数日後、俺は商店街で買い物をしていた。
相変わらず青葉や那智子と出くわすこともなく、和馬は部活で忙しい、そんな平穏な日々が続いていた。
俺はその日、スーパーの特売のカップラーメンを買うために商店街に出向いていたのだが。
かご一杯のカップ麺を持ってレジに向かおうとすると、突然俺は呼び止められた。
「創ちゃん」
その懐かしい呼び方に、俺は慌てて振り返る。
「陽子さん」
立っていたのは、青葉の母親の陽子さんだった。
俺の顔に笑顔が浮かぶ。陽子さんも懐かしげに俺を見つめている。
「お久しぶりです」
俺が頭を下げると、陽子さんはぷっと吹き出した。
俺は怪訝な顔つきで陽子さんを見る。
「俺、何か変なこと言いました?」
そう言うと、陽子さんは笑いながら首を横に振った。
「ううん。創ちゃんがそんな風に挨拶するとは思ってなかったから、ちょっとおかしくってね」
「いや、いつまでも幼稚園児ってわけじゃないんですから」
陽子さんはそれでも笑っている。つられて俺も少し笑う。
小さい頃、俺は引っ込み思案な青葉のほとんど唯一の遊び相手だった。
だから陽子さんも俺を実の息子のように可愛がってくれた。
俺の両親は共稼ぎだから、夜遅くなるとき、俺はよく青葉の家で晩御飯をご馳走になった。
青葉と陽子さんと三人でお風呂に入ったこともある。
俺が泰山に入学すると、青葉の家に行く事もめったになくなり、陽子さんにも会わなくなったが。
でも、今目の前にいる洋子さんは、やはり俺が小さかった頃の陽子さんのままだ。
本当はもうすぐ40のはずなんだけど、とても若々しい。
「創ちゃん、ちゃんとご飯食べてる? ラーメンばっかり食べてるんじゃないの?」
「そんなことありませんよ」
俺のカゴを見て、陽子さんが不安げに言う。
「……ねえ、この後、暇?」
「ええ、暇ですけど?」
陽子さんがぱっと華やいだ笑みを浮かべる。
「うちにきて、お茶していかない?」
それは、俺にとっても嬉しい提案だった。
そういうわけで、俺たちは買い物を済ませると一緒に古鷹家へと向かった。
「そういえばねえ、創ちゃん」
ダイニングキッチンでお茶してたら、陽子さんが突然真剣な顔をした。
俺は思わず姿勢を正す。
「最近、青葉に新しいお友達が出来たみたいなの。知ってる?」
俺はすぐにピンと来た。
「ええ、北星高の望月でしょ。俺も会いましたよ」
「あら、そうなの?」
陽子さん、本当に驚いたように目を丸くしている。
それからやーね、と言ってちょっと笑った。
「てっきり『青葉が浮気してる!』って創ちゃんが怒るかと思ったのに」
「あー、いや、何ですかその『浮気』ってのは」
訂正しなくちゃいけないのはそれだけじゃないが、それ以外もどう突っ込んでいいのやら。
「だって、小さいときから創ちゃんと青葉は一緒だったじゃない?
だからいつかきっと恋人同士になると思ってたのよ。
そしたら、最近は何だか別の男の子の話ばっかりするし、結構楽しそうだし……」
へえ、と俺は感心してしまった。
青葉が望月の事を陽子さんに話しているのも意外だったが、ちゃんと友達づきあいしてるのも驚いた。
「残念ねえ……私、創ちゃんが青葉と結婚して、私のこと『お義母さん』て呼ぶのを楽しみにしてたのに」
「いや、そんなこと決められても……」
ウチの親も昔言ってたな。『早く青葉ちゃんを嫁に迎えて、正式に娘にしたい』って。
まあ、親が盛り上がるのは勝手だが、当人同士の気持ちってものも考えて欲しい。
……なんて、冷静に思えるようになったのも最近だ。
以前なら顔を真っ赤にして反論してた。もちろん青葉も。
今から思えば、そうやって俺たちを互いに意識させる作戦だったのかもしれない。
でも、俺たちが違う学校に通い物理的に離ればなれになると、親からもそんな言葉は出なくなったが。
「あの子、創ちゃん以外の男の子とは口も聞けなかったのにねえ……」
陽子さんが感慨深げにつぶやく。
俺以外の男と話が出来るようになる、それって良い事なんじゃないのかと思うのだが。
自分の娘が成長していくのにも、なにかしら寂しさを感じるものなんだろうか。
もちろん人の親になった事のない俺には知りようもない。
「あ……でもねえ。青葉もぼーっとしているようで、色々考えてるのよ、創ちゃん」
陽子さんがふっと沈んだ表情を見せたかと思ったら、またにっこりと笑みを浮かべた。
「ねえ。一週間ぐらい前、青葉が創ちゃんに私のお弁当持っていったでしょ?」
陽子さんはそっと身を乗り出してくる。まるで秘密の話でもするように。
「あれね、実は私が作ったんじゃないの」
陽子さんがさも一大事件のように言うから、俺は笑ってしまいそうになった。
俺は、ははぁやっぱりか、としか思わなかったけど。
わざと驚いたふりでもしようかとも考えたが、止めておいた。
何とまあ、和馬のあてずっぽうが当たるとはね。
俺は皮肉な笑みを浮かべた。
陽子さんはそんな事に気づかないようで、俺にそっとささやいた。
「実は、あのお弁当ねぇ……那智子ちゃんが作ったのよ」
はいはい、やっぱり青葉の手作りなんですね……って、はい?
何だって?
「あの、陽子さん? 今なんと……」
「だから、那智子ちゃんが作ったの。ちょっと前にね、私のところに来て
『御堂くんの好みの味付けが知りたいから、教えてください』って。
で、青葉も一緒になって私に頼むから、教えてあげたの。
あの日も朝早くうちに来て、一生懸命作ってたのよ?」
そう言って陽子さんは俺の目をじっと見た。
な、何で那智子が俺の好みなんて知りたがるんだ?
え、まさかそれって……。
「言ってる意味、わかるわよね」
当然とでも言いたげな様子で、陽子さんは俺を軽く睨んでいる。
俺の口が答えを吐き出そうとして、ためらう。いや、まさか。
俺が答えるより先に陽子さんが口を開いた。
「……那智子ちゃん、創ちゃんの事が好きなんだって」
俺、一瞬息が詰まる。
そんな。
そんな馬鹿なこと、あるわけない。
……だって、那智子はいつも俺に突っかかってきて、喧嘩ばかりして……。
俺を青葉のお邪魔虫みたいに言ってるじゃないか。
それなのに、『好き』だって? 俺の事が?
俺の頭の中で、『好き』、その単語だけがぐるぐると回る。
何をどう考えて良いのか分からない。
その時、俺は相当間抜けな顔をしていたらしい。
陽子さんはちょっとむっとしたようだった。
「……やっぱり、気づいてなかったのね。全く、創ちゃんは肝心な時に鈍感なんだから」
そう言われても、混乱した俺はどう答えていいか分からない。
確かに、全く気づいていなかった。
俺は、青葉の友達だから仕方なく那智子と付き合っていたつもりで……。
当然那智子もそんな気持ちなんだろうと思っていた。
でも。
冷静になって振り返ると、いくつか思い当たる事がある。
『お弁当……おいしかった?……良かった』
『なっちゃん、今日だけは創一郎くんと喧嘩しないって、約束したじゃない』
『創一郎くんも駄目だよ。もっとなっちゃんを女の子らしく扱ってあげなきゃ……』
『今日は、創一郎くんとなっちゃん、喧嘩しなかったね』
そんな青葉の言葉が次々と蘇る。
そうか、そうだったのか。
まだ頭の中は真っ白だったが、俺はようやく一言だけ口を聞く事が出来た。
「青葉も……この事は知ってるんですね?」
陽子さんが静かにうなづく。
「那智子ちゃんが、青葉に相談したんだって。大好きなのに、どうしていいか分からないって」
「そう……ですか」
俺は黙ってうつむく。
馬鹿だ、俺は。
青葉の恋愛をリードしてやるつもりで、逆にリードされてたことにも気づかないなんて。
俺はあいつを子供扱いして、保護者気取りで。
そのくせ、肝心なことは全部青葉に押し付けていた。『自分で考えろ』って言って。
でも、青葉は。
自分の悩みだけじゃなく、親友のこともちゃんと考えることが出来て、デートのお膳立てして。
望月の事で頭が一杯だったろうに、そんな様子も見せずに。
昨日までの思い上がった自分を、張り倒してやりたかった。
俺は思わず尋ねていた。
「陽子さん。俺は……俺は、どうしたらいいんでしょう」
「……それは、創ちゃんが決める事じゃないの?」
陽子さんの言葉に俺はまた頭を殴られたようなショックを受けた。
ああ、俺は最低なヤツだ。
青葉には自分で決めろと偉そうに言っておきながら、いざ自分の事になれば陽子さんに泣きついてる。
陽子さんの口調が、ふっと緩んだ。
「……すぐに答えを出しなさいって言ってるわけじゃないのよ。
那智子ちゃんの気持ち、受け止めてあげられるなら、そうしてあげなさいって言ってるの。
それまでは、普段どおりにしてたらいいのよ」
そう。
俺も青葉にそう言った。
それを青葉は「冷たい」と責めた。
初めて俺は青葉の言った意味が分かった。
……俺が何にも分かってないガキだってことが。
俺は、ショックで動く事も出来なかった。
陽子さんが優しい声で、お茶冷めたから代えるわね、と言った。
そして俺は、その冷めたお茶の入ったコップをじっと見つめていた。
その時。
玄関のドアが開く音がして、ただいま、とあいつの声が聞こえた。
青葉が軽やかにダイニングに入ってくる。そして俺を見つけて驚いたような声を上げた。
「創一郎くん、来てたの?」
嬉しそうに微笑む青葉に、俺はああ、と短く答える。
新しく淹れたお茶を持って、陽子さんがキッチンから出てきた。
「あら、今日は部活じゃなかったの?」
「うん、ボイトレ(ボイストレーナー)の先生が急に来れなくなったから、早く終わったの」
青葉はそう言いながら、戸棚から自分のコップを取り出している。
「もうすぐ文化祭なのに大丈夫? 練習間に合うの?」
「大丈夫だよ。歌う曲はコンクールと同じ曲だから、結構練習してるし」
そう言って青葉は俺の隣に座る。
「そうだ、創一郎くんも聞きに来てね、文化祭」
快活な青葉に俺はぎこちなくうなづく事しか出来ない。
なんだ、俺。青葉にまで動揺してるのか、情けねえ。
「青葉、一年生でソロに抜擢されたのよ、創ちゃん」
「ソロ?」
俺が陽子さんに尋ねると、代わりに青葉が答えてくれた。
「もー、お母さん大げさに言いすぎ。アンコールでちょっと歌うだけだよ」
「それでも先輩を差し置いて選ばれたんだから、すごいじゃないの」
どうやら青葉が独唱するらしい。俺はぜひ聞きに行こうと思った。
「青葉、楽しみにしてるぜ、お前の一人舞台」
青葉、はにかんでいる。俺はそんな青葉の頭を撫でてやった。
「そういえば、創ちゃんの学校ももうすぐ文化祭ね」
陽子さんが突然思い出したように言った。
「中学校以来、創ちゃんの文化祭も見てないわね。ねえ、いつなの?」
「ええと、再来週の土日ですけど……」
俺の答えに、陽子さんは楽しそうにぽん、と一つ手を叩いた。
「じゃあ、見に行っていいかしら? 青葉も一緒に」
その言葉に、青葉の顔もぱっと輝く。
「うん、私も見に行きたい! あ、そうだ、なっちゃんも誘っていいかな?
一度男子校の文化祭、見てみたかったんだって」
たぶん、それは今青葉が思いついた理屈なんだろうな、と俺は思った。
那智子が男子校の文化祭を見たがる理由が無いし。
本当に行きたい理由があるとすりゃあ……俺だよな、当然。
複雑な気分で、俺は黙り込む。
「ね、いいよね……?」
黙ったままの俺に、青葉は少し不安そうな顔を見せる。
俺は、横目で陽子さんをちらりと見た。
黙ってうなづく陽子さん。
「……ああ、三人で来いよ。俺が案内してやる」
俺がそう言うと、青葉はやったぁ、と嬉しそうな声を上げた。
「私、なっちゃんに電話してくるね!」
そう言って、青葉は廊下にある電話へと駆けていく。
俺は心の中でぼんやりと納得する。
そうか。
それが、青葉の願いなのか。
青葉は、俺と那智子に付き合って欲しいんだな。
そう分かった瞬間、俺はなぜか無性に悲しくなった。
静かにお茶に口をつける。
陽子さんの淹れてくれたお茶が、妙に苦かった。
(続く)