「ずいぶん待たせてくれるものだな」  
二人が四階に上がると、先ほどの女性のあきれた声が右手の教室から聞こえてきた。  
その教室(3−A)の後部ドアは開きっぱなしになっている。件の相手はそこにいるようだ。  
「この教室の中では休戦だ、少なくともそちらから手を出さない限りは。さあ、交渉を始めようか」  
教室の中は無数の水晶で埋め尽くされていた。階段で見たものとは違う透明な結晶越しに差し込む夕日を浴びて、先ほどの女性が机に浅く腰掛けていた。  
すらりとした長身に女性らしい曲線を描くプロポーションと、すっきりと通った鼻梁、完璧な左右対称を描く顔に尖った頤。切れ長の目はキツイ印象を与えるが、それすらも凛々しさを感じさせる。  
加えて背中までの長髪の黒、抜けるような肌の白、形の良いくちびるの赤のコントラストが女性の存在感をくっきりと浮き立たせていた。  
ひとことで言うと、美女。  
だが、夏箕はそんな女性をろくろく見てはいなかった。視点は彼女の背後、まるでショーウィンドウのような水晶柱に釘付けになっていた。  
一見幻想的な舞台背景のように見えた「それ」は、次の瞬間にはそんな生易しい幻想を打ち砕いていた。  
 
なぜ、ショーウィンドウのように見えたのか。  
それは内部にマネキンを抱え込んでいたからである。  
 
へたり込む男子生徒、泣き叫ぶ女生徒、傍の人を盾にしようとする生徒、もっとも窓際に寄っている教師。  
口をあけた魚人、手を伸ばす魚人、後ろから押し倒された魚人、それを踏み台に飛びかかろうとしている魚人。  
人が、バケモノに、追い回されている。  
子供の定番の悪夢が具現化したような阿鼻叫喚の惨劇が、ケースの中のヒトガタによって再現されていた。  
だが、これは本当にマネキンなのだろうか。はためく衣服の裾も、引きつった表情も、今まさに滴り落ちようとする魚人の唾液も、作り物とは思えないほど生々しい。  
我知らず、夏箕ののどが鳴る。  
「どうした、早く入って来い、立ったままでは落ち着いて話ができない」  
美しい女性は、「それ」を背にして無造作に二人を差し招いていた。  
 
「なつみ、入ろ」  
音色がそっと背を押す。  
冷凍庫の内壁にへばり付いた氷塊のような足元の水晶をよけながら、夏箕は教室に入った。音色が続く。  
入り口の敷居をまたいだ瞬間、音色は訝しげに眉をひそめた。だが、そのまま教室に入る。  
それを見た女性は一瞬、ほう、と感心したような顔を見せ、唇の端だけを吊り上げてほくそえんだ。  
それを見た夏箕の背筋にゾクリと衝撃が走る。  
造詣の美しさゆえに禍々しさすら感じさせる女性の笑みに腰が引けていた。  
「まあ、その辺に腰掛けてくれ。まずは自己紹介、か?」  
女性はそんな夏箕には目もくれず、音色を見ながら顎をしゃくった。あたりには乱雑に机と椅子が散乱している。それを好きに使え、と指図しているようだ。  
適当に腰掛ける。  
「先に、聞いていいか」  
気圧されまいと夏箕が問いかける。それでも声の震えは隠し切れなかった。  
「これ、アンタがやったのか、この、中に入っているのは」  
「人間とインスマウス人だ」  
こともなげに言い放つ女性。インスマウス人とはどうやら半魚人のことらしい。その、人もバケモノもまるで野菜や果物であるかのような口調に夏箕はかっとなった。  
「アンタ人間だろ?人もバケモノも見境なしで皆殺しかよ!」  
対する女性は煩わしげにため息を吐く。  
「落ち着け一般人、モノには順序がある。人に名を聞くのだから先に名乗ろうか。私は玻璃。さる組織の異能者だ」  
「俺は・・・」  
「一般人に用は無い」  
玻璃は夏箕を見ようともしなかった。ただ音色をじっと見ている。  
「ボクは音色。お察しのとおり人間じゃないから」  
音色も簡潔に名乗る。どこを見ているのか分からない散漫な目つきは内心を掴みづらい。  
一応、自己紹介は終わった。もっともただ名乗っただけだが。  
互いに手札をさらすことを避け、相手を見極めようと目を光らせあう。  
友好的とは言いがたいファーストコンタクトだった。  
 
「では、本題に入ろうか。お前は何ができる?」  
玻璃の問いはいたってシンプルだった。―お前は役に立つのか―ただ、それだけ。  
「それは夏箕に聞いたほうがいいんじゃない?ボク、嘘をつかないなんて約束して無いもの」  
音色の目がすっと細くなる。玻璃の一直線に切り込む問いを、はぐらかす形でいなす。  
部屋の温度が下がった。  
「ほう、貴様の『手を組みたい』相手への礼儀とはそういう態度なのか、これだから薄汚いバケモノは」  
「勘違いしないで、そう言ったのはあくまで夏箕、ボクはそれに従っただけ。  
ボクとしては、うるさい小物にうろちょろされると目障りだから、先に潰しておければそれで十分なんだよね」  
 
―てめーが這いつくばって舎弟にしてください言うんなら考えてやるよ。調子こくなよこのボケ。喧嘩上等。シメるぞゴルァ―  
二人のやり取りはまさにこれである。弱みを見せたほうが負けの相手を呑んで掛かる態度。  
 
互いが互いに接触をもった理由は「相手がよくわからない勢力」だったからであり、「放って置くと何をされるかわからない」という警戒心ゆえである。  
だから「下手に暫時同盟を組んで寝首を掻かれるよりも、さっさと始末しておいたほうが良い」そう判断したのも無理からぬことである。  
ましてや、気に食わない相手側がそんなそぶりを見せたのならば、ふたりには戦わない理由などない。  
 
音色がじりじりと爪先に力を入れる。玻璃もまた机から離れてすっと立ち上がった。視線と戦意ががっちりと絡み合う。  
キイィィィンという耳鳴りがし、乱立する水晶もビリビリと震えだす。  
一発触発の空気が夕暮れの教室を包み込んだ。  
後はただ、開始の合図を待つだけだった。  
「音色は魚を分解して黒い穴に放り込むことができた。あと、俺を担いで一瞬で一階から二階へ運んだ。その時羽が生えてたな。」  
ただ、ここにはもう一人、空気の読めない男がいた。  
腕を組んで首をかしげながら、ふたりの間ではとっくに終わっていた話題を蒸し返す夏箕。あくまで真剣だ。真剣に回想していたため、場の空気に気付いていない。  
「な、なつみぃ・・・」  
戦闘態勢をスカされて、がっくりと崩れ落ちる音色。同じく相手が気勢を崩したせいで唖然として見つめる玻璃。  
一瞬で場が白けた。  
 
「どうした音色、なにつんのめってるんだ?緊張してたのか?お前らしくないぞ」  
ぽんぽん、と音色の震える肩を叩く夏箕。その声と仕草にはいたわりと気遣いが満ちていた。  
・・・だからこそ、気まずい。「敵対関係ほぼ決定の相手の前で和んでる場合じゃないってわかんないのなつみ!」という言葉すらしゃべれないほど、気まずい。  
「もしかして『俺がびびってまともにしゃべれないんじゃないか』って緊張してたのか?俺に説明しろ、って言ったのお前だぞ、  
せっかく音色の役に立てる大事な場面なんだから、たとえバケモノと一緒に人間まで殺っちゃう女相手でも、びびってばっかりいられないからな」  
にっ、と笑って見せる夏箕。  
 
これはあれですか、何かの罰ゲームですか『一度つまずいたバナナの皮でもう一回転ぶ』って奴ですか?  
ああ、嫌女が呆然としているのがわかるよぅ。  
音色はもう、うつろに笑うしかできない。  
 
「大丈夫、人間と人外でも、儀式の阻止っていう目的は一致しているんだ。話し合えばきっと分かり合えるさ。  
弱い俺でもお前の手助けができるんなら、結界とか張れる超能力者と組めればきっと勝てるさ・・・ちょっと悔しいけどな」  
照れ臭そうに、でもしっかりとした口調で語る夏箕。  
音色はすでに口の端から魂が出てしまっている。  
 
いやなんというか、今から殺しあうところだったんですけど!あと、聞いてるこっちが恥ずかしいんですけど!  
っていうか玻璃とかいうヤツ、こっち見てクスクス笑ってるんですけど!  
 
「でもほら、手を握っててやることぐらいはできるぞ俺でも。  
お前が悪いヤツじゃないってことも、いくらでも証言してやれるから。  
あと、どんな時でもお前の味方だって、そう決めたんだ」  
そういって音色の手を握る夏箕。  
 
『一度はずしたネタを再度丁寧に説明されたら、聞いているほうが恥ずかしい』  
なんというか、まあ、そういう状態である。  
 
重ねて言うが、夏箕は真剣であり、悪気もからかいも一切ない。思わず青臭いセリフが混じってしまうぐらい本音で語っている。  
だからこそ、気まずい。励まされ(?)ている音色も、それを見ている玻璃も赤面モノである。  
戦場の空気を、一般人の感覚が押し潰した。そんな説明がしっくり来る現象だった。  
――空気読めよ、このすっとこどっこい。  
ふたりの戦闘少女の胸中は、図らずも一致していた。  
 
「ひとつ、訂正しておくが」  
幾分柔らかくなった口を玻璃が開く。  
「私は誰も殺してはいない。あの能力は、あくまで結晶化を行い中身を封じるものだ。中で皆生きてるよ」  
意識がなければパニックを避けられるし、事後処理を簡略化もできるしな、そう付け加える。  
―そこの男に免じて休戦にしてやる―玻璃の態度はそう語っていた。  
「自身の能力」という伏せカードを自ら表にして見せることで、譲歩を表現する。  
「結界の専門家、ね。なら提案なんだけどさ、学校を取り囲んでいる結界に穴を開けられないかな。そこから、生き残りを逃がす」  
―まあ、そっちがその気なら、いいけどね―音色は椅子に座りなおし、意見を述べた。  
玻璃は訝しげに眉をひそめ、答えを返す。  
「少なくとも三つの点で却下。第一に危険すぎる。一般人を多数抱えて移動するとなれば当然目立つ。そこを襲撃されたらひとたまりもない。  
移送回数を増やすのも同様の理由で論外だ。音色とかいったな、お前は催眠や瞬間移動はできないのか」  
「今のボクには催眠は無理。移動は・・・一人を抱えるのが精一杯だね。それに、こんな重そうなのは無理」  
乱立する水晶柱を見ながら答える音色。そうか、とうなずく玻璃。そのまま説明を続ける。  
「第二に不確定すぎる。勘違いさせて悪いが、私は別に結界の専門化というわけではない。外壁をこじ開けられる保証はないな」  
平然と言い放つ玻璃。内容に威厳はさっぱりないのに態度はやけに偉そうだ。  
「できません、って胸を張ることかよ」  
思わずジト目でツッコむ夏箕。それを尻目に玻璃は、  
「第三の理由は回りくどすぎることだ。直接大本を叩くほうが早い」  
と、強気に微笑んだ。  
 
「何か補足なり訂正なりはあるか、音色とやら」  
そういって、じっと音色の顔を注視する。  
「アンタにその自信があるのなら、それでもいいよ」  
音色はどうやら不満げだ、不承不承という感じでうなづく。  
「待ってくれ、中の人の命に別状はないのか、長時間このままだと後遺症が出たりは?敵を探しているうちにココが襲われたりはしないのか?  
念のために外の結界とか言うのを外せるか調べたほうがいいんじゃないのか」  
夏箕が音色を気遣うように見やりながら口を挟んだ。  
その内容を聞くうちに玻璃の表情が険しいものへと変わってゆく。  
「お前、まさか本当に一般人なのか?そこの人外と契約を交わした魔道師の類ではない、と」  
「いやだから、俺は無力な一学生だってば。音色とはここで会って助けられて、『手伝ってくれたら命は助けてやる』って言われて同行してるんだけど」  
あっけらかんとした回答を聞いて、玻璃はため息をついた。  
「何にも知らないんだな。いいか、結界は敵が張ったものだが、ある意味こちらにとってもメリットはあるんだ、それは・・・」  
「そんなことより、アンタはボクに協力してくれるの?」  
気色ばむ玻璃に音色が言葉を滑り込ませた。一見何気ないが、どこかひやりとしたものを孕んだ口調。  
二人の女はじっとにらみ合った。  
「・・・いいだろう」  
先に目をそらしたのは玻璃だった。  
「そこの一般人、夏箕とか言ったか。ソイツが心配でもある、同行しよう」  
「・・・それはどうもありがと」  
音色の口調もそっけなかった。  
「じゃあ、少なくとも今は仲間って事でいいよな。よろしく頼むよ、玻璃」  
ひとり夏箕だけが、ほっとしたように笑いかけていた。  
 
三人、正確には一人と二人はこの順番で部屋を出、そのまま中央階段を下りた。  
「詳しい打ち合わせはしないで良いのか?」という夏箕の問いに、「先に見せたいものが三階にある」とぶっきらぼうに言った玻璃がさっさと歩き出してしまったのだ。  
そのまま北校舎へと歩いていく玻璃、やや遅れて続く二人。  
無言でひたすら先を進む玻璃に二人はますます遅れだし、校舎の中ごろまで来た時、堪り兼ねて夏箕は口を開いた。  
「なあ待ってくれ、見せたいものってなんだ、もう少しゆっくり歩いてくれてもいいんじゃないか」  
その声に玻璃は足を止め、くるりと後ろを振り向く。  
「ここらでいいだろう。はじめようか」  
夏箕には何を言っているのかさっぱり意味がわからない。代わりに音色がスッと前に踏み出し、夏箕を背後にかばった。  
「なつみ、コイツさっき『協力してくれるのか』っていうボクの問いに『同行する』って答えたでしょ。・・・つまり、そういうコト」  
音色はやや腰を落とし気味にし、いつでも飛びかかれるように身構える。  
玻璃は無造作に立ち尽くすだけだったが、その視線は射抜くように鋭い。  
夏箕はただ、うろたえていた。  
「待ってくれよ、争う理由なんてないだろう。敵は半魚人とその元締めじゃないか」  
「理由はある」  
玻璃は夏箕をちら、と見やった。すぐに音色へと視線を戻す。  
「音色、お前は何故、生徒を逃がすことにこだわった?あの部屋の出入り口にはエルダーサインを仕込んである。インスマウス程度では進入できん。気付かなかったとは言わせないぞ」  
 
エルダーサインとは『旧神の印』とされる歪んだ五芒星の形をした石である。由来となる「旧神」の詳細は掴めてはいないが、ある程度までの「外から来るもの」に対しては絶大な効果を持つことが経験上わかっている。  
玻璃は会談の場をあの教室にしたことで、二人の力量を探っていたのだった。  
 
「夏箕、君と音色が印を踏み越えてきたときは、内心小躍りしたものだよ。エルダーサインをものともしない異種を従えた魔道師が同盟を申し込んできた、とね。  
実際君は度重なる私の挑発にも己を失わず、あくまで協力をしよう、争いを避けようと働きかけてきた。外側の存在と交わった者としては異例と言っていい良心的な人物だとわかったよ。  
・・・もっとも、見ていて少々気恥ずかしかったがね」  
玻璃は小さくわらう。それは夏箕とさして年の違わない、普通の少女のような、前回の禍々しさとは無縁の笑みだった。  
笑みを収め、言葉を紡ぐ。  
「だが、君が音色を支配していないというのなら話は別だ。そのバケモノは上の一般人を餌にして敵をおびき出そうとしていた。  
加えて以後の行動決定に際し重要な要素となりうる『あの部屋の安全性』を君に説明もしなかった。  
断言していい、君はソイツに利用されている。だまされていると言ってもいい。  
立場と戦力が明らかな敵と、味方を装い巧妙に取り入る未知数の第三勢力。果たして危険なのはどちらだろうね。  
・・・私には人の世を守る人間として、無知で善良な一般人を保護する義務がある。  
これが君に見せたかったもの、事実、だ」  
夏箕の目の前で、音色の背が小刻みに震えていた。  
夏箕はその背中に、手を添えることはできなかった。  
 
「で、見せたいものって、それだけなの」  
その言葉を吐き出したとき、音色の震えはもう収まっていた。  
「もうひとつあるな。バケモノ、お前にあの世を見せてやるよ」  
それはこの上なくきっぱりとした宣戦布告だった。  
ひんやりとした空気が、霜でも降りやしないかというほどに冷えていく。  
「なつみ、壁際までさがってて。・・・ケガしたくないでしょ」  
音色は振り向かない。目配せすらしない。玻璃の言葉を否定しない。  
中でも三番目の事態は夏箕をひどく動揺させた。  
一歩、二歩、とよろめくように壁際へと後ずさる。  
 
どん  
 
夏箕の背が壁に触れたとき、音色は動き出していた。  
 
夏箕から見て、二人の距離は約10メートル、飛び掛るには一息では遠い間合いと言えた。  
かといって、音色が背負っているリュックからフルートを取り出し、吹き鳴らすことができるほどの余裕があるとも思えなかった。  
とするならば、飛びずさって間合いを広げるか、あるいは開き直って全力で距離を詰めるかしかないだろう。  
夏箕は、できたら音色はこのまま逃げて欲しかった。  
音色に怪我なんてして欲しくないし、自称『人の世を守るもの』を打ち倒したり―それは人間と敵対するものである、という何よりの宣言である―して欲しくなかった。  
 
そして音色は、後者を選んだ。  
 
対する玻璃は立ったまま動こうとはしない。仕掛けてくるのを待ち受けるつもりのようだ。  
彼我、7メートル。  
その地点で空気が変わった。キィン!という硬質の音と共に音色の身体が青く透明な結晶に覆われる。それは上の階で見たオブジェと全く同じものだった。  
だが、それも一瞬のこと。  
再び響いたキィィン!という耳の痛くなるようなカン高い音と共に、音色を被っていた水晶膜は剥離し、粉々になり、キラキラと輝きながら消えていった。  
「ボクにそんなの効かないよ!階段でも失敗したでしょ!」  
勝ち誇るような音色の叫びを聞いた夏箕は、ああ、やっぱり階段で感じた冷気は音色の嫉妬のせいだけではなかったんだな、と納得した。  
 
ヒュン  
 
音色の叫びに重なるように、風切音と銀光が走った。身を深く沈めた音色の頭上を尖った何かが通り過ぎる。  
玻璃を見ると、振り切った空の右手と、振りかぶる左手に刃先を挟まれたナイフが見えた。  
一体いつの間に取り出したのか、と思うまもなく、第二投が、伏せる音色に放たれる。  
 
ダンッ  
 
クラウチングスタートの姿勢から、音色は全力で踏み切る。その跳躍は迫るナイフの上を通り過ぎる形での回避、前進の動作となり、ナイフは空しく廊下に突き刺さった。  
改心の一手に見えた音色の跳躍。だが、一体どこに隠していたのか、玻璃の手にはまるで手品か魔法のように新たなナイフが現われる。そのまま投擲。  
新たな銀光は、両足が完全に地から離れている音色へと迫った。  
 
バサッ  
 
人間には回避不能の投擲は、人外には必中とはなりえなかった。音色の背から生えた漆黒の翼が空を打ち、その身をより高く、天井付近まで押し上げる。  
ナイフは三度空を切った。  
そのまま音色は玻璃へと突撃する。差し渡し三メートルの翼長は狭い廊下の幅一杯に広がっているため、一見狙ってくれと言わんばかりだが、その実命中は絶望的である。  
直線的に飛来するナイフは当たり判定が小さいのだ。ほんのわずか軌道からずれることができれば、それだけで無効化できる。幅こそ大きいがそこはスリムで小柄な音色である、  
空中での自在な機動が可能であれば、高度を変えるだけで完全回避が可能なのだ。  
なにより、これ以上の投擲を許すつもりはない。  
人外の翼は先ほどのナイフに勝る速度で空を駆け、眼前へと迫った目標への直接攻撃を可能にしていた。拳を構える。  
「甘いよ人間!」  
 
ゴッ  
 
鈍い音が、廊下一杯に響いた。  
 
「か・・・はッ」  
蛍光灯をぶち割り、天井に貼り付けの形でめり込んだ少女は、肺の中の空気を残らず吐き出していた。  
蜘蛛の巣状のひび割れの中心から、剥離した建材の破片と一緒に舞い落ちた音色は、力ない翼で精一杯の後退をはかり、どうにか再び距離をとった。  
先ほどの出来事を思い出す。  
獲った。そう思った瞬間、玻璃の眼前の床がせり上がるようにして石柱が生み出され、凄まじい速度で自分にぶち当たってきたのだ。  
膨大な質量、馬鹿みたいな硬度(推定硬度7)、嘘みたいな速度の合計は自分を天井に叩きつけ、めり込ませた。人間だったら内臓破裂で即死だっただろう。  
「甘いのはお前だ、化け物」  
 
ガチン  
 
「ぎゃん!」  
音色の足元から硬い音が跳ね上がり、右足が火でも付いたかのように熱くなる。  
熊どころか恐竜でも捕まえられそうな大きな歯が、がっちりと右ふとももをくわえ込んでいる。  
肉が爆ぜ骨も歪むほどの圧力に、悲鳴を抑えられなかった。  
(いつのまにこんな仕掛けを・・・!)  
その時気が付いた、廊下のナイフが透明であることに。真っ赤に染まっているからわかりにくかったが、熊取り罠もまた、色がない。  
「内に取り込めないのなら、結界そのものをブチ当てればいい」  
左右の壁がせり出すように音色に迫る。色のない代わりに側面がギザギザしているのは、挟み込む獲物を磨り潰すためだろうか。飛びずさろうにも、足が動かない。  
 
ぐしゃり  
 
せめて身を庇う様に包まった翼ごと、音色は壁に挟み込まれた。  
音色の背中側の天井に、がっしりとした輪が生まれ、そこから透明な鎖が伸び、大きな三日月形の刃が産まれる。  
ポオの小説に出てくるようなペンデュラム。  
透明な刃は、そのまま振り子運動を描いて音色へと迫っていった。  
 
「音色!」  
廊下に突如発生した透明な隔壁はみるみるうちに赤く染まってゆく。夏箕は思わず駆け寄ろうとした。  
「来・・・ない・・・で・・・なつ・・・み・・・あぶ・・・な・・・い・・・よ・・・」  
切れ切れの声が彼の足を止める。驚き立ち止まる夏箕の耳に、  
 
♪〜♪・・・♪、♪  
 
歯の間を漏れ出る吐息のような、かすかな音が聞こえてきた。口笛だった。  
その音を聞きながら、夏箕の中で何かモヤモヤとしていたものが、はっきりとした形を取ろうとしていた。  
また、その音にあわせるように目の前の隔壁に亀裂が入っていく。ピシ、ピシと言う音がもどかしいほどの速さで聞こえ、ひびだらけの隔壁は内圧に堪えかねるようにガシャンと砕け散った。  
だが音色の足が未だ挟まれたままだ。罠にもひびが入っているが、まだ壊れてはいない。そして振り子は今も彼女に迫っている。  
 
♪、♪?♪。・・・♪!  
 
ようやく罠は崩れ去る。だが、振り子はもうすぐそこだった。翼も、足もぐしゃぐしゃで動こうにも動けない。  
それ以前に音色にはもう、力なくへたり込む事しかできなかった。  
背中から刃に突き刺されることは無くなったが、きっと代わりに頭を串刺しにされる。刺さったなら慣性の法則に則って揺れ続ける振り子に耐え切れずに細い首は引き千切られ、  
頭は振り子に刺さったままぶらぶらと揺れては自分の胴体を見下ろすことになりそうだ。  
 
ざしゅっ  
 
胸の悪くなるような鈍い湿った音と共に、真っ赤な飛沫が高く高く跳ね上がった。  
 
音色の背に重い衝撃が走り、直後地面に投げ出される。新たな赤がじくじくと身と衣服を浸す。  
だが、予想された激痛はやってこなかった。  
「バカな、何をしている、夏箕」  
「ぐぅぅぅぅゥっ」  
「なつ、み?」  
玻璃の驚愕と身にのしかかる重みの立てたうめき声が、音色に現状を理解させた。  
あの時一瞬立ち止まった夏箕は、すぐに気を取り直して音色の元へ走り、そのまま彼女を押し倒して庇ったのだ。  
しかし、振り子を完全によけ切ることはできず、その背は大きく切り裂かれていた。  
「なつみ、だいじょうぶ?夏箕ッ!」  
音色の声が尻上がりに跳ね上がる。身をよじって立ち上がろうとするが、その動きは夏箕の震える腕に阻まれた。  
力強く、抱きしめる。  
「カッコよく音色を庇って、みようとしたけど、ちょおっと、失敗したかな・・・痛ェ」  
「な、なにいってるんだよ!なにやってるんだよぉ!」  
「お前っ、頭は付いているのか!ソイツはお前を利用していたバケモノなんだぞ!」  
「だからどうした」  
仔犬を庇う親犬のように、夏箕はしっかりと音色を抱え込んで離さない。そのまま重傷とは思えない力強い視線と声を、玻璃にむかって叩きつける。  
「俺はすでに三回、コイツに救われてるんだよ。人外でも、利用されてるとしても、俺はコイツの味方だって決めたんだ」  
「それは人が牛やブタを世話するのと変わらん理由だ!餌をやり、住処を与え、成長を喜ぶ。とって喰う為にな!目を覚ませ、夏箕」  
「俺は正気だ」  
激高した玻璃の侮蔑的なセリフにも、夏箕は動じなかった。  
刻一刻と流れていく血と、痺れと共に冷えていく身体にあらん限りの力を込めて、腕の中のぬくもりを抱きしめる。  
「一般人ごときが世迷言を!バケモノ一匹庇って死ぬかッ。さっさとそこをどけ!ソイツにトドメをくれた後手当てをしてやる、くだらんゴタクはその後だっ」  
「一般人一般人言って、見下してるんじゃ、ねえよ・・・」  
夏箕の背中の傷は骨が覗くぐらい深い。当然大量の出血と激痛を伴っているわけで、未だ意識を保っていることは奇跡に近い。  
 
『そんなどうしようもないことよりも、今、やりたいことをやり遂げたい。』  
夏箕の壮絶なまでの意地だった。  
『やってほしいことは、その時になればわかる』  
その時とは、今のことだと思った。  
 
「守ってくれなんて、誰もお前に頼んでねーんだよ。命だけ助けられたって、意味ねぇんだよ。  
俺だって死にたくはないさ。まだ、やりたいことなぁんにも見つけてないからな。  
生きたいから生きるんじゃない。やりたいことやって生きたいから生きるんだよ  
・・・お前のほうこそ、おれのことを水槽の金魚とカン違いしてるんじゃ、ないのかよ・・・」  
玻璃が頭を殴りつけられたように、よろめいた。  
「なにを・・・なにを・・・いう、か・・・」  
「確かに俺は弱いさ、アンタから見れば無能だろ。でもな、生き様って言うのには、強いも弱いもねーんだよ。  
脅されたぐらいで、騙されたぐらいで、オタオタするのは無様ってもんだ。  
なんと言われようと、俺は音色の味方をする。  
それがたった一つの、俺にとっての、真実、だ」  
「なつみ、もぉいいよ、手を離してよ、死んじゃうよぉ・・・」  
腕の中の音色が涙声をあげる。夏箕は玻璃の事など一顧だにくれず、組み伏せる音色だけを見つめた。  
夏箕はもう、整備不良のロボットのようにぎくしゃくとしか動かない右手を、泣きじゃくる音色の頭にのせる。  
失血により冷え切った体の中で、腕だけがあたたかい。  
「ボクがなつみを利用してるって、もうわかったんでしょ。なんで、なんでココまでするのさ・・・」  
「もう、助けてもらったから。ほら、一人ぼっちって、けっこう、アレだろ。  
お前がバケモノでも、さ、ひとりぐらい、傍にいるヤツがいても、いいんじゃ、ない、かって、おも・・・って」  
今現在襲われていて、命も風前の灯で、もうしゃべることすら満足にできなくても、夏箕は笑っていた。  
腕の中のぬくもりだけを見つめて、何かを成し遂げた男の顔で幸せそうに。  
がくりと、首を折った。  
 
「なつみ?なつみっ!」  
「・・・くっ」  
拘束の緩んだ音色は、もう動かない夏箕の身体を揺さぶる。自分の命を狙う玻璃なぞいないかのように、ただ必死で一心に。  
 
「どんな時でも味方をする」と言って自分を利用した人外を庇った人間と、  
逃亡の機会をほっぽり出して泣きながらそんな馬鹿な人間をゆする人外。  
玻璃だけが孤独だった。  
 
その事実が、彼女をよろめかせる。一歩、二歩と後ずさらせる。  
「待ってて、助けるから!絶対ぜったい死なせないから!」  
使命に従って動いているだけの自分と、命より生き様を取った男と、そんな男に取り縋る人外。  
何故だかひどくうらやましく、そして惨めだった。  
「だってそうでしょ、『できる限り助ける』ってやくそくしたもん!それに、なつみ今言ったよね?傍にいるって!  
なのに、逝っちゃったりしたらうそつきだよっ!ヒドイよっ」  
限界だった。  
玻璃の中の何かが叫んでいる。  
もう、こんなモノは見たくない、と。  
「うわああぁぁぁああぁっ」  
叫び声をあげて、玻璃は逃走した。  
 
足音が階下に遠ざかり、気配が察知できなくなるぐらい離れたのを確認すると、音色の顔から一切の表情が消えた。  
そしてあれほど重傷だった翼と右足の傷は溶けるように消えて行き、飛び散った血も瞬く間にもとの身体に戻る。  
「『釣魚』第二段階:終了。計画はBルーチンへ移行。前フェイズ分の時間調整を開始。遂行に問題はなし。  
・・・まだまだ青いね、人間の守護者」  
そう呟くと、ニタリと血も凍るような微笑を浮かべた。  
だがすぐにその表情を消し、夏箕の下から這い出すと、彼の頭をそっと自らの膝に乗せて、一転した暖かい苦笑交じりに夏箕の頭を小突く。  
「まったく、誰も捨て身で庇えなんて頼んでないよ、勝手に勘違いしちゃってさ。おかげで計画を変更だよ、なつみのバカ。  
・・・死なせないよ、ぜったい」  
そして表情を引き締め、夏箕を抱き上げると、傍の教室に入り扉とカギを閉めた。  
 
♪〜〜〜♪♪〜〜〜♪  
 
しばらくして、あたりに穏やかで安らぐようなソプラノのハミングが響き始めた。  
 
痺れたように冷え切った身体を、何かがやさしく取り巻いている。  
ひとつはかすかな振動であり、凍えて疲れきった細胞の一つ一つを穏やかに揺さぶっている。失われた活力が揺り起こされ、沸々、ふつふつと沸き起こってくる。  
もうひとつは背中に感じる温度と摩擦であり、ゆっくりと往復するたびに、火でも着けられたような熱さと、どうしようもないむず痒さが背骨を伝って駆け上ってくる。  
最後のひとつは左頬に感じる暖かさと甘やかな気配であり、ずっと昔に感じたことがあるような、だが決定的に違っていることが不思議とわかる感触とにおいだった。  
癒されている、そして護られている。  
理屈を抜きにして、そう信じさせる平穏だった。  
あまりに幸せすぎてもう死んだものと思っていたが、次第に背中の痒みが我慢できなくなり、うめき声と共に身をよじってしまう。  
瞼が開く。  
横向きの視界に広がる机とイスの足の群れ、左半分(体感的には下側)は黒い何かに遮られており、皮膚と鼻はソレが温かくて柔らかくていいにおいがすることを伝えてくる。  
視界を右(同じく上側)に転じる。  
艶やかで滑らかそうな黒い何かがかけ布のように身体に覆いかぶさっており、先端が褐色の黒い棒が背中を這い回っている。  
それが動くたびに背中がズキズキと痛み、その痛みは次第に痒みへと変わり、やがて消えていく。  
その時、目が合った。  
こちらを見下ろし、にっこりと微笑む音色。  
「おはよ、なつみ」  
要約しよう。俺、楠木夏箕は顔を右に向けたうつ伏せの姿勢で音色に膝枕されている。  
「だいじょうぶ?からだ、動く?」  
「う、う・・・」  
「いたいの?どこ、背中?」  
「うつ伏せで膝枕はマズいだろぉーっ!」  
絶叫。  
アレはフツー仰向けで後頭部と言うフィルターを挟むから「気になる異性の股間と超接近♪」という嬉しハズカシイ状況もぎりぎりオッケェなのであってダイレクト顔はなんと言うかリミットブレイク!  
というか、  
「足、音色の足大丈夫なのかよ!」  
「きゃっ」  
がばりと身を起こすとそのまま音色の右ふとももを両手で掴んで引き寄せる。  
 
音色がこてんと仰向けに引き倒されてかわいい悲鳴を上げるが意識の外。すべすべの小麦色の太ももを撫で回して検める。  
「ちょ、ちょっとなつみっ、は、あんっ・・・そこ、ダメ・・・っ・・・」  
「ざっくりイッて骨とかもやられて・・・あれ?」  
結果傷ひとつなし。スカート越しとはいえ、こんな柔らかくて気持ちいいものを枕にしていたとは。うらやましいぞ、気絶中の俺。  
そこで気が付いた。  
まくれ上がった短いスカートの中、白い下着に限りなく近い太ももを両手で撫で回す、俺。  
翼も足も投げ出して、ぎゅっと握った拳を自らの胸元に当てて赤い顔をしてこっちを見上げる、音色。  
もしかしなくても、俺、押し倒してます。  
 
「ごっごごごご、ゴメン!」  
「えと、あの、もう、だいじょぶ、みたいだね」  
慌てて身を離すと、音色はゆっくりと身を起こし、座りなおした。  
音色の私物と思しき、口がバッテンの擬人化うさぎとネコ柄のレジャーシートの上で、赤い顔をして向き合う二人。  
「ねんのため、腕とか回してみて」  
「ああ・・・ちょっと背中突っ張るけど、大丈夫、指まできちんと動くよ」  
一通り身体を確かめ、微笑む音色に報告する。そう言えば、大事なことを言ってなかった。  
「ありがとう、音色。また、助けてもらっちゃったな」  
「どういたしまして。でも、もうあんな無茶、しないでね」  
 
肌をあかく火照らせたまま、音色は身を起こす。頭が左右にぶれかけるのを、力を込めて食い止める。  
「ね、なつみ。ボクの話、聞いてくれる?」  
しゃべることで、フラつく視界と意識を誤魔化しながら音色は夏箕をじっと見据える。  
小さくうなづいて続きを促す夏箕に、音色は静かに語り始めた。  
今「ここ」で起こっている出来事についての説明となる、  
長い長い話を。  
 
「いきなりだけど、さ。キミは世界っていうものを、どんなものだと思ってるかな。  
漠然としすぎて、よくわからないと思う。  
なつみならきっと、家族のこととか、学校のこととか、日常的なことしか、わかる範囲のことしか思い浮かばないんじゃないかな。  
でも、それこそが世界の姿なんだよ。  
「認識」こそが世界を形作っているものなんだ。  
君たちの言葉では、量子論っていうのかな?この世の全ては確立の雲とでもいう曖昧なものであり、認識するという行為により曖昧な雲ははっきりとした形をとる。っていうやつ。  
今のこの世界はその中に存在しているモノたちの「世界はこういうものなんだ」っていう思いによって成り立っている。  
互いが互いを、合わせ鏡のように認識しあう事によってかろうじて成立しているんだ。  
え?それがどうした、って?  
少し考えてみて、もしも支えあう二人のうち、片方が力を抜いたらもう片方はどうなるかな?  
そう、つられて連鎖的に倒れてしまう事になる。  
今ココで行われているのは、まさにそのための儀式。  
『バケモノ?外から来るもの?そんなものいるわけないじゃないか』という共通認識を破壊する為に、あってはならないモノを呼び出す。  
「ないはずのもの」が「目の前にある」事を認めたら、それは「実は有った」事になって、それまでの常識を書き換える事になる。  
それを繰り返すうちに、世界はいずれその有りようを完全に変える。いつになるのかはわからないけれどね。  
何でそんな事をするのか、って?  
今のボクは「この世界の常識」に合う存在として成立しているから、「外」のことを正確に表現することはできないけれど、  
あえてひとことで言うなら、「ソレ等」はそういう存在だから、そうしている。となるかな。すごく曖昧な言い方だけれど、ね」  
 
――例えるならば、それは大洋に浮かぶ投げ出された樽。  
――外の水を内に染み入らせない強固な防壁。なぜなら樽とはそういうものだから。  
――取り囲む海も波も徐々に樽を侵し、腐らせ、弱らせる。  
――其処に害意はなく、悪意もなく、敵対心もない。  
――だが、樽が樽であり、海が海であり、波が波であるかぎり、  
――いつか樽は腐り、壊れ、海の藻屑と消えることになる。  
 
――たとえ樽の中の空気が外海に憧れたとしても。  
 
夏箕は、そんなイメージで音色の話を受け入れていた。  
 
長い話を語った音色はその身を大きく揺らめかせ、手を突いて上体を支えた。  
ため息を吐くと背後の椅子に腰掛け、背もたれにぐったりと寄りかかってどうにか身体を保つと、再び口を開く。  
「玻璃が言った『敵の結界のメリット』って言うのはこの事。今、この学校は常識から外れてはいるけれど、同時に世界の認識の外にあるから世界の有り様を変化させはしない。  
事が成就する前に内部をきれいに掃除してしまえば、結果的には『おかしなことは何もなかった』ことになるの。まあ、生存者がいるかぎりは少しは常識が書き換わっちゃうのかな?  
で、ここからが本題なんだけど、  
『有ってはならないもの』はこの世界の常識とは相容れないものだから、世界からの圧力を常に受けているの。  
気圧を例にしてもらえるとわかりやすいかな?『普通の』一気圧の中に突如真空が生じたらどうなる?周りから凄い勢いで空気が押し寄せてくるよね。  
で、発生した『有り得ないもの』が有り得ないものであるほど、周囲からの圧力が強く感じられるわけ。  
ついでに、ここは一時的に世界から切り離されているとはいえ、まだこれまでの常識に引きずられているから、圧力は存在している。  
・・・そろそろわかったかな?」  
 
音色の呼吸は荒くなっており、火照っていた頬は今では地肌の色と相まって不気味なほどの土気色をしている。  
冷や汗もびっしりとかいており、脱力した身体を背もたれに預けるようにして、ようやくの事で意識を保っている有様だった。  
 
「俺を助けたせいなのか」  
背中の傷痕がずきりと痛む。  
あんな重傷は自然治癒しない、普通。  
夏箕の声は苦悩で震えていた。いたたまれなさに立ち上がり、俯く。  
だが、音色は力なく、だがはっきりと首を振った。  
「ううん。遅かれ早かれこうなるのは計算に織り込まれてたの。『多分途中でガス欠になるだろーから、現地調達で何とかしろ』って指示されてたから」  
全くひどいよね、そういって音色は笑った。  
「だからこれは夏箕のせいじゃない。帰る時に貰う予定だったものを、すこーし早く貰うだけだから。  
・・・おかげで最大級のイレギュラーを乗り越えられたんだから、なつみは胸を張ってていいんだよ」  
「どうすればいい?どうやったらお前を助けられる?」  
無力な拳を血の出るほど握り締め、問いかける。  
夏箕の声はもう悲鳴といってよかった。  
音色はつっと視線を脇へずらし、頬をうっすらと染めながら、  
「現状に置けるかりそめの存在の衰弱の原因は、核となる『イレギュラー』への世界からの恒常的な圧力による負荷と同時に、  
絶えず存在しているが、特異な能力の発現により瞬間的に高まった内圧と、増大した『異常反応』に対する世界からの外圧による  
外殻部分へのプレス作用的な圧搾の結果である生命力減退による存在の危機である。  
有効な対策としては外殻の補修、特に減退した生命力の補充が挙げられる。  
端的に言うところの『シールドへのエネルギー補充』により耐久力の回復/向上を行うことは耐圧の意味だけではなく、  
『異常反応』を世界から隠蔽することによるステルス作用も見込め、結果として減圧を行うことも可能であり、二重の意味で効果的ということができる・・・」  
と、奇妙なまでにシステマチックな説明をとうとうと垂れ流した。  
 
当然、夏箕には良く分からない。  
「いやだから、仕組みじゃなくて『俺がなにをしたら良いのか』をはっきり、しっかり、わかりやすく言ってくれよ!エネルギー補充ってどうやるんだよ?」  
「・・・わかんないの・・・?」  
「わかんないから聞いてるんだってば、早く教えてくれ、そんなにフラフラしてるお前は見てられないッ」  
「・・・どんかん・・・」  
ちいさなつぶやきは夏箕には届かなかった。  
「もう一度、聞こえるように言ってくれ。もうこれ以上、しくじりたくはないんだよ。  
・・・お前を助けたいんだ。  
ただの足手まといはもういやなんだよ・・・」  
じれったさと申し訳なさで、夏箕の声はよじれきっていた。  
そんな有様を見て、音色は意を決したように唇を開く。  
「ボクのことを、抱いてください」  
 
この上なく厳粛な雰囲気で告げられた言葉は、夏箕の予想を大きく裏切っていた。  
「・・・は?・・・」  
彼としてはこう、命に関わる深刻な儀式――たとえば心臓を抉り出すとか脳みそを啜られるとか魂を齧らせろ、とか――を予想していたのだ。  
怖くないといったら嘘になる。でも、音色に救ってもらった命を投げ出すのだから、笑って死んで見せる。とか覚悟を決めていたのだ。  
それが見事にスカされて、一瞬思考が停止してしまっていた。  
 
――ポイントはきっちり抑えつつも、その解釈は斜め上方をカッ飛んでいる男、楠木夏箕。17歳、童貞。結構純情。  
 
そんな夏箕の停止を音色はどう受け取ったのか、  
「そっそうだよね!いきなりこんなこと言われても困るよねイヤだよね!  
こんなバケモノでムネもちっちゃいチビのくせに羽が生えてて黒い女気味が悪くて抱けないよね!」  
と大慌てで一息にまくし立てた。背中ではバッサバッサとせわしなく翼がはためく動揺っぷりだ。  
「いや・・・」  
「でもでも、ボクにはなつみしかいないんだもん!いないからだけじゃなくってなつみがいいんだもん!  
ボク言っておいたよね『それはボクに絶対必要なことで、できれば、夏箕にしてもらうのがいいと思ってる』って!  
あのときイヤって言わなかったって事は『さんきゅ』って言ったってコトは『いいよ』ってコトだって、そう思ってたんだもん!」  
「その・・・」  
そもそも「聞くな」っていったのはアンタでしょーに、という突っ込みが夏箕の喉まででかかった。  
だが俯き加減の音色にはそんなことは見えもしない。前髪で目を隠したまま。ぎゅっと両手を膝の上で握り締めて、叫ぶ。  
「バカだと思ってくれていいよ!たかが一介の探査プローブに毛の生えたみたいな小物がちょっと優しくされて舞い上がってるだけだって!  
調査と介入の為に即席で組まれた三流人格が色に狂ってはしたない事口走っただけだって!」  
叫びながら自分の意思を必死に鼓舞していたらしい。  
きっと顔を上げ、潤んだ瞳で夏箕を見据える。  
いや、見据えているかはよくわからない。  
潤んだ視界には夏箕の表情などマトモに写ってはいないのだから。  
 
「ねい、ろサン?」  
「でもねでもね!なつみはボクとケーヤクしたんだからイヤだなんていう権利ないの!やんなきゃダメなの!  
だってケイヤクっていうのは互いに交わした取り決めであって決められてないことを抜け道的に利用するのはありでも内容を反故にするのはルール違反なの!  
『道案内とか?おとり・・・かなぁ?あと・・・・・・いろいろ』って言う条件でケイヤクしたなつみはボクのいうこといろいろ聞かなきゃダメなのっ!」  
・・・そもそもイヤだなんて言ってないんですが〜、という言葉を挟む隙すらない音色の謎論理マシンガントークだった。  
というか、これは詐欺の論理だ。  
彼女が一息ついたところで口を挟もうとした夏箕だが、結果としてその機会を脱してしまった。  
「だから見て、なつみ。頑張ってその気にさせるから。たとえ一時の性欲処理でもいいから、ボクを、抱いてください・・・」  
という急速にしおらしくなった台詞と共に、音色がスカートを捲り上げたからだった。  
 
羞恥と不調のせいかぎこちない動作は、かえって焦らすような煽情さを醸し出していた。  
そろそろとまくれ上がっていくスカートの裾の下から、輝くような太ももがじりじりと顔を出す。  
濡れ光る汗に夕日を照り返す滑らかな少女の大腿部は、膝上までの黒ニーソックスとの対比もまぶしく夏箕の目を吸い寄せた。  
やがて、白いショーツが顔を覗かせる。飾り気のない白は清楚なただずまいであると同時に、小麦色の地肌の色を引き立たせており、  
結果としてうら若い少女の瑞々しい肉体を強調してもいた。  
「はぁ・・・っ」  
スカートを腰まで捲り上げ終えた音色の吐息は、体調不良のせいだけではない悩ましい響きがあった。  
上目遣いに、夏箕を見る。  
じっと注がれる少年の視線と、制止されないという事実を糧に(実際、夏箕は文字通り目を奪われているだけなのだが)  
萎えそうになる意思を無理矢理掻き立てて、両手を胸元へとやった。  
しゅる、とスカーフを解く。  
衣擦れの音がやけに大きく響いた。  
「ね・・・みてて・・・」  
ぷち、ぷちとブレザーのボタンを外していく。  
衣服の前あわせがはらりと開き、大量の冷や汗で地肌が透けて見えるワイシャツが露わになった。  
「んっ、んっ、んっ」  
ぷち、ぷちとワイシャツのボタンを外していく。  
指先が震えてうまく動かない。だが、そのもどかしさこそが期待と羞恥を焦らし、高めてゆく。  
やがて引き締まった下腹部、形の良いへそが見え始め、ショーツとそろいの白いブラジャーが外気に触れる。  
「・・・んっ、んっ」  
ぷちん、と最後のボタンが外される。  
そして、しどけなく着崩された半裸の音色が完成する。  
 
 
だらしなく垂れ下がったブレザーと半透明のワイシャツは、肌を隠すというより強調する役割を果たしており、  
緩く首に巻かれた布切れに成り下がったスカーフがまるで首輪のようにも見え、見る者の興奮をいやらしく煽った。  
そんなからだのうえを、音色の震える指が這い回る。  
ぎこちないほどじりじりと、だが止まる事無く確固として這い回る指が、夏箕の視線を誘導していく。  
わき腹の布地から、形の良いへそを経て、下へ。  
スカートを乗り越え、ふとももへ彷徨いかけ、とうとう股間の布地へ。  
「ふ・・・うっ・・・ッ」  
しゅっ・・・しゅる・・・しゅるっ  
大仕事をやり遂げたように一息つくと、そのまま指を動かしだす音色。  
ため息は吐息へと変化した。  
「はっ・・・はっ・・・はっ・・・はぁっ」  
しゅる、しゅるしゅる・・・くちゅっ  
柔らかいものが布を擦る音は、いつしか水音へと変化していた。白いショーツが秘部を透けさせてる要因は、もう汗だけではない。  
その頼りない布地をぐいぐいと押し付けながら、褐色の指が舞い踊る。  
「はぁぁ・・・あっ、はっ、はっ、は・・・ぅッ」  
音色の背がぐっと反り返り、翼がビクビクッ!と震える。指が特に敏感な場所に触れたせいらしい。  
「な・・・つみ・・・みて・・・なつみぃ・・・」  
涙と脱力感によりゼロにも等しくなった視覚の代わりに、敏感になっていく肌に熱い感触が走る。  
下から湧き出してくる快感と、その場所に突き立つように注がれている視線の圧力だった。  
(見てる。なつみがボクの恥ずかしいトコロ、見てくれてるよぉ)  
くちゅくちゅという水音に混じって、ごくり、という誰かが唾液を飲み下す音を聞いたとき、気が付くと音色は満足気に笑っていた。  
 
淫猥で、かつ満足げで、でもやっぱりちょっぴり気恥ずかしい。  
 
そんな笑みと共に、一段と強くなった甘い疼きに身を任せた音色は、左手を股間に残したまま、濡れた右手をじりじりと胸へと這い登らせる。  
 
冷え切った肌に熱い滑りと視線を感じながら、右手は小振りな胸へとたどり着いた。  
「はぁぁあうッ・・・はッ、ハッ、はぁぁん・・・!」  
もう細かい制御のきかない指は、ブラのカップごと乳房を握り締めてしまう。固めの布地に尖りたった乳首がぎゅっと押し付けられ、瞼の裏に火花が散った。  
「だめ、だめダメェっ」  
ガクンガクンと仰け反る上体。ほっそりとしたくびと形の良いあごの裏が夏箕の眼前で翻るたびに、大きく開けられた口の端からは涎が糸を引き、突き出された舌が淫らに踊った。  
 
「やぁぁっ、こんなの、こんなの・・・ッ」  
カラダが心と頭の思い通りにならない。本当はここまで激しくするつもりなんて無かったのだ。  
初めはもっとこう、かわいらしくちょっとだけ頬を上気させて瞳を潤ませながら『なつみ・・・きて・・・』とか誘うつもりだったのだ。  
なのに、もう止まれない。  
左手の指はせっせと下着を透けさせる為の摩擦運動を繰り返し、右手は痛いほどに胸を圧し揉む。  
痛みと快感が跳ね上がるたびに後ろめたさと羞恥が津波のように押し寄せてくるが、  
それから逃れるように指がまた忙しく働き出す。  
「やっ、ぃやぁぁ、やあぁぁぁっ!」  
活力を失い冷えていく体、反比例して加熱する脳髄。熱病に冒されたような欲情の中で、ひとつの推論がかたちを取り始める。  
欲情は、認めがたい現実からの逃避。認めがたいのは、夏箕を騙し、利用している後ろめたい現実。  
後ろめたいと、思う理由は・・・?  
「ひぅ・・・ん!」  
 
逃避を続ける左手が、敏感な肉芽を押し潰す。ふたたび眼裏がスパークし、推論が一瞬途切れた。  
一瞬の虚脱の後、ぐつぐつと煮えたぎる脳みそは、より一層少なくなったリソースを必死に展開し、推論を再開する。  
探査プローブが観察を怠ることは許されない(右胸から強い刺激、意識遮断、再起動)  
なぜならばそれこそが存在理由(声帯暴走、音声強制カット)だからである。  
介入用人格は目的遂行用の為『だけ』に生成されるものであり(陰部への進入による神経反乱、鎮圧)  
そのためには周囲の全存在を利用『しなければならない』(脳下垂体、情報氾濫、修正不可)  
ああ、そうか。  
衰弱の中で状況をなんとか纏め上げ、分析しようとするたびに、まるで反乱を起こすように、しかも際限知らずに高まる快感。  
だとすると、逃げ出したい現実とは、意識と行動のアンビバレンツ・・・  
絶頂。  
「なつみ・・・ゴメンね・・・」  
意識のブラックアウトと同時に到達した認識が、音色にそう呟かせていた。  
その時、芯の抜かれた身体は椅子から転げ落ち、頭が大きな弧を描きながら床に向かって真っ逆様に吸い込まれていった。  
 
夏箕は音色の痴態に我知らず引き寄せられていた。魅入られていたという表現がしっくり来るだろう。  
とさり  
夏箕の腕の中にすっぽりと納まった少女の身体は、か弱くちいさく、そしてじっとりと重かった。  
体重そのものはそう重くは無いのだろう。しかし、自重を支えるということを全くしていないため、重みがずっしりと両腕にのしかかってきたのだ。  
加えて全身が冷たい汗でびっしりと濡れそぼっており、たっぷりと液体を吸い込んだ布地が重量感豊かな手ごたえを伝えてきている。  
だが、「あの時」とよく似た感触は、冷え切ってカチカチと震える音を立てる歯音と、細かく途切れない震えの二点だけで決定的に異なっていた。  
それでも、ぐっしょりと濡れた重くて冷たいヒトガタは、少年のこころの中にある、古くて分厚いかさぶたを容赦なく引き剥がすに足る衝撃を与えてきた。  
目の前でいきなり激しい自慰行為を始めた少女の痴態に欲情を掻き立てられ吸い寄せられた、それは紛れも無い事実である。  
だが、夏箕を音色の元へと引き寄せたものはそれだけではなかった。  
激しく身体を弄(まさぐ)り、引き絞るような嬌声を上げ続けた少女の姿は、堪えきれない悲嘆を声にならない声で切々と訴えているように感じられ、身につまされるものがあったのだ。  
 
夏箕は両親の葬儀には参列していない。  
「小さな子供が親の骨なんて拾うもんじゃない」という祖母たちの気遣いにより、儀式からは遠ざけられたのだ。  
彼につかめたのは、家から抜け出して向かった事故現場に供えられていた花束だけだった。  
大きかった父母とは比べ物にならないぐらいちっぽけで頼りない花束。  
そのギャップを抱きしめながら号泣し、両親がいなくなったことを否定できないという事実を受け入れた過去の自分に通じるなにか、  
例えるなら底の抜けたコップにありったけの水を注いで穴を埋めようとして、結局それが叶わないことを限界の中で認める、的なやるせなさが感じとれたのだ。  
今の音色には、その頼りない物体すらない。自分のからだしか無い。  
そしてその手応えすら失われようとしている。  
 
見捨てられる理由はなかった。  
 
「な・・・つ、み?」  
体温が伝わったせいか、夏箕の腕の中で音色が目を覚ます。冷えた身体に染み入る体温が心地良いのか、くすぐったそうに笑った。  
「・・・あったかい」  
立て膝の姿勢でいわゆる「お姫様抱っこ」をしている二人は、肩と腕、お尻と腰、膝裏と腕で身を接している。  
その真ん中の接点が、夏箕の状態を音色に伝えていた。  
「ぁは・・・ボクで、よくじょー、してくれたんだね。カタくなってるの、わかるよ・・・」  
そういって身をよじる音色。何枚かの布地越しに身体を擦りつけ、欲情をさらに煽ろうとする。その波に溺れようとする。  
「コレだけ貰えれば、それで、じゅうぶん、だから。身体だけ、ちょっと貸してね」  
「阿呆」  
「ふぎゅっ」  
返答は鼻への指による圧迫と同時だった。  
「お前、嘘ヘタすぎ」  
「むーむーっ」  
抗議のうなり声を上げる音色の鼻をそっと開放し、夏箕は彼女を諭す。  
「くだらない遠慮禁止、何がほしいか、もう一度いってくれ」  
「えねるぎーのほきゅう。それだけ、だよ」  
そっと視線をはずし、すねたように音色は言った。  
「・・・俺のアレは純粋な愛情が無いと立たないんだけど」  
「・・・・・・・・・・・」  
大嘘である。  
夏箕のペニスは音色の痴態を見てギンギンにそそり立っている。それを現在進行形で体験中である。  
 
ついでに『純粋な愛情』があるかどうかすら疑わしいと夏箕自身で思っていたりする。  
そもそも馴れ初めからして『死にたくない』と『利用したい』な二人である。そこに命の危機による吊橋効果、フラッシュバックによる自己憐憫もしっかりと混じっていることに気付いている自分がいた。  
音色にしたところで、その認識にいたるのは容易だった。そもそも媚態というものは相手の意思を誘導する為に仕掛けるものだ。  
今の夏箕の発言は自分の心理操作の産物だと言い得る。手練手管で獲物を捕らえ、存在の維持に当てる仕掛けが収穫を迎えた。ただ、それだけのことだ。  
・・・今思い描いている願いは単なる錯覚に過ぎない。  
 
自分すらもだませない嘘。  
でも、だまされたい嘘。  
そして、だまされてもらいたい嘘。  
 
『行為者の意思は何よりも優先される。』  
これはふたりの共通認識だった。  
 
「もっかい、言うね」  
「ん」  
「なつみのぜんぶを、ボクにちょうだい。お返しに、ボクのぜんぶを、なつみにあげる」  
「わかった」  
 
そっと目をつぶる音色の、皓歯が覗くくちびるに、自らのそれを重ね合わせる。  
互いに吐いた見え透いた嘘のうしろめたさを忘れてしまうほど、甘美な接触だった。  
 
 

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