駅から吐き出される人の波は、なかなか途切れることがなかった。  
それでも皆心なしか足早に見えるのは、やはりこの聖なる夜を誰かと迎えるためなのだろうか。  
寒いからさっさと帰りたい、という意見が一番多いかもしれないけど。  
時刻は夜の冷たさが身体に染み込んでくる午後九時。  
うっかりナイトパレードなんてものを見物してしまったため、地元に帰ってくるのが予定より大きく遅れてしまった。  
俺はもっと早く帰還しようと主張したのだが、民主主義という名の数の暴力に敗北を余儀なくされた。  
まぁ家にいても特にやることもないので特に強く反対はしなかったのだけれど。  
パレードが終わってから遊園地を出て、電車でこの駅に着いたのがつい先程。  
それでもすぐ自宅に足を向けずにここでだらだらと話し込んでいるのは、何だかんだ言いつつみんな名残惜しいのかもしれない。  
大勢で遊びに行くというのは、やはり楽しいものだからだ。  
でも、それも終わりが来る。  
「んじゃ、お疲れー」  
「おっつー」  
別れの挨拶を投げながら、秋田と日野、そして笹木が紅葉台方面のバスに乗車していく。  
秋田と日野はこの後笹木の家に泊まりに行くらしい。タフだねぇ、三人とも。  
そんな感想を抱きながら、綾咲と葉山が別れの挨拶を返すのを横目に、一人無言でひらひらと手を振る。  
と、それに気付いた笹木が二、三秒葛藤した後、ぎこちなく手を振り返えしてきた。うーん、律儀だ。  
三人を乗せたバスが発車すると、残された俺達の間に沈黙が降りた。  
祭りの後の倦怠感。馬鹿みたいに明るいイルミネーションと、そこら中から聞こえる陽気なクリスマスソングと、人々の喧噪と。  
賑やかで楽しい雰囲気が町中に溢れているのに、どこか寂寥感が漂う。  
「それじゃ、帰ろっか」  
それを打ち破ったのは葉山だった。いつもと変わらない態度で、俺達を促す。  
その一言で、ギアが日常に戻ったような気がした。  
「そうだな。気温も懐も寒いし」  
「今月は余裕なんでしょ?」  
「第5次篠原バブルは本日をもってはじけました」  
駅に到着してすぐ回収してきていたマイ自転車から降り、スタンドを跳ね上げる。  
ハンドルを握った手に、冷たさが急激に伝わってきた。  
わずかに残っていた寂寥感と身体に染み入ってくる寒さを吹き飛ばすように、腹から声を上げる。  
「よしアジトに帰るぞ野郎ども!」  
「どうしてバイキング風なんですか?」  
「まだ遊園地の気分が抜けてないんじゃない」  
部下達の心はバラバラだった。というかお約束を解さない奴らだった。  
くっ、これだから社会の常識を知らない世代は。  
「あ、私用事思いだしたから先に帰ってて」  
「うぉい!」  
更に部下の一人が離反した。つーか帰宅の音頭を取ったのはお前だろうが。  
そんな思いを込めて葉山を睨むと、彼女は苦笑を浮かべつつ、  
「ごめんごめん。ケーキ買って帰らなくちゃいけないのよねー」  
「それくらいなら待ちますけど」  
「いいわよ。寒いし、時間だって遅いんだから。二人で先に帰ってて」  
綾咲の提案をやんわりと断り、葉山はショッピングモールへ足を向ける。  
「優奈、またね。篠原も」  
「あ、はい。また」  
肩すかしを食らったような気分で、綾咲と共に葉山を見送る。  
つーかあいつ、本当に用事あるのか? また余計なこと考えてるんじゃないのか?   
しかしそれを確かめる術はない。  
葉山の背中が人に紛れて見えなくなってから、俺は隣の綾咲へと視線を移す。  
「どうする? ここで待っておくか?」  
もし待つなら暇つぶしに付き合うぞ、そんなニュアンスを込めて尋ねたが、綾咲は首を横に振った。  
「いえ。由理さんのお言葉に甘えて、先に帰りましょうか」  
「お嬢様のご意志のままに」  
彼女はくすっと笑って、  
「では、エスコートをお願いしますね」  
「今度は迷子にならないようにしないとな」  
二人で帰路を歩み始めた。  
 
 
夜空の星は薄い雲に覆われて、その輝きを窺うことは出来なかった。  
それでも月だけは邪魔な帳の影響を受けず、暗闇を彩っている。夜の空気は痛いほどに澄んでいて、時折吹く風に身を竦める。  
そんな冬の夜道を、月明かりと街灯に照らされながら、綾咲と一緒にゆっくり歩く。  
皆家の中でパーティに興じているのか、街は静寂に包まれていた。  
耳に流れてくるのは、自転車の車輪が奏でる音と、綾咲のブーツがアスファルトに響く音だけ。  
世界で二人きりになったような錯覚の中で、稀にすれ違う自動車が、他者の存在を思い出させてくれる。  
駅からここまで、俺と綾咲の間に会話はほとんどなかった。たまに短いやり取りを交わすだけで、後は無言で肩を並べている。  
別に緊張しているわけじゃない。むしろ逆だ。ひどく心は穏やかで、程良く力が抜けている。  
こんなことは今まで一度もなかった。二人の時はいつも話の種を捜していたような気がするのに。  
遊園地で喋りすぎた影響か、それとも無言でも居心地が悪くならないくらいの関係になったのか――あるいは、その両方だろうか。  
何にせよ、この雰囲気は嫌いじゃなかった。彼女もそう思っていてくれるといいのだけれど。  
横断歩道の前で足を止め、信号が青になるのを待つ。肺から息を吐くと、白い煙がゆらりと広がり、消えていく。  
「雪、降りませんね」  
夜空を見上げながら、綾咲がポツリと呟いた。  
つられるように視線を上げるが、星の見えない空からはまだ雪の降る気配はない。  
「ホワイトクリスマスは難しいかもな」  
答えた俺の言葉に、彼女の表情がわずかに曇る。俺は何気なく浮かび上がった疑問を、そのまま彼女に投げ掛けた。  
「やっぱり、クリスマスには雪、降ってほしいもんか?」  
恋人のロマンチックな夜を演出するには最適かもしれないが、残念ながら俺は悲しきロンリーウルフ。  
子供の頃ならいざ知らず、この年になってからはホワイトクリスマスを願ったことはない。  
綾咲も俺と同じく独り者のはずだが、女の子にはまた違った思いがあるのかもしれない。  
「そうですね……」  
と、そこで信号の色が変化する。俺達はどちらからともなく歩き出し、車輪の回る音が二人の間に流れた。  
横断歩道を渡り終えたところで、自分の中の感情を整理するように、綾咲がゆっくり口を開く。  
「私、今日とっても楽しかったんです。みんなと一緒にお昼を食べて、遊園地で遊んで、ナイトパレードを見て。  
こんな楽しいクリスマス、初めてでした」  
思い出を反芻しているのか、綾咲から笑みがこぼれる。  
「今日は私にとって、きっと一生忘れない、特別な一日なんです。だから終わってしまうのが少し寂しくて。  
でもホワイトクリスマスになって、雪で街が綺麗に色づいたら――眠るまで笑顔でいられそうな気がするんです。  
きっとみんなもこの雪を見てるって、そう思えるから」  
そこで彼女は顔を向け、いたずらっぽく微笑んだ。  
「私、わがままでしょうか?」  
俺は小さく首を振り、民家の庭のクリスマスツリーに目をやる。  
その先には姿を見せない本物の代わりに、月の光を受けて輝く星飾り。  
「いいんじゃないか? もうサンタさんからプレゼントも貰えないんだ。それくらいお願いしても罰は当たらないだろ」  
「篠原くんがそう仰ってくださるなら、安心です」  
二人してくすっと笑って、また帰路を歩み始める。  
不思議なものだ。こんな雰囲気で綾咲と冗談を言い合える日が来るなんて、春には想像もしなかった。  
ちょっと珍しいお嬢様の転校生、葉山の友達。  
そんな認識だったのに、今はこの時が少しでも長く続けばいいと思う自分がいる。冬休みになれば、しばらくは彼女に会えない。  
あぁ、確かに彼女の言う通りだ。恋するってことは嬉しくて楽しいけど、不安で寂しいよな。  
だからせめて、幸せなこの日のことは忘れないでおこうと思った。  
 
そしてその時間が終わりを告げる。  
互いの家への分かれ道に辿り着き、俺達は足を止めた。名残惜しさが胸を占めるが、いつまでもこのままというわけにもいかない。  
それじゃあ、と別れの挨拶を投げようとしたところで、  
「あの、篠原くんっ」  
綾咲に強く名を呼ばれた。視線を向けると、唇をキュッと惹き結んだ綾咲が、じっとこちらを見つめている。  
その瞳に宿っているのは――決意、だろうか。意志のこもった眼差しに、思わずたじろいてしまう。  
「えっと、どうした?」  
戸惑い混じりに問うた俺に、彼女は一度大きく息を吸って、一歩だけ距離を詰めた。  
その勢いのまま、彼女は口を開く。  
「私っ…………その……」  
しかし言葉はそれ以上紡がれずに、やがて消えていった。  
声量と共に決意も萎んだのか、綾咲からは張りつめた雰囲気が失せている。  
彼女は小さく息を吐き、  
「いえ、やっぱり何でもありません。ごめんなさい」  
いつもの笑顔に戻ってそう言った。『何でもない』わけはないのは明らかだったが、追求するのも憚られる。  
取りあえず気にしないことにして、場の空気を変えるために別の話題を持ち出す。  
「ま、今日は色々あったしな。人も多かったし。結構疲れたんじゃないか?」  
「いえ、そんなに疲れてはいませんよ。本当に楽しかったですし。次の機会があったら、またみんなで行きませんか?」  
「その時は携帯電話を忘れないように」  
そんなやり取りを交わして、一区切り付いたところで綾咲が丁寧に一礼する。  
「それでは失礼しますね」  
一瞬離れがたい感情が胸を突いたが、それを押し込めて普段通り手をひらひらと振った。  
「ああ。それじゃまたな」  
「はい。また」  
段々と小さくなっていく後ろ姿を見送る。  
曲がり角でこちらに小さく手を振ってから、彼女は完全に姿を消した。  
それを見届けると、俺はぎゅっとハンドルを握った。そして自宅へと自転車を走らせようとして――  
「…………」  
けれど、何故かそんな気になれなかった。  
その場に愛車のスタンドを立てて、壁に背を預ける。ダウンジャケットのポケットに手を突っ込むと、じんわりとした痺れが手に広がった。  
そのまま何をするわけでもなく、ただ空を見上げ、佇む。  
夜空の様子は先程と変わらない。星は見えず、雪も降らない。  
吐き出した呼気だけが白く色づき、天へと昇っていく。すっかり冷え込んだ身体は、瞼すら冷たい。  
時折通り過ぎる人がチラリと視線を向けてくるが、すぐに興味を失い目を逸らす。  
お喋りにしながらすれ違う女子高生が、喧噪を残して去っていく。  
耳に届くのは風の音と、どこかの民家から微かに流れてくるジングルベル。  
漠然とした寂寥感と、倦怠感。そんなものに身を浸しながら、雪が降ればいいのにと、ぼんやりと考えていた。  
「――篠原?」  
それを打ち破ったのは、聞き覚えのある声だった。  
億劫に顔を動かすと、良く見知ったポニーテールの少女が視界に飛び込んでくる。  
「こんなところで何してんの?」  
駅前で別れたときと同じ格好、変わらない口調で尋ねてくる彼女に引っ張られるように、思考が普段の調子を取り戻す。  
「うむ。サンタクロースというと基本的にひげ面の爺さんを想像するが、  
もし本当に爺さんしかなれないとするならサンタの社会も高齢化で大変だな、  
そろそろ新しい血を取り入れるべきなのではないかというどうでもいい心配をしていた」  
「うん。ホントどうでもいいわね」  
一切の躊躇無く断言する葉山さんの優しさに、わたくし涙が止まりません。  
「――で、どうしたのよ?」  
重ねて聞いてくる葉山に、俺は仕方なく正直に打ち明けるとする。  
といっても、何故こんなところで突っ立っているのか、自分でもよくわかってないのだが。  
「まぁ、何となく……」  
俺の答えに葉山は綾咲の家へと続く道を見やり、  
「優奈と何かあったの?」  
「いや、別にないぞ」  
「ふーん」  
疑わしげな目で見られても、本当に何もなかったのだからこれ以上は答えようがない。  
 
「つーか俺にはお前がここにいる方が不思議だよ。何故こんな所を彷徨っている?   
……ん? ひょっとして迷子か?」  
「昼間思いっきりはぐれたあんたが言うセリフ?」  
「……その節は誠に申し訳ありませんでした」  
繰り出した軽口は見事にカウンターで返された。まさしくその通りなのでぐぅの音も出ない。  
厳しいがこれが世の掟、敗者に許された権利は勝者を称えることのみ。  
「悔しいが認めざるを得ないな。……葉山、お前がナンバーワンだ」  
「あんたの中でどんな物語が完結したか知らないけど、取りあえず辞退しておく」  
頂点の称号をすげなく投げ返すと、葉山は手に持っていた小さな紙袋を示して見せた。  
「優奈から借りてたCD。今日渡すつもりだったんだけど、すっかり忘れてて。今から返しに行くところ」  
ケーキを家族に渡して一度着替えのため部屋に戻ってから思い出したのだという。  
どうやら俺は結構な時間、ここでぼうっとしていたようだ。  
「休み明けでもいいんじゃないか?」  
「優奈はいつでもいいって言ってくれてたんだけどね。でも冬休みの間、ずっと気にしておく方が精神的に良くないでしょ、っと」  
そう説明しながら彼女は俺へと近付いてきて、  
「……おい」  
「ん? 何?」  
自転車の荷台に女の子座りした葉山が俺を見上げた。  
「まさか運転手をさせるつもりじゃないだろうな」  
「いいじゃない、送ってよ。どうせ暇なんでしょ」  
若干あどけなさを残した瞳で、彼女は笑った。俺はため息を吐いて、頭を掻く。  
「貸しにしとくぞ」  
断るのも面倒になって、俺は自転車のサドルに跨った。後ろ手に紙袋を受け取ると、前面に設置されているカゴに放り込む。  
地面につけた両足を蹴り出すと、ガタンという衝撃と共にスタンドが上がった。  
「いいわよ。篠原が今まで溜め込んだ借りを全部返してくれるなら」  
「相殺でお願いします」  
グッとペダルに力を込め、俺は愛車を発進させた。  
車輪が回転し景色が動き出すと、冷たい空気が風になって吹き付けてくる。  
そんなに急ぐ用事でもないだろうと判断し、緩やかな速度を維持することにした。あんまりスピード上げると寒いしな。  
チラリと後ろに目をやると、葉山は慣れた様子で自転車に掴まりバランスを取っている。  
ま、たまにこいつを後ろに乗せることもあるし、当然と言えば当然なのだが。  
俺の視線に気付き、葉山は面白がっているような声を上げる。  
「おおー、速い速い。楽ちん楽ちん」  
「おおー、重い重い」  
瞬間、ひやりとした感触が首筋に。  
「うふふー、篠原? 私が後ろに乗ってるんだから、滅多なことは言わないようにね」  
「はい、マスターチーフ!」  
哀れな子犬のごとく無条件降伏。  
もうちょっと頑張れよという意見もあるだろうが、仕方ないのだ。頸椎の安全には代えられない。  
しかし葉山の奴、送ってもらう立場でありながらドライバーを脅すとは。  
もしかして俺はとんでもない危険物を運んでいるんじゃないだろうか。  
そんな考えを抱きながら、自転車を走らせていく。徐々に高級めいた家が並ぶようになり、現在地が雪ヶ丘だということを教えてくれた。  
それと同時に、緩い上り坂が始まる。だが両足に感じる重量感はさほど無い。  
先程『重い』などと冗談を飛ばしたが、実際は彼女の重みなど大したことはなかったりする。  
しかし葉山でもやっぱり体重は気にするものなんだなー、太りすぎなけりゃいいと思うんだが。  
というかあのスタイルだったら十分すぎてお釣りが来るだろうに。そこは男子と女子の違いというやつか。俺にはいまいちよくわからない。  
「わっ、と!」  
坂が終わり平地に差し掛かったところで、段差を踏んだ自転車が縦に揺れた。  
それほど大きな揺れでもなかったが、葉山は体勢を崩してしまったらしく、とっさに俺の腰に掴まってくる。  
「ごめん、思わず力入れちゃった。痛くなかった?」  
少しだけ近くなった声に、正面を向いたまま答える。  
「ああ、ダウンジャケットだったし。別にバランス取りやすいトコに掴まってていいぞ。  
ただし首を締めるのだけは勘弁な」  
「そんなことしたら二人とも転倒するでしょうが」  
「大丈夫だ、俺に構わず先に行け!」  
「いや、そんなに急いでないし」  
「おみやげ忘れないでね」  
「子供か、あんたは」  
という話とも呼べないやり取りを続けているうちに、覚えのある家が見えてくる。  
 
綾咲家には一度しか行ったことがないので少々不安だったが、脳はちゃんと覚えていたらしい。  
凄いぞ俺の記憶力。テストの時ももうちょっと頑張ってくれ。  
徐々に減速していき、門の前で停車する。同時に腰の感触が消え、葉山の両足が地面に付いた。  
「流石に、篠原の自転車だと早いわねー」  
こちらに向き直り賞賛を送ってくる葉山に、カゴに放り込んであった紙袋を手渡す。  
「どうせ帰りも送らせるつもりなんだろ」  
「ここからなら途中まで一緒だし、いいでしょ?」  
「トナカイ使いの荒いサンタクロースだな」  
予想できていたことなので、特に抗議もせず肩をすくめて、自転車を降りた。  
「ありがと」  
まぁ、こんな風に笑顔で礼を言われると、悪い気はしない。  
すっかり冷えて固まってしまった手を揉みほぐしながら、彼女の傍に立つ。  
葉山が門の脇に備え付けられたインターホンを押すと、すぐに応対の声が流れてきた。  
『はい』  
「夜分遅くすいません。葉山ですけど、優奈さんいますか?」  
『あ、由理ちゃん? ちょっと待っててね』  
葉山が名乗ると声が砕けたものに変わり、心持ちトーンも高くなる。  
応対に出てる人は恐らく綾咲が以前言っていたお手伝いさんだろう。どうやら葉山とは知り合いらしい。  
「それにしても、一人で住むには確かに大きすぎるよな」  
インターホンの通話が切れているのを確認して、俺は独りごちた。  
高級住宅街雪ヶ丘基準なら、綾咲宅はそれほど飛び抜けて広いわけでもない。むしろ造りが古い分、少々見劣りするかもしれない。  
だが住人が一人というなら話は別だ。夜中にここで一人っきりって、想像しただけでちょっと怖いぞ。  
綾咲よ、是非ともお手伝いさんにはローテーションで泊まっていってもらいなさい。  
などと余計な心配をしていると、ガチャリと鍵の外れる音がして、扉が開いた。  
しかし姿を見せたのは綾咲ではなく、還暦ほどの年齢のお手伝いさんだった。  
「あ、石井さん」  
葉山がお手伝いさんの名を呼ぶと、彼女は困ったような笑みを浮かべながらこちらに歩いてきた。  
門を開き俺達の前で立ち止まると、申し訳なさそうな口調で告げる。  
「ごめんなさいね、由理ちゃん。優奈ちゃんまだ帰ってきていないの」  
「えっ、そうなんですか」  
驚きを隠せない俺達に、石井さんは頷く。  
「そうなの。さっき『少し寄り道してくる』って電話があったのだけど。何処に行ったのかしら?」  
石井さんと同様に俺も首を傾げた。  
俺はあの後もずっと同じ場所で佇んでいたが、綾咲には会っていない。つまり駅に戻ったということはない。  
でもこの辺りは民家ばかりで、行くところもないしなぁ。  
「あら? そちらの男の子は?」  
三人で頭を捻っていると、石井さんが俺の存在に気付いたらしい。ここは軽く自己紹介をしておこう。  
「初めまして。通りすがりのトナカイです」  
「真面目にやれ」  
葉山に睨まれてしまったので、背筋を正し気合いを入れて自己紹介テイク2を敢行する。  
「初めまして。気が向いたときだけあなたの街の運び屋さん、篠原タクシーです」  
「ごめんなさい石井さん、彼ちょっと残念な子なんです」  
待て葉山、その称号は非常に不本意だぞ。  
不当な扱いに抗議しようとしたが、石井さんのころころした笑いがそれを遮った。  
「そうなの、あなたが篠原くんなの。優奈ちゃんとクラスメートなんでしょ? いつも話は聞いてるわー。  
あ、ごめんなさい。私ったら名乗りもしないで。この家で働かせてもらっている石井と申します」  
「あ、はい、どうも……」  
急に饒舌になった石井さんに気圧されつつ、初めて会う人が自分のことを知っているとわかって、妙に照れくさい気分になる。  
同時に綾咲が家でも俺の話題を口にしてくれているのが何だか嬉しかった。  
「それで由理ちゃん、優奈ちゃんに急ぎの用事があるの? それとも渡すものがあるのかしら?」  
俺を解放してようやく本題に戻った石井さんに、葉山が紙袋を持ち上げてみせる。  
「ええ。これを返しに来たんですけど」  
「だったら私から返しておきましょうか?」  
愛想良く請け負ってくれる石井さんに、葉山はお願いしますと頭を下げた。  
「はい、確かに預かりました。それじゃあ二人とも、いいクリスマスを」  
そう残して家の中へ消えていく石井さんを見送ってから、俺と葉山は止めてある自転車の元に赴いた。  
一際冷たい風が吹いて、反射的に体を震わせる。もう身体は芯まで冷えきっていて、肌が露出している部分が痛みを訴えている。  
もしかしたらこの冬一番の寒さかもしれない。  
 
「でも優奈、どこ行ってるんだろ」  
独り言のような言葉が葉山の口から漏れるが、俺も彼女が求める答えを持ち合わせてはいない。  
「さぁなぁ。途中まで一緒に帰ったけど、寄り道するなんて聞いてないな」  
「確かあの娘携帯持ってないはずだけど、駅の電話ボックス使ってた?」  
俺は首を横に振りながら、そういえば綾咲が携帯を所持していなかったことを思い出す。  
「いや、駅からまっすぐ帰ってきて、いつもの所で別れた。  
その後俺はお前が来るまでずっとあの場に居たから、引き返して駅に行った可能性は無いな」  
もちろん別のルートを使えば別だが、と付け足す。しかし遠回りになるだけなので、考慮に入れなくても良いだろう。  
だが駅の方面ではないとすると、綾咲が何処に向かったのか見当も付かない。電話ボックスだってこの辺りにはそうそう設置されてないだろうし。  
葉山はしばらく腕を組んで唸っていたが、やがて降参するように大きく息を吐いた。  
「ダメ、思いつかないわ。篠原、あんた優奈が行きそうな場所に心当たりある?」  
何を言い出すんだ、この女。親友のお前がわからないのに俺が知っているわけがないだろう。  
「あのなぁ、そんな場所――」  
ない、と答えようとした瞬間、脳裏に一つの光景がよぎった。  
茜色の空。黄金色の光。  
『ここからの景色は、この公園だけのものですから。だから素敵なんですよ』  
彼女の言葉。  
もしかして、そうなら。そうだとするなら、俺は。  
「……篠原?」  
黙り込んだ俺を怪訝に思ったのか、葉山が名を呼んでくる。  
「悪い、帰りの送迎、パスさせてくれ。大事な用事を思いついた」  
俺は自転車のハンドルを手に取ると、勢いよくスタンドを跳ね上げた。ひやりとした冷気が指に伝わるが、まるで気にならない。  
「何、いきなり? もしかして優奈のいそうな場所思いついたの?」  
質問に答えず、俺はサドルに跨った。それから傍にいるポニーテールの少女を見上げる。  
不思議なものだ。一ヶ月前、こいつからの提案を受けなければ、決してこんなことはしなかっただろう。  
「あと、新学期からの弁当はいらないわ。すまんがあの契約、破棄させてくれ」  
「え?」  
驚きで目を丸くしている彼女に、俺は不敵に笑って見せた。  
「今から当たって砕けてくる」  
「ちょっと、篠原――!?」  
葉山の制止を振り切って、俺はペダルに体重を乗せた。  
綾咲があの場所にいるかどうかなんて、本当はわからない。近くに公衆電話があり、駅の方向とも違うので、一応条件には合う。  
けれどこんな時間にわざわざ女の子一人で向かう所だとは考えにくい。  
だが奇妙な予感があった。その場所に彼女がいるという、確信めいた予感。  
彼女のことを知り、彼女への恋を自覚した、雪ヶ丘公園。  
そこへ向かって、俺は自転車を走らせた。  
 
 
風が吹き付ける。なけなしの体温を奪われて、手足が固まりそうになる。  
震えからかハンドルは安定せずガクガク揺れて、タイヤの軌道がぐちゃぐちゃに曲がる。  
緩やかな坂道が、やけに急勾配に感じる。肺がすぐに酸素を欲して、呼吸が荒くなり余計に体力を奪う。  
心臓が激しく胸を打ち、痛みさえ覚える。いつもは何て事のない距離なのに、公園までがやけに遠い。  
だけど俺は走る。止まってしまったら、この決心が鈍るような気がして。そんな気持ちで彼女の前に立つことは出来ないから。  
だから、走る。ペダルを踏み込み、愛車と共に彼女の元へ向かう。  
走りながら甦るのは、綾咲との思い出だ。  
第一印象は、この辺りで見るのは珍しい、ただのお嬢様だった。  
少しだけ話すようになって、ちょっと変わった、でも普通の女の子だとわかった。  
そして葉山のおかげで一緒にいる時間が増えて、色々と綾咲のことを知った。  
きっとあの公園で想いに気付く前から、俺は彼女のことが好きだったんだろう。ただそれを認めなかっただけだ。認めるのが怖かっただけだ。  
でも今は胸を張って口に出せる。  
俺は綾咲が好きなんだって。  
どうしようもなく好きなんだって。  
ふたり一緒の時間を幸せに感じるくらいに好きなんだって。  
だから――――  
 
俺はこの恋を終わらせようと思う。  
 
本当は胸の奥にずっと閉じこめておくつもりだった。  
ずっと隠し続けて、自分を騙し続けて。気持ちと記憶が風化するまで、鍵を掛けておくつもりだった。  
けど、無理だった。綾咲、お前は正しかったよ。  
恋する気持ちは止められない。これは世界でたった一つの、俺だけの恋だ。  
人を好きになることを怖がっていた、嘘つきで臆病者の俺が落ちた、本当の恋だ。  
告白の結果なんて百も承知している。この先にはハッピーエンドなんか用意されていない。  
だけど彼女にこの気持ちを伝えられたら、少しだけ前へ進めるような気がする。  
胸が張り裂けそうな痛みはしばらく癒えないだろうけど、また誰か好きになることが出来そうな気がする。  
そして何より、この想いをなかったことになんてしたくないんだ。  
だから彼女に会おう。たとえそれで幸せな時間が終わることになっても。恋を終わらせることになっても。  
坂を上りきると、目指していた公園が現れる。その奥、以前夕日を見た場所に、見覚えのある赤いコートの後ろ姿があった。  
最後の力を振り絞って、公園の中へ突っ込む。  
そういや自転車進入禁止だった気がするが、今だけ見逃してもらおう。そんな考えが一瞬頭に浮かび、すぐに消える。  
必要なことは、やらなきゃいけないことは、ただ一つだけだ。  
「綾咲ぃぃぃっっっ!!」  
彼女の名を叫んだ途端、ぐらりと世界が傾いた。  
激しい金属音と共に容赦なく衝撃が襲いかかる。遅れて、自分が転んだのだと理解した。  
「篠原くん!? 大丈夫ですか!?」  
綾咲が駆け寄ってくる気配がする。俺はそれを手で制し、ふらつきながら立ち上がった。  
息を吸い込むと、冷たい空気が肺を刺激し強く咳き込んでしまう。  
口の中はカラカラに乾いていて、なのに喉の奥だけが粘ついている。身体のあちこちが痛むが、そんなものに構っている余裕はない。  
虫の鳴き声のような音が耳に届き、チラリとそちらへ目をやると、愛車が地面に横たわったまま虚しく車輪を空転させていた。  
すまん相棒、少しだけ我慢してくれ。  
心の内で短く謝罪すると、ようやく整った呼吸を引き連れて俺は顔を上げた。  
目の前には、驚きと心配を混ぜ合わせた表情で綾咲が立っている。  
ごめんな、びっくりさせて。しかもまだ転んだときの汚れも落としてないや。いや、ホント格好悪いな俺。  
「どうしてここに……?」  
彼女の問いに、俺は視線を真上に向ける。そこには綺麗な夜空が広がっていた。  
流石、聖なる夜は伊達じゃない。願ってみるもんだ。  
――星が見える。  
俺は綾咲を見つめると、ありったけの想いを乗せて、  
「俺さ、綾咲のことが好きだ」  
その言葉を告げた。  
空から雪が舞い落ちるようにゆっくりと彼女は言葉の意味を理解して――息を呑み、驚きの色に瞳を揺らした。  
信じられないものを耳にしたように、そのまま固まってしまう。  
お互い指先一つ動かさず、静けさが世界を覆う中、俺は何だか不思議な気分に包まれていた。  
脈は早くて心臓は騒がしいのに、何故か心は落ち着いていて、満足感に溢れている。これなら大丈夫だ、と確信が湧いた。  
彼女のどんな答えでも、笑って受け入れられる。  
 
そして奇跡のような時間が終わりの鐘を鳴らす。  
彼女はその震える唇を開き、  
「――はい。私も篠原くんのこと好きです」  
微笑みと共に、そう言った。  
俺は拳を握りしめてその事実を受け止める。  
答えはわかっていた。ふられる覚悟は決まっていた。  
泣きたくなるような痛みはやっぱり変わらないけど、でもこれで俺は前に進める。前を向いて歩いていけ………………。  
………………………………。  
……………………………………。  
「…………………………………………え?」  
あれだよね今のは俺が都合のいい幻聴を生み出したんだよねハハハこいつめ仕方のない奴だ正気に戻れぃ。  
「ふつつか者ですが、これからよろしくお願いしますね」  
ぺこりと綾咲が頭を下げ、一枚布が掛かったようにぼやけた頭脳がようやく理解した。  
ええ、篠原さん。これは現実らしいですよ? 幻覚でも幻聴でも幻想でもなく、真実らしいですよ?   
よし、結果が出たところで状況を整理してみよう。  
俺の告白を綾咲は受け入れてくれて、実は両思いだったと判明しました。つまりこれで晴れて恋人同士――  
「何ぃぃぃぃっっっっ!?」  
叫んだ。  
驚愕と歓喜と疑問とが絶妙なハーモニーとなり口からほとばしった。その声、まさに天を貫く矢のごとし。ごめん自分でも訳が分からない。  
っていうかどうしてこんな展開にいや嬉しいんだけど今にも喜びの奇声を上げそうなんだけど  
それよりあり得ない事態に身体が硬直しているというかああああああああ。  
さっきまでの穏やかな気持ちは何処へやら、心臓がガンガン銅鑼を鳴らして止まらない。  
顔は今にも火を噴きそうに熱くて、突然走り出したい気分が襲ってくる。  
落ち着け俺、冷静になるんだ!   
いつものようにクールな姿を彼女に見、カノジョってことは恋人って事でつまり両思いで告白成功であああああ。  
駄目だ落ち着くなんて無理だ不可能だ当たり前だっ! ならこのまま突っ走れ! そして世界の謎を解け!  
「ちょ、ちょっと待て綾咲っ! 俺でいいのか? つーか好きな奴がいるとか言ってなかったか!?」  
混乱した頭に浮かんだ問いを、整理もせず綾咲にぶつける。彼女は可愛らしく小首を傾げて、  
「はい。好きな人って篠原くんのことですけど」  
「マジですかっ!」  
反射的に口走った俺に、綾咲ははにかみながら頷いた。  
その姿に胸のど真ん中を打ち抜かれる。つーか、ヤバイ。今彼女に触れたら本気でどうにかなりそうだ。  
視線を逸らすことによって抱きしめたい衝動を必死に抑えつつ(でも視界から完全に外せない。だってスゲー可愛いし)、巡りの悪い頭で考える。  
嬉しい。嬉しいが、予定と違う。つーか聞いていた事実そのものが違わないか?   
綾咲が好きなのは俺だという。いつからだ? 一体何がどうしてる? 何を間違えている?  
俺の思い違い聞き間違いか? いやそもそも前提からしておかしかったのでは? ああもう頭がグチャグチャで何が何だか――  
「あの……」  
纏まりのない疑問に思考を陥らせていると、綾咲が俺をじっと見上げていた。  
心なしか表情を不安で覆った彼女が、胸に手を当てておずおずと尋ねてくる。  
「もしかしてさっきの告白って、からかっただけ、なんですか……?」  
その声が泣き出しそうな子供のようで、一瞬呆気にとられ、  
「は? ……いやいやいやいや! ない! それはないから!」  
我に返ってから全力で否定した。力の限り否定した。  
「俺は本当に綾咲のことが好きだから!」  
そして力を入れすぎて再告白までしてしまった。  
うあ何やってんだ俺、と恥ずかしさに悶えそうになるが、綾咲が安堵の息と共に微笑みを浮かべるのを見て、やっぱりこれで良かったんだと思い直した。  
変わり身早くて悪いかこちとら色ボケ中だこんちくしょう!  
「何でそう思ったんだ? えっと、そんな態度取ってた?」  
「その、凄く驚いてましたし、何だか困っているみたいに考え込んでいらしたので、  
ひょっとしてからかわれただけなんじゃないかって思ってしまって……」  
綾咲の答えに、浮ついていたさっきまでの自分を殴りつけたくなる。  
そりゃ告白のすぐ後に目を逸らして考え事なんて、不安にさせて当然だろうが。反省と後悔が一気に襲ってきたが、それらは全部後回しだ。  
 
俺は綾咲の目を見てから小さく息を吸い込み、  
「あ……」  
意を決して彼女の手を取った。  
長い間冬の空気にさらされて、すっかり冷たくなってしまっているお互いの手。  
それでも感じる体温と柔らかな感触が、愛しさを伝えてくれる。  
「不安にさせて、ごめん」  
彼女が俺の手を握り返し、触れあう面積が大きくなる。  
ただそれだけで嬉しくて幸せで、穏やかな気持ちになれる。  
「それは私もです。篠原くんがあんなに走ってきてまでくれた言葉なのに、疑っちゃうなんて。  
少し考えれば、篠原くんがそんな嘘つくはずないってわかるのに」  
でも、それが恋なんだろう。  
舞い上がって、心配して、笑って、泣いて、苦しくて楽しくて、手放せない。俺達の恋だ。  
そのまま二人、ずっと手を繋いでいた。  
時折握る力に強弱をつけて、可笑しくもないのにくすくす笑い合う。  
恥ずかしいけど嬉しくて、いつまでもこうしていたい。こんな気持ちは、きっと生まれて初めてだ。  
「そういえば、何を困っていらしたんです?」  
短いのか長いのかよくわからないくらいの時間が過ぎた頃、綾咲が俺の中指の腹で遊びながら聞いてくる。  
そういやわからないことがまだ残ってたなぁ。もうかなりどうでもよくなってきてるけど。  
「あー、そうだな。話した方がいいな」  
彼女も無関係ではないんだし。しかしどこから話したものやらと悩んでいると、  
「――ようやく、追いついた、はぁ、篠原、あんた、突然なんだからっ」  
切れ切れの声が耳に飛び込んでくる。  
聞き覚えのある声色に顔を向けると、そこには肩で息をしている見知った少女の姿が一人。  
そして全ての始まりはこいつからだったと、今更ながら思い出す。  
「あ、でもその様子だと上手くいったみたいね」  
そう言って、葉山由理が笑った。  
 
 
再び雪ヶ丘公園に足を踏み入れると、更に風が冷たくなったような気がした。  
首をすぼめて外気からなけなしの体温を守りながら、そういやもう結構遅い時間なんじゃないのかと脳の端っこが警告してくる。  
一人暮らしの日本男児の俺はともかく、他の二人は女の子だ。早めに帰した方がいいのは間違いない。  
けど、今すぐにってわけにもいかないのが辛いところだ。葉山に全ての種明かしをしてもらわなければ、こちらが落ち着かない。  
例えるなら推理ドラマで犯人を暴いたのに、犯行方法が語らないようなものだ。  
続きは映画館で! おのれ商業主義め。騙されてなるものか。まぁ騙されようにも劇場に行くための元手がありませんが。  
実は綾咲と手を繋いでいたときは真相解明などに興味を失っていたのだが、一旦冷静になると猛烈に気になってきた。  
というか手を繋いだだけで一時的にでも混乱を忘れさせるとは、恐るべきかな綾咲の魔力。  
おのれ恋愛主義めハードボイルドはどこへ行った、という内なる声は多数決の結果、圧倒的敗北により心の墓場に埋葬された。  
俺は左手の中から缶コーヒーを一本抜くと、ベンチに向かって歩き出した。俺に気付いた葉山が、右手を大きく差し出す。  
「ほれ」  
無糖のコーヒーを彼女に手渡すと、葉山は缶を手の中で転がしながら短く礼を述べる。  
「サンキュ」  
しかし何故この女が我が愛車グローバルスタンダード号に座っているんだと訝しんだが、傍らのベンチを見てすぐに理解した。  
「ミルクティー、昼間も飲んでたよな」  
「紅茶、好きなんです」  
ベンチには綾咲が腰を下ろしており、その隣にはスペースが。つまりそこに座れということか。  
いや、いいけどさ。……ききき緊張なんかしてないんだからねっ!  
需要不明のツンデレ要素で強がりつつ、綾咲の隣に腰掛ける。  
少しでも間を持たせたくて、俺は自分のカフェオレを口に運んだ。甘みを帯びた液体が胃に落ちて、内側から温めてくれる。  
どうやら考えていた以上に身体は冷え切っていたらしい。周りを見ると、女性陣も揃って喉を潤していた。  
そうやって三人、しばしの間もたらされた温もりを味わう。  
ちなみにこのコーヒーは葉山の奢りだった。  
葉山は体力を消耗している事に加えパトロン権力があるため、俺がパシリになっていたというわけだ。  
しかし奴の奢りとは。何だか嫌な、というかとんでもない事実が明らかにされそうな予感がする。  
「……で、説明してもらおうか。まさかコーヒーで煙に巻くつもりじゃないだろうな」  
多少ドスをきかせて葉山を睨め上げるが、全く怯えた様子がない。  
彼女は立てた膝の上に余裕の表情で頬杖を付きながら、器用に肩をすくめた。  
「そんなことしないってば。ちゃんと全部教えてあげるわよ。それで、何から聞きたい?」  
「色々あり過ぎるんだが……まず『綾咲がお前のことが好きで告白した』って話はどこ行った」  
「ああ、あれ嘘」  
「薄々は感づいていたけどやっぱりか――――――っ!!」  
今日の夕飯のメニュー並にあっさり語られた衝撃の事実。  
つまり俺が綾咲に告白しようかどうしようか悩んだことや、ふられるための心の準備が全て無駄だったことに。  
あまりに美しすぎるちゃぶ台返しに涙も出やしねぇ。  
「あ、何となくは気付いてたんだ? いつから?」  
意外そうにこちらを見やる葉山に、胸を張って答えてやる。  
「さっき自販機でコーヒーを買っているとき、俺の直感が囁いたのです」  
「遅すぎ。っていうかそこまで来たら感づいたって言わない」  
そんな俺達のやり取りに、沈黙を保っていた綾咲が目を丸くしながら口を挟んできた。  
 
「あの、私が由理さんに告白したって、そんな話になっていたんですか?」  
頷く俺達を確認した綾咲はしばし呆然とした後、  
「ち、違います篠原くんっ! 由理さんのことは好きですけど、それは友達としてであって、女の人にそういう感情を抱いたことはありませんっ。  
男の人だってこんな気持ちになったのは篠原くんだけで、篠原くんしか知りませんからっ!」  
「わ、わかった! わかってるからちょっと落ち着けっ」  
急に身を乗り出し捲したててくる綾咲の肩を押さえながら、必死で宥める。  
つーか近い近い顔が近い。だが誤解を解こうと躍起になっている綾咲は客観的な意識がすっぽり抜けていて、  
俺の方は俺の方で恥ずかしさで顔を逸らそうとする自分と、もっと間近で彼女の顔を見ていたいという自分が互角に戦っていてもう大変。  
そしてこの混沌を引き起こした張本人である葉山は、その様子をにやにやと鑑賞中。誰かこいつに天罰を落としてくれ。  
結局綾咲が冷静になったのは、たっぷりと俺への想いを語り尽くした後だった。  
というかあれは壮大な告白だった。正気に返ってしまうと、もう赤面してうなだれるしかない。  
葉山が「あー、話し続けていい?」と尋ねてくるが、俺達には「どうぞ」と促すことしかできなかった。  
葉山は二、三度咳払いすると、当時を思い出すように視線を宙に向ける。  
「十月の終わりくらいだったかな? 偶然優奈が篠原のこと好きだって知っちゃってね。  
相談に乗っているうちに、一肌脱ぐことにしたの」  
え? その頃から綾咲は俺のことを?   
慌てて綾咲に目を向けると、彼女はしっかりと頷き返してきた。マジか。全然気付かなかったぞ。  
「それで優奈が私に告白したことにして、断りづらいから篠原に手伝ってくれるように頼んだのよ。  
『優奈の興味が篠原に移るように協力して』って」  
そこから先は俺も知っている。ホイホイと弁当に釣られた俺は葉山の提案するままに綾咲との一緒に時間を増やし、  
「そして二人は付き合うことになりましたっと。こんな感じかな」  
話を締めくくり、葉山は俺達を順に眺めた。綾咲は「そういうことだったんですね」と感心しているが、俺はそこまで素直じゃない。  
「弄ばれたっ! 俺の1/3の純情な感情が弄ばれたっ!」  
大仰に嘆いていると、綾咲が不思議そうな顔をして聞いてくる。  
「三分の一しか純情じゃないんですか?」  
「残りはチキンハートと下心で構成されています」  
「えーっと……」  
困ったような笑みを綾咲が浮かべるが、俺は気にせず葉山へと視線を向けた。  
まだ腑に落ちない点がいくつかあるので、それを確認しなければならない。  
「まぁ大体の所はわかったが、何でそんなややこしいことを」  
そこまで遠回しにしなくても、綾咲に気持ちを告げさせるだけで良かったんじゃないか。  
俺の問いに、葉山はあっさりと答える。  
「だってあんた、逃げるでしょ?」  
けれどその瞳は俺の深い場所までも見透かしているようで、何も反論できない。  
「実は私が話を聞いたときには、優奈はもうあんたに告白する気だったの。  
でも作戦があるからってしばらく待ってもらった。今告白しても篠原は冗談って事にするだろうなって思ったから」  
缶コーヒーを最後まで飲み干し、彼女は続けた。  
「別にそれが悪いって言うわけじゃないけど、優奈の気持ちには本気で答えてあげて欲しかったの。  
受け入れても断っても、それが本気じゃないと優奈が可哀想だから。だからこんな回りくどいことをして、優奈とあんたを近づけた。  
優奈がどんな娘かわかって、その上で真剣に気持ちをぶつけてきたら、あんたも冗談じゃ逃げられないでしょ?」  
「全部お前の掌の上か……」  
苦し紛れの呻きは、あっさりと一蹴される。  
「違うってば。人の気持ちなんて他人がどうこうできるものでもないでしょ。  
私は舞台のお膳立てしただけ。一番いい賽の目が出た、ただそれだけよ。  
まぁ予定が狂ったと言えば狂ったんだけど。告白はバレンタインに優奈からさせるつもりだったし。まさか篠原の方が我慢が利かなくなるなんてねー」  
「うるせいやい」  
からかいを含んだ葉山の口調に、拗ねたように横を向く。  
「大体何で今回に限って首突っ込んできたんだ。いつもは自分から進んで他人の恋愛協力なんてやらないのに」  
よく頼み事をされるからか、葉山はその辺りの機微は心得ている。  
頼られない限りは口出しせず、本当に困ったときだけアドバイスを送る。深入りはせず、理由もなく突き放したりもしない。  
この匙加減が絶妙だからこそ、彼女には頻繁に相談を持ちかけられるのだろう。  
もっとも本人は好きこのんで聞き役をやってるわけでもないらしいが。  
 
「ま、そうなんだけどね。でも偶然とはいえ知っちゃったし、あんたは当然として優奈もこういうことには不器用みたいだったから」  
そして葉山は茶目っ気たっぷりに微笑む。  
「二人とも私の友達だし、ちょっとお節介してみた」  
その表情を見たら、もう何も言い返すことが出来なかった。  
こいつが本当に俺達のことを考えて行動して、その結果を祝福してくれているってわかるから。  
後頭部をガシガシ掻き、ため息を吐く。気恥ずかしさと嬉しさと、してやられた悔しさが入り交じった不思議な感覚。  
そんな状態では、皮肉の一つも返せやしない。少しひねくれるだけで精一杯だ。  
「よくも騙してくれたなー」  
「騙される方が悪いのよ」  
俺の棒読み台詞に葉山は満足げに笑って、自転車から腰を上げた。  
一度大きく全身で伸びをして、俺達へと向き直る。  
「それじゃ、一足先に退散させてもらうわね。篠原、ちゃんと優奈を送ってあげなさいよ」  
「でも今の時間だと、由理さんお一人では危なくありません?」  
別れの挨拶を送ろうとする葉山を、綾咲が止める。  
というかお嬢さんや、こんな時間に公園に来ていたあなたが言いますか。  
だが綾咲の心配を杞憂だというように葉山はひらひら手を振って、  
「大丈夫よ。この辺は治安もいいし、篠原の自転車借りていくから」  
「相棒ぉぉっっ! 必ず、必ず助けに行くからなぁぁっっ!」  
「コラそこ。勝手に悲劇の別れを演出して盛り上がるんじゃない」  
半眼で葉山が指摘してくるが、心の友と引き離される悲しみに俺の涙は止まらない。だって初耳だし。  
せめて本人に許可を取ってからにしましょうや、葉山さん。  
「まったく……。あんた、私を悪の大魔王か何かだと思ってない?」  
「いや、どっちかって言うと甘言を弄し他人を操るタチの悪いお節介サンタ」  
「……今日だけは反論しないであげる」  
不本意そうに呟き、自転車のスタンドを上げる。  
ハンドルを握りサドルに跨ってから、葉山は俺へと含みのある視線を投げてきた。  
「あ、そうそう。新学期からのお弁当も楽しみにしておきなさいよ」  
「は? どっちにしろ契約はもう終わりだろ?」  
不可解なことを告げてくる彼女を怪訝に見やる。  
契約はどちらかが破棄するか、決着が付くまで。俺と綾咲の関係が変化した以上、奴に弁当を作る理由など無いはずなのだが。  
俺の顔を面白そうに眺めつつ、葉山はいたずらが成功した子供のような口調で最後の種明かしをする。  
「あれ、全部優奈が作ってたの」  
「な、何?」  
頭に理解が追いついていない俺に、葉山が懇切丁寧に説明してくれる。  
「優奈が料理教えて欲しいって言うから、なら篠原への報酬は優奈のお弁当でいいかなーって閃いて。  
練習にもなるし、一石二鳥でしょ? あ、ちゃんと篠原の好きなおかずと味付け、みっちり仕込んでおいたから」  
「なっ、お前、そんな素振り一度も……」  
驚きで単語が上手く文にならない俺に、葉山は得意そうに自分を指さした。  
「私の中学時代の部活、忘れた?」  
瞬時に脳裏に甦る漢字が三文字。その音をゆっくり葉山が紡ぎ出す。  
「え・ん・げ・き・ぶ」  
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!」  
K・O。完膚無きまでにマットに沈んだ俺の上を、葉山の快活な別れの挨拶が通り過ぎていく。  
「それじゃ二人とも、あんまり遅くならないようにね」  
「あ、はい。由理さん、ごきげんよう」  
車輪の回る音と共に葉山の気配が遠ざかっていくが、見送る気力もありゃしない。  
敗北感を指の先までたっぷり塗りつけられた男は、哀れ、空を見上げるだけだった。  
あぁ、今日は月が綺麗だなぁ。  
「あー、ちくしょう」  
完敗。胸を占めるのはそれだけだ。それも完敗中の完敗、完全敗北だ。  
後味すらも悪くなく、何度一からやり直そうが同じ選択をするしかないというのがまた極めつけだ。  
まったく、ホントとびきりタチが悪くて、友達思いのサンタクロースだよ。  
 
肺に染み込んだ冷たい空気を吐き出してのろのろとベンチから身を起こすと、こちらに顔を向けた綾咲が視界に映った。  
その瞳は恋人同士になる前と同じようにまっすぐ俺に向けられていて、本当に彼女が以前から俺を好きでいてくれてたんだと得心する。  
「綾咲は知ってたのか? 葉山の計画」  
そう言えば綾咲は最初こそ慌てていたが、後は大人しく葉山のネタバレを聞いていた。  
俺ほど驚きはなかったということは、勘のいい彼女のことだ、色々と気付いていたのかもしれない。  
しかし綾咲は首を横に振り、  
「いいえ。私も全然聞かされていませんでしたよ。だから私が由理さんに告白したことになってたって耳にしたときは、凄く驚きました」  
その後の自分の言動を思い出したのか、綾咲の頬がちょっと赤くなる。  
いや、あれはあれで可愛かったし嬉しかったんだけどね、うん。  
「でも、お弁当のことは予想してました。  
教えてもらったわけではないですけど、自分が食べるわけじゃないお弁当を毎日作ってくれって頼むんですから。  
ちゃんと『日々飢餓と闘う味覚王』さんの感想も伝えてくれますし」  
それは俺のことだな、きっと。昔、葉山の前でそんな称号を名乗ったことがあったような気がする。  
「不安にはならなかったのか? 自分が作った物が、葉山が作ったと思って俺が食べてるって……」  
もし葉山がその気なら、それを利用して俺と親密になることが可能だった。  
もちろん俺も葉山も互いに恋愛感情はないし、綾咲もそのことはわかっている。  
そもそも弁当で気を引くなら葉山自身が作った方が手っ取り早いし、効果的だ。残念ながらあいつの腕に綾咲はまだ追いつけていない。  
だが、恋愛は理屈じゃなく感情だ。猜疑心を抱いてしまっても無理はない。  
俺の問いに綾咲は目を伏せ、一呼吸置いてから答える。  
「少しだけ考えたときもありました。でも由理さんを信じてましたから。  
きっと由理さんなら、篠原くんを好きになっても正面からぶつかっていくだろうなって。  
本当の自分を好きになってもらわないと意味がない、そう思うだろうなって」  
その綾咲の笑みを見て、二人が想像以上に互いを理解しているとわかった。  
だからこそ葉山は舞台を整えられ、綾咲はその時まで待つことが出来た。出会ってからまだ一年も経ってないのに、コンビネーション良すぎだろ。  
ちょっと嫉妬心が芽生えたのは、内緒だ。  
「あの、篠原くん。私も一つ、伺ってもいいですか?」  
「どうした?」  
心なしか控えめに切り出してくる綾咲に、俺は内心首を傾げながら先を促した。  
また彼女の表情が曇っているような気がして、早く心配の芽を取り除いてやりたくなる。大丈夫だと根拠無く元気付けてやりたくなる。  
「私、詳細までは知りませんでしたけど、由理さんが色々してくれているのには気付いていたんです。  
急に篠原くんと帰る機会が多くなったり、どこかへ出掛けるのにも篠原くんを誘ってくれたりしましたから。  
でも篠原くんと一緒にいられるのが嬉しくて、ずっと黙っていたんです」  
けれど俺の思いとは裏腹に、その口調には隠しきれない重さが滲んでいた。  
それを構成しているのは幾ばくかの不安と、嫌われたくないという怯え。  
「私って、ズルイでしょうか?」  
俺は彼女に見せつけるように、大仰にため息を吐いた。  
基本素直な癖に人をからかったり謎掛けしたり、かと思えば変なところで馬鹿正直だったり。  
でもこれが綾咲優奈という少女で、俺が好きになった女の子だ。  
帽子の上から頭をポンポンと軽く叩き、戸惑う彼女に言ってやる。  
「だったら俺だってズルイ。初めは昼飯目的だったし、好きになってからは綾咲と一緒にいたかったから、葉山の計画に喜んで乗ってた」  
俺の言葉に綾咲の顔が花が咲いたように綻ぶ。そして、  
「じゃあズルイ者同士ですね、私達」  
大事な思い出をしまい込むみたいに胸に手を当てて微笑む彼女に、思わず見とれた。  
一瞬の後、急に気恥ずかしくなって明後日の方向を向くが、そんな照れ隠しを綾咲は許してくれない。  
肘が触れ合うほどの距離まで身を寄せてくる。  
「篠原くん、もう一つよろしいですか? 今度はお願い事なんですけど」  
「あー、何だ言ってみろ。バッグでも財布でも宝石でも好きな物を望むがよい。ちなみに偽物でも手が出ないぞ」  
「そんなのより、もっと大切なことです」  
一途に見つめてくる彼女に負けて、目を合わせる。いつの間にか俺達の手は重なっていて、暖かな体温が互いを行き交う。  
キュッとその指に力を込めて、綾咲が囁いた。  
 
「直弥くんって呼んでもいいですか?」  
ただ呼び方を変えるだけ。けれどそれは俺達のステップには欠かせないもので。  
「ずっとそう呼べたらいいなって思ってたんです。好きになったときから、ずっと」  
どこにでもあって、ありふれていて、なのに二人の間にはたった一つか存在しない、そうするだけで幸せを伴なう通過儀礼。  
「嫌なわけない、というか」  
断る理屈など、あるはずがない。  
「そう呼んで欲しい」  
「はいっ、直弥くんっ」  
耳に届いたその響きは新鮮でくすぐったくて、でも待ちわびていたかのようにするっと心に収まった。  
自然に馴染むのに心が躍る、そんな不思議で優しい音。  
綾咲もその感覚を共有しているのだろうか。何度も何度も、子供のように俺の名を呼ぶ。  
「直弥くん」  
「何だ?」  
「直弥くんのことを呼んでみたくなったんですよ、直弥くん」  
「うあ……」  
いや、確かに嬉しいけど、これは流石に……。  
「どうしたんですか直弥くん? なーおーやーくーん」  
「そうだ! そろそろ遅くなってきたから帰るかっ!」  
くすぐったさに耐えられなくなって、ベンチから勢いよく立ち上がった。  
中断を受けた綾咲は不満げな顔をしていたが、これ以上はこっちの精神がもたん。  
つーかあんまり呼ばれすぎて慣れるのももったいないし。…………待て俺の思考。かなりピンク色に毒されてね?  
「もうちょっと続けたかったのに……」  
「ふくれるな。これからは、いつでも、そう呼んでいいんだから」  
照れを押さえつけながら無理に口に出したため、言葉は途切れ途切れになる。  
そんな腰砕けのセリフでも綾咲ははにかみながら受け止めて、差し出された俺の手を取り立ち上がった。  
「じゃあ、行くとするか」  
名残惜しいが、いつまでもこうしているわけにもいかない。  
俺達の恋は今日でゴールなわけじゃない。明日も明後日も、越えて行かなくちゃいけないんだから。  
そのためには健康第一安全運転。急がず慌てず踏み外さずやっていこう。  
 
「あ、少しだけ待ってください」  
何か思いついたらしい綾咲が俺の手を引っ張ってくる。  
誘われるままに歩いたのは数歩だけ。辿り着いたのはベンチの裏手側、いつか綾咲と一緒に夕日を見た場所だ。  
そこには――光が、広がっていた。  
街の灯り、家の灯り、ヒトの光。星を降らせて散りばめたような、そんな幻想的な光景が冬の世界に満ちていた。  
空に佇む本物の星と月が輝きを舞い上げ、黄金色の粒子が空に浮かび、妖精のように夜の闇を彩っていく。  
そしてその光に照らされる、彼女の姿。  
言葉が出ない。何も言うことが出来ない。瞬きもせずに見つめて、ただそれだけを心に浸していた。  
柔らかな笑みと共に、鈴の音のような心地よい声が俺へと送られる。  
「この場所を教えてもらったときから、ずっと思ってたんです。今度は夜に来て、また直弥くんと一緒にここからの景色を見たいなって」  
踊るような足取りで、綾咲が俺の前に立つ。その姿は夢のように綺麗で、幻想のように美しくて、だけど確かにここにいる。  
「お願い叶っちゃいました。神様からのクリスマスプレゼント、ですね」  
今までで一番幸せそうに微笑む彼女を引き寄せて、抱きしめる。  
腕の中の感触と、触れあう体温と、髪の香り。そこにあるのは優しい現実。世界で一番大切な、俺の恋人。  
「直弥くん……」  
彼女が――優奈が俺の名を呼ぶ。少しだけ腕の力を緩めた。  
手を繋がり、指と指が絡まる。  
もう片方の手で背中を抱き寄せる。  
俺の胸に彼女の手が添えられる。  
彼女が踵を浮かせて、二人の距離が縮まる。  
長い睫が揺れ、潤んだ瞳が俺を映す。  
ゆっくりと瞼が閉じられ、震えも音も時間も、全てが止まる。  
そして――  
 
 
 
 
唇が触れ合った。  
 
 
 
 
心臓に直接届く、少し早い彼女の鼓動。唇の感触も、繋いだ指の強さも、分け合える温もりも、全てが愛しい。  
雪が降っていた。空から穏やかに白い欠片が舞い落ちる。  
抱きしめても、キスをしてもまだ伝わらない、伝えたりない、伝えたい想いがたくさん胸の中にしまってある。  
これからひとつひとつ、彼女と分け合っていこう。  
雪が降り積もるように、ゆっくりと。俺達のペースで。溶けて見失わないように、大事に、強く、離さないように。  
優奈が俺の手を握る。  
俺も握り返した。  
今日はクリスマス。この後に贈る言葉は決まっている。  
精一杯の心を込めて。ありったけの気持ちを乗せて。  
俺の想いを彼女に告げよう。  
 
 
 
(おわり)  
 

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