1.
ぴよぴよぴよぴよ……
枕元でずっと小鳥のさえずりがする。
私は寝ぼけたまま、ぬくぬくの布団の中から手を伸ばす。
さえずってる小鳥型目覚ましの頭をちょん、と叩いてその子を黙らせた。
「ううー……」
我ながら色気のない声を出し、のっそり体を起こす。
頭をかきつつ、その目覚まし時計「ぴよぴよちゃん」のお腹についているデジタル時計を見る。
ふむ。七時か。
改めて時間を確かめると、大きく伸びを一つ。
定番の朝の行事を一通り済ませ、私はベッドから降りる。
ここ数日ぐっと温かくなり、もう布団から出るのも苦痛じゃない。
春だ。
今日から私は高校二年生。
カーテンの隙間から差し込んでくる、まっすぐな朝の陽射しも、何だか気持ちいい。
自然に顔をほころばせながら、私は着ていたパジャマの上着を脱ぎ捨てた。
ほどよく冷たい空気が、私の体を引き締めてくれる。
それから箪笥の一段目を開け、ブラジャーを……。
お? あれれ?
そこには何故か、洗濯して綺麗に丸めたパンツはあるのに、ブラがない。
……ああ、そうだ。
昨日の夜、まとめて洗ったんだった。
ローテーションが狂ったとはいえ、手持ちを全部洗わなきゃなんないなんて、私もうっかりしてたな。
昨日のうちに乾燥機に放り込んでおいたから、問題はないけど。
私はやれやれ、と誰言うともなく呟き、部屋を出た。
廊下を走りぬけ、洗濯機一式が置いてあるお風呂場へ。
台所の方からは、包丁のとんとんという小気味良い音。それにお味噌汁の香り。
ああ、お腹空いた。
早く着替えてご飯にしよっと。
そんなことを考えながら、脱衣所の扉を勢いよく開ける。
私の控えめな胸が、ぷるん、と揺れた。
「ああ。なっちゃんお早う」
……そして、凍りつく私。
一瞬の間をおいて脳みそを火花が駆け巡った。
「ぎ、っぎゃァぁぁぁあああああああっ!!!!!!???」
「なっちゃーん」
なんだか人類ヒト科ホモ・サピエンス・サピエンスの♂らしき声がするけど、無視。
通学鞄をぎゅっと握り、足早に歩く。
「なっちゃんてばー」
おかしいなあ。耳の具合でも悪くなったのかしら。
私の名前を呼んでるような気がするわ。
「聞こえてるんだろー? なっちゃーん」
足を早めても、その声はぴったりとついてくる。
あー、あー、あー。何も聞こえない、私は何も聞こえないよー。
振り向かないようにしながら、ほとんど走り出さんばかりに道を急ぐ。
「なっちゃん! もう、なっちゃんって!」
うわ、声が近づいてくる! だ、駄目だっ。
私は突然肩をつかまれ、強引に振り向かされた。
……いや、もう分かってるんだけどね。それが誰だかは。
「まーだ怒ってるわけ?」
半ば呆れた様子の祐輔が、私を見下ろしている。
その顔を、私はおもいっきりの膨れっ面で睨み返してやった。
でも、祐輔の視線は変わらない。
はっきり言ってガキみたいな反応だとは思うけど、ここで引き下がったら負け。
なにが負けかはしらないけど負けなの。
私がそう決めた。
「もう何度も謝ったでしょう」
「……謝って済む問題じゃありません」
私は頬を膨らませたまま、目線を反らす。
祐輔がじっと私を見ているのが、耐えられないから。
そのまま、彼に背を向けて歩き出す。
雲ひとつない青空。まぶしい太陽。
わいわい言いながら傍を通り過ぎていく、かわいらしい小学生たち。
こんなすばらしい春の一日が、朝の出来事のせいで台無しだ。
「だってさ、僕はただ顔を洗ってただけだよ? 勝手に入ってきたのはなっちゃんの方でしょう。
ノックだってしなかったし」
不貞腐れながら歩く私の後ろから、祐輔がもう何度も繰り返した話をまた始めた。
そう。
全部私が悪い。っていうかミス。
第一のミスは、完全に寝ぼけて、祐輔が引っ越してきたことを忘れていた点。
諸事情により祐輔が引っ越してきたのは三日前だったもんで、未だに彼が家にいることをつい忘れがちになる。
第二のミスは、自分で決めたルールをすっかり忘れていた点。
着替えてるときに間違って入られたら嫌だから、脱衣所の扉を開けるときはノックしましょう。
そのルールを言い出したのは私だったのに。
第三の、そして最大ミスは、祐輔がいるってのに、上半身裸で家の中をうろうろした点……。
「でも、祐輔さんが私の……その、は、裸を見たのは事実なんですから。私は悪くないですっ」
あーっ、もう。なに言ってんだ。
全く、完全に、百パーセント、私が悪いんじゃないか。
当たり前だけど、お父さんもお母さんも、「那智子がぼんやりしてるから悪い」って言った。
けれど、私は胸のむかつきが収まらない。
「あー……もう、なんでそんなに怒ってるのやら。もう好きにしなさい」
ほとほと困り果てたのか、祐輔はため息混じりに言った。
私も私が何で怒ってるのか、分からない。
でも、素直に謝る気にもさらさらなれなかった。
だから、祐輔と別々の道になるまで、私はずっと知らん振りしてやった。
分かれるとき、大学に向かう彼の背中に「ごめん」。そう小さく呟いてみたけれど。
2.
「ふはァ……」
盛大にため息をつきながら、私は机に突っ伏した。
クラス発表、担任紹介、始業式……と、気になる行事が盛りだくさんだったっていうのに今日は駄目。
何ていうか、一人でずっと腹を立てていたら、くたびれちゃった。
特に始業式が終わって、新しい自分の教室に戻ったらどっと疲れが出た。
両腕は前に放り出し、頬を机に押し付けながら、目だけで周りを観察する。
「どうしたの、なっちゃん?」
ああ、そうだった。
二年生に進級しても、私は青葉と同じクラスになったんだった。
「何だか、クマが出来てるよ、徹夜でもしたの?」
「……ちがーう」
答える私の声はまるで幽霊。
合間合間にため息を挟みつつ、心配そうな青葉に顔を向ける。
「ふはぁぁぁぁぁー……」
「ほんと、どうしたの? 具合悪いんだったら……ってなっちゃんが病気なんてしないか」
「ちょっとちょっと、怒るよ」
キッと睨むと、それを青葉は笑顔で受け止めた。
私もちょっと肩をすくめる。
「……」
私は青葉の向こうに広がる、窓の外に目を向けた。
ぽかぽかといい天気。
今頃、祐輔も大学第一日目を迎えてるんだろうか……。
私が物思いにふけるのを、青葉はすぐそばで優しく見守ってくれてる。
それが、我が親友のいつものやり方だった。
「……私、帰るね」
勢いよく立ち上がる。
「ほんと、大丈夫? 気分が悪いんだったら、私もいっしょに……」
「大丈夫だいじょうぶ。久しぶりの学校で疲れただけだから」
なおも心配そうな青葉ににっこり笑って答える。
言えない。
誰にも言えないよ。裸を見られた話なんて。
――――なのに、私は何でこの男に打ち明けてるんだろう。
隣を歩く男の子は、私の愚痴とも言えない話を、辛抱強く聞いてくれてる。
「……ってわけでさ。どうにも腹がたってさ、許せないのよね」
「相変わらずですね……」
望月近衛は呆れたような顔をしたが、私は寛大な心でそれは見逃すことにした。
いや、呆れられてる理由は分かるけど。
「でも、その……裸を見られたって言っても、それは妙高さんのせいだし、祐輔さんは謝ったんでしょう?
何が気に入らないんですか。もしかして意味もなく謝ったことが許せない、とか?」
「んー、そうじゃなくて、なんていうか……その反応はないだろう、みたいな」
望月がいいところは、相談に乗りながら、相手の考えをうまく整理していくとこ。
いつも聞き役に徹して、意見も「こうじゃないでしょうか?」みたいな言い方をする。
相手が「それは違う」って言ったらすぐ取り下げる。意見の押し付けは絶対しない。
そういう風に誘導(って言うと聞こえが悪いか)しながら、相手が自然と結論を出せるようにしてくれる。
だからって、うら若き乙女が肌を見られた話をしてしまうのも、どうかと思うけどさ。
まあ、それはともかく。
「反応……だって、慌てず騒がず、妙高さんにバスタオルかけてくれたんでしょう。
それ以外の反応って……んー……例えば僕だったら」
「望月だったら、なに。あんただったら、大騒ぎしちゃう?」
ウブだからね。女の子のおっぱいなんか見たら、慌てふためいて気絶するかも。
「……いや、やっぱり同じようにすると思います。もちろん、びっくりはするでしょうけど」
「何でよ」
望月も祐輔と同じ反応をすると聞いて、私は少しむっとした。
「私の裸なんか、その程度のモンって言いたいわけ?」
「いや、そうじゃなくて」慌てて望月は言葉を継いだ。
「祐輔さんが、いくら小さい頃から妙高さんを知ってると言っても、やっぱり驚くとは思いますよ。
でも僕だったら……やっぱり大騒ぎは出来ないな。一緒に住んでる女性ですからね」
「はあ」
「だって、妙高さんも嫌でしょう。例えば祐輔さんが妙高さんの裸に大騒ぎしたとしてですよ?
そんな様子見たら、いつまでたっても『あ、この人いま私の裸、想像してる』とか思っちゃいませんか」
うーん。そう言われてみると、そうかな……。
大騒ぎなんかされちゃったら、一週間ぐらい祐輔の視線が気になるかも。
たまに電車の中とかで、男の人にじっと胸元なんか見られると、その日一日気分悪いもんね。
いや、見られるほど立派じゃないけどさ、それは置いといて。
「これからも一緒に住むのに、妙高さんのこと……女の子として見ちゃったら、普通には暮らせませんよ」
「やらし。なに、男ってそういう想像するもんなの?」
「あー……いや、それは」
あらら。顔真っ赤にしちゃって。
本当に女の子に耐性がないんだから。
機嫌が悪い理由、分かってきた。
それは、祐輔が私の裸を見ても、全然取り乱さなかったからだ。
あの時、私がものすごい大声で叫んでるのに、祐輔は冷静沈着だった。
全然うろたえもせず、黙ってバスタオルを取ると、私の上半身にかけてくれた。
そのまま言葉にならない悲鳴を上げてる私をおいて、脱衣所から出てっちゃった。
残された私は、何だか取り残されちゃって。
取り乱した自分が馬鹿みたいで。
そりゃ、彼にしてみれば私の裸なんて全然興味ないんでしょうけど。
ちっちゃな時から一緒にお風呂に入ってて、裸なんて見慣れたもんなんでしょうけど。
単なる肉親なんだから、騒ぐ私の方がおかしいんでしょうけど。
――ちょっとは、うろたえて欲しかった。
真っ赤になって、目をそらして。
でも、ちらちらと私の胸の辺りに視線をやりつつ、「ご、ご、ご、ごめん」とかどもっちゃって。
それで、そっとバスタオルをかけてくれたなら。
望月の言うように後々気分は悪いかもしれないけど、でも祐輔のそういう気の使い方が私は気に入らないんだ。
私だって、女なんだ。
そこまで考えて、私はふと気がついた。
私は祐輔に、「女の子」として見て欲しいんだろうか――?
「ねえ、望月。私って――女として、魅力ないかな。その、例えば青葉なんかと比べて、さ」
ちらちらと横目で彼の様子を伺いながら、私は尋ねた。
馬鹿な質問だ。ちょっと仲のいい男の子に聞いていいようなことじゃない。
それでも聞かずにはいられないくらい、最近の私は「自信がない」。
ところが、望月の答えはあっさりしたものだった。
「そりゃ、いつかは妙高さんのこと、好きって言ってくれる男の人も現れると思いますよ」
雨の日が続いても、いつかはお天気になりますよ――それぐらい、単純な理屈。
確かに望月の言う通り。そんな人も、広いこの世間には一人ぐらいいるだろう。
でも、それって。
「それって、今は私に魅力ないってことじゃない?」
「そうは言いませんけどね。相手の望む答えばっかり返しても、面白くないでしょ」
あー。こいつ、酷いやつだ。
でも、やっぱそれでよかったのかもしれない。
望月に慰めてもらっても、私は正しい答えに辿り着けないから。
「じゃあ、僕はここで」
「うん。今日はありがと」
いつもの十字路のところで、私たちは軽い挨拶を交わす。
去っていく望月に、私は声をかける。
「望月」
「何ですか?」
「あんた、やっぱイイ奴だわ。何であんたに彼女が出来ないのか、不思議」
そう言った途端、望月は眉間にぎゅっと皺を寄せて私を見つめた。
「僕も妙高さんにどうして彼氏が出来ないのか、不思議ですよ」
「ちょっと、せっかく私が……」
そういうお世辞言わないから、褒めてあげたのに。
でも、望月は次の瞬間ふっと表情を緩めて、軽く手を挙げて去っていった。
うん。やっぱり、イイ奴だ。
私はちょっぴり自信を取り戻したもの。
よおし。
3.
家に帰った私は、部屋に戻って早速着替えの入ったタンスを開ける。
制服を脱いで、下着姿になった私は、姿見の前に立つ。
それからタンスを全開にして、服を床にぶちまけた。
そう。一度ぐらい祐輔に私が「女の子として可愛い」ってことを認めさせてやる。
そして、私のプライドを復活させるんだ。
私を好きって言ってくれる男の子だって、いつか現れるって自信を。
握り拳を作って気合を入れると、一つ一つ服を検討し始める。
普段はパンツルックが多いけど、やっぱりこういうときはスカートよね。
とはいえ、季節感も大事。残念ながら春っぽいワンピースは一着しか無いんだけど。
うーむ、ちょっと柄が古臭い。まあ仕方ないか、これ買ったの中二のときだもんね。
となるとセパレートスタイルか。ふむ。
一枚のスカートが私の目に止まる。私が気合を入れて出かけるときによく穿く紺のミニスカート。
ちょっと季節は早いけど、これは……
うん、いいじゃない。
太ももからふくらはぎにかけてのラインなんて、我ながらなかなかセクシーだ。
あー、でもちょっと太ったかな? お正月ちょっと食べすぎたもんねー。
ま、いいでしょ。やっぱり少しはサービスしないと、女の子とは見てくれない。
何しろトップレスでも動揺しない相手だ。ここは大胆にいかなきゃ。
自分を奮い立たせるように、私は鏡の目でくるり、と回ってみる。
翻ったスカートのひだが、小さな円を描き、私の短い髪が踊る。
……って、上半身がブラだけじゃ格好つかないね、こりゃ。
上は何がいいかな。
「サービスする」っていっても、さすがにノースリーブとかじゃ寒すぎるし。
いつもならTシャツに、薄手のジャケットとかパーカーみたいなの羽織るけど、それじゃ駄目だし。
春物のニットとか好きだけど、私の持ってるのは色が緑とか黒とか地味だし。うーむ。
と、脱ぎ散らかした服の山の下に、普段ほとんど気にも止めない一着を見つけた。
セーラー風の半袖シャツ。
もちろん学校の制服とは全然違って、どっちかっていうと絵本の水兵さんみたいなの。
確か、青葉と買い物に言った時、彼女がものすごく薦めるから買っちゃったんだ。バーゲンだったし。
子供っぽすぎるから一度も着たこと無かったけれど、これはいいかも。
結局私は、ミニスカートにセーラーシャツという格好に決めた。
脚の太さはあえて気にしないことにして、今回は生足で勝負。少し肌寒いけど、祐輔に勝つためには我慢だ。
それはともかく。
……おお、いつもの私じゃないみたい。
うん。これなら祐輔を驚かせるかも。
にやり、と悪役風の笑みを浮かべて、私は鏡の中の私に笑いかけた。
「ねえ、おかーさん、祐輔さんは」
着替え終わった私は台所に顔を出す。
ところが。台所はからっぽで、冷蔵庫の前に紙が一枚張ってあるだけ。
那智子へ
霧島の叔母さんが『また』調子悪いらしいので出かけます。多分泊まりになると思います。
お昼は冷凍のうどんがあるからそれを食べて。
晩ご飯は、冷蔵庫にハンバーグの種を入れておいたので、焼いて食べてください。
炊飯器は七時に炊き上がるようセットしてあります。
お父さんは残業です。
祐輔さんは大学の関係で帰るのが遅くなるそうです。二人のご飯、よろしく。
母より
読み終わって、私はなんだか気抜けしてしまった。
どうも私が気負うと、それを台無しにするようなことが起こる。
霧島のおばさんは父方の叔母で、なぜか義理の姉であるお母さんとすごく仲がいい。
ずっと一人暮らしで、お母さんに遊びに来て欲しくなると熱を出す人なの。
だからまあ、そっちは心配ないだろう。お母さんの文面も落ち着いてるし。
それにしても、せっかく着替えたのになあ……。
ま、でも祐輔が帰って来たときにこの格好で迎えることは出来るわけだ。
ふふふ、玄関を開けた途端、祐輔が驚く顔が目に浮かぶね。
ていうか、驚いてくれなきゃ困る。意地でも驚いてもらうからな、待ってろ祐輔。
一人真剣に頷きながら、私は居間の方に向かう。
空気を変えようと思って窓を開けた。春めいた風の匂いが、私は好き。
それからソファに座るとテレビをつけ、ぼんやりと眺める。
大したニュースも無く、各地の新学期の模様なんかを伝えてる。
チャンネルを変えても、特に面白い番組はやっていない。まあ平日の午後だしな。
ふわあ……。
駄目だ。なんだか眠たくなってきた。
お昼ごはん作って食べなきゃいけないけど、めんどくさいな。
あんまりお腹も空いてないし、一休みしてから作ろう。
私はごろりと横になる。
あとから考えると、スカートが皺になるから駄目なんだけど。
いつもズボンの私はそこまで頭が回らなかった。眠かったし。
ソファに横になって、ぼんやりとテレビの音だけ聞いていると、なんだか気が遠くなっていく。
窓から吹く風がほんと、心地いい。
カーテンを揺らして通り過ぎる風が……まるで私のほ、……ほを撫でて、るみ、た、い――
4.
突然、辺りが真っ赤に染まった。
船火事だ。私の乗った豪華客船が海の上で火事になったんだ。
火に追われた私は水兵の格好のまま水に飛び込む。
もう皆逃げ出した後なのか、海面には私しかいない。
沈没に巻き込まれないよう、私は必死で泳ぐ。
けれど、泳いでも泳いでも黒々とした水は私を引きずり込むように流れている。
服が濡れて重い。脱がなきゃ。
駄目。この服は祐輔に見せるんだもの。
でも、限界だ。水の中から伸びた見えない手が、私を捕まえようと袖やスカートを引っ張る。
止めて。脱がさないでよ。
私はいつか水の中に引きずり込まれる。
苦しい。息が出来ない。
水面に上がろうともがきながら、私はシャツが、スカートが脱がされていくのを感じる。
そしてそれと共に私は暗い水底に……
「ぷはぁっ!」
私は必死で酸素を求めて、大きく息をする。
布団を跳ね飛ばし、ベッドの上で荒々しく肩を上下させ――「ベッド」?
私は辺りを見回す。
ベッドのすぐそばに地味なシャツとジーパン姿の人が正座している。
ゆっくりと視線を上げ、それが誰か確かめる。
それはもちろん、祐輔だった。
「とりあえず、おはよう」
「……はい、おはようございます」
微笑む祐輔に、私はなぜか四角張って答えた。
私の答えがよっぽど面白かったのか、祐輔は笑いを噛み殺しながら私の額に手を当てた。
「ああ、まだ熱があるな。晩ご飯は僕がやる。なっちゃんは寝てなさい。
あとでお粥か何か作ってあげるから」
祐輔の目の少し心配そうな色に、私は初めて頭がぐらぐらする原因に気づいた。
「頭……熱いです」
そう答えると、祐輔は当然だというように頷く。
「当然だよ。ソファの上であんな寒そうな格好で居眠りしてるんだもの。
窓は開いてたし、ミニスカートで、シャツはまくりあがってお腹丸出しでさ。そりゃ風邪だって引くさ。
僕が帰ってきたら眠りながらウンウンうなされてたんだ、びっくりしたよ」
そう言われて、自分が例の水兵さんの格好じゃないことに気づいた。
いつも来ているパジャマの上下。セーラーシャツは部屋のハンガーに架かっている。
はっとなって、私は掛け布団を抱きしめ、体を祐輔から隠す。
「あ、あの、まさか祐輔さんが……」
「あー、うん……悪いと思ったんだけど。あの格好のまま寝かせるのもどうかと……」
私の頭がかっと熱くなったのは断じて熱のせいなんかじゃない。
見られた。
見られちゃった。
今日のショーツはあんまりお気に入りじゃないのに。
ブラとの上下の統一なんて全然考えずに着けちゃったのに。
いやいやいやいや。問題はそこじゃなくて。
脱がされちゃった。
若い男の人に。祐輔に。シャツと、スカートと。
「言い訳にしか聞こえないだろうけど、出来るだけ見ないようにしたから。
でも、ごめん。なっちゃんは怒っていいと思う」
祐輔は正座したまま、深く頭を下げた。
今朝のアレのあとで、コレ。私はもうどんな顔をしていいのか分からない。
怒っていいのか、泣いていいのかも。
黙りこくっていると、祐輔はそれを「怒り」だと取ったみたいだった。
僅かな床擦れの音をたてて立ち上がると、私の部屋から出て行く。
背中が、妙に小さく見えた。
母親のお皿を割ってしまったから頑張ってお手伝いしたのに、今度はコップを割ってしまった子供みたいに。
「……祐輔さん」
私が思い切って声をかけると、祐輔はドアのところで立ち止まった。
ぎくりと体が震えるのがはっきりと見えた。
私の言葉、それを聞くのがとても恐ろしいといったように。
「…………なんでですか」
きっと祐輔は私が聞きたいことを誤解してるだろう。
だから祐輔がおずおずと口を開くより先に、私は自分の疑問をはっきりと口にした。
「なんで、私をそんな子ども扱いできるんですか」
「なんで、私の裸を見ても冷静でいられるんですか。なんで私の着替えなんて出来るんですか。
なんで、私があんな格好してたと思うんですか……?」
「あの、なっちゃん、君の……」
困ったような笑みを浮かべ、祐輔は振り返る。
ゆっくりと私のそばに戻ってくると、またベッドの脇に腰を下ろした。
今度は胡座をかいて。
「君の言いたいことは分かるよ」
「私ばっかり、損じゃないですか。祐輔さんと一緒に生活することになって、すっごくドキドキするのに。
家にいても祐輔さんの目を気にして、お風呂上がりにうろついたり、下着をベランダに堂々と干したり。
寝癖つけたまま朝ご飯食べたり、コーラ飲んでげっぷしたり、鼻くそほじったり出来ないのに……。
女の子らしく思われなきゃって、結構努力してるのに。なんで祐輔さんは平気なんですか。
なんで普通に私と生活してるんですか……そんなに……」
ヤケクソの私はとんでもないことを口走りながら、ちょっと泣いていた。
「そんなに、私は子供ですか」
そう言ってしまったとたん、顔に火がついたみたいだった。
祐輔に背を向け、布団をかぶる。彼の顔なんて見れるわけない。
何言ってんだ。馬鹿か。私。
「……なっちゃんに再会した時ね」
祐輔の声が不意に優しくなった。
駄々っ子に言い聞かせるように、一言ずつゆっくりと私に語りかける。
私は布団をかぶったままそれを聞いていた。
「『こりゃ、困ったことになった』って思ったんだ。
何しろ僕が知ってるなっちゃんは小さな五歳の女の子だからね。
ところが、目の前にいるのはかわいい、十六歳の女子高生なんだ。
『もし子どもの頃のまま、無防備に暮らされたらどうしよう。
例えば目の前で着替えられたりしたら目のやり場に困る、どうしよう』って。
みんなに誤解されたり、変な心配かけたくないから言わなかったけど。
だからさ、まあ僕も色々気にしてる。
なっちゃんのプライバシーは尊重しなきゃいけない、とか。
見てはいけない物を見ても、あえて目をつぶろう、とか。
実家じゃトランクス一丁で歩きまわってたけど、女の子はそういうの嫌がるぞ、とか。
お茶を啜る時、音が大きすぎるんじゃないだろうか、とか、まあ色々」
自分の告白に自分でウケたのか、祐輔はふふ、と小さく笑った。
「ぶっちゃけ『親しき仲にも礼儀あり』ってことなんだけどね。
そこにいたる道のりは、さ。僕もなっちゃん同様に割と複雑で……つまり、そういうことだよ」
ああ、私いま言いくるめられてる。
それぐらい分かるよ。私の周りには望月近衛っていう、そういうのがうまい男がもう一人いるから。
でも、それは童話の悪魔の誘惑みたいなもので、とっても魅力的な「嘘」だった。
「……ホント?」
布団の隅から目だけ出して、祐輔を見る。
祐輔は、目を細めながら小さく頷いた。もう、ほんと嘘がうまいな。ちくしょう。
でも私は顔が緩むのを止められない。
ちょっとはにかみながら、布団から顔を出す。
祐輔は黙って布団を掛け直してくれた。
「さ、ちょっと寝なさい。何かお腹に入れて、薬飲まなきゃ。
何か食べたいものがあるなら、それを作るけど……」
「玉子おじやがいい」
即答だった。
祐輔は苦笑しながら分かった、と答える。
「他には何かありますか、お姫さま?」
「……ん」
私は頬を染めながら、小さく呟く。
どうせ甘えれる時に甘えてしまえばいいんだ。
熱のせいにしてしまえばいい。明日になったらきっとそんな勇気も無くなるだろうし。
「なに?」
祐輔は私に顔を近づける。
その耳元に、私はそっと囁いた。
「お休みなさいのキスして」
祐輔は恭しく礼をして見せた。
彼の唇が近づく。
私は目をつぶった。目の奥が熱でじんじんする。
でも、祐輔の体温がそれ以上に感じられた。
祐輔が、私の前髪を掻き分ける。
額に、軽いキス。
「……ありがと」
それだけ言って、私はそのまま眠ることにした。
最後に聞いたのは、祐輔が扉を閉める音。もう私はうなされなかった。
祐輔の看病のおかげで、私の風邪は次の日には治っていた。
すっきりした頭で目を覚ますと、ベッドから起き上がる。
今日もいい天気だ。
大きく伸びをすると、私はパジャマ姿のまま廊下に出た。
洗面所の方に小走りに向かう。扉の前で一時停止。ノックは忘れない。
「どーぞ」
中からは祐輔の声。私はためらうことなく中に入る。
「あれ、トランクス一丁じゃないんですか?」
「なっちゃんこそ、今日はストリップショー無し?」
「しょ、ショーじゃありませんっ!」
いくらなんでも、変なこと言われたときは、やっぱりきっちり反論しておかなくっちゃ。
私は、えーと、あれ。そう、痴女じゃないんだから。
二人並んで顔を洗い、髪を梳かし、歯を磨く。
「ご飯は仕掛けておいたから」
「あ、すごい」
「おかずは玉子焼きとサラダぐらいで勘弁ね。おばさんほど料理得意じゃないんだ」
そういうことをさらっと言う男は嫌い。でも祐輔だからかろうじて許す。
「おかずくらい、私が作りますよ」
「いいよ、僕じゃおじさん起こしにいけない」
ああそうか、と当然のことに気づきながら、私は口をゆすいだ水を吐き出した。
その時だった。
不意に玄関の電話が鳴る。
こんな朝に珍しい。
私は顔をタオルで拭きながら廊下に出た。
受話器を取り「はい、妙高です」と告げる。
「祐輔は、いるかな」
その男性の声は、馴れ馴れしかったけれど、聞き覚えの無いものだった。
「祐輔さーん」
受話器を手で塞ぎながら、私は洗面所から出てきた祐輔を呼んだ。
のんびり顔を拭っていた祐輔は、自分に電話だと気づいて慌てて駆け寄ってくる。
「誰?」
「祐輔さんの、お父さんです」
私が答えた瞬間を、私はその後もずっと忘れなかった。
祐輔の表情が、一変したから。
その顔は、私が思わず身を固くしてしまうほど、恐ろしく、冷たい顔だった。
(続く)