38度弱。  
今年も予防注射は受けていたので、インフルエンザではなさそうだ。  
「思ったよりあるねぇ…、大丈夫かい?」  
昌は俺がくわえていた温度計を覗き込みながら、間延びした声で呟く。  
「熱が出てる時点で大丈夫じゃないけどな。」  
「あー、そういやそうかもね。」  
あははー、なんて気楽に笑ってやがる。  
俺はというと、なかなか本格的に具合が悪い。  
これで気付かずに学校行こうとしてたんだから、やっぱり病は気からってとこか。  
「…まあ、そろそろ薬も利いてくるだろうし。辛いならちょっと寝たら?」  
「ん…」  
言われてみれば、さっき飲んだ薬の効果だろう、少し頭がぼんやりしてきていた。  
「そうするかな。」  
「うん。じゃあ、お休みー。」  
そう微笑む昌に見送られながら、重い瞼を閉じた。  
 
 
と、目を瞑ったのはいいものの、いつもと違う状況のせいか、どこかそわそわして落ち着かない。  
意識が沈んでいったと思ったら、微かな物音で浮き上がってきて寝付けなかった。  
仕方なしに、浅い眠りの中昌の一挙一動をうかがっていると、程なくしてピンポーンと妙に明るい音が部屋に響いた。  
出ていいものか迷ったのだろう、少しの間を置いた後、昌は玄関に立ち上がり歩き出した。  
朦朧とした俺の意識は、それを無言で見送った。  
 
って、  
「―――ちょっと待てッ!」  
ベッドから飛び起きて、玄関まで飛んでいく。  
それは、我ながら病人とは思えないほど迅速な行動だった。  
 
俺は、間違いなく一人暮らしだ。  
そのはずなのに、呼び鈴を押してアイツが出たら、倫理的にも社会的にも、色々と、まずい。  
これでも身内には真面目で通ってるんだ、俺は!  
 
しかし、やっぱり気が付くのが遅すぎたらしい。  
既に扉は開かれ、差し込む太陽の光がまぶしい。  
部屋に吹き込む風が、最早清々しいくらいだった。  
 
突然の来訪者は、艶めく黒髪を靡かせて、我が家に侵入を果たしていた。  
背中まで伸びた髪と、地味でも整った服装はいつも通り。  
呼び鈴を押したのは、最悪の人物だった。  
「こんにちは、平良君。お加減はもう大分良いみたいですね。」  
にっこり。  
ひぃぃ…  
目が笑ってないぞ、あれ。  
 
昌は彼女の後ろで、『誰コレ?』というジェスチャーをしている。器用な奴だ。  
「立ち話もなんですし、上げてもらって構わないかしら?」  
「あ、ああ。勿論構わないデスヨ?」  
別にやましいことをしていたわけでもないのにオドオドしてしまう俺。  
まずい、実にマズイ。  
たまらなく嫌な予感しかしない。  
え、何?もしかしてこれが噂の修羅場って奴ですか?  
 
彼女は机の前に礼儀正しく正座していて、つられて思わずこっちまで正座してしまっていた。  
昌だけが、だらしなく足を投げ出している。  
「あの超がつくほど真面目な平良君が二日連続で休んだんですもの。心配で来ちゃいました。」  
彼女は簡潔にここに来た理由を説明する。  
失礼にもそんぐらいで来ないで欲しいとか思ってしまう俺。  
いや、気持ちは嬉しいんだけれども。  
「あー、ちょっと風邪引いてな。生憎まだ現在進行形で病人だけど。」  
「ええ、そんなことだと思ってました。看病してくれる人も居ないだろうって思ったんですけど……」  
「ていうか、誰よ?コレ。」  
順調に進んでいた会話も、昌の不機嫌そうな一言で、一瞬にしてピーンと張り詰める。  
「―――――コッ、これ?」  
引きつる遠峯の顔。  
あ、頭も痛いかも。  
 
「………えーっと。」  
こめかみを抑えながらなんとか声を絞り出す。  
「こいつは遠峯。遠峯伶理(トオミネレイリ)。同じゼミなんだ。」  
「よろしく。」  
簡単な自己紹介にあわせ、遠峯は挨拶をしてみせた後、  
「―――間に合ってたみたいですね、看病。」  
なんて、俺に小さく耳打ちをする。  
それだけなのに、喉元に刃を突きつけられてるようなさっきを感じるのは気のせいだろうか。  
気のせいだろう。  
気のせいであってほしい。  
「で、こちらの方は?」  
さっきから対面で状況が良く飲み込めてさそうなわりに、なぜか機嫌の悪そうな昌に目配せをする遠峯。  
さっきからのこの笑顔は、かなりヤバいと思う。  
だって、こんな遠峯の顔、今までに見たことないんだぜ?  
 
昌もこの状況をどう理解したかは知らないが、一転、笑顔で言葉を返す。  
「斑目昌。昨晩からケースケ君のところでお世話になってますワ。」  
なってますワ、ってコラ。  
白々しく下の名前で呼びやがって。  
そんなに誤解を招くのが愉しいか、このアマ。  
「……………」  
「いや、待て。ちょーっと落ち着こうか遠峯。」  
一応、フォローに入る。  
けれど予想通り、それは遠峯の耳に入ることはなかった。  
「平良君は、お昼は済ませましたかっ?!」  
がばっと立ち上がって、異様に明るい声で尋ねてきた。  
「え………?いや、まだだけど。」  
その質問と、遠峯の意図が読めない俺。  
「それじゃあ、ちょっと台所借りますねっ!」  
言うが否や、遠峯は提げてきたらしいスーパーの袋を片手に、台所に侵入する。  
「って、遠峯、ちょっと待てって!俺の話を聞―――」  
遠峯を追って慌てて台所に入る。  
「病人は大人しく寝ててください。―――あんまり五月蝿いと……」  
ゆっくり振り向く遠峯。  
その手には既に包丁が握られていた。  
 
「なかなか可愛い彼女じゃないか、キミ。」  
大人しく寝ている病人の俺に、昌が話しかけてくる。  
顔からして、間違いなくコイツはこの状況を愉しんでる。  
「なるほど、だから昨晩はつれなかったわけだ。でもダメだよー、彼女がいるならこんなあばずれを部屋に上げちゃ。」  
自称あばずれさんは、人が黙ってるのをいいことに好き勝手なことを言ってくれる。  
「しかも、誤解されちゃったねぇ。どうするよキミ。」  
だから、誤解を誘ったのはどこのどいつだってんだ。  
「………なんで返事しないのさ。」  
そりゃお前、包丁だぜ?刃物だぜ?  
今の遠峯だったら、五月蝿くしたらどころか、物音を立てただけで刺されそうだ。  
「………そんなにおっかないの?」  
そりゃあ、もう。  
 
 
遠峯伶理。  
父親は大学教授、母親は中学の教師という学者一家に生れ落ちた彼女は、  
厳しくも溢れんばかりの愛を受けて育てられ、才色揃った令嬢に成長した。  
我は強いが決して我侭ではなく、彼女の行動は常に自信と信念に満ちている。  
成績も優秀で、容姿も文句なし。いわゆる完璧超人って奴だ。  
男共にはなかなか人気があったが、高嶺の花というイメージが強いらしく、実際に行動を起こすものは少なかった。  
そして、勇気を振り絞ったものはことごとく散った、らしい。  
 
と、まあ、そんな風に色々と有名な遠峯がわざわざ見舞いに来てくれるのは、恋人同士なんていう幸せな事情じゃなく、ちょっとした昔のよしみのせいだったりするわけなんだが。  
それはそれでややこしい話なので、またの機会っつーことで。  
 
「起きてます?」  
呼びかけに目を開けると、覗き込む遠峯の顔があった。  
「………寝てた。」  
なんか、妙な夢を見てた気がする。  
「じゃあ、起きてください。せっかくの手料理が冷めます。」  
そう言う遠峯の持つお盆の上には、茶碗と、一人用の小さな土鍋が湯気を立てていた。  
「うー、どれくらい寝てた?」  
身体を起こしながら尋ねる。  
頭が重いのは、まだまだ寝足りない証拠だ。  
「二十分くらいですかね。心配しないで下さい、今更既成事実のために襲うなんてことはしませんから。」  
かちゃかちゃと食器を並べながら、微妙に恐ろしいことをしらっと言う遠峯。  
………今度からコイツの前で寝るのは控えよう。  
「ほら、ちゃんと座ってください。」  
遠峯に促されるまま、机の前に座らされる。  
「お粥、か。」  
土鍋の中身を確認する。  
多少なりとも寝たのが良かったのか、それとも薬が効いてきたのか、  
大分調子も戻ってきていて、これくらいなら食べられそうだった。  
 
「………あれ?俺の分だけ?」  
一つしか置かれていない茶碗に、軽い違和感を覚える。  
「ええ、私はもう食べてきましたから。」  
「あ、いや。でも、昌も―――」  
そこでやっと気が付いた。  
部屋に昌の姿が無い。  
寝る直前まで、あんなに五月蝿かったっていうのに。  
「昌さんなら、さっき出て行きましたよ。」  
「え?」  
キョロキョロと部屋を見回す俺に、遠峯は眉をしかめる。  
「もう帰るって。あの人、お礼言ってましたけど……」  
大丈夫ですか?と心配そうな顔をする遠峯に、俺は応えられなかった。  
帰るって、どこに帰るつもりなんだ。  
あんな寒夜に、道端にしゃがみ込んで途方に暮れていた奴が。  
あーっもーっ、何考えてんだ。  
「悪い、遠峯。留守頼めるか。」  
堪らず立ち上がって、コートを羽織る。  
あの夜と、同じコート。  
「……どうせ、止めたってきいてくれないんでしょう?」  
遠峯は口を尖らせて拗ねてみせる。  
「勿論、帰ってきてから事情はきっちり説明してもらいますからね。」  
諦めたように、ため息混じりに言う。  
「……ほんと、悪いな。」  
もう一度謝ると、小さく頭を振る  
「いってらっしゃい。あまり、無理をしないで下さいね。」  
謝ってばかりで、こんなに情けない俺でも、遠峯は優しく背中を押してくれる。  
「ありがとな。」  
最後にようやくお礼を口に出せて、俺は冬の空気に走り出した。  
 
 
///  
 
ゆっくりと煙を吸い込んで、吐き出す。  
 
遠くで遊んでる餓鬼どもの金切り声がキャンキャン喧しい。  
餓鬼は嫌いだ。  
馬鹿で、五月蝿くて、汚くて、ウザったい。  
無条件に子供が可愛いと思う母性本能なんてバアさんの代で潰えたのだろう。  
出来ることなら、こんなところで餓鬼なんて眺めていたくない。  
だけど、行く当てもなかった私には、公園のベンチくらいしか居場所がないのも事実だった。  
どっかの馬鹿がヤケ酒でもしたのだろうか、ベンチの下にはやたら酒の空き缶が転がっていた。  
加えて、この上から自分が吸殻を積もらせてるもんだから、ベンチの周りは輪をかけて汚らしかった。  
 
なんでか知れないけど、気分は最悪だ。  
きっと、図々しくも長居しようとしたから罰が当たったのだろう。  
神様はいつだって悪いことばかり見ているものだから。  
彼にも、彼女さんにも悪いことをした。  
 
苛立ちは募るばかりで、タバコに頼っても気分は落ち着かない。  
短くなったタバコを放り捨てて、ざり、と踏みにじる。  
これからどうしようか。  
帰るなんて言い残してきたものの、当然帰るところなんてない。  
どっかで悪さすれば、留置所に入れてくれるかな、なんて不穏なことを考えながら、新しいタバコに火をつける。  
豚箱だって、ここよりは暖かそうに思えた。  
 
ああ、くそ。  
タバコもまずい。  
 
///  
 
 
昨晩俺が夜を明かしたのと同じ場所に、昌を見つけた。  
空高く昇るタバコの煙に、のろしを思ってしまった俺は、少し、虫が良すぎだろうか。  
 
「よう。」  
いたって普通に、ベンチの後ろから声をかけた。  
「………ダメじゃない。彼女置いてこんなとこに来ちゃ。」  
後ろから話しかけられても昌は驚いた風もなく、それどころか振り返りもしない。  
感情を押し殺したような声。  
どうも相当機嫌を損ねてしまったらしい。  
「お前こそ、こんなとこでなにやってんだよ。帰るんじゃなかったのか?」  
俺の言葉にも、背中は応えない。  
こりゃあ持久戦になりそうだ、なんて思いながらゆっくりと隣に座る。  
 
「ふぅ………」  
何をどう切り出していいか分からず、長い息を吐きながら空を仰ぐ。  
……本日は、晴天なり。  
雲がわずかに形を変えて、流れていく。  
腰を下ろすとなにやらここ数日の疲れがどっと出てきたようで、一気に気が抜けてしまった。  
 
「……なぁー」  
空を見上げながらもう一度隣の昌に声をかける。  
気力の低下に伴って、すっかり声もだらけていた。  
昌は案の定、目線さえくれないけれど。  
「タバコ、分けてくれねー?」  
だらしなく手を差し出す。  
腰を落ち着かせたら、なんとなく口が寂しかった。  
このところの疲れも主にこいつの責任だし、タバコくらいは当然の権利だろう。  
 
「――――――――」  
昌は、きょとんと差し出された手と俺の顔を変な顔で見くらべた後、  
 
「ぷっ、」  
吹き出した。  
毒気を抜かれたように、ははっ、と短く笑う。  
一気に表情も優しくなる。  
 
「……ほら。」  
「センキュー」  
馬鹿みたいなお礼を言って、受け取ったタバコに火を貰う。  
普段吸わないせいか、口や鼻に抜けるタバコの煙がやけに新鮮だった。  
「ったく、緊張感ないねぇ、キミってやつは。」  
そういう昌の声も、先ほどの刃物みたいのとは違う、すっかり緩んだ緊張感のないものになっていた。  
「なんだ。腫れ物を触るみたいにもっと恐る恐る話しかけたほうが良かったか?」  
「まさか。別に怒ってるわけじゃあないんだし。」  
嘘を吐け、なんて言葉を飲み込んでただ苦笑する。  
今思えば、真昼間から公園のベンチに並んでタバコを吹かしてる二人組は相当怪しいものだったに違いない。  
 
吹きぬけた風に、タバコの先から煙が二本、平行に伸びて、消える。  
「さて、と―――」  
ひとしきり笑った後、彼女はベンチから立ち上がる。  
二、三歩踏み出した後、くるりとこちらを振り返った。  
その顔には爽やかな微笑さえ浮かべている。  
「この辺でサヨナラってことで、いいかな?」  
彼女は、実に彼女らしい口調で別れを告げる。  
 
「ん…………」  
「やぁね、そんな顔しないでよ。」  
未練がましい声を上げる俺に、彼女は笑いかける。  
「元々、一晩だけの約束だったでしょ?看病するって約束ももう間に合ってるみたいだし。」  
「一晩だけって、それだけ聞くと、えらくただれた話だよな。」  
冗談めかして言うと、昌も確かにと頷く。  
 
そうだよな。  
一晩だけ泊めてやる、それだけの話だったんだと思い出す。  
そんなことさえも忘れてる自分にも、……今じゃそんな簡単に割り切れない自分にも、ほとほと嫌気がさしてきていた。  
 
「……ひとつ、訊いていいか?」  
ベンチに座ったままだと、立った昌を見上げる形になる。  
俺は顔を上げて昌を見た。  
「いいよ、何?」  
煙を吐いて、一息間を置く。  
見上げた昌は、空を背負ってるように見えた。  
「お前、これからどっか行く当てとかはあるのか?」  
疑問、というよりは心配、むしろお節介といった方が近いだろう。  
もし昌の抱えていた問題が時間と共に解決するもので、彼女にはもう帰る家があるのなら、それで万事解決だ。  
けれど、もし―――  
 
質問に、昌は困ったように曖昧な笑みを浮かべる。  
それは、悪戯が見つかった子供のようでも、子供をあやす母親のようでもある。  
「……あてなんて、ないけど、さ―――」  
昌は一度、ばつが悪そうに言葉を切って、  
「なんとか、なるでしょ。」  
笑った。  
 
「――――――――っ」  
瞬間、流れ込む感情の奔流の正体がつかめずに、言葉を飲む。  
その笑顔が本心からのものか、それとも強がっているのか、俺には良くわからない。  
 
良くわからないけれど、ただ、気付けば――――  
 
――――力一杯、昌の体を抱きしめていた。  
 
「ちょちょちょ、ちょっと?!」  
慌てる昌の声なんか聞こえない。  
強制わいせつで捕まったって知るもんか。  
昌の背は頭半個分小さく、抱きしめた体は腕の中にすっぽりと納まった。  
「喧しいちょっと黙ってろ、この馬鹿女。」  
驚くほど冷えきった体を、ただ、抱き寄せる。  
反射的に胸に置かれた手は、抵抗するように、弱々しく突っ張られている。  
近すぎて、表情も見えなかった。  
「バカが。何とかなるわけねえだろうが。今度こそ肺炎で死ぬぞバカ。」  
もうこうなったら照れ隠しにバカバカ言ってやるしかなかった。  
柔らかい体はやけに現実的で、ワンテンポ遅れて顔が赤くなっていくのが分かる。  
 
「だって……」  
胸に置かれた手が、ぎゅっと服を掴む。  
「これ以上キミに甘えるわけにもいかないし……」  
震える、衣擦れのような小さな声。  
「……だからバカだってんだ。」  
見ず知らずのヤツに頼らなきゃいけないくらいだったてのに、意地張りやがって。  
「ひとりじゃどうにもならないんだろうが。  
 先にお節介したのは俺なんだ。―――最後まで責任取らせてくれ。」  
しんどいんなら、甘えてしまえばいい。  
 
こんなに、小さな体してるんだから。  
 
 
「…………いいの、かな。」  
昌は自分に尋ねるような呟く。  
「まあ、お前が嫌ならしょうがないけどな。」  
言いながら、自然と手が柔らかく髪を撫でた。  
「ん…………」  
それが気持ちよかったのか、昌が僅かに声を漏らす。  
抱きしめた小さな体から、力が抜けていくのが分かった。  
 
 
「……ねえ、」  
暫く腕の中で大人しくしていた昌が、ポツリと呟く。  
「ん?」  
「甘えるついでに、ひとつだけお願い。」  
「ああ。」  
体を引き合うように、もう一度強く服が掴まれる。  
 
「――もう少し、このままで。 あったかいんだ、キミの体。」  
「…………了解。」  
「ん、ありが…とっ、」  
搾り出すようにお礼を言ったのを最後に、昌は堰を切ったように泣き始めた。  
気が緩んだのか……、少し泣かせてやるしかない、よな。  
どうしようもないので、腕はそのままに顔を上げると、公園中の注目を集めてるのに気が付いた。  
……参ったねこりゃ。  
明日にゃ奥様方の間は俺たちの噂で持ちきりだぜ、こんちくしょう。  
そんなことを考えて苦笑いを浮かべながら、泣きじゃくる昌の背中をぽんぽんと軽く叩いてた。  
 
 
さりげなく凄いこと言っちゃった気がするけど、ノーカンだよな、ノーカン。  
他意はなかったんだし、うん。  
 
 
「流石平良君。女泣かせですね。」  
赤く目を腫らした昌の手を引いて家に戻ると、留守番の遠峯が不機嫌そうにそんなことを言ってくる。  
ホント、勘弁して欲しい。  
俺はどこぞのヒモかっつーの。  
「――――って、おい。帰るのか?」  
遠峯は俺の横をスタスタと通り過ぎて玄関に向かう。  
「ええ、話はまた今度でいいです。私がいたら色々とやりにくいでしょう?」  
言葉に合わせて昌を一瞥し、遠峯はドアノブに手をかける。  
「色々って……いや、すまん遠峯。いつもお前には謝ってばっかりだ。」  
「……なら、謝らなくても済むようにもう少し努力をしてくださいっ!」  
遠峯は苛立たしげにそう言い捨て、出て行った。  
力任せに閉められたドアが、ビィーンと痺れている。  
「いいの?」  
端っこでその様子を見ていた昌が、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。  
「まぁ…………、しょうがないんだし。」  
ドアに目をやりながら呟くように応える。  
申し訳ないと思ってるし、出来れば笑ってて欲しいとも思う。  
でも、あいつにしてやれることなんてもう俺にはあっちゃいけない、なんて気持ちがあった。  
「そ・れ・よ・り。今はお前だオマエ、オマエの話。」  
気持ちと話を切り替えるため、語気を強めて人差し指を昌の眼前に突きつけてやる。  
「ほえ?わ、ワタシ?」  
「ほえ? じゃねえよバカ。無一文で彷徨ってるくらいなんだから、なんかどうにもならないことがあるんだろ?」  
「あー…………まあ、そうなんだけどさぁ。」  
昌の視線が泳ぐ。  
言いづらいことらしい、実にわかりやすい奴だった。  
「俺は逃避の場を提供するわけじゃないからな。おら、言わないと協力も出来ないだろ?」  
「厳しいなぁ……、まったくキミは親切なんだか強引なんだか。」  
ため息。  
「……わかった、言うわよ。キミが先に折れるとも思えないし。」  
大げさに肩を落とす昌。  
 
「でもさ、せめて先にご飯にしない? ほら、朝から何にも食べてないし。」  
おなか空いたー、と子供のように手足をばたつかせる。  
「色気もなにもあったもんじゃないな、お前は。」  
「む、なによう。こんなナイスバデなお姉さん捕まえて。」  
「ないすばで、ね…………じゃ、メシにするか。」  
妙なことを言ってる昌を華麗に放置しつつ台所に向かう。  
「……ん?」  
ふと、コンロの上に少し大きめの鍋が目に入る。  
蓋を開けると、予想通り中身はお粥だった。  
二人分……だよなぁ、これ。  
……すまん遠峯。  
なんかお前には一生謝りっぱなしのような気がしてきたよ。  
 
 
「はー、料理上手いんだねぇ、あの子。」  
お粥を頬張りながら、感心する昌。  
「そりゃあ、完璧超人ですから。」  
「悪魔超人?」  
「……超人しか合ってないだろそれ。」  
昌のボケを受け流しつつ、せっかくだから食べながら色々と遠峯にまつわる逸話をしてやる。  
昌はこれまた食べながら、頭よさそうとは思ったけどそこまでとはねー、なんてもう一度感心してみせる。  
「にしても、やけに詳しいね〜。やっぱり付き合ってたりするわけ?」  
茶碗が空になっても、昌は同じ話題を振ってくる。  
興味津々に質問をしてくる顔は、やっぱり意地悪に笑っていた。  
「バカ。有名な話だよ。どれだって同じ学校だったら嫌でも聞こえてくる話だろ。」  
出来るだけ素っ気なく返事をした。  
「ふーん――…、じゃあ一体どんな関係なの?  
 結構付き合いは長いみたいだし、女の子が一人暮らしの男のところにお見舞いに来るなんて、ただの友達じゃあないでしょ?  
 ―――少なくとも、あっちはそうは思ってないと思うよ?」  
「……………………」  
疑問符の三連投。  
なんでコイツはこんな痛いところばっかりついて来るんだ。  
 
「って、なんで俺が質問攻めにあってるんだよ!飯も食い終わったんしお前の話だろ!」  
「チッ、ばれたか。」  
確信犯かよ。  
「いやいや、あっしも女の子ですから。そういう話は気になるわけでしてー。」  
「女の子ぉ?」  
鼻で笑ってやろうと思ったら、  
「―――そこ、笑うところと違いますよ?」  
物凄い笑顔で睨まれた。  
「あ、はい。ごめんなさい。じゃあ、そろそろ話してもらってもよろしいでございましょうか。」  
情けない俺でした。  
 
 
今時の若者が抱えてる問題なんて、だいたい男か親か金、もしくはその複合だろう。  
そんな俺の予想に違わず、昌の問題ってのはどうも男絡みらしい。  
内心金の問題だったらどうしようかとビクビクしてたが、もしかしたらこっちの方がよっぽど面倒かもしれないと気付く。  
だって、男って……なぁ。俺にどうしろと。  
「――――まあ、とどのつまり、簡単に言うと、同棲してた男に追い出された、と、いうことですな。」  
あくまで軽い口調で、昌は話をまとめる。  
けれど、その内容は今まで安穏と生きてきた俺にとっては結構ヘビーなものがあった。  
「えー……っと。その、すまん。」  
「なんで謝るのさ?」  
悪いことを聞いた気がしてきて思わず謝ると、不思議そうな顔をされた。  
「いや、なんか悪いこと訊いたかなって。」  
お節介のつもりが、なんか出しゃばったようで申し訳ない気分だった。  
それでも、昌は小さく口元を綻ばす。  
「ううん。話を聞いてもらえただけでも随分すっきりしたよ。ありがと。」  
あんな男にはもう未練もないしね、とあっけらかんと笑う。  
「なら、いいんだけど………それじゃあ、これからどうするんだ?」  
若干引っかかる部分もあるものの、話を次に進めることにした。  
 
「そうだねぇ……、財布とか荷物とかあるから、一度はあいつの部屋に戻らなきゃならないとして、」  
言って、"あいつ"を思い出してしまったのか憎々しげに眉間にしわを寄せながら、気だるそうにぼりぼりと頭を掻く。  
「やっぱり、不動産屋さんのお世話にならないといけないかな。」  
「そりゃあ……」  
まだまだ賑やかしそうだな、とぼやく。  
そう都合のいい部屋が見つかるとも限らないし、しばらくはこの部屋も狭そうだ。  
「キミが迷惑なら部屋が見つかるまでホテル、って手もあるけど?」  
「…………お前、金持ち。」  
ていうか、ブルジョア?ブルジョアジー。ブルジョアヌー。  
「へ?」  
「いや、よく分からんが、ホテルとかなんかすごく高そうだ。」  
今までの人生、旅行なんてほとんどせずに質素に暮らしてきたもんで。  
俺みたいな貧乏人にはそんな選択しさえ浮かばなかった。  
「いや、ホテルっていってもピンからキリだし。安いとこは安いよ?」  
「……そんなもんなのか。」  
そんなもん、と昌は頷く。  
「ま、いいや。うちを使うなら勝手に使ってくれ、今更迷惑なんて言わないさ。」  
だいたい、俺が協力できることっていったらそれくらいしかなさそうだし。  
「……でも」  
「ただし!」  
昌の口から出た逆接に続く言葉をさえぎる。  
 
「俺だって貧乏学生だからな。払うもんは払ってもらわないと。」  
「え……」  
わざと意地の悪い口ぶりで言ってやると、思惑通り不安そうな表情を見せる。  
「ひと月五百円。それ以上はびた一文負けてやらない。  
 勿論、体なんかで払ってくれるなよ。そんなんで腹は膨れないからな。」  
むしろ疲れるばっかりだ。  
一瞬驚き、すぐに笑顔。  
コロコロと表情を変えるヤツだな、なんて気付く。  
「……やっぱ、キミはいい奴だ。」  
今までで最大級の満面の笑みに、こっちが恥ずかしくなって目を逸らす。  
「色気がないのはお互い様ってこと。ほら、契約成立か?」  
横目で昌の顔を確かめて、右手を差し出す。  
「うん。――――それじゃあ、もうしばらくだけお世話になります。よろしくっ!」  
弾むような返事と共に、二度目の握手を交わした。  
握った手はあの時のように柔らかく、今日はじんわりと温かかった。  
 

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