どこまでも続く、鬱蒼とした森。 
幾つ越えたかも判らない、斜面と崖。 
梢の合間から射しこむ強い日差しと鳥の鳴き声に翻弄されながら、 
あたしはもう半ば機械的に、両足を前へと進めていた。 
 
放課後の学校で帰り支度をしていたはずだったのに、 
ふと立ちくらみを感じてうずくまってみれば、気がつけばそこは森の中。 
……当然、最初は夢かと、夢だと思いたかったのだが。 
だけどお約束でつねった頬に走るのは紛れもない現実の痛み、 
風も、音も、空気も、どれも夢だと決め込むには生々し過ぎる代物だった。 
 
…それから二日目になるのか、三日目になるのか。 
 
寝ずの山中行軍の間にじわじわと数を増やした草の葉による切傷は、 
今やむき出しの生腕生足に無数の赤い線を走らせていて。 
何よりも昨晩、迂闊にも斜面に足を取られて捻ってしまった右足首は、 
飛び上がるほどの痛みでもってあたしの脳天を揺さぶっている最中だった。 
そんな痛覚神経の甲斐甲斐しさには実際泣くほど感謝していたのだが、 
生憎ともうあたしには、飛び上がってやるだけの体力も気力も残っておらず。 
 
終いには疲労と高熱に頭は朦朧として。 
ここで目を閉じて寝てしまえば、目が覚めたらベットの上なんじゃないかと、 
幾度か思わないわけではなかったけれど。 
 
…でも時折森の中に響く得体の知れない鳥の鳴き声に、『寝たら死ぬ』、と。 
加えて、ここで座り込んでしまったら、足を止めてしまったら、 
もう2度と立ち上がれない、足を動かせないと、そんな風に確信してる自分がいて。 
 
 
……ううん、違う。 
情けない話、もうそれしか縋る事の出来るものがなかったみたいで。 
現実を受け入れはしても、それを深く考えて理解するというのはまた別事で。 
 
『歩いていれば、きっと帰れる』 
『たとえこれが現実でも、だけど諦めないで歩き続けてれば、きっと帰れる』 
根拠もないのに、ただ闇雲にそう信じて、だから必死で、前へ前へと歩き続けてた。 
……当時としては冷静に、取り乱したりなんかしてないと思ったものだったけれど、 
あとになって蓋を開けてみれば、まぁあたしの底のこの程度だったと、そういう事。 
 
 
 
ただ、あたしとあいつが出くわしたのは、そんな時だった。 
 
ガサッと言う音を立ててふいに目の前に出てきたそれを見て。 
……最初は、クマかと思ったような気がする。 
毛むくじゃらだし、何よりあたしよりも頭一つ以上図体がデカかったから。 
……次にイヌかと思い、その次にすぐさまいやオオカミかと思い直した。 
それはでかい図体の上に、狗頭と言えばいいのか、狼頭と言えばいいのか、 
ともかくそんな感じなのを、いい塩梅に胴体の上に乗っけていたからだ。 
 
……だけど、どうやらそのどれとも違うらしいと思い直したのが、 
そいつが身体に衣服らしきものを身につけているのを目に止めた時だ。 
赤いハーフパンツと、脛辺りまである黒くて丈夫そうなロングブーツ。 
上半身は何も着てなかったが、ご立派にもベルトには剣まで差していて、 
(…これで赤いチョッキと羽根帽子があれば、『長靴を履いた犬』なのに) 
と、妙に見当違いな事を真っ先に考えたのだけは、 
どういうわけか今になっても異様に鮮明に覚えている。 
 
…そうして、初めて。 
今更だったけど、その頃になってようやく。 
こんな生き物、地球上に存在しているわけがないのだという事と、 
自分の喉から、掠れたサイレンみたいな耳障りな音が出ている事に気がついた。 
 
…それが悲鳴だと気がつく前に、喉から搾り出されるあたしの最後の活力は、 
肺の中の空気と一緒に残っていた気力まで持っていってしまい…… 
 
 
……結局、それがなんの悲鳴だったのか。 
恐怖からのか、狂荒からのか、はてさて生命の危機に対するものか。 
理不尽な現状と意味不明な展開に、それでも必死に理性を保ってたのが、 
目前の人外生物の登場に、とうとう決壊してしまったが故の悲鳴だったか。 
それとも単に、気が緩んだ瞬間熱と痛みに耐えられなくなったのか。 
ただ、叫びたかっただけか。 
…あるいは相対する存在が『生命の危機以外の危機』をもたらしうる可能性を、 
どこか心の奥底、本能的な部分でうすぼんやりと察知したが故か。 
 
 
辿り着く前に暗闇に落ちてしまった今では、全てはもう、暗い、暗い、闇の中。 
 
 
 
 
 
 
――そして、半年後 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 1 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
窓の外にてしんしんと降り積もる雪を見ながら、あたしはコンロの火を止めた。 
こっちの世界にも麺類というものがあった事に感謝しつつ、 
あたしは鍋掴みごしに自信作である『山菜煮込みうどんモドキ(仮)』を持ち上げる。 
 
「おらっ! 雑巾、メシよメシ!」 
足の指で器用に引き戸を開けて、居間のコタツの上にドンと土鍋を置きながら、 
その横に寝転がっている邪魔っ気な『雑巾色の物体』を蹴っ飛ばすあたし。 
蹴り飛ばされてごろんとあおむけになったそれは…… 
 
……どっからどう見ても、イヌ人間。 
 
 
…いや、ていうか、犬としか言い様がないし。 
犬。 
マジ犬。 
もし伝承やオカルトに知識がある人ならば、「まんまウェアウルフ(人狼)」と言えば、 
こいつの風貌がどんなものなのか、多分想像しやすいかと思う。 
 
 
 
 
 
――イヌの国、ル・ガル。 
 
険しい山々に囲まれて、北にウサギの国、南にネコの国を眺める山の国。 
目が覚めた後、病み上がりのベットの上で、知能を備え、言葉を解し、 
二本足で歩く目の前のイヌ人間にそう言い聞かされては、 
それがどれ程バカげた話であっても、信じないわけにはいかなかった。 
 
ここは、二本足で歩く動物モドキ達の――獣人達の世界。 
なんでかサルだけが存在しない、万物の霊長がその座に至らなかった世界。 
 
『目を開けたら違う世界でした』だなんて、 
絵本か幻想文学、ゲームやアニメの世界だけの話だと思っていたのに。 
いざ望んでもいないのにその当事者にされて見れば、 
……教えられた話は、どれもカルチャーショックなものばかりだった。 
 
 
 
 
曰く、この世界では彼ら獣人とも言える存在が知的生命体の位置を占めており、 
残念ながらあたし達ヒトは【落ち物】として落ちてくる者以外にないという事。 
 
曰く、あたし達ヒトの世界はこの世界の上方に(あくまで概念的に)位置していて、 
時々次元の綻びに落ち込んだ上の世界の生物や無機物が、 
文字通り【落ち物】としてこっちの世界に落っこちてくるのだという事。 
 
曰く、そんなわけであたし達ヒトはこの世界ではいわゆる【珍獣】的な存在であり、 
『利用価値も高い』事から、主に各国の上流階級を購買層として、 
奴隷商人の間で目の玉が飛び出るほどの高値で取引されているという事。 
 
…そして曰く、あたしが元の世界に帰れる可能性は、ほとんど絶望的だという事。 
 
 
 
 
……いきなり知らない世界に連れて来られて、やれ『伝説の勇者』だの 
『運命に導かれし者』だの呼ばわりされるのに比べたら遥かにマシなのだろうが、 
でもマジで、正真正銘単なる事故として、たまたま踏んじゃいけない所を 
踏んじまったせいで無意味に落っこちてきただけ、天災でしたね御愁傷様〜… 
――っていうのも、それはそれでムカっ腹が立つというものだ。 
 
……しかもなによ、【ヒト奴隷】って。【レア物】って。【珍獣】って。 
不思議の国のアリスだってブチ切れてハートの女王の首かっ切りたくなるってのよ。 
 
 
……だいたい、大体、大体!! 
あたしに言わせれりゃ、【珍獣】なのは向こうの方だろうが、コラァッ! 
なんだい、メスはほとんどが人間の女の子に獣耳(or角)と尻尾をつけたような 
萌え萌えで可愛らしい容姿ばっかりだっていうのに、 
オスは目の前にいるような可愛げのない、まんま狼男犬男猫男みたいな 
毛玉ケダモノ人外野朗ばっかりだってのは! 
どの種族にも大抵は少数の例外(ヒトに近い男の子や、動物に近い女の子)が 
いるらしいとは言え、それにしたって不公平だ! 
なんでこんなに獣耳おねいさんや獣耳ロリっ子はいるのに、 
どうして獣耳のおにいさんや獣耳ショタっ子はちょこっとしかいないのか! 
不公平だ! 男女差別だ! 裁判官、意義を申し立てますどちくしょう。 
あたしだってハーレムしたいわ、はべらせたいわ! 
獣耳ショタのご主人様に囲まれての素敵な奴隷生活がしたいんじゃ!! 
 
 
……そんな(あたし達の世界の価値観からすれば)理不尽な事この上ない 
この世界の成り立ちに対し、 
内心でゼイゼイ荒い鼻息吐きながら散々人に言えない欲望を並べ挙げた後。 
 
見上げた先にあるのが無表情(…に見える)な狼男だったら、 
…そりゃ溜め息も出るっつのよ。 
てか、なんであたしだけこんなハズレを、とか、そんな風にさえ思ったわ。 
 
 
 
……いや、だって真面目な話、やっぱり普通に怖いんだもん。 
目の前のコボルトもどきは、外見の割には――本当に予想を裏切って―― 
高く闊達な声をしていて、発音の抑揚の端々には思いやりや同情の色も 
匂い漂う、ほんと、声だけ聞いてれば、とても理性的で暖かい感じだったけど。 
 
――表情、読めないし。 
(イヌ面なんだから当然だ。…てか、本当は喜怒哀楽で微妙な差があるのかも 
しれなかったが、少なくともその時のあたしには読み取れるわけないし) 
 
――それ以前に顔、普通におっかないし。 
(イヌ特有の鋭い目つきに、口を開く度に覗く牙。犬を怖がる小さい子を 
連れてきたら、絶対に火がついたように泣き出す、そんな顔です) 
 
――ガタイでかいし。頭悪そうだし。 
(身長は2m近くで、肩幅なんてあたしの約二倍、そのうえ上半身には 
何も着てなくて、毛皮の上からでも判るくらい筋骨隆々としてるんだもん、 
外見要素の全てが野蛮人とかケダモノとか、そう主張してたっての) 
 
そのくせ、この世界でのヒトは、『珍獣扱いで』、『とても利用価値が高く』 
『奴隷商人の間で』『上流階級を相手に』『高値で取引されてる』と来てるんだよ? 
特に、『とても利用価値が高い』のところ。 
一昔前ならともかく、あたしだって今時の中学三年生だったから、 
相手のどこかわざとぼかしたような言い方や、言い淀んだその仕草に、 
たとえ相手の表情から感情が読み取れなくっても、 
それがどういうニュアンスであるか、普通に察する事が出来るってもんだよ。 
 
 
……そりゃ、今となっちゃあ笑い話だけど。でも当時としては、 
二、三日生死の境を彷徨った上で、ようやくベットの上に起き上がれるように 
なったばかりだったから、ヒステリーを起こす気力もなかったというだけの話で。 
矢継ぎ早に聞かされる信じられない話に、落ち着いてたってよりは…… 
 
……もう怒るを通り越して諦めてたというか、達観してたというか。 
やけっぱちっていうか、かな〜り自棄、捨て鉢になってたような気がするな。 
さりげなく聞かされた『帰れる可能性はゼロに等しい』っていう言葉が、 
結構効いていたのもあったのかもしれない。 
 
 
 
(はっ、何遠慮して遠回しな表現ばっかり使ってんだか。 
素直に『あんたはオナペットです』って言やいいのにさ) 
 
だから、一応助けてもらったらしい手前、寝台で大人しくはしていたけれど。 
作り物の沈鬱な表情の裏で、あたしが考えていた事と言えばそんなもの。 
 
…だって、話を聞けば聞くほど、この世界での【ヒト】とは『そういうモノ』らしくて。 
しかも言葉の端々に聞いた『メスのヒトよりオスのヒトの方が人気が高い』 
『メスのヒトはすぐ死んじゃう』『体力が無い』『長持ちしない』という言い回しも、 
聞き捨てならないを通り越して……あまりと言えば、あまりなもの。 
 
ようするに、あれだ。 
……お約束通りに予想するなら、あるいは獣人名物のとんでもない精力と 
乱暴で荒々しい性行為に、あっという間にボロボロになって、身体を壊すのか。 
はたまた単純に致死性の未知の寄生虫や病原菌がいるというだけの話か、 
いずれにせよ、『陵辱の果ての死』、それだけはどうも動かないっぽくて、 
まるで「あなたの寿命は後三ヶ月です」と告知された、癌患者の心境だった。 
 
――ただただ「くそったれ!」、その一言が、その全て。 
これから先に起こる事への恐怖よりも、怒りと皮肉の方が強かったっけ。 
 
 
(……で、あんたは結局あたしをどれだけの値段で売るつもり? 
それともいっそ、自分1人であたし1人を『使い切る』予定とか?) 
 
場合によっちゃ舌噛む覚悟も必要かなぁとか頭の片隅で考えつつも、 
いっそ侮蔑と嘲りの薄笑いでもありありと浮かべ、 
そう言って睨みつけてやろうかと思った、だけどその時だった。 
 
 
 
「――だからね、危ないから勝手に外に出たらダメだよ?」 
 
  当時としては訝しんだし。 
 
「ここら辺は辺境で、それでなくても一番近い人里までもメスの足だと2時間は 
掛かるような、国境間際の山の中だからね」 
 
  実際、それでもあたし達二人の間にある『壁』の存在は、 
  少し趣を異にすれども、毅然としてそこにあったのだが。 
 
「治安はお世辞にもよくないし、何より山賊野盗の目に留まったりしたら、 
それこそ捕まえられて、悪質な奴隷商人に売られる羽目になる」 
 
  でも思えばこれが。 
 
「だけどここに居れば大丈夫、『僕』が守ってあげるから」 
 
  あたしと雑巾の間にある歯車の噛み合いが、微妙に狂い始めた、その始まり。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 2 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
――思えば、そんな出会ったばかりの頃の、 
『僕』とか『守ってあげるからね』とか言っててジェントルマン然としてた 
雑巾の姿が、なんとも懐かしくなる今日この頃なのだが。 
 
「……食べたくない」 
少なくとも今あたしの目の前にいる駄犬には、そんな匂いは欠片も見えない。 
どう見ても、冬なのにコタツで丸くなってる地堕落なイヌが一匹いるだけだ。 
 
「なんで」 
「……腹減ってない」 
 
人がせっかく素材に苦戦しながら『向こう』の料理を作ってやったのにこの態度、 
ムカついたんでどのツラ下げてんのかを覗き込んでやろうと回り込むと、 
ぷいっとばかりに、ゴロリと寝転がって不自然に顔を逸らされてしまった。 
 
 
…チラリと見た限りでは、不機嫌そうというか、虫の居所が悪いというか。 
例によっていつもの目つきの悪く、表情に乏しい犬顔だったのだが、 
……なんていうか、居心地悪そうにまごまごしてるっていうか。 
どこって言われると困るんだけど、仕草とか雰囲気とか語調とか。 
まるで悪い事をしたのを必死に隠そうとしてる子供みたいで、 
つまりこんな風にしてるって事は…… 
 
割れ物がないのをこれ幸いと、すかさずあたしは足でコタツを跳ね上げる。 
「えっ!? あっ…」 
流石にまさか、いきなりちゃぶ台返しされるとは思ってなかったのだろう、 
慌てた様子の雑巾が叫ぶものの、おっとどっこい、もう遅いわこのバカ犬が。 
 
 
 
「こ・ん・の・バカ雑巾っっ!! コタツの中に隠れて生肉食うなって 
あっっっっれほど言ったっつーのに、何さらしとんじゃ貴様はエエコラァー!!」 
 
 
 
予感、的中。 
 
母親が聞いたら「年頃の娘がなんて言葉遣いを」と言い出しそうな言葉で 
ブチ切れたあたしの示す先には、ビニールと赤い水と食いかけの肉。 
それは間違いなく、明日のオカズ用にと冷凍してあったはずの生肉の残骸で、 
……ああっていうか床に零れた血が染みになってチクショーこいつなんでこう 
要らぬ仕事を増やしてくれるんだかいやいやそもそも物食ってる時に 
ボロボロ零すなっていっつもいっつも言ってんのにどうしてこいつはこんなに 
食い汚いのか口の周りどころか胸元まで茶色くしやがってイライライライラ(以下略) 
 
 
「あ・ん・た・は!! コタツの中でモノ食うなって何度言ったら理解するっ!!? 
『イヌは三日の恩を三年忘れない』ってのは世迷い言の戯言かいコラ!  
マジでネコの方がまだ物覚えがいいっつーのよ、ネコに謝れ、謝れボケッ!! 
…それとも何!? あんただけが特別なんか!? ひょっとしてあんただけ 
脳みそある所にオガクズつまってますとか、そういう理由なんか!? おぉ!?」 
 
『冷蔵庫から取り出したばっかりだと脂肪がニチャニチャして気持ち悪い』とか言って、 
わざわざ人肌近くまで暖めてから食べる辺りは、まぁ百歩譲って許すよ、イヌだしさ。 
…でもコタツの中で食うのは許せないね。 何回言っても止めないのも許せんよ。 
そのせいで何度あたしが絨毯とコタツの掛け布団洗濯する羽目になったか、 
分かっているのに食うのを止めない、その意地汚さに今日こそキレた、キレましたよ。 
 
 
ビシッとおたまを突きつけながら威勢良く啖呵を切るあたしの目の先に、 
でかい図体の癖してコタツがひっくり返される時に器用にも飛び退ったのだろう、 
部屋の隅、片膝をついてこちらを見上げるアイツの姿。 
 
相変わらず変化に乏しくて、ヒトが表情を読み取るのに適していないイヌづら。 
敵愾心に満ちており、反抗の色を含んでいる……ようにパッと見見える目つき。 
『今にも唸り声を上げて威嚇してきそうな』 
あたし以外のヒト100人に聞いたら、100人が100人そう答えそうな、 
そんな大層なシチュエーションだったのだが、でも、しかし。 
 
 
「……だ、だってオレ、腹減って、我慢できなくて……」 
 
――声、震えてます。 
 
「…なんかくれよって言ってもおまえ、『もうすぐご飯だから』 
『7時まで待て』ってそればっかりだし…」 
 
――目、よく見ると普段よりも五割増しうるんでます。 
 
「…て、てか、そもそもオレの給料で買った肉なんだし! 
それをオレがどう食おうとオレの勝手…「「だまらっしゃあっ!!」…うあぅ」 
 
――極めつけに、大きなしっぽは股の間を通って丸まり中。 
 
 
……だてに半年、一緒に暮らしちゃいない。 
すわ凶悪狂暴な魔物妖怪モンスター、やれウェアウルフかコボルトか、 
2m近い身長と、プロレスラーもびっくりなくらいの立派な体格を備え、 
子供が見たら即行で泣き出すような、おっかない顔をしてんのに。 
 
 
「それにおまえ、ケールどばどば鍋の中に入れるんだもん……」 
                           (※ケール 長ネギっぽい野菜) 
 
 
……中身が、これじゃさあ…… 
 
自分よりも明らかに弱くてちっこいメスのヒト相手に、怒られてあぅあぅ言ってる 
コイツを見て、そんなあたし達が一応『イヌのご主人様とヒト召使い』の関係に 
あるだなんて、一体誰が思うだろうか、いや思わない(反語)。 
…あたしの方がご主人様なんじゃないかと、勘違いする奴はいるにしてもだ。 
 
その上、そんなこいつがイヌの国の王国軍に籍を置く、 
軍人も軍人、職業軍人だなんて、ホント、何かの冗談にしか聞こえないっつのよ。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 3 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
【ル・ガル王国−左軍3D5NA(=第3師団D連隊第5大隊N中隊A小隊)所属、 
第764番国境警備局局長ズィークバル・ローヌ、左記軍曹級扱ノ事】 
 
 
これがあたしの『ご主人様』……もとい、へたれ犬の正式の肩書きと名称だ。 
種族はイヌ、性別はオス、イヌの国生まれで雑種の平民、 
見事なまでの雑巾色の毛皮が眩しくもパッとしない、39歳(!)職業軍人。 
一応、『ジーク』という立派な愛称があるらしいが、その使い古した雑巾の色 
そっくりの冴えない毛並から取って、あたしは『雑巾』『雑巾』と呼んでいる。 
……いや、だってイヌのくせにズィークバルだなんて大層な名前、生意気だし。 
 
あと、『国境警備局長』なんて仰々しい肩書きはついてるものの、 
内実は辺境の国境監視所に、局長っつっても配置人員はこいつ1人だけ。 
…ようするにあれだ、ぶっちゃけて言っちゃえば 
『中央で失敗やらかしちゃって辺境に左遷された将来望み薄な哀れなわんころ』 
ってーのが本当の話って言えば本当の話かな? 
 
 
 
なんでもこのイヌの国の国境上には、此処みたいな国境警備局という名目の 
斥候詰所・国境監視所がおよそ約1000個ほど設置されているのだそうだ。 
 
イヌの国は内陸国で、それでなくても山地と荒地が大部分を占めるとは言え 
大陸一の広い国土を持つ国だから、おかげで国境を守るのも一苦労。 
もう城壁どころか鉄条網すら敷けないくらいにずずーんと長い国境だもんで、 
まともに兵を配備してたらそれこそいくら人員があっても足りゃしない。 
だからこういう監視・観測用Onlyの斥候詰所を国境上に数kmおきに配備して、 
異常があったら最寄の軍事基地に連絡する、そんな仕組みを取ってるらしい。 
 
…ただ問題なのは、やっぱり念の為の異常確認用+設備のメンテナンス用に 
最低でも一人、生身のイヌを、常駐で置いとかなきゃダメだろうって事で。 
 
 
国境と言えば辺境も辺境、僻地も僻地。 
ただでさえ治安が悪い上、施設の特性上トラブルに巻き込まれる可能性も高く、 
酷い所にもなれば山のてっぺんや樹海のど真ん中など、 
半ば軟禁されるような形で勤めなければならない国境警備局も多々存在する。 
とりわけ国の北側は、イヌの国言う所の『北威』『蛮族』であるオオカミ人との 
小競り合いが絶えない地域、国境の定義もあやふやになりがちで…… 
 
……だからここには必然的に、軍の内部でもはみだし者や扱いにくい者、 
上官に煙たがられる者や、不祥事を起こした者が優先的に飛ばされてくる、 
『泣く子も黙る出世街道逆走まっしぐらコース』の代名詞のような配属先だと。 
 
…そう目の前の本人が、以前ミカン食いながらのほほんと語っていたんで、 
多分そういう事で間違いはない……んだと思うよ? …うん、多分。 
 
 
 
『ある日さあ、どれだけ連絡しても返事が無い警備局があってさあ、 
おかしいなって思った近くの基地の人が様子見に行ったら、 
中で常駐のイヌが何者かに喉笛ザックリやられて死んでましたって、 
そういうの結構あるらしいんだって。…怖いよねえ』 
 
――いやいやいやいや、マジ洒落になってないから、それ。 
 
 
 
『中にはさ、そもそもある日突然忽然と消えちゃって、以来それっきり…… 
…ってのもあってさあ。…単純に見回りにいった先で事故ったか迷ったか、 
それともなんかヤバイものに出くわしちゃったのか知んないけど。 
…たぶん人知れず森の中で骨になってるとか、そういうオチなんだろうね』 
 
――いや………うん、だからさ。 
 
『嫌だよねえ、孤独死』……とかなんとか微妙にズレた事を、 
コタツに顔つっぷしながら、ぐだら〜っとのたまってた奴だったけど。 
かくいうあたし自身、野垂れ死に寸前まで行った貴重な経験を持つ日本人、 
人並みに危機感ってやつはあると思うんですよ。 
 
 
…この犬、のんきすぎると思うんですよね、んな38度線モドキに住んでるには。 
 
 
 
 
……ただ。 
対面に座して茶を啜りながら――あ? あたしも人の事言えない?―― 
そういう旨の事を言ってやっても、でも大抵あいつは『そうかな?』とだけ言って、 
耳をパタパタさせたあと眠たそうに目を細めるだけだ。 
 
この危機感の無さと、『いざとなったらその時だよ』的なのんき体勢が、 
どうにもあたしを不安にさせるというか、なんか見てられなくさせるというか。 
 
……だけど雑巾のそんな変わらない性格を見るにつけて、 
あたしはこの世界に来たばかりの頃の、こいつとのやりとりを思い出すんだよね。 
…悔しい話だけど、あの頃のさながら天災で 
家も家族も財産も友人も失ったおっちゃんよろしく荒んでたあたしにとって、 
こいつのこのボケボケさ加減が大いに救いになったという事実は、 
認めなきゃいけない事だと思うんでさ。 
 
 
 
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 
胃が食事を受けつけるぐらいまでには回復した頃だ。 
 
「はい、おかゆ」 
怖い顔に確実に不釣合いな明るい声。 
 
「……ありがとう」 
この世界にもおかゆってあるんだ、っていうか何で言葉通じてんのかなと、 
取り留めのない事を考えるがまま、あたしは差し出されるものを受け取った。 
 
 
 
……ドロリとした、白い穀物粥。 
 
 
 
(……毒とか変なクスリとか、入ってないよね……) 
 
差し出された物を食べたら急に眠くなり、気がついたらそこは調教部屋。 
そんなベタな展開を考えながらも、だけど食わなかったら食わなかったで 
心象悪くするなり怪しまれるなり、あまりよろしくない展開になりそうだと、 
僅か1〜2秒の間にそんな打算を働かせたあたしは、 
案外大人しくそれを口に運ん………… 
 
 
 
 
 
…………ぐっは!!!? 
 
 
 
ガチャン、と震える指先からスプーンを取り落としてしまいながらも。 
それを吐き出さなかったのは、我ながら今でも偉いと思う。 
 
 
――マズい。 
 
いや、マズいなんてもんじゃない、超激ゲロマズい。 
もっと具体的に言うと、この粥は甘い。 
ほんのりと甘いとかを遥かに通り越して、ふざけんなって位に砂糖甘い。 
例えるならば、『白い汁粉』。 
 
…いやいやいやいや、マジで想像してみたまえよ、諸君。 
熱い湯気と共に鼻腔をくすぐる、少し古くなった安米特有の米臭さ! 
そこに割り込んでくる、甘党も逃げ出すような舌を腐らす露骨な甘味ッ! 
かくて奏でられる不協和音。ジャイ○ンシチューもびっくりだ。 
 
 
『女将を呼べ! 女将を!』 
思わずそう叫びだしたくなるのを堪え、あたしは熱で疲労困憊の最中にある 
我が麗しくも天才的頭脳を、目を覚まして以来初めてフル回転させて考えた。 
そうだ、必ず何か理由があるはずだ。 
こんな粥を病人に対して出す以上、裏に黒い思惑の糸が。 
 
 
1.実は、本当に毒が入ってた。 
2.実は、本当にアヤしい薬が入ってた。 
3.ただのい〜や〜が〜ら〜せ〜 
4.単にこれがこの世界ではごくごく普通の料理なだけです。 
 
 
(…ちぃっ、手持ちの情報が少なすぎてどれもあり得るように思える。 
っていうか一番安全そうに見えて一番悲惨な4であってだけは欲しくないな!) 
んな事考えながら、脂汗流して白い産業廃棄物を凝視するあたし。 
 
 
「おいしい?」 
 
……そこに、思わず顔を上げるほどの場違いな声ですよ。 
顔を上げてみれば相も変わらずの人外の顔、チャイルドキルな怖い目つきで。 
何を考えているのか、例によって表情から読み取る事は出来なかったが。 
 
 
「えっとさ、そのまま味付け無しで出すのもあれだったし」 
 
おかしいよ、その声質。 
…なんでそんな、ドキドキわくわくなガキっぽい匂いぷんぷんなのさ。 
そのごつい体格とふっとい首で、どうやったらそんな声が出る? 
お前一体、どこのどういうどんな珍妙な生き物だよ、と。 
 
 
「疲れた体には甘いものが一番、ってもよく言うから」 
 
おかしいよ、おまえの背後。 
いやイヌなのは知ってるけどさ、なんでそんな、力いっぱい尻尾振る? 
なんでそんな、ものごっつ力いっぱい、尻尾ぶんぶん左右に振る? 
まるで初めての手作り料理を家族に判定してもらう時の小学生や、 
ほめてーほめてーとでも言いたげな犬みたいに。 
んな怖い顔の分際で、と。 
 
 
「塩の代わりに砂糖、入れてみたんだけど……」 
 
そしてもっとおかしいよ、お前のその感性。 
疲れた体には甘いものが一番だからって、なんで粥に砂糖いれるよ? 
普通しねぇよ。 
お前は『疲れた体には甘いものが一番』と聞けば、 
ハンバーグにもカレーにも刺身にも砂糖掛けて出すんかと。 
問い詰めたいよ、小一時間ほど問い詰めたいよ。 
 
 
「……おいしいよねぇ、甘いものって」 
 
あまつ信じられん事に、のほほんと自己完結してやがる!? 
人に「おいしい?」って聞いてきといて、何を一人で勝手に納得してんだ!! 
っていうか、なんだそのイカれた三段論法は!! 
『甘いのおいしい→お粥に砂糖→きっとおいしい』ってか!? 
ふざけんな!! 殺すぞ!? …あ、つーか味見してねーな!? 
 
 
 
…―と、怒涛のツッコミを加えたい衝動を、あたしは勿論辛うじて押さえ込んだ。 
 
 
…そりゃ、白状しますよ。吉本大好き、笑点大好きの中学三年生ですよ。 
好きな週間漫画はうす○京介のと野○栄治のという、今時おかしい女の子ですよ。 
でも、だからって流石に(人外さんとは言え)命の恩人相手に、 
かつての世界――いちおう演劇部部長――でしてたように、「ふざけんなボケー」と 
言いながら男子部員の頭に跳び蹴り食らわす様なマネする訳にはいかないでしょ。 
今後の身の振り方も判らないような、この状況で。 
 
「中央に居た頃は友達にはお前それでもオスかって馬鹿にされたんだけどね、 
でもアルシフォンのチョコレートケーキ、あれを食べないのは人生の損―……」 
 
…でもそんなあたしの気苦労も知らず、幸せそうに(実際そんなオーラが見えた) 
聞かれてもいない甘いもの談義を繰り広げる目の前のイヌを見ていると。 
 
 
5.単にコイツが馬鹿なだけ 
 
 
(…いや、まさか、それはさすがに…) 
突如浮かんで来たそんな第五の選択肢に、『渡る世間は鬼ばかり』を 
信条とするあたしの理性は、そりゃ当然のごとく反発はしたのだが。 
しかし我が積年の相棒、演劇部で培ったこの観察眼の主張を信じるならば。 
 
『この絶妙な頭のネジの緩みっぷりは、演技で出来るものではない』 
『というか、病人の粥に砂糖を入れるなんてボケは天然にしか無理』 
 
 
 
 
(――…はは。…なんか、利用、できそうかも……) 
 
 
……浅ましいとは思うけど。 
……けれど真実を告白するなら、真っ先に考えたのはそんな事だった。 
 
 
…だって、知らない生物、未知の植物、あり得ない種族、読めない文字。 
ここが異世界とやらだと言う事は、百歩譲って認めるとしても、 
だからといってこいつの言ってる事が、全て真実だという証拠はない。 
 
こいつが馬鹿なら馬鹿、お人好しならお人好しで、それはそれでよし。 
ツイてる時に流れに乗らず、わざわざ転がり込んできた幸運を 
リリースするほど、あたしは馬鹿でないし、その程度にはしたたかで…… 
……なによりかな〜り諦めの悪い方だという、そんな自覚も自分であった。 
 
 
 
――そう、さながらあの頃のあたしの思考を、そっくりそのまま真似るのならば。 
 
 
 
(…何が『ヒト召使』よ、何が『帰るのは無理』よ。…ふざけんなっての) 
 
必要ならば、被れる所までネコを被り、媚びも売れる所まで売ってやろう。 
そんな上辺だけの愛想なんて、真に譲れない物に比べたら安い物、 
例え『召使』だとか『奴隷』の身分に甘んじ、身体を売る必要があったとしても、 
それでも心は自分のものだ、誰かに服従するつもりもさらさらない、 
そうして必ず生き抜いて、元の世界に帰るのだと、そんな事だけ考えてた。 
 
 
……だって、でも、当たり前でしょう? あたしがそう考える事ぐらい。 
 
あたしは完全に事故で、来たくも無いのにこの世界に迷い込んだもの。 
別に前の世界じゃいじめられっ子でもなく、世を儚んでもいなかった。 
家族にも、友達にも、まだ別れの言葉も言ってない内から引き離されたのだ。 
失ったものを取り戻し、その為にあらゆる手段を講じようとするのは、 
あたしに与えられた当然の権利のはずである。 
 
幸い、『泣いて喚いても何も変わらない』、それぐらいなら理解してる身だ、 
……だったら行動あるのみ、掴める物は掴み取り、利用できる物は利用して、 
誰を欺こうとも、何を謀ろうとも、目的の達成を目指す。……それくらいは。 
 
…せめてそれくらいは許されないと。…やってられないじゃないのと、あの頃は。 
 
 
 
 
……幸い、少なくとも売れば大金になるらしい見ず知らずの行き倒れ(♀)を、 
据え膳を前に襲いもせずに親切丁寧に看病するようなお優しい相手だ。 
脈が欠片も無いわけじゃない、せいぜい愛想と労働力を売りにしながら、 
とりあえずはこの世界の情報収集、地図と文字を覚えなきゃと、 
表情を隠した顔の裏で、そんな不遜な事を考えて。 
 
 
まあ、でも何はともあれ。 
第一の最重要優先解決課題は。 
 
「…あの、こんなに良くしてもらっている所を、申し訳ないのですが」 
「……え?」 
 
ああ前の世界で演劇かじっててよかったと、心の底から思いながら。 
つとめて穏やかに、なるたけ相手を不快な思いをさせる事なく。 
 
「…どうやら病み上がりの身にこんなに味の濃いものは、 
やはり、どうにも受け付けがたいようで……」 
 
やんわりと。 
幾重にも言葉のオブラートに包みこんで。 
 
「すみません、折角作っていただいたというのに」 
 
 
 
――ようは『こんなモン食えるか!!』と。 
この砂糖米汁こと白い汁粉(仮)を、相手に突っ返す事だった。 
 
 
 
 
 
 
が。 
 
奴はひとしきり顎に手を当てて「んー」と唸り、やがてポン、と手を打つと。 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……ああ! つわり?」 
 
 
 
 
 
………… 
 
 
 
  なーなーめー よん、じゅう、ご、ど〜♪ 
  しゅーとーうー ふ、り、おろ〜すよ〜♪ 
  きっりっさっけ、み〜ぎ〜て〜 バーカーの、え〜り〜も〜と〜…… 
 
 
 
 
 
 
 
「っなんでじゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!!」 
 
 
ずびしーん!! 
 
びしーん。 
 
しーん… 
 
………… 
 
 
 
 
 
 
……はうぁっ!? 
 
 
 
相手の胸部に、きっちり斜め45度の角度で裂帛の手刀を叩き込んでる 
自分に気がついた時には、もう遅かった。 
 
(うあああああああーーーっ!! やっちまったよあたしーーーっ!!) 
 
崩壊。あたしの一大決心、決意15秒後にて早くも崩壊。 
自分の愚かさ加減とやっちまった事の重大性(=命の恩人にマッハパンチ)に 
顔面蒼白になって硬直するあたし。 
……や、実際ね? ここであいてが『並』のご主人様だったならだよ? 
ここらであたし、即行斬首というか、クビチョンパぐらいにはなってたと思うんだけど。 
 
 
 
「……?? ナン・デ・ジャー??」 
 
こいつと来たら、向こうじゃ男でも仰け反るあたしの本気ツッコミを受けたっつーのに、 
ケロリとした表情で、ちょい、と小首を傾げると。 
 
「…どんな風なお菓子、それ?」 
 
 
 
…………。 
 
 
 
――相手が悪かった。 
 
今から思い返せば、全てはただ、その一言に尽きたと思う。 
もう言い返す気力や演技する気力も失って、ガックリと肩を落としたあたしは、 
案の定その後熱をぶり返してもう二日ほど寝込んだのだが。 
でも同時に、肩の上に乗っかっていたいやに重苦しい何かも、同時にその時 
転げ落ちてしまったらしいと気がつくのは、ずっと後になってからの事。 
 
 
  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 4 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
とまあ、それがまぁ、一番の直接的きっかけだったと思うのだが。 
 
「あーもう拭きなさいよみっともない、首の下まで血で茶色くしちゃって」 
「……い、いや、いいって。こんなの放っとけばそのうち取れ――」 
「口答えしないっ!!」 
「――…あぅ…」 
 
 
正確に言えば更にその後、やっと起き上がれるようになってので、 
せめて自分で布団を上げようと押入れの戸を開けたら、 
くしゃくしゃの服や下着、鼻かんだティッシュ、新聞雑誌、なんかの包装、 
なんかの空き瓶、溜め込んだゴミ袋、その他得体の知れないもの多数が、 
雪崩打ってあたしの上に倒れこんできたり。 
(後から首絞めて問い詰めたら、どうやらあたしを介抱するに当たって 
『とても見せられないから、とりあえず押し込んどいた』のだそうである。 
……道理で男の一人暮らしにしてはこざっぱりしてると思ったよ……) 
 
苔とも黴ともつかないモノが、台所の流し台いっぱいに繁茂してたり。 
足元を高速で駆け抜ける、黒い宝石のようなモノの姿が目に入ってしまったり。 
服なんかどれもしわくちゃのよれよれで、アイロンの「ア」の字もなかったり。 
 
 
――……おい。 
――え? 
――あんた、今からあたしをあんたの召使いにしなさい。 
――…うえ? 
――何アホ声あげてんの、何か召使いにするのに不都合でもあんの? 
――…え、いや、そんな、別に特にはないけ 
――じゃあ決まりね。そんじゃとりあえず冷蔵庫の掃除から始めるから、 
    まずはこの中に入ってるもの、全部遠くに捨ててきなさい。 
――……へ? なんで 
――黙れっ! よく見ろっ! なんだこの賞味期限が三ヶ月前らしき 
    世にもふざけた牛乳はっ! 普通に黒ずんで異臭放ってるだろうがっ! 
    なんでこんなもの後生大事に冷蔵庫に入れとくっ!? アホか! 
    ふざけろ! 殺されたくなかったらとっとと全部廃棄して来いっ!! 
――イッ、イエッサーッ!! 
 
 
……もう、利用する利用しない以前の問題だった。 
 
男やもめの一人暮らしが酷いという事は知ってたけれど、 
だけどここまでなのは流石に異常だとあたしにだって判ったし。 
そしてそんな異常さは、大掃除を終えた後でも変わらなくて。 
 
 
「そう言えばあんた、朝飯食った後歯磨いた?」 
「…一日くらい磨かなくったって別に死なな「「磨けえーーーっ!!」」 
 
「…なに、このバケツは?」 
「ああ、こうやってバケツに洗剤入れて服突っ込んで置いといてさ。 
一週間くらい放っておくといつの間にか綺麗に「「ざけんなーっ!!」」 
 
「雑巾、お前、そのズボン脱げ! いい加減脱げ!」 
「…えー、まだあと一週間は着れ「「脱げ脱げ脱げ脱げ脱げえーっ!」」 
 
 
 
…なんか、友達に言わせりゃどうやら『世話好き体質』ならしいあたしである。 
『信じらんない』という思いに加え、 
『もう見てらんない』というおせっかいな気持ちがあったのだろう。 
こいつのあまりの生活力の無さに、見ていて哀れにすらなってしまい、 
一命を拾ってもらった恩義も手伝って、 
気がつけば、いつの間にやら『元の世界に帰る』は二の次に、 
『この馬鹿犬をどこに出ても恥ずかしくない立派な犬に躾ける』のが 
あたしの意地でも譲れない目標になってしまっていたんでございますよ、…トホホ。 
 
……ま、給料無い代わりに『衣食住・三食昼寝付き』 
ついでにこの世界の文字や知識まで教えてもらえるという好待遇だったから、 
本当のところはかな〜り持ちつ持たれつだったんだけど、ね。 
 
 
 
 
 
そうやって早半年、いつのまにやら六ヶ月。 
 
「……間食しちゃったのはまぁ仕方ない、もう食べちゃった後なんだしね。 
でも野菜と汁くらいは食べなさいよ、どうせ肉だけしか食ってないんでしょ?」 
 
そう言って土鍋からケール――長ねぎモドキ野菜――を掬うと、 
小鉢に寄そって渡してやるあたし。…なのにこいつと来たら。 
 
 
「……やだ」 
「なにが『やだ』だ。ふざけんな。さあ食え」 
 
 
何がヤダだよ、お前はガキかよ。 
というか40近くにもなってネギ食えないだなんて恥ずかしくないのか? 
 
「…だ、だから自分達の寿命で他の種族の年月感覚を計んなよ! 
それってすっごい失礼な事なんだぞ?  
イヌもネコもウサギもキツネもトリも、みんな寿命違うんだから!」 
 
 
…そりゃまあ、それはあたしも知っている。 
かくいうイヌも250、お隣のネコに居たってはなんと650、 
ヒトが万物の霊長の座を独り占めしていたあたしの世界と違って、 
ここじゃ知恵ある者共の平均寿命は、一律80とは決まっていない。 
…勿論長いのだけじゃなく、寿命30なんていう短命種族もいるにはいるが。 
 
ただし、例えばヒトの寿命を20・40・60・80の4分の1ずつで区切るなら、 
どの種族もだいたい寿命の4分の1来た所で精神的にガキっぽさが抜け、 
4分の2来た所で中年の貫禄というか、落ち着きが見え始め、 
4分の3来た所で心が爺婆臭くなって昔は良かったとぼやく様になり、 
そして4分の4が近づく頃には、笑ってお迎えを待つ心構えが出来ると、 
そんな枠組に概ね当てはめる事が出来るんだから、 
ホント世の中というか、摂理と言うものは上手く出来ているのだろう。 
 
どれだけ寿命が長い種族も、肉体が大人になるのが早い種族も、 
こればっかりはどうにもならず、歳が500を越えるからとて賢人もおらず。 
…『心』の成長と限界への到達には、やはり相応の年月が必要なんだと思うが。 
 
 
ただ。 
 
 
「だからって好き嫌いが許されていいとは言わない。…さあ食え」 
「……やだ」 
 
 
ぷいっと顔を背けながら意地でもネギを食おうとしないこいつを見てると、 
おまえ40年14610日350640時間、一体何して生きてきたんだと、 
そんな疑問が浮かび上がってくるあたしの気持ち、理解して頂きたい。 
 
ていうか、そこまでイヤか。ネギが。 
 
「…いい歳こいて恥ずかしくないの? そんなんだからモテないんだよ?」 
 
 
………… 
 
 
「……っ!! なっ、なんでその話になるんだよお!!」 
 
…あ〜あ、黙ってればまだ誤魔化せるのを、 
図星を突かれる度にいちいちムキになるのも余裕がない証拠、減点対象。 
 
 
 
そう、その通りだ。 
このダメ犬――『雑巾』ことジークは、モテない。 
 
そもそも狼男共の審美基準自体、ヒトのあたしには詳細不明なのだが。 
でもやっぱお約束で色が『漆黒』とか『純白』とか『白銀』とかで、 
毛並み艶やかで美しいと、そういうのが一応『イケてる』のだと伝え聞くね。 
テレビ――落ちてきたのをネコの国のナントカ技研って所が量産したのらしい――に 
出てくる人気俳優っぽい直立二足歩行犬どもも、みんな大体そんな感じだし。 
 
どっこいところが、雑巾の毛色はご存知の通り惚れ惚れする程の『雑巾色』―― 
――ようするに『くすんだ灰色』で、しかも毛艶も良いとは言えず。 
大きな身体と怖い顔は、黙っていれば『そういうの』が好みの相手には 
それなりに受けるのだろうが……口を開けば、見ての通りだ。 
 
なによりこいつは、血統や身分、家柄を重んじるこのイヌの国において、 
『家名を特に持たない』『平民身分の』『雑種イヌ』と、三拍子揃った大平民。 
……もっとも本人はいたくその事に諦観してて、 
「……オレなんかの所に嫁さんに来てくれるような良いメスだなんていないよ」 
と、日頃から既に諦めムード全開だったりするのだけれど。 
 
 
 
「だ〜からいつも言ってるでしょ!? そりゃ確かにあんたの言う通り、 
こんな容姿も地位も財産もないような奴の所に来る酔狂な女の人が 
いるとは99%思えない! 確実に!! …ぁん? 何泣いてんの?」 
 
…見たらシクシク雑巾が泣いてた。 
なになに急に? 大の男の癖してみっともないなあ。 
あたし何かこいつ泣くような事言ったっけ? 全部ホントの事じゃんよ。 
……まあいいや、とりあえず放っといて、 
 
 
「でもそこに! 炊事洗濯掃除の何一つまともに出来ないくせに、 
超偏食家で好き嫌いが激しくて、食後の歯磨きはサボるわ、 
風呂に一週間くらいは入らなくても大丈夫とかぬかすわ、 
あげく女のいる家の中で「だって蒸れるし」と半裸でほっつきあるくような、 
身汚い上に甲斐性無しで関白亭主なものぐさ自堕落だらしな野朗と来たら、 
もう外見どころか中身まで最悪、良いとこゼロの超々ダメ犬じゃん! 
これじゃただでさえ1%の結婚確率がもう0%、あんたこの重大さ判ってる!?」 
 
「……いや、もう1%も0%も大差ないと思――」 
「わ! か! っ! て! な! い!」 
 
 
バンッと机を叩くと、いつの間にか正座してた雑巾がビクッを身を竦ませる。 
……素直なのはいい事だけど、この肝の小ささも矯正対象の一つかな。 
 
 
「いいっ!? 1%ってのはね、100回中1回くらいは成功するかもしれない、 
言ってみりゃそれくらいの希望はあるありがた〜い数字なの! 
でも0%だったら100万回やろうが100億回やろうが全て時間と労力の無駄っ! 
それが今のあんた! てめぇは1万回見合いしたって1万回断わられるような、 
つまりはそれくらいのダメダメダメダメ駄目犬なんだよおおぉーーーっ!!」 
 
 
ゴゴゴゴ…とか、ドドドド…って背景効果音がしそうなくらいの気迫を込めつつ、 
そう言って指差してみれば……あーあ、この雑巾犬、なんかまたえぐえぐ泣いてるし。 
――そりゃあ、これが犬耳美少年の為せる業だったなら、あたしも猛烈大興奮、 
もう少し扱い違ったっつーか、大変絵になる光景だったのだろうけどさぁ。 
……図体だけの狼男が泣いたって、哀愁しか漂って来ないのが悲しいやね。 
 
 
……ふっふっふ。 
しかーし、あたしは優しいのである。 
女神の様な微笑を浮かべて、あたしは雑巾の肩にそっと手を置いた。 
ビバ飴と鞭。ニンジンと蹴り。 
 
「…でも大丈夫。この、ほんっっっっとパッとしないあんたの外見は 
確実絶対完璧にどうしようもない生来の天分だけど、でもせめて中身ぐらいは 
どこに出たって恥ずかしくない立派なイヌになれるよう、召使いの誇りに 
掛けてあたしが躾……げふっ、げふん、いや、鍛えてみせるからっ!」 
 
うん、なんていうか、あれだよね。 
いっそ利発そうで可愛い捨て犬だったら、雨の中ダンボールに捨てられてても、 
『きっと他の誰かが拾ってくれるよね…』って思えるけど。 
それがここまで何一つ取り得の無くてアホっぽそうな捨て犬だったら、 
逆に心配になっちゃてほっとけないのが人情の不思議ってもんだよね。 
うわ、やだ、あたし超天使様、もう博愛精神満k―― 
 
 
「嘘だぁー、絶対嘘だあー(泣) 
そんな事言って、本当はオレの事いじめて楽しんでるだけなんだあー!(泣)」 
 
 
 
 
――…………ほぉぅ。 
 
「あらあらあらあら、何をおっしゃるんですかご主人様♪ 
古くから『諌言耳に痛し』『忠言耳に逆らう』とも申しますでしょう? 
イジメなんてそんな、わたくしがご主人様のお心にそぐわない事を言うのも、 
全てはご主人様の為を思っての事なんでございますわよ、ドゥフフフフフ♪」 
「ギャー、やめろー、口の中にケール押し込……きゃぃんきゃぃぃぃん!(泣)」 
 
ドスン、バタン、ドッタンと。 
耳にキーンと来るくらい甲高い悲鳴をあげる雑巾を 
押さえつけながらネギ捻じ込んで。 
 
そして今日もまた、一日が終わる。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 5 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
でも結局、あたし達の関係はどういうものなのだろう? 
 
夕食の後――…結局あの後、明日のおやつにチョコケーキを作ってやるという事で 
あたしは雑巾にネギを食わせる事に成功した。食い物で釣るのは良くない 
(実際雑巾は餌、特に甘い物には弱い)とは思うが、だけど犬に芸を仕込むのに 
ご褒美を用意するやり方は、確かポピュラーだった様な覚えがある。 
虚ろな目で蒼い顔をしながらネギをもしゃもしゃ噛む雑巾の姿といったら、 
梃子摺っただけに爽快だった…――お茶を入れながら、ふと思う。 
 
 
ご主人様と召使い……の関係でない事だけは、まず確かだろう。 
 
そりゃ、表面的な形式としてはその形を取っており、実際それに近い物はあるが。 
…でも見ての通りあたしと雑巾の間には絶対的な主従関係というベクトルは無く、 
両者の力関係は時と場合で容易に反転しうる非常に不安定なものだ。 
労務・賃金の明確な取り決めもなければ、規約違反時の罰則規定も無い。 
あたしが雑巾に逆らう事もあれば、雑巾があたしに逆らう事もある。 
 
そして、世に言う『主とヒト召使い』の多くがそうであると言われるような、 
……そっちの方の関係も、生憎ではあるがこれっぽっちもない。 
本当に、もう六ヶ月にもなると言うのに一つ屋根の下ふすま一枚を隔て、 
何事もなく床を別にして、あたし達はこれまで生活してきていた。 
 
それが世間一般に奇特な対応なのか、正常な対応なのかは判らない。 
…でもあたしがいつだったか、 
冗談めかして「あんたはあたしを襲わないの?」と聞いた時。 
雑巾はなんだか憮然とした様子で、こう答えたのだ。 
 
 
 
「オレ……そういうの、なんかキライだ」 
 
 
 
――それがたぶん、おそらく全ての答えなのだろう。 
 
雑巾に協力してもらっての勉強の果て、ようやく部屋の本棚の… 
…まあ、背表紙ぐらいなら何となく読める様になって来たあたしの目には、 
(意外にも)イヌの国を始めとする各国の歴史書や、軍事・国際関連の 
ものと思しきハードカバー本に混じって、『ペットのいる生活』、『小鳥とふれあう』、 
『一人暮らしでも飼えるペット』といったタイトルのあるのが見て取れた。 
 
 
開いてみれば、それらはページの端がくたくたになる位読み返されていて。 
 
……つまり、雑巾はただの『お人好し』ではない、 
『動物好き』の『お人好し』なのである。 
 
パラパラとページをめくってみれば――ケモノ達の暮らすこの世界で 
動物好きというのも変な話かもしれないが――案外普通に『可愛い系』、 
『カッコイイ系』のペットのページに手垢がたくさん付いていて。 
 
ふと、こういうのを熱心に読んでいる雑巾の姿を想像して、 
なんだかとても微笑ましい気持ちになったのを覚えている。 
 
あいつは優しいから、雨の日に捨てられてる動物とかを見かけると、 
ついつい拾って来てしまうんだろうな、とか、そんな風にも思ってしまう。 
 
 
 
……そして、だからおそらく、あたしは拾われた。 
 
今なら理解できる。 
あの時、意識を取り戻したあたしに対しての雑巾の態度と言葉。 
 
――だけどここに居れば大丈夫、『僕』が守ってあげるから―― 
 
あれは……『人』が『ペット』に対して向けられる言葉と同じもの。 
酷い目に、怖い目に遭って来たであろう『ペット』に向ける、そんな優しい言葉だった。 
 
 
 
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 昔々、ある男が、山で行き倒れているケモノと出くわしました。 
 そのケモノはとても貴重で価値が高く、しかも総じて利発で美しいので、 
 主に小間使いや、高貴な人々の耽美な楽しみに使われるものと、 
 そう世間一般に広く認識されている、そういう生き物でした。 
 だからこのケモノを売ってお金に変えても、あるいはこっそり自分のものに 
 してしまったとしても、おそらく誰も男を責めたりはしません。 
 
 ですが男は、とてもとても『動物好き』な、心の優しい男でした。 
 『動物好き』とは、野の獣達にも人と同じように敬意を払って応対し、 
 立場の強い者が立場の弱い者に対して強く出るのを当然とするような、 
 そんな考え方に異を唱えて善しとしない、とどのつまりはそういう人種です。 
 このケモノ達に対する世間の扱いと対応に常々疑問を感じ、 
 またハイソでセレブな人々の耽美な楽しみに少々の反感を覚える程には 
 小市民というか貧民身分を満喫していた男は、しばらく考え込むと、 
 やがて弱ったケモノを自分の家にこっそり連れて返って介抱します。 
 
 そうです、男はそのケモノを、いわゆる怪しい意味での『ペット』ではなく、 
 普通の意味でのペットとして助ける事に決めたのです。 
 酔狂と思う人はいるかもしれませんが、ですがこのケモノを売り飛ばすのも、 
 自分で勝手に使うのも自由だというのなら、こうやって敢えて 
 普通のペットとして育てる事を選ぶのも、それはその人の勝手ですよね。 
 
 …ですが、そんなケモノを奴隷と見なさなかった優しい男でさえ、 
 ケモノを自分と真に対等な、同種の存在として見なせなかったとしても。 
 それはそれで、そんな問題視されるような事にはならなかったはずです。 
 …だってそのケモノは、実はその世界の生き物ではない存在、 
 違う世界からやって来た、あらゆる意味で男と異なる存在、 
 ……その世界の『人』とは、違うものだったのですから。 
 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 
 
 
 
……そりゃ、分かるよ。 
あたしも向こうじゃ――犬じゃなく猫だったけど――ペット飼ってたもん。 
 
上手く言えないけど、例えばほら、大の人間嫌いが動物には優しかったり、 
バリバリのキャリアウーマンが、だけど家じゃペットに「でちゅね」言葉だったり。 
同族同類同存在に対してだったら作るような、壁がないとでも言おうか。 
 
見下してるとか、そういうわけじゃない。 
対等な存在として見てくれて、扱ってくれて、接してくれてはいる。 
だけど、それでも。 
……あれは、人に――自分達の同類に対して接するような、態度じゃない。 
同類以外、『チガウソンザイ』に対して接する態度だ。 
 
 
 
…や、そんな『うわぁ酷え』って話でもないとも思うのよ。 
もともとあたしは……正直認めりゃ、親切で置かせてもらってる身だし…… 
 
……何より出会った最初の頃、取り澄ました顔の裏で散々あいつを 
人外の野蛮人のバケモノ扱いしてたあたしに、んな事言えた義理はないとも思う。 
 
半年一緒に生活してみて意外といい奴だと認められるようになった今だって、 
あたしは雑巾を元の世界の同族――『人』と見なすまでには至れてない。 
あいつをイヌではなく犬――どこかペット扱いしてるのは、…あたしも同じだ。 
 
 
あたしは『人』で、あいつは『イヌ』で。 
あいつにとってあたしは『ヒト』で、あたしにとってあいつは『犬』で。 
 
 
人間でもあれだよ、いくら欲求不満だからって同居人扱いの犬や猫相手に 
欲情するなんざ、よっぽどの奇人変人でもない限り普通は抵抗を覚えるでしょ? 
だからあたしも雑巾も、あれで意外と妙にプライドが高いというか―― 
あたしの方は…違う世界に来てまで、未だに旧世界での『人としての尊厳』や 
『万物の霊長としての誇り』とやらを捨て切れてない部分があるのを感じるし。 
雑巾の方も雑巾で、意外と――まぁそもそもイヌ自体がそういう種族らしいが―― 
プライド高い所があるというか、『イヌとしての尊厳』に結構固執するきらいがある。 
 
…いつだったかあいつ、あたしがこの世界の住人達を指して 
便宜上『獣人』『獣人』呼んでたら、なんかもの凄く失礼だって怒ってたしね。 
曰く、『オレはヒトでもケダモノでもない、れっきとしたイヌだ』って。 
 
あん時ゃあたしも、素直に自分の物知らずさを恥じたもんだ。 
――あたしら人間だって、サルや原始人と同格扱いされたら、…普通は怒る。 
 
 
 
だから『一つ屋根の下〜』などとはよく言っても、 
そもそも男と女以前に、あたしにとって雑巾は『男』ではなく、 
雑巾にとってあたしは『メス』でなく。 
 
……そんなんだから雑巾の奴が、外が雨か雪の時ぐらいしか上に着なくて、 
家の中でなんか常に上半身裸であたしの傍ほっつき歩いても、 
なんか毛皮もあるせいか、裸の男がほっつき歩いてるって感覚はしない。 
 
そりゃ一度注意した事はあるんだけど、 
でもそれに対して雑巾がすんごいげんなりした顔で、 
「あんま服着るのイヤなんだよ。……蒸れるから」 
って言ったのを聞いたら、あたし、なんか納得しちゃったし。 
 
いや、だってあの毛皮の上にさらに服だよ? 
暑苦しいのもあるだろうけど、それ以上に絶対に通気性最悪だってば。 
クローゼットの奥に、一度も着たの見た事無いあいつの一張羅(軍服ね)が 
あるの知ってるけど、夏場にあれをカッチリ着込んだりしたら、おそらく地獄。 
なんか、あたしだったら死んだ方がマシだと思うもん。狼男にも同情するよ。 
 
「あー、でもあんた、恋人できてもその格好でうろつくとか言わないよね?」 
「……そ、その時はその時だよ」 
つーか、こんな会話、ごくごく普通に繰り広げてるくらいだかんね。 
…この関係のチグハグさ、何となく理解して、もらえるだろうか? 
 
 
 
…………でも。 
 
 
 
   ※     ※     ※    < 6 >    ※     ※     ※ 
 
 
 
「あー、もう終わりかぁ〜」 
そんな声。六畳一間。コタツ。一昔前の赤っぽい蛍光灯の下。 
ブラウン管に移った「また来週」の文字に、 
雑巾がコタツから身を乗り出してオンボロテレビのスイッチをオフにした。 
官費での購入以来、もう20年近くも現役だというこのネコの国産の旧型テレビには、 
当然リモコンなんかついてないのだが、だけど雑巾にはそんな事おかまいなし。 
 
(…あー、こういう時腕が長いと便利そうだなー…) 
そんな取りとめも無い事を考えながら、あたしはもう一口だけ茶を啜る。 
 
 
窓の外を見れば、夕方から降っていた雪はどうやら既に止んだらしい。 
畳敷きの茶の間。ダイヤル式の旧型テレビ。部屋の隅の石油ストーブと、 
その上でしゅんしゅんと音を立てて蒸気を出しているお湯の入ったヤカン。 
とことん和な雰囲気に、けれど不思議と故郷に戻ったような錯覚を起こさないのは、 
この昭和40年代に戻ったかのような、レトロな雰囲気の為せる技か。 
 
「……九時から何か見るものないの?」 
湯呑みを置いて、ペンを動かしながら何となしに訊ねる。 
ちなみにテレビの番組表を見ても、三つに一つは知らない単語にぶち当たる 
現在のあたしは、せめてその番組表くらいは早いとこ普通に読めるようにと、 
とりあえずは雑巾の漫画本とノートを片手に、現在鋭意勉強中である。 
 
……必要に迫られてとは言え、我ながら着実な進歩を感じる学習速度に、 
(向こうの世界でこんくらい真面目に英語の勉強してれば……)と、 
今更しても遅い後悔にしばしば襲われてしまうのが、ちょっと悲しい。 
 
 
「んー、本当はあるんだけど、電波届かなくて映んないヤツだから。…それよりさ」 
 
民放の多くが見れない山奥の官営施設の哀愁を露呈しながら、 
ふいに雑巾が声を弾ませ居住まいを正した。 
 
 
「昨日のりにあもったっかの話の続きしてくれよ、りにあもったっかの!」 
 
 
 
 
……あー、来た。 
「…りにあもったっかじゃなくて、リニアモーターカーだってば」 
「そう、それ! それ!」 
 
目を輝かせて訊いてくる雑巾に、(ガキ臭いなあ……)と思いつつも 
ペンを休めるのは、もうだいぶ前からの習慣になった事。 
 
「昨日はあたしが話したんだから、今日はあんたの番でしょう?」 
「えー!? お前昨日『続きは明日ね、明日』って言ってたじゃん」 
「それはあんたがあんまりしつこいから。…てか、言葉のあやよ、あや」 
 
雑巾はやたらと『上の世界』――あたしの世界の事を訊きたがる。 
ナマのヒトからチョクで異世界の話を聞く、 
考えてみれば、この世界の庶民に取ってそれは貴重な体験なのだろうが、 
おじいちゃんおばあちゃんに昔話をせがむ様なこの態度、 
…ホントなんとかならないのかよ、この39歳職業軍人。 
 
…尚、ちなみに最近は乗り物の話がお気に召しで、この世界にも存在するらしい 
『電車』や『乗り合いバス』に関してはそれほどでもなかったのだけれど、 
さすがに『一家に一台自家用車』の話や、『飛行機』の話にはとても驚いていた。 
 
だからこそ聞きたくて聞きたくてしょうがないのだろうが。 
「……それより、この単語の意味ちょっと判んないんだけど、教えてよ」 
そんな猪突を適当にかわし、あたしは分からない単語を雑巾に聞く。 
 
 
「ウー…。…えっと、これは『魔洸エネルギーと「「それは判るの、その次」」 
…時間魔法の今後について』……だね」 
「……この綴りで、一体どう読めば時間魔法って読むっつーのよ…。 
良くてクロヌ・ロジカリア、ここ伸ばしてもクローネ・ラジキャリアじゃん」 
「…んー、魔法関係の単語は、古語をそのまま持ってきてるのが多いからね。 
大変だけど、これに限っては片っ端から暗記するしかないと思うよ?」 
「……うがー、やっっやこしいなーっ」 
 
 
昨日は、リニアモーターカーについて話してやった。 
『磁石の力で動く電車』と説明してもピンと来ないらしいこいつに、 
――いい? N極でしょ? S極でしょ? それを交互に並べて、こう…… 
と図を描いてやりながら説明してやったら。 
――おおおおおお…… 
と、ものすごーく感動されてしまって、それでさっきの有様というわけなのだが。 
 
……だけど、あたしにすりゃあ、 
普通に『魔法』やら『魔法科学』なんてものが存在してて、 
六本足の馬やら、翼の生えた空飛ぶトカゲやらが闊歩してるこの世界の方が、 
よっぽど奇想天外奇天烈夢想に思えるのだが。 
 
……飛行機の事を『空飛ぶ鉄の塊だよ』と言った時の雑巾の表情から察するに、 
それは多分、お互い様の話なのかもしれなかった。 
あたしの当たり前と、こいつの当たり前。 
安直な言葉で表してしまうなら、カチカンノソウイ、というやつだ。 
 
 
 
「…あ、そーだ。じゃあ今日は時間魔法のなんたるかについて教えてあげるよ」 
 
――と。 
……さすがに、普段からいぢめられるにいぢめられ。 
こんな時ぐらいにしかあたしより優位に立てないのを、本人も分かってるのだろう。 
言いながら牙を剥き出しにして笑うこいつの怖い笑顔にも、もう慣れた。 
 
…いくら『ぐへへへ、嬢ちゃん、尻出しな』と今にも言い出しそうな形相でも、 
日々テレビでバライティー番組やる度にこの表情…ともなれば流石に慣れるし、 
これでも本人微笑んでるつもりなんだろうなぁと思うと、 
不思議な話だが最近じゃ妙に愛嬌も沸く。 
 
 
「ふふーん♪ まずだなぁ、時間魔法っていうのは……」 
 
つか、そんなにあたしに対して偉そうに講釈垂れれるのが嬉しいのか、 
しっぽをパタパタさせながらルンルン気分で浮かれてるこいつとかを見てると、 
不覚だが最近――かわいいなぁとか思っちゃってるんだよね。 
…いや、そりゃもちろんその『可愛い』は、 
いわゆる『馬鹿な子ほど可愛い』の可愛いなんだけどさ、うん。 
 
「……最近になって出て来…「「いや、それは別にいいから」」 
……あぅ…」 
 
ほら、例えばそこでわざと無下に扱ってやると、 
こいつは本当に分かりやすいくらい、一転かっくりしょんぼりする。 
……お陰であたしはいつも、口元が緩みそうになるのを 
必死で抑えるのに苦労しなければならないのだ。 
 
最初はバケモノキモイコワイと思っていたのが、僅か六ヶ月でこの現状。 
……本当に、『時の流れ』と『慣れ』というものは、偉大でありつつも恐ろしい。 
 
 
 
「……はぁ〜」 
「ん?」 
 
…つーか、くそぉ、ほんと惜しいなぁ。惜しむらくはだなぁ。 
 
「これであんたが肌は真白く滑らかで、出来れば足に脛毛の生えてない、 
女の子みたいに可愛らしい犬耳の美少年だったらなぁ〜……」 
 
 
そうしたらもう何一つ文句はない、至り尽くせり『ご主人様』と―― 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「……うわー、ショタコンだー(棒読み)」 
 
 
 
 
 
………… 
 
 
 
 
 
ごぃんっ!……と、夜空に響く素敵な音。 
 
 
 
「…な、なんで殴るんだよおーー!! しかもフライパンであたまーー!!」 
 
(…訂正、やっぱりこんな生意気なガキ却下だ、却下)と。 
……そう思いながらも、けれど不思議とあたしの心は穏やかであり。 
 
「うっさい、あんたの場合、素手で殴ったりすると逆にこっちの手が痛いんだよ、 
ただでさえ毛深い癖に無駄に分厚い胸板しやがって、この筋肉ダルマ! 
悔しかったら鎖骨見せてみろ、鎖骨、…できねーだろーがこのノンチラリズム」 
 
売り言葉には三倍返しの買い言葉、威勢良くタンカを切りながら。 
……不思議と『何が何でも帰りたい』という気持ちは、もうあまり残ってない。 
 
「うがぁーっ、毛深いのはオレだけじゃないもん、この耳なし女! 尾なし女!」 
「ほーほほほほ、んな事言われたって痛くも痒くもないわ、あたしヒトだもん」 
「……精神的年増。口やかましい。オバタリアン。凶暴ヒス。ショタフェチ」 
「……ほぅ」 
 
 
……なんだろう、これは。 なんだか、とても…… 
 
 
「くぁっ、ちょっ、やめ、なにす……く、首っ! 首! くび!」 
「豆知識。首は容易に鍛える事の出来ない人体の急所の一つなのです」 
「…ひ、ひ(知)ってる…うあ、やはい、おひる(落ちる)、おひるぅ」 
「くはははははは、止めてほしかったら『すみません、ごめんなさい、 
オレが悪かったです、あしたのご飯も作ってください』と言う事――…」 
 
「…ひゅ、ひゅみまひぇん、ごめんなひゃい、おえがわうかったでふ、 
あしたのごひゃんもつくってくらはい〜〜〜(あっさり)」 
 
「……あんた……言ってて自分で情けないとか思わないの…?」 
「い、言えっていったのお前だろーーー!!?」 
 
 
 
――暖かい? 
――居心地がいい? 
 
 
 
……そんな時、チラリと外を見れば、外は寒空の下の雪景色で。 
 
どこの王族族長姫様でもなければ美形でも金持ちでもない庶民中の平民、 
左遷軍人の下っ端貧乏公務員に拾われたあたしであるが。 
 
それでもかつてのあたしがそうなりかけたよう、 
落ちどころ(海の上とか深山とか)や落ち時期(真冬の夜中とか)が悪くて 
拾われる前に運悪くポックリ行っちゃうヒトもいる事に比べれば。 
あるいは、そこまで運悪くはなくても悪質ヒト奴隷商人に捕まってしまい、 
家畜小屋の家畜さながらの境遇で死んでいくヒトもいる事に比べれば。 
 
暖かい家、暖かい食べ物、暖かい布団。 
せいぜい話し相手と身の回りの世話をするだけで、 
性的奉仕も要求されず、対等な立場として見てもらえるようなこの待遇、 
…おそらく相当恵まれている方なのだろうと、いやでも分かってしまう自分がいる。 
 
だから。 
 
――ああ、だからこんなに居心地がいいんだ。 
――今更こんなありがたみが分かるなんて、やっぱりあたしも日本人だな。 
――柔らかい布団と三度のご飯、たったそれだけでも幸せな方なんだ。 
――あたしは本当にいいご主人様にめぐり合えたんだなあ。 
 
この暖かさや、この居心地の良さは、そういうものだと。 
あくまでその範疇に収まる類のものだと。 
 
 
「…ね、ぞーきん」 
首に回した手を緩めると、あたしは後ろから雑巾の顔を覗き込んだ。 
あたしはチビチビで、雑巾はデカデカなので、 
そうするとたとえ相手が座ってても、あたしは雑巾におんぶするような形になる。 
「…なん―― 
 
 
 
 
     「……ありがとね」 
 
 
 
 
 
よく(あたし達の世界の)犬がそうされると喜ぶよう、首横の所を撫でてあげる。 
ふかふかした毛皮は本当に犬のそれで、手触りが気持ちいい。 
 
……後々の立場から訂正させてもらうが、別にこれに深い意味はなかった。 
単なるスキンシップ、犬や猫にふかふかなでなでするのと同じもの。 
…そういうつもりで、あたしとしてはやってるつもりだったのだが。 
 
 
「……って、どうしたの?」 
 
ふっ、と気がつくと、雑巾の石みたいに固まった顔が、こっちを見てた。 
 
珍しく真っ直ぐ合わされた緑色の目の視線が、あんまり強く。 
あたしは一瞬、ほんの少しだけ、そんなこいつに対してひるんでしまったのだが。 
 
 
「……あ。……うん、な、なんでもない」 
 
逆に向こうの方がたじろいだように、慌てて顔を逸らした雑巾の、 
最後に見えた目は、いつものぼんやりとした柔らかな緑で。 
……その時は、それでお終いだった。 
 
 
 
そんな、小さな小さな歯車の噛み合わせが。 
なんてことのない、ごくごく普通に見える小さな噛み合わせが。 
少しずつ、少しずつ、 
まるで時計の秒針が一刻み一刻みずつ進むように。 
積み重なって、いったのだと思う。 
 
 
 
……転機が訪れたのが、それから更にもう一ヶ月後の事だった。 
 
 
 
 
 
 
< 続→【承の事】 > 
 
 
                                    【 狗国見聞録 起の事 】 
                                〜 庶民の側の視点に寄せて 〜 

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