季節は真冬、まだコートが重い頃。
その日、遅くまで友達に引きずり回されて、解放された頃にはもう1時を回っていた。
終電も逃してしまって、俺のように貧乏学生にはタクシーに乗るような甲斐性もなく、二三駅歩いて帰ることにした。
深夜の道はただ暗く、光源は時折ポツンポツンと立っている心もとない電灯だけ。
いつかテレビで見た遠くの町での物騒な事件を頭にちらつかせながら、早足で自宅へと急いでいた。
ここはそこまで田舎でもないがたいして都会でもなく、それでもなんとか都内に収まっているギリギリの地域で、そう治安もよろしくない。
ちょうど俺が歩いてきた二三駅先では、歓楽街が立ち並び夜ともなればけばけばしいお姉さんが客である男を引っ掛けている。
幸か不幸か、俺は金で女を買うほど悪趣味でもなければ惨めでもなく、そんな金銭の余裕もない。
ただ毎日、真面目に学業に励んでいた。
手持ち無沙汰に一本二本、とぼんやり電柱を数えながら道を歩く。
十本余り数えたところでびゅう、と風が吹き抜ける。
俯いて冷たい風から顔を背ける。
風が通り過ぎるのを待って、顔を上げると、それまで数えてきた電柱の数なんて白い息と共に霧散した。
薄暗い路地から、さらに暗く細い路地裏へ続く角で、建物に寄りかかるように座り込んだ女性だった。
時間が時間だったから、一瞬ギョッとしたけれど、俺は霊感ゼロだ、幽霊であるはずはない、そんな風に自分を納得させる。
女性は目に見えて薄着で、晒された二の腕は痛々しいほど白い。
彼女は震える体をかまいもせず、ぼんやりとタバコを喫んでいた。
………普通じゃないよな、やっぱり。
どう見てもこの寒空に相応しい格好じゃない。
ましてやこんな深夜だ。女性が一人で道端に座り込んで一休みもないだろう。
座り込んでいる彼女との距離が詰まる短い間、少し酒の入った頭で思う。
思えば、自分ではまだまだシラフのつもりだったのだが、やっぱり多少ハイになっていたのかもしれない。
いつもの俺だったら、俯いて早足に脇を通り過ぎていっただろうに。
けれど、その時の俺の頭は少々お節介だった。
「…何さ」
恐る恐る声をかけると、彼女は俯いたままこの上なく不機嫌な声を返してきた。
やっぱりでしゃばったかな、なんて早くも後悔し始めるも、これで引くわけにも行かない。
「その、寒くないっすか?」
近くで見る彼女の身なりは下着同然で、こっちがドギマギするぐらいだ。
「平気だから、放っといて。あんまり五月蝿いと引っ叩くよ」
彼女はタバコの火を見たままで、こっちには目もくれない。
…放っといて、って言われてもなぁ。どうしていいものやら。このまま立ち去るわけにも行かない。
けれど、彼女の声色からすると、グズグズしてたら本当に引っ叩かれるだろう。
ゆらゆらとタバコの煙が、暗い空気に消えてゆく。
んー、このままじゃ俺が怪しい奴みたいだなぁ。
…仕方が無い。
「あの―――よかったらどうぞ。」
言って、自分の着ていたコートをふわり、と彼女の肩にかけた。
それに驚いたのか、初めて顔を挙げる。
今にも泣き出しそうな、捨て猫のような瞳。
「……それじゃ。出来るなら、早めに帰ったほうがいいっすよ。」
そう言い残すと、そそくさと逃げる様にその場を立ち去った。
別にいいじゃないか。
俺だってたまには格好のいいことしたかったんだ。
頼むから後からコートに定期も携帯も入れっぱなしだったことに気付いた俺を間抜けとか言わないでくれ。
泣くぞ!
翌日、明日のことは明日考えることにして、とりあえず寝る、なんていう消極的処置を取った俺は、電話のベルでたたき起こされた。
眠たい眼をこすりながら時計を見ると、昼前の11時。大学には完全に遅刻、っていうか定期も無いし行く気ゼロだったんだけど。
呑気に現状を確認している間にも、電話は急かすように鳴り続ける。
「はいはいはい。ったく、誰だよこんな早くに」
と、言っても世間様では全然早くないわけなんだが。
「あい、もしもし?」
「………なんとも締まらない声を出すもんだね。」
「うっさい、寝起きだからだ―――って、誰?」
聞き覚えの無い女性の声は、笑いを含んだ声で言う。
「駅前で待ってるよ。お人よしさん。」
「は?いや、だから誰だって―――」
ブツ。ツーツーツーツー。
「……………」
受話器を持って立ち尽くす。
なんだ。その、新手のオレオレ詐欺かなんかだろうか。
知らない声だと思うんだけど。ん?いや、なんかつい最近聞いた覚えがある気も…?
………あー。
一つだけ、思い当たる節があった、それも最近どころか昨日の話。
唐突な展開に幾分戸惑いながら、あんまり待たせちゃ悪いので支度を急ぐ。
トレーナーを着て、コート…あ、コートないや。
仕方なくトレーナーをもう一枚重ねて、その上からちょっと薄めのジャンバーを羽織る。
ちょっともこもこしているのが気になるが、これで寒いってことはないだろう。
まだ寝ぼけてる頭を冷たい冬の空気で奮い起こして、俺は駅へと向かった。
あー、もこもこするぜこんちくしょう。
駅前の広場は、流石平日の昼間だけあっていまいち人が少なかった。
勿論、待ち合わせしている人なんてほとんどいないわけで、タバコをくわえて男物の地味なコートを来ている女なんてすぐに目に付いた。
ちょうどあっちも俺を見つけたらしく、元気よく俺に向かって手を振った。
彼女は俺の前まで歩いてくるとにんまり笑って、はい、と俺の定期と携帯を差し出した。
「あ。ど、どうも」
「しっかし、キミも馬鹿だねー。かっこつけちゃってさ。定期と携帯入れたままコートあげちゃうなんて。」
十年来の友人に話しかけるような軽い口調。どうも、昨日とのギャップで調子が狂う。
「でも、ま。お陰で助かったよ。ありがと。」
あのままじゃ肺炎で死んでたねー、なんてカラカラと笑ってる。
「どういたしまして。―――うん、もう大丈夫みたいで何より。」
きっと俺の顔も笑顔になってることだろう。
想像もしてなかっただけに、こうも真正面からお礼を言われるとえらく嬉しかった。
「それで今日はコレを返すために?」
「いや、勿論それもあったんだけど。」
訊ねると彼女はばつが悪そうにセミロングの髪をいじる。
何か言いにくいことでもあるのだろうか、と勘ぐってみる。
「コートなら別に返してくれなくてもいいけど。」
もともとあげたつもりで、帰ってくるとは毛頭思ってなかったし。
「うん、それも有難いんだけど、さ」
気まずそうに一度言葉を切って、もじもじする。
やがて意を決したように顔を上げ、俺を真っ直ぐ見て、口を開いた。
「その……今日、行くとこなくてさ。―――泊めてくれない?」
「―――――は?」
トメテクレナイって泊めてくれない?
一瞬頭が真っ白になってしまった俺は、
「えっ、いや、ちょっと待て。だって、こんな軽い調子で会話してるけど、俺たちは赤の他人なわけでっ。
そんな女の子がそんな見ず知らずの男のところに泊まるなんて、そんなの、ダメだっ!」
次の瞬間にはすっかり動転して、不可思議な理論展開を繰り広げている。
「やっぱり……ダメ、かな。」
対して彼女は、言いながら無茶だとわかっていたのだろう、切羽詰った口調だった割りにあっさり引いた。
「―――うん。ごめん、今のは忘れて。」
その顔は、なんとか笑顔を作っていたが、無理してるのがありありと分かった。
それが、―――その、なんだ、まいる。くそっ、女は卑怯だ。
くわえタバコも似合わないような顔をしやがって。
もしかしたらこの顔も演技で、この女は何かたくらんでるのかも知れない。
でも、こんな顔をしてるやつを放っとけるなら、昨晩だって無視して通り過ぎてたさ。
暫くの沈黙の後、不機嫌に舌打ちを一つ。
「オーケー、わかった。俺の負け。」
投げやりに言うと、彼女は不思議そうに俺を見上げた。
「え…?」
「ただしこっちも健全な男児だからな。その辺の間違いがあるかもしれない、ってのは考慮に入れといてくれよ。」
言うだけ言って、彼女の反応も見ないで歩き出す。
歩きながら、弾むような返事と嬉しそうな足音を背中で聞いていた。
「ねーえー、まーだー?」
「あとちょっとだから待てって!」
ドアの外の声に急かされて、超特急で部屋を片付ける。
泊めるどころか部屋に上げるつもりさえなかったんだ、散らかっていて当然だ。
どういう成り行きであれ、女性を部屋に上げるんだ、それなりに片付けなければ。
昨日といい、ほとほとええかっこしいだな俺。
「別にエロ本とかやばいものあっても気にしないってばー!」
ザ・図星。
ちょうど"やヴァいもの"を抱えて硬直する俺。
…まさか覗いてたりしないよな。
「くっ、うっさい!俺が気にするっ!」
やけくそ気味に抱えたものを押入れにねじ込む。
俺に頼んだ時のしおらしさはどこにいきやがった、あの………あの?
そういや、まだ名前も聞いてない。
俺、こんな常識無しの馬鹿な子だったかなぁ。
少し凹みながら片づけを続けた。
「へー、綺麗に片付けたねー。やれば出来るんだから普段から片付けとけばいいのに。」
「ほっとけ。ほれ、ここに座れ。」
座布団をぽんぽんと叩くと、彼女は素直に応じた。
お互い改まって向かい合う。
「訊きたいことは色々あるけど―――、まずは、自己紹介かな。」
一晩しか泊めないとはいえ、それくらいは礼儀だろう。
まあ、家にまで上げといて今更な気もするんだけど。
「俺は平良圭介(タイラケイスケ)。よろしく。」
名前だけの簡単な自己紹介と共に、手を差し出す。
「斑目昌(マダラメアキラ)。こちらこそ、お世話になります。」
タバコをくわえたまま、彼女も名前だけを言ってしっかりと手を握り返してきた。
細く柔らかい手を感じながら、どちらともなく二三回手を振り、離した。
それだけなのに、彼女はどこか嬉しそうに笑っていたりする。
「で、だ。とりあえず部屋の中じゃタバコ禁止、臭いが付く。」
くわえていたタバコを取り上げて流しに放り込む。
「あーっ、私のねんりょーっ」
悲痛な叫びを上げる昌に、軽くため息が出た。
「ったく…、それじゃ、茶でも入れるか。」
タバコを流しに放り込んだついでにヤカンを火にかける。
「あ……べ、別にいいから、お構いなく。」
こっちが気を使うと逆にしおらしくなって、どうもやりにくい。
「そんなの、遠慮するところが間違ってる。他人の家に転がり込んできたやつの台詞じゃないっての。
どーせ何にも食ってないんだろ?昼飯代わりに軽く作ってやるよ。」
冷蔵庫を明けると、いつかの冷や飯。
んー、チャーハンでいいか。
フライパンを取り出して、何も言わずに炒め始める。
「…ごめん、ありがと。」
そんな赤面しそうな台詞は、焼けるフライパンの香ばしい音で聞こえない振りをした。
……さて。どうしたもんか。
フライパン片手に思考を巡らす。
ほとんど初対面の人間に頼るくらいだからよっぽど切羽詰ってるんだろう。
家出?それにしたってあても無くするとは思えない。ましてやあんな格好で道に座り込んでるなんて無計画にもほどがある。
と、なると発作的にか、もしくは追い出されたか、いずれにしてもどうやら穏やかなことではないらしい。
当然事情を訊く権利は俺にあるだろうが、彼女の事情は俺には関係ないことだし、訊いたって何するってわけでもない。
本人から言い出したりしない限り訊かない方がいいだろう。
なんにしても他に行くあてがないのは確からしいし、な。
騙されてる、なんて可能性は考えないことにしていた。
「ほい、急だったんでほとんど残り物で悪いけど。」
卵とハムだけのシンプルなチャーハンを二つの皿に盛り付けて、片方を行儀良く机の前に座ってた昌の前に置く。
「男の手料理だからな、味は保障できないぞ。」
「ん…、ありがと。」
昌はすっかり大人しくなってしまって、もそもそとチャーハンを食べ始めた。
それを見ながら二人分の茶をコップに注ぐと、俺も自分のスプーンを口に運ぶ。
んー、可もなく不可もなく。70点。流石俺、無難だ。
初めのうちは食器の音だけが響いていた部屋も、そのうち取り留めのない会話で賑やかしくなって来る。
一人じゃない、誰かとする食事は楽しいものだったけれど、互いの深い部分を避けようとする会話は余所余所して、むしろ寂しくも感じた。
「ごちそーさま。案外、料理うまいんだねぇ、キミ。」
皿を空にして、昌は満足そうに笑う。
「褒めてももう残ってないからおかわり出ないぞ。」
食器は流しに放置して、心地よい満腹感に身をゆだねて寝転がる。
「まあ、ご要望にお答えしてお構いしないんで適当に。」
「どーも。…ん」
彼女もごろりと横になった。
「牛になるな。」
「そうだねー」
間延びした声を交わす。
遠くの鳥の声を聞きながら、のんびりとした時間が過ぎていく。
そのまま、寝てしまいそうな意識の中、ふと夕食の材料が何もないことに気が付いた。
曲がりなりにも客が居るのに、夕飯抜きってわけにもいかないだろう。
「……おーい。」
寝たまま、声をかける。
「おーい、昌さーん?」
微妙に年上っぽいのでさん付け。
返事がないただの屍のようだ、ってそうじゃなくて。
のっそりと体を起こすと彼女はそれに気付いた風もなく、ただ規則正しく寝息を立てていた。
呆れるほど能天気な寝顔だった。
「一応俺だって男なんだから、なぁ…」
勿論、呟きに返事はない。
俺がその気ならやりたい放題、って状況だ。
あからさまに意識され警戒されてもやりにくいだろうが、こうも無防備だと男として何か釈然としないものがあった。
「…まあ、疲れてたんだろうし。」
うん、リラックスしてくれたみたいなんだから良しとしよう。
わざわざ口に出して気持ちを切り替える。
立ち上がって伸びを一つ。客が寝てるうちに買い物を済ませてしまうとしよう。
コートを羽織って、財布をポケットに確認。
寝てる昌に毛布をかけてやって、起こさないようにそっと部屋を出た。
「おかえりー。」
「―――――」
スーパーの袋を提げて家に帰ると、昌はタオル片手に部屋で湯気を立てていた。
「……何してんだ。」
「ん?あ、ごめんねー、勝手にシャワー借りたよー。」
濡れた髪を乾かしながら、飄々と言う。
少し赤く染まった頬が、なんとなく色っぽい、いや、そうじゃなくて。
「…あ、もしかして怒ってる?このタオル使ったら不味かったとか。」
それ以前の問題があると思うんだけど、俺の方が意識しすぎなんだろうか。
「…いや、なんでもない。気にしないでくれ。」
ツッコむ気力も失せ、袋の中身を冷蔵庫に詰め始める俺。
「それはそうと、キミ。無用心だよ。」
作業をしてるってのに、昌は構わず横から話しかけてきた。
「んー、何がー?」
自然、返事も適当なものになる。
「だってキミ。普通こんな素性も知れない奴を家にひとり残したらまずいかな、とか考えるもんでしょう。
それをほっぽいて買い物行くなんて、無用心にもほどある。」
「…あー、そういうこと。」
手を止め、なんとなく頭を掻く。
別にそういうことを考えなかったわけじゃない。
ただ、赤の他人を泊めてやるとまで言ってるのに、今更そんなことで疑うのも変かな、なんて思っただけだった。
「……じゃあ、なんだ。お前はなんか盗ったのか。」
「へ?そんなわけないでしょ。」
「だろ?だから、俺が正しい。そういうことにしとけ。」
「―――――」
昌は目を丸くしたと思ったら、ぷっとふき出した。
「馬鹿だねぇ、キミは。」
柔らかな言葉に、微かな笑み。
「なんだよ、なんか文句あんのか。」
昌は楽しそうに笑うばっかりで返事をしない。
何となく照れくさい気分のまま、仕方なくまた作業に戻ることにした。
「ごちそーさま。」
「お粗末さまでした。」
いつもよりは豪勢な夕食を終えて、また二人して寝転がる。
昌はぶかぶかのシャツとよれよれのジャージのズボンを着ている。勿論、両方とも俺のである。
シャワー浴びた後も同じ服を着るのもなんだろうと思って貸してやったんだけれど、なんだか変な感じだった。
「そんじゃあ、お楽しみ―――」
冷蔵庫の中からビール缶を取り出して、投げて渡す。
「まさか、呑めないなんて言わないよな。」
煽る様に言うと、
「無論、受けて立ちましょう。」
彼女は、芝居がかった口調で不適に笑った。
「キミさー、普段何してるのー?」
無数の空き缶が足元に転がり、そろそろアルコールの臭いも気にならなくなってきた頃、唐突にそんな質問をされた。
「んー?何って、大学行ったりバイトしたり。」
「へぇ、学生さんなんだぁ。」
「そっちは?やっぱ仕事してんの?」
「私?私はねー、お水。」
「オミズ?」
「そ、水商売。ホラ、こっからちょっと電車乗るとそういう所あるじゃない。あのあたりでさ。」
「ふーん。確かにそういわれればそれっぽいかな。」
会話の合間にくいっと、ビールを呷る。
「あはは、やっぱりそういう風に見えちゃうかなー。見知らぬ男の子の家に泊まらしてもらうほど軽い女だしねー。」
乾いた笑いにちょっと顔をしかめる。
「今更そういうことは言いっこ無しだろ。そーゆー自虐的なノリはあんまり好きじゃないし。」
「そう?うん。まあ、キミなら店に来てくれればサービスするよん。」
笑いながらウィンク。お互い大分酔いが回ってきてるなこりゃ。
「勘弁してくれ。貧乏学生にそんな金は無いって。」
そう軽くあしらうと、
「ちぇっ、残念。」
なんてどこまで本気かわからない言葉が返ってきた。
「あれ?もー空だ…」
気付けば空き缶を逆さにして振る、なんていう絵に描いたような酔っ払いの動作をしていた。
底に溜まっていた残りのビールが僅かに滴って、宙を舞う。
どうやら、今宵の酒盛りはこれでお開きらしい。
時計を見るととうに深夜。アルコールも相まって眠気は絶頂だ。
「んー、じゃあそろそろ………って、おーい?」
机に突っ伏してる昌に反応はない。
そういえば暫く前からずっと突っ伏したまま動いていなかった。どうやら既におねむらしい。
「まったく、ただ酒だからって考え無しに呑みまくりやがって。」
呆れながら抱き上げると、彼女は何の抵抗も無く俺の手の中ですうすう寝息を立てている。
驚くほど軽い体に多少戸惑いながらも、そのままベットに下ろした。
「世話のかかる奴…」
緩んだ寝顔を見みながら、呟く。
布団をかけてやって暖房を調節した後、毛布をもって廊下に出た。
同じ部屋に寝るなんて、俺のモラルが許さない。……………いや。どちらかというと理性が耐えられないのだけれど。
リビングと廊下をつなぐドアをきっちり閉め、壁にもたれかかるように座る。
毛布にくるまってみるものの、やっぱり寒いなこりゃ。
けどまあ、寝れないほどじゃないかな。
―――しかし、よくよく考えてみれば変な状況だ。
一人になると、多少思考も冷静になってきたらしい。
簡単に言うと、飲み会の帰り道にコートをあげた女の子を家に泊めてあげてます、ってことだろ?
……………
ぎゅー
痛い痛い。
やっぱり夢じゃないよなぁ。
お水っていうけど、やっぱりそういう女はこういうとこが適当だったりするんだろうか。
いや、だからといってこの状況は―――まあ、いいか。
泊めるのは今晩だけだし、明日からはまたいつもの日常に戻るだろうさ。
酔っ払った頭で考えたって仕方ない、それよりなにより今は眠くてしょうがない。
そう頭が切り替わると、寝付くのは早かった。
弱々しい声が聞こえた気がして、意識が戻る。
瞼を開けると、まだ廊下は真っ暗だった。
「……ねぇ、起きてる?」
再び声。
やっぱり気のせいじゃない。
声はドアを隔てたすぐ向こうからだった。
「ああ、起きてる。」
こんな時間に何のようだろう、なんて思いながら一応返事をする。
きっとそれでも頭はまだ、半ば眠ったままだったに違いない。
「寒い、の……」
「………?」
―――あれ?俺、ちゃんと空調つけたよな。
眠気で意識が霞んで、俺が中々動き出せずにいると、がちゃ、という音と共にドアが開かれ、リビングの空気が廊下に吹き込んだ。
外気温と対して変わらない廊下にうずくまっていた俺には、その空気は随分暖かく感じられた。
なんだ、そっちのほうが全然暖かいじゃないか。贅沢な―――
瞬間、眠気は消え失せ、思考は完全停止。だっていうのに感覚はむしろ鋭敏になる。
腰に回された手と、背中にあたる柔らかい感触。毛布の中の鼓動が、二つに増えた。
「ちょっ、何を―――」
抵抗する間もなく、振り向くと同時に、唇を塞がれた。
素早く舌が侵入し、口内をを這い回り愛撫する。
微かに、タバコの臭いがした。
「…っ!・・・…む、ぅ…」
細い腕がシャツの中に入り込み、胸板を撫でる。
甘い刺激にぐらつく理性を必死で保ち、力ずくで絡みつく体を引き離した。
「あっ…」
唇が離れるのと一緒に甘い声が漏れる。
彼女の上気した頬は、きっとアルコールのせいだけじゃない。
「……何の、つもりだ。」
一度口を拭って、睨みつける。
いつもより1.5倍ほどの速さで走る心臓や、荒くなりかけた息を必死で隠しながら出す声は、自分でも驚くほど鋭かった。
問いかけに、彼女はトロンとした目のまま首をかしげる。本当に、不思議そうな顔で。
「何のつもりって…、子供じゃないんだからさ。」
なんでもないことのように笑う。
妖艶な笑みはまさしく娼婦のものだと悟って、ぎり、と歯が軋む。
「どうせキミだって、最初からそういうつもりだったんでしょ?」
「――――っ」
吐き気がするような台詞。
もう、堪えられそうに無かった。
「きゃあ!」
不意に彼女を抱きかかえると、甲高い声が耳に障る。
一度戸惑うように体を強張らせたが、俺がベッドに向かっていることに気付くと体の力が抜けるのがわかった。
それは、まるで諦めたようでもある。
「んっ!やぁ…、もっと優しく…」
ベッドに放り投げると、痛かったのか甘ったれた声を出して俺を見上げる。
けれど、俺はそんな彼女に見向きもしない。
「え………ちょ、ちょっと待ってよ。どこいくの?」
「うっさいっ!散歩だよ、夜の散歩!」
最悪な気分がそのまま乱暴な言葉になって、口から溢れ出てくる。
「お前はどうだか知らないけど、少なくとも俺はそんなつもりじゃなかったんだよ!いいから、―――さっさと、寝ろ!」
声の限りに怒鳴り散らして、勢いのまま部屋を飛び出
///
彼は腹を立てて部屋を飛び出していってしまって、深夜、私は暗い他人の部屋に一人残された。
思いもよらない展開にベッドに座ったまま、ぽかんと彼が出て行った玄関を見つめる。
私は彼の部屋に一晩泊めてもらう。
お礼にに私は、彼に一回"ヤラせて"あげる。
そういう単純なギブアンドテイクが暗黙のうちに出来上がってるものだと思っていたのに、彼の中では違ったらしい。
別に、体を重ねることぐらい、大して意味のあることでもない。
少なくとも、とうに貞操も純潔も失われている私には無意味なことだと思う。
―――やっぱり、彼は馬鹿だ。
「この、唐変木……」
呟きは、投げた枕と一緒に誰もいない暗闇に消えた。
頭まで布団をかぶって、もやもやした感情を無理やり寝かしつける。
明日、彼が帰ってくる前にここを出よう。
行く当てはないけれど、これ以上彼に迷惑をかける気にもならない。
『お礼』が出来ていないのが唯一心残りだったけれど、彼自身が拒んだのだから仕方のないことだ。
早く、寝よう。
明日からのことは、明日考えればいい。
///
目を開けると、見慣れた天井。
気が付けば、自室のベットに寝かされていた。
シーツは几帳面に伸ばされ、頭の上の冷たいタオルが心地よい。
頭痛は酷く、気分は最悪。完全に二日酔いの観を呈していた。
昨晩、勢いで部屋を飛び出してしまって戻るわけにも行かなくなった俺は、深夜の公園に陣を取った。
昼間は幼い子供たちが遊んでいたでだろうの公園も、深々と更けたこの寒夜には人っ子一人見当たらなかった。
すぐそこの自販機で酒を買い込み、寒さも最低な気分も、アルコールで誤魔化そうとした。
ちょうど空が白み始めた頃に金も尽き、朦朧とする意識の中、寝不足・飲みすぎでがんがん痛む頭を抱えながら、それでも帰巣本能を頼りに家に辿り着いた。
扉を開けてから、ベッドにもう先客がいることを思い出して、仕方なしに廊下で倒れこむように眠りについたのだった。
………じゃあ、何で俺はベッドの上に寝てるんだ?
「ん……」
体を起こす。
グラグラする頭を抑えながら、一度ぐるりと部屋を見回す。
昨日の酒盛りであれだけ荒れ果てたはずの部屋はきれいに片付けられていた。
他に人影はなく、部屋の中は間違いなく俺一人。いつもと同じように。
「帰ったの、か……」
欠伸をかみ殺して涙目になりながら、呟いた。
立つ鳥跡を濁さず、なんて言葉を思い出す。
跡を濁さず、というよりは、彼女は自分の痕跡を残さず消していったように思える。
遠くの風の音が聞こえるほど、部屋はやけに静かだった。
なんにしても、どうやら俺の日常はまた元の軌道に戻ったようだ。
立ち上がってベッドから降りると、ぶるっと一度からだが震える。
「……寒ぃ」
くそ、暖房はついてるはずだってのに寒すぎじゃあないか。
誰だよ、去年の暮れ辺り今年は暖冬だとか言った奴。
あーもー、頭痛い。
少し鬱が入った気分のまま、時間を確認する。
日はまだ高い。うし、まだ授業に間に合う。
朝飯は―――、途中のコンビニで買っていけばいいか。
そう決めて、コートを羽織ってドアを開ける。
外の空気に触れて、ぞくぞくっと背中を悪寒が走った。
……悪寒?
「―――何やってんだ。」
玄関を出ると、昌がいた。
昨日と同じ格好のまま、まだ長いタバコをくわえている。
「いや、何って。一服してたんだけど……」
最初に俺が言ったこと。部屋の中ではタバコ禁止。
そんなことを律儀に守って、こいつは外でタバコを吸っていたらしい。
昌も面を喰らったのか、呆然とお互いの顔を見つめあう。
俺としてはまだコイツが居ることよりも、それを知ってどこかほっとしている自分に驚いているんだけれど。
「お前―――」
「って、キミ!何やってんの!」
言葉が重なる。
二日酔いで本調子じゃない俺は、声の勢いでも負けていた。
「何って…、学校行くんだよ。理由もなく二日も休むわけにゃいかないだろう。」
当然のことだ。
まだ俺は親に学費を払ってもらってる分際で、無責任にほいほい学校サボるわけにはいかない。
そんな俺の態度に、昌は一つ大げさにため息を吐く。
「理由もなく、ねぇ……まったく、真面目なのはいいことだけど、もうちょっと自分の状況ってもんを把握しようよ。キミってはやつは自己管理も出来ないんだねぇ。」
呆れたような昌の口調は、なんだか少し、むかつく。
「キミ、寒くない?」
「…?ああ、そうだな。今朝はやけに冷え―――」
と、妙なことに気付く。
昌が今着てるのは、昨日着てたシャツとジャージ。
薄着とまでは言わないが、コートまで着込んだ俺に比べれば明らかに軽装だ。
それでも俺は歯の根が合わないくらい寒いっていうのに、昌は平気なんだろうか。
「気付いた?」
「………お前、寒くないか?」
もう一度、今度は目を覆いながらため息を吐かれた。
なんだってんだこの野郎。
「・・・まだわかんないかなぁ、そんな赤い顔して。いい?今日は春一番と間違えるほど暖かいの。キミのは悪寒。風邪引いたんだよ、キミ。」
「……………あー。」
なるほど、そういえば昨晩はやけに寝つきが良かったが、そのせいか。
「じゃあ、この頭痛とか眩暈とかは…」
「二日酔いじゃなくて全部風邪の症状!ほら、さっさと部屋に戻る!」
急き立てる昌に尻を叩かれながら、俺は部屋に押し戻された。
部屋に入る前に踏み消されたタバコ。
まだあんなに長いのに、勿体ない。
「まーったく、今朝起きたら廊下でキミが真っ赤な顔して倒れてるんだもの。何事かと思ったよ。」
ベッドに寝ている俺の隣で、タオルを絞りながら今朝の状況を説明する昌。
ということは、俺がベッドで寝てたのは、昌が運んでくれたらしい。
女の腕で大の男を一人の体をベッドまで運ぶのは、結構な重労働だっただろう。
「悪い、迷惑かけたな。」
そう思うと素直に謝罪の言葉が口から出た。
「いや、いいって。キミを怒らしちゃったのも私なら、廊下で寝かしたのも私だし、帰り道にコート奪ったのも私なんだから、私が風邪引かしたようなもんでしょ。
そんなんで謝られちゃったら私の立場がないよ。」
さっきまでのどこか偉ぶった態度と一転、昌は少し照れたように微笑む。
「ほら、キミには恩があるし、ね。病状が落ち着くまで看ててあげます。いいから大人しく看病されなさい。」
「大人しく看病されろって、なんだそりゃ。」
妙な言い草に思わず苦笑いがこぼれる。
「……了解、大人しく看病されやがります。」
「よろしい、病人は人に甘えるものだからね。」
そうやって、お互いに笑いあったと思う。
「さて、なんか欲しいものある?リンゴでも買ってこようか?
―――あ、そうだ。まずは熱測んないとね。」
と、何を思いついたのかにんまりと笑う。
悪巧みを含んでいるとしか思えない笑顔に嫌な予感を感じる間もなく、
「えいっ」
―――おでこにおでこがぴとっと。
「うわあああああああっ!」
変な声を上げながら昌の両肩を掴み、力ずくで引き離す。
「近い近い近い近い誓い地階っ!何すんだこの野郎!」
力いっぱい叫びたおしても、昌は動じずくすくすと笑って、
「照れるなんて可愛いとこあるもんだねぇ。あーあー、輪をかけて真っ赤になっちゃって、熱上がったんじゃない?」
なんて非常に嫌なことを言っている。
「う、うっさい!熱測るんならそこの救急箱に温度計があるっ!」
「はいはーい。」
まずい、完全にペースを握られてる。
まだ心臓はバクバクいってるし、顔が熱を持っているのは自覚できるほどだ。
顔を間近で見てしまったからだろう、忘れかけていた昨日のあれが嫌でも思い出された。
ええいくそ、思い出すな、意識するなっ!
忘れようと布団を被って目を閉じても、逆により一層生々しく昨日の唇の感触が蘇る。
ダメだ、多分もうまともに顔を見れそうにない。
「救急箱に風邪薬もあったけど飲む―――って、布団被って何やってんのキミ。」
「なんでもないっ、なんでもないからほっといてくれ!」
「………変な人。」
むしろ、なんで俺はこんな状態なのにお前は平気なんだ。
人生経験の差か。
水商売なんてしてるだけあって、そーゆーのには慣れてるのか。
お水、ねぇ……
商売道具ってことになるんだろうし、やっぱり手間かかってんだろうなぁ。
髪も肌も綺麗だったし、お世辞じゃなく美人と呼べる部類だと思う。
スタイルだって…………いかん、色々悪化してきたかも。
しょうがないじゃないか俺だって健康な若い男なんだし。
嗚呼、もう、俺の、バカー。