最初の出会いはまだ俺が10代の頃だった。大学に入学したばかりの頃だ。  
 
 
大学の春は慌ただしく、新入生を迎えようとする先輩と、新生活を彩りのある物へと急激な変化を求める新入生でごった返す。  
大学全体がそんな浮き足立った雰囲気をまとっている。俺は、そんな浮き足立った雰囲気が嫌いだった。  
いろんな人の思惑や焦りが渦巻いている気がして好きになれなかったのだ。  
そりゃ、俺だって、それなりには友達も欲しいし彼女だって欲しいけど。  
義務感とか焦りから友達を作るとか彼女を作るとか…。それって何か違う。  
皆「友達を作らなきゃ」「早く彼女作らなきゃ」という一種の焦燥感みたいな物が、周囲からは感じられた。  
人とのコミュニケーションも下手だという自覚はあるし、俺のような後ろ向きな人間こそ早く友達を作らなきゃいけないような気もしたけど…。  
そんなモヤモヤが残る中、いよいよ授業が始まった。  
 
授業初日。しかも1限。  
広い大学からお目当ての教室を探し当て、教室に入った。  
教室を見渡すと、尻込みしている学生が多いのか、それとも皆やる気がないのか?  
教室の前方には殆ど学生が座っていない。皆、後方にばかり座っている。  
1限だし、皆眠いのだろうか。初っ端から学生の気怠さが充満した教室に少し呆れる。  
とりあえず空いているスペースを探し、三列目端の席に座る。  
 
冒頭、ちょっと尖った事を言ってみたが結局は俺もまだまだ子供だ。  
授業も楽しみだが、なんだかんだ言っても、やっぱり新生活。大学生だ。友達が欲しい。  
しかし。陣取る席を間違えた。話しかけようにも、周りには誰もいない。  
後方では元々の友人同士なのか盛り上がっているグループもあるが、  
初々しさが残る明らかな新入生らしき人も、初々しい者同士で会話をしている。  
―ヤバイ、これ、俺取り残されてる?  
若干の焦りを感じながらも、講義が始まる時刻を鑑みると席を移動するのは躊躇う。  
覚悟を決めてそのまま座り続けるも、先生は来ない。  
今日はこの講義の初回だというのに、規定の時刻を過ぎても一向に先生は現れない。  
―学生も学生なら、先生も先生か…。  
 
開始時刻から20分、教室前方の扉が開いた。  
時刻が時刻なだけに、当然先生かと思い、学生が一斉に扉の方を見た。  
しかし、入ってきたのは若い女の子だった。  
今までは女の子を見た時には「可愛い」という感情を抱いたのに、その人は違った。  
そもそも、「女の子」ではない。「女の人」と形容した方が相応しいだろう。  
華やかで、美しい。  
でも、何かが危なっかしいような…。  
見たわけではないが、その美しさに後方の学生も目を奪われているのが分かった。  
彼女が入った瞬間、教室全体が息を飲むような、一瞬の静寂が起きたのだ。  
 
彼女はヒールをカツカツ鳴らして移動し、俺の斜め前方に座った。  
吸い寄せられるように彼女を見た。  
明るめの栗色の髪。窓から差し込む陽光が彼女の栗色の髪を一際明るく輝かせる。  
彼女はハーフアップにして、髪の間からうなじをのぞかせている。  
―いや、もうこれ誘ってるだろ!  
勿論そんな訳はないのに、余計なツッコミを入れてしまう。  
ドキドキしながらも、彼女の横顔を見てしまう。いや、決していやらしい気持ちとかではなくて。  
見惚れるというか…なんというか…、あ、これもやらしい気持ちなのか?  
なんだろう、うまく説明できないけれど…自然と目で追ってしまうというか。  
斜め後ろから見るだけでも、彼女は「華やか」だった。これはオーラとでも言うんだろうか?  
でも、最初に感じた危なっかしさもやっぱりあって。  
気になって見てしまう。そして、やっぱりきれいな人だ。  
―こりゃ、高嶺の花的ポジションか…? モテそうだなー、いや、逆にヤリマンか?w  
付き合える訳でも無いのに余計な値踏みをしてケチをつけてしまうのは男の悪い癖だ。  
寧ろ、付き合える訳が無い、自分の世界には無関係の人間だからこそ厳しい評価をくだしてしまうのであろう。  
 
そんな馬鹿にしたような評価をしながらも、彼女への視線をそらす事は出来なかった。  
そのまま、感情の赴くままに彼女を見ていると、彼女が突然振り返った。  
―や、やべぇ。見てんのバレたかも。  
一瞬、焦る。すると、予想外の言葉。  
 
「ねぇ、教科書見せてくれない?」  
―ホッ。バレてなかったー!助かったー!  
一瞬の安堵の後、教科書を持っていない事を思い出す。  
「あ、僕まだ入学したばっかりでまだ教科書とかちゃんと準備してなくって…」  
「じゃあさ、シャーペン貸してくれない?」  
「あ、それなら…」  
ごそごそと手探りにペンケースからシャーペンを取り出し、彼女に渡す。  
すると、彼女は出席カードに名前と学籍番号とを書きなぐって、当然のようにそれとシャーペンとを俺に渡してきた。  
「え…?」  
大学に入ったばかりの俺には、その行為の意味がよく分からなかった。  
その上、こんな華やかな女の子と会話しているという事実だけで舞い上がっていた。  
それと同時に、俺もそこらへんの学生とたいして変わらないなとどこかで自分を客観視していた。  
困惑する俺を見て、彼女は怪訝な顔をする。それでも、意味が分からなかった俺は問いかける。  
「え?これ、どういう…」  
「いや、だーかーらー、代返だって! 代わりに出席カード出しておいて。」  
代返という制度はなんとなくは知っていた。  
大学生ならではの愚かな行為と言えばそれまでだが、いつか自分も頼ったり頼られたりするのかなと漠然と考えてはいたが…。  
―え、でも、初日からこれ?というか、見知らぬ人から頼まれるもんなの?これって友達同士でやるもんだろ?え?  
引き続き小さく混乱している僕を見て、彼女はニカッと笑った。  
「あははは、別にいいじゃん。今度は私が代返したげるからさ。ね、今日だけ。お願い。」  
「…は、はぁ。」  
納得いかないが、あからさまに「渋々」頷く俺を見て、また彼女は笑った。  
「あと、この先生の授業って教科書無いとキツイよ?前列に居るとめっちゃ指名されるし。これ先輩からのアドバイスねっ。」  
「はぁ…。」  
彼女はサッと立ち上がって、学生には似つかわしくない小ぶりの鞄を抱えて、ヒラヒラと手を振りながら教室から去っていった。  
 
彼女が立ち去り、少し冷静さを取り戻す。  
しかし冷静さを取り戻せば取り戻すほど、「これって理不尽だよな?」という結論に落ち着く。  
―おいおい、美人だからって調子のんなよ!ていうか明らかに寝起きの顔だったろ!寝坊して遅刻した挙句、他人に代返頼むってなんだよ!  
心の中でツッコミを入れつつ、その理不尽な行為にほんの少し浮かれている自分が悔しい。  
 
結局、その講義に先生は来なかった。  
急な体調不良で休講の連絡が遅れたとかなんとか。まったく。1限から集まっている学生になんたる仕打ちだ。  
しかし、手元に残った学生カードが少し嬉しかった。  
あんな理不尽な行動をする女、俺は苦手な筈なんだが…。それでもなぜか、彼女の姿が頭から離れない。  
学生カードに記された名前は「伊藤由香」。続けて「二年生 文学部…」と。  
書きなぐった割には綺麗な字だな、と思った。  
「イトウ ユカ、か…。」  
意味もなく小さく呟いてみる。  
でも、彼女はただ単に代返を頼みたかっただけ。ただ、それだけだ。もう言葉を交わす事も無いだろうと、その時は思っていた…。  
 
授業3日目。今日は7限。  
朝が早いのも考え物だが、夜遅いのもなかなかに辛い。終わるのは22時近くになる。  
ただ、以前から読んでいた本の著者であり、尊敬する先生の授業だったので仕方なくこの講義を選択したのだ。  
授業も3日目ともなると、自分のペース配分等がなんとなく掴めてきた。  
前方の端に座ると、そこまで目立たずに授業に集中できることも分かってきた。  
そして、今日も3列目の端に、座った。  
 
「ねぇ、教科書見せてくれない?」  
背後から聞き覚えのある声。でも、まさか。考えが纏まる前に反射的に後ろを振り返ると、例の「伊藤由香」がいた。  
「あれ。……うーん?」  
不思議そうに僕を見る彼女。  
「あのさ、どこかで会った?」  
「あの〜、この前も教科書忘れてましたよね。」  
普通は初対面の人に突然代返頼まないだろうとか、大体あの時遅刻だっただろうとか、  
諸々言ってやろうかとも思っていたが彼女の顔を見たらそんな気持ちはすっかりどこかへ消えてしまった。  
本当に、俺もそこらへんの学生とたいして変わらない。浮ついている…。  
「あ。あー!この前の!!!」  
―ヤバい。可愛い。  
この前は、可愛いなんて言葉は似合わない、きれいな人だと思った。  
でも、コロコロとせわしなく変わる表情を表すのに適切な言葉は「可愛い」だ。  
彼女が記憶を辿っている間の表情が可愛すぎて。直感的に「ヤバい」と感じた。  
「ねぇねぇ、代返してくれた?」  
「あ、えっと。」  
「えー?もしかしてしてくれなかったの?真面目ちゃんっぽいもんなぁ。」  
「いや、実は、結局先生が来なくて。休講になったんで…。」  
「なーんだ、そうだったの?早起きして損したー!!」  
「あ、だから、この前の出席カード、お返ししますよ。」  
「あー、いいよいいよ、今度私が授業にいなかったら出しておいて?w」  
悪戯っぽく笑う彼女が可愛くて断れない。男って愚かだ…。  
「いや、でも、こういうのは…」  
「あ、じゃあ、君がいない時にはー、私が代返しとく。どーよ、これ。画期的じゃない?」  
―画期的…なのか?w  
「とりあえず名前教えて、あと学籍番号。ほらほら、遠慮しない遠慮しない。」  
「高橋浩介、です。」  
「タカハシコウスケ、ね?」  
名前を呼ばれるだけでドキッとする。ヤバい。  
「入ったばっかって言ってたから1年だよね?学部は?」  
俺と交わした会話を覚えていてくれた事に気付く。  
―ヤバい。…好きになってる。ヤバい。  
そこから先の会話はあまり覚えてない。ただただ楽しくて。ドキドキして。  
人と会話するのは苦手な筈なのに。しかも、女の人と。それもこんなに綺麗な人となんて。  
 
 
 
7限が始まった。  
彼女は授業を真面目に受けないタイプなのかと思っていたが、  
予想に反して背筋を伸ばし、熱心に聞いていた。まぁ、教科書は忘れてたけど。  
ノートもきっちり書き込んでいるようで、意外だった。  
まっすぐ前を見て真剣に講義を聞く姿は、突然代返を頼んできた姿とはあまりにもかけ離れていた。俗に言うギャップってやつか。  
先生がちょっと難しい事を言うと不思議そうな表情を見せたり。  
先生の意見に納得すると「うんうん」と小さく頷いたり。  
どれが本当の「伊藤由香」なんだろう…。  
俺は、彼女とは逆に、まったく授業の内容が入ってこなかった。ただ、彼女の真剣な姿だけは脳裏にはっきりと焼き付いた。  
この姿を見て、本格的に恋に落ちた。ような気がする。  
 
俺にとっては刺激の強い90分が終わった。  
「あー、お腹空いた。飲みに行かない?私、奢るよ。」  
「え?僕と、ですか?一応未成年なんですけど…。」  
「でも一人で飲むのは寂しいもーん。高橋くんは飲まなくていいから、付き合ってよ。」  
居酒屋までの道、男女二人で歩く事に慣れていない俺は何度も彼女との距離が空いてしまった。  
彼女はヒールを履いているんだから、俺もゆっくり歩かなくては。  
並んで歩くと、彼女の華奢さが際立った。  
春らしい薄手のトップスは彼女の小さな胸の膨らみを微かに示していた。  
―強く抱きしめたら簡単に壊れちゃいそうだな…。  
なんとなくそんな事を思った。あぁ、俺、完全に浮き足立ってる。  
 
 
半ば強引な誘いだったが、内心嬉しかった。表情筋が緩む。居酒屋の照明が暗くて助かった。  
適当に料理を頼んで、乾杯。「あ、こういうの大学生っぽいな」とかいちいち思ってしまうのがなんだか気恥ずかしい。  
「彼女居るの?」  
あまりにもダイレクトな質問だったので、思わず飲み物を吹き出しそうになる。  
「いや、いない…すけど。」  
「へぇ〜、でも高校の頃とかは居たでしょう?」  
「居るわけないじゃないですか!ご覧の通り人と喋るのとか苦手なんで。そういうのとは本当、無縁で。」  
「ふーん。でも私と普通に喋ってるじゃん?私、今普通に楽しいけど。」  
―いや、今脳みそフル回転でいっぱいいっぱいなんですよ!  
頭の中でジタバタしつつ、サラッと言葉に出された「楽しい」に小躍りしそうになる。  
そして、この流れだったら俺も聞いていいよな?と自問自答。うん、多分聞いていい流れだ。  
「彼氏、とか、居る…んですか?」  
「うん、居るよ〜。」  
…まぁ、分かってはいたけれど。  
俺の淡い淡〜い小さな期待は早くも崩壊した。  
―これだけ美人な訳だから彼氏いないはずがないな。うん。寧ろ当たり前過ぎて驚かないな。  
とにかくこの無駄でちっぽけ過ぎる淡い期待をかき消すように「そりゃ当然の事だ、分かってただろ」と強く強く頭の中で繰り返す。  
俺は今日の7限、ずっとそんな事を考えていた。「彼氏はいるんだろうか?いやいや、居るに決まってるだろ」の繰り返しだった。  
そのうち、いくら俺なんかでも男女二人で会うのはマズくないか?という考えに至る。  
―古風な考え方か?最近の若者はこういうもんなのか?(俺も一応若者だけど)  
この考えが浮かんだ頃には自然と言葉が出ていた。  
「いや、でも彼氏さん…とか居るんだったらやっぱり二人で男と食事するのって嫌がるんじゃないですか?」  
「あー、彼氏居るけど大丈夫だよぉw 面倒な事には巻き込まないから大丈夫。  
 あっちは私に興味無いし…私の事は基本どうでもいいっぽいから。」  
こういう時にどんな返答をすればスマートなんだろう。  
すべての会話が探り探りになってしまうのが情けない。  
「……あんまり、うまくいってない…ん、ですか?」  
「う〜ん。そうだねぇ。私の場合はいつもうまくいってないよw」  
「え、でもお付き合いされてるんですよね?」  
「一応はそういう事になるけど。」  
「じゃ、どうでもいいって事は無いと思いますけど。忙しいとか、じゃないですか?今は特に新歓とかありますし。就活とか…」  
精一杯絞り切った言葉はたったのこれだけ。当たり障りの無い事しか言えない。  
思いきって、次の言葉に踏み出す。自分なりに勇気を出した。  
「いや、あの、先輩普通に美人だし、僕だって一緒にいて楽しいですし。  
 先輩が彼女だったら絶対大事にしますよ!いや、あの、一般的な、話、ですけど…」  
俺の言葉を遮って、彼女は笑った。  
「ふふ。ほーんと、だったらいいんだけどね〜w」  
―あ、本当に何て返せばいいか分からない。  
黙るしか無かった。  
 
「……………。」  
「ちょ、そんな深刻にとらえないでよw 本当にたいした事じゃないから。  
 多分どこのカップルでも夫婦でも時期によってはそういうのってあるんじゃないの?  
 まぁ童貞君にはそういうデリケートな部分は分かんないか〜w」  
「ちょ、な、なに言ってんすか!」  
「あれ、あれあれあれ?お酒飲んでないのに顔真っ赤なんですけどーw」  
まぁ、実際童貞なので何も言い返せないけど。  
からかわれているのに、それすらもちょっと嬉しい。ドMか、俺。ごまかすように言葉をひねり出す。  
「でも、本当にうまくいってないんだったらちゃんと話すとかした方がいいですよ。  
 好き同士だから付き合ってる…のに、興味無いとか、そんな事絶対無いです。」  
恋愛経験ほぼ皆無の俺の、根拠のない自信。  
でも、本当にそう思ったのだ。この人が彼氏に放っておかれるって有り得ないだろ。  
根拠のない断言に彼女はまた笑った。  
また童貞だのなんだのからかわれるのかと思いきや、彼女の表情は急におとなしくなった。  
「なんかでも…そういうの初めて言われた。」  
「何がですか?」  
「うーん?なんでもないよ。」  
―あれ?やっぱり俺余計な事言ったか?  
また脳みそフル回転。彼氏になりたいなんておこがましい事は言わないが、嫌われたくは無い。  
「あとさー。言い難いんだけどさ、終電逃しちゃったんだよねw」  
「えっ?」  
「うん。」  
「えぇ?!」  
「あははーw」  
「何で言ってくれなかったんですか?!」  
「えー?楽しかったから?かな?なんかもう帰るの面倒くさいし。」  
「いや、でも…。じゃ、カラオケとか、行きます?」  
「私もう眠いからさー。泊めて欲しいんだけど。」  
あまりにもサラッと言うので思考スピードがついていかない。  
童貞の俺にはこの展開の速さに全くついていけない。  
―世の中の男女ってのはこういう、もの、なのか…?いやいやいやいや、そんな訳ない。  
「駄目?急に襲ったりしないから大丈夫だってばーw」  
「それ僕のセリフでしょ!」  
―こいつ、やっぱり美人だからって調子のってんな…!  
これって据え膳食わぬは男の恥的な事なのか?いや、でも彼氏居るし駄目だ駄目だ。好きは好き、だけど。  
意味も無い自問自答を繰り返す。これが所謂「惚れた弱み」ってやつなのだろうか。  
俺の家以外にも選択肢はあるのに、他の提案を口に出せないし、断れない。  
 
俺は自宅までの間、またも脳みそをフル回転させた。記憶をほじくり返す。  
部屋の整理はそれなりにしてある…が、見られたらまずい物とか無かっただろうか。掃除は十分だっけ。  
 
 
彼女を自宅に招いてからは、出来るだけ彼女と距離をとった。さりげない程度に。  
多分彼女は気付いていたと思うけど。たまに寂しそうな顔を見せるから、少し困惑したけど、ぐっと我慢した。  
俺なんかが何か出来る相手ではない、直感的にそう思ったのだ。  
他愛もない話をしているうちに、彼女は寝た。細くて白い脚を投げ出したまま。なんて無防備なんだろう。  
最初に見た時には「女の人」だって思ったけど、寝顔は「女の子」だ。  
そっとブランケットをかけて、俺も部屋の隅で寝た。  
 
彼女は寝る直前まで「別にしちゃってもいいんだよ?」と冗談のように何回か言っていた。  
それは本当に冗談だったのかもしれない。でも、あれはどう見ても自分の存在を放棄しているような様子だった。  
俺も冗談のように「そんな事しませんよw」と笑いながら返す事しか出来なかったけど。  
―駄目だよ。なんでそんな事言うんだよ。誰とでもそういう事してるの?  
黒い感情が渦巻いては消え、渦巻いては消え。  
自分に投げやりな彼女の姿を見ると、自分の気持ちを欲望のままにぶつけてしまいそうな気がして怖かった。  
勿論、無理やりだなんてそんな事はしない。  
でも正直、この空気は、そういう事が許される空気なんだろうなとはなんとなく感じてはいた。  
彼女はあまりにも無防備だったし、アルコールのせいか態度も柔らかいような気がしたし。  
それでも、駄目だ。それは彼女にとっても俺にとってもきっと良くない。絶対良くない。  
彼女は単に彼氏とうまくいっていなかったから、その淋しさの穴埋めに誰とでもいいから話したかっただけだろうし。  
 
実は、居酒屋では緊張をほぐすために酒を飲んでしまうのもいいかもしれない、とも思っていた。  
しかし本当に酒を飲まなくてよかった。三時間前の自分に心底お礼が言いたい。ありがとう、三時間前の俺。  
今の俺にアルコールなんて入れたら理性が崩壊する。  
「美人だからって調子にのってる」彼女に負けたくない、という変なプライドもあった。  
自分は試されているような気すらしたのだ。  
 
翌朝。  
「本当に手出さなかったねw」  
「あ、当たり前じゃないですか!」  
「別に私はどっちでも良かったんだよー?w」  
「駄目ですよ、そうやって童貞をからかったら。」  
「あ、認めたーww」  
「あの、もし彼氏さんに疑われるような事があったら、僕も、ちゃんと、説明しますから。終電が無くなって仕方なかったって。」  
「ははは!なんか、こういうのも初めてかも。」  
「何がですか?」  
「ふふ。なんでもないよー。」  
 
彼女のこのとらえどころの無い儚さと危なかっしさに、俺はのめり込んでいった。  
 
 
しばらくして、俺は彼女の事を「先輩」と呼ぶようになった。  
出会ったばかりの頃は、伊藤さん、だとか、ちょっと勇気を出して「由香さん」だとか言ってみたかったけれども。  
名前で呼んでしまうと、自分の中の何かが崩れるような気もして「先輩」に落ち着いた。  
男女の仲ではなく、「先輩と後輩」としての関係性を築こうとした。  
あくまでも友達。先輩と後輩、だ。表面上は、の話だが。  
 
そして、先輩と仲良くなるにつれて、先輩がどんな女性なのか段々分かってきた。  
出会ってすぐの俺の家に泊まる位だから、まぁそういう事なんだろうな、とは薄々思ってはいたけれど。  
モテる。当然彼氏も居る。でもうまくいかない。浮気される。そして別れる。でもモテるからまた彼氏もすぐできる…の繰り返し。  
大体2〜3ヶ月程度のスパンで彼氏が変わっているようだった。あまりにも早く彼氏が変わるから、彼氏の姿を直接確認できた事は殆ど無い。  
彼氏の姿なんて見てしまったら嫉妬にかられて頭がおかしくなるであろう事は分かりきっていたので、ちょうど良かった。  
彼女もどうやらちょこちょこ浮気しているようだった。世間一般的には「ヤリマン」とされるタイプなのかもしれない。  
俺が最初に下した評価は図らずもほぼ間違ってはいなかったようだ。  
 
それでも彼女の事が好きだった。  
この条件が揃ってもまだ好きなの?と呆れられても仕方が無いと思う。彼女は所謂優良物件ではない。  
どうして好きかと聞かれても、上手に説明出来る自信が無い。  
彼女のどこか淋しげな笑顔と、白くて華奢なその身体を自分だけの物にしたかった。  
彼女の孤独を自分が埋めたいと、本気でそう思っていた。  
彼女の明るい声と笑顔にはどこか影がある。この影を消し去る事が出来たら、と。  
無謀にも、そんな事を本気で思っていた。  
そもそも「好き」なんて感情を理論立てて説明できる人間なんて存在するのだろうか。  
好意なんてあやふやなものだ。  
でも、俺は間違いなく、代返を頼まれたあの時から既に好きになっていたんだと思う。  
馴れ馴れしく代返を頼んできた君に「理不尽だろ」とツッコミを入れつつ。  
 
彼女とは、週二回、授業が重なった。  
彼女はふざけて「代返互助会」なんて言っていたけれど、彼女は俺に代返を頼む事なんて一度も無かった。  
授業初日に代返を頼んだのは本当にたまたま、だったらしい。彼女はこう言っていた。  
「あの日は、ちょっと嫌な事があってねー。頑張って大学に来たはいいんだけど、授業90分我慢できそうにないなー、って。  
 頼めそうな気弱そうな男の子がちょうど近くにいたからねw頼んでみたw」  
「気弱って!仕方ないですよ、僕あれが人生初めての大学の授業なんですから。緊張もしますよ、そりゃ。」  
「あの時は本当にごめんw 初対面なのに不躾だったね。なんか、変に気が大きくなってたっていうか。はは。」  
この会話で、あの日の顔は寝起きではなくて、泣きはらして瞼が腫れていたんだという事に気付いた。  
それからというもの、彼女の瞼が腫れている事によく注視するようになった。  
そして、それが「そういう事」があった次の日に決まって瞼が腫れているという事も。  
普段夜更かしばかりしている彼女に、深夜にメールを送っても返信がこなかったら、まぁ「そういう事」だ。  
―彼氏といるのだろうか?それとも、なんとなく一夜を共にしている男?誰の腕の中に居る?  
 なんで?なんで俺とじゃないんだろう。そんなに快感が欲しいの?快感が欲しいだけなら俺だって…。  
 
彼女が快感ではない別の物を求めている事は分かっている。  
単に優しくして欲しいだけなんだ。本当は彼氏に対してもそうなんだと思う。  
 
特に俺に対しては尚更だ。  
彼女は度々俺の家に遊びに来た。  
特に何かをする訳ではなし。他愛もない話をしたり、彼氏の愚痴を聞いては、彼氏の肩を持ってみたり。  
「高橋くんになら彼氏に言えない事も何でも話せちゃうんだよねー、だって高橋くんどうでもいいんだもーんw 」  
「もう調子にのらないでください!」  
と怒ってみせつつ、でもその言葉でさえ嬉しかった。  
 
彼女曰く「心を開く」という事がどうやら難しいそうだ。  
当初、俺にはそれが俄には信じがたかった。  
明るいし、きれいだし、それでいてサバサバしているしで、彼女には男女問わず友達が居るように見えたからだ。  
大学内で彼女を見かけると、ほぼ必ず輪の中心にいるし、楽しそうにニコニコしている。  
ただ、彼女と仲良くなるうちに、俺にはその中心だけポッカリ穴の空いたような、実体無いものにも見えてきた。  
彼女が「心を開けない」という意味がなんとなく分かった気がした。  
彼女は根暗な俺とは違って、誰とでもそれなりに楽しそうに話せる。  
でも、それはその場を楽しく盛り上げるだけのもので、それはそれだけで終わるというか。  
心を開く事無く、「一時的なコミュニケーション」として終わってしまうらしい。  
俺になら何でも話せると言った彼女は、涙を流しながら感情を爆発させていた事もあった。  
きっと、誰にも見せていない顔だ。  
優しく抱きしめる事も出来ないけれど、ただひたすら頷いて話を聞いた。  
 
彼女は、あの日のように無防備に寝る事なんてしょっちゅうだった。その度に俺は理性との戦いになる。  
しかし、彼女が俺をからかうようにちょっと甘えてみせても、俺は意地でも手を出さなかった。  
「男が皆先輩の事を好きだと思ったら大間違いですよ!」  
と言うと、彼女は大きく笑っていた。  
俺にとっては、そんな行為に走らなくても、彼女の信用を勝ち得る事の方が大事に思えた。  
事実、俺が二年生になる頃には、彼女は俺のことを信用しきっていたように思う。  
「高橋くんは、私を裏切らないもん。」  
以前、彼女が言っていた言葉。これってどういう意味だろう。  
好きなのに、全然興味が無い振りをして彼女の側に居続ける俺。これは裏切りなのだろうか。  
 
ただ、時折黒い感情が自分をどうしようもなく支配する。  
俺はそれに抗う事が出来ない。こういう時は、感情に身を任せてひたすら自分を慰める。  
彼女を現実的に抱き寄せる事は不可能だが、彼女を想いながら自らを慰める位はきっと許されるだろう。  
自分に都合のいい解釈をしながら、暗くて深い終わらない夜を過ごす。  
そして、彼女が他の男に抱かれている現実に、なぜか興奮している自分に気付く。  
―俺、頭おかしいな。  
そう思いながらも、身体は正直だった。  
 
そして、時は過ぎ。俺は大学三年生になった。  
先輩とは、相変わらず「代返互助会」の仲だった。まぁ、代返は頼まれた事は無いけど。  
相変わらず、彼氏をとっかえひっかえしているようだった。そしてこれも相変わらず、他の男とも関係があるようだった。  
でも、俺には変な自信があった。これが不毛な自信である事も同時に感じていたけれど…。  
「男女」という関係性ではないけれど、俺はいつも彼女の側にいた。居るようにした。  
彼女の腫れやすい瞼を注意深く見ていたし、とにかく連絡を切らさないようにした。  
彼女は痩せやすい体質だから、憂鬱になって食欲がなくなった時にもすぐ分かった。  
彼女の様子をつま先から頭髪に至るまで注視した。  
彼女は物事がうまくいかないと、自分の美容に対する意識が薄れると言っていた。  
「女子力が無いんだよねー、基本w」と自虐地味に笑いながら話していたっけ。  
彼女のネイルが欠けたり、外れかけたりする状態が続いていると彼氏とうまくいっていない証拠。  
彼女の髪の毛の根元の黒い部分が2cm以上伸びていると彼氏とうまくいっていない証拠。  
いつの間にか、そんな彼氏と仲違いしているであろう証拠を探すようになっていた。  
その証拠を見つけては、静かに喜んだ。代わりに、自分に甘えてくれればいいのに、と。  
ただ、そんな小さな喜びは些細な物で、首筋から見覚えのない痣が見えると、どうしようもない嫉妬にかられた。  
それでも俺は、核心には触れず、彼女を支えられる様に努めた。  
俺は、とにかく彼女の笑顔が見たかったんだ。  
この二年間、彼女のことを知れば知るほど好きになった。  
彼女の弱さを知れば知るほど、守りたい、と。とにかく彼女の孤独を埋めたい、と強く願った。  
 
 
それから、俺は形式的に入っているだけのサークルの後輩に告白をされた。  
後期試験が終わった直後の、春休みの事だった。  
小柄で穏やかな雰囲気の女の子だ。正直言って、面食らった。  
女性との関わりは、先輩以外は殆ど無いに等しかったからだ。  
俺は、上手な断り方が思い浮かばず、その場では曖昧に返答してしまった。  
こんな時にはどんな風に言えば傷付けず、穏便に済ませられるのだろうか。  
ちゃんと断らなくては…という気持ちもあったが、告白自体は悪い気もしなかった。  
先輩への気持ちを整理して前に進むのもいいかもしれないという気持ちも芽生えた。  
所詮は、報われない恋だ。無駄な理性との戦いなんて繰り返したって誰も得しない。  
大学に入って3回目の春なのに、俺はまだ何も成長していないんだ。  
 
やっぱり、これも春のせいなのだろか。俺が嫌いな、学校全体が浮き足立っているこの雰囲気。  
そんなに接点も無い俺なんかに告白しちゃう後輩。  
生活に彩りを加えたいがために、なんとなく気弱で落とせそうな俺に声をかけたんだろうか。  
それに曖昧な返答をする俺も俺だ。事実、落ちてもいいかもとぐらつく俺。  
そういえば、俺が彼女を好きになったのも春だった。二年前の春だ。  
そうだ。また君と出会った季節がやってきたんだ。  
 
新学期が始まって、初めて先輩と授業が重なった。7限の授業だ。  
先輩はもう4年なので週一日しか登校しないと言う。  
「寂しかったらもっと来たげるよ〜w」  
「もう、また調子にのってますね。」  
春休みの間は殆ど会っていなかったので、久しぶりにからかわれた、それだけでもちょっと嬉しい。  
そして7限後は自然とご飯を食べる流れになる。  
自分からはなかなか誘えない俺にとっては、この自然な流れがどれだけ有難い事か。  
彼氏でもないただの後輩の俺は、彼氏持ちの彼女を誘う事に、いくらかの抵抗感がまだ残っていた。  
彼女は「彼氏なんてどうでもいい」と言うけれど。  
 
 
居酒屋に到着して開口一番に彼女は言った。  
「ねぇ。告白。されたんでしょ?」  
あまりにもダイレクトな質問だったので、思わず飲み物を吹き出しそうになる。  
あれ、前にもこういう事あったな。というか、同じ居酒屋だった気がする。  
「え。何で知ってるんですか?」  
「それは……まぁね〜w 私の情報網を舐めるでない!」  
「ちょっと〜。」  
「モテますねぇ〜、旦那。羨ましいぞ!あんな若くて可愛い子!私もあんな事やこんな事しちゃいたいなーw」  
「オヤジ発言ですよ、それ。セクハラで訴えられたら確実に負けますよ。」  
「いや〜、だってあの子小柄だし〜、なんか〜色々想像しちゃうんだもーんw」  
二人してビールを一気に飲む。あ、そういえば。二年前はまだ酒のんでなかったな、俺。  
「大体さー、今日なんてスーツとか着ちゃってーw 急に男前になっちゃってーw どうしたの?就活?早くない?」  
「就活の準備というか…はい、まぁ、そんな感じです。」  
「てかさー、もう付き合ってんでしょ?  
 だから…さ。もうこういうの止めにしない?彼女が居るのに二人で会うのはマズいっしょ。」  
一瞬、沈黙。頭が真っ白になる。  
「きっと彼女さんに悪いと思うよ?しかも、私…こんなんだしさ。普通嫌でしょ?  
 普通の女友達ならまだしも、ヤリマンの女友達とかw そりゃ信用出来っこないって!」  
「何でそんな事言うんすか。俺、そんな風に思ってないですよ?」  
「ははは。そんな優しくしてくれなくてもいいよw これでも自分の事は客観的に見てるつもりだよ。  
 私が周囲からどんな風に見られてるかは…もういい年だもん。それなりに分かってるつもり。」  
俺の言葉を遮って、彼女はどんどん話す。  
「私、高橋くんには本当に本当に本っ当〜に幸せになって欲しいんだよねぇ。  
 ちゃんとした子と付き合って欲しいっていうか…。あ、少なくとも私みたいな女じゃない人って意味ねw」  
沈黙が流れる。  
「私ね……高橋くんが初めてだったんだよねぇ。本当に信頼出来るっていうか…嘘が無い人だって思えたのって。  
 今となっては、裏切られても恨まない位信じちゃってるからね。バカみたいでしょw でも、本当に…うん。  
 すごく大切な友達だなって思ってて。だから幸せになって欲しいんだよ。」  
―大切な「トモダチ」その一言が重くのしかかった。そりゃ当然だ、そういう振る舞いをしてきた。でも…。  
「彼氏の事、愚痴ったらさー、普通彼氏の肩なんか持たないよw 適当に相槌打って、そのままヤれる程度に優しくして…てだけだもん。  
 男女間なんて所詮そんなもんだもん。でも高橋くんは違った。私の話、ただただ聞いてくれて…。ただただ本当に優しくて。  
 彼氏でも無いのに。本当うざかったよねw ごめんね。」  
「いや、俺は、そんな…」  
「勿論、たまに相談のるとかだったら…いいけど…さ。うーん…でも、そういう相談を異性にされるのもきっと彼女さんは嫌だと思うし。  
 私、いっぱい浮気されてるからそういうの分かるんだよねーw 彼女の立場で、何をされたら嫌かとか。はは。  
 あ、これからも友達でいてねー?あんまり放っとかれるのも寂しい…ってどっちやねん!って感じ?w   
 はは、自分でも何言ってるかよく分かんないw」  
自虐に溢れた言葉を笑って口にする彼女の姿は、何度見ても痛々しい。  
自虐の言葉で武装して、彼女は自分を守ってきたんだろう。そんな事しなくったって、俺が守るのに。  
ただ、彼女の俺に対する揺るぎない信頼を、いざ言葉にされるとどんな対応をすれば良いのか分からなかった。  
確かに、信頼されるように振舞った。唯一無二の存在になれるように努めた。  
彼氏になれないのなら、代わりの別の「何か」にって。  
彼女の笑顔が見られればそれでいいと本気で思っていた。  
でも。俺が欲しいのは…彼女自身だ。  
 
俺が考えを巡らせている間、彼女は黙っていた。  
彼女はどんな言葉が欲しかったんだろう。  
あぁ、これも二年前と一緒だ。言葉が、出てこない。出てこないんだ。  
彼女は突然立ち上がった。  
「ごめん、私、もう帰るね。」  
「え、もう終電無いですよ?」  
「いや、ちょっと…今日は約束があるの。」  
「こんな遅くに?」  
「その、彼氏の家、ここらへん、近い、から…。」  
自分が、黒い感情に支配されつつあるのが分かった。あぁ、駄目だ。駄目だ。ヤバい。  
「ていうか、そもそも!彼女持ちの男の家に二人っきりはもうマズイって。さすがに。うん。ダメダメ。」  
「あ、あの、その事なんですけど。僕、付き合ってないんです。これからちゃんと断る所なんです。」  
「え?あ、そうなの?何で?勿体無い。あの子、いい子だよ。私と違ってちっちゃくて可愛らしいっていうかー。  
 それに清純系だし。穏やかそうだしー、高橋くんとぴったりじゃない?」  
彼女の明るい声がいちいちグサリと刺さる。  
―俺が欲しいのは先輩だけなのに。なんで。なんで分かってくれないんだよ。  
 これから彼氏に会いに行くってなんだよ。俺って何なんだよ。  
「その事で…色々相談があるんだ。今日、家来ない?」  
「えっと…でも…」  
「たまには僕の我儘、聞いてくれてもいいと思うんですけど。大切な友達、でしょ?」  
彼女は、照れたような、困ったような顔をして笑った。  
「うん…そうだよね、ごめん。分かった。彼氏の方は断っておくわ。いつでも会えるし。」  
いつでも会えるという言葉がまた俺を締め付ける。  
俺は、彼女の側に居るつもりだった。でも彼女と会っていたのはいつも授業が重なる時だけだ。  
俺って彼女にとってなんなんだろう。  
先程彼女の口から出た「大切な友達」という回答は既に頭から抜けていた。  
俺って、なんなんだよ。  
そのすぐコロコロ変わる彼氏どもと何が違うんだよ。  
俺って、なんなんだよ…。  
この瞬間。俺は、完全に黒い感情に支配された。  
 
 
それからは、彼女を逃したくなくて、半ば強引にタクシーで自宅まで連れ帰った。  
彼女は、いつもと違うその雰囲気に何かを察知しているようだった。  
それでも、彼女は「大切な友達」である俺の家に入っていった。  
疑うような、それでも信じるような、不思議な戸惑いを俺に見せながら。  
 
扉を閉め、鍵をかけ。準備は整った。  
俺はすぐさま彼女をベッドに押し倒した。  
「きゃああああっ」  
彼女の悲鳴に俺の雄の本能が反応していた。  
俺のモノは既に硬くなっていたし、下着も濡れていた。  
自分でも訳が分からない位に興奮していた。  
とにかく必死になってネクタイで彼女の両腕を縛り、ベッド脇の策にきつく縛り付けた。  
彼女も必死になって抵抗した。しかし、華奢な彼女の力なんてたかが知れている。  
彼女の精一杯の抵抗があまりにも小さすぎて、笑えてしまう程だ。  
―こんな抵抗しか出来ないのに、今まで平気で俺の家で寝泊まりしてたんだ?本当、馬鹿だなぁ。  
彼女の細い腕は、よほどキツく縛らなくては拘束出来なかった。  
馬乗りの体勢になって彼女を上から見下ろす。彼女は華奢で、すぐに潰れてしまいそうだ。  
そして、俺のモノは既に彼女に触れているのだろう。彼女は一瞬驚きの表情を見せた。  
「前、別にしてもいいって俺に言ってましたよね?」  
「…‥…‥え?」  
「じゃ、今。いいですか。」  
「えっ。や、やめて!」  
「いいですよね?」  
「え、ちょっと。」  
「一回してもいいって言ったんだから約束は守ってもらわないと。」  
「いや、いや、ちょ、ちょっと待って。やめて!」  
「ま、嫌と言われたところで、どっちにしてもやるんですけど」  
彼女の薄手のブラウスを無理やり引き剥がす。  
ボタンをいちいち外すのが面倒で、最後は力ずくだ。気持ちばかりが焦って、手元が狂うのだ。  
ブラウスの扉を開けると、彼女の華やかさとは逆のパステルカラーの薄い水色のブラジャーが見えた。  
―あ、これ、今日の勝負下着ってやつか。彼氏のために選んで彼氏のために着てるって訳か。  
彼女は華奢で、胸の膨らみも穏やかだった。  
普段、それを気にして恥らっている姿は特別可愛かった。  
一生見る事は叶わないだろうと考えていた彼女の白い肌は、ただただ美しかった。  
貪るように、ブラジャーのホックを外し、彼女の膨らみを味わう。  
その独特の柔らかさと、真ん中で異常な程に突起して硬くなった部分とのコントラストが俺を興奮させた。  
彼女は身体をよじらせる。  
「本当にやめて。こんな、無理矢理とか、嫌なの。」  
「無理矢理じゃなかったら、してたんですか?例えば、二年前、初めてここに来た時とか。」  
「それは…」  
「あの時だったらしてましたよね?俺がもし誘いにのってたら…。」  
「…‥…。」  
「何の躊躇もなく、してましたよねぇ?いつやろうと一緒ですよ。」  
「お願い、やめて…。やめて…!いや、あっ…いや…っ……ぁっ…」  
桜色をした突起部分を吸い付いたり舐めまわしたりすると、抵抗しながらも彼女はそれを明らかに悦び始めた。  
嫌と言いつつも脚をもぞもぞさせて、身体をよじらせるその姿に俺は更に興奮せずにはいられなかった。  
―なんだかんだ言って、結局ヤるのは好きなんだろ?w  
ほぼこういった経験が無い俺の手でも感じている姿を見ると、相当開発された身体なんだろうな、と痛感した。  
―一体何人の男としたんだろう。俺がもっと早く踏ん切りつけてたら…。  
 
「逃げないから…コレ、解いて…」  
「…だめ。」  
「私、別に慣れてるから。どうでもいいし、実際『別にしてもいい』女だし。」  
―なんでそんな事言うんだよ。慣れてるってなんだよ。してもいい女ってなんだよ。  
「でも、高橋くんとは、こうはなりたくなかった、かな…。」  
彼女は寂しそうに笑った。  
―他の男は良くて俺は駄目なの?なんで?俺だって、ずっと側にいたよね?  
 他の男に快感を貰って喜んでる位なら、俺が。俺がぐちゃぐちゃに壊してあげるよ、先輩。  
いつもは彼女の冗談めいた毒舌も心地よいのに、今は彼女の言葉に全て苛々してしまうのは何故だろう。  
彼女の腕には、ネクタイの痕がくっきりと残っていた。  
華奢で白い彼女の肌に、その痣はあまりにも目立ちすぎた。  
この痣が消えるまでは彼女に少しでも「自分」を残せるような気がした。  
愚かな考えだという事は痛い程に自覚している。  
でも、彼女に何かを残したい。この行為になんの意味も無い事は分かっている。でも…。  
「お願い。痛いの。解いて。逃げないってば!」  
「何度も言わせないでください、駄目だって言ってますよね!!」  
彼女の唇を塞ぐようにくちづけを交わす。  
「くちづけ」なんてそんな美しい類の物じゃない。  
それはただ、俺が欲望に任せて彼女の柔らかい唇を貪っただけだ。  
胸とはまた違った独特の柔らかさが、たまらなく愛おしい。  
気付くと、彼女は泣いていた。  
―なんで泣いてんだよ。そんなに、そんなに俺が嫌なのかよ…。  
 誰とでもしてたんじゃないの?なら、なんでこんなに俺を拒むんだよ…。  
多分この時、俺は怒りなのか悲しみなのかどちらとも分からないような表情をしていたんだと思う。  
彼女の怯えたような表情がそれを物語っていた。  
「やっ…」  
「なに?」  
「い、いや、なんでも、ないよ…。」  
彼女がはぐらかす時に言う「なんでもない」がこんなに苛々するなんて。あぁ。  
こうやって俺の気持ちもはぐらかすんだ?ずるいよ。最初っから。ずるいんだよ先輩は。  
慣れてるって言う割には、俺とは嫌なんだ?泣いちゃう位に嫌なんだ?  
 
もう、ここからは止まらなかった。俺の欲望がどんどん加速していくのが分かった。  
次は、彼女の下部へと侵入していく。  
彼女のミニスカートを捲り上げる。  
―あぁ、このスカートも、このナマ脚も、俺のためじゃなくて彼氏のためか。そうか。そうだよな。  
妙に納得がいく解釈をしてしまうと、嫉妬という感情がよりどす黒いものに生まれ変わる。  
そんな混沌とした感情を抱えながらも、俺は経験が無いために、正直怖気づいている部分もあった。  
が。この緊張を彼女には悟られたくない。強がって先へ進むしかない。  
もし、これが。もしも、これが。彼女と愛を育んだ上での行為だったのなら…。  
彼女は時々笑いながらも俺に色々と教えてくれたりしたんだろうか?  
俺の緊張を察知して「大丈夫」とか言ってくれたんだろうか?  
この想像自体も、今となっては全て無駄だ。  
 
彼女の下着は濡れていた。あぁ、「シミが出来る」って本当の事だったんだなと初めて知った。  
雑誌やAVでの前知識なんて役立たずだった。全てはリアルが上回る。  
俺は正直言って戸惑った。差し込んだ指先に絡み合った粘液は予想以上のものだったからだ。  
そして、こんな無理矢理な卑劣な行為でも彼女は感じていると実感できたからだ。  
それだけでも俺は満たされた気分になった。  
「濡れてますね。」  
「もう、だから、やめて…。」  
「こんなに濡れてるのに、途中でやめるなんて。エッチな先輩には無理ですよね?」  
顔を背ける彼女を無視して、彼女の敏感な部分を辿っていく。  
下着をずらすと、その粘液が糸を引いているのが分かった。  
セオリー的には指でいやらしくなぞったりするのだろうか。よく分からない。  
そんな事をぼんやりと考えながら、吸い寄せられるかのように自然と舌が向かっていった。  
彼女の一番敏感な部分をこの舌で弄びたかったのだ。  
彼女の脚を無理やり開き、腕で固定すると彼女が小刻みに震えているのが俺の身体に伝わってきた。  
―そんなに、俺が怖いの?  
舌を小さく動かすと、その動きの何倍にも彼女が大きく動く。  
「いやぁっ!」  
女の人はこんなに敏感なものなのか。  
「ごめん、これだけは恥ずかしい。本当。やめて。」  
そんな言葉を聞いてしまっては止める訳にはいかない。  
俺はひたすらに弄んだ。舌をゆっくり動かし、吸い付き、彼女の粘液を絡めとる。  
彼女の身体をがっちりと固定して、彼女のごくごく一部の部分を執拗に攻める。  
たったその一部分の刺激だけで、彼女は甘美な声を出す。  
この時初めて、彼女が快楽を解放させているかのように感じた。  
―そう、我慢しないで。淫らな君を見せて。  
俺なんかに犯されても身体が反応しちゃうどうしようもない君を、見せて。  
「あぁっ。はぁ…あっ。はぁ…んんっ……っ…んっ…」  
それは、俺なんかは当然今まで聞いた事が無い声。これからも今後聞く事は無いだろう。  
一夜限りの、その甘美な声はその後もずっと俺を苦しませる事になる。  
彼女の甘美な声は、ずるい。ずるいとしか言えなかった。  
 
その時、突然携帯の着信が鳴った。  
俺も彼女もピタッと身体が止まり、さっきまでの入り乱れた時間が一瞬にして彼方の物にでもなった錯覚に陥る。  
彼女がハッと表情を変えたので、気付いてしまった。  
―あぁ、彼氏からの電話か。  
また嫉妬の感情に支配される。醜いこの感情を、世の中の人はどうやって解消しているんだろう?不思議だ。  
彼女の鞄から、携帯を探り当て、乱暴に取り出す。  
「彼氏さんからですよ。」  
彼女に画面が見えるように、差し出す。  
「……。」  
「出てくださいよ。」  
「嫌に決まってんでしょ、何考えてんの」  
顔を背けて抵抗する彼女。無意味だと分かっているだろうに。  
「俺達、大切な友達なんですから。何もやましい事は無いですよね?」  
怯えながらも、確かに反抗する意志が存在する視線が俺に向けられた。  
「ほら、早く。」  
渋々了承し、彼女は電話に出る。  
それと同じタイミングで、俺は俺自身を無理やり彼女の中に埋める。  
想像していたよりも大分狭い。中で生々しく絡み合っているのが分かる。  
わざとベッドの軋む音が鳴るように、いやに激しく動いた。彼女の感情を揺さぶりたかった。  
「…ぁ、今日、うん、ごめん…あっ…っ…」  
ニヤニヤしながら見下ろす俺を、彼女は瞳に涙をためながら見ていた。  
今、彼女の中に居るのは、間違いなく俺だ。  
電話先の相手?そんなの関係ない。今彼女を支配しているのは、この俺だ。  
激しく出し入れすると、快感に顔を歪めながらも彼女は必死になって話す。  
「うん、うん……ぃゃあ…うん…あっ…」  
枯れ果てるように通話を終え、彼女の表情は一瞬にして強張った。  
「なんでよ…もうやめてよ…」  
「電話越しで他の男とヤってんのに平気で話せるとかwやっぱり先輩って淫乱女ですね。  
 俺の想像以上でした。自分でもヤリマンって言っちゃう位ですし、この意味分かりますよね?」  
「もうやめてよぉ…やめてぇ…」  
「感じてるくせに何言ってるんですか」  
彼女が精神的な苦痛に顔を歪める表情ですら、今の俺にとっては宝物に思える。  
こんな表情、俺しか見れない。こんな絶望、俺にしか与えられない。  
 
俺は再び腰を動かす。彼女も自然と腰が浮き上がっている様に見えた。  
部屋の中にネチャネチャという音が響き渡る。静かな空間でこの繋がりだけが確かな熱を帯びている。  
動いているうちに、彼女がより感じる場所が分かるようになってきた。  
そこを執拗に攻めると、彼女は諦めたかのように快感に身を委ねる。  
「あぁっ…あっ……やぁっ…うっ…はぁ…はぁ……」  
―きれいだよ。今こんな先輩が見られるのは俺だけ、だもんね。  
彼女の甘美な声は、俺の雄の部分に呼び掛ける。  
「もっとやれ」と。「もっと壊してしまえ」と。  
もう。それからは、欲望のまま。決して枯れる事の無い欲望のままに彼女を自分のモノにした。  
―先輩、きれいだよ。本当にきれい。本当はずっとこんな顔が見たかった。この顔を俺だけのものにしたかったんだ。  
腰を動かすと彼女も腰を巧みに寄せてくる。  
そのオートマチックな光景になんとも言えない気持ちにはなったが、その彼女の淫らさが俺をどんどん狂わせる。  
俺自身を離さないかのように、出し入れすると彼女の中が俺を締め付ける。  
生涯で一度も感じた事のない、これ以上無い快楽に気が狂いそうになる。  
「…俺、もうイきそう。ごめん。」  
やっと終わるという安堵と共に、彼女を危機感が襲ったのだろう。  
みるみるうちに俺が欲していた表情が一変する。  
「いや、本当、中はやめ、て…」  
そんな言葉も虚しく、俺は彼女の中で果てた。  
彼女の中から溢れ出る白い液体はシーツよりも俺の網膜にこびりついた。  
彼女の全てを知ったような、そんな気になった。  
 
何回かの行為の後、彼女は気を失ったかのように眠った。  
彼女はこんな言葉を言い残して眠った。  
「高橋くんって、こういう時は僕じゃないんだね。  
 私、高橋くんの事、なんにも…なんにも知らなかったんだね…。」  
彼女は眠る直前、全てを諦めるかのように笑った。  
彼女の寝顔を確かめて、ネクタイを解いたところで、よくやくその意味に気付く。  
気付くと確かに、先輩の前では一人称が「僕」になっていた気がする。  
僕はずっと、紛い物だったんだ。嘘つきで、仮面をかぶった、どうしようもなくズルい男だったんだ…。  
 
時が過ぎ、少し冷静になる。  
乱れた衣服、シーツにこびりついた液体、彼女の傷付いた身体。  
これは、居酒屋で口にしたビールのせいだろうか。  
いや、多分…一滴も飲んでいなくとも、俺はこうしていた、と思う。  
彼女の「裏切られても多分恨まない位信じちゃってるから。バカみたいでしょw」という言葉。  
そんなの有り得ないよ。裏切られても恨まない程信じるなんてそんなの有り得ない。  
本当に先輩は馬鹿だよ。何が「嘘の無い人」だよ。俺、嘘だらけだよ。  
ずっとずっと隣で嘘ついてきたよ。気付かなかった?馬鹿だなぁ、本当。馬鹿だよ、先輩。  
「俺、裏切ったけど恨まない?」そんな事は聞ける訳が無い。答えはひとつしか無いのだから。  
 
 
 
 
次の日は、大学を休んだ。  
俺は弱い。  
全ては俺が原因なのに。  
勝手に好きになって勝手に舞い上がって勝手に暴走して。  
「もう会うのをやめたい」という断絶と、「これから彼氏に会う」という断絶が俺を狂わせた。  
今考えるとたいした事ではない。  
友達付き合いをやめようと言われた訳でもないし、  
彼氏や他の男と合っているなんてこの二年間幾度と無く受け入れてきた。  
それなのに、なぜ。なぜ狂ったんだ、俺は。  
答えは簡単だ、「俺はもう必要ない」と勝手にはき違えて暴走したんだ。  
最低だ。最悪だ。卑劣だ。俺なんて、死ねばいい。  
自らの最低で卑劣でどうしようもない愚かな行動への罪悪感と、  
彼女に対する征服感と、そしてまだ昨晩の余韻とで、感情がごちゃ混ぜになっていた。  
責任などとりようも無い。  
とれる筈もない。そもそも、もう彼女が俺の前に姿を現す事は無いだろう。  
でも、もし。もし万が一。彼女と顔を合わせてしまったら。  
土下座でもすれば許してもらえるだろうか。  
勿論、そんな事は有り得ない。  
贖罪なんて物は、無い。償いなんて、所詮自己満足だ。  
 
昨晩の自らに対する猛烈な後悔と反省と罪悪感に伴って、必ず興奮とが押し寄せてくる。  
あぁ。本当に俺は、ただただ最低な野郎だ。  
 
「今日は7限だけ、か…。」  
11時を指す時計を確認して、小さく呟き天を仰いだ。  
気付いた頃には彼女はもういなかった。当たり前だ。  
 
その日は、結局一日中眠っていた。  
気付けば夜になっていた。どうやら携帯の着信で起こされたようだ。  
携帯のディスプレイに表示された「伊藤由香」の文字を見た瞬間、驚いて携帯を手放してしまった。  
―え、なんで?  
その文字を見ただけで、昨晩の事を思い出し、まだ身体が疼く。  
昨晩無理やり、彼女に電話で会話させた瞬間、俺は確かに鬼畜だった。  
だが、その罪悪感に苛まれながらも、まだ興奮している自分が、まだ確かにここにいた。  
自分の理不尽さに頭がくらくらする。理不尽なのは彼女ではない、俺だ。  
 
震える手で携帯を操作する。  
まさか、またメールが来るなんて思ってもいなかった。  
内容は罵倒の言葉の羅列だろうか。  
まだ「繋がり」が持てるかもしれないという誰がどう考えても明らかに無駄な期待と、  
俺を責める言葉の羅列を見てどこか安心したいという気持ちがあった。  
いや、むしろそれでいいんだ。それが正しいんだ。  
彼女は俺を責めるだろう。当然だ。  
彼女の中の「憎悪」という感情が俺にだけ向かえばいい。  
それだけでも、もう幸せとすら感じてしまう俺は何なんだろう。  
彼女の中に俺の記憶が一生残ればいい。消せない記憶が。  
 
心拍数が加速しているのを体感したのはこれが初めてだ。  
震える手で、携帯のメールを開封した。  
 
 
彼女からのメールは、一文だけだった。  
「代返しといたから。」  
 
これが、最初で最後の代返だった。  
 
 
 
 

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