幸福とは何だろう。  
幸福の定義、それに対して答えを求めるのはナンセンスである。  
ある者は積み重なっていく地位や名誉に。  
ある者は家族の微笑みに。  
またある者は労働後の一杯のビールに。それぞれ己の幸福を見いだしている。  
唯一絶対の解答は不可能。  
しかしながら、ある程度の現象を『幸福』として捉えることは可能なのではないか。  
例えば、お金はないよりあった方がいい。  
例えば、友人は多い方がいい。  
例えば、怪我無く健康であった方がいい。  
もちろんこれらは極端な例だ。  
付属するマイナス面をまったく考慮していないし、当人の置かれた状況や対象の状況によって反転するだろう。  
だが、今回はそれを考慮に入れずに考えてみよう。  
女性と行動を共にできるのは幸福なはずだ。  
更に若くて美人となれば、文句があろうはずもない。  
とどめに両手に花とくれば、跪いて神に感謝してもいいくらいだ。  
なのに、何故――  
「俺はこんなに疲れているんでしょうか……」  
ショーケースの向こうに佇む愛くるしい瞳のやぎべえ(ヤギのぬいぐるみ。たった今命名)は何も返してはくれなかった。  
当たり前だ。無機物が喋ったら怖い。  
「篠原ー、んなところで何遊んでるのよー」  
「篠原くーん、置いて行っちゃいますよー」  
二種類の声に呼ばれる。誰と誰かは説明するまでもないだろう。  
くそっ、大声出しやがって。ほら、注目されてるじゃないか。そして何となく周りの男から殺意を感じるじゃないか。  
二人とも少しは自分達が目立っていることを自覚してほしい。  
特に綾咲。貴様の佇まいはその標準以上の容姿と合わさって人を惹きつけすぎるのだ。  
「いいか、今回の作戦は隠密行動が基本だ。足音を忍ばせ、呼吸を自然と一体化させ、猛獣潜むジャングルを駆け抜けろ!」  
「由理さん、篠原くんがまたどこかいっちゃいましたけど」  
「あー、殴ったら元に戻るんじゃない?」  
聞こえてるぞお前ら。他人を壊れたテレビ扱いするんじゃない。  
この失礼な輩どもに文句を言ってやろうと息を吸い込むと、「あっ」と何かに気付いたような声を上げて綾咲が近づいてきた。  
まさか、葉山の言葉を真に受けて本気で俺を殴るつもりか!?   
暴力では何も解決しないというのに! 愛と慈悲こそが世界を救う鍵となるんだぞ!  
いくら心の中で叫んでも眼前の危機は回避できないので、覚悟を決めて戦闘スタイルへ移行する。  
歯を食いしばり、腰を心持ち落として、やや半身の体勢へ。でも拳は握らない。  
これが数年間葉山に殴られ続けた俺が考案した、最も打撃を受け流せるスタイルだ!  
……こんなスキル持ちたくなかったがな。  
綾咲はゆっくりと俺の顔へと手を伸ばし、お嬢には似つかわしくない殺人パンチを  
「おひげ、剃り残しありますよ」  
綾咲の人差し指が顎を撫でる。一旦そこで思考停止。完全フリーズ。  
……………………………………なっ、ななななナナナナ7777奈々奈々奈々奈々っ!  
なんばしよっとですかこの娘っ子は! いきなり何するざます! せめて一言断ってからにしてしてくだサーイ!  
何とか自我を取り戻したものの言語中枢に重大な障害が発生していた。  
しかし構っている暇はない。まずはこの破裂しそうなピュアハートをペースダウンさせることが先決。  
まずは一秒間に十回呼吸して太陽のエネルギーを練った後、守護霊で自分の心臓を止めて何か変な思考になってないか俺?  
いいか落ち着け篠原直弥。本来の君はクールでニヒルなハードボイルドダンディーのはずだ。  
さあ己に言い聞かせよう。アイムクール。アイムドライ。暖かい感情を氷原の彼方へ追いやった孤高の戦士。  
よし完璧だ。心の芯まで冷静だ。痛みに耐えてよく頑張った。感動した。さぁ、いつものように軽快なトークをお披露目しよう。  
「そいつはおかしいねっ! 今朝剃ってきたはずなのにねっ! そろそろシェーバーの買い替え時かなっ!」  
言葉遣いはいまだおかしいが、何とか返答に成功。これで未来は安心だ。  
と思ったのも束の間、綾咲が踵を浮かして俺の顎を覗き込んできた。  
髪の香りが一瞬鼻腔をくすぐる。一気に思考が乱れ、再び心臓が踊り出す。  
頼む動揺よ顔にでるな。血流よ一度でいいから止まってくれ。お願い離れて綾咲さん。  
「うーん、でも目立たないところですから、あまり気にすることないかもしれませんよ」  
祈りが通じたのか、やっと綾咲が身体を離す。  
息苦しさを覚えて、俺は肺から息を吐き出した。自分が呼吸を止めていたことすら忘れていた。  
 
「優奈ー、そろそろ行かないと選ぶ時間無くなるから」  
遠くで俺達のやりとりを呑気に見物していた葉山がようやく催促してくる。  
しかし言葉の内容とは裏腹に時間に追われる焦りはまるでない。というかもっと早く呼べ。  
「あ、はい。篠原くん、そろそろ行きましょう」  
綾咲が葉山の元へ向かい、俺もその後に続く。談笑を始めた二人を見ながら、俺は我知らずため息を吐いていた。  
「まったく、綾咲の奴」  
不覚だった。あれ程の接近を許してしまうとは。生物の心臓は鼓動できる回数が決まっており、  
上限を越えてしまうと死に至るという話をどこかで聞いたことがあるが、それが本当なら俺の寿命は三日は縮んだだろう。  
そっと顎を撫でる。綾咲の言ったとおり、わずかだが剃り残した髭の感触が手に残る。  
「天然……だよなぁ」  
もしや俺がシャイな純情ボーイであることに気付いて、悪戯心を起こしてからかったのかと一度は考えた。  
だがそれならもっと上手な方法があるだろうし、こんな人目のある場所でやらなくても構わない。  
更には顔も声も笑うどころか、大真面目だった。終わっても種明かしのひとつもしない。  
やはりさっきのは天然のなせる技だろう。だとすると、  
「無防備すぎるぞ……」  
頭を抱えたくなった。  
最近、綾咲の突然の行動に焦らされることが増えている。  
さすがに顔に触れられたのは初めてだが、それを除いても以前より距離が近くなってきている。  
俺だって学習していないわけじゃない。彼女と話すたびに取り乱すのも癪だし、何より情けないので、いろいろ対策は考案した。  
しかし俺がいくら警戒して線引きしようと、綾咲は自然に懐に飛び込んでくる。  
そんな無防備に他人に信頼された経験はない。だから、戸惑う。  
『男子では篠原が一番優奈と仲がいいから。知ってる? 下心も何も無しに優奈と普通に話してる男子、篠原だけだよ。  
優奈もすごいリラックスして喋るし。じゃなきゃ、教室であんなに顔近づけたりしない』  
葉山の言葉が甦る。  
あの時は半信半疑だったが、今となっては納得できる。  
綾咲にとって俺は数少ない(もしかしたら唯一かもしれない)男友達なのだろう。  
あれ? でも確か綾咲って男嫌い……だったよな? 惚れてる相手は超極悪ポニーテール女だし。  
俺を安パイ、というか男として見てないだけじゃないのか?  
謎は全て解けた!  
いや、  
知らない方がよかったかもしれない悲しい事実に気付いてしまった!  
の方が正しいか。  
いやーはっはっは。そうだったのかー。あー、深く考えただけ損した。  
急激に疲労を覚えて、俺は肩を落とした。時間の無駄遣いだった。脳を働かせるために使用した糖分を返してほしいくらいだ。  
それもこれもみんなあの女のせいだ。大体これは時間外労働じゃないのか? 残業費を要求するぞ。  
天を仰いで太陽の位置を確認する。時刻は2時半過ぎ、冬の日差しが張り切っている。  
本来なら授業を受けている時間だが、今日は職員会議とやらで5限で終了。  
そんなわけでいつもより早く解放された俺達は、駅前にあるショッピング・モールを闊歩していた。  
放課後、何故まっすぐ帰宅せずこんな所に来ているのかというと――やっぱり葉山の思惑が絡んでるわけだが。  
 
 
 
時は溯り、本日の昼休み、教室にて。  
「篠原、ちょっと今日付き合ってよ」  
変化も一週間続けば日常になる。  
というわけで、俺はいつものように葉山の弁当を平らげ、食後のコーヒー(紙パック80円)を啜っていた。  
そんなとき葉山が発したのが、先程の言葉だった。  
俺は紙パックを握りつぶして脇に置き、十分に間を取ってから、口を開く。  
「それは突然の愛の告白だった」  
「んなわけあるかっ!」  
鋭い拳が振り抜かれ、衝撃が腹を打ち抜く。俺は思わず地面に膝をつき、無様な土下座の状態に。  
胃に物を入れた直後の腹部への攻撃は反則ですぞ、ミス・葉山。せっかくのまともな栄養源をリバースするところでしたぞ。  
「葉山さん……少しは手加減というものを覚えてください」  
テンカウント寸前で何とか立ち上がった俺に、しかし葉山は平然と返す。  
「あんた相手にいらないでしょ。あの程度じゃ死ぬわけないし」  
死を基準に攻撃力を決定しないでお願いだから。  
ふらつく足を叱咤して、椅子に座り直す。  
それにしても中学時代と比べて確実にツッコミの威力が増しているな。もはや一流と言っても過言ではない。  
過去の未熟だった頃を思い返すと、なかなか感慨深いものがある。  
俺は親指をぐっと立て、葉山に賞賛を送ってやった。  
「レベルアップですぜ あんたもせいちょうしたもんだ」  
「……なんか言いたいことは色々あるけど、取りあえず大人しく話を聞くように、もう二、三発殴ろうと思うの」  
「さぁ話せ。どしどし話せ。舌がちぎれるその日まで」  
葉山が何故か冷たい目で俺を見ていたが、やがて呆れたようなため息を吐いた。呆れた、ではなく諦めた、かもしれんが。  
「放課後、駅前のショッピングモールに付き合って欲しいのよ。  
父親の誕生日プレゼント買おうと思ってるんだけど、男の意見も聞きたくて、ね」  
それで俺か。なるほど事情はわかったが、問題がひとつある。  
「綾咲はどうするんだ?」  
「ん? 優奈が気になる? 来て欲しかったりする?」  
「茶化すな。放課後の義務はボイコットしてもいいのか?」  
葉山が弁当を用意するようになってから一週間。それはつまり、俺と綾咲が共に帰宅するようになってから一週間が経過した、ということだ。  
最初のうちこそお互い口数も少なかったが、元々仲が悪いというわけでもないので、打ち解けるのも早かった。今ではいいお友達な関係を築きつつある。  
悪い気はしないのだが、葉山の手の上で踊らされているようで少々不愉快な面もあった。  
まぁ、綾咲とは約束してるわけじゃないし、たまにはいいだろう。あいつといるとこっちのペースが乱されることも多いし。  
それに誰にだって一人になりたいときはある。  
「大丈夫よ。優奈も誘っておいたから。篠原も来るってこと伝えてあるし」  
「……さいですか」  
が、願いが叶う日はまだまだ遠そうだった。  
 
 
 
「篠原、次はこれ試してみてよ。……って、何で後ずさってんの?」  
「だ、騙されないぞっ! 貴様、試着と称してまた俺の首を絞めるつもりだろう!」  
「やーね、あれは加減がわかんなかっただけだってば。ほら、ちゃっちゃと締める」  
「……聞きたいのだが、お前本当に蛍光グリーンのネクタイをプレゼントするつもりか?」  
「うちの父親、こういう色が好きなのよねー。いつも着てる背広はショッキングピンクだし」  
「……お前の親父に心底会ってみたくなったぞ」  
「篠原くん、これなんていかがです? あなたにすごく似合うと思うんですけど」  
「俺に似合ってどうする。プレゼントを贈るのは葉山で、受け取るのは葉山の親父だぞ。  
……おおおおおおおおっ! 何ですかこの価格はぁっ!」  
「ほら、お値段も手頃ですし」  
「んなわけあるかっ! これだからお嬢はっ!」  
そんなこんなでようやく買い物を終え。  
「つ、疲れた……」  
店を出たときには、俺は疲労困憊だった。肉体的にはそれほどでもないが、精神的疲労が著しい。  
女の買い物に付き合うには相応の覚悟が必要だと骨の髄まで教えられた一時間半だった。  
「だらしないわねー男のくせに」  
気を抜けば地面に倒れ込みそうな俺とは対照的に、女性陣はピンピンしている。  
男性の方が体力的に優れているという固定観念は、木っ端微塵に打ち砕かれた。  
「あのな。ネクタイひとつ選ぶのにあれだけ時間掛けられたら誰だって疲れるわ。しかも全部試着させやがるし」  
恨みがましくぼやく俺に、葉山はチッチッと指を振る。  
「わかってないわね。それがショッピングの醍醐味なんじゃない」  
「馬鹿言え。主婦を出し抜いて特売品をゲットすることこそ買い物の醍醐味だろうが」  
力強く宣言した俺に、何故か葉山は憐憫の表情を向けてくる。  
「あー、否定はしないけど。……あんたってホント貧しい食生活送ってんのねぇ」  
しみじみ言うな。悲しくなるから。  
「で、これからどうする? まだ他に回るというなら俺は帰るぞ。これ以上付き合ったら体力が持たん」  
「そうするつもりならあの店であれだけ粘らないって。ま、私も少し疲れたかな。喫茶店でも寄ってく?」  
「はい。私は構いませんよ」  
葉山の提案に綾咲が即座に賛成し、  
「うーむ………………よかろう。仕送りが入ったばっかりだしな」  
逡巡の後、俺も続く。  
「よし、決まり。『BLUE LIGHT』でいいよね?」  
葉山が駅前の喫茶店名を出す。お値段そこそこ、味はなかなかの良心的な店だ。もちろん異存はない。綾咲と揃って頷く。  
「私、喫茶店なんて久しぶりです」  
「俺もそうだ。よし、今日は店中の砂糖をコーヒーにぶち込んでカロリーを補充するぞぅ!」  
「えっと……お店の人も困るでしょうから、程々にしてあげてくださいね?」  
綾咲さん、何を本気に受け取ってますか。俺はそんなに貧しそうに見えますか?  
 
…………見えるんだろうなぁ。  
素直に認めよう。だが綾咲、見ているがいい。俺はこのまま貧乏人で生涯を終えるつもりはない。今に吠え面をかかせてやる。  
「丘の上に白い家を建て、縁側で茶を啜るという俺の夢が実現した瞬間、それが貴様の敗北の時だっ!」  
ビシッと指を突きつけてやる。ふっ、決まった。  
綾咲は俺の指をきょとんと見つめながら、  
「あの、また思考がどっかいっちゃいました?」  
はい、旅立ちました。話が早くて助かります。  
すごすごと指を下ろす。思いっきりカッコつけた分だけ、恐ろしく決まりが悪かった。  
綾咲はくすっと声を出して笑ってから、  
「でも、いいと思いますよ。そういう夢」  
そう言って、微笑んだ。  
「素敵だと思います」  
そこに浮かんでいたのは、憧れだった。  
嫌みや妬みや嘲笑など何一つ含んでいない、純粋な憧憬の笑み。  
思わず引き込まれそうになって、慌てて視線を逸らす。  
錯覚だぞ、錯覚。どうしてお嬢の綾咲が俺の夢に憧れるよ?  
自分によくわからないことを言い聞かせながら、俺は一歩、綾咲から離れる。  
「優奈ー、そんな馬鹿ほっといて、さっそと行こうー」  
声の方向に目を向けると、少し先で立ち止まっている葉山の姿。  
馬鹿とは何だ馬鹿とは。でもちょっと感謝。  
「まったく、せっかちな奴め」  
「まぁまぁそう言わずに。話し込んでいた私達が悪いんですから」  
連れだって葉山の元に向かう。少々待たせただけなので幸いにも彼女のまなじりは吊り上がっていない。  
「付いてきてないと思ったら。あんたら道の真ん中で、何話してたのよ?」  
「摂取カロリーと外見によって推測できる経済状況について個人の野望を交えつつ多角的に意見交換していました」  
「合っているような間違えているような……」  
「優奈、こいつの言うことをあまり真面目に考えない方がいいよ。馬鹿らしくなってくるから」  
失敬な。名誉毀損だ! 訴えてやる!  
と叫ぼうと思ったが、拳を握ってこちらを牽制している葉山が視覚に入ったため、今回はお預けにして置いた。  
「んじゃ、行くよ。今度は遅れないようにね。わかった?」  
「お前は引率の先生か」  
「バナナはおやつに入れてもいいわよ。その代わりさっさと歩くっ。今日は金曜だから、早めに行かないと混んでくるわよ」  
急き立てられるままにだらだらと歩き出した俺達を、  
「えっ!」  
背後から大きな声が縫い止める。振り向けば、口に手を当てて固まっている綾咲の姿。  
「どうしたの、優奈?」  
「今日って金曜日……でした?」  
恐る恐る確認してくる。  
「そうだが。再放送のドラマの録画予約を忘れたか?」  
綾咲はゆっくり首を振ると、困ったような笑みを浮かべて、答えた。  
「4時からピアノの先生が家に来られる予定だったんですけど……」  
「……………………」  
三人で一斉に時計を見る。  
チクタクチクタクポーン、午後3時53分40秒になりました。  
「葉山、今こそ貴様の隠された能力、テレポーテーションを使うときだ」  
「んないかがわしい特技持ってるかっ!」  
「諦めるな! やれば出来るは魔法の合い言葉っ!」  
「ならあんたがやりなさい。頭を強く打てば今まで眠っていた何かが目覚めるんじゃない?」  
「これ以上あなたの拳を喰らえばパンチドランカーになることは確定なので、勘弁してください」  
などと意味のないやり取りをしても、時間は戻らない。あの青春の日々は帰ってこない。  
「お手伝いさんに待っててもらうよう伝えるとか」  
「今の時間は誰もいないんです……」  
遠きあの頃に思いを馳せている俺を余所に、二人は対策を練っている。ちょっと置いてきぼりな気分。  
「そうだ。その先生の携帯に電話すればいいじゃない」  
自分の携帯を取り出しつつ葉山が提案する。おお、なるほど。その手があったか。  
携帯電話などという文明の利器を持っていない俺には思いつかないアイデアだ。  
「いつもの先生が都合が悪いらしくて、今日来てくださる方は臨時なんです。だから携帯の番号までは……」  
「あちゃー」  
葉山が天を仰ぐ。いくら良い考えでも、活かせなければ意味はない。  
よし、ここは俺が友人の危機を救うために知恵を捻り出してやろうではないか!  
 
「確か綾咲って雪ヶ丘だよな? だったらタクシーを飛ばせば10分くらいで着くだろ。  
5分くらいなら臨時講師も待っててくれるんじゃないか?」  
うむ、見事な起死回生プラン。遅れることを前提に組み立てているところが実に俺らしいと言えよう。  
どうだ葉山、この篠原直弥の頭脳の冴えは!  
しかし葉山は感心した様子など微塵も見せず、ため息を吐いて指で駅の方向を指した。  
「よく見なさいよ。客待ちが全然ないでしょうが」  
「あ」  
言われて目を向けてみれば、タクシー乗り場は空だった。  
この時間だったらいつも数台は客待ちのタクシーがあるというのに、今日に限って一台もいない。  
「ちっ、肝心なときに役に立たないな」  
「仕方ないですよ。元々、レッスンの日を忘れていた私が悪いんですから。臨時の先生には後日、謝罪の電話をしておきます」  
綾咲のなだめるような笑みに、俺も肩の力を抜いた。  
ま、それしかねーわな。人間、諦めが肝心。  
「んじゃ、こんなところで突っ立てても意味ないし、予定通りサ店にでも行く……」  
「ねぇ篠原、あんた昔、自転車で送迎の真似事やってなかった?」  
鞄を背負い、歩きかけた俺を遮ったのは葉山の声だった。何か不穏な予感を覚えつつも、正直に答える。  
「やってたぞ。一律300円で。田淵の奴に旅行先の札幌まで迎えにこいとか言われてその場で廃業して以来それっきりだが」  
「ふーん」  
葉山が何度か頷く。何とはなしにこいつの言わんとしていることが読めてきたような。  
「あんたなら雪ヶ丘まで15分で着くんじゃない?」  
「二人乗りでか?」  
「そういうこと。遅れたのが10分ならギリギリ間に合うかも」  
葉山がニヤリと笑う。おいおい、無茶言って下さる、この方は。  
「俺一人なら楽勝だけど、二人で15分となるとなぁ……」  
難しい。そう言いかけた俺の言葉を止めたのは、またしても葉山の発言だった。  
「時間内に着いたら、優奈が今度何か奢ってくれるらしいわよ」  
弾かれたように綾咲を見る。急に名前を出された綾咲は戸惑い気味に「え?」と声を漏らしたが、  
「ね、優奈?」  
「あ、はい。今度、喫茶店で何かご馳走しますけど」  
葉山に促され、条件を承諾した。瞬間、俺の中で何かが変わった。  
「……少々お待ち下さい」  
恭しく頭を下げてからその場を離れ、自転車置き場へ直行。愛車の鍵を外し、勢いよく跨ると、全速力で綾咲の元へ舞い戻る。  
驚きで目を見開いている彼女の前で華麗にスピンターンをを決め、親指を立てて決め台詞。  
「お待たせいたしましたお嬢様。どうぞお乗り下さい」  
「ゴールドカード見せられたホテルのフロントみたいな態度の変わり様ね」  
うるせぇ外野は黙ってろ。  
「さぁ乗れ綾咲! 俺は不可能を可能にはしないが一見不可能っぽいけど実は可能なことをそつなくこなす男!」  
「篠原くんって喫茶店で奢ってもらうだけでこんなにやる気になるんですか?」  
「最近甘いもの食べてないらしいから。張り切ってるんでしょ」  
うるせぇ外野。他人の食生活ばらすな。  
「あー、そろそろ乗っかれ。本音を暴露すると時間的にかなりギリギリなんだ」  
「はい。お願いします」  
綾咲が荷台に女の子座りする。今まで乗せた連中はほとんどが野郎だったので、ちょっと新鮮。  
 
俺は彼女から鞄を受け取ると、自分の分と一緒に前面に設置されているカゴに放り込んだ。それからぐっとハンドルを握り力を溜める。  
「しっかり掴まってないと振り落とされるぞ」  
俺の言葉を受けて、綾咲の腕が腰に回される。  
きゅっと巻き付いてくる両の腕。風に乗って届く髪の香り。そして背中には柔らかい感触。  
押しつけられた二つの固まりは、少し弾力があって心地いい。  
……………………………………………………。  
えーと。これはあれですか? 二次性徴を迎えた女子が所有するというこの世の男性が愛してやまない嬉し恥ずかしの双丘ですか?  
つまり胸? 医学的に言うなら乳房? もっとわかりやすく言うならおっぱい?  
おっぱい! おっぱい!  
無意識に全神経が集中した背に強く自己主張してくる、ふにふにした二つの膨らみ。  
なるほど。噂通りなかなか大きいおっぱい! おっぱい! …………じゃなくて!  
……落ち着け俺。そんなことに気を取られてる場合じゃないだろ。よし、気を取り直しておっぱい! おっぱい!  
…………冷静になれ俺。精神を統一し邪念を捨てておっぱい! おっぱい!  
駄目だ。思考が使い物にならなくなっている。このままだと冗談抜きで交通事故必至だ。  
そのまま昇天しようものなら、死亡診断書にはこう書かれるに違いない。  
『篠原直也    死因・おっぱい! おっぱい!』  
それだけは避けねば。  
「……あの、綾咲さん? もう少し離れてはいただけませんでしょうか?」  
気力を振り絞り、何とか要望を伝える。たったそれだけのことに恐ろしいほどの精神力が必要だった。  
もちろん視線は前方に向けたままだ。今こいつと目を合わせたら死ぬ。いやマジで。  
「あ、ごめんなさい。力入れ過ぎちゃいました」  
巻き付いていた腕は腰を掴むだけに変わり、背中から暖かな感触が消える。  
ちょっと惜しかったかなという思いが頭に浮かんだが、慌てて振り払った。  
一度肺を冷たい空気で満たし、ゆっくり吐き出す。徐々に思考がクリアになっていき、本来の姿を取り戻す。  
残り時間、ロスタイムを含めて13分20秒。  
「よし、行くぞ綾咲!」  
「はいっ。では由理さん、ごきげんよう」  
「ん、じゃね。篠原、死ぬ気で走りなさいよ」  
言われるまでもない。  
「グローバルスタンダード号、発進!」  
そして俺はペダルを踏み込んだ。  
 
ゆっくりと車輪が回り始めたのも束の間、与えられた推進力を素直に受け取って、自転車が加速し始める。  
また混雑していない車道を駆け抜けていく、俺と相棒と高級積載物(取り扱い注意)。  
チラリと後ろに目をやると、小さく手を振っている葉山の姿が見えた。  
「篠原くん、ちょっとスピードを出しすぎなのでは?」  
投げ掛けられた言葉に吹き出しそうになる。確かに現在の速度は並の人間の全速力に近い。  
しかし俺は、  
「何を言っている。こんなもん序の口だぞ。車で言うならセカンドギアだ」  
そう返しながらニヤリと口の端を吊り上げる。お楽しみはこれからだ。  
駅前から離れたことを確認すると、俺は更にスピードを上げる。唸れ! グローバルスタンダード号!  
俺の意志に答え、更に加速する相棒。風を切る音が聞こえ、景色が早送りされていく。  
二人分の体重などものともせず、俺達を乗せた自転車は爆走する。  
「む?」  
だが、そういつまでも気持ちよく走らせてくれないのが日本の交通事情。白いセダンの不法駐車が我々の行く手を阻む。  
回避しようにも、対向車線にも車の影があり、歩道には人の姿が。このままではスピードを落とさなければならない。  
だがこんなところで時間をロスするわけにはいかない。  
「綾咲、手を離すなよっ!」  
一方的に告げると、更にペダルに力を送り込む。ここからが俺の腕の見せ所だ。  
校内自転車競争タイムアタック記録保持者は伊達じゃない!  
ガードレールの切れ目を見計らって、進路を歩道と変更する。乗り上げた際に衝撃が身体を揺さぶったが、構わず爆進。  
俺は知覚能力を全開にして、歩行者との距離を測る。  
後方に自転車が近づいていることも知らず歩いている女子高生が二人。  
左右に広がっているため、一見、自転車の通り抜ける隙間などありそうにない。  
しかし、二人はぴったり並んでいるわけではなく、微妙に前後に開いている。これならいける!  
俺はまず右に寄って一人目を回避し、巧みなハンドル操作とガードレールを蹴ることによって急激な進路変更を試みる。  
狙いは二人目の女子高生の左側と民家の塀の隙間!  
「ひゃあ! な、何!?」  
誤差1センチ。ほぼ頭に描いた理想の軌道で、俺は女子高生の脇をすり抜けた。  
ごめんよ、びびらして。苦情は24時間いつでも受け付けます。連絡は路上駐車の白いセダンまで。  
再び車道に戻り、障害物のないだだっ広い道を走りながら、先程の技の出来を反芻する。  
久々のアクロバット走行だったが、腕は鈍っていなかったようだ。  
ま、あの程度はクリアして当然なのだが。でなければ今年の校内自転車競争でトップを取ることなど出来ない。  
1−F前のジグザグ30コーン階段落下付きはマジで死を覚悟したからな。  
……改めて考えてみると、校舎内で自転車競争を許可するあたり、ものすごく変わっているんじゃないだろうか、ウチの学校。  
と、そこでやけに後ろが静かなことに気付く。前方の安全をしっかり確認してから恐る恐る綾咲の顔を伺うが、その表情はわからない。  
しかし制服を掴んでいた腕はいつの間にかしっかりと腰に回され、俺にしがみつくような形になっていた。  
うーむ、怯えさせちゃったか? 初めて俺の後ろに乗ったんだから仕方ないけど。  
背中に意識を向けないようにしながら(今錯乱したら事故確定)そんなことを思っていると、急に綾咲が顔を上げた。  
 
「篠原くんっ!」  
近づいた視線に身を引きそうになるが、自転車に乗っているのでそれは不可能だった。  
戸惑う俺を気にした風もなく、綾咲は勢いそのまま――  
「自転車って楽しいですねっ」  
「は?」  
満面の笑みで答えた。  
「まるでジェットコースターみたいです」  
「……そうか?」  
「はいっ!」  
頷いた綾咲の顔は、興奮のためか上気している。  
しかし言うに事欠いてジェットコースターとは。初心者のくせに生意気な。  
なるほど、お嬢はこの程度のスピードじゃ満足できないと申されるか。よかろう、その挑戦受けて立つ!  
周囲を見回すと、覚えのある風景がちらほらしている。そろそろ雪ヶ丘だ。ゴールも近い。  
最後に全力を振り絞って、こいつに敗北を味わわせてやる。ぴーぴー泣きわめいても止まってやるほど優しくないぞ、俺は。  
「さっきの発言、後悔するなよ」  
「え? 何がです?」  
俺は綾咲の疑問には答えず、更にペダルを深く踏み込んだ。  
「うおりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」  
気合い一番全力全開。推力、慣性、搭乗者の技術。それらが三位一体となって、俺達を最速の世界へと導く。  
町並みはビデオの早送りのように流れ、風を切る音と車輪の回転する音、それだけしか耳に届かなくなる。  
鋭敏になった五感は周囲の危険をいち早くキャッチし、脳が最速のルートやライン取りを叩き出す。  
相棒は俺の無茶な運転に忠実に応え、また俺も魂が燃え尽きるほどの力を相棒に注ぎ込んだ。  
もっとだ、もっと早く!  
走れグローバルスタンダード号! あの光を目指して!  
「あの、篠原くん」  
「越えろ音速! 突き抜けろ亜光速! 相対性理論をぶっちぎれ!!」  
「もしもーし? 聞こえてないのかしら?」  
「何人たりとも俺の前は走らせねぇぇっっ!」  
「もう。耳元で思いっきり叫んで差し上げようかしら。…………篠原くんっっ!!」  
「うぉっ!」  
突然の大音量に、俺は反射的にブレーキを掛けた。キィーという耳障りな音と共に、自転車がゆっくりと減速する。  
チッ、もう少しで未知の世界が見えてきそうだったのに。誰だ水を差した奴は。  
振り返ればそこには綾咲の姿。当たり前か、俺の後ろに乗ってたんだから。すっかり忘れてたけど。  
 
「どうした? 乗り物酔いか? それとも二日酔いか?」  
「いえ、そうではなくて」  
綾咲はゆっくりと俺の身体から腕を放すと、今まで辿ってきた道の向こうに目を送った。  
「私の家、もう過ぎちゃったんですけど」  
…………………………………………………………はい?  
彼女の言葉が頭脳の奥に浸透するまで、しばらくの時間が必要だった。  
一陣の冷たい風が高級住宅街を通り抜けていく。  
「………………あー、それっていつのこと?」  
小さな唇から、残酷な事実がもたらされる。  
「ずいぶん前になります」  
この時、腕時計は午後4時14分を指していましたとさ。  
「…………………………………………」  
しばしの思考停止。そして。  
しまったぁっ! この俺としたことが、何たるミスを!!  
もっと早く教えてくれよ、などという情けないセリフは絶対に口に出せない。  
綾咲を送り届けるという任務をすっかり忘れてしまっていたのは俺自身なのだ。  
その原因はアクロバット走行を体験しても平然としていた綾咲への対抗心だし。  
仕舞いにはそれすらスピードへの欲求にすり替わってたし。  
今だけは素直に認めよう。俺は阿呆だ。  
「スマンごめん悪かった! すぐ引き返します後でひたすら謝ります」  
臨時の先生とやらが気の長い人物ならまだ待っていてくれるかもしれない。一縷の希望を持って、ハンドルを切り替える。  
「篠原くん、少しお待ちくださいな」  
「はいっ!」  
しかし綾咲の制止の声が掛かり、俺は発進体勢のまま硬直する。  
やはり無理ですか? 許してはくれませんか? もしかしてヤキ入れですか?  
不安を胸一杯に抱きながらチラリと横目で伺うと、綾咲は何やら物思いに沈んでいるようだった。  
俺を撲殺する一番効率のいい手段を検討中なのかっ!?  
いや、彼女はそんな娘じゃない。そこまで葉山に毒されていない…………たぶん。  
安全を確信するために勇気を出して正面から見つめると、綾咲は何やら迷っているようだった。  
いや、迷っているというより、決心を固めているような、そんな雰囲気。予想していたどれとも違う様子に戸惑ってしまう。  
するとそんな俺を面白がっているかのような、いたずらっぽい表情で綾咲が笑った。  
「ね、このままサボっちゃいましょうか?」  
俺を仰天させる言葉と共に。  
 
 
(中編・つづく)  

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