〈3〉追憶
大神官は、女神と初めて出会った日のことを思い出していた。
――あれは、私が十六の春のことだったか。あれからもう、どれほど経つのだろう。
あれから数えて、今は何百何十何年目か。二百年を過ぎた頃から、過ぎ去った年の数を
覚えるのも億劫になっていた。
それは、大神官がまだエルーク王子と呼ばれていた頃の話である。
時の国王の末息子だったエルークは、将来の神官候補として神殿で教育を受けていた。
まだ巫女の制度はなく、男性神官だけが神殿を管理していた時代だ。
その日、エルークは神殿内で一人の女性に出くわした。黄金の髪に灰色の瞳、白い肌に
柔らかな曙の光を放つ衣を身にまとった、若く美しい女性。男性神官だけの神殿にはおよそ
似つかわしくない存在のはずだが、その圧倒的な神々しさに、彼は彼女が「神殿の主」だと
直感した。
彼はただひと言、「我が君」とだけ言って、彼女の前に跪いた。
「そう。私が誰だか、あなたにはわかるのね」
彼女はそう言って微笑むと、平伏するエルークの顔を手でついっと上に持ち上げて、
いきなり彼の唇に接吻をした。
「賢く、美しい子。気に入ったわ」
そして彼女の姿は、すうっとかき消すように見えなくなった。幼い頃から神殿で純粋培養
されてきたエルークは、突然の接吻に狼狽えた。そして、やはり彼女が女神その人なのだと
確信した。
その後、女神が彼の前に姿を現すことはなかったが、彼は女神の気配を身近に感じながら、
神官となって女神に仕える日が来るのを待ち遠しく思うようになった。
やがてエルークは成年に達し、正式な神官となった。
神官となる儀式を終えたその日の夜、私室に一人きりでいる彼の許へ、不意に女神が姿を
現した。女神は数年前に出会ったときとまったく変わらない容姿と出で立ちである。
彼女は、驚いて跪くエルークを立ち上がらせると、彼の顔を両手で包み込むように撫でて、
嬉しそうに微笑んだ。
「この日が来るのを、待ち焦がれていたわ。私が見込んだとおり、立派に成長して」
そうして女神は、彼に抗う隙も与えず、その唇を奪った。
初めて出会ったときとは異なる、情熱的な深い口づけ。柔らかな唇と甘い花の蜜のような
湿り気、短い息継ぎ、熱い吐息、唇の隙間から入り込んでくる舌……、ただ茫然と、女神に
されるがままになっていると、いつの間にか彼女の手は彼の服の襟元からスルリと忍び入り、
それを脱がそうとしている。
「な…っ、何をなさいます」
エルークはやっと我に返ると、慌てて女神の手をふりほどこうとした。が、女神はひるまない。
「何って……良いじゃない。あなたは私の神官、私だけのものでしょう? ずっとこの日を
待っていたのよ。だって私、まだ正式に私のものでない者に手を出すほどの節操なしじゃ
ないもの」
女神にぐいぐいと迫られたエルークは寝台にドサッと押し倒され、彼の上に女神が覆い
被さる格好になった。
「で、ですがっ、神殿の神官には、貞操を守る戒律が……」
「当然でしょう。私に忠誠を誓う神官が他の女にうつつを抜かすだなんて、不愉快だもの」
女神との情交はそれに該当しない、そう言いたいのだろう。
「さあ、私のものになってちょうだい。そうすれば、他の誰にも手の届かない権力と若さを
あなたにあげるわ」
「別に、権力など、欲しくは――」
弱々しく首を横に振るエルークに、女神は悲しそうに表情を曇らせた。
「それとも……エルークは、私のことが嫌い?」
その表情があまりにも儚げで愛らしいので、エルークは思わずドキリとした。
長年の崇拝の対象であり、初めて出会った日からは憧れの対象でもあった女神を「愛らしい」
と思うことがあろうとは、思ってもみなかった。甘酸っぱいようなこそばゆいような、
そんな不思議な感覚が、彼の体中に痺れるように広がってゆく。
「……いいえ」
エルークは、今度は彼女の疑いを否定するために、優しく首を横に振った。
「お慕いしております――どうぞ、御心のままに」
そう言うと、彼は観念したように体の力を抜いた。そして、彼は女神の抱擁を受け入れ、
彼女に全てを委ねた。
その後は、無我夢中だった。
女神の熱い口づけに応え、彼女の唇以外にも魅力的な部分に唇を這わせる。金糸のような
彼女の細く柔らかな髪が唾液に濡れて、彼女の頬に、そして彼の頬に、絡みつくように
張り付いた。彼女の柔らかな肢体を服の上からまさぐってはみるが、その先はどうすれば
良いのかと戸惑っていると、彼女がさりげなく導いてくれた。衣を脱いだ女神の肌は、滑らかに
むっちりとして、温かい。その豊かな柔らかい胸が自分の体に押しつけられるだけで、息が
詰まりそうになってしまう。
「そんなに緊張しなくていいのよ?」
「はい……」
徐々に彼の息も荒くなり、低いあえぎ声が口から漏れる。部屋の外へ聞こえているのでは、
と思わずドアのほうに視線をやると、彼の不安を取り除くように女神が言った。
「大丈夫よ。でも、そうね、気になるなら――」
女神がそう言うや否や、どこからともなく薄い覆い布のような淡い光が現れ、幾重にも
彼らの周りを取り囲んだ。まるで神々の天幕の中にいるようだ。
「だから、こっちに集中して……ね?」
女神はエルークの服を全て脱がせると、その細い指先を彼の胸板から腹へ、さらにその
先へと這わせていった。淫靡な刺激に、彼は思わず、うわずった叫び声を漏らす。
「あ……あッ」
今まで自分でも聞いたことがないような声に、それまで彼を抑えていた最後の理性のたがが
外れた。彼は身を横に反転させると、それまで自分の上にいた女神を下に組み敷いた。息を
荒くさせながら、彼女の唇を貪り、豊かな胸に顔を埋め、柔らかな曲線を描く腰から太股を
撫で回す。
「そうよ……、そう……あぁ……」
女神は彼のぎこちない愛撫を受け入れ、艶めかしく身をよじりながら、甘い吐息と一緒に
悦びの声を漏らした。彼女も彼の唇から頬、首筋、鎖骨へと熱い口づけを返す。
やがて女神は、彼女のなだらかな下腹部を撫でている彼の利き手に軽く手を添えると、
さらにその先にある茂みへといざなった。茂みの奥に到達すると、ぬるりとした熱い蜜が
彼の指先を濡らした。柔らかな花芯を指先で撫でると、さらに溢れ出てきた蜜が彼の指を
汚す。
気持ちいいわ、と甘くあえぎながら、女神は両脚を持ち上げるように大胆に左右に開いた。
彼女の濡れた秘部がすっかり露わだ。荒い息づかいでそれを見下ろす彼の陰茎も、硬く
大きく、そそりたっていた。
「我が君……」
「さあ、入れてちょうだい……ここへ」
女神はそう言うと、彼の陰茎に片手を添えて、自らの秘部へと導いた。竿先が蜜の溢れる
入口に触れて、その刺激が彼の全身を熱く駆け巡る。彼の肉棒はそのままヌルリと、熱い
蜜壺の中へと潜り込む。
頭が真っ白になり、彼はそのまま一気に彼女を貫いた。
「ん…ッ――……あぁ……」
彼の挿入に、女神は低く呻くような嬌声で反応した。エルークは女神を抱きしめ、その
首筋に顔を埋めた。体中に熱い血が駆け巡り、想像をはるかに超えた快感に、どうして良い
のか分からない。女神は微笑むと、荒い息づかいの彼の頭をふわりと抱き留めて、彼の
暗褐色の髪を優しく弄びながら、ゆっくりと腰を小さく動かした。密着していた肌と肌の
間に隙間ができて、汗と体液に濡れた肉と肉が軽く弾み合う音がした。
「あなたも、少し動いてみてちょうだい」
「はい」
言われるままに腰を使って前後に動くと、女神が愉悦の声を上げた。
「あ、あぁっ」
「これで、よろしいですか」
「あぁ…っ、……そう、そうよ、あぁ、いいわ……もっと、もっと……、んっ、あっ、んっ、んっ」
徐々に激しくなる腰の動きに同調するように、女神の嬌声がリズムを刻む。
怒濤の如く押し寄せる快感に、いとも容易く、彼は初めての絶頂を迎えた。
低いうめき声と共に果てた彼を、女神は余裕の笑みで抱きしめる。
「初めて、だものね。――でも、まだまだこれからよ?」
女神はそう言って彼の唇を唇で塞いだ。エルークは、口移しで注ぎ込まれてくる瑞々しい
精気が体中に広がってゆくのを感じた。さっき放出しきったと思ったものが、再び漲ってくる。
「我が君……」
エルークは甘く気だるい声でそう呟くと、体を繋げたまま、両腕で自分の上半身を支える
ようにして少し身を起こした。そして美しい女主人への奉仕を再び行うべく、今度はいくぶん
落ち着いた様子で、ゆっくりと腰を動かし始めた。
その日以来、女神は彼の許を夜ごと訪れ、情を交わすようになった。
――神官になった日、確かに女神へ身も心も捧げるとは誓ったが、まさかそれが、女神の
情夫として奉仕するという意味になるなんて……。
神殿には大勢の神官がいたが、女神が逢瀬の相手に選ぶのはエルークだけだった。他の
神官たちが厳しい戒律を守る中、自分は女神に選ばれ愛されているのだという優越感が彼を
陶酔させたが、その一方で、自分だけが神殿内で快楽を貪っているという後ろめたさもあった。
その後ろめたさもあってか、普段のエルークは一介の神官として、実に真面目に日々の
勤めに従事していた。女神との関係は誰にも言わず、秘密にした。言っても誰にも信じて
もらえないだろう。もし信じてもらえたとしても、周囲の嫉妬や思惑によって、何らかの
争いに巻き込まれてしまうかもしれない。彼は権力や競争には興味がなかった。
しばらくして、エルークは自分の身に何か変化が起きていると感じるようになった。
女神との逢瀬の直後はひどく疲れ果てるのに、それが回復したときは、まるで一度死んで
生き返ったかのように、逢瀬の前よりも生気を取り戻しているような気がするのだ。
ある日、彼はその理由を知った。その日の朝、彼はふとした不注意で指先に小さな切り傷を
作っていた。その夜、女神と交わった直後のまどろみの中、彼はふとその傷が跡形もなく
きれいに治っていることに気がついた。
「もしかして、治してくださったのですか」
驚いて傍らの女神に尋ねると、彼女は事も無げに言った。
「治したのではないわ。あなたの体が、怪我をする前に若返ったからよ」
それで彼は、女神との情交によって自分の身に何が起こるのかを理解した。不老ではない、
若返りの繰り返し。
そうして、彼の「時」は緩やかに止まった。
数年後、年老いた神官長が亡くなると、次の神官長としてエルークが選ばれた。あまりに
若い神官の抜擢に戸惑う声もあったが、王子という彼の出自も後押しとなり、なにより、
女神の託宣がそう命じたため、誰も逆らうことはできなかった。
やがて、エルークが何十年経っても不自然に若い姿のままでいることに周囲も気付くように
なった。彼の父王が世を去り、その後を継いだ兄王も亡くなり、その息子が年老いて孫が
いる年になっても、彼は依然として二十代の若者の姿のまま――。
これを「奇跡」「女神の祝福」として讃える者もいたが、同時に、その不可解な若さを
不気味に思い、彼が神のように崇められることを警戒する者もあった。その一人が、彼の
甥にあたる国王だった。
不老の叔父を脅威に思った国王は、彼を暗殺しようと刺客を放った。だが、女神の加護に
よって、その企ては失敗に終わった。
「よくも、私のエルークに手出しを……!」
女神は烈火の如く怒り、首謀者たる国王に死を賜った。同時に、その息子である新王にも
恐ろしい病の呪いを与えた。エルークを危険視していた者たちは己の愚かさを悟り、今さらの
ように女神の力を畏れ、平伏したが、女神の怒りはそう簡単には静まらなかった。
「我が君、どうか私に免じて、彼をお許し下さい。彼は何も知らなかったのですから、罪は
ございますまい。それに、あの者は私の血縁なのです」
「……仕方ないわね。あなたがそう言うのなら」
殺されかけたエルーク自身の取りなしによって、女神は漸く怒りを静め、新王にかけた
呪いを解いた。その代償として、王はまだ幼い愛娘を女神への捧げ物として差し出すことに
なった。今に続く「巫女」の始まりである。今でこそ、王家の守護女神の「聖なる巫女」と
されるが、元々はまさしく「女神の端女」であり、女神とその祝福を受けたエルークへの
服従の証だったのだ。
その後も、良きにつけ悪しきにつけ、エルークに過度に干渉する者が現れると、女神は
容赦ない罰を下した。
「あなたは私のものよ。誰にも手出しなんかさせないんだから」
あなたは私のもの、女神は口癖のようにそう言った。
彼はそれに対して、決して「あなたも私のもの」とは返さなかった。そんな傲慢な言葉を
声に出してしまえば最後、すべてが壊れてしまう予感がした。いつかそれが許される日が
来るのではないかと密かに願ったこともあったし、実際、女神はそれを許したかも知れないが、
彼にはそれを試す勇気はなかった。女神と過ごす年月が長くなればなるほど、超越した
存在である女神と、神ならぬ人の身である自分との違いを思い知らされ、それゆえ彼に
とってその言葉は、決して口にしてはならない禁句となった。
時は流れ、いつしかエルークは「大神官」と呼ばれるようになった。
彼は相変わらず、女神との関係をあえて自ら明かそうとはしなかった。それはもはや
妬みを避けるためではなく、女神と彼自身の権威や神殿内の秩序を保つためになっていた。
彼の姿を見た者の中には、大神官の若さと長寿の秘密を探ろうとする者もいたが、結局は
誰にもその謎は解き明かせなかった。
それは彼の神秘性を高め、彼に取って代わろうとする者が現れるのを未然に防ぎ、ひいては
神殿がらみの無益な権力闘争を排除することに繋がった。
――あれから、およそ普通の人間には思いも及ばぬほど長い長い年月を、この神殿で、
女神と共に過ごしてきた。だが、今や「生き神」として崇められるこの身も、所詮、女神に
飽きられ見捨てられれば年老いて朽ち果ててしまう、人間の体。
女神のお陰で若さを保ってはいても、不死ではない。怪我もすれば病にもかかる。その
たびに女神に救われてきたが、いつ何時、女神の加護が及ばぬ事態で死を迎えるという
可能性も、ないわけではない。
もう、退屈するほどに生きてきた。今さら、死ぬことは怖くはない。怖いものがあると
すれば、それは、ただ……――。