授業終了のチャイムが鳴り、やってきた放課後。  
ざわめきに包まれた教室を抜け出し、誰よりも早く自転車置き場へ直行し、愛車に跨る。  
ここからは校門が見通せるので、行動を起こさず待機し、ターゲットが出現するのをじっと息を潜めて待ち伏せる。  
こうしていると第三者からはストーカーか誘拐犯に見えるかもしれないと思ったが、  
悲しいのでそれ以上は考えないことにした。  
やがて校舎が帰宅部中心の下校組第一陣を吐き出す。  
皆後ろ姿だが、その中には見慣れたしっぽ頭と腰まである長い黒髪もあった。  
特徴的な髪型の友人を持つと判別の手間が省けて便利だ。  
二人が校門から消えるのを見計らって、作戦開始。  
俺は軽快に自転車をこぎ、門を抜け、あっさりと葉山達の横に付けた。二人はブレーキの音に揃って顔を向ける。  
「よ、もう帰りか? 早いな」  
表情、声色共にこれ以上無いってぐらい自然を装えている。  
我ながらほれぼれする完璧な演技だ。自分で自分を誉めてあげたい。  
「はい。今日は由理さんの部活がないですし、掃除当番でもないので」  
そうにこやかに返したのは綾咲の方である。  
葉山はというと綾咲の目が届かないのをいいことに、にやにやと意地悪く笑みを浮かべている。面白がってやがるな、こいつ。  
まぁいい、今の俺は自分に課せられた任務をこなす一兵士。いわば現代のターミネーター。  
上官がどんな表情をしていようが関係ない。与えられた役割をこなすだけだ。  
「そうか。それじゃあまた明日な」  
別れの挨拶を告げ、俺は愛車・グローバルスタンダード号(和名・世界標準丸)の ペダルを踏み込む。  
行け、グローバルスタンダード号! 輝く未来へ向かって!  
「待たんかいコラ」  
突如左方向から加えられた運動エネルギーによって、俺と相棒はド派手な音をさせながら、  
翼をもがれた鳥のごとく地面に引き落とされた。  
全身を揺さぶる激しいシェイクが終わると、景色は一転、晴れやかな午後三時の空に。隣では車輪がからからと空転している。  
あぁ、今日も世界は平和だなぁ。  
この平和がいつまでも続くといいなぁ(意訳・自転車に乗っている人間を蹴倒すのはやめてください)。  
 
「し・の・は・ら〜〜〜〜」  
が、平穏な時は仮りそめのものだった。視界に映ったのは憤怒の色を纏わせた一人の少女。  
鬼だ。鬼がおられる。彼女の怒りを鎮められるなら出家してもいい、そう思えるほど恐ろしい顔をしていた。  
葉山は俺の襟首をひっ掴むと、  
「ひ・る・に・言・っ・た・こ・と・わ・す・れ・た・の?」  
言葉の句切りに合わせて前後上下左右に激しく揺さぶった。  
ゲームセンターのジョイスティックでもこんなアクロバットな動きはしない。  
つーか首が絞まって……やばい……死ぬ……。  
必死で葉山の手を叩きギブアップの意を示すと、ようやく俺は解放された。  
慌てて息を吸い込み、勢い余って咳き込む。二、三度深呼吸すると、ようやく呼吸が正常に戻った。  
しかしまだ終わっちゃいない。今まさにそこにある危機。葉山さんがすごく怖い目をして僕を見ておられます。  
「それで、どういうつもりよ?」  
尻餅をついた状態の俺に目線を合わせながら、綾咲には聞こえぬよう声量を絞って問いかける葉山。  
俺は彼女から目を逸らしつつ、ちょっと顔を赤らめて、同じように小声で答えた。  
「一緒に帰って友達に噂とかされると恥ずかしいし……」  
「どこの乙女だあんたは」  
葉山は更に眼光鋭く俺を見据える。しかし真実は言えない。  
勢いでボケてみましたなんて告白したら、死亡診断書が作成されてしまう。  
『篠原直也    死因・自業自得』  
嫌すぎる。反省してます神様助けて。  
「あのう」  
一方的に激しい火花が飛び散る空間に、置いてきぼりになっていた綾咲が控えめに割って入ってきた。  
いつもの光景と思っているのか、戸惑いの色はなく、無理に俺達を止める様子もない。  
しかしそれで充分。葉山は綾咲に感情の矛先を向けるわけにもいかず、毒気を抜かれてしまっている。  
ふっ、勝った。ふぬけた葉山相手ならこの状況をうやむやにする事などたやすい。  
勝利の女神は俺に微笑んだ。ありがとう、女神綾咲。  
 
「あー、どうしたの、優奈」  
葉山が決まり悪そうに頭を掻きながら立ち上がる。しかし綾咲は答えず、ゆっくりと俺達を見比べると、ポンと手を打った。  
「わかりました。由理さんは篠原くんと一緒に帰りたいのですね?」  
『はぁ?』  
とんでもない発言に、俺と葉山がシンクロした。  
一体どうしたらそんな珍解答が弾き出されるんだと一瞬思ったが、改めて回想すると葉山の行動は確かにそういう風にも取れる。  
あながち的はずれな勘違いでもない。となると、これを利用しない手はない。  
「あのね、そんなわけ」  
「実はそうなんだ。どうやら葉山は三人で帰りたくて仕方がないらしい」  
否定の言葉を遮られ、葉山が殺意のこもった眼差しを向けてくるが、気にしない。  
「やっぱり。由理さんも早く仰ってくださればよかったのに。それでは三人一緒に帰りましょうか」  
「ああ、そうするか。ところで葉山、さっき何か言いかけたか?」  
「……別に何でもないわよ」  
明らかに葉山は不服そうだった。その顔が『あんた後で覚えてなさいよ』と語っていたが、勝者の余裕で受け流す。  
そして転がったままの自転車を起こし、三人肩を並べて歩き始めた。  
冬空の下、三種類の靴音と車輪の奏でる金属音が響く。  
自転車通学の定で、俺には友人と共に帰路についた経験は少ない。  
毎日通る道に別の移動手段を使うというのは、新鮮でもあり妙な気分でもあった。  
 
入学したての新入生に戻ったような錯覚を感じながらハンドルを押していると、視界の隅に何か引っ掛かった。  
チラリと視線をやると、葉山が綾咲の死角から何やらジェスチャーを送ってきている。  
なになに、『優奈に話しかけなさい』?  
おお、そういえばそうだった。すっかり当初の目的を忘れていた。  
よかろう、世が世なら一大ハーレムを築いたと言われるこの俺の話術、しかと拝聴するがいい!  
「えーと、今日はいい天気だな」  
「そうですね」  
会話終了。  
「……………………」  
葉山がすごい目で俺を睨んでいた。  
まずい。この結果では監督はお気に召さないらしい(当たり前だが)。慌てて俺はサインを送る。  
『待て、もう一度チャンスをくれ。俺はスロースターターなんだ。次は成功させる』  
深呼吸一つして、肚を決める。用意は万全。よし、振り向かない若さと躊躇わない愛を胸に、再度出陣!  
「明日も晴れるかな?」  
「天気予報では、しばらく雨の予定はないそうですよ」  
「そうか。それはよかった」  
篠原直弥の楽々1分口説ッキング・完。  
「……………………………………」  
葉山が般若のような目で俺を見ていた。  
えーと、これはまずい事態ではないのですか? だが俺の力量ではこれが精一杯なのだ。  
今まで恋愛とは無縁の人生を歩んできた男に、多くを期待してもらっても困る。  
人選ミスだ。俺に責任はない。しかしそう主張しても、鬼監督は許してくれない。それどころか、  
『今度まともな話をしなかったら命はないと思いなさい』  
下される最終告知。あの表情は本気だ、間違いない。奴はやると言ったらやる女だ。  
 
もう失敗は許されない。ゆっくりと息を吐きながら、心臓の鼓動を落ち着ける。  
熱をもっていた頭が冬の空気で冷やされ、思考が研ぎすまされていく。  
目標、綾咲優奈。成功確率1%未満のミッション。失敗すれば命はない。  
へへっ、俺もとことん馬鹿な野郎だぜ。崖っぷちに立ってるっていうのに、笑いがこみ上げてきやがる……。  
戦場の兵士を気取りながら、話しかけるタイミングを待つ。  
3・2・1・ここだ!  
「あの、篠原くん」  
思いっきり肩すかしを食って、俺は前へ倒れ込みそうになった。が、踏ん張って耐える。  
せっかく向こうから切っ掛けをくれたのだ。これを生かさなければ。  
「な、何かなレディー。我輩に聞きたいことでもあるのカイ?」  
しかしさっきまでの冷静さは星の彼方へ吹き飛んでいた。駄目だ俺。これじゃあ完璧に動揺しているのがバレバレだ。  
「篠原くんっていつも自転車通学なんですか?」  
だが綾咲は気にした風もなく続けてくる。これが葉山なら即座にツッコミが入るところだ。なかなか大物なのかもしれない。  
俺は自然に自然にと己に言い聞かせながら、  
「ああ。中学の頃からずっと。ほとんど毎日これだな」  
と言いながら、自転車のサドルを叩く。  
十年の月日を歩んできた俺の相棒・グローバルスタンダード号。安物のママチャリだが、そのスペックは侮れない。  
なにせ俺の無茶な走行に今なお耐え抜き、時に電信柱に直撃してもフレーム一つ歪まないスーパー自転車だ。  
雨の日も風の日も雪の日もこいつと苦楽を共にしてきた。もはや一心同体と言っても差し支えない。  
 
「綾咲は? 歩きってことは家はそんなに遠くないんだな」  
「はい。雪ヶ丘の方ですよ」  
雪ヶ丘。古くからある高級住宅街である。今にも倒壊しそうな木造ボロアパートに住んでいる俺にはきっと一生縁のない場所だ。  
そんな寂しい現実を噛みしめている俺の背中を軽く押す手があった。  
「篠原も途中まで一緒でしょ。じゃ、私はこれで」  
「ちょぉっと待ったー!」  
いきなり別の道へ去りかけた葉山を慌てて引き留める。綾咲と距離を取り、彼女に聞こえぬよう小声で葉山に詰問を始める。  
「お前、どういうつもりだ! フォローするんじゃなかったのか!?」  
「だって私こっちだし」  
と、二又に分かれた道を指さす。確かにこいつの家はここで曲がった方が早く着くが。  
「だからといってさっさと帰ることはないだろう。今日くらい最後まで付き合え」  
「駄目だって。いつもこの道で別れてるんだから、優奈が怪しむでしょ。それじゃ、頑張って。健闘を祈っておくから」  
「こら待……」  
「優奈ー、また明日ねー」  
「はい、また明日」  
制止虚しく葉山は勝手に別れの挨拶を交わすと、軽快なステップで角の向こうへ消えていった。  
呆然と立ちつくす俺。南極に置き去りにされた犬の気持ちが分かったような気がした。  
やるせない孤独感を胸の内いっぱいに抱えながら、のろのろとした足取りで綾咲の元へ戻る。  
「何のお話をされてたんですか?」  
「つまんねー話だよ」  
にこにこと脳天気に問う綾咲に、俺は全身に漂う疲労感を隠そうともせず答えた。  
「気になります」  
綾咲がちょっと不満顔になる。  
「子供は知らなくてもよろしい」  
「私達同級生ですけど」  
「いや、隠す必要もないんだけどな。今日英語の時間寝ちまったから、ノートを貸してくれって交渉してただけ」  
「そうなんですか」  
綾咲はあっさり納得した。ふっ、甘いな。俺がノートを他人に借りてまで勉強する男だと思っているとは。  
無意味に勝ち誇りながら、一人減った帰路を歩む。葉山というパイプがいなくなったせいか、互いの口は開かれない。  
 
監視の目が無くなったので無理に親睦を深めなくてもいいのだが、この空気は居心地が悪い。  
ある程度親しい友人相手なら無言の空間も気にはならないのだが、俺と綾咲はまだそこまでの関係ではない。  
雰囲気を改善するため何か話そうとするものの、女子が喜びそうな話題などストックしていない。  
仕方ない、次善の策だ。先程の話を続けよう。  
「しかし雪ヶ丘に住んでるのか。でかい家なんだろうな」  
「一軒家ですから結構大きいですよ。おばあさまが生まれた育った家で、お母様も嫁ぐまでは住んでいたそうです」  
なるほど、綾咲がどうして引っ越し先にこの土地を選んだのか不思議だったが、祖母の生家があったのか。  
「でもあまり利点もありませんよ。一人で住んでますから、部屋が多くても使いませんし。逆に広々としすぎて、夜は少し怖いです」  
一人暮らしとは初耳だった。  
そしてそんなことをあっさり他人に話してしまう綾咲に不安を覚えて、柄にもなく忠告してみる。  
「俺が言うのも何だが、女の子が一人で暮らすってのは危なくないか?」  
「あ、篠原くんも一人暮らしでしたね。大丈夫ですよ。信頼できる人にしか話してませんし」  
俺もその中に入っているらしい。無防備に人を信じすぎてるぞ。まったく、これだからお嬢は。  
「そういうことじゃなくてだな。現代日本は物騒だろ。泥棒とかストーカーとか。やっぱり誰か家族に来てもらった方がいい」  
「もしかして心配してくれてます?」  
綾咲が俺の瞳を覗き込むようにして聞いてくる。俺は身体を引き、あさっての方を向きながら曖昧な返事をした。  
「まぁ、ダンディーな英国紳士で男気溢れるジェントルメンな俺としては、クラスメートの身を案じていなくもない」  
曖昧というよりわけがわからなかった。  
綾咲はしばらく俺から視線を外さなかったが、やがて「そうだ!」と手を打った。何か名案を思いついたらしい。  
 
「じゃあこういうのはどうでしょう。篠原くんが家に来てボディーガードをする、というのは。それなら怖いものなしです」  
な、なななな何を仰りやがりますでございますか、この娘は。  
ボディーガードということは24時間警備員で必然的に一つ屋根の下。  
若い男と! 若い女が! 一つ屋根の下! 心にダムはあるけど決壊寸前だ!  
いかん落ち着け俺。動揺を静めるため素数を数えるのだ。駄目だ自分の思考さえコントロールできん。  
とりあえず何か言ってやろうと思って綾咲を見てみると、彼女は必死で笑いをこらえている表情をしていた。  
頭が冷却液に浸されたように冷えていく。  
「お前な……タチの悪い冗談はやめい」  
「ばれました?」  
ペロリと小さく舌を出しておどける綾咲。俺は一気に体力を消耗して、肺の空気を空にするように大きく息を吐いた。  
まさか綾咲にからかわれるとは。不覚。  
「俺が真に受けて家まで押し掛けてきたらどうするつもりだったんだ」  
「お茶とクッキーをお出しします」  
「……………………」  
完敗。心にたっぷり敗北感が塗り込められる。こいつがこんな口達者とは知らなかったぞ。  
屈辱の二文字を胸に、肩を落として自転車を押す。一方姫はご満悦のご様子。ちくしょう今に見てやがれ。  
とりあえず復讐の第一歩として呪いの言葉を吐いていると、先行していた綾咲が急に振り返った。  
育ちの良さを伺わせる動作で、丁寧に頭を下げる。  
「茶化してごめんなさい。それと、心配してくれてありがとうございます」  
満面の笑みで言われると、こちらも毒気を抜かれてしまう。仕返してやろうという気が見事に霧散してしまった。  
この卑怯者め。仕方ない、今回は見逃してやろう。  
……いや、決して笑顔に騙されたわけじゃないよ? って、誰に言い訳してるんだ、俺。  
何だかよくわからないが墓穴を掘りそうだったので、誤魔化すように足を早める。  
 
綾咲はそんな俺を気にした様子もなく、微笑みを崩さぬまま横に並び、告げた。  
「安心してください。完全に一人きりって訳じゃありませんから」  
投げ掛けられた彼女の言葉に疑問符を浮かべる。  
「どういうことだ?」  
「やっぱり部屋が多いとお掃除とかは大変なのでお手伝いさんを雇っているんですけど、  
時々その方達が泊まっていってくれますので」  
お手伝いさん、ときたもんだ。  
「おばあさまが屋敷を管理していたときから働いてもらっている人達なので、とてもよくしてくれてるんです。  
おばあさまのお茶のみ友達だったらしくて、話を聞いてたら全然退屈しませんよ」  
なるほど、年寄りの相手が苦痛でなければ気楽な環境だろう。友人の孫となれば小言や説教もなさそうだし。  
しかしお手伝いさんか。そんなもの俺はテレビのミステリードラマでしかお目にかかったことがないぞ。  
一体何を見たというのだお手伝いさん。  
どうしていつも殺人事件現場に居合わせるのだお手伝いさん。  
何故警察にもわからない犯人を言い当てられるのだお手伝いさん。  
……思考がちょっとずれてきた。ニュートラルに戻そう。  
「そんな人までいるとは。さすがはお嬢、格が違うな」  
思わず感嘆の息が漏れる。俺のような貧乏人には一生縁のない話だ。  
「卒業してもし俺が職に困ってたら是非とも雇ってくれ。そのときはお嬢様とお呼びしよう。……って、あれ?」  
さっきまで横にいた綾咲がいない。はてどこに行ったのやらと首を傾げていると、  
「篠原くん」  
背後から声が投げ掛けられた。振り向くと、いつの間にか綾咲は数歩後ろの分岐点で立ち止まっている。  
そういえば雪ヶ丘組とはここでお別れだったな。  
「ああ、俺はこっちだから。それじゃあまたな、綾咲」  
手をひらひらと振るものの、彼女は挨拶を返してこない。挑むような視線でこちらを見つめている。  
 
「どうした?」  
怪訝に思って声を掛けると、綾咲は表情を笑顔に変え、ゆっくりとした動きで俺の正面にやってきた。  
そして。  
「えい」  
………………………………………………………………。  
「あの、綾咲さん?」  
「はぁい、何でしょう?」  
「もしかして怒ってらっしゃいます?」  
「いいえ。私、怒ってなんかいませんよ」  
嘘だ。絶対嘘だ。だって顔は笑っているけど、目が全然笑っていない。  
それに全身から殺気が放たれている気がするんですけど。  
しかし俺の顔面が引きつっている理由はそれだけではない。  
一番の問題は、綾咲が舞踏会のダンスに失敗したお姫様のような体勢になっていることである。つまり。  
「ではどうして俺の足を思いっきり踏んでいるんですか?」  
「さあ、どうしてでしょう? 自分でお考えくださいな」  
にこにこと微笑みながら無情なセリフを放ち、綾咲は更につま先に体重を掛けた。  
正直に言うと、かなり痛い。が、口答えはできない。  
何故なら綾咲さんがとても怖いからです、はい。生物としての本能が今の彼女に逆らうなと告げています。  
「俺、何かまずいこと言った?」  
「心当たりありません?」  
残念だが無かった。額に汗を浮かべながら首を横に振ると、彼女は重心をつま先から踵へと移行。  
ひぃ、お慈悲を! という俺の願いも虚しく、  
「えい。ぐりぐり」  
綾咲の靴が縦横無尽に俺の足の上を蹂躙する。  
綾咲が怒りを振りまいているのは転校初期よく目にしたが、感情を露わにするわかりやすい形だった。  
だからこんな風に静かに怒る姿は見慣れていない分だけ恐怖が増す。しかも今回の矛先は俺。  
身も凍るような恐怖に逃げ出したいのだが、そういうわけにもいかない。  
今ここで綾咲の機嫌を直さず放置してしまうと、明日からこの状態の彼女と下校を共にすることになってしまう。  
考えただけで寿命が縮まりそうだった。ここは手っ取り早く謝罪して窮地を脱せねば。  
しかし何に対して謝ったものやら。肝心の綾咲が怒っている原因が意味不明なのだ。  
迂闊に『何故怒っているんだい、子猫ちゃん。俺に理由を話してみなベイビー』とか聞くと、更なる攻撃が待っているだろう。  
 
問えば攻撃、問わなければこの苦痛が継続。  
八方塞がりかっ!?  
いや挫けるな思考を止めるな俺。ここはヒーローらしく一発逆転のアイデアを浮かべねば。  
俺はいつもの倍以上頭を回転させ、打開策を探しに探し、そして導き出されたひとつの選択肢が!  
「ごめんなさい」  
とりあえず謝ってみた。  
何の解決にも至りそうにない、その場しのぎの選択だった。  
駄目だ。俺は所詮凡人、ヒーローの器ではない。  
「はい。よくできました」  
しかし綾咲はあっさりと足をどけた。予想外の行動に呆気にとられてしまう。そんな俺を彼女は不満そうに見上げてくる。  
「篠原くん、言うのが遅いです。もう少し早く謝ってくださると思ってました。  
いつまで踏んづけていればいいのかちょっと不安になりましたよ」  
俺は何と答えていいのかわからず、ただ呆然としていた。こうも簡単に綾咲が矛を収めたことに得心がいかない。  
「えっと……そんなんでいいの?」  
呆けた口調で尋ねる俺に、綾咲は朗らかに頷いて見せた。  
「はい。あれはどちらかというと私の意地みたいなものだったので」  
「意地?」  
ますます頭がこんがらがってきた。綾咲はいたずらっぽく笑うと、  
「篠原くんにはわからないと思いますよ。でも教えてあげません。  
だから足を踏まれたのは、犬に噛まれたとでも思っててください」  
「は?」  
「私にだって譲れないものはありますから」  
柔らかなのに強さを感じさせる、そんな意志のこもった声だった。そして一礼。  
「それではまた明日、学校で」  
「……あ、ああ、また明日」  
操り人形のようにカクカクと手を左右に動かす俺に小さく手を振り返すと、綾咲は長い髪を翻した。  
その姿が完全に視界から消えるまで見送ってから、俺は大きく嘆息する。  
 
「何だったんだ、一体……」  
つーか、わけわかんねぇ。  
「まぁあんたじゃわかんないだろうねぇ」  
「人を超鈍感の朴念仁みたく言うな」  
「違うの?」  
「俺はかつてエスパーの疑いが掛けられたほど他人の心の機微に聡い男だぞ。……ってうおっ!」  
いつの間にか背後には俺を置き去りにした無情女が居た。  
民家のブロック塀にもたれかかりながら、呆れたような瞳でこちらを見やる。  
「エスパーのくせに気づくの遅すぎ」  
「貴様、一体いつからそこに?」  
「割と最初の方から。実は帰らないでこっそり様子を窺ってたし」  
いつからストーカーになりやがった、この女。っていうか見てたなら足踏まれてたときに助けろよ。  
「何で途中で抜けやがったんだ。こっちは大変だったんだぞ?」  
「あんたが一人でちゃんと優奈と会話できるか試してみたのよ。なかなかどうして、上出来じゃない。  
でもあんまり優奈を怒らせないでよ。あの娘、へそ曲げると長いんだから」  
葉山の言葉に肩をすくめる。俺だってわざと怒らせたわけじゃない。  
「わかってるよ。原因もだいたい察しが付いたしな」  
渦中では全面から襲いかかるプレッシャーのため思い当たらなかったが、前後の会話を思い出せばすぐに見当は付く。  
恐らくお嬢呼ばわりがいけなかったのだ。  
確かに綾咲はいいトコのお嬢様なのだが、面と向かって言われると馬鹿にされたように感じるのだろう。  
俺だって他人に『貧乏』と呼ばれたらいい気はしない。  
「過ちは繰り返さないが今週のキャッチフレーズだ。二度と綾咲を『お嬢』と呼ばないと誓おうっ……て、あれ?」  
しかしよくよく記憶を再検証してみると、俺以前から結構お嬢お嬢言ってたな。  
なのに綾咲があれ程怒ったことなんか無いぞ?  
あれ? 解決どころかますます謎が深まってしまったぞ。  
「やっぱりわかってないじゃない。ま、篠原だし。仕方ないか」  
諦観気味に葉山が漏らす。馬鹿にされてるようにしか聞こえないのは俺の被害妄想だろうか。  
 
「お前にはわかるってのか?」  
訝しげに問うた俺に、葉山は得意げに胸を張る。  
「女の子ですから」  
衝撃発言だった。まさか葉山の口からこんな乙女チックワードが飛び出すとは。  
俺はふらつきそうになる身体をどうにか二本の足で支え、額の汗を拭う。  
「ついに悪魔が覚醒してしまったか……」  
「ふふふ。すごく馬鹿にされてるようにしか聞こえないんだけど。殴っていい?」  
「全身全霊で気のせいだ。だからその振り上げた拳を下ろしなさい」  
誠意のこもった説得の甲斐あって、両者の間に武力抗争は起こらなかった。よかった、人類の平和は保たれた。  
一触即発の空気から解放されて、安堵の息を吐く。  
「それで、綾咲が怒った理由って何なんだ?」  
冷や汗が引いたところで、改めて葉山に尋ねる。  
原因がわからなければ再び地雷を踏んでしまう可能性がある。是非とも起爆スイッチの在処は知っておきたい。  
しかし葉山はにやにや笑みを浮かべるだけだった。  
「……おい」  
「さあ、どうしてでしょう? 自分でお考えくださいな」  
果てしなく似合わなかった。  
同じセリフなのに口にする人間が違うだけで、こうも受ける印象が変わるとは。ちょっと殺意まで湧いてきたぞ。  
「お前な……、人が真面目に聞いてるというのに」  
手をわなわなと震えさせる俺。だが葉山は平然と俺の怒りを受け流し、あまつさえ涼しい顔して髪留めの位置を直している。  
「うーん、こういうのって第三者が喋っていいものじゃないと思うし」  
「誰が第三者だ! 面倒に巻き込んだのはお前だろうが!」  
「うわ。責任転嫁は格好悪いよ、篠原」  
駄目だこいつ。もう完全に他人事にしてやがる。  
俺はがっくりと膝をつき、こんな星の元に生まれた運命を呪った。  
おお神よ、私が一体何をしたというのです。  
悪事なんて今まで一度も…………えっと……たまにしか…………時々………………よく……………………。  
神様、この話はなかったことに。  
「どうしたのー? おなかでも痛い?」  
因果応報の実在を真剣に検討していると、脳天気な声と共に葉山が傍にしゃがみ、こちらを伺ってくる。  
態度こそ友の身を案じる心優しい女学生だが、その口調は恐ろしく適当だ。  
 
「うるせー。教えるつもりが無いならとっとと帰りやがれ、この75点」  
「その75点って何?」  
不思議そうな表情の葉山に、丁寧に説明してやる。  
「今日の弁当の評価だ。マイナスポイントは卵焼きが少し焦げてたのと、全体的に味付けが甘い。  
もうちょっとがんばりましょう。いちじゅうまる」  
食を極めし者の解説に葉山は感心したらしく、ぱちぱちと拍手を送ってきた。  
「あんたって普段貧しい食生活の割に味には鋭いわね」  
「ふはは。誉めよ称えよ。崇めよ祀れよ。ついでに同情したなら金をくれ」  
「それじゃ、言われたとおり退散することにするわ」  
葉山が立ち上がる。慎ましやかなボーナス要求は綺麗にスルーされた。  
「お弁当はこれからどんどん美味しくなっていくと思うから、長い目で見ててよ。期待して待つように」  
「試行錯誤中、だったか?」  
俺は昼休みの葉山の言葉を繰り返す。葉山は小さく頬をほころばせて、  
「そういうこと。んじゃね」  
長いしっぽを揺らしながら、来た道を戻り始めた。その後ろ姿が豆粒になってから、俺も自転車のスタンドを跳ね上げる。  
「何しに来たんだ、あいつは」  
ぼやかずにはいられない。忠告しに来たのかからかいに来たのかどっちだ。しかも肝心な質問ははぐらかしやがって。  
心の中で悪態を吐きながら、サドルに跨りペダルに体重を乗せる。  
が、まだ綾咲に踏まれた足は本来の機能を取り戻してはいなかったらしい。  
脳が指令したとおりの力が出せず、著しく片方に重心が偏り、  
「だぁ!」  
走る転ぶ地面を滑る。そりゃもう無様に。  
本日二度目の地面との密着は、やはり優しく終わらなかった。肩口から激しく着地し、大の字になる。  
うん、やはりアスファルトは寝心地が悪い。  
憎らしいほど晴れ晴れとした冬の空が視界に映る。相棒の空回る音が虚しく耳に届いた。  
「あー、ちくしょう」  
全然いつものペースじゃない。脳裏に浮かんだのは二人のクラスメートの顔。  
だんだん腹が立ってきた。くそっ、お前らのせいだぞ。  
わけわかんないことで怒ったり、わけわかんないことを隠したり。  
「女ってわかんねー」  
古今東西全ての男が一度は思ったであろうセリフを口にする。もちろん答えをくれる者は居なかった。  
 

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