夜空に星が瞬く。  
 まだこの季節、夜はうっすらと寒い。  
 ぶるっと、アンシェルが小さく震えた。  
「大丈夫ですか?」  
「あ……」  
 レーマが、そっとアンシェルの肩を抱き寄せる。  
「だ、だいじょうぶだ……」  
 声が上ずっているのが、自分でもわかる。  
 鼓動が、妙に早くなっている。  
「……建物の近くに行くまで、ずっとこうして行きますか?」  
 レーマの優しい声。白い息が、月明かりの下でうっすらと見える。  
「ば、ばかを言うな……」  
 そういいながら、言葉とは裏腹に、無意識のうちに体をレーマに寄せる。  
 あったかい。  
 本当は、今こんなことをしている場合ではないのに。  
 妹を助けるという大切な目的があるというのに。  
 それでも、体が勝手に動く。  
 心の中で、言い訳をいろいろと並べる。  
 体が冷えては、いざというときにうまく動かないから。  
 不審に思われないように、カップルのふりをしておいたほうがよいから。  
 それから、それから……  
 まるでやましいことをしているように、顔をうつむけて自分に言い聞かせる。  
 くいと、レーマの手が強くアンシェルを抱き寄せる。  
「あっ……」  
 考え事をしていたせいで、無防備に引き寄せられる。  
「万が一なんて、考えないでいきましょうね」  
「え……」  
「きっとうまくいきます。うまくいかないはずがない。アンシェルさまには、僕がいるし、僕にはアンシェルさまがいて、それで失敗するはずがない」  
 励ましてくれているのだと気づいた。  
「……そうだな」  
 アンシェルが、まるで関係のないことで悩んでいたのを、レーマは、彼女が不安に思っているのかと心配したんだと思うと、ふと心が痛んだ。  
 それと同時に。  
 そうして、抱き寄せて励ましてくれるレーマが、とてもたくましく思えた。  
 
──いつから。  
 レーマは、こんなにたくましくなったんだろう。  
 そんなことを思った。  
 
 初めてであったのは、7歳の時だった。  
 草原でリシェルと遊んでるときに、一人で泣いてる子供がいた。  
 小さくて、角も尻尾もなくて、見たことのない服を着ていた。  
 レーマっていう名前のその子供が泣いているのがかわいそうで、仕方なく二人で家につれて帰った。  
 ヒト、という生き物だとお父さんが教えてくれた。  
 ペットとして飼ってもいいよといってくれた。  
 そのころは。  
 こんなに大切な存在になるなんて思ってもいなかった。  
 
 はじめに仲良くなったのは、リシェルの方だった。  
 子供同士で明るく楽しくはしゃいでいた。  
──そのころ、私は。  
 剣の稽古や礼儀作法や勉強や、いろんなことを必死になって学んでいた。  
 つらいこともあった。  
 そんなときに、リシェルと遊びながら無邪気にはしゃぐレーマをみて、意味もなく怒ったり、むりやり修行につき合わせたりした。  
 首輪を引っ張って、山道をむりやり走らせたり。  
 そうやって、レーマをいじめて、泣かせるのが数少ない楽しみだった。  
 自然と、レーマはおびえて、余計にリシェルと近づくようになっていった。  
 
 それが、わけもなく腹立たしかった。  
 なぜかわからない。  
 ただ、このペットは自分だけのものだと意味もなく思い始めた。  
 遊んでるときに無理やり、リシェルから引き剥がすように首輪を引っ張り、稽古や修行や勉強につきあわせた。  
 横で、べそをかきながら、それでもレーマは一生懸命がんばっていた。  
 頑張って、一生懸命小さい体でついてくるレーマの姿が、とても可愛らしくて、そんなレーマを見ると、自分がレーマの「ごしゅじんさま」なんだと実感できて嬉しかった。  
 
 レーマの所有権をめぐって、リシェルとも時々けんかをした。  
 初めて見つけたのは私よ、いや私だと、お互いにレーマの片手を握って引っ張りながら。  
 仲のよい姉妹だったけど、けんかをするときはいつもレーマをめぐってのことだったような気がする。  
 
 そうして。  
 昇格試験に合格して、騎士となるために家を離れた。  
 もちろん、レーマとも。  
 不思議な寂しさがあったけど、きっとそれは家族と別れる寂しさだと思っていた。  
 家族ではなく、レーマと別れることが寂しかったのだと気づいたのは、ずっと後のことだ。  
 
 一人きりになった後、修行を重ねて正式に軍属となり、戦場に立つことになった。  
 まだ幼くて、引き際というものを知らなくて。  
 ある時、戦況の悪化を見切れず、逃げ遅れ、敵に捕らわれた。  
 牢屋に閉じ込められ、尋問という名のもとに兵士たちによってたかってなぶり者にされた。  
 地獄のような日々の中で、ふと幼いころのペットを思い出した。  
 理由もなく、思った。  
 あいつが、いつかきっと助けにきてくれると。  
 
 地獄から抜け出せたのは偶然だった。  
 妹のリシェルが、たまたま王弟派の有力者と結婚していたことで、釈放の力が働いた。  
 そして、久しぶりに家族と……父母はもういなかったが……再会した。  
 そして、あいつとも。  
 
 どきりと、胸が高鳴った記憶は今も残っている。  
 久しぶりに見たレーマは、幼さも残っていたが、ずっとたくましくなっていた。  
 地獄の日々の中で想像していたのと同じくらい、肉付きもしっかりして、腰には一人前に剣なんか差していた。  
 ただ、離れていた時間が余りに長すぎた。  
 すっかり、レーマはリシェルの所有物となっていた。  
 それが歯痒くて、でも今の立場ではどうすることもできなくて。  
 ときどき、レーマが妹の指示で世話を焼きにくる。  
 朝、起こしに来たり、食事の準備ができたり外に出かけるときに呼びに来たり。  
 そのたびに、わざと困らせるような態度を取るようになっていた。  
 そうすることで、少しでもレーマと一緒にいる時間を共有したかったのだと思う。  
 そうやって、困らせるとレーマは昔のような可愛らしい困った表情で何とか機嫌を直してもらおうと頑張る。  
 それが、本当に可愛らしかった。  
 でも、それはレーマの自業自得。  
 人の気も知らずに離れていったりするから。  
 リシェルばかり見て、私を見ようとしないから。  
 ぜんぶ、レーマが悪い。  
 レーマが悪いんだから、レーマには何をしたっていい。  
 やめてほしかったら、私のものになればいい。  
 自分勝手だとはわかっていたけど、そんな気持ちだった。  
 
 強い自分を演じていた。  
 強くなかったら、レーマは離れていくという恐怖があったから。  
 レーマには、ずっとひどい目にあわせていたから、レーマは私を嫌っているんだという恐怖があった。  
 レーマをつなぎとめておくには、レーマと一緒にいるためには、昔のように、強くてレーマを上から押さえつける圧制者でいるしかなかった。  
 本当は、とっくにそんなことはできなくなっていたのに。  
 だから。  
 たかが山賊ごときに恐れて剣を落としたとき、本当に怖かったのは。  
 レーマに、弱さを見られたことだった。  
 軽蔑されて離れてゆかれるのが怖かった。  
 そんな時に。  
 子供のころに読んだおとぎ話に出てくる騎士のように。簡単に山賊を斬り伏せて、レーマは優しく慰めてくれた。  
 
 たぶんそのとき、何かが変わったんだと思う。  
 それとも、もしかしたら。  
 初めてであったときから、いつかこうなってほしいんと思っていたのかもしれない。  
 
 昔読んだ御伽噺。  
 何千年も前に、世界中に戦争をおこしてみんなを苦しめたとても悪い王様をやっつけた勇者様のおはなし。  
 そこに出てくる勇者様は、天のかなたから落ちてきた。  
 角も牙もしっぽもないけど、とても強くて優しい男の子のものがたり。  
   
 ……まぁ少々、それに比べると頼りないけど。  
 
「れーま……」  
 顔をレーマの肩によせたまま、アンシェルはレーマの名前を呼ぶ。  
「はい」  
 優しい声。すぐ耳元から聞こえる。  
「おかしいな。こんなときというのに、とても心が落ち着いている」  
「いいことじゃないですか。平常心が一番ですよ」  
「そうだな」  
 正直、平常心かどうかはよくわからない。  
 が。  
 不思議と、今は負ける気がしない。  
 いや、不思議なことではない。  
 理由ははっきりしている。  
 
 そばに、レーマがいるから。  
 
 だから、負けるはずがない。  
 後れを取るはずがない。  
 誰が相手だろうと、相手になるはずがない。  
 
 体を、きゅっとレーマに押し付ける。  
「寒いですか?」  
「いや……暖かい」  
「ふふっ」  
 すべてわかっていて、そして受け入れてくれる声。  
「近づくまで、こうしていていいか?」  
「どうぞ」  
 その言葉に、できるだけ甘えていようと思った。  
 
 
 

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