1.  
……人生には、決して目を離しちゃいけない瞬間ってのがある。  
例えば、初めて恋人とキスをするとき。  
女の子は目を瞑ってもいいけど、男の子は駄目だと思う。  
それは何ていうか、ロマンチックじゃない。男の子はじっと彼女を見つめなきゃだめ。  
例えば、お気に入りのスポーツ選手の試合。  
一瞬でも目を離したら、そのあと何十年も語り継がれるような瞬間を見逃してしまうかも。  
そうなったら悔やんでも悔やみきれない。  
そういうときは、例え目が乾燥して涙がどばどば出ても、目を開けてなきゃいけないの。  
 
だから、そうじゃないときはゆっくり目を休ませてあげましょう。  
一例をあげれば、議題がほとんどないゴールデンウィーク前のホームルームとか。  
そんなときはぐっすりと眠るに限る。  
教室はエアコンを使わなくてもほどよくいい心地だし。  
授業とは違って、先生だって寝ている私を叱ったりしない。  
せいぜい、そっと私の机の横に立って、「起きなさい、那智子さん」と注意するぐらい。  
――それがそもそもの間違いだったわけだけど。  
 
「……では、最後の一人は妙高那智子さんにしたいと思います、異議はありますか?」  
『ありませーん』  
三十人の声が重なって私はがばっと起きた。  
……確か、今私の名前呼んだよね?  
ああいう時って、一瞬自分が日本人じゃなくなったみたいな気がしない?  
周りでは確かに日本語を喋ってるんだけど、それが理解できないの。  
私もまさにそうだった。  
慌てて見回すと、クラスメイトのみんながにやにやと私を見ていた。  
担任のシスターまで。あらあら困ったものね、みたいな笑顔で私を見つめている。  
戸惑う私の視界に、親友の青葉の顔が飛び込んできた。  
三列向こうの席に座っている青葉が、声を出さずに何か言ってる。  
 
マ・エ・ヲ・ミ・テ……?  
 
私ははっと首をひねる。  
指差す方に目をやると、黒板には私の名前がばっちりと書かれている。  
あの字は副学級委員長の字だー、なんて、私はぼんやりと考えていた。  
私の上には別の名前も並んでいる。  
クラスメイト三人の名前……あれ、青葉の名前もある。  
さらに私は視線を上にやる。  
すると、そこには。  
 
「第45回・校内英語弁論大会 クラス代表」……  
 
「え、え、え、えええ……!?」  
そう。  
人生には決して目を離しちゃいけない瞬間がある。  
何の議題もない「はず」の、ゴールデンウィーク前のホームルーム――とか。  
 
 
その日、家に帰った私はさっそくあの人に愚痴っていた。  
「つまり、居眠りしてる隙に弁論大会の代表に選ばれちゃったわけ?」  
「……そうです」  
祐輔はわざとらしく確認してから、小さく笑った。  
私はじろっと睨んでから、彼の入れた緑茶をそっとすする。  
――あー、悔しいぐらいおいしい。  
何でこんなにお茶入れるのうまいんだろう、祐輔ってば。  
そんなことを思いつつ、私は弁解がましく返答してみる。  
「だって、そんなのこれまで関係なかったんですもん。  
居眠りしちゃっても仕方ないじゃないですか」  
私たちはキッチンに置かれたテーブルに向かい合って座ってる。  
いつも、私が帰宅して私服に着替え終えた頃に祐輔は大学から帰って来る。  
それから二人して飲むお茶。  
それは私たちにとって大事な時間になっていた。  
 
「……だいたい、原因は祐輔さんのせいなんですからね」  
「僕? 何で僕のせいなの?」  
「それは……」  
私は口ごもる。  
そもそも私の英語の成績って大したものじゃなかった。  
クラスでも真ん中ぐらい。学年でいえば下半分に入ってるはず。  
青葉にヤマを教えてもらって何とか人並みな点数を取ってるぐらいだもの。  
あ、ちなみに青葉は英語はかなり得意。  
ところが。  
祐輔に勉強をみてもらうようになってから、私の成績は突然上がり始めた。  
特に苦手だった英語と数学は、先生がびっくりするぐらいの上がり方だった。  
だから、今回クラス代表を選ぶに当たっても、担任の先生は内心私に決めていたらしい。  
 
祐輔の教え方がうまかったわけじゃない。  
でも、私が行き詰まるところは、なぜか大抵、祐輔もかつて行き詰まったところだった。  
だから、祐輔は私が「なぜ分からないのか」をすぐ理解して教えることが出来たってわけ。  
どうやら、私たちは考え方の方向性が似ているらしい。  
……それはそれで嬉しいけど「成績優秀」になると余計な仕事が増えるなんて聞いてない。  
私はそういう知的な役目は回って来ないはずだったんだ。これまでは。  
 
「――八つ当たりじゃない? それって」  
「う、うるさいなあ! もう、とにかく祐輔さんが悪いの! 悪いから、お茶っ!」  
私は空になった湯飲みをドン! と机に置く。  
祐輔ははいはい、と言いながら新しいお茶を入れに立ち上がった。  
こぽこぽこぽ、と心地よい音を立てながら、お茶が注がれていく。  
まるでエメラルドみたいなきれいな色。薄すぎず、濃すぎず、理想的な緑。  
祐輔って、本当にお茶入れるの天才的だ。  
 
「……で、今度の土曜日、私の家で打ち合わせをやるんですけど」  
「へーっ、打ち合わせなんかするんだ」  
ここからが本題だ、とばかりに私は祐輔の顔をじっと見た。  
見つめられた祐輔の方は、まだ事情をつかめずぼんやりしている。  
「ゴールデンウィーク明けには練習始めなきゃいけないんで、みんなで原稿を書くんです。  
――だから、その日は祐輔さん私の部屋に顔を出したり下さいね」  
「なんで?」  
祐輔が首を傾げる。  
ああ、やっぱり分かってない。私はため息をついて、もう一度祐輔を真正面から見据えた。  
 
「女の子の中にひとりだけ見知らぬ男の人がいたら緊張するじゃないですか。  
……みんなお嬢さまで、ずっと女子高の子もいますし」  
本音をいえば、私と裕輔のことを邪推されるのが嫌なんだけど。  
青葉を除けばみんな私がいとこと暮らしてることなんて知らないし。  
 
しばし、無言。  
祐輔の目が、素早く一周した。  
それは彼が物を考えているときの仕草。  
「……OK。分かった」  
でも、祐輔笑ってる。  
「本当に分かってます?」  
「分かってるよ。年頃の女の子の考えることは、よく分かんないってことが」  
「このっ!」  
私が手を振り上げると、祐輔はおどけたように逃げていった。  
ああ、もう。疲れそうだな……今度の土曜日。  
 
 
2.  
「へぇ……ここが妙高さんのお部屋なんですね……」  
「わりかし片付いてんジャン、あたしと全然違うわー」  
そんなこと言いながら、部屋を見回しているのは私のクラスメイト。  
おっとりした様子で、静かに座布団に座ったのが羽黒さん。  
ウチの高校でもいまや絶滅寸前のお嬢様。幼稚舎からの生え抜きだって。  
まるでシスターみたいな黒いワンピースに、真っ白なレースの靴下。  
肩までで切りそろえた髪は毛先まで滑らかで、宝石みたいに輝いてる。  
 
もう一人、あけっぴろげな口調で断りもなく人のベッドに腰掛けてるのがハル。  
本名は霧島はるなって言うんだけど、みんな「ハル」って呼んでる。  
ソフトボール部のエースで、まあクラスに一人はいるお調子者……っていうと怒るけど。  
ボブヘアでパンツルックが馴染んでいるのは私に似てる。  
違うのは彼女はスポーツに加えて、勉強も出来るってことかな。  
ちなみに私はどっちも苦手です。はい。  
 
「でも前に来たときよりは片付いてるよね、なっちゃん」  
そう言って青葉はくすくす笑った。  
私がにらむと、口をそっと手で押さえて目をそらす。  
全く、何が言いたいのよ何が。  
「さすがに散らかしっぱなしじゃまずいもんねー」  
意味深長な青葉の発言に、羽黒さんとハルが反応した。  
「なんですか?」「どういうこと?」  
二人の問いに、青葉は私の方を盗み見る。  
羽黒さんとハルの目が私に向けられるのを感じる。  
「……なんでもないの、いまお茶淹れてくるから」  
『おかまいなくー』  
背中で三人の声がハモるのを聞きながら、私は台所の方へ向かった。  
 
台所で私が湯飲みを取り出していると、隣の部屋の扉がそっと開いた。  
「お客さん、もう来てるの?」  
まるで怖いものでも見るみたいに隙間から片方の目だけが覗いてる。  
……なんだか、失礼だ。私はそんなに怖くないぞ。  
そんな気持ちが表にでちゃったのか、裕輔は私と目が合うなり部屋に引っ込んだ。  
「……私たちはずっと部屋にいますから、裕輔さんはどうぞご自由に」  
「みなさん何時ごろお帰りになるかな?」  
扉の向こうからおびえたような声。ああ、もう。  
 
――別に、そんなつもりじゃないのに。  
ただ、私のいとこだ、とか、小さい頃から知ってるとか。  
そんな理由で挨拶とかされたり、まして「これからもなっちゃんをよろしくね」なんて。  
そんな父兄みたいなこと言って欲しくないから。だから「顔出すな」って言ったのに。  
これじゃまるで……  
でも、もう何を言っても仕方ない。  
とりあえず裕輔さんには部屋にいてもらおう。  
っていうか、そんなに気になるなら出かけてくれれば良かったのに。  
……家に居座って勝手に気を揉んでるのはあなたの勝手でしょう!  
 
もう。  
知らない。  
 
私はポットから急須にお湯を注ぐと、さっさと自分の部屋に戻ることにした。  
裕輔の部屋の扉に「べーっ」と舌を出すことは、忘れなかった。  
 
部屋に帰ると、私たちは作業を始めた。  
英語弁論大会はクラスごとに色々と趣向を凝らす。  
代表は各クラス四人だから、ただ英語でスピーチするだけじゃない。  
たとえば寸劇仕立てにしてみたり。擬似討論(もちろん台本アリ)だったり。  
だからどういう方向性でいくかについては良く考えなきゃいけない。  
ただ、ウチのクラスにはハルがいた。  
彼女の提案で、私たちは「法廷」風でいくことにした。  
もちろん日本のじゃなくて、アメリカのアレ。  
「異議あり!」とか「陪審員のみなさん〜」とか、ああいうの。  
テーマは「自然保護におけるテクノロジー使用の是非」。これは羽黒さんの意見。  
私と青葉は二人の意見にうなずいていればよかった。  
あー、熱心な人とまじめな人がいると話は早い。  
だいたい、私があまりに場違いなんだけどさ。  
 
とりあえず私たちは手分けして筋を考えることにした。  
クラスの代表だから、何度かクラスのみんなの前で発表してみせなくちゃいけない。  
で、クラスメイトの意見を聞いて修正する、と。  
あー、なんでこんなめんどくさいことになったんだか。  
私はぶつくさ言いながら(もちろん心の中だけで)ペンを走らせていた。  
えっと『資源確保は文明社会の維持には必須であることは産業革命以来の……』  
……ハル、もっとやさしい日本語にしてよ。  
だいたい英訳するのが何で私の役目なの?  
もっとさあ、すなおにSVCとかSVOで済む文章を…  
なんて思ってたら、不意に当人が話しかけてきた。  
 
「そういえばさあ」  
私が目を上げると、ハルは手を休めてテーブルに肘をついたまま私を見つめていた。  
「青葉っちに聞いたんだけど、なっちんって従兄のお兄さんと住んでるんだって?」  
私はテーブルの向こうにいる青葉をじっと睨む。  
こっちを全然見ないところをみると、私がお茶を入れている間に余計なこと言ったな。  
おのれ裏切り者。  
視線を横に移すと、青葉の隣に座った羽黒さんは興味津々って感じ。  
……青葉を口止めしておけばよかった、不覚。  
 
「どんな人? どんな人?」  
ハルは身を乗り出さんばかりに聞いてくる。  
分かってたんだ。ハルがこういう人だってことは。  
「別に、普通だよ」  
私はそっけなく言って、自分の原稿用紙に目を落とす。  
そうそう明後日には練習を始めるんだから、今日は遊んでられないの。  
分かったハル?  
 
「すっごいかっこいいよ。背が高くて。それにやさしそうだし」  
青葉……わざとやってるのね?  
確かにさ、さっき英訳するの難しそうなところそっちにこっそり回したけど。  
だからってそんな仕返しはないでしょう。  
「そーなんだ、へー、いいなー、男の兄弟とかー」  
「ハルにだっているじゃん、弟」  
「えー、駄目だよ年下はさー。馬鹿だし」  
まるで飲み屋でクダまいてるオヤジみたいに、ハルは吐き捨てた。  
「中学になったらとたんに生意気になってさー。  
『俺ねーちゃんみたいな女とは絶対つきあわねえ』とか言い出してさー。  
こっちだってお前みたいな男ごめんだっつーの」  
そう言って手をひらひらさせるハルを見て、羽黒さんはくすりと微笑む。  
「仲がいいのね、ハルちゃんと弟さん」  
 
「羽黒さんは一人っ子だっけ」  
私が聞くと、彼女はこくりとかすかにうなずいた。  
「母が体が弱いものだから。父はどうしても男の跡継ぎが欲しかったようだけど」  
「……ふ、ふーん」  
なんだろう。その口ぶりに何かとても生臭い背景を感じて、私は言葉を濁した。  
「最近英語の点がいいのも、裕輔さんのおかげだもんね、なっちゃん」  
青葉の口調には悪びれたところは全然なく、純粋に裕輔のことを尊敬している風だった。  
うーん、やっぱり天然だったか。  
「なに? 勉強見てもらってるの?」  
ハルの問いかけに、うんとうなずく私。  
そのおかげで今こんなことする羽目になってんのよ……とは言わなかった、さすがに。  
「この前の実力試験も校内五位だったから、ご褒美にデートしてもらったんだよねー」  
「こら、青葉っ!」  
叫んだのが逆効果だった。  
羽黒さんとハルは目を輝かしている。もう手を動かしている人が誰もいない。  
 
「うそ、付き合ってんの? 彼氏?」  
「違う、違うよ!」  
あわてたけど、もう遅い。  
ハルはにじり寄ってくるし、羽黒さんは頬を赤らめて私をじっと……。  
ちょっと待って二人とも。  
「ち、違うの! 点数とは関係なく、ちょっと買い物に付き合ってもらっただけ!」  
っていうか、青葉も変なこと言うな。  
「でもさ、好きじゃなかったら買い物につき合わせたりしないよね〜」  
「そうですね」  
ハル、変なところで鋭い……じゃなくて。  
私は無意識のうちに首をぶんぶん振っていた。  
「じゃ、なっちんお兄さんのこと嫌いなの?」  
そうじゃなくって。  
好きとか嫌いとかいう以前に、裕輔はずっと一緒にいるから。  
そりゃ、小さい頃のことはよく覚えてないけど。  
でも私の感覚が、ときどき思い出させてくれる。  
 
裕輔と一緒にいたころのことを。  
 
私は裕輔とずっと一緒にいたいし、多分そうなる。  
ここは私の家で、裕輔の家。  
だから、私たちは――  
 
「会ってみたいです、そのお兄さんに」  
意外や意外。  
そんなことを言い出したのは羽黒さんだった。  
驚いたのは私だけじゃなかった。青葉も、ハルもあっけにとられている。  
そんな三人の視線を感じたのか、羽黒さんはもじもじと少しあとずさった。  
「……だって、とても素敵そうな方に聞こえるし……。  
今日、ご在宅じゃないんですか?」  
ううん。  
首を振って否定すると、羽黒さんはまた少しはにかんだ。  
「ではぜひ。  
それに、おうちにお邪魔したのに、ご挨拶しないのは失礼ですし」  
 
なるほど。  
高貴な人はこういう風に自分のわがままを通すのだな。  
なんて、私が変な納得している間に、どうやら裕輔に挨拶することに決まったらしい。  
じゃあ早速、なんて立ち上がってるのは青葉。  
そういえば青葉も写真は見てても、まだ直接あったことはなかったっけ。  
なんだかんだ言って、羽黒さんに便乗したいみたい。  
 
仕方ない。  
 
あわせてあげますか。「私の」裕輔に。  
 
私が先導して、裕輔の部屋までぞろぞろと歩いていく。  
なんだろう。このちょっとドキドキする感覚は。  
初めて彼氏を友達に紹介するときの感覚?  
たぶん、こんな感じなんだろうか。私は気を落ち着けるために小さく咳をする。  
扉を、ノック。  
 
「裕輔さん、ちょっといいですか?」  
中で慌てて立ち上がる音。  
「……な、何?」  
あ、こりゃ寝てたな。  
「私たち、今から休憩するんですけど、一緒にお茶でもどうですか?」  
 
 
3.  
青葉と羽黒さんとハルを玄関で見送った私は、上機嫌だった。  
ばいばい、と手を振ってそのまま台所へと引き返す。  
すると、裕輔がテーブルに頬杖ついて一人お茶をすすっていた。  
私が入ってくるなり、大きくため息。  
「……なんですか?」  
その態度、私に対してのアピールと受け取った。なんか、文句ありげ。  
いいじゃないの、聞いてあげるわよ。  
 
「で、一応合格だったのかな」  
「何がですか?」  
裕輔の顔が、少し真剣。ちょっとどきっとした。  
こんな顔したのは……。  
確か、彼のお父さんと名乗る人から電話があったときぐらい。  
あのあと、裕輔はすごく沈んでいて、真剣な顔で、私は何も聞けなかったけど。  
今日の理由は、たぶん私。  
「出てくるなと言ってみたり、突然挨拶させられたり。どういうことかな、と思って。  
考えてみるに、僕は試されてたのかな……ってね」  
 
確かに、裕輔はパーフェクトだった。  
あたりさわりのない話題から始まって、やがて親しげな会話へ。  
誰とでも打ち解けるハルはともかく、内気な青葉も最後は声を上げて笑ってた。  
もっと驚いたのが羽黒さん。  
応接間でお茶をしたとき、彼女は最初は裕輔から一番遠いところにいた。  
ところがだんだん近づいていって、気づいたら裕輔のそばから離れなくなっていた。  
裕輔の湯飲みが空になったら甲斐甲斐しく台所に立って新しいお茶を淹れさえした。  
……裕輔、羽黒さんはすごい逆タマだけど、お父さんはたぶん怖いぞ。  
ま、それはともかく、みんな裕輔のことが気に入って。  
私は素敵な男性と暮らしていることが証明できて。  
何の問題もないはずだった。  
 
「……苦手なんだよ。ああいう社交的なことは」  
ポツリともらした言葉に、私は裕輔の本音を聞いたような気がした。  
いつも私をからかってばかりの裕輔が、たまに漏らす本音。  
それはこの家に彼が住むことになったとき。  
私が以前つまらない意地をはって風邪ひいて、看病してくれたとき。  
そんなときにわずかに覗く表情。  
「知らない人の前で、笑顔を作り続けるのって、正直、いやなんだ」  
 
「……どうして、ですか」  
裕輔の言葉は意外だった。  
裕輔ってなんでも如才なくこなしちゃうタイプだと思ってたし。  
お父さんと話すのを聞いてても、大人同士の会話とかすごく得意に見えた。  
じゃあ、あの裕輔の笑顔は、何なの?  
 
「僕はここに来るまで、ずっと親戚中をたらいまわしにされてきたからね」  
「……え?」  
それは初めて聞く、「離れ離れだったころの裕輔の話」だった。  
「親戚って言っても、なっちゃんのお父さんやお母さんみたいな関係じゃなくて。  
血のつながらない叔母さんの、そのいとこの家とか。  
母方の祖父の後妻さんの本家とか。遠い親戚ばかり。  
そんな環境で、僕は小学生から高校生までをすごした。たった独りで。  
母は病気で入退院を繰り返してたし、親父はいなくなってたし……  
とにかく周りから嫌われないでいよう。それだけ考えて過ごした」  
「裕輔さんのお父さんって……」  
この前電話をかけてきたあの人ですか? そう問いかけて、私は口をつぐんだ。  
裕輔が触れて欲しくないことは、明らかだったから。  
 
「叔父さんが――なっちゃんのお父さんが僕を下宿させてくれる……  
そう聞いたとき、僕は息が詰まるような思いがした。  
また、大人の顔色ばかりうかがって生きなきゃいけないんだろうか、って」  
裕輔は何度も頭を振りながら、目の前のとっくに冷めた湯のみを両手で握っていた。  
私は泣きそうになった。  
突然裕輔が、遠くなったような気がしたから。  
そんなことを考えて、この半年裕輔はこの家で過ごしてきたんだろうか。  
私は裕輔の顔も見れないまま、尋ねた。  
「じゃあ、私に笑ってくれたのも……」  
 
「勘違いしないで欲しい、今はそんなこと――」  
裕輔は言葉を詰まらせた。  
それは、私が裕輔を抱きしめたから。  
立ち上がって、裕輔の頭を、ぎゅっと胸に抱きしめる。  
「なっちゃん、あの――」  
「裕輔さん、どこにも行かないでね」  
 
涙交じり言ったら、余計悲しくなって、私は涙をこぼしてしまった。  
そしたら、後から後から涙がわいてきて、止まらなくなって。  
私は裕輔の髪に顔をうずめるようにして、必死に涙をこらえようとした。  
「ここが、裕輔さんの家だから。  
だから、お父さんのこととか、お母さんのこととか、気にしなくていいから。  
私、裕輔さんが何にも気にしないでここで暮らせるように頑張る。  
……裕輔さんのこと、好きだから。  
だから、どっかに行っちゃったらやだ……」  
 
私の背中を、大きくて暖かい手がそっとなでていた。  
それに促されるままに、私は裕輔の首にすがりつく。  
気がつけば、今度は逆に私が裕輔の胸の中に抱きしめられていた。  
 
「最後まで話は聞こう、なっちゃん」  
裕輔は私の頭を撫でている。  
私が見上げると、裕輔はいつものように優しい笑顔を浮かべていた。  
「確かに、僕はここでの暮らしが不安だった。  
でも、それは余計な心配だったんだ。叔父さんも叔母さんも優しかったし……  
何よりなっちゃんがいた。  
小さいころと同じ、やんちゃで、わがままで、僕の知ってるなっちゃんが」  
 
「……褒めてないですよね、それ」  
涙声で責めると、裕輔は声を殺して笑った。  
私も自然と笑みがこぼれる。  
「ありがとう、なっちゃん」  
私は「どういたしまして」と言おうとして……やっぱり止めた。  
そんな言葉遊びはどうでもよかった。それより、私は自然とある行動をとっていた。  
腕を裕輔の首に絡めて、小さく体を伸ばす。  
目指す場所はすぐ目の前にあった。  
軽く目をつぶって。そう、こんなときは目をつぶるの。  
昔からそう決まってる。  
 
小さな子供がふざけてするみたいに、私は唇でそっと裕輔の唇に触れる。  
 
「あ、わっ!」  
突然裕輔が立ち上がったもんだから、私は思わず椅子から落ちそうになった。  
「逃げないでくださいよー」  
「だ、だって……」  
あらら、赤面して。  
なんだか裕輔のかわいい一面を見てしまった。  
キスって言っても軽く触れあっただけなんだけどなー。  
少なくとも、私の初めての相手(たぶんあっちも初めて)はこんなに動揺しなかったぞ。  
修行が足りん、うん。  
 
「ふーん」  
「な……何が『ふーん』なの?」  
「なんでもー」  
うん。  
私はニヤニヤしながら、窓の外を見る。  
なんでもない。  
そう、こんなのなんでもない。小さいころから遊んだいとこ同士にとっては。  
 
――このときまでは私はそう思っていた。  
 
(続く)  
 

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