◇          ◇          ◇  
 月光が、戦場を照らす。  
 死屍累々の草原を漂う、腐臭と血の臭いを含んだ風。  
「……ひどい臭いだ」  
 その中を歩く一人の男が、ぽつりと口にする。  
 黒髪のイヌのマダラ。濃褐色の軍服を身に着け、腰には軍刀と拳銃を下げている。  
 階級章も勲章もつけてはいないが、素人目にも上質の生地を使っているとわかる軍服。  
 硝煙の匂いを嫌うイヌが拳銃を携行しているのも珍しい。  
 つまるところ、良くも悪くも普通とは違う。  
(確かに、ひどい臭いね)  
 その脳裏に語りかけてくる女性の声。  
 数日前に戦闘が行われたばかりの、まだ生々しい戦場。  
 本拠地強襲の報に慌てた王弟派の一師団が、慌てて帰還しようとしたところを精鋭の奇襲部隊が待ち構えていた。  
 左右を渓谷に挟まれた隘路で、行く手を岩と炎に阻まれ、上からの斉射を受けた。  
 ほとんどなすすべもなく、八千近い軍が壊滅。  
 男が立っているのは、そのような凄惨な戦場だ。  
 
──本当に、ここに来るのか?  
 その声に、同じように心の中でたずねる。  
(そうよ。A級国際犯罪者“千の死者の主”デクルレイ。データは見ているはずよ)  
──そいつは見た。  
 通り名のごとく、千の死者を操るといわれる国際犯罪者。  
 猫の国や犬の国を中心に、どこからともなく遣ってきた死者の群れが、町を襲うという事件が多発している。  
 無論、どちらも大陸を代表する大国と強国。こういった事件に対しては、迅速に軍を出動させ、大半は被害が拡大する前に粉砕している。  
 だが、死者の群れを粉砕することは出来ても、それを操る存在にはまったく近づけていないのが現状だった。  
 そんな折、本国から入った連絡。  
 
──ここで、よかったよな。  
(ええ。本国からの連絡では、ここに向かっているはず)  
──よく捕捉できたものだ。  
(残留魔素から思念を追ったようね)  
──今日、来るのか?  
(間違いないわ。GARMの情報網は伊達じゃない)  
 頭の中の声と、語る。  
 その声は、かつての主の声。  
 一心同体となった、今は魂だけの永遠の主人の声。  
 
 死者の谷を見下ろす、断崖の上。  
 銀糸の衣をまとう人影。鬣のような髭を生やした、狒々の民の男。  
「く……かか……憎悪が、無念が渦巻いておる……」  
 狂気を含んだ声。  
「その憎悪と無念、実にすばらしい……」  
 言いながら、祭刀を振り上げ、呪文を詠唱する。  
「……復讐の時は今ぞ……今こそ蘇りの時……」   
──準備はいいか。  
 頭の中の声に、問う。  
(いつでも)  
 
──わかった。  
 その言葉を聞いて、男はすらりと腰の剣を抜く。  
 装飾のほとんどない、武骨な倭刀。ただし、見た目にただの刀ではないことはすぐにわかる。  
 黒い刀身。  
 そして、柄に螺旋状に刻まれた六条の魔術文字。  
 魔剣。  
 そういうものを見慣れている人なら、一目でそう気付くだろう。  
 男は、それを正面で構えながら、言葉を発した。  
「……ライズ・アップ」  
 
 剣の柄に刻まれた魔法文字が、光となって浮かび上がる。  
 そして剣を握る腕に絡みつき、螺旋となって包み込む。  
 そのまま、魔法文字は腕を下から上へと駆け上がり、肩、胸、全身へと広がってゆく。  
 魔法文字の駆け抜けた後の肌を、蒼白い炎のような光が包む。  
 やがて、それが全身を包む。  
 蒼白い炎に包まれた“魔犬”が、そこにはいた。  
 
 脳に次々と送り込まれる、自分以外の意思と記憶。  
(ようやく……ようやくブチ殺せるぜぇ……)  
(ここはどこだ? 俺は何をしている?)  
(もうイヤだ……もう殺したくなんてない……)  
(助けて……)  
(獲物はどこだ?)  
(なぜ俺が……お前なんかに……ヒトなんかに……)  
(苦しい……痛い……)  
(敵だぁ……敵をよこせ……誰でもいいから壊させろぉ……)  
 矛盾するいくつもの意思と感情。  
 そして、ぞっとするような記憶。死の恐怖、そして走馬灯。  
 頭の中に鉄の杭を打ち込まれるような、嘔吐しそうな圧迫感。  
 その奥で、そのいくつもの意思が混ざり合い、溶け合い、やがて一つの意思となるのがうっすらとわかる。  
 そして、それが押し寄せてくる。  
 全てを飲み込む、一つの巨大な意思。やがて、男の意思すらも包み込み、静寂と白い闇で多い尽くす。  
 そして、白い闇が再び開けた時。もはや、すでに圧迫感も嘔吐感もない。  
 
──敵か。  
 まるで、いま目が覚めたように、眼前の風景をぐるりと眺める。  
 じわりと包囲し、迫る死者の群れ。  
 が、恐怖はない。  
──召還。  
 心の中で、そう唱える。  
 大気中の魔素が、数箇所に集まる。  
 そして、それらは光の蝶の形をとり、男の周りを舞う。  
 それを、断崖の上から見下ろす人影。  
 蒼白い炎に包まれたその姿を、興味深げに眺める。  
「ほう……このような場所にイヌとは……なるほど、わしが来ると予測していたか……?」  
 そういいながら、口元を緩める。  
「だが、そこで何が出来る? 我が僕を相手に、ただ一人で……」  
 命あるものを憎悪する無数の死者。  
 疲労も痛みも恐怖も知らず、ただ生ある者への憎悪だけを糧に動く僕たち。  
 一人で倒し尽くせる数ではない。  
「せいぜい、楽しませてくれたまえ」   
 
 月光に照らされる戦場。  
 駆け抜けながら、剣を奮う。  
 アンデッドには、通常の剣撃はきかない。  
 動けなくなるまで破壊しない限りは、何度でも蘇る。  
 黒い刀身が、胴を薙ぎ、腕を断つ。  
 骨すら存在しないかのように、軽々と裂く。  
 鋭い太刀筋で、次々と切り伏せ、両断するが、後から後から死体は押し寄せてくる。  
 たとえ両断した死体であっても、上半身は上半身だけ這ってくる。  
 だから、厳密な意味で倒すことは出来ない。相手が動けないようにすることが、唯一の撃退手段。  
 そして、崖の底で死者の群れと戦っている男──ステイプルトンの剣は、確実に死体の群れが二度と動けないように斬り裂いている。  
(術者は、あの断崖の上ね)  
──そのようだ。  
 魔素の流れ。死者を操る『悪意』の潮流。それは、断崖の上から流れてくる。  
(どうするの。直接術者を叩く方法もあるわ)  
──いや。テレポートにはまだ魔力が足りないだろう。それに、崖の上のどこにいるかも特定できていない。  
 頭の中を、次々と駆け抜ける情報。  
 ライズアップ時に使用可能となるいくつかの特殊能力の一つ、超空間把握力。  
 空間に広がる魔素と大気を媒介に、まるで網の目のように魔力の網を張り、周囲二百メートル四方で動くものの存在を掴み、そして伝えてくる能力。  
 近くの敵が障害となって目では見えないものさえも、その存在、動き、すべてがわかる。  
 さらには、その動きの連続性から、半径200メートル内にあるすべてのものの次の行動までも、すべて把握できる。  
 しかし、それでも。  
 崖の上にいるはずの死人使いの居場所を特定するには距離が足りない。  
 
 数こそ多いものの、死者の群れ自体はステイプルトンの敵ではない。  
 硬直した肉体の単調な動きは、まるで踊っているかのようにゆっくりとしたものに見える。  
 邪魔な障害物をどけるように、次々と剣をふるい、なぎ倒す。  
 ひとたび死んだものに、生前のような柔軟な動きはできない。  
 恐るべきは、破壊しない限り動き続ける特性と、死者が動くという違和感がもたらす恐怖。そして数。  
 それさえ注意しておけば、所詮は傀儡にすぎない。  
 黒い刀身に、銀色の魔法文字が浮かぶ。  
 『消除』のエンチャント。  
 刃の触れた箇所を、部分的に『存在しなかった』ことにする魔法。  
 たとえば、『消除』のエンチャントがかけられた剣で何かを両断した時。それは剣で「斬った」のではない。  
 剣の通った軌跡には「最初から何もなかった」つまりは「はじめから二つに分かれていた」ということになる。  
 無論、刃の触れる箇所など毛筋ほどでしかない。  
 だが、ひとたび剣を一閃させたならば。その軌跡に添って、ほんらい毛筋ほどしかない『存在を消除する』空間は連続し、一つの平面を生み出す。  
 鋼の塊であろうと、巨大な城塞であろうと、あるいは天を衝くほどの巨大なゴーレムであったとしても。  
 触れるものすべてを消滅させる刃を。  
 防ごうとする盾さえも消滅させるそれを、防ぐすべはない。  
 
(増えてるわね)  
──ああ。  
(まだ、足りないの?)  
──もう少し。跳ぶだけなら今すぐでも可能だが、なにしろ相手の居場所が特定できない。  
(そんなこと言って、この数を相手にいつまで保つの?)  
──見くびらないでくれ。  
 戦いながら、脳裏の声と話す。  
 確かに、数は多い。  
 が、それだけ。  
 今のステイプルトンには、周囲二百メートルにいる敵の動きであれば、すべてわかる。  
 次の動きがわかる敵など、敵ですらない。  
 
 
 戦場を、光の蝶が舞う。  
 動く死体を焼き、再び光へと還る。  
 その中を、青白い炎をまとう魔犬が歩む。  
 近寄る死体を、無造作に切り捨てながら、何かを探すかのように。  
──どこにいる。  
 魔素の流れと、どこかから流れてくる悪意を探す。  
 
「……これはこれは」  
 少し驚いたような、感服したような声。  
「あの数を相手に、まさか傷一つ負わぬとは」  
 狒々の民の死人使い。銀の鬣を震わせるように言う。  
「が、あまり調子に乗らぬ方がよかろうて」  
 そう言ってほくそ笑むと、祭刀を高々と振り上げた。  
 
(上よ!)  
 突然、声が響いた。  
 弾かれるように、真横へと避ける。  
 雷撃。  
 さっきまでいた空間に稲妻が落ち、数体の死体が黒焦げになって崩れ落ちた。  
──どこから術を!  
 魔素の流れを読み、位置を特定しようとする。  
 そのとき、再び上空に集中する魔素。  
──くッ!  
 前に駆ける。  
 再び、雷撃が背後に落ちるのがわかった。  
(このままじゃジリ貧よ!)  
──わかってる。もう少しだけ待ってくれ。かなり絞り込めてきた。  
(この状態でいつまで待てですって?)  
──とりあえず、あと五分あれば……  
 いいかけて、はっと気付く。  
──なんだ?  
 少し離れた箇所に感じる、奇妙な空白。  
 魔素も、悪意も、ありとあらゆるものが「全く感じ取れない」文字通りの虚無。  
 今までに感じたこともない何かが、そこにいる。  
 そちらに気をとられている一瞬、判断が遅れた。  
「まずいっ!」  
 転げるようにして、落雷を避ける。  
 そこに集まってきた死体の群れをなぎ倒しながら立ち上がる。  
(どうしたってのよ、いったい!)  
 抗議の声。  
──わからない。だが……少々計算が狂うかもしれない。  
 そう言いながら、周囲を見回す。  
 奇妙な虚無の存在が、動く先。  
「あそこは……」  
 ふと、崖の上を見回す。  
──おそらく、術者の居場所……  
 まだ漠然としかつかめていないが、魔素の流れ、そして死者を操る“悪意”の流れの源らしき場所に、その新たな気配も向かっていた。  
 
 崖の上を見上げるステイプルトンと、目が合ったように思った。  
「む……気付いたか?」  
 くっくっと、喉の奥で笑い声を上げる。  
「……だが、ここまでどうやって来る? いまだ我が僕は多いぞ? のみならず、我が雷撃をかいくぐってここまで……」  
 だが、その背後にゆらりと迫る、黒い影がひとつ。  
 それは、あまりにも「何もない」がゆえに、デクルレイは気付かなかった。  
 ゆっくりと、黒い人影が狂気の笑いをあげる男の背後へと迫る。  
 
 
「ぐああぁアァあぁァっ!」  
 突然、悲鳴が聞こえたように感じた。  
 そして、激しい魔素の流れが続いた。  
 雷撃が、崖の上に続けざまに落ちる。  
(何が起きたの?)  
──わからない。が……さっきの「アレ」だ……  
 さっき、ステイプルトンが気付いた虚無と、死人使いが邂逅したのだろう。  
 時間にして、ほんの数十秒。  
 雷撃がやみ、そして蠢く死体たちが再び動きを止め、崩れ落ちた。  
 乱れに乱れた魔素の流れが、しだいに落ち着きを取り戻す。  
──跳ぶぞ。  
(わかった)  
 崖の上で何が起きたのか。  
 躊躇する暇はなかった。  
 溜め込んだ魔力を解放し、崖の上へとテレポートする。  
 後には、再び動かなくなった死者だけが月に照らされていた。  
 
 そこには、無残な死体が一つ転がっていた。  
 背中から下半身にかけてをごっそりと失い、胸から上だけが血まみれになってそこに残っていた。  
 が、ステイプルトンの意識をとめたのはそれではなかった。  
 闇が、そこにあった。  
「これは……」  
 それは、一見すれば黒い人のようにも見えた。  
 だが、よく見るとそれは人ではない。  
 否、生物ですらあるかどうか。  
 黒い人の形に、空間が抉り取られていた。  
 それは、何の実体も持たない時空の裂け目。  
 その奥に、何かが見えるような気もする。  
「……なるほど、虚無だ」  
 肩をすくめながら、ステイプルトンが言う。  
「何も存在しない。それでいて、触れるものすべてを飲み込む」  
 実体がないのだから、魔法も物理攻撃も、通用するはずがない。  
 虚無の人影が、こちらを向いたように感じた。  
(戦えるの?)  
──わからない。攻撃が通用するとも思わない。が……  
 黙って、見逃してくれるとも思わない。それに。  
「このまま見逃して、良い相手でもなさそうだ」  
 
 剣を抜き、その動きに備える。  
 虚無が、まっすぐに向かってきた。  
 左手で拳銃を抜き、正面から撃つ。  
 二発。  
 が、それは虚無なる人影へと飲み込まれ、そのまま消える。  
 虚無に飲み込まれる大気が、風を起こす。  
 風を飲み込みながら、正面に、巨大な虚無が迫る。  
──召還!  
 闇の中に、光の蝶が舞う。  
 壁を作るように、ステイプルトンと虚無の真ん中に集まる。  
 が。  
 何もないかのごとく、虚無は近づき、それを飲み込む。  
 ウィスプがもたらすまばゆい光は一瞬で消え、そして何事もなかったかのように、虚無がステイプルトンに向かってくる。  
──なんて奴だっ……  
 斜め前へと跳躍し、その突進をかわす。  
 立ち上がりながら、剣を縦に構えた。  
──ならば……こいつはどうだ!   
 
 
 銀色の魔法文字が、刀身を奔る。  
 それは、『消除』のエンチャントが発動した証。  
 ふたたび、虚無の人影がステイプルトンの方を向く。  
──そこに存在するものを消去する……同じ『能力』どうしがぶつかるのならば……ならば、こちらにも勝機はある!  
 そして、ステイプルトンは駆けた。  
 
 虚無の突進をぎりぎりのところで避けながら駆け抜け、そして剣を一閃させる。  
 蒼白い炎と、真なる闇が交差し、そして離れた。  
 
 背後を振り返る。  
 虚無の人影の胴は二つに絶たれ、その隙間から彼方の夜空が見える。  
 しかし、それも一瞬。  
 上下に断たれた人影が、再びつながり、一つとなる。  
 ほんの少しだが、小さくなったようにも見える。  
 おそらくは、ほんのわずか……剣の軌道が断ち斬った分だけ、虚無が消除されたのだろう。  
 だが。  
 横を駆け抜けただけで、自身の魔力を少なからず奪われたのがわかる。  
──効いたのは効いたが……厄介な敵だ。  
 そう、思っているところへ。  
 突然、急速な魔素の高まりを感じた。  
──何だっ!?  
 漆黒の闇だったそれのなかから、突然巨大な手が現れる。  
──まずいっ!!  
 後ろに飛びのき、剣を構えなおす。  
 一瞬後、何もないそこを巨大な指がわしづかみにする。  
 だが、狙っていた獲物を捕らえ損ねた巨大な腕は、そのまま一度虚無の中に戻った。  
 が。  
 その直後、今度は四つの巨大な手が虚無の人影を内側から掴む。  
──なんだ……?  
 ステイプルトンの疑惑をよそに、四本の巨大な腕は、そのまま一気に虚無を四方に引き裂く。  
「くっ!」  
 とつぜん、膨れ上がった虚無。吸い込まれそうになり、近くの大木に腕を絡み付ける。  
 そして、膨れ上がった虚無から。   
 四本の腕の巨人が現れた。  
 
「なんだ……こいつは」  
 虚無の中から現れた異形の巨人。  
 身長は5メートルを軽く超えるだろう。  
 しかし、ステイプルトンを驚かせたのはそれではなかった。  
 この世のものとは思えぬその姿。  
 うつ伏せになった上半身の腰と胸から、四本の足が四足獣のように真下に伸びている。  
 そして、肩と脇腹から日本づつ、あわせて4本の腕が左右に広がっている。  
 頭髪はなく、左右と額にあわせて三つの目を持つ顔。  
 巨人と言うよりは、むしろ巨人の形をした蜘蛛のような姿。  
──なんだ、こいつは……  
(わからない。こんなのは初めて見るわ……)  
 その背後で。  
 無理やりこじ開けられた巨大な虚無が、再びもとの等身大の人影に縮む。  
 そして、するりと動き、ステイプルトンに近づこうとする。  
「っ……」  
 その動きから逃れようとしたとき。  
 巨人の拳が、その行く手に振り下ろされた。  
 とっさに地面を逆方向に蹴り、その一撃を避ける。  
 が、その間に虚無の人影は最短距離を動き、ステイプルトンの至近距離に迫っていた。  
「させるかっ!」  
 剣を一閃。そして、地面に転がるようにして逃げる。  
 両断された虚無が、また少し小さくなりながら、しかし元通りの姿に戻る。  
 
──くっ……魔素が……  
(接近を許すと魔力を吸われるわ。この状態でライズアップを維持できなくなったら終わりよ)  
──わかってる……だが……  
 異形の巨人の力任せの攻撃。動き時代は単調だが、とにかく重く、そして疲れを知らない。  
 巨人と虚無の攻撃を一度にかわすとなると、かなり厳しい。  
「くそおっ!」  
 攻撃をかわしながら、銃を撃つ。巨人の体まで剣が届かない以上、銃に頼るしかない。  
 弾は命中し、血が流れる。  
 しかし、何事もないかのように平然と暴れまわる。  
──どうすればいい……どうすれば勝てる!?  
 答えは出ない。  
(恐るべきは巨人よりも、むしろ虚無の方よ)  
 声が語りかける。  
(身体は大きいけど、巨人だけならば倒せなくはない。だけどあの虚無には近づくたびに魔力を吸われる上……あの中から、別の巨人が出てこないとは限らない)  
──あんなのが、まだ出てくるのか!  
 二対一でも厳しいというのに、三対一ではとても勝てる見込みはない。  
(だから、優先して倒すべきは虚無の方)  
──そうはいっても、どうやって!  
 近づくだけで魔力を吸われる相手。倒すすべが見つからない。  
(確信は持てないけど、試してほしいことがあるの)  
──何だ?  
(あの虚無は、近くにあるエネルギーを手当たり次第に吸い込んでいる。たとえて言うなら、排水溝の穴)  
──排水溝の穴……  
 はっと、気付く。  
──わかった……エルシア、次にテレポートできるまで、何分かかる?  
(虚無に魔力を吸われないかぎり、五分あれば大丈夫)  
──わかった。そのときがくれば教えてくれ!  
 なにかの確信を持った言葉。  
 ステイプルトンは、駆けた。  
 
 巨人の攻撃を、ぎりぎりのところでかわし続ける。  
 その背中から近づく虚無から、逃げて逃げて逃げまくる。  
 ステイプルトンが何かを思いついてから三分。  
 ただの一度も、反撃の動きを見せようとしなかった。  
 超空間把握力をフルに動かし、ただひたすら攻撃を避けることに集中する。  
 そのかわり。  
 剣を鞘に収め、銃の弾丸を入れ替えた。  
 ステイプルトンが所持する弾丸の中で、最も破壊力の強い『爆砕』のエンチャントが施された銃弾。  
 それを、6発すべて装填する。  
 チャンスは、おそらく一度。  
 それに、全てを賭ける。  
 月光の照らす中、ステイプルトンは時を待ち続けた。  
 
「……っ」  
 ステイプルトンの足が止まる。  
 いつの間にか、虚無と巨人に前後から挟まれていた。  
 前方には巨人。背後には虚無。  
 その瞬間、月光の下で踊っていた三体の影が、動きを止める。  
 一瞬の間。  
 そして、前後から同時にステイプルトンに向かってきた。  
──大丈夫か。  
(問題ない)  
 短い確認。  
 前後から迫る敵。  
 それを待っていた。  
 二対の敵が、ぎりぎりまで近づいた時。  
 ステイプルトンの姿が消えた。  
 
 
 次の瞬間。  
 ステイプルトンは巨人の背後に立っていた。  
 ぎりぎりまで待っての、突然のテレポート。  
 二体の敵がぶつかり、自滅するタイミングだけを待っていた。  
 巨人の腕が、虚無の中に吸い込まれている。  
 苦悶の声を上げ、手を振り回す巨人。  
 その第二関節から先が、飲み込まれて見えない。  
──今だ。  
 巨人の背後に向けて、ステイプルトンは全弾を撃った。  
 
 弾丸が、巨人の身体に吸い込まれる。  
 そして、一瞬の後に大爆発を起こす。  
「ぐおおおおおおおっ……」  
 地を揺るがすような断末魔。  
 異形の巨人が、爆発して四散する。  
 もう一つの敵──虚無にとっては、至近距離での大爆発。  
 それを、全て飲み込もうとする。  
 巨人に振り回され、空中に投げ出された虚無の空間。  
 そこに、爆発も巨人の肉片も全てが吸い込まれる。  
 が。  
 虚無が、苦悶しているように見えた。  
 爆風と肉片を吸い込みながら、少しづつ、しかし確実に小さくなっている。  
 やがて、全てが消えた時。  
 ステイプルトンを散々苦しめた巨人も、虚無も、そして爆発の痕跡も、すべて消えていた。  
 
──終わったか?  
(なんとか)  
「そうか……っ……」  
 たまらず、片膝を付く。  
 急速な魔力の消耗に加えて、短時間での連発したテレポート。全身にどっと疲労が押し寄せてきた。  
 さっきまで全身を包んでいた青白い炎は消え、さっきまでともに戦い、一つの意志となっていた彼ら以外の百の魂も、再び眠りにつく。  
 あとには、衣服こそ奇妙だが、どこにでもいそうなイヌのマダラが一匹いるだけ。  
 もう、、あの奇妙な空白の存在はどこにもない。  
 木々は打ち倒され、地面はもとの姿をとどめないが、そこに流れる魔素の風は何も変わらない、この世界のもの。  
「……なんだったんだ」  
(わからない。こんなのはデータにないわ)  
「……何かの災害なのか、魔法事故なのか、それとも俺たちの知らない存在なのか……」  
 何年ぶりかで感じた、恐怖のような感情。  
(本国に照会するしかないわね)  
「……信じてくれるのか」  
(とりあえず、デクルレイの死体を送り届ければ納得してもらえるはずよ)  
「……さっきのアレで、残ってた部分も吸い込まれてなければいいけどな」  
(その時はその時ね)  
 ようやく、今夜の戦いが終わったのだと実感した。  
「……ふぅ」  
 一つ、ため息をついた。  
(大丈夫?)  
──何とか。  
 怪我はない。魔力の消耗は確かにこたえたが、ライズアップを解除した状態なら、なんとか動けなくもない。  
(吐き気とか、頭痛とかは?)  
──大丈夫だ。  
 少々、頭が痛いが、それはいつものこと。  
 いつの間にか、慣れてしまっている自分に気付く。  
(強くなったんだ)  
──おかげさまで。  
 始めの頃はライズアップを解除した瞬間に、それまでの記憶と現実、そして眼前に広がる死屍累々の後継が入り混じり、そのまま倒れたり、嘔吐したこともある。  
 その後も、思えばいろいろとあった。  
 
「ご主人様のおかげだ」  
 そう口に出していいながら、大の字に寝転がる。  
(あら、まだ『ご主人様』って呼んでくれるの?)  
「今までだって、そう呼んできただろう」  
(記憶にないわ)  
「ひどいな」  
(どーせ、私はひどい女よ)  
 拗ねたような、それでいて少しおどけたような声。  
「そう拗ねるなって」  
(拗ねてないわよ)  
 その声を聞いていると、心が安らいでくるのがわかる。  
 戦う中で傷つき、ささくれ立った者が癒されてゆくのがわかる。  
 大の字になったまま、星空を見上げる。  
(“魔犬”ステイプルトンがこんな格好してるのが見つかったら大問題ね)  
「見てる奴なんているかよ」  
 そう言って笑う。  
 その声に重なる、厄介な声がひとつ。  
「そうとも限らないわ」  
 闇の中から聞こえる、聞きなれた声。  
「……そういえば、例外が一人いたな」  
 少し苦い気持ちで言いながら、疲労困憊の身体を何とか立ち上がらせる。  
 茂みの中から、濃紺の軍服を着た犬国の女軍人……ベリルが姿を見せた。  
 
「いつから見てた」  
「最初から」  
「……さっきの、アレもか」  
「ええ」  
 そう言って、不思議な笑みを浮かべる。  
「貴重なものを見られたわ。仮説として、そういうのがあるかもとは言われてたけど、生で見られるとはね」  
「ベリルは、あれが何か知っているのか?」  
「仮説上の話よ。正しいと断言するつもりはないわ」  
 そう断ってから、ベリルは言った。  
「世界のバランスが崩れたことによって現れた『ひずみ』のようなものよ」  
「ひずみ?」  
 問い返すステイプルトンに、ベリルが言う。  
 
 ステイプルトン……というよりは、その中身であるシゲルもそうだけど、この世界には少なからぬヒトや、ヒトの世界の文物が落ちてきている。  
 ……もちろん、絶対数ではまだまだ少ないけど……それらは、本来この世界には存在しないもの。  
 あるいは、魔法。  
 異界の物を呼び、使役する術があるという。  
 そうしたものが、この世界に少しづつ蓄積している。  
 世界に、本来存在していたよりも多くのものが溜まりつつある。  
 それは、この世界の本来持つ許容量を超えるほどに。  
 
「許容量を超え始めたら、余分なものを吐き出そうとする。同時に、別の世界では失ったものを取り戻そうとする。その二つの世界が何らかの理由で接触したとき、互いの世界が本来のバランスを戻そうとする」  
「……ピンとこないな」  
「まあ、仮説だから。これまでも『とつぜん人が消える』『とつぜん何かが消滅する』などの事例で、既存の学術上説明できないものがいくつが報告されているけど、そう言う事例において、それが消えた瞬間、何が起きたかという目撃者はいない。  
……正確には、目撃者も飲み込まれている」  
「つまり、俺が始めての生きた目撃者になるわけか」  
 その言葉に、ベリルが頷く。  
「そういうことね」  
 
「……で、どうすればいいんだ? あんな物騒なのが何度も出てこられたら厄介だ」  
 その問いに答えるベリルの口は重かった。  
「…………」  
「……対処法ナシ、ってことか?」  
 重ねかけるステイプルトン。  
「魔法の発展は歴史の必然よ。ヒトも、これまでにあまりに多く落ちてきた。絶対数は少ないとはいえ、この地で確実に一定以上が生きている。いまさら、ヒトを皆殺しにして魔法の発展を止めるわけには行かないでしょう」  
「俺もヒトだ」  
「だから言ってるの。こればかりは、現れたら対処するその場しのぎの対処療法しかないのよ」  
「対処療法でもいい。問題は対処できるのかということだ」  
「小さければ、なんとかなるかもしれない。今はまだなんともいえないけど」  
「大きければ?」  
「諦めるしかないわ」  
「…………」  
「セトの肋骨のことは覚えてる?」  
 突然、ベリルがそうたずねる。  
「……忘れられるものか」  
 蛇の砂漠に存在する、魔素極小地帯。  
 砂漠と岩山が交錯し、多くの奇岩からなる複雑な地形を生み出している。  
 灼熱の大地、侵入者を拒む独特の地形に加え、この一帯ではほとんど魔法が使えなくなっている。  
 遊牧の少数民族以外は近づこうともしないこの場所は、魔素が極めて少なく、大陸の平均的な魔素濃度と比較して、わずか2%弱しかない。  
 魔素極小地帯と呼ばれるこの一帯を総称して、セトの肋骨と呼ぶ。  
 三年前。  
 国際犯罪者を追っていたステイプルトンはこの一帯に誘い込まれ、もう少しで殺されるほどの目にあったことがある。  
「あの一帯でどうして魔素が少ないか、幾度か調査隊が送り込まれているけど、帰還した調査隊はないわ」  
「そのようだな。確か、あの時もセトの肋骨から初の帰還者だと言われた覚えがある」  
「あの地の奥地に、なにかがいる。もしかすると、それがもっと大きな『虚無』かもしれない」  
「…………」  
 記憶の中で、蘇るモノがいる。  
──あのときの……こ……  
(……黒竜……)  
──可能性はあるな。  
 記憶が、一気にフラッシュバックする。  
 
     ◇          ◇          ◇  
 
 さかのぼること三年前。  
 蛇の民が住む大砂漠地帯に、ステイプルトンはいた。  
 
 大陸各地で破壊活動を行うB級国際犯罪者『シルバー・ウィスク』。  
 その消息を警備隊が掴んだのはほぼ四ヶ月前。  
 蛇の砂漠の奥地にある奇岩地帯に潜むということだった。  
 そこは、蛇の民の中でもわずかな遊牧民が住むだけという砂と岩だけの場所。  
 おそらくは、各地を追われ、転々としているうちにそこに追い詰められたのだろう。  
 ただちに100人近い討伐隊が派遣され、灼熱の砂漠を西へと向かった。  
 
 が、帰還者はゼロ。報告さえ届かなかった。  
 考えられないことだったが、たかがB級の犯罪者相手に、100人近い軍が全滅したという以外の結論は出なかった。  
 その奇妙な報告を受け、秘密裏にGARMが動く。  
 GARM第三局【ケルビム】所属。派遣する者の名は【ステイプルトン】。  
 しかしその目的は、あくまで情報収集。100人近い軍の全滅に普通とは違うという違和感を感じたというだけのことで、正直な話、砂漠に追い詰められたB級の国際犯罪者などは眼中にもなかったということでもあった。  
 
 
──なんて広さだ。  
(移動だけでずいぶん体力を消耗しただろうことは想像に難くないわね)  
──戦う前から負けていたということか。  
(そうなるわ。……ついでに言うと、シゲルもそうならないとは限らないわよ)  
──気をつけることにするよ。  
 そう言って、砂丘の陰で休息しながら、大気と地中の魔素を吸収する。  
 第五局、第六局に所属する、本物のティンダロスたちと比べ、ヒトを素体としたステイプルトンは不完全な部分が多い。  
 その力をフルに発揮できる時間も短ければ、力を発動するためには外部から大量の魔素を取り込む必要もある。  
 そして、なにより。  
 本来ならば解けあい、『ひとつ』となるべきはずの101の魂が、かならずしもそうはなっていないということ。  
 ステイプルトンの中には、本来なら消えうせるはずの、融合前の自我が二つ残っている。  
 ひとつは、素体であるかつてのヒト召使、ソウマ・シゲル。  
 もう一つは、その主であり、生前は軍の研究者であったエルシア・サー・スフォール。  
 二つの意思は、一つの肉体を持ちながら、それぞれ独立した意思をもち、それを伝達することが出来る。  
 もっとも、エルシアの魂は後から暴走を阻止するためのリミッターとして組み込まれたことを考えると、当初の予定通りだったのかもしれないが。  
──これから向かう先のデータはどうなってた?  
(残念だけど、詳細なデータはほとんどないわ。そもそも人はほとんど住まない場所だし、過去に何度か派遣された調査隊は……誰も戻っていない)  
──よくもまあ、そんなところに一人で向かわせてくれるものだ。  
(戦闘は目的じゃないわ。あくまで何が起こったかの調査。だとすれば、人数はあまり必要じゃない)  
──目的じゃないからといって、巻き込まれないとは限らないだろう。  
(巻き込まれても何とかなるくらいの強化はしてあるはずよ。自慢じゃないけど、100人程度の軍隊よりは、ステイプルトン一人の方がずっと強いわ)  
──まあ、それはそうかもしれないけど。  
 シゲルにとって、ライズアップ後の事はほとんど記憶が残らない。  
 朦朧とした意思の中で、自分以外の何かが身体を動かすような感触だけが残っている。  
 そして、我に返ったとき、周囲には死体の山ができている。  
 いつも、その調子だ。  
 最初はその惨状を見て、嘔吐したり気分が悪くなったりもしたものだが、慣れというものだろうか、最近はそこまでひどくはなくなった。  
 
(そろそろ、チャージできたんじゃない?)  
──そうか。じゃあ、そろそろ跳ぶか?  
(OK。じゃあ、一気に地平線の彼方まで跳ぶわよ)  
「わかった。……ライズアップ!」  
 全身を駆け抜ける魔法文字。  
 身体を包み込む蒼白い魔力の炎。  
 イヌにしては小柄なマダラの若者が、本来の姿を見せる。  
 そして、次の瞬間。  
 砂丘の陰から、その姿が消えた。  
 
 ステイプルトンがいた場所から、30キロほど西。  
 奇妙な岩石が立ち並ぶ中に、その姿が現れた。  
──これはまた、おかしな場所にでてきたな。  
(…………)  
──って、どうした、エルシア……ご主人様?  
(……ああ、ごめんね。ちょっと立て続けのテレポートで魔素を浪費しすぎたかも)  
──ああ、確かにな……。わかった。しばらく適当に辺りを見ておくから、その間休んでおけばいい。  
(ごめんね。いつもなら、こんなに疲れたりしないんだけど)  
──まあ、こんな場所だからな。人が住む場所じゃないだろう、ここは。  
(そうね……気温もそうだけど、なんだか変に息苦しい場所だわ)  
──無理はするな。いざというときに困る。  
(わかったわ)  
 しばらく、ライズアップはできそうにない。  
 灼熱の太陽が照りつける下で、シゲルは歩き始めた。  
 
 
 GARM第三局【ケルビム】に所属するステイプルトン……シゲルの場合、ル・ガル国内にいるよりも国外にいる時間の方が長い。  
 今までは主に、猫の国の首都、シュバルツカッツェを拠点に動いていた。  
 もうすぐ、別の任地に向かうことになるらしいが、今のところは大陸で最も繁栄した街で過ごしている。  
 それに比べると、なんとも殺風景な光景。  
 独特の形状をした奇岩が林立し、その合間を砂の混じった熱風が駆け抜ける。  
 ふと、上空を見上げると、そこには天を支えるように聳え立つ岩の柱や、斜めに傾き、ねじくれたような、なにかの前衛芸術みたいな岩がいくつも視界に飛び込んでくる。  
 地球で言えば、カッパドキアや桂林。しかし違うのは、ここが文字通りの砂漠のど真ん中で、しかも特別の高地でもないということ。  
 あたり一面すべて砂。緑はほとんどない。雨なんて期待すべくもないし、雪なんて向こう百年期待できそうにない。  
──暑い。  
 よく考えたら、こんな場所に軍服で来るなど、自殺行為もいいところだったと思う。  
 まあ、これだけ直射日光が厳しくて、しかも風が熱いとなると、素肌を晒すほうが危険な気もするが、それでも暑いものは暑い。  
 むしろ、暑いを通り越して熱い。  
──とりあえず、岩陰に入るか。  
 エルシアも疲れているかもしれなかったが、シゲルも少し休みたい気分だった。  
 
「ふう」  
 岩陰に潜んで、一息つく。  
──しかし、調査と簡単に言われても大変だな。  
 眼前に広がる、一面の奇岩。  
 水分を補給することさえままならなさそうな地形がずっと続いている。  
 ステイプルトンの場合、魔素を吸収することで体内で水分を自製できるからいいようなものの、ここで住むなんてのはどう考えても自殺行為にしか思えない。  
──そういえば、どうも本調子じゃないな。  
 異様に疲労が早い気がする。  
──この暑さのせいか。  
 それ以外に、考えようはない。  
 日陰で疲労を回復させながら、何気なく横を見やる。  
 少し離れた場所に、なにか光るものが見えた。  
「あれは……」  
 抜き身の剣のようにも見える。多少距離はあるが、歩いてゆけない距離ではない。  
──もしかしたら。  
 全滅したといわれる派遣隊の物品かもしれない。  
 装備を確認すると、休息を中断してその場所へと足を向けた。  
 
「……これは」  
 眼前に広がるのは、ぼろぼろの軍服をまとったいくつもの白骨。  
 中には半分ミイラ状になった死体もある。  
「……っ」  
 嘔吐しそうになるのを、何とかこらえる。  
 ここで、何かが起きたのだろう。  
 そして、全滅した。  
 どういう理由があって全滅したのかはわからない。が、それを調査するのがステイプルトンの任務。  
 近くの死体に近づき、致命傷は何かを見ようとしたとき。  
 周囲に、殺気を感じた。  
 
 立ち上がり、周囲を見回す。  
 いつの間にいたのか、奇岩のあちこちに人影があった。  
 手には、粗末だが頑丈そうな得物。  
 その目に、残酷な殺意が感じ取れる。  
「我らを追ってきたか」  
 獰猛そうな表情の狒々が、憎悪をむき出しに言う。  
「……シルバー・ウィスク……」  
 ぽつりと、つぶやくステイプルトン。  
 この地に逃げ込んだといわれる、B級国際犯罪者。  
 銀色の鬣が特徴的な、狒々の民が主体となっているため、そう呼ばれている。  
 
──とはいえ。  
 口元を、微かにゆがめる。  
──たとえ、そうであったとしても。  
 
 オレには、勝てない。  
 
 その確信とともに、剣を構える。  
──いくぞ、エルシア!  
(……えっ……)  
 戸惑ったような返事。が、シゲルはその声の変化に気付かない。  
 周囲をぐるりと見回し、そして叫んだ。  
「ライズアップ!」  
 
 疾走する魔法文字。  
 心に絡み付いてくるような白く大きななにか。  
 そして、全身を包み込む蒼白い炎。  
 それが、一瞬で消えた。  
「…………?」  
 自分の両手を見る。  
 絡み付いてきたはずの魔法文字は消え、炎もない。  
 いや、それよりも。  
 ライズアップしたはずなのに、意識がしっかりと残っている。  
──失敗? 馬鹿な!?  
 呆然としているところに、狒々が襲い掛かってくる。  
「くっ!」  
 転がるようにして避け、剣を構えなおす。  
──!?  
 次の瞬間。  
 がくんと、片膝が崩れた。  
「……っ……」  
 疲労が、全身にのしかかってくる。  
 身体が、自由に動かない。  
 残る力を振り絞るように、ほとんど逃げるように岩陰へと飛び込んだ。  
──エルシア! ご主人様っ!  
(…………)  
 必死に呼びかけるが、反応はない。  
 そこに、数人の狒々が卑しい笑みを浮かべてにじり寄ってくる。  
「っ……」  
 なんとか立ち上がる。そして、剣を構えた。  
「……怖いか」  
 狒々の一人が、嘲弄気味に言った。  
 武器は握っていない。代わりに、拳に皮を幾重にも巻きつけている。  
「何?」  
「魔法を使えぬことが、それほどに怖いか」  
「魔法……使えない?」  
 その言葉を、口中で反芻する。  
「先ほど、うぬが見ておった兵士どもも、始めのうちは威勢が良かったが、魔法を使えぬと気づいた瞬間から慌てふためき、自ら崩れおった」  
「…………」  
「わしらが、なんの考えもなくこのような場所に来たとでも思うたか」  
 
「………………」  
 話している間にも、残り二匹が背後へと回り込もうとする。  
 岩を背にして、背後を守る。  
「現地のものは、ここをセトの肋骨と呼ぶそうな。……魔法は使えぬ、精霊もおらぬ、水がほしければ100尋の底まで井戸を掘らねばならぬ。昼は炎のように暑く、夜は氷よりも寒い」  
 自慢げに語る狒々の男。  
「この地に不慣れな者には、朽ち果てるよりほか道はない」  
「…………」  
 つまりは、この地域に逃げ込んだこと、それこそが罠そのものだったということ。  
 そして。  
 魔法が使えない、すなわちライズアップできない今、そこにいるのはステイプルトンではなく、ひ弱な半獣人のソウマ・シゲルでしかない。  
「く……」  
 恐怖を、感じていた。  
 
 その表情を見た狒々の男が、侮蔑の笑みを浮かべる。  
「なんというツラだ。さっきの威勢はどうした? かかってくるがよかろう」  
「…………」  
 顔を上げて睨みつけるが、それ以上は体の方が動かない。  
「……なんとも、のう。イヌなど、所詮はその程度か」  
「オレは、犬じゃない……」  
 ヒトだ。  
 改造手術を受け、軍人の片隅に置かせてもらえるようになったかもしれない。  
 だけど。  
 所詮は、ヒト。  
 戦ったことなんて、一度もない。  
──怖い。  
 近づいてくる狒々の男を前に、足が震えて逃げることも出来ない。  
「くそっ!」  
 無理に勇気を搾り出し、一歩前に。  
 袈裟斬りにしようと剣を振り上げ……  
 その腕が、止まった。  
──嫌だ。  
 人を斬るということ。  
 シゲルにとって、それは初めての経験。  
 ステイプルトンと化した時、シゲルの意志は朦朧としていて、ほとんど何もわからない。  
 結果として、どれだけの敵を斬り、どれだけの命を奪ったかはわからないが、それはシゲルの意思で行われたものではない。  
 ただ、目を塞ぎ、耳を閉じていただけ。  
 自分以外の誰かが、手を汚していたに過ぎない。  
 今は、違う。  
 目の前の狒々を斬ったならば。  
 それは、シゲルが殺したということ。  
 殺すという事実を、誰にも押し付けられない。  
──オレには、できない。  
 青ざめた表情で、そのまま硬直するシゲル。  
 
「ぅぐっ!」  
 剣をふりかざしたまま固まっているシゲルの腹に、狒々の男の拳がめり込んだ。  
 膝を突き、前のめりになったところに蹴り。  
 吹き飛ばされ、岩に背中から叩きつけられる。  
「げほっ……」  
 痛覚が、さらに恐怖を呼び覚ます。  
──オレは。  
 どうして、ここにいるんだろう。  
 なぜ、こんなことになっているんだろう。  
 半ば朦朧とした意識の中で、そんなことを考える。  
 そこに、また殴打。  
 見えない場所からの一撃。  
 脳が揺れ、がくんと膝をを付く。  
 そこに、もう一度蹴り。  
 つま先が、みぞおちに食い込む。  
 持ち上げられたように、感じた。  
 そのまま、サッカーボールのように吹き飛ばされる。  
「かはッ……!」  
 息ができなくなり、ぱくぱくと口を動かす。  
 嘲笑が聞こえたような気もしたが、脳がガンガンと揺れて、それ以上はわからない。  
 起き上がろうとしたところに、後ろから思い切り踏み潰される。  
 ぐしゃりという嫌な音。  
 顔面から、岩場に叩きつけられた。  
 
 砂と岩だけしかないはずの光景が、やけに赤い。  
 それが自分の血の色だと気付くのに、ずいぶん時間がかかった。  
 気がついたときには、髪の毛を掴まれて持ち上げられ。  
 そして、思いっきり殴り飛ばされていた。  
──こんなものか。  
 ステイプルトンではないときのソウマ・シゲルなど、この程度か。  
──痛ぇ。  
 身体が満足に動かない中で、そんなことを思う。  
 意識が、過去の記憶をまさぐる。  
 が、次から次と訪れる痛みが、それすらも許してくれない。  
 岩に打ち付けられ、蹴られ、殴られているのだと脳は理解しているが、なぜ自分がここでこんな目に合っているのか、それがなぜかわからない。  
 逃げようという気持ちすら、なぜかわかない。  
──こんなところで、死ぬのか……  
 それを、驚くほどあっさりと受け入れている自分がいる。  
──死ねば、楽になる……  
 頭の中で、そんな声が聞こえる。  
 
 ふと、光が見えたような気がした。  
 血と砂が入って、ほとんど目が見えない状態で、なぜ光が見えたのかはわからない。  
 ただ、確かに光が見えた。  
──これは……  
 薄れる意識の中で、ぼんやりと思った。  
──おれは……どこかでこの光を見た気がする……  
 
 その奥に見えるのは、ありし日の記憶。  
 
 雨が、降っていた。  
 誰かが、俺の身体に覆いかぶさり、泣いている。  
「誰か! 誰か、医者はいないのですか!」  
──医者? 誰か、怪我でもしたのか?  
 ぼんやりとして、周りは何も見えない。  
 立ち上がろうとして、身体を起こそうとするが……  
 立てない。  
 指一つ動かない。  
「誰か! 誰でも構いません、彼を助けてください!」  
──彼? 誰のことだ?  
「彼を……シゲルを、助けてくださいっ!」  
──シゲル? 俺!? なぜ俺が……  
 
 そういえば。  
 俺には、大切な人がいた。  
 誰よりも大切な人だった。  
 その人を、俺は守ろうとした。  
 
 雨の降るある日。  
 暴走した貨物車両が、歩道に飛び込んできた。  
 “その人”は、一瞬逃げ遅れた。  
 逃げ遅れた“その人”を、俺は守ろうとして……  
 とっさに“その人”を突き飛ばして、そして……  
 
──俺は、死んだ。  
 俺が光を見たのは、確かその時。  
 
 俺は。死んだ。  
 いや、死んでいるはずだった。  
 俺の命を救ったのは“その人”が所属している組織だった。  
「そんな……無謀すぎる!」  
「理論上は可能よ! 肉体の改造を行えば、十分成功の可能性はある! それだけのノウハウは蓄積されているはずよ!」  
「付け焼刃に過ぎない!」  
「付け焼刃でもいい! 今、ここで彼を見殺しにするなんて、私には出来ない!」  
「……わかった。ただしこれは実験と言うことにしよう。ヒトを素体としてティンダロスが完成するかの実験だ。……あなたが、私情に駆られて行うものではない」  
「それで構いません」  
   
 記憶のどこかに残る、そんな会話。  
 俺が聞いていたはずがない。  
 だとすれば、これは誰が聞いていた会話だろう……  
 
「だめだ、拒絶反応が出ている!」  
「どうして? シミュレートした時は問題なかったはず!」  
「魂と言うものは、われわれがすべてを知り得るほど簡単なものではないということだ」  
「どうすればいいの?」  
「リミッターをつけるしかない。彼の心を鎮め、サポートする何かが必要だ!」  
「できなければ?」  
「できなければ……暴走する!」  
「……わかったわ。急いで再手術の準備をしてください」  
「再手術?」  
「私なら……私の魂なら、シゲルを制御できます!」  
 
──『私』……一体、誰なんだろう……  
 声の主は、俺の命を救ってくれた“その人”……  
 一体、誰なんだろう……  
 
「冗談はよせ! あなたは、自分の言っていることがわかっているのか!」  
「わかっています。彼を鎮めるのは私しかいません」  
「あなたが言っていることは、死ぬということだぞ!」  
「この肉体としては死ぬかもしれませんが、私は、彼の中で生きます。だから、問題はありません」  
「大問題だ! なぜあなたが……あなたのような有能な研究者か、たかがヒトのために!」  
「彼が私を命がけで助けてくれたからです。私には、彼に報いる義務があります!」  
「たかがヒトだぞ!」  
「関係ありません! 私にとって、彼はかけがえのない存在なんです!」  
 
 ずっと、そばにいる、すごく親しく、愛おしい誰かの声。  
 誰だろう……  
 
(……おはよう、シゲル)  
──ご主人様?  
(よかった。目が覚めたのね)  
──俺は……?  
 手術台の上で、俺は周囲を見回した。  
 イヌの科学者、医者、軍人らしい姿の男も。  
 だけど、声の主はいない。  
「ご主人様? どこですか?」  
(あなたの中よ、シゲル)  
「おれの……中?」  
(私は、シゲルといっしょにいるのよ)  
 科学者らしきイヌが、無機質な声で言う。  
「拒絶反応は見られない。成功したようだな」  
「成功……?」   
「おめでとう、ソウマ・シゲル……いや、ミスター・ステイプルトン」  
 
──ステイプルトン。  
 俺は、その日からそう呼ばれた。  
 おれは、その日から……  
──ヒトでは、なくなった。  
 
 
──これは……  
 いつの記憶だ?  
 なぜ、俺は泣いている?  
「なぜ、俺をこんなことにしたんだ!」  
(あなたを助けるため)  
「俺は、こんなになってまで生きたくなかった!」  
(……シゲル)  
「だいたい、どうしてご主人様がいなくなって俺が生きるんだよ! 逆じゃないのか!?」  
(私は、生きているわ)  
「いないじゃないか! どこにも! 声は聞こえるけど、姿は見えない、気配も感じられない! 第一、あの死亡報告書は何だよ! あの日、どうして俺とご主人様が一緒に死んだことになってるんだよ!」  
(私たちは、生まれ変わったのよ。ふたりで、ひとつになったの)  
「そんなの、俺は望んじゃいなかった! 俺は、誰の為に車の前に飛び込んだと思ってるんだ!」  
(いいかげんにしなさい!)  
 ご主人様の叱咤。  
「いいかげんにしろって……それはご主人様の方じゃないか! 俺は、あんなにご主人様を助けたかったのに!」  
(黙りなさい! あなたは、私に一人で生きろというのですか! 召使の分際で、私に何百年も孤独になれとでも?)  
「だって!」  
(だってじゃありませんっ! あなたは召使、私は主人です! 私はあなたを助けたかった。その気持ちの方が、あなたが私を救いたいという気持ちより優先します!)  
「そんなの、傲慢だ……俺の気持ちも知らないで!」  
(あなたこそ、私の気持ちも知らないで!)  
 
 同じ器に共存していた、俺とあの人。  
 お互いに気持ちが読めるから嘘がつけないし、だから喧嘩もしたし、半分泣きながら怒鳴りあったこともある。  
 それでも。  
 
 最後は、力を合わせる。  
 二人で、生き残るために。  
 二人の時間を、もっと続けるために。  
 
──なんて数だ……  
(50人はいるわね)  
──悪い。あんなところで警報にかかるとは思わなかった。  
(謝らないで。私も気付かなかったから)  
 シュバルツカッツェ北方の科学研究所。  
 潜入して機密を見た帰り、警報に引っかかった。  
 生憎なことに、月は満月。  
 逃げるといっても、どう見ても包囲されている。  
(使うしかないかな)  
──使うって?  
(シゲル、あなたの本来の力を解放するから)  
──本来の……力? 解放?  
(剣を取って)  
──戦うのか? この数と……?  
(戦うかどうかは、後で決めるわ。とにかく、剣を抜いて)  
──わかった。  
 刃から柄まですべて漆黒の刀を、抜いてみる。  
(そして、キーワードを口にするの)  
──キーワード?  
(“ライズアップ”。それが、力を解放するキーワード)  
──言葉に出すのか?  
(そうよ。それがあなたの能力を解放するキーワードなの)  
──少し恥ずかしいな。  
(そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!)  
「わーったよ。……“ライズアップ”!」  
 
──俺たちは、二人でひとつだった。  
 それは今も変わらない。  
 たとえ、姿が見えなくても。  
 たとえ、声が聞こえなくても。  
 俺は、一人じゃない。   
 
 そして。  
 俺が死ねば。  
 その時は、あの人も死ぬということ。  
 
 なぜ、俺はここにいるのか。  
 わかりきっていたはずの答え。  
 俺は、あの人の為にここにいる。  
 俺は、あの人と出会うためにこの世界に来た。  
 そして、ともに生きるためにここにいる。  
 だから、俺はここにいる。  
 そのために、俺は生きなきゃならない。  
 
──エルシア。  
 
(……シゲル?)  
 微かに、心配そうな声が聞こえたような気がした。  
──安心しろ。  
 そう、心の中の声に答える。  
──俺なら、大丈夫だ。  
 
 血まみれの顔を上げる。  
 狒々の男の拳が、眼前に迫っていた。  
 考えるより早く、身体が動いていた。  
 顔面すれすれで、その拳を受け止める。  
「…………?」  
 糸の切れた人形同然だったボロボロの犬が、突然見せた動き。  
 一瞬、戸惑いを見せた狒々の男と、シゲルの目が合った。  
 
「なめるな、エテ公」  
 自分のものとも思えないような、低い声が出た。  
 
 身体は、勝手に動く。  
 もう一方の左手が、拳銃を抜く。  
 安全装置は解除してある。  
 そのまま、至近距離から銃弾を打ち込む。  
 絶叫を上げ、腰から崩れ落ちる狒々の男。  
 どす黒い血が、砂を染める。  
 銃声と、突然見せた反撃におののき、数歩後ずさる狒々。  
 その隙に、取り落とした剣を掴み取る。  
「悪いな」  
 言いながら、再び剣を構える。  
「おかげで目が覚めた」  
 自分は、誰の為に生きているのか。  
 何のために戦うのか。  
 そして。  
 誰が、誰の意思で、敵を殺すのか。  
 
 
「魔法が使えない」  
 一歩、前に踏み出す。  
「敵が多い」  
 さらに一歩。  
 気圧されたように、狒々は周囲を取り囲んだまま動かない。  
「関係ない」  
 ぐるりと、もう一度周囲を見る。  
「もう一度、かかってこい」  
 静かな声。  
「ただし、今度は殺す」  
 
(……シゲル)  
──大丈夫か?  
 エルシアの声に、そう問い返す。  
(私は。それより、シゲルの怪我は?)  
──心配ない。かえって目が覚めたくらいだ。  
(よく聞いて。この一帯は、魔素は少ないけど全くのゼロじゃない)  
──つまり……?  
(魔力を十分に溜め込めば、ライズアップは可能よ)  
──溜めるまでに、何分待てばいい?  
(三十分。その間に、全力で溜めるわ)  
──それで、ライズアップの限界時間は?  
(……三十秒)  
──上等だ。  
 
 疲労は、残っている。  
 やりたい放題に殴られたダメージも、少なくはない。  
 なにより、やわらかい砂地と灼熱の空気は、そこにいるだけで体力を奪う。  
 それでも。  
 一つだけ、明らかな違いがある。  
──怖くない。  
 傷つくことも、誰かを傷つけることも、そして、そのことを背負って生きる未来のことも。  
 今は、不思議と怖くない。  
 
 二人ほどが、左右から襲い掛かってきた。  
──前だ。  
 剣が触れる寸前で前に飛び出し、そして腰を落としながら身体を反転させる。  
 二匹が、同時に剣を振り下ろしてくる。  
 横に、転がってかわす。  
 転がりながら、右の狒々の膝を断つ。  
 骨に当たる、重い感触。  
 そのまま、立ち上がりかけたところに、別方向から一匹。  
 腰のホルスターから、銃を抜く。  
 六連装リボルバー。左手一本で扱うには少々重く、反動もあるが、かまわない。  
 反動を生かして、身体の向きを変える。  
 周囲を見る。  
 集まってきた狒々。  
 強い殺意と、何かしらの法則を持ったような動き。  
 相手が、本気でシゲルを殺そうとしているのがわかる。  
 
 そして、岩陰には。  
 弓矢を構えている狒々が、合わせて十数匹。  
──飛び道具か。  
 矢の盾となりそうな岩を、周囲から探す。  
──あそこか。  
 中が大きく抉れた、瓜を割ったような岩。  
 ──あそこなら、何とかなる。  
 駆けた。  
 その前に、一匹の狒々が立ちはだかる。  
「どけえっ!」  
 叫ぶ。  
 右手に持ち替えた拳銃を、走りながら撃つ。  
 岩に響き、こだまする銃声。  
 眉間と腹部を撃たれ、崩れ落ちる狒々。  
 一瞬、狒々の動きが止まる。  
 その間に、包囲を駆け抜けようとする。  
 駆け抜けざまに、剣を真一文字に薙いだ。  
 目の前で真っ二つに両断され、血を吹いて斃れる狒々。  
 突き飛ばすようにそれを左手で払いのけ、そして瓜のような岩までたどり着く。  
 剣を突き立て、銃弾を補填する。  
 たった今、自分が殺した狒々の悲鳴と苦悶の表情が、一瞬だけ脳裏に浮かぶ。  
「…………」  
 それでも、心が動かない。  
 おかしいほど冷静に、自分と敵の居場所を考え、倒し方を考えている自分がいる。  
 剣を片手で握り、拳銃をもう片手に。  
 じりじりと距離をつめる数十匹の狒々。手にはそれぞれの得物が握られている。  
 だが。  
 本当なら、怖くて仕方がないはずの心が、まるで動じない。  
 岩陰から、撃つ。  
 三体が、倒れる。  
 敵の数が多く、敵の武器の大半が近接武器である以上、剣よりは銃の方が明らかに有利。  
 撃ちながら、岩陰の間を奥へ奥へと走る。  
 最初は勢いよく近づいてきた狒々も、十人近くが銃弾に倒れ、さすがに無防備に近づこうとはしなくなる。  
 死体を盾代わりにして、左右に展開しながら、林立する奇岩に隠れて近づこうとする。  
──どう、動く……?  
 この地の地形は、シゲルよりも敵の方が熟知している。さらには、ただ平面的に移動するだけではなく、岩に登ったりいることにも長けている。  
 おそらくは、こちらの想像よりも上を行くはずだ。  
──どうすればいい……?  
 考えていたその時、傷口から流れる血が、左目の視界を奪う。  
「っ……」  
 さっき、岩に叩きつけられた時に切った傷。  
 予想外に深かったのか、一向に血が止まらない。  
──見えない。  
 左半分の視界がない状態。  
 敵が左右に展開している状態では、かなり不利な条件。  
──敵は左右に展開し、こちらの視界は半分……ならば、どうする?  
 答えは、簡単なこと。  
 見えなければ、敵の音を聴けばいい。  
 見えなければ、敵の匂いを嗅げばいい。  
 見えなければ、敵の気配を感じればいい。  
 今なら、できるはずだ。  
 
──俺はもう、ヒトじゃない。  
 
 半分とはいえ、改造手術の中で獣の力を与えられている。  
 五感を集中すれば、視覚を補うくらいはできる。  
──感じろ。  
 耳を澄まし、匂いを嗅ぎ取り、気配を感じ取る。  
 
──そこだ!  
 
 振り向きざま、背後の奇岩に立つ狒々を撃つ。  
 悲鳴を上げ、奇岩から転げ落ちる狒々。  
 手にしていた短弓が、岩の端にひっかかっている。  
 
 そして、右。  
 ずいぶん近づいてきていた。  
 三発。  
 一発は盾になっている狒々の死体に。しかし残り二発は、その背後の狒々を射抜く。  
 
 駆ける。  
 風が砂を巻き上げ、渦を巻いている。  
 左右から襲い掛かる敵。  
 岩陰を抜けながら、銃を撃ちまくる。  
 巨大なリボルバーが火を噴くたびに、奇岩に銃声がこだまする。  
 本来なら、この世界には存在しないはずの銃。  
 虎の国から取り寄せた特注の六連装リボルバー、通称“グローリーブリンガー”。  
 獣人の体力に合わせ、威力と口径を大きくしている。  
 お世辞にも裕福とはいえない犬の国で、どうやってこれを手に入れたか、エルシアは口を閉ざす。  
 たぶん、何かしらの裏取引で手に入れたのだろう。  
 が、今はそれが役に立つ。   
 
 奇岩の間を駆け抜けながら、銃を撃つ。  
 その弾丸は的確に敵の姿を狙い、急所を射抜く。  
 絶叫を上げて倒れる敵。倒れた仲間を盾にして、迫ってくる敵。  
──なんだろう……俺は、この動きを知っている……   
 ふと、身体がその一連の動作を覚えていることに気付いた。  
 シゲルは使ったことのないはずのその銃を、しっかりと正確に構え、狙い、撃つ。  
 そして、すばやく弾を装填する。  
 敵の気配を感じ、最善のルートを選び、岩陰から岩陰へと身を隠す。  
 すべてが初めての経験なのに、身体がそれを覚えている。  
「……エルシア」  
 ふと、その名を呼んだ。  
 ずっと、戦ってきたんだな。  
 俺が、何も知らない時に。  
 俺が、目を閉ざし、耳を閉ざしていた時に。    
──ずっと、こうやって戦い続けてきたんだな。  
 今まで、何度繰り返してきたかわからないライズアップ。  
 意識を取り戻したときには、ただ死屍累々の光景が広がっているだけだった。  
 
──これは……俺がやったのか? 俺が……こいつらを殺したのか?  
(……シゲルは、誰も殺してない)  
──俺じゃなきゃ、誰が殺したというんだ! この血は何だ、この手に残る感触は何なんだよ!  
(あなたは、ただ眠っていただけ。戦ったのはあなたの中に眠る私たち。あなたが苦しまないでいいの)  
──そんなの、言い訳にもならないよ! 眠っていたから知らない。意識が跳んでいたから俺の責任じゃない、そんな理屈を誰が認めるんだよ!  
(……シゲル)  
──俺なんだよ……俺が殺してるんだよ! この身体が殺したのなら、それは俺が殺してるんだ!  
(違う! あなたは誰の命も奪っていない!)  
──どうして! どうしてそんなことが言えるんだ!  
 
 
 雨の日の記憶。  
──何もわかってなかった。  
 命を奪うということ。  
 自らの意思で引き金を引くということ。  
 今の今まで、確かに。  
 俺は、誰の命も奪わなかった。  
 人任せにして、その罪悪感から逃げ続けていた。  
 
──こんなになるまで。  
 この身体が、殺戮の術を完全に覚えこむまで。  
 ずっと、俺の代わりに戦い続けていたんだな。   
「……エルシア」  
 涙が出そうになるが、それは何とか我慢する。  
 泣くのは、いつでもできる。  
 今は、ただ戦うだけ。  
 きっと、それだけでいい。  
 
(シゲル)  
 その時、声が聞こえた。  
(お待たせ。ライズアップできるわ)  
──わかった。  
(もう一度言っておくけど、時間は三十秒よ。それを過ぎたら元に戻るわ)  
──わかってる。それと、その……  
(なぁに?)  
「……ありがとう」  
(なによぉ、急にかしこまっちゃって)  
──いや、その……  
(もう。何考えてんのか知らないけど、水臭い話はナシよ。そんなことより、さっさと終わらせちゃいましょ)  
「……そうだな」  
 微かに、口元に笑みを浮かべる。  
   
 高々と、剣を上空に突き上げる。  
 太陽の光が、黒い魔剣をきらきらと輝かせる。  
 そして、体の前に構える。  
 まばゆい光の下、シゲルは叫ぶ。  
「ライズアップ!」  
 
 剣からあふれ出す、蒼白い炎。  
 柄より流れ出る魔法文字は疾風と化し、竜巻のように全身を駆け抜ける。  
 それと共に現れる巨大な意思。  
 そして、爆発するようなエネルギーの高まり。  
 
 取り囲む狒々たちが、その姿を恐れるように数歩後ずさる。  
 その視線の先に立つのは、“魔犬”──ステイプルトン。  
 
 
「馬鹿な……なぜこの場所で! セトの肋骨で!」  
「生憎と、猿の常識が世界の常識とは限らないんだよ」  
 言いながら、剣を見る。  
 絡み付く血糊はすべて蒸発し、刃こぼれも消え、新品動揺の輝きを見せている。  
 いや、それよりも。  
 ステイプルトンと化した時の、靄がかかったような意識が。  
 何も見えず、何も聞こえなかったはずの世界が。  
 今も、はっきりと見える。  
──これは……  
(見えるの? シゲル)  
──ああ。今までと……違う。  
(それがあなたの意思よ、シゲル)  
──俺の、意思……  
(あなたが、戦いを受け入れ、力を受け入れたということ。戦うことを受け入れ、あなたの器で戦ってきた、百と一つの魂と、同じ意思を共有したということ)  
──同じ、意思……  
(あとは、戦っているうちにわかる。行きましょう、シゲル。……時間は少ないわよ)  
──わかった。  
 一気に、前へと駆け出した。  
 
 狼狽する中で、それでも武器をとり戦おうとする狒々たち。  
──遅い。  
 その動きが、まるでスローモーションのように見える。  
 刃の合間を潜り抜け、一刀で断つ。  
 周囲を囲み、一斉に襲い掛かってくる。  
 本来ならば、見えないはずの背後の敵。  
 それが、どう動いているかがわかる。  
 まるで、背中にも目があるように、360度すべての方向の敵の動きがわかる。  
(ハイパーサーチ……超空間把握力よ)  
──超……空間把握力?  
(魔素、大気の流れ、温度差、そして敵の悪意。それらすべてを把握し、分析することであなたは半径200メートルの敵の動きをすべて把握できる)  
──なるほど、それは便利だ。  
 言いながら、銃を背後に向ける。  
 後ろを見もせずに、残弾を討ちつくす。  
 五匹の狒々が、背後で眉間を貫かれ、倒れるのがわかった。  
(残り、16秒よ)  
──少し短いな。  
(手助けを呼んだほうがいいわね)  
──手助け?  
(あなたには、こんな力も付与してるのよ。──サモン・ウィスプっ!)  
 エルシアの声。それに呼応するかのように、砂漠に現れた無数の光の蝶。  
──これは?  
(魔素を凝集して作り出した擬似生命体。いわゆるウィル・オ・ウィスプ……同時に50体まで具現化させられるわ)  
──50体……  
(致命傷は難しいけど、戦闘能力を奪うくらいならたやすいわ。彼らは生命を見つけると、よってたかって焼き尽くす)  
 エルシアが説明する間にも。  
 光の蝶──ウィスプは、攻撃をかいくぐり、あちこちで狒々に襲い掛かり、焼いている。  
 
 絶叫と悲鳴。  
 それが耳に飛び込んでくる。  
 自らの剣が、敵を裂く。  
 目の前で断末魔をあげ、倒れ行く敵。  
 それを、驚くほど冷静に受け入れている自分がいる。  
 そして、何事もなかったかのように次の敵を斬る。  
──これが、俺なのか。  
 もう少し、死にナイーブだったような気がしたが。  
 少しは、強くなったのかもしれない。  
(残り7秒。時間がないわ)  
──だったら……  
 敵の間を駆け抜け、近くの岩柱に近づく。上に行くほど広がった、石杯型の巨大石柱。  
──斬れるか?  
(問題ないわ。X字に斬ればこちらに倒れる)  
──わかった。  
 刀身に刻まれた、銀色の魔法文字が光る。  
 『消除』のエンチャントが、刀身にかかる。  
 杯のような形をした、巨大な石柱。  
 一番細いところなら、直系2メートル程度。  
 そこを、狙う。  
「せやあっ!」  
 右上段から、一閃。  
 返す刀で、左からさらに。  
 巨大な石杯の根元に、深く切れ目が入る。  
 そのまま、横に駆ける。  
 倒れ落ちる石杯の最上部は10メートル近い。  
 重さだけなら、数トンはあるだろう。  
 それが、狒々たちの上へと崩れ落ちてくる。  
 その下を脱出したところで、ライズアップが切れた。  
 
 眼前では、崩れた奇岩が瓦礫となり、その下敷きとなった狒々が血まみれの腕や足を瓦礫の隙間から覗かせている。  
 ほぼ全滅といってもいいだろう。  
──倒し損ねたやつは……って、聞いても仕方ないか。  
 エルシアの声は聞こえない。魔力をほとんど使い果たした状態では無理もないだろう。  
 周囲を、もう一度見る。  
 ほぼ全滅だが、多少は生き残ったのも居るかもしれない。  
 岩の向こうに逃げたのもいるようだ。  
 だが、この砂漠のど真ん中で仲間の9割方を失った状態では、もはやどうすることも出来ないはずだ。  
──何とか、なるものだな。  
 もう一度、眼前の光景を見る。そこに広がる地獄のような光景は、自らが作り出した光景。  
 だが、それを見てももう、嘔吐も、頭痛もしない。  
 それは、自分の意思で斃した敵だとわかっている。  
 自分の意思で。  
 自分の為に。  
 そして、守るべき誰かの為に。  
 背負っている命は、自分ひとりのものではないということ。  
 だから、この風景を受け入れられるのだと思う。  
 
(シゲルは)  
──何?  
 突然、それまで沈黙していたエルシアがたずねてくる。  
(今のシゲルは、イヌ? それとも、ヒト?)  
──どっちでもいい。俺は俺だ。  
(そうね。でも、シゲルは……やっぱりヒトね)  
──なぜ?  
(イヌの寿命は、数百年。でもヒトの命はたかだか百年。逆を言うとね、あなたは私たちの数倍のスピードで成長するの)  
──そういうものか……?  
(たった三年。でもあなたはものすごい速度で成長している。今日だって)  
──あれは……  
(あなたは、あの短時間で弱さを乗り越えた。それが、ヒトの成長力。私たちになくて、シゲルにあるものよ)  
──ご主人様がいなけりゃ、あのまま死んでたかもしれない。あの時、声をかけてくれたから何とかなった。  
(呼べば、応えてくれると信じてたから。あなたのことは、私が誰より知っている。きっと、あなたよりもずっと)  
──ありがとう。  
(そういって、ちゃんとお礼を言ってくれるから好き)  
──す、好きって……  
(あら、一人で何照れてんの?)  
「る、るさいっ!!」  
 声に出して、そう怒鳴った。  
 
──それにしても。  
 岩陰で全身の傷やら痣の応急処置をしながら、エルシアに語りかける。  
(何?)  
──なぜ、この地では魔法が使えないんだろう。  
(魔素の濃度が低いのよ。砂漠の平均と比べて、2.8%しかない。砂漠に住む蛇の民は精霊を使役することで住環境を整えるけど、そういう点からすればここは死の砂漠ね)  
──でも、どうして魔素が低いんだろう。  
(それは……これから調査するしかないわね)  
 そんなことを話していた時。  
(!?)  
──!?  
 同時に、突然現れた強い魔力を感じた。  
 ライズアップ前の状態でもわかる、空気が震えるほどの巨大な魔力。それが、急速にこちらに向かってくる。  
──何だ?  
(わからない! だけど、桁違いの魔力……とてもじゃないけど勝てる相手じゃない!)  
──逃げるしかないのか……テレポートは使えるか?  
(無理よ! さっきのライズアップで魔力を使い切ってる!)  
──走って、逃げるしかないのかっ……逃げ切れるのか?  
 とっさに、魔力の方向に背を向けて走り出した。  
「こっちだ!」  
 その時、声が聞こえた。  
 声の方向を見る。  
 人影が、手を振って呼んでいる。  
──何がある?  
(わからない……でも、このまま走って逃げきるのは無理よ)  
──わかった。  
 岩肌を登り、砂の上を駆け、声の方へと駆けた。  
 
「こっちじゃ」  
 奇妙な衣装を来た蛇の民が、手招きする。  
「ヤツに見つかったならば、生きてはおれぬぞ」  
 そういいながら、岩と岩の隙間へ。  
 岩に隠され、一見、外からは見えないような場所に階段がある。  
 その階段を、下へと走る。  
 一瞬だけ、背後を振り返った。  
「あれは……」  
(……黒竜……)  
 それは、本当に竜だったかはわからない。  
 ただ、それはひたすらに黒く、大きく、そして恐ろしかった。  
 
 階段を、底まで走る。  
 蛇の男が扉を開け、中に招き入れてくれたとき、シゲルは目を見張った。  
「これは……」  
 ドーム上の空間一面に描かれた、極彩色の絵画。その中で、祈りをささげる蛇の民。  
 遠くの方でも、数人の蛇の民が何かをしているらしい。  
 外からの揺れが、伝わってくる。  
「おまえさんの魔力に引かれてやって来たのだろう。しかし、もうしばらくもすれば帰っていくだろうて」  
「ここは……ここはどこで、そしてあの黒いのは何物なのですか」  
「それなら、こちらからも聞かせておくれ。おまえさんは何者で、どうしてこの地で魔力を使えたのか」  
「それは……」  
(記憶を失っていることにしたほうがいいわ。あなたは、記憶を失って旅をしているただの賞金稼ぎのマダラ)  
──わかった。  
「相談はまとまったかね?」  
「!?」  
 驚くシゲル。蛇の男は笑って答える。  
「図星か。おまえさんは、すぐ表情に出る。……わしの見たところ、誰か、おまえさんと親しい者が近くにいるのだろう。わしには見えぬが」  
「…………」  
「まあいい。おまえさんが普通ではないのはわかる。言えぬこともあるだろう」  
「……すみません」  
「なに、咎人ではなさそうだ。あの無礼な狒々どもであれば見捨ててもどうとも思わぬが、おまえさんは奴らを滅ぼした功者だからな」  
「………………」  
「さて、まずは飲めばいい。おまえさんは客人だ」  
 そう言って、杯に注がれた赤い酒を差し出してくる。  
「……」  
 無言で、その酒を飲み干す。  
「……甘い」  
 葡萄酒のようで、それよりもまだ甘い。なにかの果実酒なのだろう。  
「喜んでもらえて幸いだ」  
「これは……何の酒なんですか?」  
「カロティポの酒だ……と言うてもわかるまい」  
「かろ……てぃぽ」  
(乾燥地帯に生える低木ね。真っ赤な南瓜のような果実は糖度が高くて栄養素も豊富だけど、そのままだと硬くて食べられないから、酒にしたりあるいは臼で挽いて粉末にしてパンにしたりするわ)  
──へえ。  
「この辺では育つものも限られているからな。こいつは命の実だ」  
「貴重なものなのでは?」  
「まあ、貴重といえばこの地ではすべてが貴重だ。とはいえ、客人に粗末なものも出せまい」  
「……はは」  
 
「さて」  
 男が、話し始めた。  
「君は、あの無礼な狒々を追ってきたのかな」  
「……半分は」  
「残り半分は?」  
「調査……です。以前から、調査隊や探検隊が消息を絶っていまして、それで……」  
「ふむ」  
 男が、酒をちびりと舐めて言う。  
「時折、命知らずが来たのう。ここの地図を作ろうとしたり、奥地を目指そうとしたり」  
「それで……?」  
「何度かは、おまえさんのようにここに泊めてやったりもしたが、みな、手前勝手な欲を出して奥に向かい、そして食われた」  
「食われた……って、さっきの……」  
「そうだ。黒き竜だ」  
「…………」  
「黒き竜には、矢も槍も効かぬ。かというてこの地で魔法は使えぬ。勝てる相手ではない」  
「……そんなのがいるのに、どうしてここで住んでいるのですか」  
「わしらのことか?」  
「はい」  
「……勝てぬなら、戦わなければよい。我らはこの地で、ただ終末の時を待つのみ」  
「終末の時?」  
「遠い未来、しかし確実に来る日。神の裁きは下り、邪なる者はセトの息吹で焼き尽くされる」  
「……セト?」  
(砂漠で信仰されている竜神ね)  
「……その日まで、ここでずっと過ごすんですか」  
「五感の快楽を断ち、邪念に汚されることなく、ただその時を待つ……と、いいたいところだが」  
「ところだが?」  
「こいつだけは、どうあっても止められぬ」  
 そういって、カロティポの赤酒を飲む。  
「快楽を断ち切れてないような」  
「どのみち、わしが生きておる間に来るものでもないからの。わしらは次代へと教えを伝え、来るものへの道標となるのみ」  
「……いつなんですか、その終末の時というのは」  
「あと四千と二百七十九年先だ」  
「………………」  
(無意味としかいい様がないわね)  
──言うな。  
「何しろ、長いからな。先々まで正しく教えが伝わるとは限らない。ゆえに我らはここにいる」  
「あと四千年も、あんな化け物がいる場所で生きていくつもりですか」  
「なに、黒竜は確かに脅威だが、ここまではこない。いてもいなくてもかまわぬよ」  
「そういうものですか」  
「外地のものは、とかく欲に惑わされて、大いなるものには挑もうとする。悪い癖だ」  
「…………」  
「さて、そろそろ飯でも食うか」  
 
 運ばれてきたものは、カロティポのパンだろうか、茶色い煎餅みたいなものと、サボテンかなにかのサラダらしきもの、それから串焼きの肉に何かいろいろと放り込んだスープ。  
 なにやら、儀式のようなものに付き合わされて、聞いたこともない祭文を一緒に反芻させられる。  
 それから、食事。何グループかごとに分かれて食べているらしい。  
 不慮の事故で全滅しないよう、どのようなときでも数グループに分かれ、居住区内を散らばるらしい。  
「これ、何の肉ですか?」  
 串焼きの肉を食べながら、不用意にそうたずねる。  
「む? それは、狒々の肉じゃ」  
 あっさりと言われる。  
「ひ、狒々って……」  
 肉を噴出しそうになるのを必死でこらえる。  
「少し前に無礼なのが来おったから、数匹ばかり叩き殺した。我らの血肉となれば、奴らも浮かばれるじゃろう」  
「…………」  
 シュバルカッツェにいた頃には想像もつかない理屈だと思った。  
(でも、美味しいわね)  
──否定できないのが悲しいな。  
 たしかに、狒々の肉は美味かった。  
 
 よく見ると、この地下居住区はよくできている。  
 罠や情報網もしっかりと張られ、住人はみな訓練された戦士でもある。  
(ここを落とすには、1万人の兵が必要ね)  
──魔法抜きで、しかも内部で食物の生産までできる以上、まさに難攻不落だな。  
(あの黒竜と共存するんだから、やっぱりそれなりのものが必要だったのね)  
──かもな。  
「なかなか良くできているだろう」  
「そうですね」  
「はるか古から、こつこつと岩を削ってこの地にこれだけの広さの空間を作り上げた。今もまた、少しづつ掘り進めている」  
「……最初にここを掘り始めた人は偉大ですね」  
「そうだな。唯一つの竜を信じる者の祖先がこの地に来て、終末の時を待つかりそめの時を過ごすことを選んだとき、どれほどの苦難があったか想像を絶する」  
「そのころから、あの竜はいたのでしょうか」  
「いたかも知れぬし、いなかったかも知れぬ。始祖たちは、かりそめの時を無意味として記録を残していないからな」  
「……今も、そうなのですか」  
「そういうものもいる。しかし、わしは残している。時の神は悪戯好きでな、せっかく正しく伝えたことでも、すぐに捻じ曲げてしまう。たとえかりそめの時を生きておるとしても、その時々の者がその時々の事を記すのは必要だと思うのだ」  
「……そうですね」  
(記録というものが永遠のものとか常に公正なものであるとは言えないけど、口述に頼るとか、そもそも伝えないなんてのよりは遥かに賢明ね)  
「して、明日はどうじゃね?」  
「明日?」  
「調査とか言っておったな。ちと外を歩いてみないか」  
 突然の申し出。  
「でも、あの黒竜は……」  
「ちょっかいを出さなければ問題はない。さっきのは、おそらくおまえさんが魔法を使ったのでそれに寄ってきたのだろう」  
「……なるほど」  
(あんなのが寄ってくるとしたら、とてもライズアップは使えないわね。もっとも、使うこともないとは思うけど)  
──そうだな。  
「で、どうするね?」  
「ぜひ行かせてください」  
 
 翌日。  
「……暑いですね」  
「ふっふ。慣れろというても無理じゃろうて。まあ、この地の記念とでも思うておけ」  
「そうします」  
 駱駝に乗って移動する。水と食料を大量に積んでいるのは、稀に砂嵐などで戻れなくなったり、道が変わったりするためらしい。  
 黒竜が暴れたりしたら、それこそ地形が変わるという。  
 
 奇岩の中を抜けながら、説明を受ける。  
 もっとも、この地がいつからこうなっているのかはわからないらしい。  
 口伝では、唯一の龍はその復活の時に備え、肉を砂と変え、骨を岩と変えたとかいう。唯一の龍が蘇るとき、この地の岩が骨となり、砂が肉となるともいうが、正直信じられる話ではない。  
「向こうに、高台がある。そこからならあの黒い竜も見れるだろう」  
「見る……って」  
「ちょっかいをださなければ襲ってはこない」  
 昨日と同じことを言う。  
「それだったら」  
 後に、付いてゆくことにした。  
 
 セトの肋骨の中でも、小高い丘のようになった場所。  
 そこから、全景を一望できる。  
「あれだな。黒竜だ」  
「あれは……」  
 遥か彼方に見える、黒い塊を見て言葉を失う。  
「八つの首と二つの尾を持ち、暴れるとすべてを食らい尽くす。下手に手出しはしないことだ」  
「…………」  
──八つの首の…………竜?  
(あれって……)  
 全体像を見て、唖然とした様子で声をかけてくるエルシア。  
──竜というか、何と言うか……どっちかというと……  
(空飛ぶ……巨大コウモリダコ?)  
──だよな……  
 それはどうみても、地球にいた頃にテレビで見た深海生物だった。  
 
(なかなかシュールな光景ね)  
──同感だ。  
 奇岩が立ち並ぶ砂漠の遥か彼方に浮かぶ、空飛ぶコウモリダコ。  
(砂漠って……こういうところなんだ)  
──いや、たぶんこれは極端な光景だ。きっとそうだ。  
(シゲル、声が上ずってるわよ)  
 
「この距離から見ても恐ろしい姿じゃろう」  
「…………そうですね」  
 しばし沈黙してからの返事に、おびえていると思ったらしい。  
「そう怖がらなくても良い。静かにしておけば暴れることもない。黒竜はそういう奴だ」  
 そう言って、豪快に笑うヘビの男。  
──空飛ぶコウモリダコを竜と呼ぶのはやっぱり抵抗があるな……  
(そうね。でも……)  
──でも?  
(空飛ぶコウモリダコに食べられるよりは、巨大な黒竜の餌食になったって言われたほうが、軍人にとっては名誉よね)  
──それは、そうかもな……  
(記録簿に『ステイプルトン、享年何歳、セトの肋骨でコウモリダコに食べられる』って書かれるよりは『セトの肋骨で黒竜と戦い、殉職』って書かれたほうが救いがあるって感じがしない?)  
──まあな。最期の記録が『コウモリダコに食われる』じゃあ末代までの恥だ。  
 そんなことを話していると。  
 ゆらりと、黒いコウモリダコ……黒竜が動いたように見えた。  
「む?」  
 ヘビの男が異変に気付く。  
「まずいな。機嫌が悪いようじゃ。早々に逃げるぞ」  
「え?」  
「何があったかはわからぬ。が、あの様子では間違いなくこちらに来る。退散しなくては死ぬぞ」  
「何でそんなことにっ!」  
「わからん。このようなことは初めてだ」  
(……シゲル)  
──何だ?  
(私たちに引き寄せられている可能性は高いわ)  
──どういうことだ?  
(ステイプルトンの身体は、自動的に魔素を吸収蓄積するようになってるの。はっきりいうと、ただそこにいるだけで魔素は蓄積する。ある程度溜まってたなら、ライズアップしなくても魔素が集まっていると気付くかもしれない)  
「って、何だよそれ!」  
 思わず、声を上げる。その声に、ヘビのおじさんが気付く。  
「……すまぬな。わしが余計なことを言うたばかりに」  
「いえ、その……」  
「何とかしてやりたいが、この状態では運を天に任せるしかない。……わしはもとより、かりそめの命を生きるゆえ命に未練はないが、おまえさんはそうもいかなかろう」  
「…………その」  
 思いつめた表情のシゲル。機先を制して、ヘビの男が言う。  
「一人で囮になるとか考えるなよ。そう言うのは好かぬ」  
「……いえ。一人できっと逃げ切れます。ここで左右に分かれましょう」  
「逃げ切れる? あの黒竜からか?」  
「はい」  
 
 真剣な表情。ヘビの男が笑う。  
「おまえさん、嘘がつけぬ性質だな。すぐ顔に出る」  
「嘘じゃ……」  
 反論しようとするシゲルに、ヘビの男が言う。  
「そうだな。今、おまえさんは嘘を言っていない。嘘が下手なおまえさんが、今は本気であの黒竜から逃げ切れると思っている。だとすれば、信じてやらなくもない」  
「ありがとう……ございます」  
「なに、おまえさんは信じ甲斐がありそうだ。それに乗るだけよ」  
「……それじゃあ、もう……時間がないですね」  
「そうだな。ここで別れよう。ところで」  
「はい」  
「名前を、聞かせてくれんかね」  
 その言葉に、シゲルはいっしゅんためらい、そして答えた。  
「シゲル……ソウマ・シゲルです」  
「シゲルか。わかった。その名は記録しておこう。……よいな、わしに嘘はつくでないぞ」  
「わかりました」  
 そう言って、駱駝から降りる。  
──何秒変身できる?  
(一分くらい。テレポートするなら40秒が限界ね)  
──わかった。  
 黒い影が、迫っているのがわかる。  
 剣を、すらりと抜いた。  
「それじゃあ、おじさんもお元気で。俺は、向こうに行きます。……ライズ・アップ!」  
 目の前で、本当の姿を見せる。  
「なるほど、なかなか雄雄しい姿だ。信じて間違いはあるまい」  
「信じてください」  
 そう言い残して、彼方へと走り出した。  
「……まったく、他所者のくせに大した男じゃ」  
 言いながら、駱駝を逆方向へと歩ませる。  
「死ぬでないぞ」  
 そして、最期に一言だけつぶやいた。  
 
 砂漠と奇岩の中を、ただ全力で駆ける。  
 灼熱の空気を吸い込むたびに、喉の奥の水分まで奪われる気がする。  
 その背後に迫る黒い影。  
 異変に気付いたのは、そのときだった。  
 
(そんな……っ!)  
──どうした?  
(魔力が……あのコウモリダコに吸い込まれてる!)  
──なんだって?  
(まずいわ……おまけに、あのコウモリダコの中の魔力がおかしな具合になってるから、テレポートするにも魔力干渉が激しくてできない!)  
──冗談じゃない! こんなところでコウモリダコに食われるなんて、本気で末代までの恥だ!  
 言いながら、それでも走る。  
 その背後で、触手の間の膜を大きく広げる巨大コウモリダコ。膜の中で何かが光るたびに、魔力が吸われているらしい。  
(このままじゃ、ライズアップだってそう長持ちしないわ!)  
──くそっ……何かないのか?  
 走りながら、周辺の光景を見る。  
 前方に、切り立った断崖みたいなものが見える。  
──エルシア、ライズアップが解けるギリギリの瞬間を教えてくれ!  
 
(えっ……?)  
 返事を待たずに、銃に弾丸を装填する。  
 結界弾、爆砕弾、火炎弾に氷結弾、魔弾の中でも特に魔力の高い弾丸だけを装填する。  
 その動作に、何をしたいかエルシアも気付く。  
(わかったわ。たぶん、あの断崖までは大丈夫よ)  
──そうか。  
(だけど、落ちた後の受け身までは責任取れないわ)  
──そっちは、俺が責任を取る!  
 言いながら、断崖へと駆ける。  
 走りながら、途中に転がる岩塊を一つ掴んだ。  
 背後に迫る黒い影。  
 触手がのたうち、奇岩を弾き飛ばす。  
──召還っ!  
 ウィスプを何匹か放ち、コウモリダコの触手の興味を一時的にそらす。  
 が、素早い動きで放ったそばからウィスプを吸収する。  
(あと、五秒よ!)  
──わかった!  
 なんとか、断崖までたどり着きそうだ。  
 走りながら、岩塊を投げる。  
 超空間把握力が、岩の軌道を予測する。  
 銃弾を、立て続けに6発撃つ。  
 撃ちながら、断崖の底へと跳んだ。  
 
 一発目の銃弾が、岩を砕く。  
 岩を砕いた残りの残留魔素が、周囲へと広がる。  
 一瞬、ステイプルトンを見失った巨大コウモリダコが、その残留魔素を発見する。  
 そして、その魔素の中からさらにどこかへと跳んでいくいくつかの強い魔力。  
 その少し離れたところで、断崖から落下しながら消えた魔力の存在よりも、勢いよく逃げる魔力にコウモリダコは向かってゆく。  
 
 思ったより高い断崖。  
 岩にぶつかり、転がり、叩きつけられるようになりながら、谷底まで転げ落ちた。  
「ぐぁっ……」  
 一番底まで転げ落ちたステイプルトン。全身を襲う激痛に悶絶する。  
(大丈夫?)  
──コウモリダコは?  
(なんとか、向こうに向かったみたい。このまま、魔力の回復を待って一気にテレポートしましょう)  
──そうだな。  
 上空を見上げる。十数メートルはありそうな崖。  
──あんなところから落ちて、よく命があったものだな。  
 いまさらながら、無茶をしたと思う。  
(ほんと、無茶するわね)  
──まさかというか、あのコウモリダコは予想外すぎて無茶するしかなかったんだよ。  
(確かにね。でも、きっともう安全ね)  
──そう願いたい。  
 岩の隙間で、少しの休息を取る。  
 あの巨大コウモリダコがもぐりこんでくるには、少々狭すぎるはずだ。  
(報告書には、魔法を吸い込む巨大な黒竜と戦ったと書いておきましょうね)  
──そうだな。そのくらいは書いてもバチはあたらないだろう。  
 傷だらけの顔で砂漠の青空を見上げながら、そう答えた。  
 
     ◇          ◇          ◇  
 
「大丈夫?」  
「ああ。ちょっとばかりトラウマになってる記憶を思い出しただけだ」  
 そう口にするステイプルトン。  
「じゃあ、話を続けると……結論を言うと対処法ナシってことね」  
「……つくづく厄介だな」  
「そうね。何度も言うけど、目撃されたのは今回が初めてなのよ。まだ、何もわかっていないに等しいの」  
「……個人的には、二度は出会いたくないな。……いや、三度は出会いたくないというべきか」  
「それでも、出会うんじゃないかしら」  
「ぞっとすることを言わないでくれ」  
「でも、誰かがあれを何とかしなきゃならないのなら……それが出来るのは限られてるわ」  
「…………」  
「そして、その限られた人たちの中に、義兄さんは含まれている。それだけの力があるのよ」  
「……まあ、乗せられておくよ」  
 そう言って、歩き出す。  
「まだいろいろ、やらなきゃならないことは多いし。つまらない芝居もやる必要がある」  
(それでも、ずいぶん板についてきたわよ。あれなら、悪役として十分お金が取れるわ)  
──あまり板に付きたくない演技だがな。  
 そして、夜の闇へと消える。  
 残されたベリル。くすりと、一人微笑を浮かべる。  
「義兄さんは、所詮ヒトなのよ」  
 そして、反対側へと歩き出す。  
「……いくら強くても、いくら見た目がマダラでも、それは変わらない」  
 愛情と憐憫の入り混じった、謎めいた微笑。  
「だから、逃げられないものがある。敵がどんなに強くても、守りたいものがあれば絶対に逃げない。……それが、義兄さんの限界なのよ」  
 

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