国が滅ぶ、とはどういうことなのだろう。
ふと、リュナはそんなことを思うことがある。
王家が存在し、民が多種族の奴隷ではなく、それなりの自由と権利を持って生きている。
それを国家の存在する証といえば、確かに滅びてはいない。
だが。
自種族の言葉と文化を失い、他国の貨幣を用い、自国だけでは自給すらままならない状態は、果たして本当に国が存在するといえるのか。
この辺境の国で語られる言葉はコモン(共通語)であり、使われる貨幣はセパタ。
縄縛文字はとうの昔に過去のものとなり、かつては少々血なまぐさい風習とともにあった彼ら独自の信仰は、他国の自然科学の影響を受け、あるいは多少の圧力と意図的曲解も受け、今ではかつての面影はほとんどない無害なものとなっている。
それが非だというつもりはない。それはある種の「近代化」であり、時代の流れの必然でもある。
第一、リュナ自身……他国との積極的な交流を武器としてのし上がってきたところもある。
が、それでも。
ほんの少し、心に引っかかるものもある。
──本当に、この国は滅びてはいないのか。
ならば、自分は何のために動いているのか。
そんな疑問は、どうしても拭い去ることができない。
カモシカの国にある四つの金鉱と三つの銀山。その埋蔵量は大陸随一ともいわれる。
国内すべての食器を黄金製に換えても余るといわれるその金を武器に、かつてこの国は独立を保っていた。
が、今では。
「攻めてくるだけの価値もない国」
──そう言い切ったのは、リュナ本人である。
金銀が枯渇したわけではない。まだまだ、採掘量に底は見えない。
問題は、金銀そのものの価値が暴落したことにある。
錬金術。
エリクサ──賢者の石の完成。
猫の国が成し遂げた奇跡。あるいは悪夢。
今でこそ大量生産されるようになり、犬の国ではそれこそ便利な傷薬みたいな扱いをされているそれは、その当時にあっては紛れもなく奇跡であった。
奇跡の起こした副作用。
卑金属が貴金属になることは、つまりそれまで貴金属とされてきた黄金や銀といったものがその価値を失うことでもある。
金鉱も銀鉱も、その価値を失った。
旧帝国──かつて、この国が「帝国」と自称していた頃の話。
錬金術による金銀の急増、そして飽和は、金本位制を取っていた周辺諸国の経済を大混乱に陥れた。
常識はずれのインフレーションは国民を一気に困窮に陥れ、農地を手放して流民となるものが続出。
生産能力を失った旧帝国は崩壊、混乱は止むところを知らなかった。
それを収束させることになったのが、東南の国からやってきた、セパタという貨幣を中心とした新経済体系。
面白いようにインフレは収束し、セパタを中心とする経済は浸透した。
……当然の話だった、かもしれない。
最初から、それが目的だったとしたら。
経済の混乱、旧帝国の崩壊。
それを利用してのセパタの浸透と、より「近代的」な王政の確立。ついでに、より「近代的」な文化と文明へ傾倒させるちょっとした教育。
そこまでが、すべて仕組まれたものだとしたら。
猫の国の繁栄に、いろいろと都合のよい国家が生まれることになる。
むろん、証拠なんて何もない。
が、よく似た経緯を歴史の一ページとして刻まれた国はいくつかある。偶然にも、ずいぶんよく似た時期に。
仕組まれたものだとして、別にそれが悪いとは言えない。強いとはそういうことで、弱いとはこういうこと、それだけのことに過ぎない。
「……おい、リュナ」
物思いを、突然さえぎられた。
「ん? ……ああ、アルヴェニスか」
物憂げに、声の方向を見てそう言う。
「ずいぶん疲れてるな」
その声に、周囲を見渡す。会議室にはもう誰もいない。会議が終わった後、いつの間にかうたた寝していたようだ。
「……さすがにな。何とか目処はつけたが、まだ流動的だ」
和議に向けた長い話し合い。ようやく一段落はつけた。後は細かいまとめだ。
「とりあえず今夜は休んで、あした仕上げの話をする。もっとも、その一晩でどう変わるかがわからない。だから油断もできない」
「……明日は、俺も手伝う」
「アルが?」
「一人で何もかも背負うなって前から言ってるだろう」
「……ああ、そうだったな」
苦笑する。たしかに、そうだった。
アルヴェニスは、いつも二言目にはそう言う。実際、少々背負いすぎてる気もする。
「……そうだな、手伝ってもらうか。失敗できないからな」
リュナは、そう言って椅子から立ち上がった。
ぐらり。
少し、めまいがする。
「おい、大丈夫かよ」
「……大丈夫、と言っても信じてくれそうにないな。……今日はさっさと寝るよ」
「そうしろ」
肩を借りて歩く。さすがに一人で無理をしすぎたかもしれない。
その頃。
フィリーヌは一人、部屋に残っていた。
アルヴェニスはリュナの帰りが遅いと出かけていった。いま、部屋にいるのは彼女一人。その心の中に、奇妙な思いが交錯する。
──何ていうか、わたしとリュナはね、恋愛とか色恋とか、ましてや結婚とか配合とか関係ないのよ。
自分で口にした言葉。その言葉が、妙に空虚な響きで脳裏を巡る。
確かに、そのはずだった。
パートナー。同僚、あるいは戦友。そういったもの。そしてまた、お互いの鏡写しの姿。だから、恋愛感情なんか入り込む余地がない。
そのはずだった。
「……ふう」
ため息が漏れる。
──本当に、そうなのかな。
わからない。思えば八年も前からの腐れ縁だ。そしてその間、ずっとそう自分に言い聞かせてきた。
──リュナにとっての私って、何なんだろう……
リュナには、リシェルという妻がいる。そして、いうなれば職場のパートナーとして自分がいる。
──パートナー?
心の奥で、何かが引っかかる。
──本当に、自分はパートナーとして……
「リュナに、必要とされてるのかな……」
思いが、ぽつりと言葉に出る。
前から、ずっと前から思っていた疑念。
身分。フィリーヌは所詮、ヒポグリフ種という実験体の合成人間、言ってしまえば人ならざるもの、所詮はただの消耗品のようなもの。だからどうしても、重要な会議なんかには入れてももらえない。
もちろん、リュナはそうは思っていない。が、周囲の偏見はどうしても存在する。「人間」と「人間ならざるもの」という壁はやはりある。
そして、そういうのを目の当たりにするたびにリュナは本気で怒り、時には自分の上司であろうと関係なく怒り、机をたたいて怒鳴ることさえある。一度などは本気で殴り飛ばし、相手を骨折させたことも。
リュナは、どんなときでもフィリーヌを守ろうとしている。
だからこそ、フィリーヌは思う。
本当に自分はリュナのパートナーなのか、と。
リュナは全力でフィリーヌを守っている。しかし、一方でフィリーヌは。
──いったい、リュナにとって何の力となっているのだろう。
そう思うと、不安が押し寄せてくる。
いつまで、こうしていられるのか。
ただ、一方的に守られ、助けられるだけの存在。だけど妻でも恋人でもない、ただの古い知り合い。
そんな都合のいい関係が、本当にいつまでも続けられるのか。
──もっと。
フィリーヌは思う。
──リュナに、必要とされたい。
自分は、リュナがそばにいないと生きていけない。
でも、リュナは違う。フィリーヌがいなくても困らない。
だから、いつでも離れて行ける。離れてゆかないのは、ただリュナが人並みはずれて優しいから。
だけど、何かの間違いでいつ離れても不思議はない。それでも、リュナは何も困らないのだから。
その恐怖。リュナが、この世で一番大切な人がいなくなる恐怖。それが、フィリーヌを苛む。
──だったら。
彼が離れないようにすればいい。リュナが、絶対に離れないようにすればいい。
フィリーヌが、リュナにとってかけがえのない存在に、欠かせない存在に、誰よりも大事な存在になればいい。
リュナが、フィリーヌなしではどうすることもできないように。彼を自分から逃げられないように束縛すればいい。
リュナを離さないためなら、なんでもする。リュナがいなくなるという恐怖から逃れるためなら、何だってできる。
恐怖は、人の最も原初の本能。
それゆえに強い恐怖は、それ以外の理性をすべて吹き飛ばす。
だから、悪意あるものはそれを利用する。
確実に堕ちるという確信とともに。
リュナが知らない場所で、フィリーヌに近づいている悪意が、まさにそうであるように。