緩やかな坂を上りきると、数年前に造られた『雪ヶ丘公園』という名の公園がある。  
鉄棒と滑り台しか備えられていない、高級住宅街に存在するにしては簡素な広場だ。  
「着いたぞ〜」  
綾咲に声を掛けて合図しながら、徐々にスピードを落としていく。公園には俺達以外誰もいない。  
まだ日没前だというのに、この辺りの子供達はもう帰ったのか? それとも家でゲームか? 塾か? 出会い系サイトに夢中なのか?  
などとどうでもいいことを考えながら、自転車を止める。  
先に降りた綾咲を追うように園内へ入り、奥にあるベンチに腰を下ろした。  
ため息と共に疲労を吐き出しながら、ここに来た経緯を思い出す。  
『それで、サボタージュってこの後どうすればいいんでしょうか?』  
サボろうと言ったものの、突発的な思いつきだったらしく、何処へ行くかまでは考えていなかったらしい。  
好きにすればいい、と答えると、  
『それでは、篠原くんのお好きなところに案内してくださいな』  
そう返してきた。  
一瞬本気で近所のスーパーの特売に連れて行こうかと思ったが(本日の目玉・トイレットペーパー198円お一人様一個限り)、  
何とか誘惑を振り切り、現在に至る。  
この場所を選んだ理由は近場で、金のかからないところという、ただそれだけである。  
公園で二人きりなどいかにも学生の放課後デートシチュエーションだが、他意はない。  
いや、あるいは葉山との契約が頭の隅に残っていたのか?  
……いかん。あの魔女の思い通りになってきているぞ。  
吹き付けてきた風に身を震わせる。ものすごい悪寒。  
葉山め、俺をここまで恐怖させるとは。12月とはいえ、この寒さは異常だぞ。  
……そういや、全力疾走して汗かいてたなぁ、俺。  
冷たい風にビュンビュン煽られ、体温が容赦なく奪われていく。  
まさかこんな町中で凍死か? 冗談じゃないぞ。だがあり得るかもしれん。今年の冬は寒いらしいし。  
マッチ売りの少女もこんな気持ちだったのだろうか?  
少女よ、売るならカイロにしなさい。間違っても微炭酸飲料を販売してはいけないよ。  
「はい、どうぞ」  
急に掛けられた声で我に返る。急激な温度変化にまた思考が乱れていたらしい。  
差し出された綾咲の手には、液体が揺れる銀色のコップが。  
表情から俺の意図を察したのか、左手に持った同色の筒を見せながら続ける。  
「紅茶です。朝に作ったので、もうだいぶ冷めていると思いますけど」  
謙遜なのか、はたまた俺の身体が冷え切っていたのか、受け取った紅茶は充分すぎるほど暖かかった。  
よほど高性能な魔法瓶に違いない。冬山遭難用か? いやそんな物あるか知らないが。  
「ありがてぇ〜」  
心の底から感謝しながら、コップを受け取る。紅茶を胃の中に流し込むと、身体の奥の凍えが取り払われていった。  
 
「もう少し残ってますけど、飲みます? あと一杯分くらいしかありませんけど」  
「ありがたくいただきます」  
反射的におかわりも頂戴してしまう。  
綾咲の厚意に甘えまくっているが、仕方ないんです。  
時間内に彼女を送り届けるという依頼を達成できなかったから、報酬の喫茶店全メニュー制覇も夢の彼方へと消えたのです。  
だから別の方法で消費したエネルギーを補給するしかないんです。  
言い訳を並べ立てて罪の意識を沈静化させながら、今度はゆっくりと液体を口に運ぶ。  
うん、美味い。銘柄まではわからんが、高級な葉を使っているようだ。  
これを毎日飲んでたら、パックの紅茶など飲めなくなるだろうなぁ。  
……………………毎日?  
脳内でもう一人の俺が警鐘を鳴らしてくる。何かとんでもないことをしているような。  
落ち着いて整理してみよう。  
綾咲が持っていた紅茶。朝に作った。残り少ない。誰が飲んだ? 何に入れて飲んだ? 俺に渡されたコップ。  
これらから推測される結論。間接キ  
「篠原くん」  
「ひゃいっ!? いかがいたしなされましたでせうか!?」  
いきなり話しかけられ、少女のような悲鳴を上げてしまう。  
当然、綾咲は突如挙動不審に陥った俺を怪訝な顔で見やった。  
「? どうしたんですか? 声が裏返ってますよ」  
「いいえ何ともありませんよ塵ほども動揺してませんよ植物のように心穏やかですよ?」  
早口で捲したてながら何とか綾咲の興味を持たさぬよう試みる。冷静とは180度かけ離れた態度だが、今はこれが精一杯。  
あなたは大切なものを盗んでいきました。僕の平常心です。  
「そうなんですか?」  
「そうなんです。お茶ごちそうさま」  
綾咲に空になったコップを押しつけると、この話題はおしまいとばかりに口をつぐむ。  
幸いにしてそれ以上の追求はなく、彼女は魔法瓶を鞄に戻した。  
よーし、どうにか乗り切ったぞ。  
危機が去ったことに安心して力を抜くと、急に疲れが押し寄せてきた。  
綾咲よぉ、俺を信頼してくれてるんだろうけど、もう少し警戒心持とうや。  
「篠原くん、夕焼けですよ。ほらっ」  
口に出さない思いはもちろん通じることはない。  
無邪気な声に振り返ると、いつの間にかお姫様はベンチのすぐ後ろにある手すりに寄りかかっていた。  
「気を付けろよ。落ちると危ないぞ」  
大丈夫だろうとは思ったが、一応注意しておいた。  
この公園は高台にあるため、柵の向こうは急な斜面になっている。  
下は柔らかい草が生えているので転げ落ちても怪我することはないだろうが、念のため。  
「わかってます。私、子供じゃないんですよ」  
綾咲はふくれっ面をしてみせるが、すぐに機嫌を直して眼下の景色に向き直ると、見覚えのある建物を指さす。  
「あっ! あれって学校ですよねっ」  
「そーだな」  
入り口とは逆方向になるここからは、街が一望できる。  
俺達が通っている学校、もうすぐ混雑し始めるであろう駅前、さっきまで買い物をしていたショッピングモール、一軒家やアパートが並ぶ住宅街。  
全てを夕日の赤が染め上げていた。  
 
「家も、学校も、すごく小さい……。ふふっ、ここから見てると、あそこで授業受けたり、おしゃべりしてるなんて信じられませんね」  
遊園地に連れて行ってもらった子供みたいなはしゃぎ様に、呆れてため息を吐く。  
「初めて見るわけじゃあるまいし、そんなに珍しいものでもないだろうに」  
「え? ここに来たのは初めてですけど」  
意外な返答。あれ? でも確か……。  
「そうなのか? 家の近くなのに?」  
「こちら側にはあまり詳しくないんです。学校も駅も、反対方向でしょう?」  
あぁ、納得。この辺って民家しかないからなぁ。  
子供の頃から住んでいる俺と違って、綾咲はまだこっちに来てそんなに経ってないから、無理もないか。  
「だからこの公園のことも知りませんでした。こんなに眺めのいい場所があったなんて」  
そんな大層なものでもないぞ。  
しかし言葉は音にならず、吐息となって宙を舞った。  
何故なら――  
「篠原くんのおかげ、ですね」  
振り向いた綾咲が、とても柔らかな笑みを浮かべていたから。  
「…………さあな」  
やっとそれだけ絞り出して、視線を外す。夕日が少し眩しかった。茜色の空を、雲がゆったりと泳いでいる。  
「似たような所なんて他にも山ほどあると思うぞ」  
「どんなに似ていても、同じではないでしょう?」  
苦し紛れの誤魔化しは、やはり彼女には通用しない。  
「ここからの景色は、この公園だけのものですから。だから素敵なんですよ」  
戻した瞳に飛び込んできた綾咲の笑顔が、とても素直で。  
それはきっと、己を虚飾で覆うことに必死になっていた俺が、既に失くしてしまった気持ちで。  
だから。  
「……そうだな」  
控えめに、頷いた。  
口に出してしまえば、馬鹿らしくなるくらいに簡単だった。  
やれやれ、俺はどうして意地になってたんだろうね? 別にムキになって否定するものでもないだろうに。  
ベンチから立ち上がり、綾咲の隣へ行く。見慣れた風景を普段とは違った感情で眺めるのも、いいかもしれない。そんな思いが胸によぎった。  
綾咲に影響受けたな、これは。  
手すりに体重を預けながら朱色に染められた街並みを目に写していると、懐かしい情景が甦ってくる。  
子供の頃、同じようによく夕日を眺めていた。  
世界が己の物になったような錯覚と、世界で一人きりになったような孤独感とを、同時に味わいながら。  
そんな感傷も年を経るにつれ、次第に削り取られてしまったが。  
今訪れているのは、その時とはまったく別の感情だった。  
たまにはこんな静かな時間を、誰かと一緒に過ごすというのも――  
チラリと横目で盗み見た彼女が、本当に楽しそうな表情を浮かべていたから。  
「――悪くないのかもな」  
そう思った。多分、心の底から。  
 
一瞬強い風が吹いて、綾咲の髪が翻る。踊る髪を押さえるその姿さえ嬉しそうで、我知らず笑みがこぼれた。  
「どうかしました?」  
掛けられた声で現実に引き戻される。いつの間にか彼女と目が合っていた。  
ずっと綾咲を凝視していたことに今更ながら気付き、顔面の温度が急上昇する。  
「え、あっと」  
慌てて取り繕おうとするも、うまい言葉が出てこない。  
視線も何故か彼女から外れてくれず、身体は魔法をかけられたように固まったままだ。  
「篠原くん?」  
綾咲の小首を傾げる仕草で、互いの顔が想像していたよりも近かったことを知る。  
そんなはずもないのに、さらさらと揺れた髪の香りさえ届きそうに感じた。  
それだけじゃない。瞬きする瞳、夕焼けの色を纏った頬、小さく開いた唇、何気ない動作のひとつひとつから目が離せない。  
マズイ。マズイマズイマズイマズイ! 何だかわからんがこのままの状態は非常に危険だ!  
緊急警報発令! 緊急警報発令! 血圧が臨界点を突破しました! すぐに遮断して! 駄目です、間に合いません!  
心拍数が危険領域に到達! レッドアラームレッドアラームすっげー!  
うお、尋常ではなくうろたえてるぞ俺。これが夕日の魔力か? レジデントオブサンの陰謀なのかっ!?  
つまりよこしまな気持ちがダンシンインザサンしてこの胸で暴れて止まらないのも、みんな太陽がさせたことだったんだよ! な、何だってー!?  
ああ俺壊れてる。間違いなく壊れてる。今期一番の錯乱っぷりだ。いかん、早く冷静にならなくては。  
しかしクールになれと念じようが、九九を唱えようが、今月の出費を計算しようがまったく効果無し。心臓には相変わらず天変地異が巻き起こっている。  
どうしたらいいの? 教えて神様。教えてMr.sky。  
全身全霊で祈るが、この世には神も仏もいないらしい。  
打開策も打ち立てられぬまま、いたずらに時間は過ぎてゆく。これ以上黙っていると綾咲が不審に思うだろう。  
ええい、こうなったら出たとこ勝負だ! 意味不明のセリフを口走る可能性が高いが、その時はその時だ。  
綾咲よ、心して聞くがよい! 俺の想いの内が今ここに!  
「綺麗だな……」  
口をついて出たのは、そんな言葉だった。  
あれ? 意外に普通だ。いや、違うだろ。この状況でこんなこと言ったら、まるで――  
「そうですね。私、夕焼けを見るのって久しぶりです。篠原くんもですか?」  
「あ、ああ。なかなか機会が無くて」  
微笑みと共に返された彼女の言葉に拍子抜けしながらも、反射的に同意を返す。  
「不思議ですよね。こうすれば時間なんてすぐ作れるのに」  
「わざわざそれだけを見ようって気にはならないんだよな」  
取り留めのない会話を交わしている内に、徐々に心臓の鼓動がペースダウンしてくる。  
彼女が誤解してくれたおかげで、何とか恐れていた事態は免れたようだ。  
…………誤解、か? そうじゃないよな? あのセリフに他意なんてない。ただ、夕日を見た感想を述べただけだ。  
自分にそう言い聞かせながら、後ろ向きに一歩二歩と下がっていく。ベンチに腰を下ろすと、ようやく全身の緊張が解けた。  
 
はぁ、と長く深いため息を吐く。本当に疲れた。綾咲にはいつもペースを乱されっぱなしだが、今回のは極めつけだ。  
いや、あいつが何をしたってわけでもないから、俺の独り相撲か。  
どっちにしろ、このままではいけない。天然な綾咲の行動にいちいち動揺していたら体が持たない。もっとタフにならないと。  
そう、生まれ変わるのだ! クールでタフなナイスガイに! 今が革命の時。大丈夫、僕なら出来る。  
古き未熟な殻を打ち破り、雄々しきハードボイルドの扉を開くのだ!  
「篠原くん、ちょっといいですか?」  
顔を上げると、綾咲がこちらを窺っていた。  
ちょうどよい。進化した篠原直弥改め新・篠原直弥の平静っぷりを、この無防備小娘にとくと拝見させてやろう。  
「ハハハ。どうしたんだい? 何か気になることでもあるのかな?」  
さすがは新・篠原直弥。受け答えに微塵の狼狽も表れない。何やら間違った方向に進化を遂げてしまった気もするが、それは諦めよう。  
「学校に誰もいないみたいなのですけれど、どうしてなのでしょう? 部活が終わるにはまだ少し早いのでは?」  
俺は無意味に白い歯を輝かせながら、親指を立てて朗らかに答えてやった。  
「それはね、期末テスト前だからさっ!」  
だから本当は勉強しなきゃいけないのさっ!  
進化したとか言って喜んでる場合じゃないのさっ!  
……。  
…………。  
「……………………」  
落ち込んだ。すごく落ち込んだ。ずーんと心が重くなった。恐ろしく肩が下がった。  
「やなこと思い出させるなよぅ」  
涙目になりながらベンチ下の雑草をプチプチむしる。  
え? 何事にも動じない新・篠原直弥じゃなかったのかって? 彼は1分も経たずに木っ端微塵になりました、はい。  
「ご、ごめんなさい。篠原くんってそんなに勉強苦手でした?」  
「得意教科なら問題はないが、不得手の英語と数学は赤点付近をさまよう鎧です」  
ちなみに綾咲は学年10位以内にいつも名を連ねる優等生である。  
しかも全教科まんべんなく高得点という隙の無さ。入る学校間違えてるよな、絶対。  
「でも篠原くん、数学と英語の授業の時、寝ていませんでした? 苦手なら聞いていた方がいいのでは?」  
「苦手だから寝てるんだよ。起きててもチンプンカンプンだし。  
つーか綾咲、お前こそ真面目に授業受けてるだけじゃ、あそこまで点数は取れないだろ。  
どんな裏技を使ってるんだ? 先生怒らないから正直に話しなさい」  
俺の言いがかりに綾咲は困ったような表情で、  
「と申されましても……普通に復習しているだけですよ? それと、前の学校はもう少し進んでいましたので」  
我々の現在地など既に一年前も昔に通り過ぎていたのか。凄まじくレベルの高いところだな。  
 
ふと、疑問を覚える。綾咲は何故こんな田舎の町に移り住むことに決めたのか。  
思いつきなどではないだろう。両親の説得だって大変なはずだ。  
彼女の振る舞いや言動からは、厳しく、かつ大切に育てられてきたのが窺える。きっと反対されたに違いない。  
しかしその制止を振り切って、綾咲はこの街に来た。  
理由を聞いてみたい。激しい欲求が胸に渦巻き、突き動かされそうになる。そしてそんな自分に、俺自身がひどく驚いていた。  
いつもなら興味を引かれても、口に出そうなんて思わなかったろう。他人の事情に足を突っ込むと、引き返せなくなるから。  
猫だって好奇心に殺されるのだ。死ぬとわかっている箱に入る必要はない。  
「綾咲は……」  
けれど俺は一歩、  
「どうしてこっちの学校に転校してきたんだ?」  
踏み出していた。  
いきなりの問いに綾咲は目を見開いてきょとんとしている。そりゃそうか。知り合ってから半年以上経つのに、今更だもんな。  
時間が経つにつれ、聞くんじゃなかったという後悔が強くなっていく。  
やっぱいいや、そう口を開きかけたときだった。  
「友達がいなかったんですよ」  
「……え?」  
想像もつかなかった答えに思考の全てが霧散する。聞き違いかと綾咲に顔を向けるが、彼女は穏やかな表情で、もう一度同じ言葉を繰り返す。  
「友達がいなかったんです。あまり他の人には教えてませんけど」  
知っているのは由理さんくらいですよ、と綾咲は微笑む。言っている内容とは裏腹に、彼女の振る舞いは明るい。  
「えーと。何というか……悪いこと聞いたか?」  
「いいえ。どうしてです? ……あ、篠原くんが考えているような理由ではありませんよ。いじめが原因ではないですから」  
俺の内心を読みとったらしく、訂正してくる。その口調に陰りは窺えない。  
辛い思い出ではないみたいだな。  
いつもみたいに瞳を覗き込むようにして、綾咲が尋ねてくる。  
「少し長くなりますけど、構いませんか?」  
「それはいいんだが。別に話したくないなら話さなくてもいいぞ」  
「どちらかと言えば、篠原くんには聞いてもらいたいです」  
ぐ、と喉が詰まる。そんな風に返されたら、今更質問を取り消しなんて出来そうにない。  
はぁ、これも自業自得か。ま、そんな重いエピソードでもないみたいだし、気楽に耳を傾ければいいさ。  
俺の頷きを受け、綾咲は何から話すか一瞬迷うような素振りをして――ゆっくりと語り始めた。  
 
 
「私、ずっと女子校に通っていたんです。幼稚園から大学まで一貫式の」  
そういえば葉山からそんな話をされた気がする。ずっと女子校通いだったから、男に対する免疫がないとか何とか。  
だから『昼休み案内事件』などというものが起きたわけで。俺が葉山に脅迫されて、こんな所にいるわけで。  
うーむ、意識はしていなかったが、今俺は全ての災厄の根本を知ろうとしているのではないか?  
だとすればぼんやり流せそうにもない。居住まいを正して傾聴しよう。  
しかし俺の意気込みを裏切るかのごとく、彼女の歯切れは悪い。  
「歴史と伝統がある学校でして、生徒も……その、良家の子女や会社の社長の子供とかが多くて」  
「いわゆるお嬢のお嬢によるお嬢のためのお嬢学校というわけだな」  
綾咲が無言でつかつかと歩み寄ってくる。そして、  
「えい」  
向こう脛を蹴っ飛ばされた。足部を襲う激しい痛みに苦悶する。  
ここで豆知識。たとえ女の子のキック力でも、急所を狙えば相手にクリティカルダメージを与えることは可能です。  
不意打ちならより効果的でしょう。  
「おまっ……! 筋肉のない部分への攻撃は反則っ……」  
「お嬢お嬢と馬鹿にするからです。篠原くんが悪いんですよ」  
ふくれっ面でぷいっと横を向く綾咲。どうやら完全に機嫌を損ねてしまったようだ。  
しかしいきなり実力行使に訴えるとは、段々葉山に似てきたな。だとすればこれ以上神経を逆なでするのは得策ではない。  
「すまなかった。謹んで謝罪し訂正する」  
激痛を堪えながら、ひとつ咳払いをし、言い直す。  
「お嬢様のお嬢様によるお嬢様のためのお嬢様学校というわけだな」  
「えいっ」  
反対側の脛を強打された。俺は子供のように両足を抱えながら、ベンチを転がり悶絶する。  
そんなのたうち回る哀れな蓑虫に投げ掛けられる、わざとらしいほど明るい声。  
「あら、とっても楽しそうですね、篠原くん」  
「おまえ、なぁ……。誰のせいで……こうなったと……!」  
怒りを込めて睨め上げると、そこには天使のような笑顔と同時に底冷えするオーラを醸し出した綾咲の姿が。  
正直に告白しよう。僕とても怖いです。  
「誰のせいでしょう? 自分の胸に聞いてみてはいかがです?」  
彼女はわざとらしいほど優しげな口調で問いかける。表情は穏やかだけど、目が全然笑ってないよ、綾咲さん。  
だがこのプレッシャーは一度経験している。過去から何も学び取らない俺ではない。つまり対処法はもう存在するということだ!  
「完膚無きまでに私が悪いです。ごめんなさい」  
対処法・さっさと己の非を認め罰を待ちましょう。そこ、情けないとか言うな。こいつが怒ると怖いんだから、本当。  
綾咲はしばらくこちらをじっと見つめていたが、やがて小さなため息を吐いた。  
「何だか由理さんの気持ちが分かったような気がします」  
「理解はしても真似はするなよ。奴は人類の敵だぞ」  
何はともあれこの場は切り抜けられたらしい。やはり人間に大切なのは過ちを悔いる真摯な姿勢だな、うん。  
いまだ激痛の鐘を鳴らしている足をさすりながら、空を見上げる。  
まだ雲は茜色だが、冬の日暮れは早い。稽古事をサボったわけだし、日が落ちるまでには彼女を家に帰さなきゃならんだろう。  
となれば、これ以上脇に逸れるわけにもいかないな。……いや、話の腰をバキバキ折ったのは俺なんですけどね。  
「よし、話題を戻そう。レッツ閑話休題。なるほど! 裕福な子供が集まっていたんだな。それで?」  
「篠原くんって時々すごいですね……」  
綾咲は微量の羨望と大量の呆れの入り交じった眼差しを送ってきていたが、やがて気を取り直すように二、三度可愛らしい咳払いをする。  
まだ続けようとするお前も結構すごいぞ、と思ったが口には出さないでおいた。  
ま、あれだけお嬢お嬢と連呼すれば、開き直るだろ。  
お前がお嬢なのはもう充分知ってるから、以前の学校のブルジョアっぷりを聞いても引いたりしないっつーに。変な気を遣うな、阿呆。  
 
肩の力が向けたのか、先程よりも少しだけ滑らかに彼女の唇は動きだす。  
「それで――そんな学校だったから、友人同士で作るグループも、普通とは少し違っていたんです」  
当時を思い出すように、綾咲が視線を遠くに向ける。ただ浮かんでいるのは、懐かしさを含んだ郷愁の色ではない。  
「あの子の父親の会社は大きいから、仲良くしておこう。  
あの人の家は政界や財界とも繋がりが深いから、嫌われないようにしよう。  
あそこの企業はもう駄目らしいから、彼女と一緒にいても意味がない……。  
少し前までクラスの中心だったのに、父親の会社が不渡りを出した途端、誰も近寄らなくなったりするんです。  
そういう関係って、友達って呼べますか?」  
「……違うだろうな」  
それは利害が一致しただけだ。本人同士がどう考えているかはともかく。  
「そんな光景を何度も目にして……なのにみんなおかしいなんて思わない。  
当然のことのように受け止めて、いつものように授業を受けたり、誰かとお喋りしたりして、一日を過ごしていく。  
……嫌になってしまったんですよ。学校と、その場所にいる私自身に」  
綾咲は緩やかに足を進めると、ベンチの後ろにある手すりに身体を預ける。  
夕日と向き合う彼女の顔は、この位置からは見えない。  
「ここにいたら、私が私でなくなってしまうんじゃないか。大切なものをなくしてしまうんじゃないか。  
一度そう考えたら、たまらなくなって。胸にあるモヤモヤが、日に日に大きくなっていって。耐えられなくなって。環境を変えたくなって。  
どこでもいい、別の場所に行きたくなって。それで――この街に来たんです」  
振り向くと、いつもの笑顔。いつもと変わらないように見える、笑顔。  
何か言葉を掛けようとしたが、どれも的はずれになってしまう気がして、結局無難なセリフを選ぶ。  
「よく両親が納得したな」  
「反対されましたよ。お母様と大喧嘩して、3日間口をききませんでしたし。その間に勝手に編入届けを用意していたら渋々承諾してくれました。  
雪ヶ丘にまだ家が残っているからそこに住むこと、徒歩で通える学校に行くこと。この二つが条件でしたけど」  
アグレッシブなのは昔からか。  
「またずいぶんと思いきったことをやったもんだ」  
「そうでもしないと認めてくれそうもありませんでしたから。先手必勝ですよ」  
小さく舌を出した綾咲に、俺は苦笑するしかない。  
先程とは違う、緩やかな空気が場を支配する。その雰囲気に乗って、出来るだけさり気ない口調で彼女に尋ねてみた。  
「で、こっちに越してきて何か変わったか?」  
問いかけに綾咲は間を置くように一度だけ目を伏せ、  
「転校しただけで全部うまくいくなら、簡単ですよね」  
言葉の内容とは裏腹の柔らかい表情を向けてくる。  
「……かもな」  
曖昧な相づちを打ちながら、綾咲をじっと観察する。  
決して愉快ではない自分の過去を吐露しても崩れない、穏やかで屈託のない笑顔。  
それはもう乗り越えているからなのか、それとも作られているものなのか、俺にはわからない。  
もし無理をしているのなら。まだ彼女が孤独や疎外感から抜け出していないというなら。  
普段の笑顔が、本物で無いというのなら。  
「最初はそれだけで何もかも解決するって、そう信じてました。格式や伝統に縛られない、普通の学校に行くんだから。  
両親の仕事とか、今までの環境とかは関係がない、クラスメートとの間には壁なんて無いんだって……」  
感情を偽る余裕もないくらい引っ張り回してやろう。そう決意する。  
お節介なんて柄じゃないし、更に深く泥沼にはまっていくような気がしたが……仕方ないよな。毒を喰らわば皿まで、だ。  
 
綾咲はそんな俺の心中も知らず、淡々と続ける。  
「でも、そんな甘い考えの通りになるはずがなくて。  
クラスのみんなは遠巻きに様子を見ているだけで、声を掛けてくるのは興味本位の男性の方ばかりで……。  
やっぱり私は世間知らずのお嬢様でみんなとは違うんだって、突きつけられた気がして。  
前の学校の時と同じように、いえ、それ以上に疎外感が大きくなって。  
正直に言うと、転校したことをちょっと後悔したこともあったんですよ。これじゃあ何も変わってないって」  
そこで綾咲がくすっと笑みをこぼす。怪訝に思って視線を向けると、  
「そんなとき、声を掛けてくれたのが篠原くんだったんですよ」  
「……俺、そんなことしたか?」  
憶えがない。葉山から紹介されるまでまともに話したこともなかったはずだが。  
「ええ。いきなり私の席に来て、『困っているか転校生!』って」  
「……………………あ」  
「思い出しました?」  
「思い出してしまいました」  
そう、記憶の隅を掘り返したら、確かにそのような事実はあった。  
あれは綾咲が転校してきて間もない頃。  
その当時、彼女は休み時間のたびに男子連中に囲まれて質問責めにされるのが恒例となっていた。  
我よ我よと案内を買ってでる下心満載の男子達。その中心には困惑した綾咲の姿。  
当然まとまるはずもなく、勃発する闘争、生まれるカオス。  
これは遊べる……もとい、混乱を鎮めなければ思った俺は、綾咲に声を掛け意思確認した後、拳を振り上げこう宣言したのだ。  
『ならばここにっ! 第1回転校生案内役争奪ジャンケン大会を開催するっ!』  
もちろん直後に『転校してきたばかりの子をネタに遊ぶなっ!』と葉山の回し蹴りが炸裂したわけですが。  
あれはマジであばらが折れたかと思った。  
それからは無用な混乱を招かないために葉山が綾咲の面倒を見るようになり、現在のような関係を成立させていったというわけだ。  
「由理さんと友達になれたのも、篠原くんのあの言葉が始まりだったんですよ?」  
つまりあばらで繋がれた友情というわけだな。  
そんな茶化したセリフを投げようとした俺の口は、しかし空気を震わせることなく動きを止めた。  
「そうして由理さんと仲良くなれて……秋田さんや星野さんとも話すようになって……篠原くんとも友達になれて。  
それでようやくわかったんです」  
何故なら彼女の表情が、心の奥にしまいこんだ大切な記憶を反芻するような、愛おしげなもので。  
「友達が欲しいなら、誰かと仲良くなりたいなら、まず自分から声を掛けなくちゃいけないって。  
待っているだけじゃ何も変わらない。周りを変えたいなら、まず自分から動かなくちゃいけないって」  
胸に手を当てて、物理的には存在しないけど、でも確かにそこにある暖かさを感じている、そんな姿だったから。  
「簡単なことだったんですよ。私が抱え込んでいたものは。  
篠原くんや由理さんに切っ掛けを貰っただけで、あっさり解決しちゃうくらい簡単なことだったんです」  
そして綾咲はいたずらっぽい光を湛えた瞳をこちらに向け、  
「結局、転校しただけで全部うまくいっちゃいましたね」  
くすっと、楽しそうに笑う。  
それは偽りの入り込む余地など無い、本物の微笑みだと確信できるもので、どうしてだろう、ひどく安心している自分に気付いた。  
「そうだな。難しく悩みすぎだ、お前は」  
答えながら俺は膝に頬杖を付いて、心の中だけで自嘲する。  
感情を偽る余裕もないくらい引っ張り回してやる、か。  
どうやら心配は杞憂だったらしい。  
既に綾咲は、小さな切っ掛けと自分の力だけで己を取り巻く閉塞感を打ち破っていた。  
危うく余計なお節介をするところだった。まったく、らしくもない考えをするものじゃない。  
思っていたよりずっと、彼女は強いのだろう。きっと俺よりも。  
 
「でも、そのことにもう少しだけ早く気付けていれば」  
少しだけ沈んだ綾咲の声に思考の海から呼び戻される。街並みを見つめる彼女の瞳は、ここではないどこか遠い場所を映しているようで。  
「向こうのクラスのみんなとも、もっと違った関係に……友達になれていたのかもしれませんね」  
これまでには存在しなかった、郷愁の想いが滲んでいた。  
「戻る気はないのか?」  
「えっ?」  
俺の問いかけに、綾咲は驚いたように目を丸くする。  
「前の学校に。やり直しってわけでもないが、まだ遅くないだろ」  
そう、遅くない。慣れ親しんだ環境で、自分と同じような家柄の少女達と今度は本当の友人同士になって、日々を過ごしていく。  
今の彼女なら、それが出来る。一年前に抱いた望みを叶えられる。  
「いいえ、もう遅いです」  
しかし綾咲は小さく首を振り、  
「だって私、戻ろうなんて全然考えつかないくらいに、この街のことがすっかり好きになっちゃたんですよ?」  
微笑んだ。そして詩を詠み上げるようにはっきりと、自分の想いを言葉にしていく。  
「由理さんや秋田さんやクラスのみんな――離れたくない人たちがたくさん出来て。  
まだ行っていない場所も、入ったことのないお店もたくさんあって。  
それに…………えっと……」  
と、そこで急に彼女は口ごもった。  
照れたように髪の毛の先を弄りながら、はにかんだ笑顔を浮かべる。  
もじもじした仕草と重なるように、耳も少しだけ赤くなっている。  
それはきっと――  
「…………好きな人も、いるんです」  
恋をしているからなのだろう。  
胸の奥底にかすかな痛みを感じる。けど、それは錯覚だ。綾咲が好きな相手は知っていたし、そもそも俺と彼女はただの友人だ。  
痛みを感じる必要なんて、ない。  
「……そうなのか? へぇ、意外だな」  
ここで『ああ、葉山だろ? 大丈夫、俺は応援するぞ』などと口走ろうものなら、  
今までの計画と明日以降の昼飯と俺の生命がまとめて(葉山の拳によって)おじゃんになってしまうので、わざとらしくとぼけておくことにする。  
しかし、頭に入っている情報をさも初めて耳にしたように振る舞うというのもなかなか難しいな。  
「い、意外って……。私に好きな人がいたら、そんなにおかしいですかっ?」  
「そういう意味じゃないって。取りあえず落ち着け。どうどうどう」  
「私、馬じゃありませんっ」  
恥ずかしさのせいか少々興奮気味の綾咲を静めながら、こっそり胸をなで下ろす。  
どうやら俺の演技はバレてはいないらしい。まぁそれもそうか。告白相手である葉山本人から情報が流れているなど夢にも思うまい。  
綾咲は不満そうに「うー」と唸りながら、  
「じゃあどういう意味ですっ?」  
ずい、と顔を近づけてくる。  
俺は上体をその距離と同じだけ後方に反らしながら、視線をあさっての方向に向けつつ、  
「いや、綾咲って色んな奴から告白とかされてるのに、全部断ってるだろ?  
だから今はまだそういうことに興味がないのかなーとか思ったり」  
弁明開始。しかし仰け反りながらなので、そろそろ限界に達している。  
このままでは非常にまずい。主に背骨が。更にはベンチから落ちそう。頑張れ俺の腹筋背筋。希望の未来を掴むまで。  
つーかそろそろ阻止限界点を突破しそうだ。早くこの状況を打開せねば。  
 
「って、そういや誰なんだ?」  
「え?」  
「綾咲の好きになった奴って。うちのクラス?」  
「そっ、そんなの言えませんっ!」  
苦し紛れの反撃は、しかし追求を止めるには充分だったらしい。  
赤面して顔を引いた綾咲の隙をついて、上体を戻す。苦境に耐え抜いた自らの上半身を心ゆくまで労ってやりたいが、それは後回しだ。  
せっかく手に入れた主導権、手放してなるものか。  
「そりゃそうか。じゃあ具体名は言わなくていいから、どんな奴かってだけでも」  
実は名前はおろか、中学時代は演劇部のくせに何故か頻繁にバレー部やバスケ部の助っ人に呼ばれていたことまで知ってるがな。  
「……どうしてそんなこと知りたいんです?」  
拗ねたような口調で、綾咲。彼女相手にここまで優勢な状況というのも珍しい……というか初めてかもしれない。ちょっぴり優越感。  
「単なる好奇心……かな? だから、教えたくないなら別にいいけど」  
これは本当。葉山のどこを好きになったのか、微妙に興味があったり無かったり。  
綾咲はしばらく躊躇していたが、やがて決意を固めたのか小さく深呼吸すると、唇を開いた。  
「…………優しい人、です」  
普段のはっきりとした発音とは対極の、風に流され消えてしまいそうな、小さな声だった。  
それでも、そこには決して小さくない想いが込められているとわかる。  
優しい人、か。  
ありきたりな上に抽象的すぎるが、人を好きになる理由なんて案外そんなものなのかもしれない。それを言葉に出来る綾咲が――  
「――少し、羨ましいかもな」  
「え? 篠原くん、何か仰いました?」  
気がつくと綾咲が瞳を覗き込むように近づいてきていた。考えがいつの間にか声になって漏れてしまっていたらしい。  
「……いや、寒くなってきたなって」  
何とか当たり障りのない返答をして、ベンチから立ち上がる。いかんいかん、今日は色々ミスが多いぞ、俺。  
「そうですね、風も出てきましたし」  
流れる髪を手で押さえながら、綾咲が同意する。  
空を見ればもう日は沈みかけいて、夜の気配を漂わせている。  
12月初旬の空気を胸から吐き出すと、白く色を付けた吐息が宙に浮かび上がる。もう少し時間が経てば黒とのコントラストでより鮮明になるだろう。  
そろそろ頃合いだな。  
『んじゃ、帰るとしますか、お嬢様』  
そう声を掛ける。いや、掛けるつもりだった。  
「なぁ、綾咲」  
なのに、出てきたのはまったく別の問いかけだった。  
「……怖くないか?」  
「え? 怖いって……何がです?」  
綾咲は目を丸くして、俺の質問の真意を計りかねている。それはそうだろう。突然こんなことを聞かれたら、誰だって戸惑う。  
俺だって、何故こんなことを聞いているのか自分でもわからない。  
「誰かを好きになることが。誰かを好きでいることが――」  
彼女の瞳が、とても素直だったから。恋を語る彼女の姿が、とても幸せそうだったから。  
理由を付けるならそんなところかもしれない。だけど、それは恐らく違っていて。  
ただ単に、聞いてみたかったんだろう。綾咲の気持ちを。  
想いは届かないかもしれないのに。届いても、相手とずっと一緒にいられる保証なんてどこにもないのに。  
それでも――  
 
「――怖いと思ったりしないか?」  
恋をするのかって。  
静寂が辺りを包み込む。耳に届くのは優しい葉擦れの音だけだ。冷たい空気を肺に送り込むと、刺されたように胸がキリキリ痛む。  
綾咲の視線は、俺から離れない。真っ直ぐにこちらを見つめている。  
10秒か、一分か。時の経過と共に冬が熱を奪っていったのか、次第に頭が冷えてくる。  
というか何を変な質問してますか俺は。『怖くないか?』などと突如突然唐突に。  
まるで『俺は恋愛恐怖症のヘタレです』と公言しているようなものじゃないか。  
しかも綾咲相手に。うわ。何だかものすごく恥ずかしくなってきた。  
時間を逆行できるならあのときの自分をぶん殴りてぇ。サンドバッグにしてぇ。そしてそのまま砂となり母なる大地を見守りたい。  
いや待て俺の思考。ファンタジックに飛ぶな俺の思考。現実と戦え俺の思考。  
「やっぱいいわ。忘れ」  
「――怖い、ですよ」  
話を消そうとしたのを遮ったのは、もう得られないかと思っていた綾咲の答えだった。  
「……え?」  
今度はこっちが戸惑う番だった。彼女は俺に小さく笑いかけて、続ける。  
「嫌われていたらどうしようとか、迷惑に思われてるんじゃないかとか。  
一人になったらそんなことばかり考えて。夜、眠れなくなるときもあります」  
訥々と語られるのは、普段からは想像もつかないような、気弱な綾咲の姿だった。  
他愛もないことに悩んで、些細なことで臆病になる、どこにでもいる一人の少女。  
「好きな人と一緒にいるとそれだけで嬉しくて、楽しくて、幸せなのに。  
同じくらい不安で、苦しくて、泣き出しそうで。  
会えなかったら寂しくて。いつも頭の中はその人のことでいっぱいになって。  
嬉しくても悲しくても、胸がきゅって締め付けられるんです」  
誰かを好きになること。誰かを好きでいること。それが幸福なだけじゃないって知っている、普通の女の子。  
「私、今までこんな気持ちがあるなんて知りませんでした。こんなに幸せで、怖い想いがあるんだって……」  
彼女はくるっと背を向けて、手すりへ一歩、足を進める。  
その時、今日一番強い風が吹き抜けた。  
「でも、怖くたって平気なんです。だって、私――」  
風とダンスを踊るように両手をいっぱいに広げて、綾咲が振り向く。  
 
 
 
 
「恋、しちゃったんですから」  
 
 
 
 
柔らかく微笑みながら。  
「恋に落ちちゃったんですから」  
夢見るように幸せな表情で。  
「恋する気持ちは、誰にも止められないから」  
怖さも痛みも、胸を張って受け入れて。  
「だから、私はこの想いを離したりしません」  
夕日が放つ黄金色の光が、舞い踊る髪からきらきらこぼれて。  
「世界でたったひとつの、私だけの恋ですから」  
その姿に、我知らず惹かれた。  
時計の針も、冬の寒さも、心臓の高鳴りも、綾咲以外の全てが世界から消え。  
俺はその幻想的な光景を、いつまでも見つめていた。  
まるで魔法をかけられたように。  
 
 
 
 
 
完全に日が沈み、夜のとばりが降りた頃、俺はようやく綾咲を家まで送り届けていた。  
「篠原くん、送ってくださってありがとうございます」  
「ん、ああ」  
鞄を両手で持った綾咲が、ぺこりと礼をする。  
俺は生返事をしながら、すっかり冷たくなった手をポケットに突っ込んだ。気温はもうかなり下がってきていて、制服だけでは少々辛い。  
雪ヶ丘の街路樹は葉を落とし、辺りはすっかり冬の気配を漂わせていた。気の早い家はもうクリスマス用のイルミネーションを飾っている。  
ちなみに綾咲の家は外観こそ少々古いものの、立派な大きさを誇っていた。  
いつもなら何か茶化した感想でも述べるところが、今はそんな気になれず、小さく手を振る。  
「じゃあ、また明日な」  
「はい。また明日です」  
短い別れの挨拶に、綾咲は笑顔で返した。ただそれだけで、心臓が過剰に鼓動を打ち鳴らす。  
彼女と目を合わすどころか、顔もまともに見られない。  
俺はそれらの感情を無理矢理閉じこめて、自転車を発進させる。  
後ろを振り向かなくとも、綾咲が見送ってくれているのがわかった。  
そして角を曲がり、姿が見えなくなってから――  
「だらっしゃ――――――――っっっっっっっっっっ!!!!!!」  
走る。走る走る走る走る全てを解き放ってひたすらペダルを踏み込み、走る。  
角を曲がり、曲がり、曲がり、アパートまで辿り着き自転車置き場に強引に愛車を繋ぎ、階段を踏み抜く勢いで駆け上がる。  
身体を自宅の扉にぶつけながら止め、鍵を出すのももどかしくドアノブを引き、回し、引き、回し、ようやく開錠して靴を脱ぐのも慌ただしく部屋の中へ入り。  
「はぁ、はぁ、はぁ…………」  
荒い息を吐きながら、ようやく落ち着いて  
『篠原くん』  
「うおりゃぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!」  
思い出した声をかき消すかのごとく壁にパンチ。パンチパンチパンチ。抉り込むように打つべし打つべし打つペキッという音が鳴って指に激痛が走り悶絶し床を転がる。  
ベッドの足に頭をぶつけ、その衝撃で落下した目覚まし時計が額にヒットして――動きを止めた。  
「あ〜…………」  
口を開けて天井を見上げ、馬鹿みたいに呻く。手も頭も痛い。でもこれはすぐに消える。  
消えないのは――  
 
 
 
 
『恋、しちゃったんですから』  
 
 
 
 
彼女の微笑みと、声と、この胸の痛み。  
……ちくしょう。  
ああ、認めるよ。認めてやるよ。  
 
俺は綾咲優奈が――――好きなんだ。  
 
 
 
 
 
(中編・おわり)  
 

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