1.  
「おはよ、創一郎くん」  
門の陰に隠れていたのか、不意をついたように青葉が声をかけてきた。  
俺はもう慣れっこになってしまっていて、驚かない。  
「おう、おはよう」  
セーラー服姿の青葉に、微笑みかける。  
急に冷たさを増してきた秋風が、制服のタイとお下げ髪を揺らしていた。  
俺たちの横を、冷やかすような笑いを浮かべながら、寮生たちが通り過ぎていく。  
ここ最近、泰山寮の前ではおなじみになった光景だった。  
青葉は見知った顔の寮生に小さく手なんか振ってる。  
それぐらい、毎朝、青葉が俺を迎えに来るのは恒例の行事になっていた。  
「行こうか」「うん」  
わずかな言葉を交わしただけで、俺たちは歩き出す。  
俺が少しだけ前を歩き、青葉は半歩下がったところをついてくる。  
並んで歩くのが恥ずかしいのか、青葉はいつもそうした。  
「これ、今日の分だよ」  
後ろから声がしたので、俺は振り返りもせず片手を伸ばす。  
巾着袋に入った四角いものが手のひらに乗る。弁当箱だ。  
「メニューは?」  
「創一郎くんの嫌いなもの、いーっぱい入れておいたから」  
「はいはい」  
もう定番になった答えを聞きながら、俺は弁当箱を大事に持ち直す。  
「今日はひじきにお豆の煮物、レンコンのきんぴらに、ポテトサラダ、メインはロールキャベツだよ」  
「げ、マジで俺の嫌いなもの入れやがったな」  
とはいえ、俺の大好物のロールキャベツが入っているあたり、ちゃんと気を使ってくれてる。  
「ちゃんとロールキャベツはケチャップじゃなくてトマトピューレで煮込んだから。安心して」  
「この前のは甘くて泣きそうだったからなあ……。  
ま、初めて作った料理で腹壊したことを考えれば、長足の進歩だな」  
俺の言葉に青葉はぷぅっと頬を膨らませた。  
「もう、いつまでも昔の話やめてよ」  
「いーや、一生忘れないね」  
俺の背中を、青葉の小さな手がぽこりと殴る。  
正直、青葉の料理はまだまだ陽子さんには及ばない。時々とんでもないミスもする。  
でも、だんだん俺は青葉の味付けにある種の懐かしさすら感じるようになっていた。  
青葉も、頑張って俺のリクエストに答えてくれている。  
こんな風に二人の味を作っていく。俺も青葉も、それを楽しんでいる。  
 
 
ゆっくりと歩く道のり、俺たちの口数はあまり多くない。  
でも触れるか触れないかという距離で歩く青葉を、俺ははっきり感じている。  
「あの、今度の日曜日ね」  
「なんだ」  
だから、ためらいがちに青葉が口を開いたときも、俺は振り向かなかった。  
「……ひま?」  
「俺が忙しいわけないだろ。嫌味か?」  
「そうじゃないけど……」  
青葉が言葉を濁すので、そこでようやく俺は青葉の方を振り向く。  
なぜか、青葉は頬を染めてうつむいている。  
「どうした、顔が赤いぞ……風邪か?」  
「ち、違うよ……」  
俺が額に手を持っていこうとすると、慌てて青葉が逃げる。  
俺は首を傾げながら、再び歩き出した。  
「あのね。今度の日曜日……お父さんとお母さん、出かけるんだって」  
「へー」  
「お芝居を見に行くんだ。それから外でご飯食べるんだって。  
だから、二人とも夜まで帰らないんだけど。その……」  
そこまで言って口ごもる。  
俺は驚き、立ち止まった。胸が早鐘みたいに激しく打っている。  
「私の家、遊びにこない?」  
上目遣いに俺を見るその視線は、誘っているようにも、困惑しているようでもあった。  
「えっと……」  
ごくり、と唾を飲み込む音が変に大きく聞こえた。  
「…………いや?」  
「い、嫌なわけねえだろ……でも、その…………それって、アレか?」  
黙って青葉うなづく。そのまま、俺の視線を避けるように目を伏せている。  
「あの日」以来、あんなことはしてない。俺は寮だし、陽子さんは大抵家にいるし……。  
答えに詰まって、俺が青葉をじっと見つめていると、青葉の手がそっと俺の袖を掴んだ。  
「いや?」  
「い、いや、い、いく。いく、けど……さ」  
念押しされて、逆らえるはずも無かった。  
俺の答えに、青葉はぱっと輝くような笑みを見せる。  
「よかった」  
再び歩き始めても、やはり俺の方を見ない。うつむいたまま、足早に歩いている。  
ちらちらと青葉の方を見る。青葉も、俺の目を盗んでこちらを見ているのが分かった。  
「そういえば、創一郎くん……あの……あれ、ちゃんといつも……」  
突然、かすれたような青葉の声が聞こえた。  
「あれ? あれ……あ、ああ。『あれ』か。ち、ちゃんと持ってるぞ」  
「……うん。それなら、いい」  
近所の薬局のおっさんに冷やかされながら、ちゃんと二ケースも買った。  
我ながら、ちょっと張り切りすぎてる気もする。  
 
「結婚するまでって、約束だからな」  
「……え? 結婚したら、しないの?」  
不思議そうな顔をして青葉が俺の顔を覗き込んだ。  
俺は自分が言ったことの意味を考えて、急いで訂正する。  
「た、確かに結婚していきなり子供つくるって決まってるわけじゃないもんな。  
そういう夫婦も多いっていうし。ちゃんとつける、もちろん」  
「え? えーっと……子供?」  
青葉の目が泳いでいる。俺と目が合い、あいまいな笑いを浮かべながら小首を傾げた。  
「いや、だってあれしないと、子供が……」  
「……ロザリオと子供って、何か関係あるの?」  
不審そうに尋ねる。やっと、俺は決定的な間違いに気がついた。  
「ロザリオ……? あ、ああ、ロザリオね! はいはい、もちろん着けてる、当たり前だろ?」  
ぎくしゃくと俺は首元から小さな銀のロザリオを取り出してみせる。  
青葉の冷たい視線が痛い。ごまかし笑いを浮かべても、呆れたような顔で俺を見ている。  
「もうっ、何の話だと思ってたの…………えっち」  
まずい。結構本気で怒ってる。  
付き合い始めてからは、スケベな印象を与えないよう頑張ってきたのに、これじゃ台無しだ。  
そう、青葉が言ってるのはおそろいのロザリオのこと。  
いつも身につけておくって約束だった。  
とにかく、謝らないとマズイ。俺は恥も外聞もなく、手を合せて頭を下げる。  
「えっと、ごめんなさい。変なこと考えてました……」  
それでも青葉は不満顔だ。俺はさらに目の前に回って頭を下げ続ける。  
「ごめんなさい、この通り! ゆるして、青葉さま!」  
行く手を阻むようにして謝ると、青葉は呆れたようなため息をついた。  
「……もう、分かったから、頭上げてよ」  
俺もほっと一息。  
再び並んで歩き始める。青葉はそれでもまだ少し膨れっ面だ。  
――そもそも、なんでロザリオなんかするようになったか。  
本当なら青葉は指輪か何かが欲しかったんだと思う。  
でも、マッダレーナは校則で装身具は一切禁止だ。  
ただし、本物のクリスチャンの生徒のために、飾りの無いロザリオのみ許されている。  
だから、これなら「いつも」身につけていられるという訳だ。  
もちろん俺も青葉もクリスチャンじゃないが、神様もそこまでうるさいことは言わないだろう。  
「だいたい、お前が変なタイミングで聞くから」  
「それは、創一郎くんがスケベなことばっかり考えてるからでしょ?  
それに、『アクセサリーなんか嫌いだ』とか言ってたじゃない。心配にもなるよ……」  
はぁ、と青葉がまたため息をついた。  
確かに、中学ぐらいのときにそんなことを言った覚えがある。  
それに男がアクセサリーを着けることに抵抗がなくなったわけじゃない。  
でも、このロザリオは違う。  
「……これはアクセサリーじゃねえから」  
俺の言葉に、青葉は首を傾げる。  
「これ、青葉だから。青葉の分身だから」  
うわ、何言ってるんだ俺は。  
機嫌を取るためとはいえ、とんでもないこと言っちまったぞ。  
どうしていいかよく分からず、俺が黙っていると、青葉がつ、と俺に体を預けてきた。  
俺の答えに安心したのか、青葉はぎゅっと俺の手を握る。  
「……嬉しい」  
俺も手を握り返す。小さな手が、ふわふわとして気持ちいい。  
そんなわけで、今日はいつもより口数少ない朝になった。  
 
 
駄菓子屋「チチヤス」の三叉路に着く。  
そこから右に曲がれば俺の高校、左に曲がれば青葉の高校へと道が通じている。  
店の前で俺は珍しい奴を見つけた。  
望月だった。  
片手にコーヒー牛乳、片手にパンを持って、それを交互に口に運んでいる。  
「おはようございます」  
望月は俺たちを見かけると、パンを全部口にほおばり、それをコーヒー牛乳で流し込んだ。  
「望月くん、朝ご飯?」  
「ええ、朝食当番の姉が寝坊しまして。炊飯器もセットしてなかったらしく……」  
俺はそんな望月と青葉の会話を聞きながら、自分のパンの飲み物を買う。  
最近寮で朝飯を食わず、チチヤスで食うようにしていた。少しでも青葉と一緒にいたいから。  
そんなわずか数分でも、俺たちには大事な時間だった。  
「そう言えば、もうすぐ合唱コンクールですねぇ」  
「うん。初めてのコンクールだから緊張するよ……あ、望月くんも聞きに来てね?」  
望月の言葉に、青葉は明るく反応した。  
文化祭での失敗でソロから外されたせいか、一時この話題は青葉の前ではタブーに近かった。  
だが、このごろようやく普通に口に出来るようになっていた。  
嬉しそうに答える青葉を見て、ほっと胸を撫で下ろす。  
「じゃ、花束でも用意しましょうか」  
「花束?」  
「よくコンサートとかで渡すじゃないですか。アンコールの前に」  
「や、やめてよ、私のコンサートじゃないんだから…………」  
うろたえる青葉に、望月はいい事思いついた、とでも言わんばかりに何度もうなづいている。  
青葉は助けを求めるような目を俺に向けるが、面白いので無視する。  
「古鷹さんは、どんな色が好きですか? 青? それとも赤系ですか?」  
「だ、だからぁ…………」  
望月の腕に青葉はすがりついている。俺はからからと笑いながら、もつれあう二人を見ていた。  
「……おはよ。楽しそうね」  
不意に声をかけられ、三人とも一斉に振り返る。  
那智子が、いつの間にかすぐそばに立っていた。  
慌てて、青葉は望月から離れる。  
那智子は、青葉に冷めた一瞥をくれてから、黙って自販機に近づき、缶コーヒーを買った。  
それから、無造作に俺たちの輪の中に入る。  
「……何の話?」  
那智子が、俺たちにこんな風に話しかけてくるのは、あの日以来ひさしぶりだった。  
挨拶ぐらいはするものの、俺と青葉がいる場に関わろうとすることは決してない。  
そんなときは、遠くから会釈して、黙っていなくなるのが常だった。  
俺と青葉が話しにくそうにしているのを見て、望月が代わりに説明してくれた。  
「ふーん、コンクールで花束、ね……せっかくだし、してもらったら? 目立つよ、きっと」  
「だ、だからそれが嫌なんだってば……」  
青葉が泣きそうな顔をすると、那智子はすこし意地悪そうに笑った。  
那智子だって、青葉の性格を知らないはずはない。  
前なら、ただ友達をからかって遊んでいるとしか思わなかった。  
でも、今は――――。  
考えまいとしても、嫌な考えが頭から離れない。  
 
 
「あ、いけない……もうこんな時間ですよ? 行きましょう、そろそろ」  
助け舟のつもりか、望月が不自然に大声で言った。  
確かに、もう予鈴までそんなに時間もない。俺は朝飯を食った後のゴミを手早く片付けた。  
互いに挨拶を交わし、別れる。  
「あ。待って、御堂」  
歩き出す俺に、声をかけたのは那智子だった。  
驚いて振り返ったのは、歩き出していた青葉も同じだった。  
「御堂、今度の日曜、空いてる?」  
那智子の何気ない口調に、俺はとまどう。  
「……えっと、今度の日曜は」  
俺が青葉の方をちらちらと見ながら言葉を濁していると、青葉がそこに割り込んできた。  
「えへへ……創一郎くんは、いっつも暇だもんねー?」  
「青葉?」  
突然の青葉の態度に、俺はどうして良いのか分からない。  
だが、那智子はそんな青葉をしばらく見つめてから、ふっと笑った。  
「そう、良かった。デートの約束でもあるかと思ったけど」  
「そ、そんなことないよ? その日はコンクールの練習があるから、ね?」  
「そう」那智子はもう一度青葉に微笑み、俺の方を向き直った。  
「じゃあ、悪いけど、ちょっと付き合ってもらえる?  
今度いとこの誕生日でさ、服でもプレゼントしようと思ったんだけど。年恰好が御堂に近いのよね」  
俺はいいのか? というように青葉に少し首を傾げて見せた。  
でも、青葉は俺に少しうなづいただけだった。  
「……時間と場所は、また電話するから。じゃあね」  
自分の言うべきことだけを言うと、那智子はさっさと行ってしまう。  
那智子が十分離れてから、俺は静かに青葉のそばに近づいた。  
俺に怒られるのを予想してか、青葉は少し首を縮めている。  
「……ごめんなさい」  
「どういうつもりだ?」  
怒るというより、青葉の気持ちが本当に分からなかった。  
俺は青葉の肩にそっと触れる。それが、青葉の気持ちを少しほぐしたようだった。  
「たまには、なっちゃんにも付き合ってあげて。だって……友達でしょ?」  
「いいのかよ。せっかく久しぶりに二人きりで……」  
うん、と青葉はうなづく。  
次の言葉を待ったが、青葉はもう何も言わなかった。  
「ま、青葉がそう言うんなら……でも、那智子の用事を早めに切り上げて、お前んち行くから」  
「うん、分かった」  
青葉は無理やり作った笑顔を浮かべ、俺に手を振る。  
それから、一目散に駆け出した。  
俺も黙って背を向ける。青葉の軽やかな足音が、遠ざかっていく。  
たまらなくなり、振り返ると、青葉も立ち止まっていた。  
大きく手を振る青葉に、俺も負けないくらい大きなしぐさで手を振りかえした。  
 
 
2.  
冬の空は高い。  
次の日曜日は目に痛いくらい快晴だった。  
おかげで、厚着をするとちょっと蒸し暑いぐらいだ。  
俺は那智子に言われた時間、午前11時のほんの少し前に駅前へとやってきた。  
思えば、青葉や那智子、望月と遊園地に行ったときもここで待ち合わせだった。  
あのときは想像もしていなかったけれど、俺は青葉と付き合っている。  
そして、那智子は……。  
青葉が許してくれたとはいえ、今日那智子に付き合う気になったのは、どこか俺に罪悪感があるからだろう。  
それは少し傲慢なような気もした。  
「おまたせー」  
俺がぼんやりと行き交う人々を見ていると、遠くから那智子の声が聞こえてきた。  
相変わらず、飾り気のない格好をしている。  
マルーンカラーの薄いセーター、ミニスカートに黒タイツを履き、丈の長いパーカーを羽織っている。  
それは、以前遊びに行った時を思い出させる格好だった。  
「いい天気ねー」  
俺の感慨なんか無視して、那智子は笑いながらそう言った。  
青葉がいるときよりも、表情が柔らかい。俺は喜んでいいのか、少し複雑な気持ちになった。  
「……で? 何買うんだ」  
挨拶抜きで俺が言うと、那智子は芝居がかった調子で腕組みして見せた。  
「うーん、やっぱカッコいいジャケットとか買ってあげたいんだけど、予算がねえ……」  
「いくつぐらいなんだ、そのいとこって」  
「えっと……十八……だったかな」  
言いながら、那智子は首をひねっている。  
「誕生日、何日だ?」  
「え、ええっと……今月の、じゅ、じゅう……十九日」  
「……なんだか頼りねえなあ」  
俺がそう言うと、那智子はそれを打ち消すような大きな声を出した。  
「と、とにかく、適当に見てまわろ? 途中でもっといいもの思いつくかもしれないし」  
ぱっと俺の上着の袖を那智子の両手が掴む。青葉とは違って、それは力強い。  
だが、那智子は青葉のように俺の顔を嬉しそうに見つめたりはしなかった。  
 
 
「やー、案外無いものねぇ」  
そう言いながら、コーヒーカップをもてあそぶ那智子を、俺は憮然と見詰め返している。  
俺が黙っていると、那智子は不思議そうな顔をして見せた。  
「食べないの?」  
俺の目の前ではハンバーグセットがうまそうな湯気を立てている。  
でも、俺はそれをまだ一口も味わってはいなかった。  
「せっかくのおごりなんだからさ、暖かいうちに食べなさいよ」  
那智子はそう言って笑うが、俺はフォークで皿の上のポテトフライをもてあそぶ。  
「……何、怒ってんの? そりゃさ、四時間も引っ張りまわして、結局決まらなかったわよ。  
でもおわびにお昼ご馳走してるんだし。わざわざ高いセットランチ頼んどいて、食べないのも失礼でしょ?」  
那智子の買い物に付き合うのは確かに一苦労だった。  
気に入ったジャケットやらジーンズやらを那智子が見つけるたび、俺はそれを着たり脱いだりさせられた。  
そのあげく「今日は気に入ったものが見つからない」ときた。  
で、おわびと称して那智子がファミレスで遅い昼飯をおごってくれているわけだ。  
疲れたし、青葉との約束も反故になった。だが、そんなことで怒っているんじゃない。  
「ね、食べないんならハンバーグもらうわよ」  
「……そろそろ、説明してくれてもいいんじゃないか」  
俺がそう言うと、那智子はきょとんとした顔でこちらを見ている。  
「説明……って何を?」  
俺は小さくため息をつき、フォークを皿の上に放り出す。甲高い音が響いた。  
「いとこの誕生日の買い物って話、嘘なんだろ」  
那智子は俺の皿に伸ばしかけていた手をさっと引っ込めた。  
「青葉に付き合ってるから、女の買い物が長いのは知ってる。  
でもお前のは行き当たりばったり過ぎるし。肝心のいとこの年齢も誕生日もあやふや……それって変だろ」  
那智子は黙っている。黙って膝の上に握った自分の拳を見ている。  
ときどき俺の顔を盗み見るように目をあげるが、それはいかにも不審な動きだった。  
 
問い詰めても、何も答えてくれないかもしれない。  
俺は体に溜め込んでいた力を、ふっと抜いた。  
「怒らないから、言ってみ?」  
俺の言葉に、ようやく那智子はおずおずと顔を上げた。  
涙目にも見えたし、あるいは無表情にも思えた。  
「……理由はね、いっぱいある」  
那智子は咳払いをする。声がかすれていて、よく聞こえない。  
「一度でいいから、あんたとデートしてみたかった……これは、想像ついたんじゃないかな」  
うぬぼれに聞こえるかもしれないが、一番最初に俺が想像したのはそれだった。  
でも、そんなことしても余計苦しいだけじゃないか。  
人を好きになった経験が少ない(いや一度しかない)俺にもそれぐらいは分かった。  
「もう一つはね、嫌がらせ」「嫌がらせ?」  
そう言うと、那智子は力なくうなづいた。  
「本当は、今日青葉と用事があったんでしょ。青葉もバカよね、練習だなんて。  
合唱部の子に聞けばすぐばれるのにさ」  
頼りない笑みを浮かべながら、那智子は目を上げる。  
言い当てられた俺は、無表情を装うのが精一杯だった。  
「私があの日以来、どんな気持ちだったか分かる……? 休みの日になるたびにね……。  
二人が今どんな風に過ごしてるんだろ、そう考えると、いてもたってもいられない気持ちになるの。  
……だから、たまにはそんな気持ちを青葉にも味わわせてやれ、って」  
馬鹿だね私、と那智子が呟く。  
俺はそれには何の返事もしなかった。  
「あんたにもよ、御堂。恋人に使う時間を、好きでもない子のために削られて、嫌な思いをさせてやる。  
でも、あんたは私に冷たく出来ない、いい顔しなくちゃいけない……ざまあみろって。分かる?」  
その気持ちは分かるが、分かりたくもなかった。  
那智子が、そんなゆがんだ思いを抱えて生きている。  
想像したことはあっても本人から告白されるのはあまりに悲しい。  
「それから、あんたたちを試すため。私のことより、二人の時間を大事にするのかな。  
それとも、私にいい顔して時間作ってくれるのかな、ってね」  
自嘲気味に笑う那智子を、俺は初めて少しだけ憎いと思った。  
試す? なんのために。どちらにしたって、那智子は不愉快なだけじゃないか。  
「どうせ、私なんかお邪魔虫なのは分かってる」  
言いながら、那智子は財布を取り出し、千円札を二枚、テーブルの上に置いた。  
パーカーを取って立ち上がる。  
「どっちにしろ、私はとっても満足よ。今日の目的は全部達成できたんだから。  
……それに、青葉が私みたいなのにも、嫉妬してくれてるのが分かったし」  
「……なんだって?」  
「見て、あの向こうのテーブル。観葉植物の鉢のすぐ横」  
那智子が指差す方を振り返る。  
少し離れたところのテーブルに、サングラスをかけ、スカーフを頭に巻いた女の子がいる。  
見覚えのある、お下げ髪。俺たちが見ているのに気がつくと、あわててそっぽを向いた。  
「青葉……?」  
「あんな、時代遅れで怪しげな格好してたら、誰だって尾行に気がつくわよ」  
俺のそばに一瞬立ち止まり何か離れがたい様子を見せる。  
だが、那智子はそんな気持ちを振り切るように顔を背けた。  
「ごめん。私は帰るね…………満足したから」  
「那智子っ」  
俺はふと我に帰り、声を荒げる。しかし、那智子はもう俺を見ようとしなかった。  
「……辛いの。あんたたちが仲良くしてるのを見るのも辛いけど。  
私の前で今まで通りのフリしてくれてる、それを見るのも辛いのよ……分かる?」  
はは、と乾いた笑い声を残して、那智子は歩き出す。  
青葉のテーブルの横を通り過ぎざま、青葉に声をかけるのが見えた。  
青葉が何か言ったようだったが、那智子は聞こうともしなかった。  
「…………分かりたくねえよ、そんなもん」  
 
 
「ん……やぁ…………ん……」  
俺が体を揺らすのにあわせて、青葉が消え入りそうな声で悶える。  
「ん……んはぁっ……やっ……あっ……んっ、ああっ!」  
腕の中には、青葉がいる。  
俺の背中を抱きながら必死に声を噛み殺す姿に、愛しさで狂いそうだ。  
「や、やぁ……そういちろうくん……や、やさしくぅ…………」  
荒い息の中から聞こえる声に、俺は腰をゆっくりと動かしてやる。  
青葉の肌の上に、玉の汗が浮かんでいる。  
息を整えながら、わずかに目を開け俺を見る姿は、青葉を実際よりも幼く見せた。  
ストロークの大きな腰使いにあわせて、たっぷりとした青葉の乳房が弾んでいる。  
俺の目の前で、乳房の頂上がぷるぷると誘うように揺れていた。  
静かに口に含む。  
こりこりとした乳首を舌先で包むようにして、思い切り吸い上げてやる。  
「ひゃっっ……」  
そのとたん、青葉は悲鳴のような声をあげた。  
俺の頭を青葉が押さえるが、俺はそれでもしつこく愛撫し続けた。  
「ひゃ……や……んぁ……」  
俺の舌使いに合せて、青葉がかわいらしい声をたてる。さらに俺は青葉をいじめてやる。  
そうやって思う存分青葉を味わってから、青葉の全身を見るため、俺は乳房から口を離した。  
真っ白なシーツに包まれるように、青葉の肢体が横たわっている。  
その首に、肩に、胸に、腕に、あらゆるところに俺が刻みつけた接吻の赤い跡が残っている。  
俺にされるがままに乱れる青葉。俺は軽い征服感を覚える。  
二つの大きな胸のふくらみの間には、小さくロザリオが光っていた。  
俺はそのチェーンに沿って、胸の谷間をそっと舐めあげてみる。  
かすかな産毛の感触と、青葉の汗の味。  
そのまま胸元から首筋、そして頬へと唇を這わせる。  
「やだ、創一郎くん……変態っぽい」  
俺は青葉ににやりと笑ってから、頬からさらに耳たぶへと進んでいった。  
ふっくらとしたかわいい青葉の耳を、舌の先でぺろぺろと舐める。  
「ん…………い、息があたって……くすぐったい……やん……」  
「気持ちいいか?」  
こくこくと青葉は何度もうなづく。  
俺は嬉しくなり、耳たぶを口に含んでやわやわと歯を立てる。  
「……創一郎くん、変なこと、知ってるんだね…………」  
「色々と勉強してるからな、青葉を気持ちよくしてやるために」  
「もうやだぁ……」  
青葉と目が合う。かすかに開かれた唇に、そっと自分の唇を重ねる。  
荒れた俺の唇を、しっとりと濡れた青葉の唇が、少しずつ潤していくようだった。  
俺の唇が離れても、まだ青葉はすがるように唇を尖らせていた。  
「青葉、また動くぞ……」  
「…………うん……ゆっくり、お願い……」  
青葉に向かって優しくうなづくと、俺はゆっくりと腰を動かし始める。  
最初は小刻みに、次第に大きく動かす。  
「や……ゃぁ……んんっ…………あっ、あぁっ、やっ! やぁっ……あっ! やぁん!!」  
それにつれて、青葉の声も大きくなっていく。  
「青葉、もっと動くぞ?」  
「う、やぁ……う、うん……も、もっと……も……ふぁっ……! あああっ!」  
「どうだ? もっとか? もっとか!?」  
あまりに激しい抽送に、青葉は苦しげにうなづく。  
初めてのときよりはるかに受け入れやすくなっているとはいえ、まだ青葉の中はきつい。  
さらに勢いよく動こうとすると、それを阻むように縮こまってくる。  
必死に耐えている青葉を、もっと感じさせてみたい。それだけが頭を占めていた。  
 
俺が一心不乱に腰を振ると、青葉のベッドはぎしぎしと苦しそうな軋みを上げる。  
ぬちゃっ! ぬちゃっ!  
湿り気をたっぷり含んだ青葉の蜜壷から、卑猥な音が響き渡る。  
「創一郎くん……そ、創一郎くんが……あっ、私の中に……中にぃ…………」  
青葉の両脚が、無意識に俺の腰へと巻きつく。  
俺はさらに激しく青葉をかき混ぜてやった。  
ぬちゃっ! ぬちゃっ! ぬちゃっ! ぬちゃっ!!  
「創一郎くん、創一郎くんっ……!」  
「青葉、青葉……あおばぁっっっ…………!」  
絶頂を迎えても、俺の動きは止まらない。青葉の奥の奥まで貫き、激しく犯した。  
俺の突き上げるような動きといっしょに、青葉の体が何度も何度も跳ね上がる。  
「やっ……あっ……んっ、はぁんっ……や、やっ、あっ、あ、ああ、ぁ、ぁ……ぁ……」  
絶え絶えに息を吐きながら、青葉はぷるぷると何度も体を震わせ、俺の背中をきつく抱きしめた。  
 
 
力尽きた俺たちは、裸のまま抱きあい、横になっている。  
那智子が出て行った後、俺たちは無言で青葉の家に戻った。  
玄関に入るやいなや、俺は青葉を抱きしめていた。それは無意識の行動だった。  
青葉も抱きしめる。そのままキスし、青葉を軽々と抱き上げ、部屋に向かう。  
俺はベッドに青葉を横たわらせ、青葉が黙ってお下げ髪を解き……。  
そのあとは、二人とも本能の求めるまま、体を重ねていた。  
青葉は今になってようやく「恥ずかしい」という感情を思い出したのか、わずかに顔を背けていた。  
柔らかな体が触れ合い、青葉の足が俺の足にからみつく。  
二つの胸のふくらみや、すべすべとした腹や、まだ濡れている茂みが押しつけられた。  
あえて俺は何も言わず、黙って青葉の髪を撫でてやる。青葉も黙っていた。  
「……なっちゃんさ」  
青葉がぽつりと呟く。  
「どうしたら、いいんだろう」  
「……それを今考えてた」  
本当を言えば、青葉を抱きながら頭の片隅で那智子のことが気になっていた。  
悪いと思いながら、どうしても考えずにはいられなかった。  
そして今また、青葉の頬のぬくもりを感じながら、俺は那智子のことを考える。  
「……こんなの、悪いよなぁ」  
俺の何気ない呟きを、青葉は聞き漏らさなかった。  
「こんなのって?」  
「青葉と、こんなことしながら那智子のこと考えてる」  
寝物語に、抱き合いながら話すことじゃない。  
青葉にも悪いし、もし那智子が知ったら烈火のごとく怒るような気がした。  
 
「……なんでそれがいけないの?」  
「なんでって……青葉のこと考える横で、那智子のこと考えたら悪いじゃねえか」  
「それじゃ、なっちゃんのこと考えるときは、私のこと忘れるの?」  
「そういうわけじゃないけど……」  
俺が口ごもっていると、青葉が俺の顔を真正面から見つめてきた。  
さっきまでとは違い、その口は堅く引き結ばれている。  
「そんなの、やだ」  
「……青葉?」  
俺が体を起こそうとすると、青葉は俺を押さえつけるように抱きついてきた。  
「ずっと、私は創一郎くんのこと想っていたんだもん。ちっちゃい時から、ずーっと、ずーっとだもん……。  
だから、これからは、いつも私のこと考えていて欲しい…………。  
それがなっちゃんでも、駄目。私が許さないから」  
「許さないって、お前」  
ぎゅっ。青葉が俺にすがりつく。  
それは、今まで感じたことのない気迫というか、本気が伝わってくるほどの力だった。  
俺が声をかけても、青葉は全く力を緩めようとしない。  
「……そういうこと、言って欲しいんじゃないか?」  
「うん……?」  
「青葉は俺が那智子のこと考えるのも許さないぐらい、俺が好きだって、さ。  
そういう、本音が聞きたいんじゃないかな、那智子は」  
「ほんね……?」  
俺にしがみついていた青葉が、ふっと力を抜いた。  
もちろん、那智子が大事だという青葉の気持ちだって本音だろう。  
でもそれ以上の本音、それを那智子は聞きたがっている。そんな気がした。  
「ただ、それを伝えるにはどうしたらいいか……」  
俺はそう言いながら、青葉の胸のロザリオを無意識にいじくる。  
青葉は、逆に俺のロザリオをそっと手に取っていた。  
ふと見ると、子犬のような目で青葉が俺を見ているのに気づいた。  
「……創一郎くん、今日はまだいられるよね」  
黙ってうなづく。  
それを見て、青葉がロザリオを握る俺の手に、自分の手を重ねた。  
「まだ、お母さんたち帰ってこないから……」  
青葉の目が潤んでいる。窓から差し込む夕日に照らされて、目が妖しく光ったようだった。  
「今はなっちゃんのこと、忘れて……ね」  
 
 
3.  
コンクールの日がやってきた。  
青葉は先に会場入りしている。俺は和馬や陽子さんと一緒に出かけることにした。  
会場で望月とは合流したが、那智子の姿はどこにも無かった。  
あえて俺は那智子のことは口にしなかったし、和馬や望月もそうだった。  
時計が12時をまわった頃、昼休憩となり、俺たちはぞろぞろと会場の文化ホールから外に出る。  
今日もいい天気だ。  
出場を待つ高校生や、父兄、その他の客たちが大勢ホール前にたむろしている。  
「はぁ……」  
普段聞きなれない合唱を三時間もぶっ続けで聞かされ、俺は疲労困憊していた。  
青葉たちマッダレーナ女子の出番は午後の部。それもかなり遅い。耐えられるだろうか。  
音楽の素養がある望月はともかく、和馬が俺より元気なのは納得いかなかったが。  
「どうした、力の抜けた声だして。そんなに青葉ちゃんに会えないのが辛いか」  
頭の上から和馬の冷やかしが聞こえ、俺は憮然とした表情を返す。  
がやがやとにぎやかなホール前。  
これだけ大勢の人間が集まっていると、那智子が来ていても気づきそうにもなかった。  
「那智子、こねえんじゃねえだろうな」  
「……失礼ね。そっちの目が節穴なだけでしょ」  
「うぉっ」  
後ろから声をかけられ、俺は飛びのく。  
全く、最近那智子は神出鬼没過ぎる。  
「来てたのか? いつの間に?」  
「午前の部が始まって一時間ぐらいした頃。みんなを探そうかと思ったけど、中暗かったし」  
「何してたんだよ」  
少し恥ずかしいところを見られたので、俺は少し反撃してみる。  
けれども、那智子はそれをさらりとかわした。  
「色々と、楽しいことよ。ねえ、初芝くん?」  
「はぁ?」  
那智子にそう言われた和馬は、答えに困る、といったように曖昧に笑った。  
「お前ら、何か……」  
「あ、創一郎くんっ」  
俺が言いかけたとき、向こうから俺を呼ぶ声がした。  
その声は、どれだけ周りうるさくてもちゃんと聞きわけられる。これは、本当だ。  
ぱたぱたと小走りに走る音がして青葉が俺のそばに飛び込んできた。  
その後ろには望月と陽子さんもいる。  
「あ、なっちゃん……来てくれたんだ」  
「……当たり前じゃない。それとも、来て欲しくない理由でもあるわけ?」  
那智子にぴしゃりと言い返され、青葉は自分の失言に黙り込む。  
二の句がつげない青葉に、那智子は冷ややかな笑みを投げつけている。  
「あのー、みなさんご飯食べに行きません?」  
凍りついた空気を溶かしたのは、望月だった。  
間の抜けた声で、俺たちに話しかける様子は、天然なのか計算なのか。  
やはり計算してるような気がする。  
「青葉、いいの?」  
「うん、自由時間にするって先生言ってた。集合は二時間ぐらいあとだから、全然平気」  
「それじゃあ行きましょうか、今日はお母さんがみんなに奢ってあげる」  
陽子さんが仕切ってくれたので、俺は安堵のため息をついた。  
ぞろぞろとみんなが歩き出すが、那智子は動かない。  
「……なっちゃんも、いこ?」  
声がかけられる青葉は、偉いと思う。  
だが那智子は必死な青葉の言葉を何事もなかったかのように聞き流す。  
 
「那智子、行くぞ」  
沈黙に耐えられなかった俺が青葉の後を継いだ。  
それでも那智子は黙って首を横に振るだけだった。  
「私は、行かない」  
「…………なっちゃん、なんで」  
青葉の目が、悲しげな色から、急に怒りに変わったような気がした。  
「なんで……なんで、そんなっ……」  
語気鋭く青葉が言いつのっても、那智子は目を合わせない。  
「私はここに残るから、みんなで行ってきなさい」  
諭すような言い方だった。  
さらに詰め寄ろうとする青葉の肩を俺は黙ってつかむ。  
振り向く青葉に、静かに首を振ってみせる。  
俺の顔を見て、青葉は諦めたようだった。  
黙って二人でホールを後にする。隣でしょんぼりと肩を落とす青葉に、俺はかける言葉が無かった。  
 
 
青葉の気持ちが伝染したのか、弾まない昼食だった。  
とにかく食事が終わり、俺たちはコンクール会場へと引き返す。  
俺と青葉はみんなから少し遅れて歩く。  
「……なっちゃん、怒ってる?」  
「かもな」  
とぼとぼと歩く青葉にあわせて、俺の足取りも重い。  
「やっぱり、ちゃんと話した方が、いいよね?」  
「……『アレ』渡すって手もあるけど」  
そう言うと、青葉は初めて俺の方を見た。  
二人で相談して決めたアレ。  
「でも……でもさ、なっちゃんに気持ち、通じるかな」  
「それは、俺にも何とも……」  
言葉だけでは那智子に通じそうもないから、言葉以外のもので俺たちの気持ちを伝える。  
それは、いい考えのようにも思えるし、ただの自己満足のようにも思えた。  
青葉も俺も、他人の心が手に取るように分かるほど人生の体験を積み重ねてるわけじゃない。  
俺は黙って青葉の手を握った。  
この手の温かさがあれば、どんなことでも耐えられる。  
きっと青葉もそう思ってたに違いない。手を握れば、それが分かった。  
「……お母さんたちと、はぐれちゃったね」  
ホールの入り口は、昼食から戻ってきた人たちで混みあっていた。  
俺は陽子さんや和馬の姿を探すが、どこにも見当たらない。  
青葉もきょろきょろと辺りを見回している。  
そのとき、俺は入り口前の花壇のすぐそばに、那智子がたたずんでいるのを見つけた。  
目があった瞬間、那智子は俺に向かってちょっと。  
ちょうどいい。  
俺は軽く青葉の手を引っ張ると、那智子の方に近づいていった。  
「なっちゃん」  
だが意外なことに、声をかけたのは青葉が先だった。  
「なーに?」  
「あのね、話があるの」  
那智子の前で立ち止まり、まっすぐその顔を見つめる青葉。  
俺は青葉を見守るように、その半歩後ろに立った。  
「……あのね」  
「ちょうどよかった、私の方も聞きたいことがあるの」  
那智子はつ、と俺の方に視線を滑らせる。  
その目に見つめられると、俺はたちまち動けなくなってしまった。  
「……御堂が、どれくらい青葉を好きなのか。青葉が御堂をどれくらい好きなのか、をね」  
 
「えっ……」  
冗談かと思った。  
でも、那智子は当然のような顔をして俺たち二人を見比べている。  
「そんなに驚く質問?」といった顔だ。  
困ったような青葉の目が、俺を見上げている。  
「……それとも、青葉が好きなんじゃなくて、私が嫌いだっただけ?」  
那智子の視線に俺は釘付けにされたように動けない。  
どう答えていいのか分からないから。  
「……そう」  
静かに目を伏せる那智子。それを見てやっと俺の縛めが解けた。  
「ち、ちが……」  
慌てて俺は那智子のそばに駆け寄る。  
とっさのことで、俺は那智子の肩を掴むと抱き寄せていた。  
たぶん、青葉にいつもそうしているからだと思う。  
あっ、と青葉が声をあげたけど、混乱した俺は那智子を抱きしめることしか出来なかった。  
「……慰めるときだけ、抱いてくれるんだ」  
那智子は肩を震わせている。うつむいている顔は、俺からは見えない。  
「そうじゃなくて、そういう意味じゃなくて……俺は青葉を……俺は、那智子を…………」  
青葉を、なんだ? 那智子を、なんだ?  
青葉のことは好きだ。心の底からそう言える。じゃあ那智子は?  
大事だ。でもそれは好きとどう違うんだ。  
那智子は単なる友達で、女の子としての魅力は全然感じていないのか?  
「俺は……」  
言葉に詰まり、那智子の肩を優しく抱く。  
「適当な慰めなんか、聞きたくない」  
このまま抱きしめればいいのか。それは青葉を裏切っていることにはならないのか。  
友達にこんなことをしてるのはおかしくないのか?  
「那智子、俺は……」  
「…………ぷっ」  
混乱した頭で何かを言いかけたとき、小さく弾ける声がした。  
「な、那智子……?」  
「ぷっ…………ぷはっ、ぷはははははは」  
「あ、那智子おま……」  
「なっちゃん?」  
青葉も駆け寄る。那智子は俺を軽く突き放すようにして、離れていった。  
口を押さえながら声をたてて笑っている。  
俺と青葉はあっけにとられていた。那智子は笑うのをやめ、息を整えている。  
「……ごめん。ちょっとだけ意地悪した」  
あまり申し訳なさそうには見えない。どちらかと言えばしてやったりの顔だ。  
「あ、お……お、お前なぁ」  
那智子は胸を張って、俺と堂々と向かい合ってる。なんて奴だ。  
「やっぱり悔しいじゃん、好きな人取られるなんて。相手が青葉でも……ううん、青葉だから余計に」  
笑っているけれど、その目は真剣そのものだった。  
「ごめんね。自分でも、悪趣味って思うよ。でも、御堂が抱きしめてくれて、すっきりした」  
「なっちゃん、創一郎くんのこと、そんなに……」  
何でも無い振りをしてみせる那智子に戸惑いながらも、青葉が口を開く。  
しかし、那智子はその隙を与えなかった。  
「でもね、御堂が青葉のことどれくらい好きか証明してくれたら、御堂のこと、きっぱり諦めるから」  
「……おま、何を」  
何を言ってるんだ? 走ってくるダンプトラックに飛び込めってか? ……我ながら古いな。  
「ってわけで、はいこれ」  
花壇から、那智子がぱっと何かを取り上げて俺に突き出した。  
 
花束だ。  
花の中に花で、今の今まで気がつかなかったが、それは立派なものだった。  
「どうしたんだこれ?」  
「昨日注文しといたんだけど。で、さっき花屋さんに届けてもらった」  
だから昼飯食いに行かず残ったってわけか。全く、それならそうと……。  
「ってわけで、青葉が歌い終わったら御堂が渡して。好きなんだもん、出来るよね?」  
「ちょ、ちょっと待て。それは無しだろう」  
そんな俺を、那智子は平然と無視した。  
困惑しきった青葉の横に、那智子はそっと近づく。  
「ごめんね青葉……これで、御堂のこと諦められると思うんだ」  
「……なっちゃん」  
俺は手渡された花束と、那智子を見比べている。  
華麗に俺を無視しやがって。  
このままじゃ、どうにも納得いかなかった。お返しをするのが礼儀ってものだろう。  
「おい、青葉」  
振り返った青葉に、俺は目配せする。それだけで、青葉は全てを察したようだった。  
青葉もいたずらっぽく目を細めた。よし。  
「那智子、こっち向け」  
振り返る那智子に向かって、ポケットの中から小さな箱を取り出し、放り投げる。  
慌ててそれをキャッチする那智子。  
「……何? これ」  
「素敵な花束のお返しだよ。開けてみ」  
いぶかしげな顔をしながら那智子はその紙箱を開ける。  
小さなロザリオが、那智子の手のひらに滑り落ちた。  
「…………え、これって……」  
今度は那智子が戸惑う番だった。手の中のものと、俺たち二人を交互に見比べる。  
青葉が、制服の下から自分のそれを取り出し、那智子に見せた。  
「ほら、おそろいだね」  
笑う青葉に、那智子は困り顔だ。  
助けを求めるように、俺の方に視線を向ける。仕返しとばかりにそっぽを向く。  
「それなら校則にもひっかからねえだろ? だから毎日つけてろよ。命令だからな」  
「でも…………でも、これって御堂と青葉の……」  
「つけるの、イヤ?」  
青葉の泣き出しそうな目に勝てる人間は、どこにもいない。  
俺はもちろん、同じ女の子だって。  
那智子は諦めたように、一つうなづいた。  
「……ありがと。大事にする」  
黙ってそれを首から下げ、青葉に掲げてみせる。これでいいか、とでも言うように。  
青葉はそれを見て本当に嬉しそうに笑った。  
「さてと。私も席に戻るか」  
那智子は踵を返して歩き出す。  
少し歩いたところで、那智子は何かを思い出したようにくるりと向き直った。  
「あ、でもこんなのもらっちゃったら、また御堂のこと好きになるかもよ、青葉?」  
「え? やっ……そんなの、ダメっ」  
青葉のあげた抗議の声に、那智子の大きな笑い声がかぶさった。  
 
 
――まぶしいばかりに明るい舞台の上で、少女たちが賞賛の拍手を浴びている。  
指揮者にうながされ、ソロで歌った数人の少女が前に進み出る。  
その中に青葉もいる。  
歌い終えた興奮が醒めないのか、少し頬を紅潮させ、おじぎしている。  
歌い手たちのおじぎに合わせ、拍手がひときわ高く鳴り響く。  
俺は、花束を手に黙って席を立った。  
ふと、隣を見る。  
「……頑張れ、御堂」  
那智子がにこにこと手を振っている。  
「アイデアは僕ですけど、僕を恨まないでくださいよ?」  
望月はいつもと変わらない柔和な笑みをたたえて俺を見ている。  
「大枚二千円も取られたんだからな、さっさと行きやがれ」  
和馬はちょっと拳を挙げ、親指を立てて見せた。  
「ほら、拍手終わっちゃうわよ」  
陽子さんのささやくような声に、俺は一つうなづく。  
大胆な足取りで、客席の中を行く。  
ためらうことなく、ステージ目指して、青葉を目指して。  
そう、俺はもう二度とためらわない。  
青葉がいるところ、それが俺のいるべき場所だ。  
俺を見つけた青葉が、微笑むのが見えた。  
 
 
(終わり)  
 

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