ため息が灰色の雲のように沈殿した部屋に、呼び鈴の音が弾んだ。
「はぁ……」
また新しいため息が床に溜まる。
結局ちっとも眠れず、布団の中でうじうじしてる間中、暗い気分は悪化していくばかり。
それでも当たり前のように鳴る腹を、ありあわせの昼食で黙らせたところだった。
「ただいまぁっ!」
「……おかえり。」
扉を開ければ、爛漫と笑う昌が立っていた。
自分の家のような顔をして帰ってくる昌に呆れながらも、開け放たれた扉のおかげで、多少空気が入れ替わった気がする。
「で? 用事は済んだのか?」
「うん。居なかったから、荷物だけ勝手に持って帰ってきちゃった。」
そうか、と頷くと、昌は年寄り臭い掛け声と共に大き目のトランクを部屋に上げる。
うへぇ、また部屋が狭くなりそうだな。
「あ、ほかにダンボールがいくつか来るから、よろしく。」
すでに部屋の面積の勘定をしている俺に向かって、昌は平然と付け加えた。
「そうか、俺が外で寝ればいいんだな。」
「へ?」
「……いや、なんでもない。」
きっとなんとかなるさ。
いざとなったら立って寝てやるぜ。
「あ、それとね、――――遠峯さんに会ったよ。」
あはは、と虚ろな笑みを浮かべて遠くを見ていると、突然、予想だにしない名前が耳に飛び込んでくる。
まるで、とっておきを披露するようなリズムで。
「どこでだ?」
それに、まんまと食いついてしまう。
「帰り道に、ぐーぜん。」
だらしなく間延びした答え。
俺はよっぽど情けない顔をしていたのだろうか、昌はくすくす、意地悪く笑いながら続けた。
「別にちょっと一緒にお茶飲んで、世間話しただけなんだけどね。」
昌は明るい口調でそんなことを言っているけれど、恐らく、二人の話題はこの俺が中心だったのだろう。
自意識過剰でも自惚れでもなんでもなく、彼女らの接点といったらそれしかない。
隠し事があるわけでもないのに落ち着かない気分になるのは、見当違いな罪悪感かもしれない。
俺はどんな返事をしたのか、昌は軽快に話題を変えた。
「ね、私まだお昼食べてないんだけど、なんかない?」
「あ、ああ。俺もありあわせで済ませたところだったしなぁ……」
ぱっと出るものは残ってなかったと思う。
「じゃー……、昨日私が作った肉じゃがの出来損ないでいいや。まだあるでしょ?」
「ん? や、それがまさに俺の昼飯だ。」
残念でした。
いつまでも、あると思うな、お金と食べ物。
「……嘘。あれ、食べちゃったの?」
「なんだよ。元はといえば俺のじゃがいもだろ。」
「そうじゃなくてッ! あんなの、食べられたものじゃなかったでしょ?」
どこかそわそわしている昌。
その割に言ってることは可愛いもんで、ちょっと拍子抜けする。
「確かに味は褒められたもんじゃなかったけど……」
というか、はっきり言えばひどかったのだが。
そこそこ貧乏学生している俺とっちゃ、あれくらい許容範囲である。
…実は変な使命感に駆られたっていうのも少なからずあるのだが、それは秘密だ。
なんとなく、先ほど布団の中で幾度もリフレインされていた昨晩のことを思い出してしまいそうで、慌てて話をそらす。
「腹減ってんだろ、なんか作ろうか?」
「いいよ、わざわざ。コンビニ弁当でも買ってきちゃうから。」
不貞腐れてるのか照れてるのか、昌は唇を突き出しながら答える。
「そうとなったらすぐ行ってきちゃうけど、なんかついでに買ってきて欲しいものある?」
「んー…、じゃあ、なんか適当なつまみ頼む。」
ビールはまだ残ってるはずだし。
「…キミって、意外とお酒好きだねぇ。」
何が意外となのか知らないが、昌はそう言って笑う。
本当は酒でも飲まないことには間が持たないだけだったのだが、別に普通だろ、なんて素っ気ない言葉を返した。
「――――で、だ。」
もぐもぐとコンビニ弁当をほうばる昌と向かい合う。
兎にも角にも共同生活をすることになったからには、色々と確認しておかなければならないことがある。
それにしても、女性がコンビニ弁当、それもチャーハンとギョーザ(チャーギョーと略すらしい)なんて食べているのは絵的に美しくない、とかどうでもいいな。
「俺は基本的に土日以外は学校があるんだが、お前は?」
「もが?」
もが、じゃねーよ。
差し出してやったお茶を受け取ってぐびぐびとコップ一杯飲み干すと、大きく息を吐いた。
「お店は火曜定休日だから、それ以外はほとんど毎日お仕事かな。」
「時間は?」
「お昼過ぎから、何事もなければ12時ぐらいまで。たまーに朝帰りとかあるかも。」
「ふむ。」
つぐづぐ水商売って感じだなぁ、なんて改めて思う。
「じゃあ、だいたい入れ替わりになるな。 鍵は――、郵便受けに入れとけば良いか。」
万が一怪しい奴に入られたとしても、盗るもんなんてないだろうしな。
「……………………、」
「……なんだよ。」
気付けば、昌はコンビニでもらったプラスティックのスプーンを止めて、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。
「や、なんだか新婚さんみたいだなぁ…、と思って。」
人が考えまいとしていたことを、心なしか嬉しそうに呟く昌。
というか、新婚さんはきちんと合鍵を用意するだろうし、どちらかというとこれはし始めの同棲カップルと言ったほうが…、ってさらにまんまだな。
「うっせぇ馬鹿。お前とそんな色っぽい間柄になった覚えは、ない。」
アクセントを"ない"に置いて、ばっさりきっぱり否定する。
こんなんでいちいち動揺なんかしていたら相手の思う壺である。
「なによう、つれないなぁ。 ……あれ、そういえばバイトしてるんじゃなかったっけ?」
「別に定期的にやってるわけじゃない。知り合いのところだから多少の融通は利くんだよ。」
「ふーん……」
最後の一粒まで舐めるように平らげて、最後にまたお茶を一口。
ごちそうさまっ、と手を合わせ、小さく微笑んだ。
能天気な奴、と無意味に心の中で毒づいてみる。
「…………さて、」
「うん?」
「………………買い物行ってくる。」
間が持ちません。
そそくさと立ち上がる俺を、昌の丸い目が追うように見上げる。
「昨日も行ったのにまた行くの?」
「……買いだめはしない主義なんだ。」
買いだめしないというのは本当だが、今のは間違いなくこの場を離れたいがための言い逃れだ。
「…じゃあ、私も行くっ!」
わーっ! と昌が元気良く手を上げる。
「はい?」
「だってほら、一人より二人でお金出したほうが美味しいもの食べられそうじゃない?」
なるほど。
最近、食事になんか気を使ってなかったし、たまにはそれも良いような気もする。
のだが、
「というか、お前。食費出さないつもりだった?」
「え?」
一時停止。
「いや、間借り賃は五百円でも良いけど、流石に三食つけてたら俺が生活できません。」
そこんところどうなのよ、社会人さん。
「や、やだなぁ! そんなわけないって!」
「うん。わかった。皆まで言うな。」
全然そんなつもりなかったんだなということが良くわかりました。
「まあ、いいや。今回は、引っ越し祝いということで。」
「そう、それ! まさにそれよ!」
「…あくまで仮住まいだからな。あんまり居着くなよ。」
そんなわけで、二人並んでの買い物に出向くことと相成ったわけである。
協議の結果、メニューはすき焼きに決定。
一人にで食うには少し贅沢な肉と、春菊・白滝・豆腐というお馴染みの面々を、たっぷりの時間をかけて吟味して、ビニール袋に下げて帰宅するころには、ちょうど夕食時といったところだった。
約一年ぶりに日の目を浴びたすき焼き鍋の被りかけた埃を払い、コンロと一緒にセッティングする。
手順を思い出し思い出し、あとは煮ながら食うだけまでなんとか完成した。
無邪気に感動の声を上げる昌の隣で、やれやれどうにか、と息を吐く。
ぐつぐつと、タレが煮え立つ音。
優しい熱気を感じながら、鍋物の醍醐味になんとなく安心する。
「…しかし、一人暮らしでよくすき焼き鍋なんか持ってるね。」
昌は誰よりも早く肉を頬張っていた。
ほとんど全部俺が準備したって言うのに、憎たらしい奴だ。
「結構学校から近いからな。よく人が集まって、みんなで鍋をつつくことになったりするんだよ。」
玉子を溶きながら俺も鍋をのぞき込む。
まずは肉を一枚。
…うん。
肉が良いのか、すき焼きの魔力だか知らないが、久し振りに旨かった。
「そーだそーだ。これを忘れちゃいけないよー、っと。」
取り出されたのは、さっき二人で買ったシャンパンだ。
たいして高くはなかったけれど、シャンパン自体そう頻繁に飲むものでもないし、それくらいがちょうどいい。
「なんかお祝いみたいだな。」
自然と笑みがこぼれた。
合わせて、昌も小さく笑う。
「"みたい"じゃなくて、どうせならお祝いってことにしちゃいましょう。」
ポン、と軽快な音を立ててシャンパンの口が開く。
互いのグラスにシャンパンが注がれ、それを食卓の上で掲げあった。
「…何を祝うんだ?」
「それは勿論、二人の同棲生活の始まりでしょ。」
「束の間の共同生活の始まりだな。」
「むぅ、しょうがない、じゃあ、二人の出会いに。」
「……まあ、それならいいか。」
「よろしい。…………それじゃあ、改めて――――よろしくっ!」
「ああ、こちらこそ、よろしく。」
乾杯の声の後、細やかな祝砲が二人の間に響いた。
――――まったく。
成り行きとはいえ、妙なことになったもんだ。
ずっと付きまとっていた灰色の気分は、いつの間にか、キレイさっぱり、消えていた。