梅子は通学用の手提げを取り落とした。
「嘘」
「なんつーか、腹立たしい態度だな」
目を眇めて孝二郎が仕立てのいいブレザーに皺を作る。
屋敷の門から徒歩一分のバス停の前で、朝の空気が涼しくそよいだ。
ちなみにバス停の名前が「屋敷前」であるところからして、彼らの屋敷が古く大きいと良く分かる。
近場の名門私立高校までは送り迎えもありなのだが、孝二郎はそういうことを極端に面倒くさがる。
跡を継ぐわけでもねえのに、というのが名家次男の口癖だ。
その次男は差し出しかけた手をあっさりと引っ込めてポケットに戻そうとした。
「ま、いらねーんならいいや」
「いります。いただきます」
「あっそ」
ぐいと差し出した手に乗せられた梅のど飴に彼女は本気で感動した。
――初めてお返しを貰った。
拾った手提げのポケットに大切にしまって、チャックを閉める。
それから手提げかばんを抱きしめた。
…なにせ物心ついた頃から二月十四日はお坊ちゃまにまとわりつき、
三月十四日は夜中まで待ち続けて結局布団の中で諦めていたのだ。
たとえ梅のど飴だったとしても嬉しい。
今年は覚えていてくれたのだ。
隣から照れたような曖昧な憎まれ口が飛ぶのもおかげで全然気にならない。
「なに涙ぐんでんだよ、馬鹿」
「いいものをいただきましたから」
「……学校では敬語止めろよな、恥ずかしいだろ」
「うん」
「あと鞄持ちも屋敷から見えなくなったら止めろ」
「それは仕事です」
目を逸らして彼が眉を溜息をつく。
梅子が自分のものと一緒に抱きしめたその鞄は、やっぱり彼女のものより質のいい皮で。
だから本当は、
こんなことで喜んだって仕方ないのだけれど。
でも幼稚園の頃から持っていた鞄がだんだん大人っぽくなっていくこととか、
気まぐれで好みの色が変わる孝二郎の変遷を自分だけが覚えていることとか、
そういうことが梅子にとっては大事なのだから仕方がないのだ。
勿論そんな殊勝なことは、言ってあげないと決めている。
「仕事、か」
「そうです」
「なあ梅」
「なんですか」
「敬語止めろ」
「お屋敷が見えなくなったらそうします。」
孝二郎君、と口の中で二人だけのときの懐かしい呼び方を呟いて、彼女は手提げポケットの上をなでた。
バスのエンジンが遠くから閑静な道路に響いて、
屋敷の瓦屋根に雀が飛び立つ空が今日も青くて高い。
今年のホワイトデーは、暖かい春の日和になりそうだ。