俺はいつの間にか眠っていた。
物音で目を覚まし、ごろりと寝返りを打つと、和馬が部屋に帰ってきたところだった。
すでに外は薄暗い。
「……お帰り」
「ああ」
ふう、とため息をつきながら和馬は自分の机に腰を下ろす。
その顔は明るいとは言えない。
「で、どうだった……青葉は」
俺は崩れるように椅子に座っている和馬に尋ねた。
ちらっと肩越しに俺を見て、和馬はまた視線を外す。
「そうだな。青葉ちゃんの歌を聞いたのは初めてだったが……。
何か違う、あれは本当の青葉ちゃんの歌じゃない、それだけは分かった」
もう一度、短いため息が漏れた。
それから、和馬は俺に聞かせる様子もなく、今日のステージを話し始めた。
一言で言えば、青葉は頑張っていた。
でも、音楽はまなじりを吊り上げて頑張ればいいわけじゃない。
聞いている人間に息苦しさを感じさせるような歌。
それが今日の青葉だったという。
「なにも気にしていないところを見せようと必死で、青葉ちゃん浮いてたな。
部員も青葉ちゃんに引きずられて、なんだか罰ゲームで歌わされてるみたいだった」
ここで、煙草をすう奴なら一服つけるだろう、そんな間があった。
残念ながらというか、俺たちはどっちも煙草は吸わない。
しばらく俺たちは目線も合わせずに黙っていた。
長い沈黙があって、和馬はようやく俺の方に目をやった。
「それで、お前はどうするつもりなんだ」
「……さあな」
俺には何の答えもなかった。
二人とも大事だ。だから青葉も、那智子も傷つけたくない。
そんなことを言ったところで、和馬は納得しないだろう。
でも、俺に言えるのはそれだけだった。
「誰も傷つけないで、今までのようにいる。そんなことは……」
「出来ると思うか?」
「……不可能なんだろうな」
それでも、和馬ならあるいは、いい答えを見つけてくれるんじゃないか。
俺はそんな甘い事を考えながら、和馬の顔を見ていた。
もちろん、答えはない。
「俺なんて好きにならなくても、いいじゃないか、なあ?」
「……」
「全く、青葉も那智子も厄介なことばっかり言いやがって」
やけくそ気味に笑う。
俺みたいなヤツ好きにならなくたって、望月やら他にいい男はいくらでもいるだろうに。
それは半分本心だった。もちろん、そうなったらそうなったで、俺は愚痴をこぼすんだろうが。
「もう、どっちでもいいから付き合っちゃうか。それでどっちも納得するだろ」
「……創一郎」
和馬が静かに立ち上がった。そうしながら、手で俺に立つよう促す。
黙って俺もベッドから立ち上がる。
俺たちの間はほんの数歩分の距離があるだけだった。
次の瞬間。
「ぐはっ」
俺は顎に強い衝撃を受けて、自分のベッドに吹っ飛ばされていた。
視線を和馬に戻すと、奴は間合いに踏み込み、ヒットさせた拳を引くところだった。
俺は首を振って体を起こす。
和馬は顔色一つ変えることなく、俺を見下ろしている。
「……何しやがる」
「お前の寝ぼけた頭を覚まさせてやろうと思ってな。馬鹿にはよく効く」
まるで蚊でも叩き潰したみたいな、なんの心情も感じられない言い方が、俺の気持ちを逆撫でる。
「ああ、そうかよっ」
俺ははじかれたように立ち上がり、和馬目がけて拳を振るう。
見え見えの一撃。合気道の有段者に通じるようなものじゃなかった。
だから、それが鈍い音とともに和馬の顔を捉えたとき、俺は逆に驚いていた。
「……」
「……」
間違いなく、和馬は俺のパンチを「わざと喰らった」。
痛む拳を引っ込めながら、俺は和馬の顔を見れなかった。
「かわせよ」
「……頭、覚めただろ」
それでも痛む事に違いはないのか、片手で顎をさすりながら、和馬はまた椅子に座る。
俺もそれにならった。
また、黙る。
今度の沈黙は、さっきの「煙草を一服つける間」よりは少し長かった。
「とにかく、だ」
和馬の言葉は、相変わらず感情の起伏を感じられない。
「青葉ちゃんと、那智子さん、お前はどっちが好きなんだ。それをはっきりさせないことには何も解決せんぞ。
まさか、本当にどっちでもいいとか思ってるわけじゃないだろ」
「そりゃ、そうだよ。本当のところ……どっちも愛想つかせてくれたらいいと思ってる。
そしたら俺は決めなくてもいいもんな」
ふんっ、と和馬が鼻を鳴らす。
「責任をとるくらいなら、ふられる方がいいってか。ふられたあとで愚痴っても聞かねえぞ?」
「決められないんだよ。怖いんだ。決めたら、何か俺の中で二人を見る目が変わってしまいそうで……」
「決めるんだ」
和馬はずばり、そう言い切った。
俺が顔を上げると、柔和な笑みを浮かべた奴の顔があった。
「まさか、振られるのが嫌だから、告白したあとギクシャクするのが嫌だから、なんて言わんだろうな」
「……その、まさかだったりする」
青葉に告白しても手遅れかもしれない。那智子の告白にOKしても、もう愛想を尽かされてるかもしれない。
那智子と付き合うことで、青葉に嫌われたくない。青葉に告白して、那智子に嫌われたくない。
……結局、ただ臆病なだけだ。
「心から好きなら、その思いは通じるさ。その思いに応えてくれないかもしれないけどな。
お前が相手のことを大事に思っている、その思いは通じる」
言ってから自分でも似合わないと思ったのか、和馬は目をそらし、一人で苦笑している。
「どこの少女漫画か知らないけど、そんな奇麗事、通じるのかよ?」
馬鹿にしたように笑いながら言う。……でも、信じてみたい言葉だった。
「それなら、こんな実話はどうだ。俺の聞いた話だが……」
そう前置きしてから、和馬は一つ咳ばらいをした。
――あるところに、愚かな男がいました。
男はあるとき一人の女の子に出会い、文字通り愚かにも、一目ぼれしてしまいました。
その女の子が幼馴染みの男の子が大好きだってことは、誰の目から見ても明らかだというのに。
愚かな男は女の子にその思いを伝え、当然のように断られました。
そんなことがあって、愚かな男と女の子は一つの約束をしました。
これからも友達でいよう、そして、このことは誰にも言わないようにしよう、と。
そうすれば、自分達も、周りの友人達も、誰も傷つかないと思ったのです。
そして、女の子は約束を守り、愚かな男の思いを知りながらも友人として接し続け――
「愚かな男は、またしても愚かなことに、今日約束を破ってしまいましたとさ……おしまい」
「……和馬」
「これから分かる事は、少なくともその女の子は約束を守ったし、思いは通じたってことだ。
いい返事はもらえなかったとしてもな」
和馬は笑っていた。本当にさっぱりとした笑顔だった。
今の俺は、こんな風な顔は出来ない。
「……そんなことがあったなんて」
そう言ってから、俺の脳裏にある記憶が蘇った。
あれは、俺が青葉や望月たちと遊園地に行った日の夜。
俺は望月に青葉を取られたくないばかりに、和馬に言った。
『応援してやるから青葉に告白しろ、お前ならたぶんOKされるから』と。
そして、和馬はあの時……。
「すまん」
「ん? 何で謝るんだ?」
「『土足で俺の人生に足を踏み入れるな』……あの日お前が言った意味、やっと分かった」
俺は頭を下げる。深くこうべを垂れ、心の中では土下座。
せめて、その気持ちを頭を下げた長さで伝えようと思った。
だが、和馬は乾いた笑い声を上げただけだった。
笑い声に、俺はむっとして顔を上げる。
「聞いた話と言っただろ? それに知らなかったんだから仕方ないさ。
まあ、遅くても理解しないよりはマシだわな。お前は昔から察しが悪いし。
……察しが悪いから今みたいな状況になってるわけだし」
「ふん、ほっとけ」
笑いを噛み締める和馬と、俺。
二人でひとしきり笑ってから、和馬が問う。
「で、腹はくくれそうか?」
「……ああ、決めたよ」
俺だけが悩んでいるんじゃない。それを知っただけで、何かできそうだった。
よく、考える前に跳べ、と言う。
今は跳ぶときだ。墜落死したら、誰かが骨を拾ってくれるだろう。和馬か誰かが。
「俺の気持ちは、決まった」
俺は立ち上がり、受話器をとった。
次の日曜日、俺は一人青葉の家に向かった。
さっきから頬が痛むが、それほど気にならない。
それよりすべてに決着をつける、その意気込みが俺を突き動かしていた。
見慣れた家々が並ぶ住宅街を急ぎ足に抜けて、小さい頃から通った青葉の家の前に立つ。
家の中は静まり返っていた。小さな門扉も閉まっている。
怖じ気づきそうな自分の気持ちをもう一度蹴っ飛ばし、いきおい込んで玄関に近づく。
ためらったら呼び鈴を永遠に押せそうもなかった。
だから、俺は不必要なくらい勢いよく、それを押してやった。
しばらく待ったが、中から何の返事もない。
……正直、こういう事態は想定してなかった。
青葉が外出していることは考えられた。でも一家揃っていないなんて珍しい。
最低陽子さんぐらいは家に居ると思っていたのだが。
もう一度呼び鈴を押すが、やはり返事なし。
俺はドアの前に突っ立ったまま、インターフォンを睨んでいる。
「……なんだか、すげえ惨めだな」
そう呟きながらドアに背を向けると、本当に自分が世界一惨めな奴に思えた。
今日は朝から気合入れて、怯えて、でも少しわくわくして……
それなのに、誰もいない。
ほんと、一体何してるんだか。
俺は門扉をそっと閉め、もう一度青葉の家を振り向いた。
「帰るか」
自分に言い聞かせるためにそう言って、俺はゆっくり寮の方へ足を向けた。
キッ
小さなブレーキの音。
つられて振り向く。飾り気のない自転車と人影。
「……創一郎、くん?」
「おう」
不思議そうな顔した青葉に、俺は少し不機嫌に答える。
まったく、バカ青葉。
もう少しで俺の気持ちがくじけるところだったじゃねえか。
そうしたら、もう二度と俺は……。
そんな勝手な事を考えながら、俺は少し笑みを浮かべる。
もちろん、そんなこと青葉が気づくわけもなく、青葉はあっけに取られたまま、俺を見つめている。
「どうしたの? 確か、今日は……」
言ってから、青葉はあっと自分の口を押さえる。
それの意味するところを知りながら、俺は静かに青葉のそばに近づく。
「那智子から、聞いたのか?」
こくり。
俺の問いに、青葉は無言でうなづいた。そして、そのまま目を伏せる。
今日、朝から俺が何をしていたのか、青葉は知っているわけだ。
でも「本当に何があったのか」は知らない。
それは、俺がきちんと伝えなきゃならないことだ、俺の口から。
そうするのが俺の責任だから。
「那智子のことで、話がある」
俺の言葉に、青葉の体がびくりと震える。
怯えるように俺の方へ顔を向ける、青葉。
その顔は、不自然なくらい笑っていた。
「じゃ……立ち話もなんだし、中、入ろ?」
「ああ、そうだな」
青葉の提案に、異存はなかった。
さっきくじけかけた気持ちをもう一度奮い立たせるのに、俺ももう少し時間が欲しかったから。
だから、黙って俺は青葉の後に続いた。
「お茶にする? それとも、コーヒー? 紅茶?」
そう言いながら、青葉は台所に立って、紅茶の缶を開けている。
聞くのは、たぶん沈黙が怖いから。
なぜって、俺が青葉の家では紅茶しか飲まないのをアイツは知っている。
「まかせる」
俺がこう答えるのも、何度目だろうか。
俺は手持ち無沙汰に応接間をうろつき、やがて二人がけのソファに腰を下ろした。
黙って青葉の後ろ姿を見つめる。
そして、もう一度今日言うべき言葉を口の中で繰り返してみる。
言えるだろうか。
いや、言わなくてはならない。
たとえ誰かを傷つけても、自分の気持ちを偽って生きていけない。
青葉のために、那智子のために。和馬や、望月のために。
俺は言わなくてはいけない。
……そう俺が考えているうちに、青葉は紅茶の用意を済ませたようだった。
黙って俺の隣に腰掛け、二つのカップに紅茶を注ぐ。
その儀式が終わるまで、俺も黙っていた。
やがて紅茶を淹れ終わり、青葉は八分目に注がれたカップを俺の前に差し出す。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
いつもならもっと冗談めかして交わす会話も、今日はぎこちない。
俺は青葉から受け取ったカップに口も付けず、再び応接セットのテーブルに戻した。
所在無く部屋を見回し、やがて俺が目を向けるべきものは青葉しかない、と気づく。
青葉も、紅茶に手をつけないまま、黙って俺の側に座っていた。
「……それで、話って?」
青葉はもう一度無理やり笑顔を作り、俺の顔を見上げる。
でも、俺と目があった瞬間、その顔は悲しそうにうつむいてしまう。
目を伏せ、言葉もない青葉は、何だか消えてしまいそうだった。
俺は、その肩にそっと手を置く。
おびえたように目を上げる青葉。
俺たちの視線が交差する。
「……今日、那智子に会ってきた」
「……うん」
「知ってたのか?」
「なっちゃんが、昨日の夜電話で教えてくれた」
そう言って青葉は視線を下げる。俺の胸の辺りを見ながら、俺の言葉を待っている。
ああ、俺は。
俺はずっとこうやって青葉を待たせてたんだ。
それがどんなに辛いことなのか。やっとそれが俺には分かった。
ただ、あてもなく待つこと。それはどんな酷い言葉を聞くより辛いってことが。
「今日、那智子に会ってな」
「うん」
消え入りそうなほど小さな声で、うなづく。
俺は、ひときわはっきりと言った。
「俺、断ったから」
「えっ――――」
それが何を意味しているのか分からない。
そんな風に、青葉は俺を見上げる。
「『お前とは付き合えない』って、そうはっきり言ってきた」
「……どうして」
かすかに開いた口からはたったそれだけの言葉しか発せられなかった。
青葉の目に困惑と疑問と――ほんの少しの安堵が浮かんでいる。
「どうしてって……」
そこで俺は口ごもってしまう。
ええい、ここまで来て、恥ずかしがってどうする?
言え。言うんだ。この馬鹿野郎!
俺の口がゆっくりと開いた。
「俺は、お前が好きだ」
「俺は、お前が好きだ」
……ほんの短い言葉を言っただけなのに、声はからからに乾いていた。
青葉に聞こえたのかどうかもはっきりしない、そんなボリューム。
でも、力いっぱい叫んだみたいに、体中の筋肉が強張っていた。
俺は、青葉を見下ろしている。
大きな青葉の瞳が、まばたきもせず俺を見ている。
息もせず、俺たちは見詰めあう。
「そういちろうくん……」
俺の名前をおずおずと呼ぶ青葉。
そんな青葉を見た瞬間、俺の中で何かが吹っ切れて……。
そして思いが一気に言葉となってあふれた。
「……そうだよ、お前が好きだ。
最初にあったときから、好きだった。一目ぼれだった。
小さいときから、ずっと好きだったんだ。
ほら、よく手を繋いで遊びに行っただろ?
『青葉が迷子にならないように』なんて言ってたけど、ほんとはずっと手を繋いでいたかった」
告白してしまえば、今まで言いたかったことを言わなかったのが馬鹿みたいに思えた。
驚く青葉に、俺は畳みかけるように話し続ける。
「よく青葉に意地悪したよな。
でも、意地悪した後、泣きながら俺の手を繋いでくるお前が、かわいくて仕方なかった。
だから、つい意地悪したくなったんだ。他の子と俺は違うって。青葉は絶対俺のこと嫌いにならないって。
そんな風にうぬぼれてたんだぞ。馬鹿だろ、俺。
そのくせ青葉が泣いたら死ぬほど不安で。
もう二度と許してくれないんじゃないかって、いつもどきどきしてたんだぞ?
あと、ままごとしたとき、キスしようって言ったのは俺だっただろ。
それはな、キスするのは夫婦と恋人だけだって教えてもらったからだ。
キスしてくれたら、きっと青葉は俺の奥さんになるって、勝手に決めてたんだ。
ほんと、馬鹿だろ?
だから、笑いながら俺にキスしてくれたとき、俺はめちゃくちゃ嬉しかった。
あと、小学校に入っても、俺にだけはお下げ髪を触らせてくれたよな。
俺はあれ大好きだったんだ。あ、今でも好きだぞ。だって、すげえほっとするからな。
いつだったか、別の男子にお前が髪引っ張られて泣かされたとき、俺そいつに怒ったんだ。
俺はそいつが許せなくて、あとで大喧嘩したんだぞ。おかげで鼻血まで出して、お袋にえらく驚かれた。
中学でお前がマッダレーナに行くって知ったとき、俺安心したんだ。
『別の男にとられなくて済む』ってな、俺のものでもないのに、そう思った。
青葉かわいいから、共学に行ったら絶対誰かに告白されるって。そんなこと考えるだけで嫌だった。
……でも、いつの間にか、そんな風にするのが恥ずかしいって。
女のことばっかり考えるのは軟弱だって。
小さい頃からの幼馴染が大好きだなんて、なんだか未練がましい奴みたいだって勝手に思って。
だから、青葉のことなんか何とも思ってないって自分に言い聞かせるようになった。
さっさと彼氏でも作っちまえとか、お前よりいい女ぐらい捕まえてやるとか、そんな風に考えてた。
そんなの、全部嘘だ。俺が俺についた嘘だ。
そんな意味のない格好つけても、苦しいだけだった。だから、もう止めた。
いいか、もう一回はっきり言う。
本当は、俺はお前が、青葉のことが、ずっと、ずっと好きだ――」
それからは、言葉にならなかった。
俺はこみ上げてくる感情の波に、ただ必死に耐えているだけだった。
目頭がかっと熱くなる。
もう泣いてもいいだろって気持ちと、これ以上青葉にみっともないところを見せたくないって気持ち、
二つの気持ちが何度も交錯した。
それでもこぼれそうになる涙を拭って、思い切って目を見開いたとき。
両手で顔を覆って泣く、青葉の姿が飛び込んできた。
慌てて青葉の両肩に手を伸ばす。
小さく震える肩を掴むと、青葉はそのまま俺の胸に顔を埋めてきた。
嗚咽が、胸元から聞こえてくる。
「私も……」
「……ああ」
「私も、断ってきたよ」
「…………は?」
予想もつかなかった言葉に、俺は間抜けな声で聞き返す。
青葉は俺の胸に額を擦り付けるようにしながら、はっきりと言った。
「今日、私も望月くんに断ってきた。お付き合いできませんって。私には、他に好きな人がいますって」
「……青葉、だから今日――」
こくり。青葉は黙ってうなづく。
「私が好きなのは、創一郎くんですって、ちゃんと言ってきたよ」
その告白を聞いた瞬間、俺は力いっぱい青葉を抱きしめていた。
「私も、創一郎くんの事が好き……小さいときから、ずっと、好きだったんだよ。
本当は、早く『好き』って言いたかった。
私の好きな人はこの人ですって、みんなにはっきり見せたかった……」
「ま、マジか?」
俺、うろたえる。顔を俺の胸にうずめながら、青葉は何度もうなづいた。
「私も、ままごとのときキスしたの、すごく嬉しかったんだから。
きっと私をお嫁さんにしてくれるって意味だって、中学生になるまでずーっと思ってたんだよ?
小学校になっても私には小さいときと同じようにしてくれるの、嬉しかった。
一緒に下校してくれるのも、一緒に遊びに行ってくれるのも、手を繋いでくれるのも……。
他の女子には絶対そんなことしなかったでしょ?
だから創一郎くんがちょっと意地悪でも、私のこと好きなんだって、そう思って自分を安心させてたんだよ。
それなのに、中学に入った頃から創一郎くんだんだん私に冷たくなって……。
手を繋いでも『なんでもない』って顔するし、私をからかうし、私のこと、邪魔みたいにして。
他の女の子と同じように扱われてるみたいで……私とは、ただの友達みたいに振舞うんだもん。
……でも、それが大きくなる事なんだって。
小さい頃みたいにしちゃいけないんだって、そう思ってたのに」
ぎゅっ。青葉が力いっぱいしがみついてきた。
「……ずるいよ。創一郎くん、ずるいよ。
そんな風に思ってたなら、早く言ってくれたらよかったのに。
そしたら、私、私こんなにしんどい思いしなくてよかったのに……。
ばか。
創一郎くんのばか。ばか、ばか、ばか、ばかぁ……」
そう言いながら、青葉は俺の胸を握りこぶしで何度も叩く。
その痛みを感じながら、俺は黙って青葉を抱きしめた。
ぽこり。
最後の一撃が俺の胸を叩き、青葉の両手は俺の背中を抱きしめた。
「……ばか……」
涙交じりの声が、泣き声になって、やがて消えた。
「青葉……あの」
俺が何か言葉をかけようとしたその時。
青葉が不意に顔を上げ、キッと俺を睨んだ。
目に一杯ためた涙と、その視線に俺がマジで戸惑っていると。
抱きかかえるように、俺の顔が青葉の顔に引きつけられた。
そしてキス。
信じられないぐらい強い力で、俺と青葉の唇が重なりあう。
青葉は俺の唇を甘噛みしながら、なお俺を引き寄せる。
いつもの青葉らしくない、激しいキスに頭の中は真っ白だ。
ただ青葉のするがままになる。そして、ひたすら俺はどうしたら良いのかを考える。
でも、今俺たちを阻むものは何もない、そう気づいた瞬間、俺は考えるのを止めた。
ただ、暖かく、柔らかな青葉の唇を味わう。
触れ合うだけのキスなのに、全身がひとつになるような感覚。
俺の目には青葉しかなく、青葉の目には俺しか映っていなかった。
俺の左側に腰掛けた青葉は黙って俺の肩に頭を預けている。
俺は左の腕で青葉を優しく抱き寄せ、もう片方の手は、青葉の左手をしっかりと握っていた。
言葉は交わさない。
ときおり、互いに目を合わせ、そのたびに軽く口づけを交わすだけ。
いつまでもそうしていたい。
黙っていてもその気持ちは伝わる。だから、俺たちは何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、青葉の方だった。
「創一郎くん」
「ん?」
青葉に呼ばれ、俺は顔を向ける。
今度は、キスはなかった。青葉がふと顔を赤らめたかと思うと、くすくすと笑い始めたから。
「どうした?」
いぶかしげな顔をする俺に、青葉ははにかみを見せる。
「……だって、改めて考えたらすごいなって。……私たち、恋人同士なんだよね。
なんだか、信じられないもん……もう、創一郎くんのこと、いつでも好きって言えるんだよね」
「ああ」
そう言われると、無性に恥ずかしい。
「いつでも、手を繋いで歩けるんだよね」
「そうだなあ」
「いつでも、キスできるんだよね」
「えー、さすがに人前では……」
ためらいがちな俺の言葉も、熱を帯びた青葉を止められない。
「ねえ、いつかは……」
青葉が不意に言葉を切ったので、俺は驚いて視線を青葉に戻す。
さっきより真っ赤な顔をした青葉が、ちらちらと上目遣いに俺を見ている。
「いつかは……私と、創一郎くん、ね」
俺の心臓がどきっと鳴った。
「しちゃう……んだよね……え、エッチなこととか」
青葉の目が、俺に向けられている。
俺も、その瞳から目が離せないでいた。
少し潤んでいるように見えるのは、俺がそれを期待しているからなのか。
それとも、青葉は……。
それを口にするということは、青葉はもう心に決めているのだろうか。
家の外を通り抜ける車の音が、むやみに大きく聞こえてくる。
そのくせ、家の中は静まりかえり、俺と青葉の息をする音まで聞き取れそうだった。
「……」
「…………」
長い沈黙。
再び唇が重なれば、もう俺は自分がどうなってしまうのか、分からなかった。
(続く)