見渡す限りが山である。峻峰の麓、狭い扇状地にへばりつくよつに出来たこの小さな街は、要衝ではあるものの隣国と良好な関係が続く現在、ひとまずは寂れた田舎町の様相を呈していた。
通りすがる人は村人と軍人が半分ずつくらいのもので、こちらも関係は良好、街にはいつものほほんとした空気が漂っている。
名物といえば、泡立ちの良い麦酒と、東の森に住み着いている若い魔女くらいのものである。
同僚の話に気のなさそうに相槌をうっていたアルフレッドは、魔女の話題になった途端目の色を変えた。
娯楽もないような僻地の警戒任務にあたる兵士にとって、美人の噂というのはそれだけでちょっとした刺激である。
こと、それが今時珍しい魔女の噂とあっては、自他共に女好きと称するアルフレッドが食いつかないはずはなく、香ばしい木の実を噛み砕きながら、彼は興味津々に食いついた。
「ど田舎の美人なんて期待しちゃいなかったが、魔女さんか。多少ブスでもいけるぞ、俺は」
「やめとけ、呪い殺されるのがオチだ」
「処女じゃなくなったら魔力を失うんだろ」
「それは神官とかそっち系の話じゃないのか? いろいろごっちゃになってるぞ」
そうだったか? とあっけらかんと笑い、アルフレッドは麦酒を煽った。
魔女なんてものは年増の偏屈の根暗と相場が決まっている。決まっているが、無視するにはこの町は華が無さすぎた。
遊郭もあるにはあったが、アルフレッドは行為そのものだけでなく、単純に女を口説くことにも喜びを見出す性質だったので、商売女では物足りなくなっていたのだ。
「まあちょっと次の休みにでも面を拝んでくらぁ」
手込めにしたら感想を聞かせてやる、と彼は豪語したが、同僚達は鼻で笑った。
魔法やら魔術やらを信じているものはいなかったが、彼らのような職業人はおおむねジンクスを大事にしている。
どんなに美人でも魔女なんてものとは目を合わせたくないと思っている者がほとんどだった。
そんな罰当たりなことができるか、死ぬなら一人で死ね。同僚の冷たい反応には頓着せず、彼は謎の美女を想像して鼻の下を伸ばした。
アルフレッドが東の森に足を踏み入れたのは、それから二週間後の昼下がりのことだ。
齢およそ二十七を数える彼は、些か子供っぽいわくわくしたような顔付きで、それでも一応は王国軍の兵士らしく武装を整え、意気揚々と視察に乗り出したのである。
そのようないきさつだったから、彼女が彼を一目見て警戒心を抱いたのももっともなことで、彼女の魔力、というよりも女の勘が正しく働いたとしか言い様がない。
招かれざる訪問者を頭の先から爪の先まで見て、彼女――エイダは眉を顰めた。
「それで、なんだって?」
「ああ……だから」
薬を貰いに来たんだ。同僚がドブ水を飲んで胃腸をやられちまった。
なんだかぼうっとした表情で、男は訪問の理由をそう述べた。
病人がいるのなら助けないことはないが――彼女は相手をもっとよく見ようとフードを下ろし、顔にたれた黒髪のひと房を無造作に払った。
男はなにやら彼女の一挙手を注視し、数瞬呼吸を止めていた。
何だこの気持ち悪い大男は、と思わないでもなかったが、腰に吊ってある剣は確かに正規軍のものだ。
この春に来た新参だろうが、無法者と違い狼藉には及ぶまいと踏んだ。
もちろんエイダには狼藉者を追い払う手段も自信もあったが、厄介事はないにこしたことはない。
「しばらく待たれたい」
神妙な顔でエイダを見下ろしていた偉丈夫は、彼女が想像したよりも素直に頷いた。
その他には身じろぎせずに、熊のように立ち竦んでいる。
そのままでいたら肩に小鳥でもとまるのではないか、とエイダは想像し、男を見上げ、少しだけ笑った。男は笑わなかった。
エイダはひとつ咳払いをして身を翻し、彼女の他にくぐる者もない小さな扉をくぐった。薬瓶を探しに奥へ入る。
最初に抱いた印象の尾はもちろんあったが、少しだけ微笑ましい気持ちになっていたエイダは気付かなかった。
ローブを引いて歩く自分の背中に、やたらめったら熱っぽい視線が注がれていたことに。
魔女といえどもエイダは普通の女である。とはいえ厭世人であることは疑いようがなく、幼少の頃から二十歳になる今まで、普通に育てられた女なら必ず抱くはずの自意識というものが彼女には乏しかった。
いつも湿っぽい、黒いローブを身に纏い、うつむき加減に森を歩く。生活の糧は森で得たなにがしと、ときおり薬やまじないと物々交換に人間から必要なものを得た。
一人であったが森は賑やかだったから寂しくはなかった。それでもあえて言うなら、人間の訪問者が帰った後は少しだけ心がしんと静まった。
小窓に寄りかかり、ねえ、と鳥を呼んで指先にとまらせたりしてみる。それは寂しさを紛らわせる行為だと彼女は知らなかった。
人の訪問があったときは白い頬が少しだけ赤くなることも、当然無自覚であった。
「…………」
目的の薬瓶はすぐに見つかったが、その中身は空っぽだった。エイダは律儀にそれを両手で抱え、戸口で待つ男の元へ向かう。
扉を開けると、男ははっと顔をあげた。彼女もつられたように驚いて、少しの沈黙が二人の間に訪れた。
先に気を取り直したのは男の方だった。我に返ったように、あんた、とエイダに呼びかけた。
「名前は? 俺はアルフレッドという」
「エイダだ。悪いが、今薬を切らしている」
几帳面に、瓶のラベルが見えるようにアルフレッドに掲げ、(ラベルを見たところでアルフレッドには分からないのだが)エイダは少しだけ頬の赤い、無表情で言い放った。
「急ぐならば今から作る。待てるか」
彼女の物言いに特に不快は感じなかったらしい、アルフレッドは頷いた。物静かな男だなと彼女は思った。その評価をすぐに翻すことになるのだが――ひとまず、彼女はある程度彼を信用することにした。
人間は苦手で、よく喋る人間はもっと苦手だ。けれど、寡黙な人間であれば短時間は邪魔にはならない。
「入れ」
アルフレッドは素直に従った。
「座れ」
やはり素直に座った。一昨年に彼女が作った椅子が悲鳴を上げた。
「茶は出ないのか?」
男が言った。
意外に図々しいらしい。
「今いれる。招かれざる客と自覚せよ、兵士殿」
さらりと言って、茶の準備をしながらエイダは考える。そういえば、人がここを尋ねるのは久しぶりだ。ひと月半前に少年が夢魔除けのまじないを取りに来たのが最後だったか。
「あんた、年は」
背中に向かって尋ねられ、エイダは見せず憮然とした。
「私に用はなかろう。……二十歳だ」
とはいえ素直に答えるのが彼女の性格である。
「百二十歳?」
「二十歳だ。別に不老でも不死でもない」
なんとなく振り返らず、エイダは湯の沸くのを待った。薬よりも茶が大事か、と胸のうちに毒づきながら。
「一人で住んでるのか」
「そうだ」
「寂しくはねぇのか」
「ない。……あなたはよく喋るな」
「あなた」
「どうした」
「いや」
男が深く息をついた。言外に静かにしてくれと言ったつもりだったが、なあ、と男が言った。問答はまだ続くらしい。
「友達はいないのか」
「人間の友達はいない」
「もしかして動物と喋れるのか」
「そんなわけあるか。よく懐いてはくれている」
ふうん、と言って、アルフレッドは間をおかず言った。
「男はいるのか」
「男?」
質問の意味を図りかね、エイダはやっと振り返った。彼とまともに目が合って、怯みはしないものの多少驚く。背中を睨まれていたとは。
「動物には当然オスもいるが……」
ぶは、とアルフレッドが噴き出した。なぜ笑われたのか分からないが、馬鹿にされたのは分かった。悔しいような、少し胸が痛いような、妙な気分になってエイダは目を伏せた。
「いや、わりぃ」
無視して背中を向け、茶を入れる。怒りに任せて乱暴に注いだから、湯が跳ね、指先にかかった。
あつ、と小声で叫んで、がちゃがちゃ器を鳴らし、エイダは乱暴に茶を運んだ。
「薬はすぐ作る。長居は無用だ」
言って、テーブルに差し出した手を引っ込める前に、エイダは固まった。
エイダの白い手の、三倍は分厚い大きな手が、彼女の手首を握っている。
「何?」
彼女は訝しんで彼を見た。最初の瞬間、彼は笑いぶくみだったが、すぐに真顔になった。
「…………いや」
アルフレッドの目線はエイダの掴まれた手に落ちた。
「離せ」
彼はすぐに手を離した。なぜか、その固い手のひらをエイダの手の甲に滑らせてから、両手を顔の横に上げ、ひらひらと振ってみせた。何もしないという意味だろう。
軽薄な男だ。断じて、エイダは忠告の意味を込めて言った。
「私に触れた男はあなたで二人目だ」
「二人目?」
「ああ。一人目はもうこの世にいない。意味がわかったら、私に危害を加えようとは思わないことだ」
「心配しただけだ、俺は。魔女でも火傷をするのかと思ってな」
口元を歪めて男が言った。
エイダは言葉の意味を考え、僅かに頬の赤色を濃くした。
「心配は無用だ」
三歩歩いて、振り返る。
「誤解してすまない」
今度はアルフレッドがきょとんとする番だった。彼は一瞬気まずそうな顔をして、椅子に座り直した。
窓の外では小鳥が鳴いている。初夏のやや強い、温かい午後の陽光が部屋に射し込んでいた。
エイダは窓を開けた。風が吹き込んで彼女の髪を揺らした。その動作は客人のためであった。男が来てから、突然この部屋の埃っぽさが気になりだしたのだ。
「そこから動かないように」
きつく男に命じてから、作業場――というか物置だったが――に行く。エイダは腕まくりをして薬作りに取り掛かった。
が、ものの一分もせず、エイダは作業を中断することになった。
おかしい。
「そこから動かないように、と私は言わなかったか」
「門外不出の魔法だったか?」
「そういうわけではない。気が散るから」
「邪魔はしねぇよ」
もう既に邪魔だ。エイダは黙りこくった。ここは無視して早く薬を作り、お引き取り願うのが一番の近道だろう。
男は図々しくも居間から椅子を持ってきたらしい。前後ろ逆に座り、背もたれに寄り掛かるようにしてエイダの作業を見詰めている。
エイダにとっては居心地の悪いことこの上ない。半ばやけくそ気味に材料を鍋に投げ入れ、あとは火ばかりを見続けることにした。
「意外と普通の材料なんだな」
アルフレッドが喋った。エイダは無視してりんごを齧った。
「なんだ? 機嫌わりぃな、生理中か?」
ぎょっとして、思わず男を見る。にやにやと軽薄そうな笑顔を浮かべ、赤毛の男は、冗談だよ、と言った。
実はこのとき、彼もやけくそ気味だったのだと、エイダは知ることになるのだが、それはまた後の話だ。
「下品な男だな、あなたは」
エイダにとって精一杯の罵倒である。
「よく言われる。あんた、よくこの臭いの中でものが食べれるな」
「嫌なら出ていってもいいんだぞ」
「あの茶も変な匂いがしたが、なかなかイケる。体に良さそうだな。でも今度いれてくれるときはイモリの尻尾は入れないでくれ」
「この薬はよく効くから、もう二度とあなたが友人のために来る必要はない」
「別の部下が頭痛をこさえる予定だ」
微妙に会話が噛み合っていないことにお互い気付いた。あー、とアルフレッドが唸りながら言葉を探している。
彼は真っ直ぐにエイダを見た。
何か言うのかと彼女は待った。しかし、二秒待ってもアルフレッドは何も言わなかった。いたずらに見つめられただけである。エイダは赤面してため息をついた。
「じろじろ見られるのは好きじゃない」
「だろうね。俺だって見てるだけはつまらねぇよ」
「だったら向こうで小鳥とでも遊んでいればいいのに」
良く分からない男だ。言い捨てて、エイダは鍋に向き合った。そろそろ薬が煮詰まる頃合である。
どろどろの緑色を何度かかき混ぜ、小瓶に入れる。本当は固形にするのだが、今日は急ぎだ。
「出来たぞ。熱いが帰るうちに冷めるだろう。瓶の半分が一回量。保存はきかないが、二回飲まないうちに治るはずだ」
「ありがとよ」
エイダが差し出した小瓶を、彼は彼女の手ごと包み込むようにして受け取り、ポケットに入れた。それから少し逡巡するような間を置いて、彼は背を屈めた。
やっぱり少し驚いたエイダは、お代を貰い忘れたまま、彼を見送ることになった。
「恩に着る。じゃあな」
言って、あっさり去った男に再訪問の口実を与えてしまったことには気付かず、しばしエイダは立ち竦み、唇を当てられた額を押えていた。
アルフレッドが魔女の噂を聞いたのと同じ酒場で、やはり同じ同僚に魔女の話を振られたとき、彼はそうとわからぬくらいだけ動揺して、ごく短くエイダなる魔女を評した。
「ブスではないが、ありゃあつまらねぇ」
「本当に会いに行ったのか。つまらないとはどういうことだ?」
彼はエイダのほっそりとした後ろ姿を思い出した。意外に大きく布を押し上げていた胸と、『ブスではない』、すっきりと整った美しい顔を思い出した。
終始紅潮していた頬は、彼の帰る間際に最も赤くなったこと。彼が(そんなつもりはなかったのだが)嘲笑したとき、傷ついたように下を向いたこと。生真面目に返事はするけれど、まるでこちらに興味の無さそうな、つまらない横顔。
「……金を払い忘れた」
「アルフレッド?」
「ちくしょう、またあいつに会いにいかなきゃなんねぇのか」
顔を隠し、声もくぐもったから、周りの誰も彼の声が弾んでいたことには気付かなかった。
女に惚れたときは、その女の容姿の率直な評価を吹聴して回る彼であったが――今回ばかりは勝手が違うらしい。
色々なことを内緒にしておく方がいい、と思ったのだ。
周りに対しても、彼女に対しても。
一週間後のこと。
その日彼は片手で足りぬほどの回数、同じ台詞を人から言われた。機嫌がいいなアルフレッド。いずれも否定せず肯定せず、苦笑いで応えた。
「俺が知る限りで一番美味いアップルパイはこの店のアンナちゃんのやつだからよ」
「一人で食べるの? さっみしいわねぇ」
金髪の『アンナちゃん』から手渡しで焼きたてのアップルパイを受け取ったのが小一時間ほど前。まだ温かいだろう。
蔦の這う小屋の小さな戸をどんどん叩き、アルフレッドはその日一番の浮かれた声で魔女の名を呼んだ。
「エイダ」
変な感じだ、と彼は思った。呼んだ名前が宙に浮かんでいる。
しばらくもせず、扉は開いた。魔女は黒いローブのフードを目深にかぶっており、咄嗟にその表情は知れなかった。彼女がフードを下ろすことを彼は期待したが、すぐには叶わないらしい。それどころか彼女はフードの端を引っ張り、ますます表情を見えなくさせた。
「何をしに来た」
想像したよりも遥かに冷たい声音に挫けそうになったが、アルフレッドはなんとか踏みとどまった。
「薬の代金を払いに来た。それと」
軍服に似合わないバスケットを掲げて見せる。香ばしい、甘い林檎の香りがふわりと漂った。
「なんだそれは」
尋ねたエイダの声は一気に明るさを増していた。内心で喝采を上げつつ、アルフレッドは冷静に言う。
「詫びだよ。茶を入れてくれ、イモリの尾抜きで」
「……分かった」
どうやらこのお土産は予想以上に功を奏したらしい。エイダの視線の方向はさっきからずっとバスケットに向いている。
些か焦れて、アルフレッドはエイダの後頭部に手を伸ばした。フードをぐいと引っ張り、顔を晒してやる。
「やっ……」
「ごゆっくりとか、言ってくれねぇかなぁ」
エイダは彼の腕を乱暴に払い、それはそれは慌てたようにバスケットをひったくった。
「これはありがとう。でも、あなたは私に変なことをするから、あんまり歓迎はできない」
「まだ何もしてねぇぞ」
「しただろう!」
「おでこにちゅー?」
エイダは怯えた顔をした。アルフレッドは面白そうに、そして少し不満げに、距離を詰めた。
同じ距離だけエイダは下がり、彼を部屋に招き入れ、そそくさと台所に逃げ込んだ。
頭を掻いて、アルフレッドは嘆息した。会話の一つ一つが妙に楽しかった。
運ばれてきたのはどうやら普通の紅茶らしい。木目のごつごつした机の上に、エイダはバスケットを置いた。アルフレッドは彼女の表情を盗み見、やはりとても美人であること、好みであることを確認した。
「見てもいい?」
バスケットにかかった布を摘んで、エイダが嬉しそうに言った。
ご自由に、とぞんざいに言いながら、実のところ彼女が喜んでくれてアルフレッドは嬉しい。ちょろいもんだ、と胸のうちに笑いながら、やっぱりちらちらエイダの方を見ている。
布は取り払われた。いい匂いが強くなって、エイダは明確に歓声をあげた。
「本当にくれるのか」
「俺も食うぞ、もちろん」
「うん。――あれ」
ふと、エイダが首をかしげた。バスケットの端に何やらカードが挟まっているのを、アルフレッドも見つけた。彼が止める間もなく、彼女はそれを取り、開いた。
「…………」
直感で。アルフレッドは慌てた。エイダが凝視するカードを彼女の手からひったくり、文面に目を走らせる。
『私が今晩一緒に食べてあげましょうか? 愛を込めて アンナより』
いらねぇよバカ野郎。
とは言わないまでも、彼は歯ぎしりをした。
「まいったな、モテる男はつらいね。はははは」
「持って帰った方がいいな、これは。アップルパイはまた今度自分で焼こう」
言って、アルフレッドを見上げたヘーゼルの瞳に、何の感情も見い出せなかったので、彼の方が余計に狼狽えた。
「いや、あんたに買ったもんだから」
「そうは言っても、アンナさんだってアップルパイが食べたくてしょうがないんだろう。私がそれを貰うわけには」
「んなわけあるか、そいつはアップルパイなんか死ぬほど食ってる。いいから気にせず食え」
「……死ぬほどアップルパイを」
「そうだ」
「あなたはそんなに彼女にプレゼントを?」
宝物を見るかのように、エイダは黄金の生地を見下ろしている。
「じゃあ、これは私がいただきます」
彼女の声が少し低く、笑顔も寂しそうに見えたことにアルフレッドは気付いた。
そのことが嬉しかったので、アップルパイに関するエイダのちょっとした誤解は解かないでおいた。
これはゆっくり距離を詰めていけばあるいは、と内心でほくそ笑む。
ただ、エイダには未だかつてアップルパイを持ってくるような人間の友人がいなかったことと、自分には掃いて捨てるほどの女友達がいること――この重大な格差には彼は思い至らなかった。
ひとまず、熱い紅茶と、冷める寸前のアップルパイはとても美味しく、口数は少なかったものの、魔女との会話も問題はなかった。
「あんたは料理をするのか? アップルパイは焼けるようだが」
魔女はぎくりとした。
「それはまあ、一人だから。得意ではないけれど」
「そういや、どうして一人暮らしなんだ?」
「魔女とは一人で暮らすものだろう?」
「そんなもんか」
「そんなもんだ」
アップルパイは期待したよりも減らなかった。さくさくと音を立てて噛むエイダの口元を見ながら、アルフレッドは隙を探す。彼女の下唇に生地の切れ端がくっついてるのを認め、これ幸いと手を伸ばした。
「付いてるぞ」
ついでに指で唇を摘んでやる。ぷるんと、幸福な感触。女を陥れるはずが自分の背筋に熱が這い登ってきて、アルフレッドは、あれ、と思う。
摘んだ食べかすはアルフレッドの口に入れた。
女はこういうのに弱いのだ。
エイダはぽかんとアルフレッドを見ている。
目が合った。彼は唾を飲んだ。
計算づくで動くはずが――彼はほとんど無意識に右手を動かした。エイダの真っ赤な頬を撫でさすり、唇を指でなぞった。彼女が固まって動かないのをいいことに、親指の先を口の中に突っ込んだ。
「…………」
我に帰ったのはアルフレッドのほうだった。うあ、とエイダが変な声をあげたのを聞いて。
「……もうひと切れどうだ」
ぶるぶる首を振って、エイダは椅子を大きく後ろに下げた。
「次私に触ったら、触ったら」
「どうなるんだ?」
「腕を落としてやる。壊死させて、ぽとん、だ」
そいつはぞっとしねぇな。笑いながら、アルフレッドは右の親指をぺろりと舐めた。
小一時間ほどを過ごし、帰り際、アルフレッドはエイダにまた来てもいいか、と聞いた。
僅かに言葉を選ぶ間を置いて、エイダは言った。
「私に触らないなら。構わない」
「了解了解」
「ほんとに了解したのか?」
「したした」
怪しむ目線をかわし、彼は手を振った。じゃあまた。付け加えて、来週、と。
魔女は憮然と頷いた。見送りは一瞬で、彼女はすぐに扉の向こうに消えた。
それからは一ヶ月ほどは穏やかな日々が続いた。アルフレッドは毎週何がしかの土産を持って魔女の家を訪問し、エイダは概ね無表情で、頬だけを赤くして彼を迎えた。
変わったことと言えばエイダのフードが役目を果たさなくなったことと、彼女の笑顔が増えたことぐらいのもので、どちらもアルフレッドにとっては喜ぶべき変化だった。
何度も訪問し、彼の滞在時間も伸びているのだが、他の客と鉢合わせたことはなかった。家の外で鳥や獣はうるさかったが、どうやらエイダはほんとうに孤独らしかった。
アルフレッドがそれを指摘すると、彼女は静かに微笑んだ。
「用もないのに私を訪ねてくる物好きはきっと、あなたぐらいのものだ」
ありがとう、とは言わなかったが。アルフレッドは言葉を忘れるほど彼女の笑顔に見蕩れた。
アルフレッドが帰るとき、彼女はだんだんと名残惜しそうにするようになった。
その日の去り際、初めて彼女はアルフレッドに次の来訪予定を尋ねた。彼は顔がにやけるのを隠しきれず、すぐに、と言いたかったが、ぐっと堪える。
ここまで近付けた(餌付けした)のだから、今度はエイダの方が焦がれてもよいだろう――ことここに至ってようやくアルフレッドは自分の追い詰められた気持ちを自覚した――そうでないと、かっこ悪い気がする。
腐っても女たらしで名が通っているのだ、こちらは。いらぬ矜持としか言いようのない意地が、彼に虚勢を張らせた。
「次はいつか分からねぇ。大規模な演習があるからな」
「そうなのか……」
しゅんと肩を落とした(ようにアルフレッドには見えた)エイダを、抱きしめようとした腕は空を掻いた。
彼女はぱたぱたとローブを揺らして奥へ引っ込み、ひとしきり騒音と埃を立てたあと、顔を汚してアルフレッドの前に現れた。
「怪我をしないように、まじないをやろう。武運と息災を」
「演習だっての」
胸が痛まないでもなかったが――その程度は隠しおおせる。何かのツルと、おなじみイモリの尻尾、それに変な呪文の合わさった謎の代物を胸に納め、アルフレッドは笑顔を見せた。
実は来週でも来れるけれど。一週おくしかあるまい。
嘘を悔やみながら彼は魔女の家を辞した。
思えば、この日まで――とてもうまく行っていたのだと、アルフレッドは思う。
例えば嘘をつかず素直に会いに行っていれば。
例えば潔く嘘の通りに一週間でも二週間でも時間をおいていれば。
こんなひどいことにはならず、ほのぼのとした日々が続いたはずなのである。
お守りを預かった翌週、アルフレッドは居ても立ってもいられなかった。
エイダに会いたい。笑顔が見たい。触りたい。
ごくごく不純な、いや純粋な衝動から、彼は言い訳を考えながら森の道を歩いた。
いつもの小さな小屋が見えたときである。
彼は初めてその家に先客を認めた。エイダと同じ黒いローブを来た若い男だった。
遠目に見えた時点で、なぜか彼は身を隠した。
「……やましいこたぁねぇよな」
そう思い直し、小屋に向かって歩きかけた瞬間である。
エイダより少し背の高い男が屈んだ。彼女のフードを下ろし、見上げる彼女の、赤い頬を両手で包んだ。顔を近づけ、キスをした。
なんだ、とアルフレッドは思う。
なんだ、これ。
足は少しも動かないし、声も出ない。エイダは、エイダも、動かない。アルフレッドがささやかに彼女に触れるときには過敏に嫌がる彼女が、微動だにせず男の背中を見送っている。
視界が歪んだ。頭の中がエイダのローブの色に染まった。
俺は随分この女に執心してたらしい――鳥肌と、知らず拳に込められた力で思い知る。今、自分がどれほど醜い顔をしているか、それは想像するに容易かった。
「エイダ」
アルフレッドが呼んだとき、彼女は明らかに驚いていた。
「アルフレッド、どうして」
「来ちゃ不味かったみたいだな」
初めて名前を呼ぶのが今か。思って、笑いが込み上げる。
エイダは実に気まずそうに目を泳がせていた。
「違うんだ、彼は……」
その先の言葉を、アルフレッドは待った。別に言い訳が必要な仲ではないはずだが、聞いてやる方がお互いのためだと心底思った。
けれど、彼女は何も言わなかった。瞬きをして、ヘーゼルの瞳に僅かに涙を滲ませるばかりである。
彼はだんだん、怒りが脱力に変わっていくのを感じた。
「彼は、なんだ?」
ちょっと触るだけで真っ赤になったり、私に触れるのは二人目だとか言ったり、男の存在をはぐらかしたり――そういうことだったのだろう。
アルフレッドはからかわれていたのだ。忘れていた、相手は魔女だ。一介の兵士を手玉にとってアップルパイを運ばせるくらいわけのないことだろう。
「アルフレッド、怒って――」
「怒ってない」
魔女が自分の持てる魅力で彼を弄んだのだから、アルフレッドにだってそれは許されるはずだ。
そういう理屈で、彼は自分の持てるものを最大限行使することに決めた。
「手っ取り早くこうしておけばよかった」
「何……」
「お茶と言い訳は後でいい、魔女が」
表面上、エイダは傷ついた顔をした。こういう表情もうまいことやるもんだ、とアルフレッドは冷静に感動した。
片腕を捻りあげる。簡単に関節を極めて、隣の間の寝台に放り投げた。
魔女はか細い悲鳴をあげたけれども、頓着するほどでもない。のしかかり、アルフレッドは自分の体重を一瞬だけ彼女に全部かけた。エイダが苦痛に顔を歪めたのを見て、すぐにやめた。
「俺が怖いか」
「アルフレッド、どいて――」
「わりとロクでもない生き物だ、男は。あんたとのお茶も、くだらない会話も、全部これが目的だった」
はっきりと、エイダは震えていた。何を伝えようとしてか、彼女が一生懸命に首を振る仕草を不快に思い、アルフレッドは片手で彼女の顎を掴んだ。そのまま唇に噛み付いた。無理矢理舌をねじ込み、唾液を流し込んだ。
「やら、や」
「うるせぇ」
殴る気はなかったが、拳を振り上げる。エイダはぎゅっと目を閉じた。何となく傷ついたような気持ちになって、アルフレッドはゆるゆると腕を下ろした。もはや抵抗の色も見えない魔女の、ローブの上から胸を掴んだ。
思った通り、大きい。柔らかい感触は手の平から逃げるようで、彼は乳房を揉みしだいた。
ひゃ、と間抜けな声をあげて、エイダは自分の胸とそこに這う手、それから人の変わったようなアルフレッドの顔を見上げた。彼は彼女を見た。というより睨み付けて、睨み付けて、噛み付くようにまた口付けをした。太い舌が彼女の口内を蹂躙した。
一時蒼白だったエイダの頬は、再び真っ赤になっていた。
アルフレッドは無理矢理ローブをまくりあげた。
「やだぁ、やだ、やだ、アルフレッド、見ないで」
腕まで布を押し上げ、両手を頭上に上げさせたが、エイダは従わなかった。どうにかして身体を、正確には腹を隠そうとしているようだった。
理由はすぐに分かった。真っ白な腹を斜めに横切る、大きなケロイド。
傷でも欠損でも、アルフレッドは見慣れている。腹の傷を差し引いても綺麗な身体だった。胸はやはり大きく、手の平にはとても収まらない。
エイダが身を捩る度にぶるんぶる揺れて、目に心地いいことこの上なかったが――残酷な気持ちが勝った。
彼は指で魔女の腹の傷をなぞった。
「何だこれ、ミミズみたいだな」
エイダは目を見開き、さっと顔を背けた。ぼろぼろと泣き始めた。
おかしい。アルフレッドは首を傾げる。ひどく胸が痛い。
何となく両手でエイダの頭を掴んだ。ごしごしかき混ぜて、それでも居たたまれない両手で、彼女の濡れた頬を掴んだ。
さっきの男がやったよりも乱暴なことは疑いなかった。その後の口付けも。離れ難さに繰り返す、貪るようなそれ。
「腹を出せ、ちゃんと」
エイダは首を振った。やっぱり、泣いていた。
彼女の手の隙間から、傷跡を舐める。頭を殴られた。元気いいじゃねぇか、と低い声で言って、アルフレッドはひとまず傷をいじめるのを諦めることにした。
装備を外す。ついでに、ナイフを抜いた。魔女の顔の横に突き立てると、彼女はそれは平気だったらしく、涙で濡れた弱々しい目でアルフレッドを見つめるばかりだった。
彼が早々に『目的』を果たそうとしてることに、彼女も気付いただろう。ナイフが彼女の下着を器用に裂き、金属音を立てて床に落ちた。何もかもから目を逸らし、エイダは食卓に続くドアを見ていた。
そういえば、と、下穿きをくつろがせながらアルフレッドは思う。
今日はアップルパイを持ってこなかった。どうせ最後なら、土産に持ってきてやっても良かった。
「エイダ」
名前を呼んだ。その響きはいつかのように宙には浮かばず、床に落ちた。
柔らかい胸を楽しみながら――白い肌が朱に染まり、乳首が腫れるまで遊ぶ。
腹の傷など。取るに足らない、全然。
「エイダ」
押して入るべき隘路はわずかに湿っていた。妙に狭いそれまでが拒否を示しているようで、アルフレッドには面白くない。
「だめ、私、まだ……」
何か言いかけた、エイダの言葉は途中で悲鳴になった。
アルフレッドははたと我に帰った。組み敷いた女が処女だったらしいこと、今それを奪ったこと、自分が恐ろしい罪を背負ったこと――色々な了解が彼に押し寄せた。
どんなに泣かせても収まらなかった熱が、嫉妬が、一時引いて、静寂が訪れた。
「人間は、ひどい、ことを、する」
エイダが言った。アルフレッドは何も言えなかった。
「私は、あなたが初めての人間のともだちに……」
それ以上は聞けなかった。投げやりに、アルフレッドは腰を振った。彼が目した通りエイダは口が聞けなくなったが、彼はちっとも楽になりはしなかったし、処女の狭い、湿り気の足りない性器は、物理的な刺激以外に、少しの充実も彼に与えなかった。
ん、んん、と、喉を潰すような声、なんの快楽もないエイダの喘ぎ声。
アルフレッドは身体を落とした。力任せにエイダを抱きしめて、彼女の頭を腕で抱えた。
「この黒髪が好きだ」
うわ言のように言った。
「ほんとう?」
泣き声だった。
それを聞いて、もう、限界だった。
抱きしめなくてもこの女は逃げはしないと分かっていたが、それでも、射精の瞬間、身じろぎすらできないほどにアルフレッドは彼女を抱きしめた。
長い、短い、数度の波のあと、どうやって顔を晒そうか、どうやって身体を離そうか、全く思い付かず、彼は考えるのをやめた。じっと抱きしめ、動かずにいると、汗が吹き出した。
背中でエイダの小さな手が泳いでいた。みるみるうちに熱を増す彼の肌を、困ったように、問いかけるように撫で続けていた。