泰山高校の文化祭当日。
俺は少し落ち着かない気持ちで青葉たちを待っている。
それは……たぶん、泰山という俺の日常世界を覗かれる不安なんだろう。
和馬に言わせりゃ、普段の行いがやましいからそう感じるんだそうだ。
さて、男子校の文化祭に臨む気持ちは二つしかないと俺は思う。
一つは「出来るだけ盛り上げて、女の子も一杯来てもらって、あわよくば彼女ゲット」
もう一つは「面倒くさいから適当にお茶を濁しておこう。彼女ゲットする甲斐性もないし」
で、俺たちのクラスは圧倒的に後者。
ちなみに俺たちのクラスの出し物は「射的場」だ。
射的場にしたのは、「輪ゴム鉄砲10個ほど作って、的しかけりゃ終わりだから楽」だから。
典型的な駄目出し物……のはずだったんだが。
まず、男子校ならクラスに必ず一人入るガンマニアが妙にやる気を出した。
最初は電動エアガンを持って来ようとしたんで、「危険だから止めろ」と俺たちは言った。
するとそいつは輪ゴム鉄砲、銀玉鉄砲からピン球を発射するバズーカまで、ありとあらゆる「武器」をかき集めやがった。
そうしたら今度は漫研部員が、「的は世の中のにくいヤツの似顔絵にしよう」とか言い出して。
最終的に俺たちの射的屋は「晴らせぬ恨みはらします。必殺射的屋家業」というわけの分からんものになっていた。
つまりどういうことかというと。
的は「最近パクリがばれた歌手」「売春で失脚した政治家」「税金の無駄遣いと叩かれてる万博のマスコット」などなど。
それを好きな得物でひたすら穴だらけ、木っ端微塵にするという悪趣味企画なのだ。
お金さえ出せば、その場で例の漫研部員がお好みの似顔絵を書いて的にするというサービス付きだ。
「見られたくねえ……」
頭を抱える俺をよそに、俺たちのクラスは割りと盛り上がっていた。
まあメインの客はお子様なんだけど。
そんな暗い気分でクラスの入り口で青葉たちを待っていると、来た。
青葉、那智子、それに陽子さん。
すぐに俺を見つけると、青葉は手を振りながらこっちに走ってくる。もう一方の手で那智子の手を引きながら。
「創一郎くんっ!」
でっかい声出すな。廊下を歩く人が振り返ってるじゃねえか。
パタパタと俺のところに走りこむと、肩で息をしながら俺に微笑む。
「ごめんね、支度するのに時間かかっちゃって」
「たかが文化祭だろ、何に時間がかかるんだよ」
俺はつっけんどんに言い返す。学校で青葉と那智子に会う、それが妙に恥ずかしいからだ。
「女の子はね、ちょっと出かけるにもたくさん準備がいるのよ。そんなことも分かんないわけ?」
突っかかってくるのは那智子だ。
「そ……そうかよ」
普段どおりに返そうとしても、俺はどぎまぎする。
那智子は、俺の事が好き。
それを知ってから初めて会う那智子。
普段どおりの那智子なのに、俺の方は普段以上の「女の子らしさ」を、知らず知らず感じてしまう。
「ところで。ねえ、なっちゃんカワイイでしょ?」
そう言って青葉は那智子を俺の方に押し出す。
那智子の私服はパンツルックが多いが、今日は違った。
上はTシャツにブルゾンといつも通りだが、下は……膝上丈のミニスカートに、黒のニーソックス。
短いスカートから伸びる、すらりとした曲線を見せる那智子の脚。
俺は思わずじっと見つめてしまう。
「……じろじろ見るな、スケベ」
笑いながら那智子が俺の体をちょっと突く。俺は顔を赤らめ、目をそらした。
「そ、そういう青葉は、いつも代わり映えのしねえ格好だな」
照れ隠しに俺は青葉に絡む。薄いオレンジのフレアスカートに白いブラウス。そして、いつものお下げ髪。
俺と遊びに行くときの定番の格好だ。
望月と会うときは、どんな格好をするんだろう。俺は何か居心地の悪い感情を覚える。
「そ、そんなことないもんっ。このスカートこの前買って、着るの今日が初めてだもん」
「いや、そーいう意味じゃねえんだって」
俺はさらに馬鹿にしたように言う。
だが、それが那智子の方をまともに見れないからだってこと、俺はよく分かっていた。
青葉、ごめんな。俺は心の中で頭を下げる。
「ほらほら、喧嘩しないで。今日は案内よろしくね」
陽子さんがようやく到着し、俺と青葉の間に入ってくれる。
正直ほっとした。今の俺は那智子に動揺してて、青葉を泣かすまでからかいそうだから。
教室に入ったとたん、中の空気がざわめいた。
お子様相手にやる気のない愛想笑い浮かべていた奴らが、突然俺たちの方に目を向ける。
確かに青葉はカワイイし、那智子もいけてる方だし、陽子さんも美人だが。
明らかに俺が「場違いなポジションにいる」と言いたげなヤツがちらほら。
ああそうかい、俺が女連れだとそんなにおかしいかい。
「あ、初芝くんだ」
会計のところにいた和馬に、青葉が嬉しそうに駆け寄る。那智子もそれに続く。
和馬は会計と銃の貸し出しを引き受けている。
背後に銃を並べ、小型金庫を置いたテーブルに座った魔○加藤。何と言うか、闇の武器商人といった風情だ。
「ああ、いらっしゃい。ま、のんびり遊んでいってよ」
和馬はそう言ってのんきに二人と何かしゃべっている。
俺はそれを少し離れたところからぼんやりと見ている。
「……駄目ね、創一郎くん。那智子ちゃんのことで色々考えてるでしょ?」
「分かりますか」
そりゃあね、と陽子さん。俺はあきらめ気味のため息をついた。
「そりゃ、本人を前にしたら緊張もするでしょうけど、気にしちゃ駄目よ」
「そう言われても……」
俺は人を好きになった経験も乏しければ、人に好きと言われたこともない。
好意を寄せられるってこんなにプレッシャーなのか、というのが正直な感想だ。
「あのね、那智子ちゃんがはっきり告白しないってことは、まだ心の準備が出来てないからなの。
あるいは、那智子ちゃんは創一郎くんとの今の関係を壊したくないのかもしれないけどね。
とにかく、それなら創一郎くんが無理に距離を縮めようとしなくていいの。
……それとも、那智子ちゃんが嫌いだから、さっさと振ってしまいたいわけ?」
「いや、そういう訳じゃないんですけど。……大体、陽子さんが秘密をばらすから、こんなに悩んでるんですよ?」
抗議しておく必要があると思って、俺はちょっと陽子さんを睨む。
それを陽子さんは済ました顔で軽く流した。
「だって、那智子ちゃんにも青葉にも『黙ってて』とは言われなかったもの。
それに、鈍感な創ちゃんと、不器用な那智子ちゃんじゃ、百年たっても一歩も前進しないだろうしね」
同意を求めるように俺の方に首をかしげる陽子さん。反論できず俺は黙り込んだ。
いつも通りに、と陽子さんは言うけれど、俺は「那智子とのいつも通り」がどんなのだったのかも思い出せない。
目の前にいる女の子、那智子は俺の事が「好き」。その事だけが俺の頭を占領してる。
いっそ知らなきゃ、楽だったのに。俺は陽子さんを恨んでしまいそうだった。
「それで、どういう出し物なの?」と陽子さんが聞いてきたので、俺は口ごもる。
困っている俺の代わりに和馬は淡々と射的場の説明をした。
陽子さんがいたずらっ子をとがめるような目で俺と和馬を見る。照れ笑いを浮かべる俺たち二人。
「もう……。男の子って、そうやってすぐ悪いこと考えるのね」
「校長先生の写真まで的にしちゃって……怒られないの?」
困ったわね、と言いつつ笑っている陽子さんに対して、青葉は真剣に俺たちを心配している。
真面目なクリスチャン校であるマリア・マッダレーナでやれば生徒指導室に呼び出されるだろうが。
そこはそれ、「自由な校風」を売りにする我が泰山の校長は度量が広い。
諦めてるだけかもしれないけど。
そんな中、那智子だけが妙に浮かれながら射的用の銃の品定めをしていたが、
「そんなことよりさあ、わたしこれ、これがいい」
そう言って手に取ったのは、並んだ銃の中で一番デカい、スポンジ弾を発射するショットガンだった。
「……那智子らしいと言うか、何と言うか」
思わず俺がそう言うと、那智子はぎろっと俺を睨む。
ガツッ!
いてっ! ……黙って足を踏みつけられた。
「あーら失礼。そんなところに御堂さんのお御足があるとは気づきませんで」
そう言ってほほほ、とお嬢様笑い。
「お前なあ……ちょっとは心に余裕ってものをだなあ……」
俺が痛みに耐えていると、陽子さんが俺の方を見ているのに気づいた。
黙ったまま、「その調子よ」と陽子さんの口だけが動く。
いや、この調子だと、文化祭が終わる頃には俺は傷だらけじゃないだろうか。
とまあ、すったもんだのあげく。
那智子はショットガン、陽子さんは吸盤付きの矢を発射するボウガン、青葉は縁日で使うコルク銃を選んだ。
命中率に応じてお菓子が出ると聞いて、三人は勇んで射撃ブースに向かう。
そんな様子を俺は和馬と見ている。和馬がちらりと俺を見上げた。
「……那智子さんと何かあったのか」
相変わらず鋭い……。お前ならそのうち銃で撃たれても、「光のツブテ」を見て回避できるようになるかもな。
「何で分かる」
何もないと言ってもごまかせないと悟って、俺はそう問い返す。
和馬も「何があったのか」は聞いてこない。俺が言わないことぐらいは分かっているらしい。
「いつもより那智子さんに優しい。言葉が柔らかい。遠慮がある。……それに視線が泳いでる」
和馬は指折り数えて見せた。全く図星で、俺は黙るしかない。
「話たくないなら、これ以上は聞かないぞ。ま、女の子に優しくするのは悪い事じゃないし」
俺は和馬の好意に甘えさせてもらうことにした。那智子の事を和馬に話していいのか、俺も決めかねてる。
「ねえ、創一郎くん!」
突然青葉が俺を呼んだので、俺は我に帰った。
「私だけ全然当たらないよー。ねえ、どうしてだと思う?」
俺はゆったりと青葉の横に立った。
青葉がぷうっと頬を膨らませながら、的の方を差している。
「全然当たらないんだよ? ねえ、創一郎くんこういうの得意だよね?」
「得意って、何を根拠に」
「縁日の射的、上手だったじゃない」
青葉と縁日に行ったのなんて、小学校三年生のとき以来だ。よく覚えてやがる。
「……とりあえず、撃ってみ」
俺がそう言うと、青葉はうん、とうなづいてコルク銃を構えた。
これ以上入ってはいけないラインぎりぎりから思い切り身を乗り出して、的を狙っている。
一目見て、こりゃ駄目だと思う。
そもそも身長が低いから銃は的に全然近づいてないし、腕力がないから銃はプルプルと震えている。
「とりあえず、片手撃ち出来ないなら、無理するなよ」
「でも、それだと的から遠くなっちゃうよ」
別に縁日の射的みたいに倒す必要はなく当たればいいんだから、身を乗り出して撃たなくてもいいんだが。
まあそれでも青葉の腕じゃ的に当てるのも一苦労だろうな。
「よし」
俺はちょっと考えると、青葉の後ろに立った。
そして、青葉のお腹の辺りを両手でぎゅっと抱いた。
「そ、創一郎くん!?」
驚いて青葉が振り返る。
「俺が支えててやるから、両手で持って撃ってみ」
俺は淡々と言う。
青葉の体なんて触り慣れてる。いまさら恥ずかしがるほどのことはない。少なくとも俺は。
「う、うん……」
顔を少し赤らめながら、青葉は倒れこむようにして身を乗り出す。
俺は腕に力を込める。青葉の柔らかい体の感触が、手に伝わってくる。
いまさら恥ずかしがる事はない……はずなのに、俺の顔も少し熱っぽい。
昔はガリガリだったくせに、今はなんでこんなにふわふわしてやがるんだ、青葉の体は。
ブラウス越しにも青葉の体温を感じる。手の中で少しへこんでいるように感じるのは、青葉のおへそだろうか。
突然、生々しく青葉の裸を想像してしまい、俺はうろたえる。
昔と違って、しっかりと張ったお尻、なだらかな曲線を描くお腹、小さなへそ。そしてその上に連なる……。
馬鹿莫迦ばか。俺は何を想像してるんだ。
変な妄想を頭から振り払うように、俺は頭を何度か振った。
「やった、やった! 創一郎くん、当たったよ?」
青葉が嬉しそうに俺に振り返る。ちょうど最後の一発が、見事に的に当たったところだった。
「……ふん。よかったな、俺に感謝しとけ」
そっと青葉の体を起こす。青葉は俺の言葉に何度もうなづいている。
俺は今まで想像していたことを知られるのを恐れるかのように、そっぽを向いた。
もちろん青葉は俺のそんな様子に気づくはずもなく、景品のチュッパ○ャップスをもらってはしゃいでいる。
「ねえー。御堂ー」
那智子の声に、俺は振り返った。
「私もさー、何だかうまく当たんないんだけど」
そう言って那智子は手に持ったおもちゃのショットガンを振る。
俺は思わず周りを見渡す。陽子さんと目が合う。
陽子さんの目が、優しく俺を励ましているように思えた。
平静を装い、俺はゆっくりと那智子の側に寄った。
「じゃあ、とりあえず構えてみろよ」
俺は出来るだけ青葉と同じ態度になるよう注意しながらそう言った。
うん、と頷いて那智子は銃を構える。
「……とりあえず、ストックは脇に挟むもんじゃないぞ。鎖骨と上腕骨の間の筋肉に当てろ」
那智子が首をひねる。
「うーん、よく分かんない。何『ストック』って?」
俺は那智子の握っているショットガンの台尻を叩きながら説明する。
「ここだよ、銃の後ろのここを、体のこの部分……」
と言って、俺は自分の鎖骨と上腕骨の間のあたりを触れながら言う。
「この骨の間に当てるんだ。そうしないと狙ったところに飛ばない」
そう言われても那智子は顔をしかめたままだ。
「……口で言われてもよく分かんないよ。もう一回構えるから、御堂直して」
そう言うと那智子はまた銃を構える。
仕方なく俺は那智子の横で、姿勢を直す事にした。
「だから、脇に銃を挟むんじゃなくて、こう、肩のところに……」
「……こう?」
「違う違う、肩に担ぐんじゃなくて……ああ、もう違うって!」
思わず俺は那智子の後ろから両手を回し、ショットガンを構えさせていた。
「だから、こうすんだよ」
そう言ってから、俺はこの体勢がえらくヤバイことに気づく。
体はぴったり密着し、両手は銃を持つ那智子の手を握っている。俺の顔のすぐ前に、那智子の頭がある。
腕が後ろから絡んで、まるで抱きしめているような……。
その時、俺はふんわりと那智子の髪から、いい匂いがするのに気づいた。
男の体臭とは全く違う、女の子の匂いが。
それは、俺が今までかいだ事のない爽やかな匂いだった。
……香水じゃないな、シャンプーか?
女の子ってこんなにいい匂いがするものなのか?
それとも、今の青葉もこんな匂いがするんだろうか?
その瞬間、さっきの青葉の裸の想像、そして那智子が風呂に入り頭を洗う姿が頭をよぎった。
俺の体に異変が起こる。……いや、俺も男の子だからさ。
まずい。こんなことに気づかれたら、洒落にならない制裁を……。
慌てて俺は那智子から離れる。
だが、那智子は何事もなかったかのようにおもちゃのショットガンをぶっ放していた。
「おっ! やった。これで三発命中っ。御堂、ありがと」
振り返りながら微笑む那智子を見て、俺は「ああ」と、どもりながらも返事をする。
そんな俺を見て、那智子はもう一度にっこりと笑うと、的の方に向き直った。
そんなわけで、三人は全弾撃ちつくし、それぞれの成績に応じた駄菓子を手に入れた。
陽子さんが一番うまかったのには全く驚かされたが。
「さて、これからどうしようか?」
陽子さんが俺たちを見ながら言う。
「さっき校門のところで、特製パフェが食べられる喫茶店があるって聞いたんだけど」
「あ、それいい。とりあえずお茶しようよ」
青葉と那智子はそう言って頷きあっている。
「……創ちゃんは、それでいい?」
陽子さんの問いかけに俺は黙って首を縦に振る。
陽子さんも、女の子のように笑った。
「それじゃ、みんなでパフェ食べに行こうか」
おー、と青葉と那智子が腕を振り上げ、教室から飛び出していく。
俺と陽子さんはそれをゆっくりと追いかける。
振り返ると、まだ当番の時間に当たっている和馬が、会計テーブルの向こうから手を振った。
「がんばれよ」そう口が動くのが見え、俺は軽く手を挙げて、教室を出た。
男子校の文化祭に臨む気持ちは二つしかないと思う、と俺は言った。
一つは「盛り上げて、あわよくば彼女ゲット」で、もう一つが「彼女ゲットする気もないし、適当にお茶を濁そう」。
どうやら「パフェが売りの喫茶店」などというものを開いたクラスの考えは圧倒的に前者だったらしい。
青葉と那智子が入ってきたときの目の輝きようで分かった。
そしてその後から俺と陽子さんが入ってきたときの落胆。特に俺を見たときの。
……ま、下半身の欲望に素直でよろしい、とも言えるが。
貴様らのようなヤツに青葉はもちろん那智子だって渡せるか、と思う。
いや、だからと言って俺が那智子と付き合うとかそういう考えは……。
ごめん、本心では「惚れられてちょっとおいしい」とか思ってる俺がいる。ああ、人の事言えない。
そんな俺の気持ちはさておき。
俺たち四人はテーブルに付き、ちょっと早いがお茶している。
パフェはちょうど三種類だったので、女性陣がそれぞれ別のパフェを頼み、俺はコーヒー。
青葉と那智子は、「味見」と称して自分のスプーンで互いに食べさせてあげている。
陽子さんもそれに加わって、楽しそうだ。
俺はそんな様子をぼんやりと見つめている。知らず知らずに顔が緩む。
「……どうしたの創ちゃん、にやにやしちゃって」
陽子さんが目ざとく俺の表情の変化に気づいた。
「いや、なんか、女の子同士って楽しそうだなあって」
「あら、私も女の子って呼んでくれるの? お世辞でも嬉しいわ」
陽子さんはありがとう、と言いながら笑った。その様子は本当に女の子みたいだ。
「お礼に、創ちゃんにも一口食べさせてあげるわね」
そう言うと陽子さんは自分のヨーグルトパフェを一匙すくって俺の方に差し出した。
「はい、あーん」
陽子さんの屈託のない様子に、俺は戸惑う。
「いや、あのさすがにそれは……他の人の目もありますし」
俺の言葉に、陽子さんはちょっとつまらなそうに口を尖らせる。
「何よ、小さいときはよくこうやって食べさせてあげたじゃない。ほら、恥ずかしがらずに」
そりゃ、幼稚園児なら平然とできますけどね、今俺は15歳なんで……。
と言っても納得してくれそうにもないので、俺は仕方なく大口を開けてこちらから迎えに行く。
そして素早く、ぱくりと陽子さんのパフェを味わった。
ふむ。素人が作ったにしちゃ、なかなかうまい。結構研究してるな。
「どう?」「うまいっす」
陽子さんはまた楽しそうに微笑む。
「なんだか、お父さんと付き合ってた頃を思い出すわ。若かったわねぇ……」
ふふ、と微笑みながら少し遠くを見つめる陽子さん。
こういうと、今では冷め切った夫婦みたいだが、青葉の両親は今でもかなりの熱々ぶりだ。
青葉の父親は堅物で真面目な人だが、陽子さんの前では子供みたいだし。
「うらやましい。おばさまとおじさまって、理想の夫婦だな……」
那智子の何気ない台詞に、俺はどきりとする。いや、たぶん過剰反応なんだろうが。
その言葉の裏にあるものを俺は無意識に想像してしまうんだ。
その時。
「何よ。こっちをじーっと見て。私のパフェも欲しいの?」
那智子が振り向くと、鋭く言った。いつの間にか横顔を見つめていたらしい。
突然のことで俺が戸惑っていると、那智子はやれやれ、と首を振りながらため息をついた。
「仕方ないな、一口だけよ?」
違うと言う暇もなく、那智子は自分のフルーツパフェをスプーンですくって俺の口元に差し出した。
「ほら、味見させたげる」
いかにも、渋々、といった表情。
知らなかったけど、演技派だったんだなあ、那智子……。
そんな風に冷静に分析する一方で、俺は明らかに動揺していた。
視界の端に青葉の顔が映る。
ちょっと心配そうに俺たちのやり取りを見てる。
まさか、俺が「いらねえよ」とか言って那智子の手を払いのけはしないか、とか思ってるのだろうか。
さすがにそんな事は出来ない。でも、青葉の前で那智子と恋人ごっこするのも、抵抗があった。
なんて、ぐだぐだ考えていると。
「何ぐずぐずしてんのよ。ほら、アイス溶けちゃうわ」
那智子はそう言うと、半開きの俺の口に、強引にスプーンを突っ込んできた。
「ぶほっ!!」って思わず咳き込む俺。
それでも何とか、那智子のパフェを吐き出さずに済んだ。
ようやく全て飲み込んでから、那智子を冷たい目で睨む。
「げほっ、げほっ……お前な。もうちょっと優しくだな……」
「私との間接キスまでおまけについてんだから、文句言わないの」
しれっとして言う。
「か……」
「間接キス……」
俺が絶句していると、青葉がその後の言葉を継いでくれた。
何考えてんだ。みんなの前でそんなこと言うなんて……。
ほんと、那智子の気持ちが分からん。
俺はなんて答えて良いのか分からず、青葉もなぜだか赤面している。
陽子さんだけが、その様子を面白そうに見守っていた。
俺は困ったようにテーブルの上に視線をさまよわせる。
ほんのりと頬を染めた青葉が目に留まった。
「……おい、青葉」
「え、ええ、な、何?」
突然呼ばれて青葉が慌てる。こっちは少し分かりやす過ぎ。
「お前のも一口くれよ。どうせなら全部味見したい」
俺はさりげなくそう言ったのに、青葉は何故か硬直しちまってる。
俺の視線を避け、陽子さんと那智子の顔を交互に見比べてる。
そして、しばらくうつむいていたかと思うと、そっとパフェのグラスをこちらに差し出した。
半分ほど残った、食べかけのチョコパフェ。
「も、もう私おなか一杯だから、全部創一郎くんにあげるね」
そう言うと、また俺から視線をそらす。手には自分のスプーンを握ったまま。
「……おい、スプーン」
俺が言うと、青葉はちらっと俺の方を見るだけで、まともに目をあわせようともしない。
「コ、コーヒーのスプーンがあるじゃない。それでいいでしょ?」
そう言うとぎゅっと自分のスプーンを握りしめた。
デザートスプーンを渡す気はさらさらないらしい。
何なんだ? あ、まさか……。
俺は仕方なく、短いコーヒースプーンでパフェを食い始める。
グラスの底が深かったせいで、食い終わる頃には俺の手はべとべとになっていた
俺は恨めしそうな目で青葉を睨み、青葉はその視線に気づいて身を縮める。
それ以外は穏やかに、お茶の時間は過ぎていった。
「お前、さっきスプーン渡さなかったのはさあ」
俺は隣に座っている青葉に、何の前触れもなく話しかけた。
青葉、顔を真っ赤にしながらこっちを向く。
「那智子の『間接キス』意識しちまったからだろ?」
「そ、そ、そ、それは……」
俺はにやっと笑いながら、違うか? とでも言うように首を傾けて見せた。
俺の視線から逃げるように、そっぽを向く青葉。
ぺしっと俺の体を軽く叩く。照れたときいつもするしぐさだ。
「違うのかよ」
俺は追い討ちをかける。
「……そうだよ」
恥ずかしそうにうつむく青葉を見て、俺は噴き出す。
不満げに青葉が俺を睨んだ。
「笑わないでよ、もう」
「……だって、いまさら恥ずかしがるような間柄か、俺ら?」
手をつないだ事もある、お風呂に一緒にはいった事もある、同じ布団で寝た事だってある。
「キスも、幼稚園のときにしたじゃねえか」
確かおままごとしてたときだったかな。俺がお父さんで、青葉がお母さん。『行ってきますのちゅー』だった。
そんな関係の俺と青葉が、いまさら間接キスごときで照れたらおかしい。
「そ、そうだけど……。だって……なっちゃんいきなり変な事言うんだもん」
そう言って青葉はまた俺から視線を外し、目の前の風景に目を向けた。
俺たちは中庭のベンチに腰掛け、大勢の人でにぎわう出店を黙って眺めていた。
那智子と陽子さんは離れた校舎にある来客用トイレまで用を足しに行っている。
さすがに、「女子専用」と張り紙をしただけの男子トイレは気分的にイヤだったらしい。
そんなわけで俺たちは二人を待っている。
那智子がいないのを幸いと、俺はさらに青葉を追及する事にした。
「いまさら、同じスプーンぐらいで恥ずかしがるなって。
陽子さんじゃないけど、お前に『あーん』してもらった回数なんて数え切れないぜ?」
小学校のときなんて、給食でしてもらったな。青葉の嫌いな物を食ってやったときだったっけ。
「そうなんだけど、急にキスなんて言われたら、意識しちゃって」
「いや、相手は俺だぜ? キスしたことあるんだぜ?」
「うん、それは分かってるんだけど、普段男の子とあんまりお付き合いないし……。
……それに、幼稚園のときの『ちゅー』なんて、もうどんなだったか忘れちゃったよ」
ますますもじもじと身を小さくする。
青葉の女子校生活は中学から数えて既に3年と6ヶ月以上。男との付き合い方忘れてしまったのかもな。
でもその割には、陽子さんによれば、望月とは仲良くやっているようだがなあ。
ふとその事を思い出し、俺は興味本位で聞いてみる事にした。
「男の子って言えばさあ、望月とはどうなってるんだ?」
俺はてっきり青葉がまた顔を赤らめながら、おずおずと答えるもんだと思っていた。
だから、俺がそう尋ねたとたん、青葉がさもおかしげに笑ったのは、ちょっと意外だった。
「なんで笑う」
「……ごめん、ちょっと思い出しちゃって。……ねえ、創一郎くん、オペラって見た事ある?」
青葉が笑いをかみ締めて尋ねた。
「オペラ? オペラっつーと、あのデブなおばちゃんが甲高い声で歌うやつか?」
「なんか、すごく偏ったイメージだけど……。うん、そのオペラだよ」
そんなものあるわけない。恥ずかしながら我が御堂家は庶民も庶民。そんな高尚なもんとは縁がない。
クラシックは「じゃじゃじゃじゃーん」のベートーベンさんぐらいしかご存じない。
しかしオペラの何がそんなにおかしいのか。
青葉は口を両手で押さえながら、笑いを必死にこらえている。
「望月くんね、みんなで遊園地行った次の日か、そのまた次の日ぐらいに電話してきて、
『古鷹さん、いっしょにオペラを観に行きませんか?』って……いきなり、だよ?」
青葉はおどけた風に俺を見た。目が、笑っている。
それにしても。
そりゃまた、えらくぶっ飛んだお誘いだこと。
二回目のデートがオペラ鑑賞とは……なんか、映画で見たシチュエーションだな。
「マイ・フェア・レディ」? いや「プリティ・ウーマン」だったか? 確か青葉と中学の頃見たヤツだ。
俺が記憶の引き出しをひっくり返している間も、青葉は笑いながら話し続けた。
「私もびっくりしてね、『そんなところに行くような服、持ってませんから』って」
うん。確かにそうだろう。
青葉の家はなかなかに裕福だが、15の娘にイブニング・ドレスを買ってやるほどじゃない。
だが、俺は無意識に想像していた。
黒のタキシードに身を固めた望月が、背中の大きく開いたワインレッドのドレスを着た青葉をエスコートしている。
二人がリムジンから優雅に降りてくるシーンが俺の脳裏に浮かび、それが妙にはまっていると思ったのは確かだ。
我ながら陳腐な想像だとは思うが。
「……で? 断ったのか?」
すると、青葉はぷるぷると小さく首を振りながら答えた。
「ううん。行ったよ、オペラ鑑賞。望月くんと」
「マ、マジか?」
思わず俺は腰を浮かせて尋ね返していた。やっぱドレスでも着たのか?
「望月くん笑いながら、普通の服装でいいんですよって。私、イブニング・ドレスとか着ないと見れないと思ってた」
おお、庶民。やっぱり青葉と俺って考え方似てる。
「でも、やっぱりあんまりみっともない格好じゃ恥ずかしいからね。私新しい服を買いに行ったの」
「へー」
ま、さすがに普段着のままってわけにも行かないんだろう。
「あんまり変な服じゃイヤだから、望月くんに来てもらって、見立ててもらったんだよ」
何気なく青葉が言った言葉に、俺は動揺した。
それってつまり、デートしたって事じゃないのか? 俺には何も言わないで?
……いや、俺に報告する義務なんて青葉にない。何を考えているんだ俺は。
でも、青葉が望月とオペラに行った事より、服を買うのに俺じゃなく望月に頼んだって事が、妙に俺の心を刺激した。
「そのとき一緒に買ったのがこのスカート。だから創一郎くんがこれを見るのは初めてなの、分かった?」
青葉は、さっき教室で俺が「代わり映えしない格好」と言ったのがよっぽど悔しかったのだろう。
得意げに俺にそう言った。
でも、そんな事はどうでもいい。
「オペラはね、お母さんの知り合いの出演者さんからチケットをいただいたんだって。
で、夜遅くなるからって、結局三人のお姉さんがお目付け役についてきてね。大変だったんだよー」
そういや、望月は歳の離れた姉が三人いると言ってたな。
きっと、弟の恋人候補に興味津々だったんだろうな。
でも「あの」望月の姉たちだ。きっとうまく弟を引き立て、青葉をフォローしたんだろう。
「……で、楽しかったのか」
「うん!」
青葉は屈託のない笑顔で大きくうなづく。
月並みな問いだ。本当はもっと聞きたい事があるはずなのに。
でも、俺はそれ以外聞きようがなく、それが歯がゆかった。
本当は、
「望月はどんな風にお前に服を買うアドバイスをしたんだ?」
「御目付けつきのデートを青葉はどう思った?」
「望月はデートのときどんな風だった?」
「青葉は、その時望月をどう思った?」エトセトラエトセトラ……。
そして、
「青葉、お前、望月の事が好きなのか?」
そう尋ねたいのに。
でも、俺には言い出す勇気もなくて。
楽しそうにデートの様子を語る青葉を、ぼんやりと見ているだけだった。
「……でね、衣装が素敵だったねってお姉さんと話してたら、望月くんもどんどん話に乗ってくるの。
望月くん、女の人の服とか、アクセサリーも詳しいんだよ。スカーフとかお姉さんに見立ててあげてるんだって。
お姉さんたち胸張って『私たちの英才教育の賜物よ』だって。望月くんってほんと女の子みたいで……」
ころころと、鈴のように軽やかに、青葉は笑う。
望月がどんな風にセンスが良かったのか。
望月がどんな風に優しくエスコートしてくれたのか。
そのおかげで、初めてのオペラがどれだけ楽しかったのか。
そして、これからのデートもどれだけ楽しみなのか……。
青葉が嬉々として話すたび、俺の心にはやり場のない怒りがわいてくる。
俺は何で怒っていたんだろうか。
……後で考えれば、それは「嫉妬していたから」だったんだろうと思う。
青葉を取られてしまうという、理不尽で、子供っぽい嫉妬。
俺が望月に比べて大したことない男である事を暴かれていく、屈辱。
そして、勝手にそれを屈辱と感じる、卑屈な自己憐憫。
それが俺に発作的な怒りの感情を沸き立たせていたんだと思う。
でも、その瞬間にはそんな冷静な判断なんて出来るはずもなく。
「もう、いいよ。分かったっつーの」
俺は、楽しそうな青葉を荒々しく遮った。
「……え?」
なげやりな俺の言葉に、青葉はきょとんとしている。
なぜ俺がそんなものの言い方をするのか、全く分からないといった感じだ。
「望月がイイ男だってのは、よーく分かったよ。だから……青葉、お前は」
そこで、俺は言葉を区切った。冷めきった目を、青葉に向ける。
「望月と、付き合え」
俺はそう言って、青葉から顔を背けた。
「創一郎くん、なんて……?」
「……だから、『望月と付き合え』って言ってるんだよ」
吐き捨てるように言うと、初めて青葉は俺の言いたいことを理解したようだった。
押し黙る、青葉。顔を伏せ、肩を震わせている。
「……なんで、そんな風に言うの」
「望月は、かっこよくて、ハイソな趣味持ってて、センスがよくて、優しい。
俺なんて、別にかっこよくないし、趣味はゲーセンぐらいだし、女の服なんてわかんねえし。
……それに、キスした事だって忘れられる程度の男だしな!」
「そ、そんなこと、言ってないじゃない!」
キッと俺の方を睨みつけながら、青葉は声を張り上げた。
青葉が人を怒鳴る事なんて、めったにない。いや、俺に対しては絶対にしなかった、これまでは。
初めて青葉に怒鳴られ、俺も頭に血が上る。
「言ったじゃねえか、もう幼稚園の時のことなんて忘れたって!」
「そ、そういう意味じゃ……!」
声を荒げながらも、青葉の言葉尻が弱まる。
ニュアンスは違っても、そう言った事は確かなのだから。
でも、勝手に望月と俺を比較しているのは、ほかならぬ俺なのだ。
つまり、青葉に言っているのは単なる言いがかりに過ぎない。でも言わずにはいられない。
青葉が言葉を区切ったところを目がけて、俺は言うまいとしていた事を思わず口にした。
「……那智子、俺のこと好きなんだってな」
「え、な……なんで……」
知っているの?
そう言おうとした青葉はとまどい、未完成の言葉が宙をさまよった。
「お前、那智子に協力してやってるんだろ。俺と那智子をくっつけようって」
「ち、違うよ!」
わざと悪意を込めて呟くと、青葉があわてて首を振るのが見えた。
青葉が面白半分にそんなことしてるなんて思った事はない。
でも、俺は今たまらなく残酷に青葉を扱ってしまいたい欲求に突き動かされていた。
「はっきり言って、余計なお世話なんだよ。だから、俺もお前に余計なお世話してやってんだ」
違う。俺が言いたいのはそんな事じゃないはずだ。
それなのに、俺の口は俺の気持ちを裏切るように動き続ける。
青葉の心をいたぶるような言葉を、次々と浴びせる。
「それで、いいじゃねえか。俺は那智子と付き合う。お前は望月と付き合う。
二組のカップルが出来て、めでたしめでたし……ってなもんだ。
お前はかっこいい恋人が出来て、那智子にも恩を着せれて、一石二鳥。……それで満足だろ?」
俺は青葉の方を見た。
その顔は多分酷薄さと、自虐が入り混じった、歪んだものだっただろう。
その時だった。
ぱぁんっ
甲高い音が響き、青葉が俺の頬を思いっきりひっぱたいていた。
とっさに俺は叩かれた方の頬を押さえる。
そして、そこで初めて我に帰った。目の前に勢いよく立ち上がった青葉がいる。
怒りに震えながら、俺を見下ろす青葉。
俺は目を伏せる。
「……分かった」
やがて、青葉はぽつりと呟いた。
「創一郎くんは、なっちゃんと仲良くしてればいいじゃない。私……私は望月くんと仲良くする。
だって……だって、望月くんは創一郎くんみたいに酷いこと言わないからね……!」
青葉は俺に背を向けた。
俺は伏せていた目を上げ、青葉の背中を見る。
小刻みに震える肩。
泣いているのか?
「……私、帰る。お母さんとなっちゃんには、気分が悪くなったって言っておいて」
青葉が吐き出すように言った。俺は答える事も出来ず、黙って青葉の背中を見つめている。
歩き出す瞬間、青葉が俺の方を一瞬だけ見たのが分かった。
「……さよなら」
次の瞬間、青葉は一目散に校門の方へ駆け出していた。
ひとり取り残された俺は、赤くはれた頬を押さえてたたずむ。そして、青葉の言葉を口の中で繰り返す。
「さよなら、か」
『じゃあね』でも、『バイバイ』でも、『またね』でもない、『さよなら』。
俺は、後悔と諦めを噛み締めながらその言葉を呟く。
「さよなら」
(続く)