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「おはよう秀樹。どぞ、お納め下さい。では」
「待たんかい」
流れ作業のごとく去ろうとするゆっこの襟を、逃さないよう後ろから引っつかむ。
早足気味だったゆっこは、首が締まって「うえっ」と呻いたが、それでもなお俺から離れるべくもがいている。
「なんだぁ〜、離せぇ〜」
「なんだはこっちのセリフだ。なんだこれは」
ジタバタしているゆっこの後ろから手を伸ばし、今し方渡されたばかりのものを眼前に突き付けた。
ピンクのリボンで口を結ばれた、紺色の袋。中には俺の手の平より少し大きめの正方形の箱が入っている。
その袋を見せられたゆっこは気まずそうに目を逸らすと、俺に背中を向けたままもにょもにょと口を動かした。
「何って、チョコですけどもぉ……」
「なことは想像ついてる。じゃなくて、何のつもりか聞いてんだっつの」
「……バレンタイン」
「バレンタインは明日だろ」
今日は2月13日。バレンタインでもなければ休日でも誕生日でもない、いつも通りの平日だ。
間違っても道行く男性に挨拶がてらにチョコを渡して逃走する日ではないだろう。
「バ、バレンタイン・イヴとか」
「そんなんあんのか?」
「あるあるっ、あるよっ」
嘘くさいを通り越して、もはや嘘そのものといった明るいご返事。
いまだに俺の方を向かないでしゃべってるところからも、ゆっこに後ろめたさがあるのは明白だ。
無理やり聞き出すのも悪い気がするが、こんな探り合いを続けていたら学校に遅刻してしまう。
ここはとりあえず俺の正直な気持ちだけでも伝えておくことにする。
「ゆっこ、できればこれは明日くれた方が嬉しいんだけど」
「う……」
「別に日にこだわるわけじゃないけど、せっかくの初イベントなんだし」
「は、初じゃないじゃん。毎年あげてたし」
「だから……」
言わせる気か、それを。
「彼氏彼女として、初の、さ」
「うわああぁぁぁぁ!!」
言葉を遮るように絶叫を上げ、ゆっこは俺の手を振りほどいて道の端にうずくまった。
「ムリ! ムリムリやっぱムリ! 恋人同士のイベントとか絶対ムリ!」
「お、おい」
「バレンタインに彼女が彼氏にチョコ上げるなんてもう、もうじゃん! でしょうよ!?」
「すまん、あんま伝わってないわ」
「このアンポンタン!」
まさかこの時代にアンポンタンなんてセリフが聞けるとは。平成生まれだぞ。
とは言え実のところ、ゆっこの言いたいことは大体わかってる。少女マンガが苦手なゆっこらしい苦悩だ。
「バレンタインに彼氏にチョコ渡すのがそんなに恥ずかしいのかよ」
「だってド本命じゃん! 義理かも、みたいなごまかしきかない究極本命チョコじゃん!」
「そりゃそうだけど」
「秀樹に『こいつ、バレンタインに本命チョコくれる気だ』なんて思われながらチョコ渡すなんて怖い怖い怖いぃぃ」
こいつの恥じらいは何故こんなにも屈折しているのか。長年そばにいるのに、いまだに理解できない。
それでも、ゆっこが俺達の関係を人一倍意識しているのは間違いない。
そう思って彼女の丸まった小さな背中を見ていると、つい笑みが浮かんでしまう。
「だからって、イベントの前日に渡せばいいやってなるか普通」
「それぐらいしないと、とてもじゃないけど耐えられないのデス」
「渡さないって選択肢もあっただろ」
「それは……」
ゆっこがやっとこっちを向いた。照れなのか興奮なのか、その頬は赤く染まり、うっすらと涙目になっている。
「だって、やっと秀樹の彼女になれたから……ちゃんと彼女らしいこと、したかったし……」
……逆に、どうしてそういうことは言えちゃうんだこいつは。基準が全然わからん。
危ない。往来だというのに抱きしめてしまうところだった。ゆっこが思ってる以上に、俺は彼女にベタ惚れなんだ。
「……ま、そういうことなら今年はバレンタイン・イヴチョコでいい」
「ど、どーも申し訳ない」
「そんかわり、だな」
素早くゆっこに近付き、耳元で囁く。
「明日は別の形で、もっと彼女らしいことしてくれ」
言って、ゆっこの脳内回路が追い付く前にさっさと歩き出す。
なるほど、さっきまでのゆっこの気持ちがよくわかる。とてもじゃないけど、恥ずかしすぎて振り返れない。
「ひぎゃうううぅぅぅぅ!!」
どうやら俺の意図は伝わったらしく、背後から怪獣のような咆哮が聞こえてきた。朝から近所迷惑なやつ。
思えば、ゆっこと今の関係になるまでにも散々苦労した。そして、これからもまだまだ苦労は続くらしい。
まぁちょっとずつ前進していけばいいだろう。これからもたくさんのイベントが待ってるわけだし。
ゆっこに気付かれないようこっそり笑って、彼女が追い付くのを待つように、歩く速さをそっと落とした。
〜完〜