「Like a sister」  
 
うららかな日曜の昼下がり。  
昼食を終え、提出期限の迫った大学のレポートを仕上げていると、不意に携帯がメールの着信を知らせるメロディーを響かせた。  
「誰だ?」  
送信者を見ると、妹の美久からだった。そういえば今日は出かけているらしく、いつも騒がしいアイツがいないおかげで家の中が静かに思える。  
「っていうか親父たちもいないのか……」  
両親も揃ってどこかに行っているらしく、現在家の中にいるのは俺一人の様だった。  
「んで、何の用なんだ?」  
肝心のメールの内容を確認すべく携帯を開くと、題名もなくこう書かれていた。  
『二時に友達が家に遊びに来る事になってるんだけどそれまでに帰れないっぽいから兄さん相手しといて。兄さんが女子高生相手に小粋でナイスなトークで場を持たすことを妹は期待しています。んじゃヨロ〜♪』  
「ウゼェ……」  
メールの文章だけでちょっとイラッときてしまった。顔文字とか使ってる訳でもテンションが高すぎる訳でもないのに何故かやたら腹が立つ文面だ。  
「二時ねぇ……」  
無視してやろうかとも思ったが、遊びに来る美久の友達とやらに非は無いのだからその仕打ちはあんまりだ、と考えなおし、出迎えの準備をすべく時間の確認の為に時計に目をやった。  
「えーと、一時五十八分…………ってオイ!」  
あと二分しかないじゃねーか!とここにはいない妹に向かってツッコミを入れるも、当然の事ながらそれに対するリアクションは誰も返してくれない。  
俺は空しい一人芝居を中止し、即刻客人を迎える準備をすべく立ち上がった。だが――。  
ピンポーン。  
時すでに遅し。どうやら妹の友人は時間前行動の徹底されている出来た人物の様だった。  
「あー……どうしよ」  
迷っていると、十秒ほど経ってから再びインターホンの呼出し音が鳴る。  
俺は意を決し、玄関に向かった。元々大した時間が残されている訳ではないのだし、何の準備もしていなくてもあまり変わらない。幸い、というべきか家の中は客を招いても恥ずかしくない程度には片付いていた。  
「はいはーい、今出ますよっと」  
聞こえないだろう返事をしながら、玄関のドアを開けると、立っていたのは小柄な少女だった。あどけなさの残る顔立ちで、恐らく年齢の割に童顔なのだろう、高校生ながら少女らしい可憐さが目立つ。大人しそうな外観そのままに控えめにかしこまって俯いていた。  
(はて、この娘どっかで……?)  
その顔に俺はぼんやりとだが覚えがあった。ゆらゆら揺れる記憶を必死に探っていくと浮上してきた記憶が一つ。  
小学生の頃の俺、そして妹の美久と三人で遊ぶ少女の姿だった。  
「葵……ちゃん?」  
思いつくままに浮かんだ名前を口にする。  
その声を聞いた少女はゆっくりと顔を上げ、意外そうに眼を見開いた。  
ドアを開けてから俺が一言もしゃべらなかったため、また少女も俯いていたため、ドアを開けた人物が誰か今までわからなかったらしい。  
俺の顔を見た少女は、数秒の沈黙の後、ぽつりと漏れ出るような声を発した。  
「…………いっ……くん」  
 
「えーと、ごめんね。美久の奴もうすぐ帰ってくると思うから。あ、麦茶でいい?」  
「あ、いえ、あの……お構いなく……」  
いつまでも玄関で立ち尽くしている訳にもいかず、とりあえず客人をリビングに通すことにした。冷蔵庫から冷えた麦茶を出してグラスに注ぎ、自分の分と合わせてテーブルに置く。  
「改めて……久しぶりだね、葵ちゃん」  
「は、はい、お久しぶりです。えと……時田、先輩……」  
(『時田先輩』ね……)  
慣れない呼ばれ方に俺は心中で苦笑した。  
桐嶋葵は美久の昔からの親友であると同時に、俺こと時田郁人にとっても何度となく遊んだことがある娘だった。  
活発で行動力のある美久とは反対に大人しく控えめな性格だが、何故か美久とは気が合うようで、小学生の頃はたびたび我が家に来ては俺を交え三人で暗くなるまで遊んでいた。  
ただ昔からしばしば行動力がありすぎて暴走しがちな美久に振り回されており、その度お目付け役の俺がブレーキ役にならざるをえなかった。  
二つ年下の女の子二人の面倒をしょっちゅう見ていた俺が同級生にからかわれたのは言うまでもないが、今となってはいい思い出である。  
しかし俺が中学に進学すると、ぱったりといっしょに遊ぶという事をしなくなってしまった。  
さらに美久も葵も中学は俺とは別のところに入学したため、もうその頃にはすっかり疎遠になってしまっていた。  
その後、俺が高三の時に美久と共に同じ高校に入ってきたらしいのだが、一年間ほとんど顔を合わせることがなく、何の接点もないまま俺が卒業してしまったのだった。  
彼女が俺を「先輩」と呼ぶのは恐らく同じ高校だったからという事なのだろう。  
「小学校以来だから……七年ぶり、になるのかな。はは、去年はせっかく同じ学校だったのに全然会わなかったもんね」  
「あ……は、はい……」  
かすれたような小さな返事が返ってきた。どうも彼女の方は少しと言えないくらい緊張しているようだ。  
無理もないかもしれない。いくら小学生の時によく遊んだからといって七年ぶりに会う年上の男だ。外見やら声やら色々変わっているだろうし、大人しい性格の彼女の事、もしかしたら怖がらせてしまっているのかもしれない。  
(うーん、なんか他の話題を……)  
何か緊張をほぐすような話を、と考えていた俺だったが、目の前にちょこんと座る少女を見て自然にぽろっと言葉を漏らしていた。  
「葵ちゃん、可愛くなったね……」  
「ふぇっ…………ええっ!?」  
驚きの声を上げ顔を真っ赤にする葵。ウブというか純情な反応だった。  
「ああ、ごめんね、いきなり。でも可愛くなったってのは本当だよ」  
失言を謝りながら、発言は取り消さなかった。実際、葵は昔の面影を残しながらもかなり可愛くなっていた。  
丸っこくて愛らしい瞳や形のいい唇は昔のまま、頬や鼻筋などは子供らしい丸みが消えて女の子らしい成長をしたとわかる。見た目はやや幼いが、結構な美少女と言えるだろう。  
 
「あ、そんな……可愛いなんて、私なんか……」  
「いやいや、女の子ってやっぱ変わるもんだね」  
「あ、ありがとうございます。でも、時田先輩だって、その……かっこよくなったと思います……」  
「そうかな?ありがとう」  
恥ずかしそうにこちらをチラチラ伺う葵に、俺は年上らしい余裕を持ってにっこり笑いかける。  
こういう場合はお世辞か社交辞令でそう返さざる得ないものだとは思うが、やはり悪い気はしないものだ。それになんとなくだが葵はお世辞を言うのが下手そうで、今のは本心かなと思ってよさそうだった。  
(いや……というか昔からそうだったか?)  
よくよく考えると彼女は確か昔から少しおどおどしたところがあった。その代わりにおべっかを使ったりするような事もしない娘だった。  
外見は魅力的に変わったが性格の方はそうそう変わるものでもないらしい。  
「あの、美久ちゃんもそうですけど、二人とも……背が高くってかっこいいですよね……」  
「あー、ウチは家系でみんな結構高いからなあ」  
俺の身長が180p半ばくらいで、美久も170p弱ある。さらに父親も母親も長身でそれぞれ俺や美久とそう変わらない。一家揃ってデカいのである。  
「美久ちゃんなんて背高くてモデルみたいに細いのに、あんなスタイルいいし……。私、ちっちゃいから羨ましくて……」  
そう溢す葵は確かに身長はあまり高くなかった。立ったときの感じから俺より30p以上は低い。下手すれば150pないかもしれなかった。  
俺の主観では記憶に残っている小学生時代よりは確実に伸びてはいるのだが、まあそれをここで言っても何の慰めにもならないだろう。  
とはいえ、だんだん葵の方も話しやすくなってきたようで、先程よりも喋り方に硬さがなくなっていた。  
「美久と言えばさ、アイツ学校ではどんな感じ?」  
「美久ちゃんですか?えっと、相変わらずですよ。いつもクラスの中心にいて、明るくて誰にでも優しくて、学校中から大人気です」  
「はー、アイツがね……」  
普段の生活を見慣れている兄にとって、妹が学校で人気者というのはなかなか想像しづらいものだ。  
「すごいんですよ、美久ちゃん。美人だしスタイルいいから男子が放っとかないし、性格も男らしくてかっこいいって女子からも評判ですし」  
確かに性格はさっぱりしていて裏表がないのは美久の良いところだし、顔も兄妹の偏見という贔屓目を無くせば恐らく美人に分類されるだろう。多分身体もグラビアアイドル顔負けのスタイルではある。  
ん?妹の地味なスペックの高さに今頃気付いたぞ?  
「それに、その……け、経験豊富……だから、恋愛相談とかもやってますし」  
赤くなって口ごもるように話す葵。この見た目清純そうな少女からすれば美久の「経験豊富」というのは話題に出すのも恥ずかしかろう。  
まあ要するに美久は高二にしては異様なほど「男性経験」が豊富なのである。というかもっと端的に言うとエロいのだ。思考がエロで占められているというか、脳と下半身が直結しているというか……。  
「私も美久ちゃんみたいな女の子になれたらなって思ってるんですけどね……」  
「いや!君はそのままの君でいてくれ……!」  
俺は身を乗り出すようにして、全力で反対意見を投げつける。この純情な少女があのエロ魔人のようになったら、女性の淑女性を信じる世の中の男性達がさぞ嘆くことだろう。そしてその原因が自分の妹なんて事になったら俺は全世界に土下座したくなる。  
 
「あ、あの……時田先輩……」  
強い口調に戸惑うように葵が顔を俯かせる。そこで俺ははっと気がついた。折角いい感じに緊張が解けてきたというのにまたビビらせてどうするのか。  
「あ〜ゴメン、大きな声出して」  
「いえ、大丈夫です。……でも、そのままの私でいいなんて…………へへ」  
俺からの謝罪に取り繕うように答える葵。後半部分はよく聞こえなかったが、何やら嬉しそうにはにかんでいたから、別に機嫌を損ねている訳ではないらしい。  
少しの間にやにやと笑っていた葵は、すぐに気を取り直し脱線した話を戻した。  
「えっと、とにかくですね、美久ちゃんは昔から私の憧れなんです。かっこいいし、行動力もあってすごいなって」  
「へえ……」  
昔から仲が良かったが、この少女がそんなにも妹を慕っているとは知らなかった。てっきりガキ大将とその子分的な関係なのかと思っていたが。  
「しかし、俺が言うのも何だけど……あの変態をあまり見習ってもなぁ……」  
「誰が変態なのかしら、兄さん?」  
俺がなんとはなしに発したボヤキに、横合いからツッコミが入った。いつの間に帰ってきたのか、リビングの扉にもたれかかり不敵な笑みを浮かべながら、我が不肖の妹が腕を組んで立っている。  
「全く兄さんは……女の子とふたりきりなのになんで妹の話なんかしてるのよ……」  
「お前の友達とお前の話で盛り上がって何がいけないんだ」  
呆れ声を上げながら、テーブルの方に近づいてくる美久に適当な返事をして、俺はその姿をしげしげと眺めた。  
色ボケの妹様は今日も露出度全開の恰好だった。  
白いワイシャツとプリーツスカートは学校の夏服だからまあいいだろう。日曜なのになんで制服着ているのかとは思うが大した問題じゃない。問題はその着こなし方だった。  
ワイシャツはボタンが胸の前の二つしか留められておらず、おへそや胸元のブラジャーが大胆に見えてしまっている。さらに胸が大きいからか自然と形成された谷間が思い切り晒しだされた状態だった。  
プリーツスカートは女子高生らしく膝上にまで短くなっている。  
だがこいつは更に左足の側面部分にチャイナドレスのような深いスリットが入り、ただでさえ短いスカートから覗く太ももが惜しげもなく露出している。よく見ればスリットの切れ目、足の付け根部分にはピンク色のショーツがチラチラ見えている。  
肉親でなければさぞ目の毒だろう。実に痴女っぽい恰好だ。こんな服装で表を闊歩する妹のセンスと神経と脳が兄として些か心配になる。  
不躾な俺の視線に気付いたのか、美久は一瞬きょとんとした表情を見せ、すぐニンマリと笑った。そうして身体をくねらせてしなを作り、流し目を向けてきた。  
「あら、どしたの兄さん?妹の事そんな熱心に見つめちゃって?あ、ひょっとしてぇ……ムラムラ来ちゃった?……って痛ぁっ!?」  
たわけた事を抜かす妹にビシッとチョップを入れる。全くおぞましい事を言う女だ。確かに美久は女性的な膨らみに富んだ整ったスタイルの持ち主だが、だからって実の妹に欲情する兄がいるものか。  
「ったく……アホな事言ってんなよ、お前は。…………んじゃ、俺部屋に戻るわ」  
「あら、何よ兄さん。折角だから今日は三人で遊びましょうよ」  
美久が帰ってきたからには葵の相手もここまでだろう、とその場から立ち去ろうとする俺に美久が口をとがらせて引き留めてくる。  
「いや、悪りーけど今日中に仕上げなきゃいけないレポートあんだ。葵ちゃんごめんね、ゆっくりしてってね」  
「あ、は、はい……」  
リビングから出ていきながら手を振ると、葵は恐縮したように縮こまりながらぴょこんと頭を下げてきたのだった。  
 
「あ、兄さん、葵そろそろ帰るって」  
午後七時半。なんとかレポートも仕上がりリビングまで出てくると、ちょうど葵が帰り支度を始めているところだった。  
「あ、そう。それじゃまたね、葵ちゃん…………って痛ぁっ!?」  
手を振って軽く挨拶する俺に、美久が後ろから蹴りを入れてくる。割と本気な蹴りで思わず声を上げて痛がってしまった。  
「またね、じゃないわよ!兄さんが送って行きなさい!」  
「…………何で俺が?」  
当然の俺の疑問に美久は俺の頭を抱えるようにして、声を潜めて囁いた。  
「さっきあまり話せなかったでしょ。久しぶりに会ったんだから帰り道にでももうちょっと話していきなさいよ」  
そう言われ半ば叩き出されるように葵を連れて外に出る。  
初夏の陽気は夜になってなりを潜め、心地いい涼しさが辺りを包んでいた。気持ちいい夜だし散歩がてらいいかな、という思考が頭に湧いてきた。  
葵の方をちらりと見ると、未だおどおどとした態度で佇んでいる。また緊張しているのかと思いきや、口元には微かにはにかむような笑みがあった。  
「行こっか」  
「は、はい……」  
声をかけて歩き出すと、慌てて後からついてくる。背が小さいからか、その歩調もちょこちょことしたものだ。俺は葵がついてこれるように多少ペースを抑えながら歩いた。  
葵の家までは確か徒歩で十分程度だ。ぼんやり歩いていたらすぐに着いてしまう。  
折角なので俺は話題を振る事にした。美久に言われたから、というのもあるが、俺自身もやはり久々に会った葵ともっと話したいと思っているのだ。  
しかし何を話したものか。もう一度「久しぶり」から始める訳にもいかない。会ってなかった七年分の話ならがっつりできるだろうが、葵の家までの十分程度で終わる話題でもない。  
「美久と何話してたの?」  
結局出てきたのはそんな言葉だった。美久には呆れらたし自分でもどうかと思うが、やはり現在の俺たちの共通の話題と言えばあの妹なのである。しかし――  
「えと、何って、その……色々です……」  
その「色々」の内容を話してくれればまだ会話の広げようもあるのだけど……。葵はそれ以上の情報を明かしてくれる事もなく、早速だが会話が止まってしまった。  
(うーん、困ったな……)  
葵も悪気はないのだろうが、もしかしたら美久と今日話した事はあまりおいそれと他人に言える事でもないのかもしれない。  
俺としても女の子同士の秘密をほじくりかえすような真似はしたくない。が、折角美久が気を遣って(多分)くれたのだから、再開した幼馴染と全く会話にならないなんて事態は避けたい。  
そう思って葵の方に目をやると、葵もこっちを見ていたらしくばっちり目が合ってしまった。  
「!」  
途端ビクッと弾かれたように俯いてしまう葵。その姿からは「上手く話せなくてごめんなさい……」という無言の訴えが漏れ出ていた。  
どうやら向こうも何とか会話の糸口を見つけようとはしていたようだが、緊張してうまくいかなかったらしい。  
 
「…………」  
「…………」  
なんとも言えない空気のまましばらく歩いていると、ふと葵が立ち止まり「あの、先輩……」とおずおず声をかけてきた。なにかと思い視線を向けると、何か懐かしむような顔で目を細めている。  
「あそこの家……覚えてますか?」  
そう言って葵が指差した先はブロック塀に囲まれた一軒家だった。それなりに広い庭には何本もの柿の木が生えていて、その内の一本の枝が自己主張するように塀から道路側へ飛び出している。  
ぼんやりと記憶が蘇ってきた。木に登る女の子とそれをハラハラしながら見守る俺。  
「ん、覚えてる……っていうか思い出した。昔三人で遊んでる時、この家の柿取ろうとした事あったよね」  
「はい、美久ちゃんが言い出して、先輩がついてきてくれて……」  
葵の言葉におぼろげな記憶がはっきりとしてくる。  
「そう、たしか美久が言いだしっぺで……あれ、でもなんか本人は見てるだけで葵ちゃんを木に登らせてたような……」  
「それで登ったはいいけど降りられなくなった私を、先輩が助けてくれたんですよ」  
ふふ、と笑いながら葵が記憶の補完をするように付け足してくれた。  
そうだ、たしかそんな事もあった。木の上で震えて怯える葵をなだめすかして飛び降りさせ、下で俺が受け止めたのだった。  
「でもあの時上手く受け止められなくって、結局俺なんか失敗した気がするんだけど……」  
「……私を受け止めたのは良かったんですけど、そのあと先輩が身体を崩して頭打っちゃって……結構血が出てたから美久ちゃんが慌てて人を呼びに行ったんです。私はずっとわんわん泣いてましたけど……」  
「あー、そうだっけか」  
思わず額に左手をやると薄く残っている傷跡に指先が触れた。すっかり忘れていたがこの傷もその時にできたものだっけ。  
頭に手を当てる俺を見ながら、葵は懐かしそうに目を細めながら再び歩を進め始めた。  
「あの頃、先輩はそんな風にいつも私を助けてくれましたよね」  
「あー…………そうだっけか?」  
同じような台詞を今度は疑問符付きで返す。  
助ける、といっても常に美久に振り回される彼女を慰めたりフォローしたりしただけだ。  
それにしたって元凶たる美久の兄として、またその場の年長者として当然の事をしたまでなのだが。  
もちろんだからといって葵が美久の事を迷惑に思っていたわけではなく、ただちょっと遊び方が過激だっただけである。  
「いつも困った時は助けてくれたし……何でも出来て頼りになる年上の人だったし……私にとって先輩はヒーローだったんですよ」  
ちらっとこちらを上目遣いで見上げてくる葵。30pも下にある彼女の顔はわずかに頬に赤みが差し、嬉しそうに口元に笑みを浮かべている。  
「だから今日、先輩に久しぶりに会えて良かったです。私、緊張しちゃって上手くしゃべれなかったけど……でも、気を使って色々話してくれましたよね?」  
「はは、何話せばいいかわからなかったのは俺も同じだけどね……」  
少し自嘲しながらそう言うと、葵はそれを否定するようにゆっくりと首を横に振った。  
 
「私、嬉しかったんです、気を使ってもらって。七年ぶりだけど……先輩は全然変わってなくて、なんだか安心しました。だから本当に今日会えて、嬉しかった……」  
小さく控えめな葵の声だが、そこには確かに嬉しそうな響きがあった。  
お世辞の言えない彼女の言葉だ。きっと本当にそう思ってくれているのだろう。  
「葵ちゃん、また遊びに来なよ。今日は途中で抜けちゃったけど、今度は俺も時間空けとくからさ」  
「え、いいんですか?」  
「もちろん、また昔みたいに三人で遊ぼうよ。あ、でも……」  
少しだけ気になっていた事を俺は半分冗談めかして口にした。  
「次からは『先輩』はちょっと勘弁して欲しいかな。よそよそしい感じがして嫌だし、そもそももう同じ学校でもないしね」  
久々に会った娘に対して呼び方まで指摘するのはちょっと図々しいかと思わなくもなかったが、大人しい少女は素直にそれを受け入れてくれた。  
「は、はい……でも、そうしたらなんて呼べば?」  
「んー、昔の通りで、いいんじゃない?」  
俺自身がすでに昔通り「葵ちゃん」と呼んでいる訳だし、それに今日玄関で久々に顔を合わせた時、葵が思わず昔の呼び名で俺を呼んでいた事に俺は気付いていた。  
「えっと、じゃあ……あの…………『いっくん』」  
少しの逡巡を見せたあと、か細い声で、しかしはっきりと葵は俺の事を呼んだ。  
その渾名は、「郁人くん」と呼ぼうとした小さな頃の葵が、舌足らずに「いきゅとくん」とか「いくつきゅん」とか噛みまくっていたの見て、「いっくんでいい」と言ってやったのがきっかけだった。  
聞き覚えのある、愛らしさの残るその響きに懐かしさを覚え、俺は微笑みながら「はいよ」と相槌を打つ。葵はそれを聞いて「ふふっ」と少し笑った。  
「きっと、また近いうちにお邪魔します。その時は三人一緒で、また昔みたいに遊びましょう、いっくん」  
そう言って葵は満面の笑みを俺に向けてくれた。恐らく今日初めて見せてくれたその顔は昔よく見た少女の笑顔にそっくりで、一瞬俺は当時の彼女と向かい合っている錯覚に陥った。  
幼馴染の少女が変わっていない。たったそれだけの事が何故だかとても嬉しく感じられたのだった。  
 

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