従兄殿がアパートの四階から落ちたというので、お見舞いに行くことにした。  
竜人などの稀少種族向けの病院は長い長い坂を上った上にある。  
ただの山道なら沿道に得体の知れぬ草やら獣やらがいて楽しめようものを、  
この道はぴっしりと整地されていて実に面白みがない。  
こういうつまらぬことをするのは狼人と決まっている。  
連中は一様に狂っているくせに感情が平坦なのだ。  
かくもつらつらと恨み事が湧いてくるのは手に提げたトマトジュースのペットボトルが重いからである。  
 従兄殿は専用の冷蔵庫を持つまでにトマトジュースが好きだが、トマトは嫌いだ。  
難儀な男である。難儀と言えば、ペットボトルでは大口を開けて飲んでも物足りぬというのでいちいちバケツ一杯にトマトジュースを移し替えて、  
それを嬉しそうにごくごくと飲む。その姿は豪快というより不憫である。  
豪快と言うべきなのだが、どうしてかこちらをいたたまれなくさせるのだ。  
いろいろと難儀な男だが、でも、わるい男ではない。わるい男ではないのだ。  
従兄殿は果たしてトマトジュースを飲める状態であるだろうか。  
私の細腕ではペットボトルを一本しか持ってくることができなかったのだが、  
それでがっかりしてみせるくらいであるとよいと思う。そうでないだろうなと思う。  
 四角い病院の戸を開けて中に入る。受付にいた犬人がその青い瞳でちろりとこちらを見た。  
「あの、昨日入院した竜人の見舞いに来たんですが」  
「208号室です」  
 従兄殿が竜人であった故説明する手間が省けた。  
受付の犬人にちょいと頭を下げて、ロビーをふらついてみる。  
おそろしいことに、医者患者問わずここにいる人間のほとんどが希少種だった。  
普通の獣人が踏み込んだら空気を吸うだけで狂い死にしそうである。  
今の気分で従兄殿に会うのは嫌なので、もう少しトマトジュースに付き合ってもらうことにする。  
なるべく誰とも目を合わせないように顔を伏せて歩いていると、がちゃこんとレジの開く音が耳に届いた。  
隠世にも等しいここにおいて、俗世の営みは実にやさしい感じがする。  
私の感覚での話だが、そこがどんな病院かというのは、売店に集約される気がする。  
死がほど近い病院では小さなお菓子が多いし、生きる者のための病院には雑誌が充実している。  
さて希少種の病院はどんなところだろうかと覗いてみたところで、  
私は二十ほどトマトジュースの缶を抱えている竜人を見つけた。尻尾をびたびた、実に嬉しそうである。  
私は後ずさると、杖をついて歩く鳥人を蹴散らしエレベーターに飛び乗った。  
誰もいないのをいいことに、ボタンを何度も押す。二階。二階。二階。  
閉まるのボタンを押せばよかったのだと気付いた頃に鉄のドアはぐたんと閉まった。  
 まとわりつくような重力が厭わしい。開きかけた扉を抉じ開け、私は走って病室のプレートを探す。  
208号室。やんぬるかな、従兄殿がいたはずの部屋は私が向かったのとちょうど反対側のすみっこにあった。  
薄情にも208号室には誰もいなかった。からっぽだった。  
従兄殿が寝ていなければならないはずのベッドはからっぽで、触るとつめたかった。すっかり冷めてしまっていた。  
もっと早く来てあげなければいけなかったのだと知って、私ははらはらと涙をこぼした。  
抱きしめたトマトジュースのペットボトルが、厭わしく、愛おしかった。  
「お、来てくれたのか」  
 いつの間にか両手いっぱいにトマトジュースを抱えた従兄殿が後ろに立っていた。  
「おはか」  
「うん?」  
「おはか、持ってくから」  
 振り返ってペットボトルを突き出すと、従兄殿はその細長い瞳孔を左右にふらふらさせて缶をがらがら取り落とした。  
「どうして泣く」  
「従兄殿が死んで、私はかなしい。それくらいの情はあった」  
「それくらいなのか。だがちょっと待ってくれ、落ち着くんだ」  
「初めて幽霊を見たけれど、従兄殿だからそこまでこわくないよ。いざとなったらペットボトルで殴るし」  
「俺は生きている」  
「死んだ人間はみんなそう言うんだ」  
「違う」  
 手にしたトマトジュースをベッドに投げ捨てると、従兄殿は私の手をぎゅっと握った。  
「ほら、暖かいだろう」  
「冷たい」  
「変温動物である分を加味してくれ」  
「やっぱり冷たい気がする」  
「ここはあったかいね、と微笑む流れだ」  
「はあ」  
 
 そのように生真面目な無表情で言われても私にはなにがなにやらさっぱりである。  
つまりどういうことなのだろうと首を傾げている間に従兄殿は床に落ちた缶を拾い集めて、ついでに私の持っているペットボトルもひょいと取って、  
全部ベッドに寝かせた。白いシーツの上に山積みの缶はどれも血を流している。再び私の手を取って、従兄殿はぐいと私の瞳を覗きこんできた。  
「お前の頭の緩さはもう十二分に思い知らされている。理解はしなくていいから復唱しろ。俺は死んでいない」  
「俺は死んでいる」  
「死んでいない」  
「死んでいない」  
「もう一度」  
「死んでいない」  
「俺は?」  
「死んでいない」  
 口に出すとなにやらそんな気がしてきた。従兄殿は死んでいない。  
つまり、幽霊になってまで病院の売店でトマトジュースを買ったりしていない。まことにけっこうなことだ。  
理解の証に頷くと、従兄殿は溜息をついてベッドに腰かけた。その隣に座って、冷たくて硬い肩に鼻を擦りつける。  
「どうしてそんな勘違いに至ったんだ?」  
 私を抱きよせて、従兄殿は心底不思議そうに聞いてきた。  
「アパートの四階から落ちたって聞いて」  
「ベランダの柵が壊れていてな。それで?」  
「立って歩いてるはずないから、死んじゃったんだと思って」  
「……わからんでもないな、今回は」  
 従兄殿は目を瞑って難しそうな顔をした後に、私をちょいと持ち上げて膝の上に載せた。  
「この通りだ。自分でも信じられんが、なんともない」  
「そうなの?」  
「医者も驚いていた」  
  四階から落ちてぴんしゃんしているというのは、なにやらごまかしというか、不誠実な臭いがする。しかしながら、無事なのはよいことだ。  
喉を鳴らしながら太い首に手をまわして、そのひんやりを確かめる。従兄殿が死んでいてもこうして抱っこしてくれるならそれでいいかな、と思った。  
しばらくそうしていると、不意に従兄殿が申し訳なさそうに私の肩をがっしと掴んだ。  
「頼みがある」  
 何事もなかったとはいえ入院患者の従兄殿だ。私にできることはなんでもしてやろうという気持ちで私は頷く。  
「口でしてくれないか」  
「なにを?」  
「何って……」  
 従兄殿は私の肩をがっしと掴んだまま、舌を牙の隙間からうろちょろさせた。  
「ナニだ」  
「何?」  
「……そういうプレイか?」  
 もちろん腰のあたりを突き上げる不埒な一物がわからぬ私ではない。  
それにしても従兄殿、このような公共の場で事に及ぼうとは劣情の奴隷である。  
そういえば従兄殿のお部屋にはナース服で不埒な写真集がいっぱいあったなあとどうでもいいがとても大事なことを思い出した。  
私にできることはなんでもしてやろうという気持ちではあったがナニをしてやろうという気にはなれない。  
私は自由な手でトマトジュースを一缶攫ってかちんと開けた。生臭い植物の臭気が部屋に広がる。  
口に含むと、その擦りつけるような独特の酸味は一層強くなった。従兄殿の顎を両手でこじ開けて顔を寄せる。  
牙の合間に頭を委ねていると、喰われるみたいでちょっとどきどきした。なにか言おうとするのを封じ込めて、  
口の中に溜めたトマトジュースを従兄殿の喉に流し込む。  
「ガボッ」  
 なんだか溺れているようなえぐい音がした。苦しげに喉を押さえる従兄殿から飛び離れて、私はとんと爪先で立つ。ふたを開けたトマトジュースをこぼさないように、一回転。  
「口でしてあげたよ」  
「え」  
「じゃあ帰るね」  
「えっ」  
「帰るね」  
「えっ」  
「帰る」  
「はい」  
 従兄殿、しょんぼりである。続きはおうちでね、と言い置いて病室を出る。  
これから従兄殿はトマトジュースを口にするたびにこれを思い出すことになるだろう。  
忘れればいいものを、そういう難儀な男なのである。  
 なにはともあれ、従兄殿は元気そうでなによりであった。  
 
 おしまい。  
 

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