1.
終わった恋を追っかけるほど、私は暇でもないし、弱くもない。
そう思っていたけれど、親友にその男の子を取られて、自分は振られたとなるとやはり長く引きずってしまう。
とくに、彼氏が出来てその友人とも疎遠になってしまったなんて事だと、余計にそうだ。
友人が、新しく仲間に入ったグループの女の子と楽しそうに話しているのを見て、私はそんなことを思う。
私は鞄を持って立ち上がった。今日は終業式。明日からは冬休みだ。
「あ、なっちゃん」
私が立ち上がったのに気づいて、その「親友」、古鷹青葉が振り返った。
新しい友人たちとの会話を中断して、私の方に小走りに寄って来る。
「帰るの?」
「うん、今日は何だか早く帰ってきなさいって母さん言ってたし」
「あ、そうなんだ」
青葉はちょっと口を尖らせ、残念そうな顔をして見せた。こういう顔は女の私でもかわいいと思う。
くやしいけど、青葉は私なんかよりずっと美人だ。
「青葉は、今日は部活の練習、ないの?」
「んー、ミーティングだけ。休み中の練習予定とか、そんな話だと思う」
そっか、とうなづき、鞄を改めて持ち直す。帰るぞ、という意思表示だ。
「じゃ、またね。バイバイ」
「あ……うん、また電話するね」
小さく手を振る青葉に見送られながら、私は教室を出た。
私は、妙高那智子。聖マリア・マッダレーナ女子高等学校一年。
特に飛びぬけたところがあるわけでもない、普通の女子高生だ。
勉強もスポーツも普通だし、部活もやっていない。趣味はテレビドラマを見ることと買い食いぐらい。
手先が器用ってわけでもないし、料理の腕も、大したことはない。普通だと思う。
「そういや、最近料理してないなあ」
帰り道を一人歩きながら、私は誰に聞かせるわけでもなく呟く。
考えたくなかったその理由に思い至ってしまい、ちょっと憂鬱になる。
私が料理をするようになった理由は、ある男の子に好かれたいと思ったからだ。
そいつの名前は――まあ、いい。思い出すのもちょっと辛いし。
はっきり言って、私は性格的にはさばさばしている方だと思う。
誰かを大好きになることもなければ、大嫌いになることもない。
クラスメイトからは、クールだとか、男の子っぽいなんて言われる。
後の方の評価は、髪がベリーショートで、体型も、ええっと「スレンダー」だからかもしれないけど。
それはともかく。
そんな私が好きになった相手は、親友・古鷹青葉の幼馴染みだった。
何故好きになったか、それを説明するのは難しい。
ただ、最初は喧嘩っていうか無視しあう仲だったのに、私の方はいつの間にかアイツを好きになっていた。
特に口では冷たくしながら、幼馴染みの青葉にさりげないやさしさを見せるのが、なぜかとても素敵に見えた。
だから、最初から私の恋は失敗するって決まっていた。
アイツは青葉が好きで、青葉はアイツのことが好きだった。そんなこと、最初から分かってた。
色々あったけれど、はっきりと私の告白を断って、アイツは青葉を選んだ。
二人とも十五年もお互いのことを想ってたくせに今まで黙ってたんだから、気が長いというか何というか。
でも、それだけ待った(待たされた?)だけあって、付き合い始めた頃の青葉の嬉しそうな様子ったらなかった。
思えば、すごいと思う。十五年かかっても全然心が揺れなかったんだから。
だから、私は振られた女で青葉は恋敵だったけれど、素直に祝福することが出来た。
「お人よしだしね、青葉もアイツも」
そう言いながら、私は胸元から小さなロザリオを取り出す。これは、二人から私へのプレゼントだった。
本当は、青葉とアイツの二人だけが身につけているものだった。いわば、誓いの指輪の代わりだったらしい。
そんな大切な物をくれた理由はよく分からなかったけれど、きっと私も同じくらい大事だって事なんだろう。
でも、やっぱり恋人と友人は違う。
今でも青葉とは友達だし、よく話す方だけれど、以前よりは疎遠になった。
そして青葉は自分と同じように「彼氏持ち」の女の子グループと急速に仲良くなっていった。
それを責めるつもりはない。だって、彼氏の惚気や悩みを私に聞かせるわけにはいかなかったんだから。
そんなとき、自分の素直な気持ちを吐き出す相手として、青葉が新しい友達を作っても仕方ないと思う。
私だって、アイツの事をもう気にしていないとは言えないし、青葉が気を使ってくれたことは感謝してる。
でもそれは、私がまだ終わった恋を引きずっているということでもあった。
――だからやっぱり、私は少し寂しかった。
2.
狭いマンションの四階が私の家だ。
最近ペンキを塗り替えたばかりの扉を自分の鍵で開ける。
「ただいまー」
靴を立ったまま脱ぎ捨て、そのまま居間へと向かう。
「お帰りー、那智子。お客さん来てるから、こっちに来てあんたも挨拶しなさい」
奥の畳の部屋の方からお母さんの声が聞こえた。
お客さんが来てるのか、じゃあ靴を脱ぎっぱなしにするんじゃなかったな。
まあ、いい。あとで隙を見て直しに行こう。
そんな事を思いながら私は和室の前で立ち止まる。
一応セーラーのタイや、制服に乱れがないか確かめる。
これでもお嬢様学校として名の知れたマッダレーナの生徒だ。あんまり恥ずかしい格好も見せられない。
そんなの、私には似合っていないとは思うけど。
静かに襖を開け、中に入る。そして部屋の隅で正座した。
お母さんが、見覚えのない若い男の人と、お茶を飲んでいるところだった。
私は手をついて静かに頭を下げる。
「始めまして。那智子です」
正式な作法とか礼儀はよく知らないけれど、まあ、別に非難されることはない、私はそう思っていた。
だから、私の挨拶を聞いて二人が爆笑したのには本当にびっくりした。
「那智子、何言ってんのあんた?」
「だから言ったでしょう。なっちゃんは僕のことなんて忘れてるって」
「うーん、我が娘ながら薄情だわ」
私はきょとんとして二人の顔を見ている。
私が本当に分かっていないと知って、お母さんが改めて男の人を紹介してくれた。
「ほら、従兄の祐輔くんよ。覚えてない? 小さいとき、よく遊んでもらったでしょう」
そう言われて初めて、私は目の前の男の人と、記憶の底に眠っていた親戚の顔が、ぼんやり重なった。
「……ゆうすけ?」
「ひさしぶり、なっちゃん」
もうすっかり大人になった従兄は、私の目の前で軽く頭を下げた。
「ふーん、ここがなっちゃんの部屋かあ」
祐輔はそんなことを言いながら、私の部屋を興味深そうに見ている。
「あんまり、女の子っぽくないね」
「……失礼ですね」
確かにその通りだ。ぬいぐるみがあるわけじゃなし、花が飾ってあるわけじゃなし。
勉強机にベッド、本棚が二つ、衣装箪笥が一つ。女らしくない部屋だと自分でも思う。
でも、口にされるとやはり腹立たしい。
「大体、祐輔さんに入っていいとは言ってないです」
「冷たいな。これから一緒に住むんだから、それくらい構わないだろう」
「親しき仲にも……です。家族の間にだってプライバシーは必要です」
やれやれ、と両手を大げさに広げている祐輔に、私は頭を抱えた。
――祐輔君、この春から一緒に住むから――
そうお母さんから言われたとき、私は驚きを隠せなかった。
そもそも我が家は両親と私の三人暮らし。それでも狭いと感じるような小さな家なのになんで、って。
どうやら、祐輔はこの春からわが町にある大学に通うことになったらしい。
この時期に決まったということは、推薦入試なのだろう。
学費も免除されたというから、かなり優秀なんだということは私にも分かった。
でも一人暮らしさせる余裕は祐輔の家にはない、だから我が家に下宿することになったらしい。
お母さんは言葉を濁したけれど、もともと、祐輔の家はちょっと複雑な事情があるみたいだった。
そう言えば、私の親戚の集まりで祐輔一家を見たことも、話にのぼったこともない。
祐輔の言葉の端々からも複雑な家庭環境は感じられたから、私もあえてしつこく聞かなかった。
でも、だからと言って我が家に下宿することはないじゃないか。
大体娘に一言も説明無しに……しかし、それはもう私の両親の間で決定済みだった。
お父さんなんか特に乗り気で、「これで息子と差し向かいで晩酌が出来る」とか言ってるらしい。
全く、のんきなもんだ。年頃の娘と年頃の男が同じ屋根の下に住むというのに。
「だいたい、まだ引っ越ししてくるわけじゃないんでしょ?」
「とりあえず、今日は挨拶とか、引っ越しの下調べとか、色々とね」
祐輔はそんなことを言って笑ってる。
「で、私の部屋には何の下調べですか」
私が苛立ち混じりに言っても、祐輔は相変わらず笑ってる。
「なんだか他人行儀だなあ。昔よく遊んであげたのに……」
「……覚えてませんから。すいません」
そう言って私は机に向き直る。用もないのに参考書を開いてみたりして。
そう。
一番の問題は、向こうは私の事をよく知っているのに、私は祐輔の事をほとんど覚えていない、ということだ。
どうも、私が祐輔とよく遊んでいたのは五歳ぐらいまでのことらしい。
それまで祐輔一家もこの町に住んでいたのだが、その後引っ越したんだとか。
それもさっきお母さんから教えてもらったことで、私は全く覚えていない。
だから、彼の馴れ馴れしい態度や意味ありげに囁かれる思い出話も、私にとっては未知の事柄だった。
そのせいで、余計祐輔のことを疎ましいというか、気持ち悪く感じてしまうらしい。
「……本当に、全然覚えてない? 例えば、一緒に歌を歌ってたとき、僕にチュウしてくれたこととかさ」
「な、なんですとっ?」
思わず侍みたいな話し方になってしまった。
そんなの、全然記憶にない――――。そんなこと言われると、妙に焦りを感じた。
「『ほっぺにちゅっ♪』って歌。覚えてないかなあ。なっちゃんが三つぐらいのときだけど。
それを歌ってたときに、周りの親戚が『なっちゃん、祐輔にチュウしてあげたら』って言い出して」
「……そんなの、覚えてるわけないでしょう!」
「いやーそれにしても、この歳になると、大人が親戚の子供をからかう理由が分かるね。
子供ってみんな忘れちゃってるけど、こっちは覚えてるんだもん」
私が怒りをあらわにしても、妙にオヤジ臭いことを言って、祐輔は笑っている。
大体、大人って自分でいう割には、彼はかなり若く見えた。
細面で、髭も薄く、髪も短めに綺麗に切りそろえている。ちょっと垂れ気味の目は、いつも笑ってるみたい。
同級生か、せいぜい一年先輩ぐらいにしか見えない。
そんな男の人が、自分の部屋でくつろいでるなんて……学校から帰るまで、想像もしていなかった事態だ。
「それじゃあさ……」
「いい加減にしてください!」
なおも話し続けようとする祐輔を、私は机を叩いて遮る。
私の剣幕に、彼も少し驚いた顔をしてる。いけない、ちょっとやり過ぎた。
「……ごめんなさい。でも、本当に覚えてないんです。だから、あんまり馴れ馴れしくされても私、困るんです」
そう言ったとたん、私は顔を伏せてしまった。
なぜって、祐輔が一瞬すごく悲しい顔をしたから。
「……そうだね。それに、突然一緒に住むって言われて、心の準備も出来てないだろうし」
そう言うと、祐輔はゆっくり立ち上がった。
ちょっと背中を丸め、私の部屋のドアに手をかける。
申し訳ない気持ちになり、私が肩越しに振り返ると、祐輔と目があった。
柔らかく微笑んでる顔は、何か懐かしいものだったけれど、やっぱり、記憶に薄い。
「なっちゃん」
「……はい?」
祐輔のさびしそうな呟きに、私も恐る恐る答えていた。
「これは覚えてない? なっちゃんが五歳のときまで、一緒にお風呂に入ってたんだけど……」
にかっと笑顔を見せる彼。かっと私の頭に血が上る。
からかわれてた――!?
「こ、このっ、出て行けっー!」
私が参考書を振り上げると、祐輔は笑い声を残して出て行った。
3.
「で、あんたに相談ってわけよ」
「……なんで僕なんですか」
次の日、私は友人を駅前のファーストフード店に呼び出していた。
「だって、こんなこと青葉や創一郎に相談できないでしょ」
「そうかなあ。僕だって、あまり力になれるとは……」
そう言いながら目の前のバナナシェイクをすすっているのは、望月近衛。
過去に青葉に告白したことがある男の子だ。いわば私の恋愛同盟軍だった男だ。
彼は青葉と付き合う、そうすれば私はアイツと……なんて都合の良いことを考えてた時期もある。
まあ、それはともかく。そんなことがあってから、彼は私の数少ない男友達になっていた。
「つまり、その祐輔という人と一緒に住むのが嫌なんですか?」
「……嫌ってわけじゃないんだけど、まあ、なんていうか、困る」
彼がいると、どうしても余所行きの顔をしなくちゃならない。
向こうはこっちをよく知っているかもしれないけど、私には今のところ他人だし。
そう、私には他人なのに、彼にとって私は良く知った妹みたいな存在らしい。だから厄介なのだ。
そんな人間とこれからずっと寝起きを共にするなんて、まっぴらだった。
実際、今日も祐輔と同じ家にいるのが息苦しいから、わざわざ望月をこんなところに呼び出したんだから。
「なんで一緒に住む話が出たときに反対しなかったんですか?」
「そりゃ、仕方ないじゃない。だって……」
この話が持ち上がったとき、私は自分の恋愛の事で頭が一杯で、それ以外は考える余裕がなかったのだ。
毎日何だか慌ただしくて、家に帰ってもへとへとで、両親の言うことなんてまともに聞きもしなかった。
今思えば、なんだか同居人がどうこうと話していたような気もするんだけれど。
「自業自得じゃないですか」
「そ、それは……だいたい、あんたが青葉を落とすの、失敗するからいけないのよ!」
「そんな無茶なぁ」
「あっさり創一郎に青葉ゆずってんじゃないわよ。男ならねえ、こう力づくでもモノにするっていう……」
「妙高さん、声が大きい」
望月に言われて慌てて口をつぐむ。余り大きくもない店中の視線が、私たちの方を向いていた。
繕うみたいにひそひそ声で、私たちは話し続けた。
「……なんとか、出て行ってもらえないかなあ」
「無理だと思いますけどね」
望月はまたズズッ、と大きな音を立ててシェイクをすすった。
「奢ってあげてるんだから、ちょっとはいいアイデア出しなさいよ」
「そう言われてもなあ」
望月はちょっと真剣な顔で私を見た。
こういう目で見られると少しどきっとする。はっきり言って望月はイイ男だった。
「僕ら、まだ子供ですからね。養ってもらっている身で、御両親が決めたことに逆らうのは難しいですよ」
「そんなこと分かってるけどさ……突然十八歳の兄が出来たなんて言われたら、望月だって悩むでしょ?」
「まあ、そりゃそうですけど……」
そう言って私たちはまた黙り込んだ。
さっきから話はぐるぐるぐるぐる、同じところを行ったり来たりだ。
結局、結論は分かってる。私の両親が賛成している以上、この決定は覆しようがないって。
でも、私は嫌なのだ。何か嫌なのだ。
「……あ。例えば…………いや、こりゃ無茶苦茶だな」
望月がそう一人呟き、一人で勝手に納得している。私は彼の顔を覗き込んだ。
「なんか、アイデアがあるなら言ってみなさいよ、勝手に納得しないでさ」
「あ、でも……なあ」
望月はそうやって、さんざんしぶった挙句、やっと話し始めた。
私のネックハンギングツリーが物を言ったのかもしれない。
「つまり、御両親が、その人を家には置いておけない、って思えば良いんですよね」
「そうね」
「じゃあ、例えば、その人が妙高さんに何かいけない事をした……例えば、お風呂を覗いたとか、その……。
下着を盗んだとかそういうことになれば、御両親もその人に出て行ってくれというんじゃないか、と」
「はぁ」
呆れ気味に息を吐く私。
「だから、例えばこっそり彼の鞄に妙高さんの下着を隠しておくとかすれば」
「…………あんた馬鹿でしょう、実は」
「だから無茶苦茶だって、あらかじめ言ったでしょう?」
私はちょっと期待した事を後悔した。それじゃあ全く犯罪者じゃないか。
たとえ濡れ衣でも、身内からそんな人間が出るのは嫌だ。というか、もっと困る。
でも、彼が例えば身内に手を出す変態じゃないという保証はない。
よく考えると、祐輔のことなんかまるで知らないのだから。
見た目はおとなしいけど、人は見かけによらないって言うし。ああいう優しそうなのに限って案外……。
「んー……確かにありえるわよね……」
「あの、ちょっと、妙高さん?」
私が真剣な顔をしているのに気がついたのか、望月が不安げに声をかけてくる。
「あの、まさかとは思いますけど、本気でそんなこと……」
「ま、まさか」
そう言ってごまかしたけれど、私の頭の片隅に、望月の考えはしっかりと記憶された。
なおも不安そうな望月に、私はぱっと立ち上がりつつ声をかけた。
「うん、今日はありがと。参考になったわ」
「ちょ、ちょっと、妙高さん? 妙高さーん?」
望月の声を無視して、私はさっさと店を出た。
4.
私は今、自分の下着を手に、祐輔の部屋に忍び寄っていた。
どうやら祐輔はお母さんと出かけているらしい。家には誰もいなかった。
台所には昼過ぎに帰るという書き置きがあった。ということは、時間はたっぷりあるということだ。
祐輔の寝室になっているのは、将来彼の部屋になる予定の四畳半ほどの物置部屋だった。
大学生の部屋としてはあまりに小さいけれど、そこしかないのだから仕方がない。
一応扉には鍵がかかるようになっているのも理由かもしれない。
部屋の前に来たとき、私はそれを思い出して、我に帰った。
一体何してるんだ、私。
何にも悪いことしてない祐輔を、下着ドロに仕立てて追い出そうなんて、何馬鹿なことを考えてるだろう。
勝手に彼が変態かもしれないなんて都合の良い(悪い?)こと考えたり。
大体、部屋に鍵がかかってるから、何か仕掛けることなんて出来るはずないじゃないか。
私は心のどこかで、祐輔がちゃんと鍵をかけて出かけた事を期待していたのかもしれない。
そうであれば、こんな馬鹿な事は冗談というか、一時の気の迷いだったと自分を納得させられる。
――でも、扉はあっけなく開いた。
普段はあまり出入りしない物置部屋は、埃と樟脳の臭いがした。
ぎっちりと箪笥や物入れが置かれた部屋は、薄暗く、息が詰まりそうだ。
部屋の隅には客用の布団がたたまれている。そして、壁のハンガーには何着かの上着がかかっていた。
お父さんのものにしてはちょっと若向きだから、きっと祐輔のものだろう。
さらに、たたまれた布団の脇に、グレイの大き目のスポーツバッグが置いてあった。
私は、そっと座り込んだ。
そして、手に持った下着を見る。シンプルな白に、僅かなレースの飾りがついたお気に入りの一品だった。
これをどこかこの部屋に隠しておく。例えばこの部屋の大きな衣装箪笥とか。
そして、祐輔がいったん自分の家に帰ってから、私は両親に言うのだ。下着が一枚なくなっている、と。
それから私は適当に別のところを探した後で物置部屋に入り、自分の下着を見つけ……。
「出来るわけないじゃん」
口にしたら、さっきまでちょっとでも実行しようと思っていた事が信じられない。最低だ、私。
一緒に住むのが嫌なら、ちゃんと嫌だと両親や本人に言えばいい。
それでもし私の意見が却下されても、それは話をちゃんと聞かなかった私が悪いんだから。
こんな卑怯なことしたって、何にもならない。
そのとき、私はハンガーにかかった上着のポケットが、不自然に膨らんでいるのに気づいた。
私は黙って立ち上がる……まさか、本当に?
いけない、と思ったけれど、私の手は勝手に祐輔の上着に手を伸ばしていた。
ポケットからその膨らみの原因を取り出す。
それは、もちろん私の下着なんかであるはずもなく、定期入れぐらいのミニアルバムだった。
表紙はなく、一番上の写真はそのまま見えるようになっている。
そこに映っているのは、一家の写真だった。
男の人と女の人が並び、女の人は小さな男の子の手を引いている。
どこで撮られた物かは分からなかったけど、それはかなり古ぼけているように見えた。
男の子が誰かは、すぐ分かった。
陰気な顔をして、じっと地面を見つめている彼は、小さな頃の祐輔だった。
両親であろう男女は、表面上笑みを浮かべているけれど、なぜか家族の写真としては違和感を感じた。
しばらくそれを見ていた私は、やがてその理由に気づいた。
お互いの距離だ。
寄りそうでもなく、かといって離れているわけでもない。それは最もよそよそしい人同士の距離感だ。
男の子だけはその冷たい空気に正直に反応し、両親から出来るだけ離れようとしている風に見えた。
いたたまれなくなって、私はアルバムを裏返す。
すると、もう一枚の写真が目に飛び込んできた。
おそらく神社の境内で撮ったであろう写真。そこに映っているのが誰か、私にはすぐ分かった。
それは若い頃の私の両親。真ん中には正装した祐輔と、彼と手を繋いだ女の子。
私だった。
写真の中の四人は、とても幸せそうに笑っている。
お父さんはわずかに胸を張っていて、ちょっと緊張しているみたいだった。
お母さんは少し腰をかがめ、祐輔と私を優しく見つめていた。
写真の私は、祐輔の手にしっかりと掴まって、カメラではなく祐輔に微笑みかけていた。
そして、祐輔は――
さっきの写真とは別人のように、にこにこと笑っている。まるで、家族の一員みたいに。
「……なっちゃんの七五三のときの写真だよ」
「ひゃっ!?」
私は慌てて振り返る。
いつの間にか祐輔がドアのところに立っていた。急いで手に持っていた写真と下着を背後に隠す。
「……あ、あの、私……」
「それ、覚えてないかもしれないけど、なっちゃんが三歳のときの写真さ」
祐輔は私が何故ここにいるのかとか、何故写真を見ているのかなんて、気にも止めていないようだった。
そっと私に近づき、手を差し出す。
私は後ろに隠した写真を、彼に黙って返した。
「……あの、ごめんなさい、勝手に」
「いいよ。この前は勝手になっちゃんの部屋に入ったからね。おあいこだ」
そう言って笑う祐輔の顔に、私はかすかな見覚えがあった。そうだ、小さい頃もこんな風に……。
そんな私の気持ちには関係なく、祐輔は言葉を続けた。
「それに、これはなっちゃんの写真でもあるし。これを撮ったの、ウチの親父なんだよ。
でも、これを撮ったあとウチの両親は他の親戚と仲が悪くなってね。結局渡せずじまいだったんだ……はい」
そう言うと、祐輔はその写真を抜き取り、私の方に差し出した。
「あげる。七五三の写真なんていまさら要らないかもしれないけど」
「え、あ、で、でも……」
私は、それを受け取るのが何かとても申し訳ないような気がした。
なぜって、その写真はどう見ても、祐輔にとって一番大事な写真のようだったから。
でも、祐輔は黙って私にその写真を持たせ、部屋を出て行った。
私も急いで後ろを追いかける。
祐輔はダイニングキッチンの椅子に腰掛けていた。私は彼の隣に立つ。
「……やっぱり返します。だってこれ、祐輔さんの大事なものでしょう?」
そう言っても、祐輔はただ首を横に振った。
それでも、写真を彼の目の前に突きつける。けれど、祐輔はその写真に目も向けようとしない。
私は苛立って、強引に彼に写真を握らせた。そんな私の様子に、彼は戸惑っているようだった。
「これはいただけません……私、あなたのこと全然知りませんから」
「うん」
受け取った写真に目を落としながら、祐輔はうなづいた。
それは何か大きなものをあきらめているように、私には見えた。
「写真だけあったって、意味ないです。だって、思い出のない写真なんて、ただの紙だもの」
「そうかもしれないね」
「……七五三のことなんて覚えてませんし、一緒に遊んだことも、チュウのことも、お風呂のことも、全部」
祐輔は、私の言葉を聞きながら立ち上がった。
それから、自分の部屋へと戻っていく。まるで私の言葉から逃げようとしているみたいだった。
だから、私は急いで付け足した。
本当に言いたいことを、まだ伝えていないから。
「……でも、これからのことは違うと思うんです。だって……一緒に住むんだから」
祐輔は立ち止まり、振り返る。
自分でも何でこんな事を言ってしまったのか分からない。でも、言葉は素直に自分の気持ちを伝えていった。
「そしたら……思い出すかもしれない。小さかったときの事も。そう思うんです」
はっきりとは言えない。けれど、こうやって少しずつ話せば、思い出すかもしれない。
そうすれば、彼と一緒に生活することも苦にはならない、そんな気がした。
「それまでは、この写真祐輔さんが持っていてください」
「……ありがとう、なっちゃん」
祐輔が笑った。
私も微笑み返す。
「……小さい頃と、同じだね」
「え?」
「笑い方だよ。小さい頃とおんなじ笑顔だ……とってもかわいい」
「え……ええっ? あっ……へ、変なこと、言わないでくださいっ!」
思いっきり睨みつけてやる。やっぱり、からかわれているような気がする。
それでも、彼は笑ったままだった。
――やがて、祐輔がいったん実家に帰る日が来た。
私はやっぱり落ち着かない日々を過ごしたけれど、少しは彼に慣れることが出来たと思う。
だって、玄関に見送りに立ったとき、私は少し、ほんの少しだけ「寂しい」と思ったんだから。
「それじゃ、次は春休みですね」
「ええ、お父さんが車出してくれるから、引っ越しのことは安心して。那智子も手伝わせるし」
「えー」
私の不満げな声に、お母さんと祐輔は目を見合わせ、祐輔は肩をすくめたようだった。
「全くこの子は……やっぱり薄情ね」
お母さんの呆れ声。
「いや、そうでもないですよ……ね?」
そう言って祐輔は私に思わせぶりにウインクして見せた。
ぽっと頬が熱くなる。
そんな私たちを見て、お母さんは不思議そうな顔をしていたけれど、結局何も言わなかった。
「それじゃ、また」
「あ、待って。駅まで送る」
私はとっさに靴を履いていた。
驚くお母さんを無視して、玄関にかかった薄手のコートを羽織る。
そして、急いで祐輔の後を追いかけた。
玄関のドアが閉まり、私たちは二人きりになった。
「……どういう風の吹き回しかな」
「べ、別にいいじゃないですか。散歩代わりに送っていくだけです」
「ふーん」
祐輔の顔が少しにやけているようだけど、気にしない。
気にしたら負けだし、どうせこれからずっとこんな調子なんだろうから、気にしてたら身がもたないもの。
「じゃ、行こうか」
そう言って歩き出す祐輔の、片方の手は空いていた。
私は彼の隣にそっと並び、横目で見上げる。まるで、それを待っていたかのように、祐輔と目があった。
「……手、繋いでいいですか」
彼は黙って手を差し出す。私はそれをそっと握った。
(終わり)