「桜井、どこに行くか決めたか?」  
廊下を歩きながら一番の悩ましい質問をされる。  
「…いえ、まだです。まだまわってない科もあるし」  
香奈は少し困ったように答える。その困惑の様子を感じとり笑顔で  
「ER来いよ。桜井みたいな手際のいいヤツが来ると助かるし。  
 まぁ研修終わってもあまり時間的な余裕はできないけどな」  
彼は香奈の4年先輩の袴田純。現在は救命医療を専門にやっている  
「そうだよな、ローテート終わらないと決められないって事もあるよな」  
職員用の通用口を二人で出ると、外はもう暗い  
帰りに偶然会い、声をかけられたまま歩いていた。香奈は外の空気を吸い込み  
小さくため息のような深呼吸をする。  
「桜井の同期の西野、あいつは外科だろうな。確か外科志望だったし。  
 だけど救命にいた時はかなり使えたからあいつも欲しいところだけど…  
 人手不足だからついみんな欲しくなるのはずるいか」  
はは、と短く笑い袴田はポケットを漁る。車のキーを出している。  
香奈から見た袴田は「かっこいい先輩」だった。外見だけではなく仕事に対しても。  
「あの…袴田先生、私、ERか外科で迷ってるんです」  
打ち明けるように話し始め、そのまま歩きながら話を続けるといつのまにか  
袴田についていってしまう形で彼の車がある地下駐車場までついてきてしまっていた  
「溜まってるな、いろいろ。桜井、よかったら飯いくか?」  
車の鍵をあけ、香奈に助手席へ「どうぞ」と手で促す袴田。  
「あ…すいません、私勝手に話し始めちゃって…」  
相談を押し付けてしまった事にやっと気づき香奈は少し恥かしく思ったが  
好意に甘えるように助手席のドアを開けシートに座った  
 
キーを捻りエンジンをかけ、袴田は香奈のほうを向き  
「そういう相談事だけじゃなく、色々な事を話せる親密な相手、いないのか?」  
西野の顔が思い浮かぶ…しかし彼はそういった相手なのかどうか、まだわからないでいた。  
肉体関係はあるものの、プライベートで会う事は今でもなかった。曖昧さがさらに  
香奈をイラつかせていたのも事実。まぁプライベートの時間がほとんどないのもあるが…  
「いるようで…いない、です。」  
そこで袴田が香奈の頭を宥めるように優しく撫でる…香奈は心臓が飛び出しそうな感覚になった  
「桜井は頑張りすぎるからな…うちから外科にローテートで行ってから心配してたんだ  
 …心配というよりは、気になってた、というほうが正しいかな。」  
―嘘でしょ?看護師人気も高い袴田先生が私を気になってた?  
香奈はびっくりしたのが表情に丸出しになっているのにも気づかず彼を見つめた  
苦笑いをして袴田が続ける  
「そんなに目をむいて驚かなくてもいいだろ。すごい顔になってるぞ」  
「すいません…」  
つい謝ってしまうがもう訳がわからないでいる。袴田の温かい手は香奈の頭から頬へと移動する  
そこで、コンコン、と窓を叩く音。  
香奈は一気に現実に戻されたので驚きは2倍、びくっとして小さく声まであげてしまった  
その声に袴田は驚くが叩かれた運転席の窓の方向を二人で見る  
…そこにはケーシーを着たままの西野が自転車を引いて、こちらに向かって「どうも」と会釈をしていた  
香奈はさっきとは違う心臓の飛び出しそうな感覚を感じた…  
袴田はそっと香奈から離し、窓を開ける。「よぉ、西野」  
 
香奈は彼らの会話が始まる前にあわてて切り出す。なぜ慌てたかは自分でも明確ではないが…  
「袴田先生、ありがとうございます。あの…相談に乗ってもらえてちょっとすっきりしました」  
そういうとドアを開けて車から降りる。  
「ご飯、今度一緒に行きましょう。今日は一人で色々考えてみたくなったので…すいません」  
「邪魔だったかな?通りすがりに声かけただけなんだけど」  
西野が間髪入れずに言う。そこで袴田が余裕の笑みでゆったりと答える  
「邪魔だよ。先輩に気ぃ使わないのは相変わらずだな西野。」  
「俺、悪名高いらしいですから、生意気な研修医がいるって」  
西野は自分がそういわれていることを知っていた。平気で目上の人間に口答えをし  
自分の意見を言って、常に強気。彼自身それが正しいと思う半面、そう言われている事も鬱陶しかった  
「それじゃ桜井、今度は飯行こう…て、いつになるかわからないけど。連絡する」  
袴田は香奈に軽く手で挨拶をし、車を出して去っていった。  
…自転車のサドルにはコンビニ袋がぶらさがっている。私服姿の香奈はケーシーを着ている西野を見て  
「…珍しい。西野君ケーシー嫌いじゃなかった?」  
「もう3日泊り込んでるから着替えがなくなったんだよ。これだとYシャツとかいらねぇし。」  
二人の会話の声がエンジン音が去った地下駐車場に響いている  
「あ、そうか、担当の患者さん…ヤバかったんだよね。忙しかったんだよね西野くん」  
「あの患者さんは夕方ステったから。今日やっともう少しで帰れるとこだよ」  
――そうか、死んじゃったんだ、夕方…。ステルベンの経験は香奈にもあるがやはりまだ辛い。言葉を失った  
 
「伝票整理があるからもうちょっと仕事しないと帰れないから買出し」  
自転車のコンビニ袋を軽く突き西野が無愛想に言う。  
「で?ラヴシーン直前に邪魔されて残念だったな?」  
見られてた…といっても何もしていない。ただ、髪に触れられ見詰め合っただけ…  
それでも香奈にはあこがれの先輩との会話がまだ信じられずにいる。そして目の前にいる西野を見て  
「残念だった。袴田先生かっこいいからねー。なぁんて、そんなんじゃないよ」  
ふふっと笑い答えるが西野はいつもに増して無愛想だ。何も言わず通用口まで自転車を引いて  
適当に止める。香奈はその無愛想な空気が不安になり、小走りで付いていくと  
「ねえ、何?怒ってるの?」  
率直な感想を言う。西野は無愛想に続ける  
「キスでもしそうな空気だったぜ?アホかお前は」  
 
―怒って…る?香奈はそれが意外だった。西野はあまり感情的になるタイプではないからだ。  
「なんで怒ってるのよ…万が一そうなったとしても西野くんには関係ないでしょ」  
イライラが炸裂した形…香奈は王手を動かした。その半面、彼がどう次の一手を出すか怖かった  
コンビニの袋を片手に持ち視線を合わせずに西野は淡々とした口調で答える  
「仮眠室でセックスして中出しまでさせといて関係ないでしょーとは桜井もスゴイな」  
コンクリートに声がこだまする、香奈はあわてて「しっ!」と西野の口を押さえようとするが  
西野はその手を払う。二人の声と足音、コンビニ袋のガサガサという音が響いている  
声をひそめるがそれも少し響いている。香奈はひそひそとした声で西野の正面に立ち答えた  
「いくらセックスしたって…何なのよ…西野くんと私って何よ…」  
香奈にとっては遂に王手を打った。ごくり、と固唾を飲み込み彼を睨むように見つめる  
相変わらず飄々と、きょとんとした西野は香奈のほうをやっと見た。  
「何なんだろうな」  
そういうと突然香奈を壁に押し付ける。突然つき飛ばされ壁に押し付けられ驚くが  
負けじと西野を見つめ続ける…その西野は壁に片手をついて、先程の袴田の真似をするように  
香奈の髪にふれ、すっと指を頬まで滑らせて…唇に触れる。  
「桜井、私服地味だな、相変わらず」  
脈略のないつぶやきをして西野はそのまま唇を重ねる―ごまかされる、と香奈が拒むが  
もうそこで負け、拒もうとした手首を西野は掴み、押さえこみそのまま唇を重ね続ける。  
強引だった筈が啄ばむように、唇の感触を楽しむようなキスになり香奈の手の力も抜ける…  
そしてゆっくりと…舌が進入してくる。香奈はもう麻痺しているのか受け入れる  
彼のほうが自分より体温が高いのが、入ってきた舌の温度で感じ取れた。  
 
背中に当たるコンクリートの壁の冷たさと対照的に少し熱く感じる西野の手…唇…呼吸。  
そこへ車が1台、タイヤの滑る音とエンジン音を響かせ通り過ぎる  
見られたか見られてないのかはわからない、駐車場の片隅の壁での情事  
ゆっくりだが舌を絡ませたまま西野がコンビに袋を落とし、両手で香奈を強く抱きしめた  
香奈の胸に、彼の胸ポケットに何本入っているペンやIDカードが強く押し付けられ  
思わず「痛い」と唇を離し言った。ふっと鼻で笑い西野がまた唇を塞ぐ  
…両手で頬を押さえられるような形で香奈はそれを受け入れるしかなかった  
彼の舌先が香奈の唇をなぞるように動き…再び進入し香奈の舌を捕らえる  
二人の唇の隙間から唾液が少し垂れ…混ざり合う水音がクチュっと聞こえた  
香奈は無意識に西野の背中に手をまわし、ケーシーの背中をぐしゃっと掴む…しがみつくように。  
まるで唇が性感帯になったように、敏感になっている――香奈は立っているのがやっとになってきたが  
西野は混ざり合った唾液を飲み込み舌を絡ませ続けていた…そしてやっと、香奈が彼の体を離す。  
二人は今まで自分が呼吸していたかわからない、という感じですっと空気を吸い、吐く。  
「いいんじゃね?言葉で言ってこういう関係ですって定義しなくたって。こういう関係で」  
さっきまでの情熱的なキスをしていた男が言う言葉にしては淡白すぎて、香奈は「は?」と聞き返す  
「だから前から言ってるだろ?桜井は俺のだって」  
…意味がわからない、体だけの繋がりで所持されているのか、それとも…?  
唾液で濡れた唇をぬぐい香奈はもっと言ってやろうと思うが言葉が出てこない  
「西野くん…」  
「それじゃ、俺はまだ仕事中だから」そういうとコンビニの袋を拾い、軽く手をあげ彼は  
通用口を入っていってしまった。香奈はその背中を見送りながら自分の唇を人差し指で触れる  
――キスだけじゃ、足らない。そう思う自分の意思をどうにかごまかす方法を考えながら。  
 

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