「おしいれ」
――深夜、こつり。と、ガラスが鳴った。
庭に面したガラス戸を開ける。
ゆらりと、何も言わず、物音すら立てず、まるで幽霊のように静かにとおこが部屋に入ってくる。
そうして、無言のまま押入れに潜り込み、襖を閉めた。
ガラス戸を開け放ったまま隣家の様子を伺う。
夜の中。どこまでも静かで、変わりなかったが、きっとまた酷い喧嘩があったのだろう。
とおこ――隣の家に住む、叶十子――は、もうずっと、小さい頃から不仲の両親の間で諍いがあるたびに、
ぼくの部屋の押入れに避難してくる。
まるで、殻に閉じこもるように。
世界から、逃げるように。
自分を消してしまいたいとでも言うように。
――とおこは、押入れの中で、ちいさくちいさく縮こまる。
そして、ぼくはといえば、とおこの殻の前で何も出来ずに待つ事しか出来ないのだ。
(ごめんなさい)
殻の中でとおこが泣く。
(ごめんなさい、ごめんなさい)
とおこのせいではない事でとおこは泣く。
(ごめんなさい、おかあさん。ごめんなさい、おとうさん。私が、私が悪いんです。
だから怒らないで。もう怒鳴らないで。喧嘩をしないで。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい―――)
自分の出来が悪いから両親の仲が悪いのだと。だから毎日喧嘩になってしまうのだと。
自分さえいなければ。と、とおこは泣く。
自分の親の前で泣く事すら出来ずに、とおこはよくここに来る。
もう、いつからか、はっきりとは覚えていないほど幼い頃からとおこはこうして誰にも知らせず泣いている。
すすり泣きの声がようやく少し収まった頃、引き戸を開けて中に入る。
――そうして、暗闇の中。
隅で小さくなっているやせっぽちの身体を抱きしめる。
安心させようと、ひやりと滑らかな感触の、まっすぐな髪を何度も撫でた。
泣きすぎて、熱を持った瞼に口付ける。
涙の痕を辿るように、しょっぱいほっぺたと、少しかさつく唇にも口付けを落とした。
ゆっくりと、とおこのシャツを脱がせていく。
前のボタンを全て外し、平らなおなかから、少し浮き出ている肋骨を辿り、ささやかな乳房を撫でる。
「……ぅ」
微かに漏れる声。
小さな乳房を、少し乱暴にぎゅっと掴む。
「――っ!」
悲鳴のような息が喉を振るわせる。
こういうとき、とおこは決して声を出さない。
一度、ぼくの両親が留守の時に、声を出してもいいと言ったけれど、
それでも微かな喘ぎの他は絶対に出そうとしなかった。
ぼくも、自然と言葉を発する事はなく、ただ無言の中、小さな暗闇の中でぼくらは身体を重ねる。
――ぼくらが、こんな関係になったのは、半年ほど前の事だ。
とおこが真夜中にでもぼくの所に――ぼくの押入れに――来るのはそれまでもしょっちゅうあったし、
ぼくが、とおこを慰める為に抱きしめるのはよくある事だった。
――言い訳だが、こうなる事を提案したのはとおこだった。
「……なんでもいいの。私を刻んで罰してくれるモノならなんでも。
……でも、どうせなら律がいいわ」
そうして、ぼくは初めて女の子を抱いた。
初恋の女の子だった。
いちばん大事な女の子だった。
――甘さなど欠片もない、苦痛と涙と血の匂いのする初体験だった。
今日も、殆どろくな前戯も、愛撫すらもなく、とおこのなかにぼくを埋める。
薄い闇の中で、とおこが苦痛に顔を歪めるのが見えた。
ぱくぱくと口を開き、懇願する。
――いたくして。おねがいだから、もっとひどくして。わたしを、きざんで。
とおこは、快楽を得ることを嫌悪する。
――これは、あくまで罰なのだと。気持ちよくなったりしてはいけないのだと、
そうしてとおこは、ぼくに抱かれるのだ。
何度も何度もとおこを貫き、白い肌をぼくの欲望で汚して。
――そうして、ようやくとおこは安堵するのだ。
身支度を整え、押入れから這い出す。
とおこは、ようやく、少しだけ微笑んだ。
「――ありがとう。本当に、ごめんね、律。迷惑ばっかりかけて」
……『ゴメン』は、本当はぼくが言わないといけないんだけど。
「いいや。別に、気にするなよ。それより、あまり遅くなると気づかれるんじゃないか?」
「……大丈夫よ。そんなに、気にされて無いから……。それじゃ、私帰るわね。
でも、本当に、ごめんね? いつもいつも律に頼っちゃって」
「気にするな。って言ってるだろ」
「……でも、気にするわよ……。あのね、律、私、がんばるから。
律に頼らなくていいようになれるよう、がんばるから。今のままじゃ、律にカノジョが出来た時に悪いもの」
「……いいからさ、もう帰りなよ」
そうして、笑ってとおこは帰っていく。
ぼくはというと。
「……セックスしといて、ここまで男扱いされてないっていうのは……、なんなんだろうね……?」
ムチャクチャに落ち込んでいた。
ぼくらは始めから間違えている。
お互い、好きも嫌いもなく、ただ傷口を舐めるようにセックスをしたのが間違いだった。
大人が聞けば、顔をしかめて、責められるだろう。
それでもぼくらは、あのときそうするしかなかったのだ。
この関係がどうしようもなく歪んでいる事など、お互いに承知の上で。
だってぼくらは――、あまりにも子供すぎたから。
早く大人になりたいと思う。
こんな、小さな押入れではなくて、ちゃんととおこを守れるように。
とおこに、『愛している』と――まっすぐに言えるような、そんな大人に。