせた自分を? 
「……オレが、悪いんだよ」 
 でも、それを言うなら彼だって彼女の事を利用していた。 
 彼女を襲わず、守り保護し続けるという事を通して、『自分を』守りたかったのだ。 
 『体のいいおためごかしの為の道具』という非難に、偽りはない。 
 道具扱いしたくないと公言する事で、…でもそれを通して道具にしていたんだから。 
 汚い自分から逃げる為に。信じたい正義に縋りつく為に。 
 
──噛み合わない会話。 
 
「…ごめん…な…さいぃ…」 
 泣きじゃくって彼の胸に頭を埋めてくるのは、申し訳なくて堪らないから? 
 戦う事も、傷の手当てもできず、こんな事しか出来ない自分を? 
「オレ、お前の事、騙したよ」 
 だけど、ずっと嘘をついていた。 
 嫌われるのが怖くて、化け物と呼ばれるのが嫌で、好いて欲しくて、ずっと嘘を。 
 そうしてずっと、利用して騙し。 
 さっきだってディンスレイフを謀る為とは言え、彼女までも利用して騙し。 
 それなのに勝つ事も出来ず、結局彼女に命を救われた形となった。 
 
──噛み合わない言葉。 
 
「…ごめっ…ぇ……っ」 
 でも。 
「オレ、オレ――」 
 それでも。 
 
 その涙。 
 その想い。 
 その『心の匂い』。 
 
 ……それでも気持ちは、お互い痛いほどに伝わった。 
 
 
「……いいんだ、うん」 
 出会って以来、初めて背中に手を回して抱きしめてあげながら。 
 不安定極まりなかった精神が、なぜか落ち着いている。 
「…お前は悪くない。…悪くないよ、お前は」 
 暖かいと思い、柔らかいと思い、嬉しいと思い。 
 そしてあれほど「襲う」「襲う」と思っていたのに、どうしてか心は穏やかだった。 
「…だから泣かないで」 
 背中を優しく叩いて、安心させるように撫でてやりながら。 
 
 ──ああ、そうか。 
 
「オレは、怒ってないから」 
 その愛おしさ。 
 この赦し。 
 
 ――オレは 
 ――オレは 
 ――何よりもまず 
 
「……な?」 
 
 ――これが、欲しかったんだ 
 
 
 
      ※     ※     ※     < 4 >     ※     ※     ※ 
 
 
 
 ──バケツに半分近くのお湯は、すぐに砂と赤茶色でどろどろになっちゃって。 
 ──結局あたしは二回、ストーブの上でヤカンにお湯を沸かし直さなきゃならなくなった。 
 
 そうしてその間にも、寝台の上に腰掛けたあいつはテキパキと、 
 自分の身体に自分で薬を塗ったり、口を使いながら器用に包帯を巻いたりしていて。 
「大丈夫?」 
「ん…」 
 感心すると同時に、だけどやけに手馴れた手つきが気になる。 
 …まるで自分の身体に自分で包帯を巻くのなんて慣れている、とでも言うみたいに。 
 
「……ごめんね…」 
 それなのに応急処置の仕方、包帯の巻き方一つロクに分からない自分が情けなくて、 
 自然と今日何度目かになる謝罪の言葉が洩れてしまったけど。 
「…あ、う、うん、いいよ別に…うん」 
 なにかどぎまぎ、あわあわしながら慌ててるこいつを見てると、 
 とてもじゃないけどさっきまで殺戮と闘争のど真ん中にいたのと同一人物には思えない。 
 
 まるで機械のように無機的に、薄く延びて光の消えていた目は、 
 だけど今は柔らかい、どこか焦点が定まっていない緑色の優しい瞳に戻ってる。 
 声も似たようなそれから、肉厚で温かみのある、感情の篭ったそれに戻っていたけれど、 
 ……でもあれが夢じゃなかった事は、今更言うまでもないれっきとした事実だ。 
 
 
 ふさふさの体毛は生えていても、五本指でヒトのそれに近い大きな手。 
 …でも、今は拭い取られててその名残はほとんどないけれど、 
 だけどさっきまでは確かに赤茶でガビガビ、そこに砂が毛に絡まってベタベタのドロドロで。 
 
 ……この手で、この手に握った剣で、何十人のイヌを、『イヌ』から『ただの肉の塊』に。 
 ……そうしてあのヘビの女の人や、オオカミの頭目も、…ころして、たんだなぁと、…思うと。 
 
 思うと、でも、そこにあるツメは。 
 
 …分厚くて硬いけど、しっかり切られててヤスリで丸められてるツメは、 
 だけどあたしが「尖がってると危ないし爪垢溜まるから」って、切るように命令したそれで。 
 
 
 ……やっぱり分からなかった。 
 ……こういう時、どういう感想を持って、どんな言葉をかければいいのか。 
 
 『お礼』を言うには不謹慎で、『讃える』のはもっともっての他で、『悲しむ』のも無責任で。 
 …結局出てくるのは、ただ『ごめんなさい』、それしか無い。 
 
 
 ──…そんな思いで、でも黙々とこいつの頭の毛に残った細かい砂粒を取ってやってたら。 
「あ……」 
 ふいに右腕に包帯を巻き終わった雑巾が、少し困ったような声であたしの方を見て。 
「……その、ちょっとしばらくむこう向いてた方が、いいと思うんだけど」 
 おずおずと、遠慮がちに声を上げた。 
 
 ………… 
 
「……あ、着替え?」 
 見る影もなくボロボロになってしまった黒の軍用コートを脱ぎ捨てた今、 
 雑巾はズボンにノースリーブの黒い鎖帷子だけを見につけただけの状態だった。 
 なんかベコベコに凹んだり金網の破れ目みたくなってるその鎖帷子は、 
 向こうの世界じゃ見た事もないような、不思議な闇色の光沢を放っていたけど。 
 
「……そんなの気にしてないから、…それより早く脱ぎなよ」 
 ──じくじくと。 
 なんか赤いものが、お腹の所に真一文字に走った破れ目から少しずつだけど染み出してて。 
 
 …やられたフリする為に、だけどお腹にモロにディンスレイフの鳥型のカマイタチを受けた、 
 あの時の怪我なんだなというのが、流石にあたしにも即座に分かる。 
 
「…散々あたしの前で上半身裸でほっつき回ってたようなのが、いまさら何気にしてんのさ」 
 そうして、努めて明るくそんな軽口も叩きながら。 
 …でももう、着替えの見られる見られないなんて気にしてるような状況じゃないのにと、 
 そんな事も考えてちょっと呆れるというか、…なんだか少し悲しくなった。 
 
「いや、そのね、…えっと…」 
 でも、そんなあたしの気持ちに反して、何故だかこいつはもごもごと口篭ってて。 
「…あー、…つまり、さ」 
 …? なんでこんなに恥ずかしがってんだろ? とか、あたし本気で疑問に思い始めた頃。 
 
 
「……ちょっと、お腹裂けちゃってて、ね?」 
 
 
 ………は? 
 
「…たぶんこれ脱いだら、腹圧でちょっと腸はみ出ると思うから、…見ない方いいと」 
 
 ……なんか照れ臭そうにもじもじしながら(実際本気でもじもじしてた)、 
 『せんせい、おトイレ…』とか言い出しそうな感じでンな台詞を吐くこいつ。 
 でも── 
 
「……おっ、お腹裂け???」 
「うん」 
 
 ──いや、うんじゃねえだろ、それ! 
 
「えっ、って、てかそれ、むちゃんこやばいじゃんっ!? …びょ、病院――」 
「…あ、いや、大丈夫。 たぶん内臓までは行ってないから」 
 ほわっ、と笑ってそう言う雑巾だけど。 
 …でも、何か違う。 
「い、いいい、痛いだろうがでもそれっ、こんバカッ!」 
「いや、でも痛覚は九割方絞ってあるんだよ」 
 何でもないように言うこいつだけど。 
 …でも、何か違うと、さっき感じたのと同じ違和感を感じる。 
「この鎖帷子、コルセット代わりにもなってるから、出血もそんな酷くはないし」 
 安心させるように、心配させないようにと、──微塵も痩せ我慢とか脂汗とかの無い笑顔で。 
 でもテキパキと、救急箱の中に入っていた『針』をランプの火にかざして。 
 でも何の淀みもない動作で、消毒薬のビンとか取り出してるこいつを見てると。 
 
「な、なにす――「「縫う」」 
 
 当たり前の事みたく言うこいつに。 
 
 ……でも、やっぱり何かおかしいよ、それ。 
「…オレならこのまま治せなくもないけど、でもそれだと流石に丸一日動けなくなっちゃうから」 
 …そういうんじゃなくて。 
「それに縫ってくっつけといた方が治りも早いし、治りかけの傷が開くなんてことも無いからね」 
 そういうんじゃなくてさぁ。 
 
「…でもこれ、結構女の子にはグロいと思うから。だからちょっと後ろ見てた方が―― 
「――ば、かぁ…っ」 
 
 ………… 
 
「…な、なんでまた泣くの――「「ちがう、でしょうがぁッ」」 
 ぶわっと込み上げてくる熱いものを無視して、だけどこいつのほっぺたをぶっ叩いた。 
 ぺし、とかいう情けない音が立つ。 
 でもそうでもしないと、ただ『あたしが泣いた事』だけにのみおろおろして。 
 ……おろおろしてるこいつの表情に、耐えられなかったんだ。 
 
「…怖がれよ」 
 ――だって、量が多いとか少ないとか以前に、お腹からじくじく血が出てるんだよ? 
「ビビんなさいよ」 
 ――だって、自分で自分のお腹縫うとか言ってるんだよ? 
「痛がんなさいよ! 泣きなさいよ!! 苦しそうにしなさいよっ!!」 
 ――全身ボロボロで、火傷とか擦り傷とか切り傷とか打ち身青痣とかで一杯なのに。 
 
「……泣いたって……」 
 怖がったって、ビビったって、弱音吐いたって、泣き言もらしたって。 
「……誰も、怒んないじゃ、ないのさぁ……っ」 
 別にいいのに、怒らないのに。 
 なのにおかしい、普通の人間と違う、どこか変だ、何かがズレてる。 
「……そんなの、まるで――」 
 ――まるで『人間』じゃない、『人形』みたいじゃないかと。 
 
 
「……怖い?」 
 
 そう思った所に、ぽつりと洩らされた言葉に。 
 
「違うッ!!」 
 
 あたしがキッと睨み上げた先の顔は。 
 ……だけどやっぱり悲しそうで、申し訳無さそうで。 
 
 
「うん、ごめんね」 
 ……だからあたしは、この声が嫌い。 
「でも、本当に分かんないんだ」 
 この手が、この表情が、この瞳に宿るものが嫌い。 
「ケガをして、でも怖いとかビビるとか、そういう風に感じるの、…もうずっと昔に、忘れちゃった」 
 嗚咽をあげるあたしの肩を抱いてくれる手は優しくて。 
「まだ大丈夫だなとか、そろそろやばいなとか、…そういう風にしか、分かんないんだよ」 
 だけど声と表情はとても哀しくて、見ててとても辛い、心が苦しくなる。 
 
「だからホント、」 
 謝らなくていい事を謝る、気にしなくていい事を気にする、使わなくていい所に気を使う。 
「…ホント出来ない、やり方分かんないんだ、それ」 
 ……美徳なんか到底ありえない、見てて痛々しすぎる、すごいダメな優しさ。 
「…ごめんな」 
 自分はどうでも良くて、自分を全く省みない人間の優しさだ。 
 自分の身を削ってでも他人の為に尽くして与えて、そうして呆けた様な幸せに浸かる人間の、 
「…ホントに、ごめん」 
 ……自分が大嫌いな人間特有の、だからこその他人への優しさだ。 
 
 
 その青く穏やかな輝きはとても綺麗で、純粋な光で。 
 …でもあまりに光が純粋すぎて、眩しすぎて、逆に目にチカチカして、そうして網膜に刺さる。 
 清らかすぎて、一途すぎて、でもだから誰もが遠ざける、痛々しすぎる位不純物の無い光。 
 
 ──だけどあたしの頭に伸ばされた手は、それでも暖かい。 
 血に濡れて、何十人もの人間を殺めたはずの肩を抱く手は、それでも暖かくて優しく強い。 
 掛けられる労わりは暖かい。注がれる慈愛は暖かい。 
 
 
 ──だから。 
 
「……だから、ちょっとむこう向いてて――「「…見る」」 
 
 もぞもぞと腕の中から抜け出してそう言ったあたしに、 
 今度はこいつが「へ?」とまぬけな声を上げた。 
 
「み、見るって、何を―― 
「だから、見る」 
 そんな素っ頓狂な声をあげる相手だったけど、だけどあたしは相手のお腹をしっかり見て。 
「全部、見てる。……見てるからね」 
 ぐっと両手を握り締めて、じくじくと血の滲んでいるその部分から目を逸らさない。 
 
「い、いや、お前―― 
「うっさいな、見るっつってんだよこのバカ雑巾!」 
 それでもうろたえてオロオロするこいつに、叱咤も飛ばした。 
「とっとと縫っちゃえってのよ! あたしぜんっぜん気にしないからっ」 
 …だってそうしないとこいつは、本当に何も出来ないような気がしたから。 
 …いつまでもあたしの事気にして気遣って、何にも。 
 
 
 そうしてそんなあたしの態度に、しばらくの間、ぐっと詰まったような表情を作った後。 
「…な、なんで……」 
 『どうして?』という表情で、分からないと言わんばかりに訊いてくるこいつに訊ねられれば。 
 
「…だって、あたしだけ逃げるなんて、……卑怯だよ」 
 それでもあたしは、そう思うんだ。 
 ここで甘えたら、ここで逃げたら、…ここで目を逸らしたら、ダメだって。 
「…見るからね」 
 我侭なのかも知れないけど、自分勝手なのかもしれないけど、…それでも。 
「……見るもん」 
 
 
 
 しばらくの間、そうやって黙って見つめ合ってた。 
 縫い針を消毒するためのアルコールランプの火が、じじ…っと音を立てて揺れる中、 
 それでも見つめるというよりは、睨むようなあたしの目をあいつは黙って見てて。 
 
 ――でも唐突に、そんな視線の先のあいつの顔が崩れて。 
「……ははっ」 
 ほんのちょっと、…見慣れていなければよく判らないような、人間とは違う顔の変化。 
 ……でも確かに、なんだか楽しそうにあいつは笑った。 
「な、何がおかしいのさ!!」 
「ああ、うん、違う、…違うんだ」 
 それを馬鹿にされた、鼻で笑われたと感じたあたしは、恥ずかしいのと悔しいのとで 
 ムキになって赤くなったんだけれど。 
 だけどそれを片手で制して、笑いながらあたしの方を見つめ直した雑巾は、 
 
 ……なんだか、ふんわりと笑って。 
 ……なんだかすごい、優しくて柔らかい、いい眼をして。 
 
 
「……お前は、可愛いね」 
 
 
 ──…不謹慎だけど、ドキッとした。 
 耳をこそぐっていくその独特の響き、意外と高いけど掠れた男の人の声。 
 見つめ返された瞳の中には……なんか上手く言えない、妙にドキドキしちゃう物があって。 
 こんな時に、こんな状況でそう思うのは、正直アレなのかも知んなかったけど、 
 …だけど確かに、変な胸の動悸と顔が熱くなるものを、あたしはその時感じたんだよね。 
 
 ……次の瞬間、ベリッ、とか、ジャラッ、とかって音を立てて剥がし脱がされた鎖帷子に、 
 そんなドキドキもまあ別な意味でのドキドキになったというか、吹っ飛んだんだけど。 
 
 
 
 ──もちろん、グロかった。 
 吐き気はしなくても、だけど思わず引き攣って何度も背けそうになってしまう顔を、 
 しかし必死に首で固定してそこを見つめ続けるというのは、結構力が要った。 
 
「…い…痛く、ないの…?」 
「痛覚消してあるからね」 
 時代劇とかで怪我した侍がお酒を吹きかけるみたく、口に含んだ消毒用アルコールを 
 霧吹きみたいに吹きかけて、そのまま左手と口を使って器用に縫っていくその手つきは、 
 なんか馴れてるけど大雑把というか、早いけど乱暴だ。 
「…まぁ、完全に消しちゃうと逆に身体の異状とかが全然分かんなくなっちゃうから、 
変なトコに針指しちゃったりとかしないように、ちょこっとは残してあるんだけど」 
 そうは言いながら、結構すいすい、きつく開いた部分を縫い合わせていくけれど。 
 …でもそんなぶっとい針、ぶっとい糸…うわ、また肉にブスッって。 
 
「て、てか、そんなもんでいいの!?」 
 なにより滅菌手袋も手術室も無しに、ただ火で炙った針とアルコールで洗った手だけで 
 ガサツに縫い合わせてくその目の前の光景自体に、やっぱ戸惑いを隠せない。 
「病気とか、変なばい菌とか、感染症とか……」 
 普通にそういうのを気にしなきゃダメなんじゃないかなあとか、思ってしまうのだが。 
 
「……大丈夫だよ、…他の奴はともかく、『オレの身体』はね」 
──そうして縫い終わって包帯を巻き始めているこいつの。 
「ちょっとやそっとの感染症や雑菌じゃビクともしない様、それくらい頑丈に『造られてる』から」 
 そんな言葉、そんな自分のほつれを自分で縫い直す人形みたいな行動に。 
 
 
「……ねえ」 
 ──訊かずにはいられなかった。 
 
「……【ティンダロス】って、何?」 
 寒さでおぼろげだった意識、記憶の端に聞いた言葉。 
「……タジュウコンサイの、セイタイマドウヘイキって何?」 
 ピクリと止まったこいつの動作が、だけどそれが勘違いじゃなかった事を示している。 
「……101個の魂、101個の命を材料に作られたジュジュツヘイキって……」 
 魔法さっぱりで、そういうのがよく分からないあたしにですら。 
「……『人間兵器』って、何?」 
 だけど決して良い意味じゃない事が分かる、不吉な語句の数々。 
 
 
 ……魔法なんてものが存在するこの世界でも。 
 人間よりも遥かに優れた身体能力を持った獣人達が暮らすこの世界でも。 
 …それでもこいつの強さが『普通』じゃないのは。 
 …ううん、身体能力とか、武術の腕に魔術の腕とかそういう次元を超えて、 
 そもそもにしてその戦い方、その心構え、その戦いへの身の置き様がおかしい事ぐらいは、 
 あたしにだって、まざまざと分からされた。 
 
 ……こいつが、いかに普通じゃないかについて。 
 
 
 
「…オレを拭いてくれるのもいいけどさ」 
 
 ふいに手に持っていた温タオルを、ひょいと取り上げられた。 
 
「でもお前の顔や髪も、泥と砂でどろどろだよ?」 
 そうして向けられるのは、なんだかよく表情が読み取れない曖昧な顔。 
 唐突に切り替えられた話題。 
 
「拭いたげるから、ここおいで」 
「なっ……」 
 そういってポンポンと叩かれた包帯巻いたお腹の前、胡坐をかいた膝の上に、 
 ――顔が真っ赤になるのを感じながらも――だけどはぐらかされた、誤魔化されたと感じて。 
 
「ちょっと、誤魔化さ――「「……拭いてる間」」 
 でもあたしの反声を遮って向けられた瞳の中には。 
 
「……ちょっとした『お話』、暇つぶしにしてあげるから」 
 
 ……読み取れないのも無理はない。 
 とても複雑で、重くて一言では表現しきれない入り組んだ何かが。 
 一言には善悪を断じ切れない、複雑すぎる何かがあった。 
 
 
 
 ──昔話をしようか 
 ──どうしてイヌとネコは仲が悪いのか、どうしてイヌとオオカミは仲が悪いのか 
 ──大陸最古の歴史を持つ、二大国の一つなこの国が、 
 ──どうして三方を山に囲まれた、こんな地理的条件の悪い所に押し込められて 
 ──どうしてネコが今の世界一であり、 
 ──どうして大陸一の軍事大国が、どこにも戦争を仕掛けられずに大人しくしているのか 

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