進んで道化になりたかったわけじゃない。
望んでピエロになったわけじゃない。
他人の幸せを100%自分の喜びに転化できる人間でもない。
だけど主役になる勇気を、俺は持ち合わせていなかった。
だから、ピエロ。中心には立てない道化。
やってみるとそれは案外楽しくて、俺に合っていたけれど。
やっぱり光の中心に、こっそり憧れた。
あいつの言う通り、俺は臆病で、天の邪鬼だったんだろう。
このまま静かにカーテンコールを迎えるはずだった。
しかし幕は引かれなかった。
俺は舞台に引っ張り出され、スポットライトの光を浴びる。
微笑みながら手を差し伸べ、王女がダンスの誘いを待っている。
お膳立ては揃った。あとは勇気の剣を手にし、姫君の手を取るだけ。
ここでやらなきゃ男じゃないだろ?
道化の仮面を外し、ピエロの衣装を脱ぎ捨てる。
現れたのはみずぼらしい一人の男。紛れもない主役。俺自身の姿。
そして始まってもいなかった物語は、ようやく動き出す。
これは、そんなお話。
1枚……2枚……3枚……。
はぁ、とため息を吐く。野口さんが三枚。寂しい。あまりにも寂しい。
本日最後の授業は終了し、教室は喧噪に包まれている。
今日どこかへ寄るだの、欲しかったCDを買うだのといったクラスメイト達の会話が、異国の物語に聞こえた。
「今月出費多かったからなぁ……」
呟きながら、二度目のため息。この三千円とも、すぐにおさらばする予定なのだ。
暦は11月終旬。窓の外では冬将軍様が猛威を振るっていらっしゃるご様子だ。
そろそろとガラス戸を5ミリほど開けると、凍てつく木枯らしが顔面を直撃。息が詰まりそうになったので、慌てて窓を閉める。
「いかん、暖房費をケチれば死ぬ」
篠原直弥、生まれて初めてリアルに凍死の危機を感じました。
やったね、これで僕も大人の仲間入りさっ! と、初体験に迎えられたことに万歳したいところだが、実際出たのは歓喜の声ではなく涙だった。
本格的にまずいかもしれない。
急いで生き残る術を模索するものの、
『暖房費を食費に回すか、食費を暖房費に回すか』
この二つしか思い浮かばなかった。
凍死か餓死か、究極の二者択一。生と死ではなく、死と死の狭間。
やはりここは最終作戦しかないか……。
できれば封印しておきたかった。成功すれば明日への光は得られるが、失敗すれば全てが失われる諸刃の剣。当然素人にはお勧めできない。
だが、残された道はこれしか……。
「ねぇ篠原、時間ある? ちょっと話したいことがあるんだけど」
「うるさいぞ女っ! 俺は今生きるか死ぬかの瀬戸際、コンビニから賞味期限切れの弁当をいかにして手中にするか計画を練っているんだっ!」
「それって犯罪」
「ああそうさ悪いか犯罪さ! 警察は市民を守っても、俺の胃袋は守ってくれないんだっ!」
「落ち着け」
ガン、と頭部に衝撃。一瞬視界がブラックアウトする。
「落ち着いた?」
落ち着かざるを得なくなりました。
痛む頭を振りながら、ゆっくりと顔を上げる。
そこには、長い髪を今時珍しいポニーテールにした女生徒が一人、腕を組んで立っていた。
「いきなり殴るか、ふつー」
しかもグーで。更に破壊力を増すために中指の関節を突出させて。
「あんたにはその方が効果的だから。目は覚めたでしょ?」
女はそう言って、フフンと笑う。
この「傲慢ちき」な「暴力女」の名は「葉山由理」。
全く持って残念なことにこの俺のクラスメートであり、さらには中学時代からの「悪」友である。
「ちょっと、さっきから聞き捨てならないこと言ってるような気がするんだけど。傲慢ちきとか暴力女とか。
ひょっとして私の悪口言ってない?」
「悪口など言ってないぞ。ただ自分の中にあるお前の評価を一部分を、日本語という言語で表してみただけだブッ」
また殴られました。
「ふふふ。あんたとはいっぺん真剣に語り合う必要がありそうねぇ」
いえ、あなたもう語ってます。拳で一方的に。
「誰か、誰か助けてっ! 夫に殺されるっ!」
「誰が夫かっ! 人を勝手にドメスティックバイオレンスの加害者にするんじゃない!」
そんなドキュメンタリーなやり取りをしていると、背後からくすくすという笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、そこにいたのは同じくクラスメートの女子、綾咲だった。
「お二人とも、相変わらず仲がいいですね」
そして微笑みながらとんでもないことを言いやがった。
綾咲は整った容姿に高い学力、特技はピアノでおまけに社長令嬢という、何故こんな田舎の学校に通っているのかわからない、超ハイスペックお嬢である。
ウマが合うのか、よく葉山と一緒に行動しているので、俺ともちょくちょく会話する仲だ。
「優奈、あんたホントにこれを見てそう思うの?」
葉山がそう尋ねると、綾咲は笑みを崩さぬまま、
「だって、とても楽しそうじゃないですか。私も混ぜてもらいたいくらいです」
嫌みではなく、本心から言ってるらしい。ここは一つ忠告をしてやろう。
「綾咲、残念だがお前の目は節穴だ。一度社会の人間関係を勉強仕直してくることをお勧めする。
今のままだと悪い男に騙されるぞ」
「あら、どうしてです? 私、これでも人を見る目は持っているつもりですけど」
綾咲は俺の瞳を覗き込むようにして、そう返してきた。顔と顔が、まつげの本数がわかるほどの距離になる。
突然の急接近に不意をつかれ、俺は思わずのけぞった。自分の身体の内圧が高まっていくのがわかる。
おい、無防備すぎるぞ。これだからお嬢は。
「? どうかしました?」
綾咲が首を傾げると、腰まである長い黒髪がさらりと揺れた。
俺は極めて自然を装いながら、彼女から一歩離れる。でもいまだ動揺中。心臓がロックを奏でてる。
落ち着くための時間が欲しい。神様助けて。
「優奈、あんた私に用事あったんじゃないの?」
救いの手は意外な人物から差し伸べられた。ナイスだ葉山。
「あ、そうでした。私、中庭の掃除当番なんですけど、由理さんは部活とかあります?」
「休みだけど、今日はちょっとこいつに話があるから、先に帰ってよ」
葉山、人を指さすな。っていうか、お前ら一緒に帰ってるのか。新発見。
「わかりました。では由理さん、篠原君、また明日」
「ん。じゃね」
「アイシャルリターン」
「……少しはまともな返事しろ」
綾咲はまたもくすくす笑いながら、教室を後にした。
姿が見えなくなる寸前、ふわりと舞った長い髪に、目を奪われる。だがそれも一瞬だった。
目を戻すと、葉山と視線が合った。何となく気まずさを感じ、ひとつ咳払いをしてから話しかける。
「で、話って何だ?」
「あ、ようやく真面目に聞く気になった?」
葉山はゆっくりと周囲を見回した。まだ帰らず雑談に興じている生徒がちらほら見受けられる。
「ここじゃあまずい話か?」
「ま、そうかな。場所変えるから、ついてきてよ」
葉山はそう告げると、背を向けて歩き出す。俺も薄っぺらい鞄を持ち、後を追った。
途中食堂に寄り、コーヒーを買う。珍しいことに葉山の奢りだった。
カフェオレをちびちび飲みながら校舎を移動する。どうやら葉山は美術室に向かっているらしい。
「ねぇ篠原、あんた優奈のこと好きでしょ?」
いきなりの言葉に、危うく口の中のものを吹きかける。
「おまっ、いきなり変なこと言うな!」
「あれ? 違うの?」
「違う」
きょとんとして聞き返してくる葉山に、きっぱりと否定してやる。
「だって篠原って、優奈をたまに目で追ってるでしょ? それにさっきも結構焦ってたよね?」
……よくわかってやがるなこいつ。
「あれだけ顔を近づけられたら普通焦る。それに綾咲は目立つからな。目がいくこともあるかもしれない」
訂正しているだけなのに、口にすると自分でも嘘臭く聞こえる。葉山も明らかに納得していない表情だ。
脳裏に綾咲優奈の姿が浮かんだ。
腰まで伸ばした、さらさらとした黒い髪。整った顔立ちに柔らかい物腰。
見た目は大人しいお嬢様然としているのに、芯はしっかりしていて、実は短気。
スタイルも良く、出るとこは出て、引っ込むところは引っ込んでる。
「……まぁ、好みのタイプであることは認めるが」
だが、これは恋ではないだろう。
街を歩く可愛い女の子や、雑誌やテレビでアイドルを目にしているときと、同じ感情だ。
漠然とした憧れというやつである。
「好きとか嫌いとか、最初に言い出したのは誰なのかしらとか、そういうんじゃないって。
高嶺の花は遠くで見ているのが一番。下手に近づこうと欲を出したらロウの羽が溶かされるんでな」
我ながら負け惜しみっぽい言葉に、からかい混じりの口調で葉山が斬り込んでくる。
「単に臆病なだけじゃないの? この天の邪鬼。すっぱいブドウの話、知ってる?」
「うるせー。これ以上続けたら俺は帰る」
「はいはい。目的地にも着いたしもう終わるわよ」
いつの間にか美術室の前まで来ていたらしい。葉山は子供をあやすようにひらひら手を振って、ポケットから鍵を取り出した。
くそっ、何かムカつく。
開錠し、中に入る。室内はまだ暮れない太陽の光が射し込んでおり、電灯をつけなくとも充分に明るかった。
俺は自分の教室と同じ、窓際の前から三番目の席に赴き、椅子ではなく机の上に座った。
葉山は俺の一つ前の机に同じく座って、向かい合わせになる。
「今思ったんだが、これって職権乱用じゃないのか、美術部部長」
似合わないことに、こいつは美術部員である。しかも部長だ。中学の時は演劇部で、やはり部長。
見た目体育系なのに(実際スポーツは得意だ)、部活は何故か文化系を選んでいる。
「いいじゃん。今日は休みで誰も来てないし、部長特権ってことで」
アバウトな奴め。
「部長様の仰せのままに。で、話って何だ?」
俺は教室での問いを繰り返す。残念ながら、世間話をしながら相手の口をまろやかにするスキルは持っていない。
持っていたとしてもこいつ相手には使わなかったと思うが。
「んーっと、さ」
葉山は足をぶらぶらさせながら、視線を逸らした。自分から相談を持ちかけてきたくせに、躊躇しているらしい。
こいつにしては珍しいな。
辛抱強く待つ。散々迷った末、葉山の口から紡がれたのは、衝撃的な言葉だった。
「篠原、あんた告白されたこと……ある?」
あまりに意外な内容に、身体が傾きかける。
放課後。誰もいない教室。今まで単なる友人としてしか見ていなかった勝ち気な女友達。そして恋愛に関する質問。
これはっ! このシチュエーションはっ!
「告白か? 告白なのかっ? いいぞ葉山、俺の愛は無限だ。貴様の愛もしっかり受け止めてやろう。
さぁ、俺の胸に飛び込んできなさい」
「誰があんたに告白すると言ったっっ!」
弁慶を蹴られた。泣き所なだけにかなり痛い。まぁ、俺への告白など100%ないと考えたからこそ茶化したのだが。
「じゃあ何だよう。紛らわしい聞き方するなよう」
痛みのあまり幼児化。でも自分でも情けなくなったので、今度は男らしく無駄に胸を張ってみる。
「告白はしたこともされたことも一度もないぞ。付き合った経験もない。手を握った経験すらないぞ」
まさにコンプリート。でも虚しさが心を満たしていくのは何故だろう。
「やっぱり」
葉山は納得したように漏らした。ちょっぴり傷ついた。今夜枕を涙で濡らそう。
「で、それがどうした。まさか俺の恋愛遍歴が聞きたかったわけではあるまい?」
そんなことなら人のいない場所へ移動する必要もないからな。
葉山はまた俺と視線を合わせようとしない。仕方なく、話し出す切っ掛けを引き出してやるとする。
「告白でもされたか?」
「まぁ、ね」
返ってきたのは肯定。あらま、一発で当たっちゃったよ。
葉山が告白されたという事実は、驚きがなかったと言えば嘘になるが、取り立てて騒ぐようなものでもない。
こいつは結構顔がいいし、姉御気質なのか面倒見がいい。さばさばとしているところも、男としては付き合いやすいだろう。
「受けたのか?」
「ううん」
「じゃあ断った?」
「それも、まだ。ちょっと時間が欲しいって、待ってもらってる」
「何だよ。煮え切らない奴だな」
こいつがここまで優柔不断なのも初めてだ。いつも決断は早いのに。
ふと気になった。葉山に告白した奴って誰だ? 葉山をここまで悩ませる相手。ちょっと興味が湧いてきた。
「そーいやお前、一体誰に告白されたんだ? うちのクラスの奴か?」
葉山は答えない。口を真一文字に結んだまま、窓の外を見ている。
「教えたくないならそれでも……」
「………………ぅな」
「何?」
耳に届いた音は、あまりに小さくはっきりと聞き取れない。
俺が聞き返すと、葉山は立ち上がって顔を真っ赤にしながら怒鳴った。
「綾咲優奈っ! 優奈に告白されたのっ!」
「………………え?」
窓を閉め切った美術室の中に、冷たい風が吹いたような気がした。
演劇部の発声練習が、遠く離れた美術室まで響いてくる。
綾咲優奈? 綾咲ってあの綾咲? 綾咲って女……だよな。その綾咲が葉山に告白?
理解はしているのだが、処理が追いつかない。
「えっと、何と言えばいいかわからんが……とりあえずおめでとう?」
何故か祝福の言葉を疑問形で送ってしまった。
「錯乱するなっ!」
錯乱? ああ俺錯乱しているのか。落ち着け俺。動揺を静めるために深呼吸だ。すーはーすーはー。
「二人はそういう関係だったのか。知らなかったよ」
「違うわっ!」
激怒した葉山にテンプルを強打された。頭がくらくらする。しかし脳は快眠後のようにすっきりした。
なるほど、葉山がいつも俺の頭をボコボコ殴るのはこういうわけか。納得。
痛みを堪えつつ、カフェオレで唇と喉を湿らせ、一呼吸置く。
うむ、完璧に平常心を取り戻した。爽やかナイスガイ、篠原直弥復活。
一方葉山はというと、机に座り直し、いじけた子供みたいに膝を抱えていた。
「困ってんのよ、ホントに。下手な断り方して優奈を傷つけたくないしさ、でも付き合うなんてもっと出来ないし……」
「あー、まー、大変だなぁ。頑張れ」
「うるさい。そんな適当な慰めなんて入らないわよ」
ますます落ち込んでしまった。こりゃ本気で悩んでるな。
「ところでユーリィー」
「何で外人口調なのよっ! それと今は下の名前で呼ぶなっ!」
コンボで突っ込まれた。
「じゃあユリユリ」
「変なあだ名付けるなっていうか 勘弁してお願いだから」
ついには懇願されてしまった。ユリユリは泣く一歩手前である。
さすがにかわいそうになってきたので、虐めるのはここまでにしておこう。
「しかし葉山、相談してくれたのはいいが、俺には何も出来んぞ。愚痴ぐらいなら聞いてやれるが。それとも策でもあるのか?」
「策は……まぁ、あると言えばあるかな」
呟いて、葉山が俺を見る。奴の瞳が妖しく光を放った……ような気がした。不吉な予感が背筋を走り抜ける。
彼女は真剣な表情で、俺を見据える。俺も居住まいを正し、耳を傾ける。
「篠原、あんた彼女いないわよね?」
「いかにも」
「優奈は好みのタイプなのよね?」
「確かにそうだ」
「だったら優奈に好きになられてくれない?」
「よし任せとけ。……ってちょっと待てぃ!」
テンポのよい応答の中に、さりげなくもの凄いことを頼まれたような気がして、俺は慌てて会話を続けようとする葉山を遮った。
「お前、今、何かとんでもないことを言わなかったか!? 綾咲を好きになれとか何とか!」
「違うって。優奈に好きになられろ、つまりあんたに優奈を惚れさせて欲しいってこと」
「更にとんでもないわっ! 何考えてるんだお前は!」
怒鳴ると葉山はばつが悪そうに髪をいじりながら、
「いやぁ、あんた優奈が気になってるみたいだし、私も優奈と付き合う気はないし、
優奈があんたに惚れて二人がくっついたら幸せかなー、と」
「自分が嫌な役目を引き受けたくないから俺に押しつけてしまおうという邪悪な意思を、ひしひしと感じるのだが」
俺の全身から溢れる怒りの波動をキャッチしたのか、葉山は誤魔化すように、自分のコーヒーを口に運びながら視線を逸らせた。
俺は身体中の空気が抜けるほどの深いため息をつく。
「あのなぁ……そんなことしなくても、好きな奴がいるとか適当に嘘ついときゃいいだろうが」
「ダメだって。告白する前に聞かれちゃったもん。『由理さんは好きな人とかいます?』って」
「いないって答えちまったのか」
「しょうがないでしょ。まさか優奈に告白されるなんて夢にも思ってなかったんだから」
そりゃそうだな。
「しかし、それにしたってお前の思惑は無謀だろう。こんなもんは策とは言わねぇぞ。非現実的だ」
他人に向けられている特別な好意を自分に向けさせる。それはかなりの努力と、時間と、運が必要なのではないだろうか。
人の心は服みたいに着せ替えできない。よくある陳腐なセリフだが、それゆえ真実でもある。
「うーん、そうかなぁ」
しかし葉山はそうは思っていないようだ。そして、関係ないと思われる話を語り出す。
「優奈って昔からずっと女子校だったのよ。だから同世代の異性と接した経験が私たちに比べて圧倒的に少ないわけ」
初耳だった。俺も綾咲と多少会話はするものの、昔通っていた学校までは知らなかった。
「で、今年の春に転校してきて、あんなことがあったでしょ?」
「あんな……? ああ、『昼休み案内事件』か」
「そう。それで男性不信とまではいかないけど、ある程度拒否感持っちゃったんじゃないかな。
男は下心満載で近づいてくるケダモノばっかりだって」
えらい言われようだが、あの事件に関しては異議を挟めない。
そういえば、あれから葉山が綾咲にあれこれ世話を焼いて、友人になったんだっけか。
「その拒否反応が女に走らせたと?」
「そういうこと。優奈も男に興味がないわけじゃないと思うのよ。だったら男女共学に転校なんかしてくるはずないし」
葉山は俺の正面に顔を向け、両手を合わせて頭を下げた。
「お願い篠原! 協力してくれない? 本当に無理だと思ったらすぐ止めていいから」
その真摯な態度に、俺の心は揺り動かされる。こいつとは中学からの腐れ縁だが、ここまでするのは初めてだ。
俺は腕を組み、瞳を閉じて黙考し、考えに考え、そして結論を出す。
「無理」
「早すぎるでしょ!」
「無理なものは無理だ! そんな夢みたいな解決法に期待するな。現実を見て、もう少しまともな打開策を用意しろ」
優しく諭してやったのだが、葉山は引き下がらない。
「依頼料に手をつけといて、にべもなく断るわけ?」
「依頼料?」
聞き返しながら、怒鳴りすぎて喉が渇いたので、飲み物で潤す。
「そのコーヒー、誰のお金で買った?」
「ブハッ!」
カフェオレ吹いた。
「依頼料!? これ依頼料!?」
「ふっふっふ。引き受けないなら当然、お金は返してくれるわよね?」
罠だ! 騙された! ハメられた!
邪悪な笑みを浮かべながら、葉山が右手をゆっくり俺の前に出す。
「あ、悪魔っ!」
「計画を成功させるためなら鬼にだって悪魔にだってなるわよ。
さぁ篠原、どうするの? お金返す? それとも私に協力する?」
こいつとは中学からの腐れ縁だが、これほどまで恐怖を感じた瞬間はない。
膝を折り屈しそうになるが、気力を振り絞って多少の抵抗を試みる。
「あの、葉山サン? どうしてボクなんでしょうか? もっとハイスペックで適切な人材が他にいるのではないでしょうか?」
でも丁寧語。たかだか120円程度で情けないとか言うな。
今の俺にとっては、10円でもダイヤモンドと匹敵するほど貴重なのだ。
葉山はそんな俺の様子を意に介さず、至極真面目な表情に戻って、答えた。
「男子では篠原が一番優奈と仲がいいから。
知ってる? 下心も何も無しに優奈と普通に話してる男子、篠原だけだよ。優奈もすごいリラックスして喋るし。
じゃなきゃ、教室であんなに顔近づけたりしない」
「でもそれは、葉山の友達だからだろ」
「それだけで充分。理由はもう一つ。あんた意外と口固いから。たとえ断っても、今の話を面白おかしく広めたりしないでしょう?」
これは誉められているのだろうか? 葉山に面と向かって言われると、微妙に照れる。
「納得したなら、引き受けてくれない? 依頼料が不足って言うなら、協力してくれている間は、お昼ご飯の弁当、こっちで用意するからさ」
弁・当。その単語を俺は聞き逃さなかった。弁当弁当弁当! 無意味にリピート。弁当=昼飯! 無意味に変換。
昼飯さえ何とかなるなら、今月の仕送りまで生きていける。犯罪に手を染める必要もない。
だが……。
いいのだろうか。これは悪魔の取引ではないだろうか。
メフィストフェレスと俺は契約しようとしているのではないか? 待っているのは破滅の道、みたいな。
しかし昼飯。逆らいがたい蠱惑的な響き。
俺の迷いを見て取ったのか、葉山が再度、頭を下げる。
「篠原、協力して。いつ止めてもらってもいいし、失敗したって恨まない。
成功しても、優奈の気持ちに応えるかどうかは、あんたに任すから」
それでも決断できずに、俺は視線を葉山から外した。窓の外に目をやる。いつの間にか日は暮れ始め、周囲を紅く染め上げていた。
下方を見ると、視界に校門が映り、一人の少女が学校を出るところだった。髪の長い女生徒。
突然女生徒が振り向いてこちらを見上げる。一瞬だけ目があった。
綾咲だった。
彼女に目の前で見つめられているような、そんな錯覚が起きる。ドクンと一拍だけ、心臓が強く跳ねた。
「弁当も気合い入れるから、お願い」
葉山からとどめの一言が投げ掛けられる。
俺は窓から身を引き、深々とため息をついた。
「仕方ねーな……。あんまり期待するなよ?」
「協力してくれるの?」
葉山がパッと顔を輝かせる。
「弁当、忘れるな」
「もちろん! 明日からよろしく頼むわよ」
「あいよ」
握手を求めて差し出された右手に、俺はやる気無く応じる。
契約はこうして成立した。
とてつもなく深い落とし穴に嵌ってしまったような錯覚と、奇妙な浮遊感を俺は味わっていた。
この先に待っているのは誰が望む結末か、それはわからない。
チャイムが鳴り響き、下校時間を知らせる。
それが、始まりの合図だった。
(前編・おわり)