家に着く頃には、日は完全に落ち、時刻は八時を回ろうとしていた。すでに明かりのつい
ている玄関を開け、ただいまと言うと、おかえりなさ〜いと、小走りに美雪がリビングか
ら出迎えに来た。
「もぉ〜、おそいよ悠にぃ」
開口一番に、美雪が不満の声を上げる。
「ごめんごめん、ちょっと荷物持ちが長引いた」
美雪が笑う。その顔を見ながら悠介は、本当のことを言えるはずがないと、胸の奥でつぶやいた。
「お腹すいちゃったから、早くごはん一緒に作ろ」
言葉を言い終えると、美雪は悠介の腕をつかもうと手を伸ばしてきた。しかし、悠介は反射
的にそれを避けてしまった。
「ん?どうしたの?悠にぃ」
きょとんとしながら美雪が聞く。
「いや、なんでもない・・・・・・。それより早く作ろう、こっちもお腹すいてきた」
ぎこちない笑顔を浮かべながら悠介が言う。美雪はその顔には気付かず、うんと頷いた。
その頷きを見ると、悠介は先手を打つように、美雪の横を通り過ぎ台所に向かった。とこ
とこと、後から美雪がついてくるのがわかった。
すでに夕食の片付けも終え、悠介はリビングでテレビを点けながらくつろいでいた。美雪
はというと、途中まで悠介と後片付けをしていたが、悠介に、今日はもう遅いから先に風
呂入っとけと言われたので、今は風呂に入っている。
悠介はテレビを点けていたが、見ても聞いてもいなかった。テレビの音をBGMに、考
え事をしていた。無論、美雪のことである。日向の言った事に納得した悠介ではあったが、
いまひとつ、距離というのがわからなかった。普通の兄妹の距離がわからないと言ってもいい。
「一緒に料理ぐらい作るよ・・・・・・な?」
納得させるように独り言をつぶやく。そうしている内に、美雪が風呂から上がってきた。
「悠にぃ、お風呂空いたよ〜」
わかったと、美雪に向かって悠介は言おうとしたが、あわてて悠介は顔を背けた。
「どうしたの悠にぃ?」
「服くらい着ろよな・・・・・・」
片手で頭をかきながら悠介が言った。悠介の言ったとおり、美雪は服を着ずに、バスタオ
ル一枚でリビングまで来ていた。
「だってまだ暑いんだもん」
そう言いながら、美雪は体に巻いているバスタオルの胸元を、パタパタと仰いだ。仰いで
いる隙間から、まだ幼い谷間が見え、悠介は顔を背けながら赤面した。
「悠にぃ、顔赤いよ?」
と言いながら、美雪は悠介に近づいてくる。
「なんでもない・・・・・・」
小声で悠介が言う。それが聞こえなかったのか、えっと聞き返しながらさらに美雪が悠介に迫った。
「だから大丈、おっ、おい!」
悠介が再び振り返った時には、美雪はすでに、悠介の眼前まで迫っていた。
「大丈夫悠にぃ、ホントに顔赤いよ?」
そう言うと、美雪は悠介の額に手を伸ばした。大丈夫だってと悠介は言い、美雪の手をさ
えぎろうと、体を引きながら美雪の手を掴んだ。が、体勢が悪かったのか体を引いた拍子
に、ソファーに載せたはずの手がすべった。
「きゃっ」
手を急に引かれ、美雪は軽い悲鳴を上げながら、よろめいた。
「くっ!」
二人でバランスを崩し、危うく床へ倒れそうになったが、悠介はなんとか美雪を引き寄せ
ソファーに倒れこんだ。悠介に引き寄せられたため、美雪は悠介に覆いかぶさる格好にな
り、やわらかい感触が悠介を包んだ。覆いかぶさったまま、美雪は悠介の首筋に顔をうず
め、動かなかった。
「大丈夫か」
と悠介が言うと、軽く身じろぎをしながら
「うん・・・・・・」
と美雪が答えた。首筋に美雪の吐息と髪の毛がかかり、悠介は少し胸の奥が熱くなるのを感じた。
「・・・・・・」
美雪は動く気配を見せない。
「美雪?」
再び声をかけても、起きる気配がなかった。いつまでもこうしている訳にもいかないと思
い、悠介は美雪を起すため、肩に手をかけようとした。しかし、肩とは対称的なやわらか
い感触が、悠介の手のひらを包んだ。悠介は固まった。美雪の頭で手の位置がわからず、
あろうことか美雪の胸を悠介は揉み上げていた。胸を触られ、美雪はビクンと体を動かし
たが、今は身じろぎ一つしていない。
落ち着けと悠介は自分に言い聞かせたが、下半身はそうもいかなかった。悠介の分身は
いつの間にか膨張し、美雪の太ももを押し上げていた。美雪は悠介のシャツを胸元で掴み、
心なしか体を密着させてきたように悠介は感じた。悠介はその体勢のまま激しく狼狽し、
とりあえず謝ろうと口を開いたが、美雪のほうが口を開くのが早かった。
「悠にぃ・・・・・・」
顔を真っ赤に染め、切なげな表情で美雪は悠介を見つめていた。そしてそのまま悠介の胸
を押し、そっと顔を近づけてきた。美雪が近づくにつれ、悠介は自分の心臓の鼓動が速ま
っていくのがわかった。そしてお互いの鼻先が触れ合うような距離になったとき、美雪は
その潤んだ瞳を閉じた。悠介は動かない。美雪が何をしようとしているか十分に分かって
いたが、体が言う事を聞かなかった。バクンバクンと、すでに心臓は止めようのない速さ
で脈打っている。美雪の吐息が間近でかかり、唇が触れると思った瞬間。
トゥルルルルル
「「!!??」」
ガバッと、二人は弾かれたように離れた。美雪はペタンと床に座り込んでしまい、悠介も
ソファーの端で荒い息を吐いていた。時を忘れ、ただ呆然としていた。いつ切れたのか、
すでに電話も音を立てていなかった。今はテレビから流れてくる音だけが、向坂家を支配
している。いつまでもこの状態が続くように思われたとき
トゥルルルルル
と再び電話が音を立て始めた。さっきまでは切れたことすら分からなかったのに、いまで
はひどく鮮明に悠介の耳に入ってきた。その音にせかされるように、悠介は慌ててリビン
グの隅にある電話まで駆け寄った。
「は、はい向坂ですが」
胸の動悸が治まっておらず、声が裏返った。
「ん?俺だけど、どうかしたんか?」
声の主は翔平であった。
「いや・・・・・・なんでもないよ。それよりなんか用事あったんじゃないのか」
「あ〜そうそう、ちょっと聞きたい事があったんだ」
今思い出したかのように翔平がつぶやく。本題に入らない翔平に少し苛立ちながらも、悠
介は受話器に耳を傾ける。
「いやね、明日の一時間目って授業何すんだっけと思ってね」
「・・・・・・」
「おい悠介?聞いてるか?」
「聞いてるよ・・・・・・、一つ言っておくがな・・・・・・」
沸々と怒りがこみ上げてくるのが分かる。
「ん?」
「どうせ一時間目なんて間に合わんだろうが!!!」
ガチャンと乱暴に受話器を置く、その頃になると胸の動機はだいぶ治まっていた。
ふとその時、美雪の顔が頭に浮かび悠介はリビングに目を向けた。だが美雪の姿はすで
にそこにはなく、おそらく部屋にでも行ったのだろうと悠介は思った。
―――さっきはああ言ったが・・・・・・。
翔平には感謝しないといけないなと悠介は思った。まだ美雪の体の感触が残っている。あ
のまま何も起こらなかったら、俺は何をしたかわからないと胸の奥で考える。さっきまで
していた動悸とは違う、締め付けるような感覚が悠介の胸を襲った。
「風呂入るか・・・・・・」
悠介は風呂に足を向ける。今は一秒でも早く、風呂に浸かって疲れを癒したいと思った。
そう思うと、さっきまでは感じていなかった疲れまで出てくるようで、悠介の足は自然と
重くなった。
その重くなった足を引きずり、風呂場に向かう。更衣室のドアを開け、緩慢な動作なが
らも服を脱いだ。さっきまで美雪の入っていた浴室に入ると、むせ返るような湿気が悠介包んだ。
時刻は七時四十分、悠介は普段より少し遅く朝食を作っている。基本的には日本食がメイ
ンの向坂家だが、今朝は趣向を変え、トーストとスクランブルエッグというシンプルな物
になっていた。たまには違う物にしようという気持ちもあったが、事実は少し異なる。
今朝悠介はいつもより遅く起きた。原因は昨日の出来事である。悠介は夜遅くまで先刻あ
った出来事を思い出し、いろいろと考えていた。今後どうやって美雪に接していけばいいの
かをである。しかし考えはまとまる筈もなく、結局グダグダと夜遅くまで起きてしまった。
ただ、距離云々という話でなくなったなと悠介は思った。
その悩み事のおかげで悠介は気が重くなり、普段より遅く起きて手軽な朝食を作っている。
卵をかき混ぜながら、まだ完全に活動していない頭で、悠介はどうしようかとまた別のこと
を考えていた。
「そろそろ起しに行かなきゃ・・・・・・な」
悠介が独り言を言う。美雪はまだ寝ているだろう。数日前ならなんとも思わず済んだのにな
と、悠介は気疲れした頭で思った。
―――美雪に・・・・・・。
どんな顔をして起しに行きゃいいんだと、悠介はフライパンに玉子を流し込みながら思案す
る。美雪の気持ちはすでに、昨日の出来事で分かっている。どんな鈍い奴でもあれだけの反
応をされたら気付くと、悠介は思った。
だがその気持ちを知りつつも、悠介は美雪を受け入れられない。嫌いとか迷惑という訳
ではまったくない。大切だからこそ、美雪の気持ちは受け入れられないと悠介は思って
いる。兄としての最後の意地だった。
チーンとパンを入れたオーブンが鳴った。悠介は皿にパンを乗せ、テーブルに手際よく
並べる。今日は先に行くかと思ったのはその時である。
美雪だって子供じゃない、ほっとけばそのうち起きるだろうと悠介は思うことにした。
そう決めると悠介は早い。スクランブルエッグを作り終えると、ものの五分で朝食を平
らげた。そして鞄を取り、追い立てられるようにして悠介は美雪を残した家を後にした。
家の中では分からなかった陽射しが、悠介を容赦なく照りつけた。
四時間目の終わりのチャイムが鳴り、日直の号令で午前中の授業が終わりを告げた。教室
にいる生徒は思い思いの声を上げ、昼飯を食べる定位置へと散っていく。悠介もまだ疲れ
が残っている体を起し、弁当を出そうと鞄に手を伸ばした。しかし、そこにあるはずの弁
当はなかった。
「あっ・・・・・・」
悠介が小声でつぶやく。やっと働き始めた頭をフル回転し、朝の出来事を思い出した。あ
れじゃあ作って来れるわけがないなと悠介は自嘲する。
すると、悠介の指摘どおり、一時間目に間に合わなかった翔平がやって来た。
「どうした、飯食わんのか?」
翔平が、悠介の前の席を陣取りながら聞く。
「食べん訳じゃないけど、今日は弁当を忘れちまってね」
嘆息しながら悠介が言う。翔平は珍しっ!と言いながら片手に持ったパンを頬張った。
「ふぉんじゃあ、購買でふまへるのか?」
パン頬張りながら翔平が言う。何とかその言葉を聞き分け、続けて悠介が言った。
「それしかないだろ、それとも、なんかくれんのか?」
「いや」
一呼吸も置かずに翔平が言う。パンを頬張っているのに、その言葉だけは力強くはっきり
と悠介に聞こえた。
それじゃあ仕方ないと言い、悠介は席を立った。
「早く行かないとなくなるぞ〜」
「そんなに早くはなくならんだろ?」
「甘い菓子パンがいいのか?」
席に座ったまま、翔平が口の端を持ち上げながら言った。
「それは勘弁してもらいたいな」
悠介は苦笑しながらそれに答えた。
初めて行った購買はだいぶ並ばなければいけなかったが、悠介は目的の物を難なく手に
入れられた。
―――翔平の奴・・・・・・。
適当なこと言いやがってと、悠介は心の中で愚痴を言った。
翔平の助言を受け、少し急いで来た購買は、すでに列を成した生徒でごった返していた。
列といっても殆ど列の意味を成していなく、悠介はただ待っているだけでは一生進まな
いとすぐに察した。
クーラーの効いてない購買前は蒸し暑く、最前列に着いたときには汗だくになっていた。
しかしこれだけ生徒がいるのにもかかわらず、購買の品物は減る気配がなかったように
悠介は思う。
財布をしまい、今買ったばかりのハンバーガーとから揚げサンドを手に人波に逆らって
進む。心なしか、悠介が来た時よりも人が減っているような気がした。
人波を抜け、なんとか廊下へ逃げ出す。早く教室のクーラーで体を癒そうと階段へ向か
う時、向こうから見知った女の子が来るのを悠介は認めた。
「美雪・・・・・・。」
しまったなと、自分の浅はかさを悠介は罵りたい気分だった。自分が弁当忘れたのに美
雪が持って来れる訳がないと、いまさらながらに気付く。
悠介が踵を返そうとする、がそれより早く美雪が悠介の姿を認めた。その視線に、悠介
は蛇に睨まれたように動けなかった。
「悠にぃ・・・・・・」
恐る恐る美雪が悠介に近づく。その姿に悠介は昨日の美雪を思い出してしまい、自分の胸
が高鳴るのがわかった。
「ちゃんと来れたんだな・・・・・・」
「なんで起しに来てくれなかったの」
少し強い口調で美雪が言う。その言葉の中に、非難が混じっているのが悠介にはわかった。
「ずっと待ってたんだよ・・・・・・」
「・・・・・・」
「もしかして・・・・・・わたしのこと嫌いになっちゃった・・・・・・?」
美雪が今にも泣いてしまいそうな表情で言った。
今まで忘れていた罪悪感が、悠介の胸を急速に締め上げる。その間にも美雪の瞼には涙
がたまり、思わず悠介は口を動かした。
「いや、そうじゃない。今日は、俺も寝坊しちまってな・・・・・・、それで起こしにいけなか
った・・・・・・、あと弁当も」
悠介が理由になってない事を口走る。何言ってんだと自分の言った事に舌打した。
「・・・・・・」
探るような仕草で美雪が悠介を見つめる。さっきまでの表情とは打って変わり、その瞳は
まっすぐに悠介を見つめていた。
数秒美雪はじっと悠介を見つめていたが、すぐ元の表情に戻り、不安げな感じに口を開
いた。
「そう、なんだ・・・・・・」
「・・・・・・」
「明日は、起してくれるんだよね・・・・・・?」
美雪の望む答えを言ってやりたかったが、悠介は口をつぐむ。その態度に、美雪は懇願す
るように再度答えを求めた。
「ね・・・・・・?」
「明日からは一人で起きろ」
「えっ」
悠介が視線を逸らしながら冷たく言い放つ。だが視線を逸らしているはずなのに、悠介に
は美雪の顔が歪むのが分かった。
「な、んで・・・・・・?」
「もう子供じゃないだろ・・・・・・、それに、いつまでも一緒にいてやれる訳じゃない」
「・・・・・・」
美雪が黙る。
沈黙に耐えかね、悠介は美雪をチラと見た。美雪は下を向き、下唇を噛みながら必死に
涙を抑えている。その仕草が容赦なく悠介の胸を抉った。
すると、その視線に気付いたのか、美雪が瞳を上げた。瞳を上げた拍子に、大粒の涙が
美雪の頬を伝う。美雪は涙を拭きもせずに、かすれた声で言った。
「そう、だよね・・・・・・、ごめんね、悠にぃ」
言い終わらぬうちに美雪が小走りに走り去った。悠介はその後姿を黙って見送る。いまま
でに経験したことのない喪失感が、悠介の心に大きな穴を開けた。
―――これで・・・・・・。
よかったんだと自分に言い聞かせる。しかし、一度開いてしまった穴は塞がりにくいよう
だった。熱くなっていた胸が、段々と冷めていくのを悠介は感じた。
「どうしたんですか?」
不意に声がかかる。振り向くと日向と紗枝が立っていた。日向の手には購買で買ったと
思われるパン袋がぶら下がっているが、紗枝は何も持っていない。おそらく日向に連れ
てこられたのだろうと悠介は思った。
「珍しいですねぇ、喧嘩でもしたんですか?」
何処からか見ていたのだろう、あっけらかんとした口調で紗枝が言った。
「まぁ、そんなとこかな」
いくらか紗枝の態度に救われながら悠介が言う。すると、いままで紗枝の後ろで縮こまっ
ていた日向が、ズンズンと悠介の横に並び、腕を引きながら耳元で言った。
「も、もしかしてあたしのせい?」
何故か強い声音で日向が言ったが、それは日向なりの照れ隠しであろうと悠介は思った。
昨日、自分が言ったことを気にしている様子の日向に、悠介はきっぱりと言った。
「それとは関係ないよっ」
言うと同時に日向の腕を振りほどくと、二人を置いて、足早に悠介は階段に向かった。
―――喧嘩だったら・・・・・・。
どれほど良かったろうかと、悠介は思った。喧嘩だったら仲直りで済むが、今では普通
の兄妹にさえ戻れないとひとりごちる。
階段を上っていくと、今まで忘れていた暑さが、悠介の体にまとわりついてきた。飲み
物買い忘れたなと悠介は気付いたが、翔平からもぎ取ってしまえと思った。いつも散々
人の弁当を食い漁っているのだから、これぐらいは許容範囲だと決め付ける。
開いた穴は、まだ塞がる様子はなかった。