〈2〉大神官の秘密  
 
 年に一度の大祭前の潔斎が始まった。  
 大神官以下、神殿に仕える神官も巫女も、この期間は普段以上に節制した生活を送り、  
外界との交わりを絶つ。  
 神殿の最奥には、大神官と特に許された者だけが立ち入ることができる「託宣の間」が  
ある。潔斎の期間中、大神官はそこに籠もりっきりになる。その間、原則として他の誰も  
立ち入ることはできないが、扉の手前まで延びる回廊に灯りを点す仕事は、巫女が交替で  
行うことになっていた。  
 その日、「託宣の間」の回廊に灯りを点す役目がサフィーラに回ってきた。彼女は神殿で  
最も重要で神聖な空間の側近くで奉仕できることが嬉しくてたまらなかった。が、「くれぐれも  
大人しく」という大神官の言葉を思い出し、落ち着いて役目を果たすようにと心がけた。  
 それでも、たった一人で火種を収めたランプ片手に回廊の松明に順番に火を点し、徐々に  
周囲が薄明るくなってくると、回廊の突き当たりにほの暗く浮かび上がって見える「託宣の  
間」の扉が、どうしても気になってしまう。  
 ――いま、あの扉の向こうで、大神官様が女神様に祈りを捧げていらっしゃるんだわ。  
 どんなお姿で、祈りを捧げていらっしゃるのだろう。普段でもあんなに威厳がおありなの  
だもの、こういう特別の潔斎のときは、なおいっそう神々しく神秘的な御様子でいらっしゃるに  
違いない。普段のあの柔和で端正なお顔も、慈悲深い大神官様らしくて良いけれど、禁欲的で  
精悍なお顔も、見てみたい。  
 想像するだけでうっとりしてしまうわ、などと思いながら、サフィーラは最後の松明、  
すなわち「託宣の間」の扉の両脇に設えられた松明に灯りを点そうと、そちらへ歩みを進める。  
 あら、とサフィーラは小さく驚いた。「託宣の間」の扉がわずかに開いていて、そこから  
明かりが漏れているのだ。真っ暗な回廊に火を点しに来たとき既に扉が開いていたら、  
すぐにこの明かりに気付いていたはず。なのにどうして、いつの間に、とサフィーラは  
不思議に思った。  
 ――いけない、いけない。  
 ふと中を覗いてみたい衝動に駆られたが、それが許されないことはよくわかっていた。  
好奇心は罪、気にしてはいけないわ、と心の中で自分に言い聞かせ、扉の右側にある松明に  
灯りを点す。次に左側の松明に火を点そうと、扉の前を横切る。  
 そのときサフィーラはその耳で、にわかには信じがたいものを聞いた。  
 ――!?  
 驚きのあまり、思わず振り返り、扉の隙間を凝視する。確かに、この向こうから聞こえて  
きた、声。それは、大神官の声ではなかったのだ。  
 まさか、と疑念を振り払いつつ、最後の松明に火を点してその場を立ち去ろうとした、  
その時。  
「――……でしょう?」  
 再び、かすかに聞こえてきたその声は、先ほどと同じ――女性の声だった。  
 この奥には大神官しかいないはずなのに、いったい、誰がいるというのか。サフィーラの  
胸中に、ぞわぞわとさざ波が立つ。  
 いけないとは思いつつも、好奇心を押さえることができない。サフィーラはドキドキしながら  
忍び足で扉に近づくと、その僅かな隙間からそっと中を覗き見た。  
 そこには、潔斎時の簡素な装束を着た大神官と、もう一人、顔こそ見えないが、淡い黄金色を  
した衣装に、黄金色に輝く長い髪の女性がいた。大神官は壁際の椅子に腰掛けており、  
その横顔がほのかに見て取れる。そして、その彼と一緒の女性は、あろうことか、――大神官の  
膝の上に乗って、彼の胸に身を預けているではないか。  
 誰の目から見てもあまりに親密すぎるその様子に、サフィーラは少なからずショックを受けた。  
 すぐにも目を逸らしたいのに、なぜか、その女性のほうに視線が惹きつけられてしまう。  
顔は見えないのに、なぜかサフィーラは彼女を「美しい人」だと直感した。滑らかなその  
衣装の下には、素晴らしく女性らしい形の肉体が隠されているのがわかる。その豊かな髪は、  
まるで黄金の絹糸のように柔らかく波打ち、その腰まで届くほどに垂れている。  
 ――こんな見事な金髪、見たことがないわ。  
 少なくとも、神殿の巫女ではない。彼女が何者なのか、サフィーラにはまったく心当たりが  
なかった。  
 ――私の知らない人が神殿にいるなんて、大神官様がこんなことをなさるなんて、あり  
得ない。そうよ、これは何かの見間違い、これはきっと夢か幻。  
 そう思い込もうとしたそのとき、聞き慣れた声が彼女の耳に突き刺さってきた。  
「また、そんなお戯れを」  
 金髪の女性を膝の上に抱くその人の口から発せられた声は、紛れもなく、大神官その人の  
ものだった。  
 
 ――どうして、大神官様が、「託宣の間」で、そんな風に、女性と……。  
 自分の体が小刻みに震えるのを感じながら、そう思った、次の瞬間。  
 女性の細い腕が彼の顔へと伸び、彼女の頭がゆっくりと彼の顔に近づいて、そのまま覆い  
被さった。  
 ――!  
 はっきりとは見えなかったが、それでも、その唇と唇が重なったということはわかった。  
大神官はそれを拒絶する風でもなく、その女性の体を支えるように彼女の背に腕を回す。  
そのわずかな仕草が余計に、秘め事らしい濃密さを醸し出している。  
 あまりのことに、一瞬引いたかと思った血の気が、一気に頭へと逆流する。衝撃と混乱の中、  
サフィーラは思わず扉から後ずさった。と、手にしていた火種のランプをうっかり取り  
落としてしまう。  
 ガラン!と派手な金属音が回廊に響いた。サフィーラの口から思わず「あッ」と声が  
こぼれる。中に聞こえてしまったに違いない。  
 落としたランプを慌てて拾うと、サフィーラはすぐさまその場を離れようとした。が、  
体が震えて思うように走れない。もつれる足を懸命に動かして、回廊を走り去る。  
 頭が真っ白で何も考えられなかったが、見てはいけないものを見てしまった――それだけは  
本能的に理解できていた。  
 
 大神官は身じろぎもせず、サフィーラが走り去った扉の隙間を横目でチラリと見やった。  
「年に一度の大祭潔斎の時くらい、自重なさってください」  
 そう言って、彼は自分に抱きついたままの女性に、こう呼びかけた。  
「我が君」  
 大神官が「我が君」と呼ぶ女性――すなわち、神殿の主たる女神――は、甘えたように  
彼にしなだれかかったまま、青みがかった美しい灰色の瞳を、上目遣いに彼に向けた。  
「何を今さら」  
「他の者に示しがつきません」  
「良いじゃない。あなたは特別よ」  
 これまで何百回、同じやりとりを繰り返してきたことか。既にお決まりの年中行事の一つの  
ようですらある。だが今年は、その続きがいつもとは違った。  
「なぜ、あのようなことをなさいました」  
「なんのことかしら」  
「とぼけるのはおやめください。なぜ、サフィーラに、わざとお見せになりました」  
 フン、と不愉快そうに、女神は目を逸らした。  
「……わかってるくせに」  
 そう言われて、大神官は無表情で黙り込む。  
 女神は彼の首に両腕を回すと、彼の耳に顔を近づけ、ゾッとするほど甘い声で囁いた。  
「あなたに必要以上に纏わり付く、あの小娘が目障りだったの。少し懲らしめてやっただけよ」  
 大神官は呆れたように溜息をついた。  
「懲らしめにしては、いささか悪趣味ではございませんか。それに、もしこのことが他へ知れたら」  
「まさか『託宣の間』を覗き見たなんて、誰にも言えやしないわよ。もし口外しようとする  
 ならば、その時は――」  
「どうか、あまりむごいことをなさいますな。あれはまったく無邪気な者で、私への行いも、  
 なによりも貴女を深く崇拝するがゆえ。他に下心などはありますまい」  
 女神はピクリと眉を吊り上げる。  
「あまりあの娘を庇わないで。面白くないわ」  
「庇うわけではありませんが、あれでも一応、私の血縁でございますゆえ」  
「だからこそ、この程度で済ませてあげてるのに」  
「我が君……」  
「あなたに余計な手出しをする者は、悪意であれ好意であれ、許さないわ」  
 女神の激しい言葉に、大神官は何か言おうとしたが、そのまま口をつぐみ、代わりに静かな  
微笑みを彼女に向けた。そして彼女の片側の頬にそっと指を添えて、言った。  
「そんな険しいお顔をなさいますな。せっかくの美しいお顔が台無しではありませんか」  
 彼の言葉に、女神は蕩けるような笑顔を見せた。  
「そう、いつもそのように、優しく、お美しくあってください……我が君」  
「あなたもね、エルーク」  
 女神は彼の名を呼び、再び彼に接吻しようと唇を近づけた。大神官はその唇を指先で軽く制する。  
「――その前に、扉を」  
「そうだったわね」  
 女神のその言葉を受けるかのように、サフィーラが覗き見てしまった扉の隙間は独りでに  
閉じて、そのままガチャンと閂が降りた。  
 

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