『おしいれ 2話』
月曜日の教室は、どこかよそよそしく見える。
土日を挟んでいる間に、ぼくらが五日かけて染み付けた匂いが消えてしまうのかもしれない。
なんとなく『オマエら普段我が物顔で使ってるけど、本当はこっちは迷惑してんだよ』とでも言われている気分になる。
休み時間に友達と、今日発売の漫画雑誌や、最近出たゲームの話題に興じているとき、
ふと窓際の席に目をやると、とおこがぽつん。と、座っている。
周りの喧騒から浮くわけでもなく、馴染むわけでもなく、ただそこにぽつりと座って文庫本を読んでいる。
……ようやくぼくらの教室になりかけた空気の中で、その姿だけが、未だによそよそしさを保っていた。
ぼくらは学校では殆ど話さない。
話すとしても、ごくごく事務的な内容だ。
ぼくらが幼馴染みだと知っている人間は、小学校から付き合いのある、ごく一部の連中だけだし、
……そいつらも、ぼくととおこの関係までは知るはずも無い。
「――久谷? どーした、ぼうっとして」
「……ん、いや。呆けてたかな? なんでもないよ」
とおこの方をじっと見ていた事に気づかれてしまい、慌てて誤魔化す。
「なんだよー、くーちゃーん。誰見てたんだよー?」
……誤魔化しきれないヤツがいたか。
キムやんは小学校が同じだったから、ぼくととおこの家が隣同士だという事も知っている。
「別に、どこも見てないよ。ただちょっとぼんやりしてただけ」
「……ふーん? あー、ところでさー、くたにんー。ノート見してくんないかなー、お願いー」
ニヤニヤ笑いながらそんな事を言ってくる。
……くそ。
「……いいけどさ、別に。ところでさー、キムやん。
いいかげん仇名コロコロ変えるの止めてくれよ。返事しにくいじゃないか」
「じゃあ、りっちゃん?」
「それは嫌だ。男にちゃん付けで呼ばれたくないね」
ワガママ言うなーと、ぎゃあぎゃあうるさいキムやんこと木村くんにノートを投げつけて黙らせる。
とりあえず、それでもうみんな、興味を無くして、そこで、その話題は終了した。
――以前、キムやんに何でとおこと話さないのか聞かれた事がある。
あの時、ぼくは何と答えたのだったか。
……元々、内に篭る気性のとおこは、中学に上がった頃から、殆ど人と接さなくなった。
思えば、とおこの両親の不仲が決定的になった頃とほぼ同時期だったように思う。
以前には、ぼくもとおこの家に遊びに行ったことが何度かあったが、とおこの両親が揃うと、
最後は決まって派手な諍いになって、とおこはその間で哀れなほどにおろおろとしていた。
どうにかして、両親の間に横たわる険悪さを和ませようと、下手な冗談を言って道化ていた姿を思い出す。
そうして、結局両方から罵られ、親が子に向かって言うにはあまりにも惨すぎる言葉を投げつけられていた。
――わたしが悪いの。なんにもできない、馬鹿な子だから。
いつもいつも家の外では暗い顔の多かったとおこが、唯一、安らいだ顔を見せたのが、今は、ぼくの部屋に
なっている、離れの一室でだった。
――正確には、以前にこの離れを使っていたぼくの曾祖母にだ。
曾祖母は穏やかな人で、いつもぼくたちに優しくしてくれた。もちろん、悪さをしたときにはとことん怒られたけれど。
人見知りするとおこが、いちばんに懐いている人だった。
――りっちゃん。おばあちゃんが、おまんじゅう、くれたよ。縁側で食べようよ。
――りっちゃんはいいなあ。おうちに、やさしいおばあちゃんがいて。
――わたしね、おばあちゃんとりっちゃんが、だいすきよ。
懐かしい、幸福で無邪気だった頃。
よく、庭に面した縁側で、曾祖母の膝に頭を乗せて甘えていたとおこを覚えている。
……曾祖母が、鬼籍に入って、もうずいぶん経つ。
その時の、世界が終わったみたいなとおこの泣き声も。
はっきりと、覚えている。
……その後、しばらく使われていなかったのだが、進学祝いに、ぼくが自分の部屋として離れを譲り受けた辺りから、
時折、とおこが夜中に訪れるようになった。
とおこにとって、この離れはそのまま曾祖母との優しい時間の思い出に繋がっているのだろう。
どうにもならないほど、精神的に追い詰められた時、押入れに篭るようになって、その時間も長くなっていった。
……身体を重ねるようになったのは、それからしばらくしてからだった。
そのせいで、昼間の明るい光の中で、とおこと真っ向から向かい合って何を話せばいいのか解らないのだ。
どうにもこうにも、気まずいというか、気恥ずかしいというか――。
……普段、陵辱している好きな女の子と、昼間の学校なんていう健全な状況下で、どんな顔で会話をしろというのだろう。
……とてもではないが、そんな事、正直に話せる物ではない。
とおこはとおこで、元々内に篭るタイプということもあって、こちらに関心を向けないから、お互いに無関心を決め込む
今の状況に落ち着いているのだ。
また、適当なバカ話に混ざりつつ、横目で窓際の席を伺う。
とおこは、相変わらずぽつん。としていた。
――部活動を終えて、夕方家に帰ると、買い物袋を抱えたとおこに門の前であった。
なんとなく、会釈をして話しかける。
「――元気?」
聞いてから後悔した。
馬鹿みたいな事を聞いたと思う。
とおこは元気じゃなくなれば、ぼくの所に来るのに、解りきってる事を聞くなと思われたかもしれない。
ぼくが固まっていると、とおこは、うん。と肯いた。
「大丈夫。元気だから」
少し、ホッとした。
「あー……、おつかいの帰り? 今日、晩御飯、何なの、そっち」
とおこはちゃんと家の手伝いをしてて偉いよな。と、ただの世間話で切り出したつもりの言葉に、
見る見るうちに表情が硬くなっていく。
「え。……とおこ?」
どうした。と聞くより早く。
「やきそば。私、もう帰るから。ばいばい」
いい終わるより早く、家の中に入ってしまう。
「しまった……」
なにか、とてつもなくマズい事を言ってしまったようだ。
夕食が終わると、宿題があるから。と、早々に離れの自室に戻る。
母屋からの物音が途絶え、夜の、しん。とした音が耳に痛い。
予感めいたものがあった。
とおこは、きっと来るだろう。
夜も更けた頃、部屋の窓――、母屋からは死角になる面のガラス戸が鳴る。
怪談でこんなのがあったな。と思う。
毎夜のように訪ねてくる、この世の者ではない女と交わる男の話だ。
――最も、ぼくが取り憑いているのか、とおこが取り憑いているのか、わかった物ではないが。
……むしろ、彼女を貪っているのは、ぼくの方じゃないか。
自嘲気味にそんな事を思いながらガラス戸を開けてやると、いつものように、すう。ととおこが部屋に入ってくる。
普段ならば、まっすぐおしいれに行くのに、今日は、ぺたり。と畳の上に座り込んでしまう。
「……とおこ?」
どうした。と顔を覗き込んで、息を呑んだ。
虚だ。
元々黒目がちの大きな眼が――矛盾しきった、奇妙な言い方だが――虚に満たされているように、ぼくには見えたのだ。
「――とおこっ!」
思わず悲鳴のように名前を読んで、肩を掴む。
力加減をする余裕もなく全力で握り締めたから、かなり痛かっただろうに、そこで初めて、ぼくがいる事にやっと
気づいたのだとでも言うように、とおこの虚が、ぼくを見た。
いつからだ。
いつから、こんな。
「――離婚、するんだって」
ガラス玉みたいな眼をしてそういった。
「律、は。知らない、よね? ……二人とも、もうずっと家にいない、こと」
……とおこの両親は、ここ数ヶ月では、もう殆ど家に寄り付かなくなったそうだ。
二人とも、恋人を作って出て行ってしまったのだという。生活費だけは振り込まれているのだと。
ずっと。
――とおこは、たった一人であの暗い家にいたのだ。
口を開く。
そこも、真っ黒な洞穴のように見えた。
「――今日ね。いきなり、携帯にメールが来て。どっちと来るか、選べって」
恐ろしいくらいに平静だった声が、徐々にひび割れはじめる。
「……いけない、いけないよ。だって、おとうさんも、おかあさんも、わたしのこと、いらないん、だもの…っ!」
だからわたし、どこにも行けない――。
ガラス細工が壊れるような。
そんな音にそっくりの悲鳴をとおこがあげる。
意味の無い音。
言葉にならない悲鳴。
――それでも、ぼくには解ってしまった。
(いや)
ぶるぶると震えるとおこの身体を抱きしめる。
(いや、いや)
とおこの震えが激しくなる。
やせっぽちのとおこのからだ。
薄い、あばらの浮いた胸、まだ柔らかさの無い腰の線。
『女』というにはまだあまりにも固い、少女の身体。
どうしてぼくは子供なんだろう。
どうしてぼくは男なんだろう。
いっそのこと、女だったら良かった。
それなら、こんな方法じゃなく、とおこを心の底から安心させてやれるだろう。
こんな固い腕ではなくて。
とおこを貫く、棘ではなくて。
もっと、柔らかければよかったのに。
ぼくは、できるならばとおこの母親になりたい。
温かな腕の中で、とおこは安堵して微笑むだろう。
柔らかな胸の中で、嬉しそうに頬擦り、甘えるだろう。
――戯言だ。
現に、今、ぼくは。とおこの涙を止めることすら出来ていないじゃないか――。