ぽつりぽつりと雨が降り始めたのは、五限目の終わりからであった。午前中は晴れ渡っ  
ていた空が、いつのまにか、濃密な湿気を含んだ曇り空になっていたのを、悠介はそのと  
き初めて知った。  
 悠介は外を見る。目に映る空からは、とても空が晴れるどころか、さらに降り続きそう  
に暗雲が蠢いている。そしてその推測は間違いではなかった。  
 下駄箱で靴を履き替え、悠介は帰宅しようと外に足を向ける。だがその足はすぐ止まっ  
た。ザァーと、雨が五限目よりも強く降り続いている。悠介は傘を持っていなかった。  
 走って帰ったらずぶ濡れになるだろう、天気予報ぐらい見とけばよかったと悠介は思っ  
た。周りを見ても、皆傘を持っている。翔平も、朝とは打って変わって一番に教室を出て  
行った。どうしようかと思案していると、背中に向けられている視線に悠介は気付く。振  
り向くと、待ち構えていたように美雪が立っていた。   
 なんで会いたくないときに・・・・・・と、悠介は美雪に苛立ちを覚える。その雰囲気を感じ  
取ったのだろう、美雪が少し肩をすくませた。だが肩をすくませながらも、美雪は口を開  
こうとする。悠介も美雪のその雰囲気を感じ取り、雨の降る外に飛び出した。待ってとい  
う、叫びが聞こえたようだが、かまわず悠介は走った。  
 ―――俺は・・・・・・。  
一体何をしているんだと悠介は思った。悠介は今、美雪から逃げる格好になっている。自  
分の気持ちさえ伝えられない愚かさに、泣きたい気持ちになった。  
 ―――美雪を・・・・・・。  
受け入れられたなら、どれだけ楽で幸せだろうと思う。だが悠介は言えない。兄という立場  
がそれを許さなかった。  
 雨脚は弱まることなく悠介を打つ。服はすでに、雨を吸うだけすって重石のようにのし  
かかっている。本来なら早く帰って着替えたいところだったが、悠介は家とは違う道を駈  
けていた。  
 空に広がる暗雲から時折、紫色の光がちかちかする。昼間なのにもかかわらず、雲が完  
全に陽射しを遮断し、空は深い色をたたえていた。  
 
 
 ペギーに着くと、悠介は逃げ込むようにして店内に入った。店内には冷房が効いていて、  
雨に濡れた服が急激に冷やされ、震えが来た。  
「大変でしたねぇ、これ、どうぞ」  
 そう言いながら女の店員さんがタオルを差し出す。やっぱり良い店だと思いながら、タ  
オルを受け取り、窓側の席を陣取った。渡されたタオルで頭を拭いていると、店員さんが  
注文を取りに来た。  
「今日はお友達と一緒じゃないんですね」  
「えぇ、ちょっと訳ありで」  
体を拭きながら悠介が言う。その流れで店員さんにホットを頼むと、悠介は肩肘をつきな  
がら外を眺めた。外では絶え間なく雨が降り続いている。よくこの中を走ったものだと悠  
介は思った。  
 雨を眺め、そんなことを考えていると頼んだコーヒーが運ばれてきた。やけに早いなと  
店内を眺めると、悠介の他には中年風の主婦と思われる二人組がいるだけで、空いていた。  
 こんな日に来るほうが珍しいなと、再び外に目を移しながら悠介はコーヒーを一口飲ん  
だ。喉から胃にコーヒーが流れ込み、段々と体が暖まってくるのを悠介は感じた。  
 ―――美雪は・・・・・・。  
ちゃんと帰れただろうかと、悠介はふと思った。顔を合わせたくないのも事実だが、やは  
り美雪の事が気がかりだった。しかしすぐ、今は考えるのはやめようと思う。これじゃあ  
家に帰ったのと同じだと、考え事を中断した。  
 悠介はまたコーヒーを口に含む。すると、体が温まってきたせいであろうか、瞼が重く  
なり、視界がぼやっとし始める。少し寝させてもらうかなと悠介は思い、タオルを枕代わ  
りに頭を横たえた。  
 くぐもった雨音と、店内でしゃべっている主婦の声が聞こえる。それら音に促されるよ  
うに、悠介は目をつむった。目をつむった先に、一瞬美雪が映ったが、その姿はすぐ闇に  
掻き消された。沈むように頭がタオルに押し付けられ、急速に睡魔が悠介を襲い始めている。  
 雨はまだ、止む気配を見せない。  
 
 
「・・・・・・さん・・・・・・ゃくさん、お客さん」  
体を揺さぶられる感触と、それと同時に聞こえてきた声で、悠介は目覚めた。  
「ん、んん」  
まだ呆けている頭で悠介がうなる。目の前のコーヒーカップを視界に捉え、やっと自分が  
何処にいるかを思い出した。  
「ずいぶんお眠りでしたね。寝顔、可愛かったですよ」  
からかうように店員さんが言う。その言葉に悠介は赤面し、呆けていた頭が一瞬で覚醒  
した。  
「でも、もう閉店の時間ですからそろそろ起きてくださいね」  
「今何時かわかりますか?」  
閉店という言葉に引っかかりを感じ、悠介は思わず聞いた。  
「そうですね・・・・・・、もうすぐ9時半ですよ」  
「えっ」  
その言葉に悠介は唖然とした。店員さんが言ったことが正しければ、六時間近くも眠って  
いたことになる。  
「マジですか」  
「マジです」  
その反応が面白かったのか、店員さんが笑いながら言う。だが悠介は笑える余裕などなか  
った。体が緊張に包まれる。いくらなんでも寝すぎだろと、悠介は焦りながら思った。  
 店員さんにタオルを返し、財布を出すのに戸惑いながらも、会計を済ませ出口へと急ぐ。  
ゆっくりと開く自動ドアに苛立ちを覚えつつも、悠介は開いたドアから一気に駆けた。  
 が、すぐにその勢いが止まる。ダダダッと、夕方よりも大粒の雨が悠介を阻んだ。店員  
さんが出てきて、傘貸しましょうかと言ったが、悠介は断った。悠介の脳裏には、心配そ  
うに自分の帰りを待つ美雪の姿がある。傘なんて差しながら悠長に帰っている場間ではな  
いと悠介は思った。  
 
 一息つき、雨の壁に向かって勢い良く飛び出す。容赦なく降る雨が、一度乾いた悠介の  
制服をまた濡らす。あまり雨粒が冷たいと感じなかったのは、暑さのせいだと悠介は思っ  
た。気温は昼にも増して高く、降り続いている雨で、息をするのが億劫になるほど蒸し暑  
かった。悠介はその中を息が切れるほどに突っ走り、通学路に通じる十字路をそのままの  
速度で曲がる。  
 だがそれが不味かった。雨で視界が悪かったのか、悠介の曲がった先には、かん高いク  
ラクションと、耳を刺すようなブレーキ音がこだました。悠介は考える暇もなく、自分の  
体を叩き付けるように壁に寄せる。すると、さっきまで悠介が駆けていた所を車がブレー  
キを利かせ、通り過ぎた。  
 馬鹿野郎という怒声が聞こえた気がしたが、悠介は壁に体を押し付けたまま、何の反応  
も出来なかった。嫌な汗が首筋を伝うのを感じる。今のは危なかったと恐怖に駆られた気  
持ちで思った。  
 ゆっくりと悠介は壁から体を離す。そして、今度はひどく慎重に家路を急ぎ始めた。  
 
 
 自宅の近くまで迫り、玄関の明かりが見えるようになると、悠介は幾分か安堵した気持  
ちになった。自然と足取りも軽くなる。その軽くなった足取りで、悠介は一気に自宅の軒  
先まで駆けた。  
 軒先に着き、玄関に寄りかかると、悠介は荒い息を吐きながら呼吸を整える。雨に濡れ  
た服が重く感じた。悠介が服を絞ると、まだ濡れていなかった地面が水溜りになった。  
 
 悠介が濡れきった自分の髪を掻き揚げる。一息つき体を反転させると、玄関のとってに  
手をかけた。だが悠介は開けられない。扉の先にある重圧が、悠介の手を止めさせた。  
 ―――美雪に何を言ったらいい・・・・・・。  
とってに手をかけたまま悠介が思案する。しかしいつまでたっても答えは出てこない。  
何を言っても気まずくなるような気が、悠介にはした。  
 ええい、どうにでもなれと悠介は玄関を開く。どうせ答えなど見つからないと、悠介は  
少しやけくそ気味に思った。  
「ただいま・・・・・・」  
家の中を窺うように、顔だけをつき出して悠介が言う。美雪は出てこなかった。返事ぐら  
いはするだろうと悠介は思ったが、何も返っては来ない。少し物悲しい気持ちになりなが  
ら、悠介は家へと入った。悠介が一歩踏みしめるたび、小さな水溜りができた。  
「・・・・・・?」  
ずぶ濡れの靴を脱ごうと、悠介がかがむ。しかし怪訝な表情になると、悠介の動きはふと  
止まった。  
 ―――美雪の靴がない・・・・・・。  
悠介は靴を脱がそうとした手を引っ込めると顔を上げる。  
「美雪?」  
はっきりとした口調で言う。しかし、返って来るのは冷たい静寂だけだった。悠介に軽い  
緊張が走る。急いで靴を引っぺがすと、床が濡れるのも気にせず、リビングへと走った。  
「美雪!」  
 
リビングを見渡しながら悠介が叫ぶ。美雪はいない。そのまま踵を返すと、脇目もふらず  
二階へと駆け上がった。美雪の部屋に見る。念のため自分の部屋も見たが、そこにも美雪  
の姿はなかった。  
 何処に行った・・・・・・と悠介は呆然と考える。脳裏には、車と危うく接触しそうになった  
時のことが思い出されている。まさかなと悠介は思ったが、悪い考えしか浮かばず、気付  
いた時には階段を駆け下りていた。  
 靴下が濡れていて、何度も滑りながら、転げるように廊下に下りる。さっきまでの疲れ  
は吹っ飛び、再び外に出ようと悠介は玄関まで疾駆した。靴を履くのも忘れ、玄関のとっ  
てに手をかけようとする。その時、逆に外側からとってが回され玄関が開いた。悠介は慌  
てて飛び退く。そこにはずぶ濡れの美雪が立っていた。  
 美雪がびっくり眼で悠介を見上げる。悠介も突然の事で、飛び退いた形のまま固まった。  
するとびっくり眼のまま、美雪の頬を二筋の滴が伝う。その滴が雨ではないとわかり、  
悠介は狼狽した。  
 何で泣いているんだと悠介は混乱した頭で考える。だが悠介に追い討ちをかけるように、  
美雪は悠介に抱きついた。美雪が悠介の腰に手を回し、濡れた胸に顔を押し付ける。段々  
と、押し付けられた部分が暖かくなった。胸に暖かい滴を感じるたび、悠介は自分の心が  
穏やかになっていくのがわかった。  
「うっ・・・・・・えぐっ・・・・・・」  
「美雪」  
泣いている美雪になぐさめるように悠介が言う。その言葉に促されたように、美雪は弱々  
しく口を開いた。  
「・・・・・・おねがい」  
「・・・・・・」  
「・・・・・・きらいに、ならないで・・・・・・」  
悠介の服を強く掴み、かすれた声で美雪が言う。  
「・・・・・・ずっと・・・・・・いっしょにいたいよぉ・・・・・・」  
 兄の建前論が、その言葉で崩れ去るのを悠介は感じた。  
「美雪」  
「悠・・・・・・にぃ・・・・・・」  
美雪が顔を上げる。泣き腫らしたような赤い目で、美雪は悠介を見つめた。無言で悠介は  
見つめ返すと、美雪を抱き寄せ、再び顔を胸に埋めさせながらささやいた。  
「焦るなよ・・・・・・」  
「・・・・・・」  
「嫌いになるわけ、ないだろ」  
ぎゅっと、美雪は悠介の胸に顔を押し付けたまま、腰に回した手に力をこめた。それが合  
図かのように、美雪と悠介は言い合わせたように見つめ合う。そしてそのまま、ゆっくり  
と顔を近づけあった。  
 悠介の顔が眼前に迫ったところで、美雪は一度動きを止める。美雪は上気しているのか、  
頬を赤く染めて、またじっと悠介を見つめた。  
「悠にぃ・・・・・・」  
「・・・・・・」  
「好き・・・・・・」  
そう言うと、腰に回していた手を首に持っていき、美雪は飛び付くようにして唇を押し当  
ててきた。  
「んっ・・・・・・ふぅ・・・・・・」  
美雪の息遣いが悠介に聞こえる。唇が触れるだけのキスだったが、悠介にはこの上なく甘  
美なものだった。思わず美雪を抱く手に力が入る。  
「・・・・・・んんっ・・・・・・」  
少し力を入れすぎたのか、美雪が身じろぎする。そんな些細なことでも悠介には愛おしく  
思えた。  
「ん・・・・・・っはぁ・・・・・・」  
美雪が苦しくなったのか、吐息を吐き出しながら悠介に絡めた腕の力を抜くと、少し離れ  
た。最初のうちは顔を真っ赤にして、俯きながら悠介をちらちら見ていたが、そのうち首  
をかしげ、微笑みながら言った。  
「二人ともずぶ濡れだね」  
「そうだな」  
苦笑しながら悠介が答える。いつもとなんら変わらない会話なのに、暖かい気持ちが悠介  
を包んだ。  
「早くお風呂入らないと風邪ひいちゃうね」  
「美雪先に入っとけ、俺は後でいいから」  
 
「うん。ねぇ・・・・・・悠にぃ・・・・・・」  
「ん?」  
「一緒に、入る・・・・・・?」  
「・・・・・・」  
 目を丸く見開きながら、それはまずいと悠介は思った。昨夜の美雪の姿を思い出す。昨  
日は翔平の電話に助けられたが、風呂は密室だ。してしまうに決まってると、悠介は段々  
と熱くなる頬をなだめながら思った。  
 すると、考えていることがわかったのか、美雪が悠介に負けないぐらいの赤い顔で囁いた。  
「悠にぃとだったら、いいよ・・・・・・」  
「いや、しかし・・・・・・」  
悠介が狼狽しながら答える。なんとか気持ちを抑えようとするが、美雪の次の言葉が、悠介  
の理性を破壊した。  
「私は・・・・・・したい、な・・・・・・」  
 
 

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