カッチコッチと耳障りな時計の音と、それと同じくらい規則正しい寝息だけが聞こえる。  
どれくらい経っただろう。  
時計のリズムに比べて、時間の流れが随分ゆっくりのような気がする。  
 
腕に乗った腰周りの感触はやたら柔らかいし、  
半端に夜目が利くせいで薄ぼんやりと見えてしまう艶かしい唇や体のラインは目に毒だ。  
 
 
…こんな状態で、寝れるわけがない。  
 
――いっそ襲ちまったほうが楽なんじゃないか――  
悪魔の囁きがさっきからチラチラと耳元で聞こえている。  
というか、このまま耐え切ってしまえたらしまえたで、インポテンツになっちまうんジャマイカ。  
いやいかん、ガンガレマイ理性。ここで流されちゃ、駄目だ。  
 
いや、なんかむしろ駄目なのは俺の頭のほうだ。  
なんかもうまともな思考さえ失われつつあるらしい。  
 
 
こっちの葛藤を知ってか知らずか、昌は気持よさそうに眠っている。  
出来るだけ静かにベッドから体を離すと、一度寝返りをうっただけで起きる様子もない。  
丸まって眠る様子は、どこか愛嬌のある動物を思わせる。  
 
差し詰め、猫か。  
…うん猫っぽい。  
一人納得する。  
 
 
なんとなく和んで気が抜けたのか、急に眠気が襲ってくる。  
けれどこの部屋にはソファーなんて上等なものもなく、ベッド以外に寝る場所はない。  
 
ええい、めんどうだ。  
 
昌に毛布をかけなおしてやると、もう一枚の毛布を掴み、そのまま床に転がった。  
いい環境とは言いがたかったが、思っていたより疲れていたのだろう、  
 
――すとん、と音を立てるように意識は落ちた。  
 
 
///  
 
朝起きて、最初に驚いたのは自分が寝てしまっていたこと。  
次に、自分の着衣に乱れがないことに驚いて、……呆れ果てた。  
 
誘えばどんな男でも飛びついてくるとまでは自惚れていなかったけれど、  
いくらなんでもあの状況を黙殺されるとは思っていなかった。  
少しばかり期待してしまっていた自分が恥ずかしい。  
 
見ると、当の彼……、圭介は床に転がっている。  
うつ伏せ気味なので寝顔は見えない。思わず呼吸を確認したくなるような寝姿である。  
薄めの毛布が少し寒そうだったので、今まで自分が被っていたほうをその上からかけてあげる。  
まだ早いし、よく寝ているようだったのでそのまま放置プレイだ。  
 
流石にこれじゃ寒いから、何か上から引っ掛けるもの…と、  
あの夜のコートを見つけて、自分の顔がにやけてるのに気がついた。  
 
コートに包まって顔を押し付けて、思いっきり吸ってみると、  
匂いともいえない微かな芳香が、鼻腔からじんわりと体中に染み渡る。  
ふわふわと、胸になんともいえない感覚が。  
 
ううむ。  
恋する乙女とはかくも幸せなものか。  
 
始終にやにやしながら大体の身支度を整えて、寝ている圭介に目をやる。  
昨日彼がしてくれたように頭をなでながら、寝顔を覗き込むと、すっかり緩んだ無防備な寝顔が可愛らしい。  
 
 
恋人気取りでおでこに小さくチューをした。  
 
 
いやはや。  
まいったね。  
この精神疾患はなかなかに重症だ。  
 
えへへへへ。  
 
 
///  
 
 
起きたら、誰もいなかった。  
 
昌はいつも勝手に出て行くので、朝の挨拶を交わしたことがないような気がする。  
まあ、額に貼ってあった書置きのお陰で、今日はそこら辺を駆けずり回らないですんだんだが。  
 
書置き曰く、例の"あいつ"の所へ荷物を取りに行ったらしい。  
なにもこんな朝早くに…、とも思ったが一刻も早く清算したいことなんだろう。  
俺も昨日の今日で顔も合わせ辛かったから、正直助かった。  
 
ぐしゃぐしゃとメモ紙を丸めて、部屋の隅のゴミ箱に投げる。  
 
外れた。  
 
拾いせず、そのまま拗ねたようにベッドの上を転がる。  
学校行く気にもなれない。今日は自主休学に決めた。  
おとーさんおかーさん、ごめんなさい。  
 
枕を抱えて、ぼんやりと昨晩のことを考える。  
真っ直ぐな目で、真摯な気持ちをぶつけてくる昌の姿が、いつかの遠峯の姿と重なった。  
二人は違う人間なんだと言い聞かせても、色んなところが似ているせいでちらちらとイメージが交差してしまう。  
 
本人たちに言ったら、きっと憤慨するんだろう。  
一度しか顔を合わせていないけれど、あの二人は絶望的に相性が悪そうだ。  
そんなことを考えれば、塞ぎこんだ気持ちでも自然と笑いが漏れた。  
 
……んー、どうしたもんか。  
 
流されて前と同じことを繰り返してしまったんじゃ、昌には勿論、遠峯にも申し訳が立たない。  
刹那的なものじゃなく、きちんと形ある想いがあるだろうか。  
想いに応える気持ちだけじゃなく、自分自身の想いはちゃんとあるだろうか。  
 
 
自問に、答えは聞こえない。  
 
 
さっきまで寝てたっていうのに、まだどこか疲れている。  
寝れば全てが好転してるかもしれない。  
そんな現実逃避ともいえる希望に賭けて、もう一度布団をかぶった。  
 
 
///  
 
休講が重なって午前中に学校が終わってしまった。  
出来るだけ何にも考えたくなかっていうのに、つくづくついてない。  
纏わりついてくるお友達(男)を適当にあしらって学校を出ると、気分に反して良く晴れていた。  
 
今日も平良君は休みだった。  
避けられているのだろうか――、そんな考えを首を振って打ち消す。  
彼はそんなことで学校を休む人間ではないし、目の前の問題から逃避するようなこともしない。  
と、いうか、できない。  
そういう性分なのだ、彼は。  
 
じゃあ、どうしてだろう。  
決まっている、彼の部屋に一緒にいた女性――斑目 昌、といったっけ――のせいに違いない。  
陰鬱とわきあがる感情は、嫉妬というより怒りに近かった。  
誰に対するものなのか、なんてどうでもいい、兎に角腹立たしい。  
 
気持ちを切り替えようとしたら、盛大にため息が出た。  
らしくないと自分をたしなめても、ますます気持ちが沈むばかりだ。  
 
こうなったらもう一度突入しようか、なんて考えるも、  
もしも、その…そういう現場を目撃してしまったら、立ち直れる自信が、ない。  
 
八方塞。  
途方に暮れて顔を上げると、能天気にトランクをぶら下げて真昼の商店街を歩く、斑目 昌嬢の姿があった。  
 
 
///  
 
 
部屋に、アイツはいなかった。  
こんな時間から真面目に働いてるとも思えないし、きっとどっかで遊び呆けてるのだろう。  
もしかしたら女ところに泊まりかもしれない。  
 
…どうでもいいや。  
 
顔合わせなくてすんだのはラッキーってことだ。  
当面必要な着替えとか下着とかをトランクに詰めて、その他色々はダンボールに詰めて宅配便で送ってしまって、部屋には『またのご来店をお待ちしています』なんて皮肉たっぷりのメモを残してきた。  
 
こういうことしてるとまたお客が減っちゃんだろうけど……、それも、まあ、今じゃどうでもいい。  
 
 
駅まで続く商店街のタイルの上で、トランクの車輪がガタガタぬかす。  
結構な騒音であるはずなのだが、昼時の喧騒の中じゃもち手から腕を伝って聞こえるだけだ。  
 
ぐぅ、とコートの下、へそ辺りから鳴き声が一つ。  
そういえば朝食も食べてない。  
財布も返ってきたことだし、なんかあったかいものでも食べようかな、と脇の店に目をやった時、  
 
「――斑目さん、」  
聞き慣れない声に、背後から名前を呼ばれた。  
 
「こんにちは。」  
振り返ると、にっこりと笑顔を浮かべた、昨日のコが。  
確か、遠峯――  
「……伶理ちゃん。だっけ?」  
「ええ。覚えてもらっていてみたいで、嬉しいです。」  
ちゃん付けは嫌がりそうだと踏んでいたのだが、動じた風もなく笑い返された。  
 
「良かったら、少し話しませんか? 美味しい紅茶のお店知ってるんです。」  
悠然とした笑顔は、こちらに隙を見せまいとしているようでもある。  
 
…そういうことか。  
それならそうで望むところ。こっちにだって訊きたいことはあるんだ。  
よそ行きの微笑みを目一杯に取り繕って、彼女の提案に頷いた。  
 
店に入るなり、眠くなるようなクラシックが耳に障る。  
よく言えば落ち着いているんだろうけど、どうもこういう気取った店は苦手だった。  
"美味しい紅茶のお店"とのことだったので、わざわざコーヒーを注文する。  
今度は露骨に眉をひそめてみせるあたり、よっぽどここの紅茶をひいきにしてるらしい。  
 
「斑目さんは、今、平良君の部屋に寝泊りしてるんですよね?」  
出てきたコーヒーの薄さにちょっぴり後悔していると、向かいに座った伶理ちゃんが口火を切った。  
声は、少しばかり鋭さを持ち始めている。  
 
「ん、そうだけど?」  
出来るだけなんでもないことのように言う。  
かちゃりと、向かいの席に置かれたカップが音を立てる。  
 
「……一体、どういう経緯なんです?」  
ところが、彼女は思っていたより慎重に間合いを詰めてきた。  
 
――まさかとは思ったけれど、案外本当に付き合ってないのかもしれない。  
言ってみれば私は横からちょっかい出してきた泥棒猫なんだし、  
ちゃんとしたお付き合いをしてるっていうならもっと強く当たったっていいはずだ。  
それが、彼女みたいな気の強そうなタイプならなおさらに。  
 
「……そういうキミは一体何さ?」  
形勢有利と見て、質問に質問を重ねる。  
向かい合った彼女は怯むように私を見ると、一拍置いた後、大仰なため息をこぼした。  
「……分かりました。変な誤解は早めに解いておいたほうが良いですもんね。」  
どこか諦めたような口調は、颯爽とした雰囲気の彼女にあまり似合ってない。  
 
紅茶を一口。  
 
「平良君とは、以前、お付き合いをしていたんです。 ……私が高校二年の時に、一年ちょっとの間だけ。」  
伶理ちゃんの目は、前を向かずに置いたティーカップを映している。  
 
「でも、それももう、一年経った話で、今じゃただの友達です。」  
語調はたどたどしくても、彼女の声は凛と空気を振るわせる。  
 
…なるほど。  
元、か。  
それは考えてなかった。  
だけどそれなら、あの微妙な距離にも妙に納得がいく。  
 
「でも――――、まだ、好きなんだ?」  
気付かない方が鈍いってもんだ。  
つっつかれた彼女は、驚くわけでもなく、慌てて否定するでもなく、ただ照れくさそうに笑ってみせた。  
一見幸せそうな笑顔が、少し、悲しいものに見えた。  
よっぽどいい別れ方が出来たんだろうな、なんて羨ましくも思う。  
 
 
「……じゃあ、今度は私の番。」  
私がそう返すと、彼女は少し意外そうな表情をする。  
そりゃあ、私だって礼ぐらい知っているさ。  
嘘をついてる様子には見えなかったし、誠意に誠意で応えられないような人間でありたくない。  
 
「と、いっても、私のほうはつい三日前の話なんだけどね。」  
頭にそう付け加えて、成り行きをかいつまんで説明する。  
もちろん、嘘は吐いてない。  
少しばかり省略した部分はあるのは…………、致し方ないってことで。  
 
「――――そうですか。」  
説明し終えると、伶理ちゃんは本日何度目かのため息と一緒に頷いた。  
 
話しながら思ったのだが、今私が置かれている状況、いや、彼の行動は色々と普通の感覚から外れている。  
延いては私の説明までもが下手糞な作り話のようだ。  
 
「あ、やっぱ信じてない?」  
「いえ、彼ならやりかねません……。」  
不安になって訊ねると、顔を手で覆いながら伶理ちゃんは答えた。  
やっぱり、彼は万事そういう調子なんだと、つい苦笑いがこぼれる。  
 
「それに貴女ならもっと真実味がある嘘がつけるでしょう? だから、信じます。」  
「……そりゃ、どーも。」  
ついでに小憎たらしい笑顔でそんな皮肉を言ってくる。  
 
 
 
「…………まあ、そういうことだから――」  
「ええ、平良君をよろしくお願いしますね。」  
「―――――――― へ?」  
そろそろ話を切り上げようとした矢先、予想もしてなかった言葉が聞こえて、思わず間抜けな声が出てしまう。  
 
「ちょっ…………、どういうこと?」  
「そのままの意味です。 平良君を、よろしくお願いします。  
 ……私のほうは、もう、玉砕でしたから。」  
ちょっとだけ茶化して、笑う。  
自分は身を引く、ということなんだろうか。  
そうとしか思えないはずだったのに、俄かには信じられなかった。  
 
その笑顔と、隠れるように震える手には、どれくらいの想いが――覚悟が、秘められているんだろう。  
 
 
美人で、賢くて、凛々しくて、  
きっと、並の男じゃ気後れしてしまうほど、彼女は強んだ。  
そりゃあもう、私なんか目じゃないくらい。  
 
まったく、彼も見る目が有るんだか無いんだか。  
 
「――そろそろ、出ましょうか。」  
気付けば店内は込み合いはじめている。  
カップ二つで席を居座るのはなかなかに顰蹙だ。  
 
少し冷めたコーヒーを飲み干して、立ち上がる。  
「あっ、」  
「いーからいーから。社会人のおねーさんに任せなさい。」  
有無を言わせずレシートをもぎ取る。  
幸い、財布は返ってきたばっかりで、中身は十分にある。  
 
伶理ちゃんは少しだけ不満そうな顔をしてみたが、それ以上抵抗することもなかったので、よくある不毛な争いはしないで済んだ。  
半歩後ろの伶理ちゃんを尻目に、レシートをレジに出す。  
 
………………え。  
 
そんなにするの?  
 
 
コーヒーと紅茶だけだよ?!  
 
 
「今日は、ごちそうになっちゃってすいませんでした。  
 今度は斑目さんお奨めのお店で、私にご馳走させてくださいね。」  
店を出て、レシートを眺めている私に、どうにもおばさんくさい挨拶がかけられる。  
社交辞令だろうってのに、その笑顔はずるいくらい綺麗だった。  
生憎、私にこんな洒落た喫茶店に入り浸るような趣味はない。  
 
「…………ねえ。」  
「はい?」  
声帯が、脳からの無機質な電気信号とは違うものを、受信した気がした。  
 
やめろって。  
相手が無条件に試合放棄してるんだ。  
それをわざわざけしかけるようなこと――――  
「――――本当に、いいの?」  
 
 
息を飲む音が、聞こえた。  
 
 
「……私じゃ、駄目だったんです。 今さら私じゃどうにもならないじゃないんです。  
 私に出来ることっていったら、せめて、あの人の幸せの後押しをするくらいしかないんです。」  
辛そうな、聴いてられないような口調でも、彼女の声は凛と空気を振るわせる。  
 
「だから、彼を泣かせたら、ひどいですよ。」  
冗談みたいだけど、彼女は本気で言っているのが分かった。  
 
「…………過保護。」  
「何とでも言ってください。」  
開き直られた。  
可笑しくて、二人で笑いあう。  
 
「……わかった、頑張ってみるよ。」  
軽く手を上げて、別れを告げる。  
「はい――――、それじゃあ、また。」  
「ん…………じゃ、ね。」  
店の前で、分かれる。  
背中に深いおじぎを貰って、歩き出した。  
 
 
 
 
あーあ。  
凄いプレッシャーだね、こりゃ。  
 

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