くしゅんという、小さなくしゃみの声をアンシェルが聞きとがめた。  
「風邪か? ……全く、だらしがない。普段の鍛錬が足りぬからだ」  
「くしゅっ……す、すみません……」  
「しゃべるな、風邪がうつる!」  
 謝るレーマを、アンシェルがさらに叱る。  
「姉様っ!」  
 さすがに、リシェルが口を挟む。  
 しばらくの間は離れ離れに幽閉されていたが、数ヶ月ほど前にリュナ・ルークスの消息が途絶えてからは、レーマ達と一緒の部屋に入れられている。  
「レーマは病気をしているのに、そこまで厳しく言わなくても!」  
「病気などするほうが悪い!」  
「そんな言い方!」  
「いいから、寝台の支度を手伝え! それから水と手ぬぐい!」  
 いいながら、足取り荒く寝台に向かう。  
「レーマっ! 今日から、貴様は一切身体を動かすことまかりならん! 休息と睡眠以外一切禁止だ! わかったらさっさと寝ろ!」  
「は、はい……」  
 戸惑ったように、それでも寝台に向かうレーマ。  
「病人なら病人らしくおとなしくして、風邪が癒えるまでなにもしてはならんっ!」  
「あ、あの……」  
「何だっ!」  
「いえ、あの、別に体の調子が悪いわけじゃ……」  
「たった今くしゃみをしたのはどこの誰だ! この時期の風邪はこじらせたら大変なことになると知らんのかっ!」  
「いえ、でも……」  
「黙れっ! 病人の分際で主に逆らうな!」  
「…………」  
 黙り込むレーマ。アンシェルはその額に濡れ手ぬぐいを乗せ、じっと顔を見つめる。  
「あ、あの……」  
「今日から、病が癒えるまで一切何もしてはならん。よいな」  
「……でも」  
「黙れ。貴様に万が一のことでもあったらどうする」  
 心配そうな声。  
 そんな姿を、扉の鉄格子の向こうから微笑ましげに見ているニュスタに、振り向きもせずにアンシェルが言う。  
「そこな化け猫。見ているヒマがあったら薬を出せ」  
「……って、化け猫はないでしょ?」  
 ニュスタが、抗議するように言う。  
「黙れ、盗撮魔」  
「あら、そんなこと言うんだ」  
「盗撮?」  
 事情を良く飲み込めないリシェルが鸚鵡返しに反芻する。  
「くり返さずとも良い。それより、薬だ。仮にも軍事施設なら薬ぐらいあるだろう」  
「そりゃあ、あるけど……あんた、捕虜ってこと忘れてない?」  
「捕虜なら病に倒れたものがいても見殺しにするというのか」  
「見殺し……ってねえ」  
 呆れたような声。  
「ただのくしゃみじゃない」  
「はじめはただの風邪だったものが、こじれて死に至ることは珍しくはない。……もしも私のレーマが、貴様が薬を渡さなかったせいで死んだりしてみろ、そのような鉄格子、叩っ斬ってでも私はレーマの無念を晴らす」  
 
「あ、あのぉ……」  
 何か言おうとするレーマ。  
「病人は黙っていろ。私とニュスタが話しているのだ」  
「……ほんとに、愛しの彼のためとなると目の色変えるのね」  
「い、いと……愛しの……だっ、黙れっっ!!」  
 勢い良く立ち上がり、顔を真っ赤にして否定するアンシェル。  
「そのようなことはこの際問題ではない! 今は、私のレーマが病に倒れ、こうして今際の際を彷徨っているというのに、貴様には人情と言うものがないのかと言っているのだっ!!」  
「はいはい」  
「何だ、その微笑ましいものを見るような目は!」  
「べーつに」  
「姉さま……とりあえず落ち着いて」  
 言い争う……というよりは、一人で逆上しているようにしか見えないアンシェルを、リシェルが横からなだめに入った。  
 
「まぁ、薬ならあるわよ」  
 肩をすくめるようなそぶりを見せながらニュスタが言う。  
「そうか……」  
「でも、どうせなら自分で作ってみない?」  
 少し悪戯っぽい笑みを浮かべて、ニュスタが問いかける。  
「自分で?」  
「作り方は教えてあげるわ。このニュスタさんの知識を総動員した特効薬よ。医務室の方で作り方は教えてあげるから」  
「……効くのか」  
「効果てきめん。どうする? ただの薬よりは、愛情のたっぷりこもった薬の方が利くんじゃないかな」  
「あ、愛情とか、別に、私は、そのっ……」  
 急に戸惑いを見せるアンシェル。そんな姿を、やはり微笑ましいものを見るように眺めるリシェル。  
「行ってきたらいいじゃない。大丈夫、レーマの世話はわたしがするから」  
「……だが」  
「別に、私はいいのよ。でも、薬がなかったらレーマくん、きっと高熱にうなされて、意識も朦朧となり、やがては年若くして最期の時を……」  
 冗談のように言いながら、鍵をちらつかせる。  
「……今すぐここから出してもらおう」  
「はいはい」  
「行ってらっしゃい、姉様」  
「くれぐれも、レーマのことを頼んだぞ」  
「はぁい♪」  
 
「まったく、姉様ったらレーマのこととなると目の色変えるんだから」  
 そういいながら、額の濡れ手ぬぐいを取る。  
「なんだ、熱なんかないじゃない」  
「ありませんよ」  
 横になったまま、レーマが答える。  
「姉様ったら大げさなんだから」  
「そろそろ起きてもいいですか?」  
「ダメ」  
「ダメ……って」  
 何か言おうとするレーマに、リシェルが片目を閉じて言う。  
「レーマは病人。そう私が決めました」  
「決めました……って」  
「今日からレーマは、私がいいと言うまで動いてはいけません」  
「いけません……って、だってさっき熱なんかないって」  
「それとこれとは話が別。レーマは病人。だから、黙って私の世話を受けてたらいいの」  
 そういいながら、洗面器の水に浸してから絞った濡れ手ぬぐいをぺたんと額の上に乗せる。  
「今日から、レーマは病人。だからちゃんと寝てなきゃ駄目」  
「…………」  
 つまりは、レーマが本当の風邪かどうかは別として、とにかく病気の世話がしたいらしい。  
 この二人に拾われてからずいぶんと長い付き合いになるが、二人ともそういう妙に子供っぽいところは変わっていないなと思う。  
 
「返事は?」  
「はぁい」  
「よくできました」  
「…………」  
 まあ、たまには悪くないのかもと思いながら、レーマは軽く目を閉じる。  
 ひんやりと、柔らかい感触が唇に触れる。  
「…………!?」  
 やがてそれがそっと離れ、リシェルの声が聞こえた。  
「たまにはいいよね」  
「なにが、ですか?」  
「いろいろ」  
 そう言うと、また柔らかいものが唇に触れる。  
「レーマと二人っきりなんて、久しぶり」  
「……ですね」  
「病人は、動いちゃダメだからね」  
 そう声が聞こえる。  
 胸元に指先が触れるような感触。  
 ボタンが外されているのだと気づいた。  
「……なにやってるんですか」  
「寝汗を拭くの。風邪引いてると、汗をかくから」  
「……べつに、まだ……ぁむっ」  
 言おうとした口を、リシェルの唇が塞ぐ。  
「ペットは口答えしてはいけません」  
「…………」  
 うっすらと目を明けると、上から覗き込むリシェルと目が合う。  
「レーマが悪いんだからね」  
「……何がですか」  
「いろいろ」  
 そう言って、にこりと笑う。  
「いろいろじゃわかりませんよ」  
「わからなくていいの」  
 そう言って、目だけでちょっと睨む。  
「だから、今日からは言うこと聞きなさい」  
 時々、リシェルはそんな風に理不尽に我意を押し通してくることがある。そしてそうなると、もう何を言っても曲げようとしない頑固なところがある。  
「……はい」  
 仕方がないから、言うことを聞くことにした。  
     ◇  
 その頃、医務室では。  
「最初から劇薬を作っても仕方ないから、まずは緩薬を与えるの。滋養のつく材料を使って、身体に効率よくエネルギーを補給するのが第一弾」  
「……つまり、それほど強力な薬ではないということか」  
「薬は副作用もあるから、最初は緩やかなものを与えるのは鉄則よ。まだくしゃみ程度だし、風邪のひき始めなんてこれで十分」  
「……まあよい。で、何を作ればいい?」  
「まず、そっちにあるカカオニブを砕いて」  
「カカオニブ……ああ、これか」  
 皮を剥いたカカオをすり鉢の上で砕く。  
「カカオは昔“神の実”とも呼ばれて、豊富な栄養で知られていたの。はるか昔はカカオの実が貨幣の代わりにもなったって言われているわ」  
「そういう話は聞いている」  
「シュバルツカッツェの方では安価な代用カカオも出回ってるけど、本物のカカオとは風味、養分とも雲泥の差ね。今回は、その本物の特上品のカカオニブを使うわ。もうブレンドして焙煎その他も済ませてあるから、あとは潰すだけよ」  
「……使ってもよいのか」  
「あら、レーマくんのこと心配じゃないの?」  
「心配は心配だが……」  
「私が使ってもいいって言えば遠慮なく使っていいのよ。それくらいの力はあるんだから」  
「……ならば、遠慮なく使わせてもらおう」  
 言いながら、すり鉢の上のカカオニブを砕き始めた。  
 
「カカオマスから作ってもいいんだけど、どうせならその前段階から作ったほうが気持ちが伝わるから」  
 ニュスタの言葉を、アンシェルはつぶやくように反芻する。  
「気持ち……か」  
「そ、気持ち。魔素っていうのはどういうものか、まだ十分には解明されていないんだけど、一種の精神エネルギーと呼応することは証明されているわ。つまり、誰かの力になりたいという強い想いがあれば、それは魔素と呼応してエネルギーになるの」  
「……魔法は使えないが、それでもか?」  
「魔法と言う形で魔素を使えるかどうかは関係ないわ。もっと細かな、目に見えない部分で魔素はいろんな影響を与えるし、誰もが無意識のうちに魔素を使って世界を動かしている」  
 アンシェルを指差しながら、片目を閉じてニュスタに言う。  
「あんたがレーマくんと出合ったのだって、無意識のうちに『会いたい』って気持ちがあって、それに呼応したものかもしれないのよ」  
「……そういうものか」  
「目に見える形でしか力を認めないのはあまりに短絡的よ。本当の力と言うのは、むしろ目に見えないもの」  
「それは、リュナ卿も言ってたな」  
「ああ、リュナはそういうのを気にするタイプだから」  
 そう言って、くすりと笑う。  
「私はあいつほど楽観的にはなれないけど、目に見えない力こそが本当に強い力なんだという意見は同じね」  
「目に見えない力……か」  
「たとえば、愛情とかね」  
 そう言って、ぽんと背中を叩く。  
「あ、愛とか、その、私は別にっ!」  
 たちまち頬を染めて、力任せにがりがりとカカオニブを砕くアンシェル。  
「あらあら、純情ね」  
「だっ、だ、だまレッ!」  
 裏返ったような声で否定するのがかえっておかしい。  
「でも、それだけ気持ちが乗ってたら、きっと効果は抜群よ」  
「…………」  
 無言で、心の中の動揺を押しつぶすように、力任せにカカオニブを砕き続けるアンシェル。  
 一つ一つの動作が年の割に幼いが、それはそれで見ていて楽しい。  
     ◇  
「脈は正常。容態は安定、うん」  
 そう言って、手首を握る手を緩めるリシェル。  
 容態は安定も何も、もともと寝込むほどでもない。  
 正直、ただ看護婦ごっこがやりたいだけなんじゃないのかと思うが、それは口にしないでおく。  
「いつまで、寝てたらいいんですか」  
「ずーっと」  
「ずーっと……って」  
「姉様が薬を作ってくるまでは、ずっとこのまま。薬を持ってきても、私と姉様がいいというまではこのまま」  
「……そんなに寝てたら、腕がなまりそうですね」  
 そう言って苦笑するレーマに、リシェルが言う。  
「毎日やってるんだから、そんなに一日二日でなまったりしないよ」  
「……毎日やらなきゃ不安なんです」  
「へぇ〜」  
 覗きこむように顔を近づけて、問いかけてくるリシェル。  
「誰のために、そんなに頑張ってるの?」  
「誰のために……って」  
「姉様のため? 私のため? それとも、二人まとめて私達のため?」  
「……うーん……それだけでもないんですけど」  
「どういうこと?」  
「リュナ卿の受け売りなんですけどね」  
 
「リュナが、何て言ったの?」  
「僕らは、僕らが命を奪った相手のために強くなきゃいけないって」  
「……どういうこと?」  
「えっと、つまり……僕が誰かを殺して、その場を生き延びたとしても、僕がその次の戦いで死んだら、その前の戦いで僕が殺した人は無駄死にになってしまうって。  
だから、自分が誰かを殺して生き延びさせたのなら、それは戦って奪った相手の命よりも価値のある命でなきゃいけないし、もし今、そうじゃないのだとしたらそういう命になるまで生き続けなきゃ行けないって」  
「……リュナらしいな」  
「もしも、僕の命が輝いたら、それは僕が奪った人たちの命も輝かせることになるって。僕の命がどことも知れぬ場所で朽ち果ててしまったら、それは、そんな命のために奪われた他の人の命も無価値だったことにしてしまうって」  
「……そういえば、リュナも昔そんなこと言ってたな」  
「こんな時代だから、戦いの中で誰かの命を奪うことはやむを得ないし、他人の命をいつまでも背負う必要はない。  
けど、それでも、どうせなら死んでしまった人たちに草葉の陰でつまらない男に斬られたと思われるよりは、この男を生かすための礎になったと思われるような命にならなきゃいけないって」  
「難しいね」  
「だけど、なんとなくわかってきたような気もするんです」  
「すごいんだ、レーマって」  
「自分の命に価値と意味を持たせられさえすれば、奪った命に対してはそれが一番の供養になるって。それさえあれば、後は一言の侘びも懺悔もいらないって」  
「じゃあ、レーマの命の価値って?」  
「リシェルさまとアンシェルさまですよ。二人が幸せでいることができたら、きっとそれが僕の価値なんだと」  
 即答する。  
「なんだか、かっこいいな」  
「そうですか?」  
「子供の頃は、いつも泣いてたのに」  
「……あれは、その」  
「ふふ……だけど、今でもかわんないね」  
 そう言って、ちゅっと唇を重ねる。  
「レーマがそばにいると、それだけですごく幸せ」  
 そう言って、額をこつんとぶつける。  
「どんなところにいても、レーマがいるだけでなんだか幸せ」  
 言いながら、手を握ってくる。  
「リュナもいないし、ここからいつ出られるかもわかんないのに、レーマが側にいるだけで、少しも悲しくない」  
「……そう……ですか?」  
「うん。理由はわかんないけど、レーマと一緒だと、いつかきっと、必ず幸せになるってわかるから」  
「…………」  
 鼓動が早くなって、なんだか全身がほてったように熱っぽい。  
 そんなレーマを見たリシェルがくすりと笑う。  
「かわいい」  
「か、かわいい……ですか?」  
「うん。レーマの困った顔、すごくかわいい」  
 そう言って、首に手を回して、きゅっと抱く。  
「あ、あの、その……」  
「レーマが大好き」  
「って、その、あのっ……」  
 振りほどこうとすると、リシェルが咎める。  
「病人は暴れちゃダメ」  
 そう言って、頬を寄せてくる。  
「……病人にこんなことするんですか」  
「だって、私がレーマのごしゅじんさまだもん。私はレーマに何やってもいいの」  
 息がかかるような近い距離からレーマの瞳を見つめながらそう言うと、また唇を重ねてきた。  
     ◇  
 砕いたカカオニブをさらにすりつぶして、カカオマスにする。  
 いつの間にか日が暮れて、照明が付いている。  
「なかなか大変な作業だな」  
 うっすらと汗を浮かべたアンシェルが言う。  
「焦らなくてもいいわ。焦って中途半端な状態で次に進むよりは、時間かけて丁寧に作ったほうがいいから」  
「しかし、レーマの容態は」  
「一晩やそこらで悪化するものでもないわ。人間の免疫力とかを考えたら、むしろ一日くらいは何も与えずにゆっくり休ませて、自然回復力を覚醒させるというのも一つの手よ」  
「……だとよいが」  
「本当は機械でやることを人力でやってるんだから、時間がかかって当然なんだし、むしろ時間をかけるほどいいものができるわよ」  
「……その言葉を信じるとしよう」  
 手を動かし続けながら、そう答える。  
     ◇  
「リュナ卿に言われたんです。ヒトは強いんだって」  
 ようやく身体を離してくれたリシェルに、まだ全身の火照りが収まりきらないレーマが言う。  
「リュナに?」  
「ええ。ヒトの中には、大陸のあらゆる知的生命体の中でもトップクラスの“ある力”が眠ってるって」  
「どんな力?」  
「それは……」  
 一年前の記憶をたどりながら、リシェルに話す。  
 
 ……一年前。  
 グランダウスのルークス邸中庭で素振りをしているところに、リュナがふらりと姿を見せた。  
「ずいぶん良くなってきたじゃないか、レイマ君」  
「えっ、あ、はい……ありがとうございます」  
「アンシェルちゃんの教え方がいいんだな。どんどん良くなっているのが見ていてもわかるよ」  
「本当ですか?」  
「そんなことで嘘はつかないよ。剣術なんて、つまりは生き死にをかけた場所で使うものなんだから、実力以上に自惚れられたら取り返しが付かない」  
「…………」  
「だから、僕が剣術がらみで何か言う時は、実力そのままだと思ってくれていい。今の時点で言えば、着実に強くはなってきているけど、まだまだ僕やアンシェルちゃんには遠く及ばない」  
「……はい」  
「ただ、伸びしろは十分にある。だから、鍛えれば鍛えるだけ強くなるし、いずれは僕たちくらいの腕にはなるかもしれない」  
「なれますか?」  
「なれるよ。それが、ヒトの力なんだから」  
 そう言って、肩に手を置く。  
「ヒトが弱いと言うのはただの固定観念さ。この世界に落ちてくるヒトは、不思議と元の世界で戦闘経験がないことが多いから、そう思われているに過ぎない。  
……あるいは、政治的な意図。そうやって言い続けることで、ヒトから自信を奪い、下層階級に縛り付けているだけのこと」  
「そういうものですか」  
「または、民族的アイデンティティの確保のため。自分達より劣等種がいると思い込むことで、自分の種族の民族的自尊心を保つ」  
 レーマには、そういった思惑と言うのがまだよくわからない。そんな表情を見て取ったリュナが、にこりと笑って言う。  
「ヒトには、この大陸の知的生命体と比べても桁違いに優れた力が隠されてるんだよ」  
「桁違いの……力?」  
「寿命が短く、魔法も使えず、この大陸のどこでも最下層民に甘んじているヒト。だけど、そんなヒトこそが大陸で最も優れているモノがある」  
「それって……」  
「成長力」  
 そう言って、レーマの横で腰を下ろす。  
「寿命が短いというのは、逆を言えばそれだけ成長が早いってことなんだ。ネコやイヌ、そしてそれ以外にもいる、たくさんの種族が生まれてから成人になるまで、約三十年から五十年かかる」  
「…………」  
「だがヒトは、彼らの倍以上早い十五年で成人する。肉体、および精神の成長スピードにおいて、ヒトよりも速い成長サイクルを持つ知的生命体はこの大陸には存在しない」  
 
「……つまり」  
「同じ時間、同じ量の訓練をした場合、実はほとんどの獣人よりもヒトの方が成長しているんだ」  
 腰を下ろしたまま、レーマを下から見上げるようにしてリュナは言う。  
「ま、実は僕らも成長力だけならヒトと同じくらいはあるんだけどね。他には、大陸当方に住むネズミの民なんかも寿命は僕たちとたいして変わらない……  
らしいけど、僕も実際にネズミの民と出合ったことがないから、彼らの成長速度がどれくらいかはわからない。ただ、僕の知る限り、この大陸の知的生命体は寿命の短い種族ほど成長速度が速い。つまりは、ヒトが一番速い」  
「……でも、それがどういう……」  
「実戦においても同じってことさ。仮に、全く同じ技量、体力を持った他種族と僕たちが一対一で戦ったとしよう。始めは互角だけど、一時間後には必ず僕たちの方が強くなっている。……それが成長力の差なんだ」  
 僕たち、とリュナは言う。  
 平然とヒトと自らを同列において語る獣人を、レーマは彼以外に知らない。  
「そう考えれば、大したものだろう?」  
「そう……ですね」  
「カモシカの民が、まるで魔法が使えないなりに国外でも傭兵やったり用心棒やったりできるのは、その力のためさ。計算外の伸びしろ、プラスアルファ。相手に見えない力こそが、僕たちの武器」  
「…………」  
「そういうのは、他人には見えないものなんだ。とかく今現在の力しか見えない。……見ようとしないといってもいいな。自分より弱いはずの存在に追いつかれるというのは怖いことだから」  
 言いながら、ごろんと仰向けに寝転がり、空を見上げるリュナ。  
「だけど、目に見えない力こそ、一番強いんだ。今現在の力がどうであっても、時間は流れている。一時間後に追い抜かれてたら、その時点で強弱は逆転してるんだから」  
「……はい」  
「だから、僕はヒトは強いと思ってるし……レイマ君の前で言うべきじゃないのかもしれないけど、ヒトは怖いと思ってるよ」  
「怖い……ですか」  
「そ。怖い。だから、レイマ君も自信もてばいいんだ。弱者が強者に勝つための技こそが剣術なんだし、そこにヒトの持つ成長力が加われば、十年後はどれほどのものになってるか」  
 
「……そんなことがあったんです」  
「へぇ……リュナらしいな」  
「それを聞いて、頑張ろうって。頑張れば、強くなれるって思えるようになりましたから」  
「そうね。がんばれば、強くなる。レーマが強くなってるの、私から見てもわかるもん」  
「もっと強くなれば、ちゃんとご主人様を守れるくらいにはなれるのかなぁ、とか」  
「なれるよ。だって、私たちのレーマだもん」  
 そう言って、手を握ってくる。  
「レーマは、私達がいる限り、どこまでも強くなるの。わかるんだから」  
「そうなりたいですね」  
 その手を握りながら、そう答える。  
「リュナ、今頃どこにいるんだろうね」  
「どこにいるんでしょうね……」  
「リュナ、あれで結構のんびりやさんだから。半年も一年も待たせておいて、ひょっこり『待たせたな』なんて来るのよ」  
「……長いですね」  
「リュナが助けに来たら、思いっきり怒ってやるんだから」  
「でも、ほどほどにしてくださいね」  
「で、たっぷり見せ付けてやるの。リュナが助けに来なかった間に、レーマとこんなに仲良くなってたんだって」  
「やめてくださいよ。僕が怒られます」  
「大丈夫。怒られたら私が慰めてあげるから」  
「……勘弁してくださいよ」  
「やだ」  
 そう言って、抱きついてくる。  
「レーマは私のものだから、拒否権はないの」  
「病人にこんなことするんですか」  
「さっきは元気って言ったじゃない」  
「元気なら起きてもいいでしょう?」  
「やだ。レーマはわたしのもの。ずーっとずーっと、レーマは私のレーマなんだから」  
「…………」  
「だから、抵抗しちゃダメ。私のものなんだから」  
     ◇  
 カカオニブが粉砕され、粉と油脂が入り混じったような状態になる。  
「……こんなものか」  
「……うん、まずはこんなものね。これに、砂糖とココアバターを加えて、栄養分を強化するの」  
「薬に砂糖が必要なのか?」  
「何言ってるの。砂糖はもっとも吸収の早いエネルギー源よ。病人に与えるにはもってこいじゃない」  
「……そういうことか」  
「そ。ココアバターもね。このままだとちょっと苦いから、滑らかさをくわえるの。良薬は口に苦しなんていうけど、やっぱり苦いよりは美味しいほうが摂取しやすいから」  
「レーマも、ああ見えて子供だからな。たしかに、そのほうがいいだろう。……子供だからな、あいつも」  
 子供子供と繰り返すアンシェル。ニュスタから見れば、アンシェルも十分子供っぽいくせにと思うが、それを表情には見せずに相槌を打つ。  
「砂糖は……ああ、これか……しかしスキャッパーとはどこの産だ?」  
「ああ、スキャッパーはイヌの国ね。イヌの国の中でも最近発展著しい地方よ。ウイスキーが特産」  
「イヌの国で砂糖……?」  
「そ。テンサイっていう、寒冷地で砂糖を取る作物があるの。……本当はまだ、表立っては輸出してないんだけどね。エグゼクターズの情報網も意外と侮れないのよ」  
「そういうものか」  
「交易路を一本持っておけば、そこを利用してこちらから人を送ることもできるの。砂糖を輸入して、こちらからは綿織物を輸出する。……ハトゥン・アイユの主な特産品は奢侈品が多いけど、イヌの国ではそういうのは売れないから。  
それで目をつけたのが綿製品。この辺の綿花は平野で栽培される綿花と比べて空気を含んで保温性と弾力性に富むのよ」  
「寒い場所なら売れるだろうな」  
「そうね。少し前にフロミアに来たヒト技術者が新しい織機を開発したのもあって、効率よく質のいい織物ができるようになったから。猫井技研の機械は魔洸を使ってるから、こっちじゃ全然使えなかったのよ。  
だから、今までは昔ながらの手織りだったんだけど、その織機が完成したことで、誰でも同じように効率よく高品質な織物が作れるようになったの」  
「……そういえば、織物の値が安くなっているな」  
「でしょ。大量生産の賜物ね」  
「それをこちらからは輸出しているのか」  
「そうよ。それからビクーニャ。高級毛織物……なんだけど、こっちは売れないのよねぇ。あそこはビクーニャの似合いそうなかわいい女の子、たくさんいるのに」  
「高すぎるのだろう。ビクーニャなど私でも手が出ない」  
「領主様ときたら『民の労苦の代償で贅沢はできません』ですって」  
「私は正しい意見だと思うがな」  
「だけど、領主らしい格好をするのも仕事のうちと思うわよ。そういうのを一着持っておけば、いざと言う時に役立つもの。世の中、まだまだ外見で相手を判断する奴は多いんだから」  
「そのへんは、意見が分かれるところだろうな」  
「それもそっか。とりあえず、砂糖を多めに入れてから、次にココアバターを砕いて」  
「ココアバター……このごろりとしたものか」  
「それそれ。砕いて、とりあえずカカオマスと混ぜて、またすりつぶして」  
「ふむ……しかし、これは本当に薬なのか?」  
「そうよ。さあさあ、頑張ってすりつぶして」  
「う、うむ……」  
 すりつぶそうとするが、ココアバターがどうにも固まる。  
「ああ、こっちにお湯があるから時々湯煎しながらすりつぶして。45度になるように魔法で調節してあるから」  
     ◇  
「はい、あーんして」  
「あーんって……」  
「いいから、言うことききなさい」  
「はぁい……」  
 スプーンに入れたスープに息を吹いて覚ましてから、レーマの口に運ぶリシェル。  
 恥ずかしくはあるけど、幸せそうな表情を見ているとそれ以上何もいえなくなる。  
「おいしい?」  
「はい」  
「よかった……って、私が作ったわけじゃないけど」  
「仕方ないですよ」  
「いつかまた、私の料理を食べさせてあげるからね」  
「楽しみですね」  
「その時は、腕によりをかけてつくってあげる」  
「はい」  
 こういうのも、悪くない。  
 たまには、ご主人様に甘えてみるのもいいかもしれないとか、そんなことを思った。  
 
「ふふ、ごはんつぶ」  
 細い指が、ちょんと頬を撫でる。  
 その指を悪戯っぽい表情でレーマの口許に運びながら、上目遣いにレーマを見るリシェル。  
「レーマの唇って、やわらかい」  
 レーマの唇を指でなぞりながら、そう言って微笑む。  
 ぱくり。  
「あっ……」  
 リシェルの指を口にくわえて、片目を閉じるレーマ。  
「リシェル様の指、柔らかい」  
「もぉ……」  
 頬を染めながら、怒ったように睨むリシェル。  
「レーマのくせに」  
 もう片方の手でレーマの頬をつねりながら、照れたような顔で叱った。  
     ◇  
 いつの間にか、夜が更けてきた。  
「頑張って。じっくり練りこめば、それだけいい薬になるから」  
「わかっている。これも、あいつのためだ」  
 そういいながら、一心にカカオを練るアンシェル。  
「ふふ。だけど、あんたって本当にレーマくんのこととなると目の色変えるね」  
 その言葉に、耳まで真っ赤になるアンシェル。  
 カモシカの民の女性やマダラは、他の多くの民と異なり、耳は普通のヒトと同じように顔の横についている。  
 耳の代わりに、頭部には角が二本生えているのが特徴といえば特徴だろう。  
「……わ、悪いか」  
「ううん。うらやましいなって」  
「……その、別に、好きとかそういうわけではないからな。私とレーマは、その……」  
「はいはい、言い訳はいいから」  
「い、言い訳ではないっ! 私とレーマは、その……」  
 いいながら、ますます顔を赤らめるアンシェル。  
「ふふっ。ごめんね、からかったりして」  
「……その、私とレーマは、別に……」  
 消え入りそうな声。  
「わかったわよ。だから、薬作りに戻りましょ」  
「あ、ああ……」  
 再び、カカオを練る作業を始めるアンシェル。その表情は真剣そのものだった。  
「がんばれ、アンシェル」  
 聞こえないような小さな声で、ニュスタはその背に声援を送った。  
 
 時間は夜中。  
「おっけ。とりあえずこれでいいんじゃないかな」  
 指につけたカカオを舐めて、ニュスタが言う。  
「そうか」  
「とりあえず今日はもう遅いし、朝から続けましょう」  
「しかし、レーマは……」  
「大丈夫よ。無理しすぎてあんたが倒れたら、逆にレーマくんが悲しむわ」  
「……れーまが」  
「そうよ。だから、そろそろ眠りなさい」  
「……わかった。じゃあ、帰ろう」  
 そう言って、医務室から出ようとする。  
「せっかくベッドがあるんだから、ここで寝たらいいじゃない。明日になったら起こしてあげるわ」  
「……しかし、私は捕虜だぞ」  
「レーマ君ほっといて逃げないでしょ。いいから、ここで寝ちゃいなさい。牢屋とここ往復するの、けっこう面倒なんだから」  
「……わかった。言うとおりにしよう」  
     ◇  
 その頃。  
 一つしかないベッドの中で、レーマの横で眠るリシェル。  
「れーま……」  
 かすかな寝言が聞こえる。  
「んにゅ……だいすき……」  
 同じベッドの中で無防備な寝顔を見せるリシェルが気になって、眠るに眠れないレーマ。  
 鼓動の高まりが一向にやまず、眠るに眠れないまま、時間だけが流れていった。  
     ◇  
 翌朝。  
「おはよ」  
「ああ……良く眠った。それでは続けるか」  
「おっけ。じゃあ、一晩寝かして固まったのを、一度お湯で湯煎して元に戻すの。お湯は準備してるから」  
「……これか」  
「それよ」  
「では、始めるとしよう」  
 50度くらいの湯で温めて固まったココアバターを溶かす。  
 十分に溶けたところで、27度くらいまで冷やす。  
 確実に温度を調節するために、ニュスタが魔法で温度を調整する。  
「……ワリャリョ・カルインチョの吐息……」  
 50度の湯が、一定の速度で27度まで下がる。  
「……なにやら、様子が変だぞ」  
「大丈夫よ、一度はこうなるの。ここから、少し温度を上げるから」  
 そう言うと、湯の温度が少しだけ上がったような気がする。  
「いま、大体30度。これでかき混ぜていけば、いい感じになるわ」  
「……ふむ。とろりとして、良さそうな感じだが……これは薬なのか? 薬と言うよりは、むしろチョコレ……」  
「薬よ。レーマ君の症状にはこれが一番効くわ。これを、こっちの金型に入れて」  
「金型……なんだ、この変な形は」  
 曲線と鋭角の混じったような金型を見て、ニュスタに問いかける。  
「ああ、これはね。ヒトの世界で心臓を意味する形なの。心臓は命の根源だから、この形に固めることで、健康になるようにって祈りを込めるの」  
 大真面目にそう説明するニュスタ。  
「そういうものか」  
 よくわからないが、そういうものなのだろう。  
 カカオの黒くて甘そうな薬を金型の中に流し込む。  
 へらで形を整えると、ニュスタが魔法で冷やし固める。  
「……うん、いい感じじゃない。じゃあ、最期にコレ」  
 そう言って、チューブに入ったホワイトクリームを渡す。  
「何だ、コレは」  
「呪文を記すことで、魔力を高めて治癒力を上げるのよ」  
「……これで呪文を記して本当に効くのか?」  
「それが言霊ってものよ。これから言うとおりに書いていって」  
 そう言って、呪文をアンシェルに一文字づつ教えていく。  
「あいえるおーぶいいーわいおーゆー……これは何の呪文だ?」  
「元気になって、ってくらいの意味よ。さ、これで完成」  
「……ずいぶん時間がかかったが、ようやく薬を届けられるな」  
 ようやく笑顔を見せるアンシェル。  
「じゃ、箱に入れて持って行きましょう」  
「ずいぶんと派手な箱だな」  
 そう言って首をかしげるアンシェルにニュスタが肩をすくめながら言う。  
「他になかったから。一応軍事施設だし、箱なんて使いまわしばかりだから」  
「……まあ、あいつなら使いまわしの箱で十分だ」  
 と、ぶっきらぼうに口にするそんなアンシェルに、化粧箱に薬を入れながらニュスタが言う。  
「お疲れ様。じゃあレーマ君に『私の気持ち』とでも言って渡してあげなさい。きっと喜ぶわよ」  
「……いや、その、私は別に、あくまで、ペットのために薬を作ってやっただけでな……」  
「はいはい、言い訳はいいから」  
     ◇  
「……レーマ」  
「あ、アンシェル様……」  
「病気の具合はどうだ?」  
「はい、もうずいぶん良く……」  
「そうか、それはよかった……だが、風邪は治りかけた頃が一番危ないという。もう少し休め」  
「あ、はい、でも……」  
「いいから休め。それから……その、これは……」  
「なんですか、この派手な箱」  
「他になかったのだ、仕方なかろう!」  
 怒るように言うアンシェル。  
「す、すみません……」  
「いいから、受け取れ。薬だ」  
「あ、はいっ……その、すみません……」  
「気にするな。私の気持ちだ」  
「ありがとうございます、ご主人様」  
「そうかしこまるな。お前は病気なのだ、いいから箱を開けろ」  
「じゃあ、そうします……」  
 箱を開けたレーマの目に飛び込んできたものは。  
 真ん中に“I LOVE YOU”と書かれた、巨大なハート型のチョコレート。  
「こ、これって……」  
 心臓が爆発しそうなほど鼓動が早まり、そのままベッドの上に倒れこむレーマ。  
「れ、れーまっ!? どうした、おいっ、レーマ……ひどい熱だ、まさか風邪が……」  
「姉様……薬って、これのことですか?」  
「そうだが……ニュスタに教わったとおりに作ったぞ」  
「……姉様、たぶん騙されてます」  
「なんだとっ!?」  
「これって……」  
 ごにょごにょと、耳元で何事かささやくリシェル。  
 それを効いたアンシェルの顔が、青ざめ、そして首まで真っ赤に染まる。  
「ニュスタあっ!! 貴様、またも私をたばかったのか!」  
 その言葉に、鉄格子の向こうから顔を見せるニュスタ。  
「あら、失礼ね。正真正銘の特効薬よ」  
「ふざけるなっ! 貴様、私が何も知らぬとおもって!」  
 その言葉に、吹き出してしまうニュスタ。  
「いやー、まさかこうも簡単に引っかかるとはおもわないかったけどね♪」  
「貴様っ! やっていいことと悪いことがあろうが!!」  
「……ごしゅじんさま……?」  
「あ、あの、レーマっ、コレは、その、誤解……」  
「嫌いなんですか?」  
「ば、馬鹿っ、そういう意味では……ああっ、その、泣きそうな顔をするな! この、それは、だから……」  
 ろれつが回らないアンシェルを、微笑ましそうに眺めるニュスタとリシェル。  
「特効薬……ね」  
「そのつもりだったんだけどね」  
「あの二人、当分変わりそうになさそうね」  
 二人の視線の先には、お互い慌てふためきながら言い訳を繰り返しているアンシェルとレーマの姿があった。  
 

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