携帯が圏外だったので、公衆電話の向かうことにした。  
保健室は一階だったので(あたりまえだ、救急車を呼ぶことになったとき、移動距離が少なくて済む)昇降口まではたいした距離はない。  
しかしまあ、それでも憂鬱だった。  
後ろ手に締めたドアからは半狂乱な叫び声が漏れ聞こえ、足元はなぜか膝下までたっぷりと、濁った水が浸水しているのだから。  
靴下もズボンも台無しだなこりゃ、とか現実逃避しても責められはすまい。  
なぜなら雨なんて降っていないのだから。  
 
保健室はいい。なんといってもフトンがある。眠いときは寝る、コレが健康にいい。  
固い机と椅子で寝て目覚めたときの、関節がぺきぺき言う感触も悪くはないが、たまには柔らかい布団というのも悪くない。  
で、  
地震で目が覚めると、そこは廃墟デシタ。  
場所が保健室なのは間違いないのだけれど、備え付けの棚は倒れ(耐震設備をおろそかにするからだ)ガラスは割れ、隣ではサボリ女生徒が半狂乱になっていたりしました。  
「ヒデぇ夢。」  
「アンタナニ言ってるのよ夢なワケないでしょつねったら痛かったのがわかんないのああもう男でショ何とかしなさいよケイタイ通じないしっ!」  
いやなんというか、息継ぎぐらいしてくれ。  
髪を振り乱してこっちの襟首を締め上げんばかりの勢いで詰め寄ってくる女生徒A(戸追手、とかいったかな?)の剣幕に押されてベッドから降りたところで、  
 
ざぶん  
 
ぐるりと足を浸した水の冷たさが、寝ぼけ気味だった頭を一息に覚まさせた。  
良く見ると、包帯やバファリンその他の錠剤がぷかぷかと浮かび、正露丸のビンが濁った水に沈んでいたりした。  
「なんで水が溢れてるのよ私帰れないじゃない雨も降ってないのにっていうか今日は靴下いいの履いてるんだから濡らしたくないのよぉ!」  
わかった戸追手(?)、お前がテンパってるのはよっくわかったから。救急車か警察かレスキューか黄色いのを呼んできてやるから、  
俺の頭をぐるぐるブン回すのはやめにしてくれ。  
名前もうろ覚えなサボり仲間の狂態を見るに堪えなくなった俺は、こうして荒れた保健室を後にしたわけだ。  
それはもう、疾風のように。  
 
廊下はよりいっそう、ひんやりとした空気を強めていた。  
ただ水が冷たいのとは違う、背筋が凍りつくような、得体の知れない「冷たさ」。  
それを無理矢理追い払うように身震いして、携帯を取り出す。  
戸追手(2−Bだったかな?)を疑うわけではないが、自分の携帯を一応掛けてみる・・・しっかり『圏外』反応なし。  
溜め息ついでに窓の外を見ると、薄曇りの空と延々と続く水、水、ミズ。  
こりゃ電話線ダイジョブかなあ?とか思いつつも電話へ向かう・・・他にすることないし、何もしないでいたら、俺も叫びだしそうだし。  
ザバザバと波を蹴立てて廊下を歩く。なんというか、シュールだ。  
放課後なせいか人気のない廊下に、一人波音を響かせる俺。  
角を曲がると、そこはもう昇降口だった。  
 
ウチの学校は一言で言うと「コ」の字型をしている。  
字面のタテの棒の側に昇降口があり、さらにその右側に校門がある。  
また、三本の棒に取り囲まれたスペースが校庭で、上の棒のさらに外側に別棟で体育館とプールがあり、渡り廊下で校舎とつながっている。  
ちなみに保健室は下側の棒の一階だ。  
二年間の学校生活でもう見飽きた感のある昇降口は・・・一言で言うと異界だった。  
たかが水、されど水。  
「酒は水より害はなし、疑うらくば洪水を見よ」とは、とんちで有名な一休さんの言だが、膨大な量の水はただそれだけで人を心細くさせる。  
空元気とは思いつつも、口笛のひとつでも吹いて気を紛らわせたくなった。  
息を吸い込み、口をすぼめたところで動きが止まる。  
 
ざばり  
 
湿った空気の中、水音が聞こえた。  
 
当然、自分のものではない。  
『日も落ちない平日の校舎なのに誰にも出会わない』という異常なシチュエーションに、うなじの毛が逆立つ程緊張していた俺は、  
程なくして音源が15メートルほど先の下駄箱の陰である事を特定した。  
 
声を掛けたかった。  
 
相手もびっくりするだろうが、こっちだって心臓がバクバク言ってるんだ。なんというかもう、ぶっちゃけ怖くて。  
一人で保健室を出たときは「うっとうしいのから逃れたい」とか思っていた。  
でも、いまは後悔している。  
ワケも分からず起こった異変の真っ只中で、見知った顔のどんなに心強いことか。  
なにも助けてくれ、とか、建設的な意見を述べてくれ、なんて贅沢は言わない。  
ただ、誰かがいてくれる  
たったそれだけでも、人っていう奴は落ち着ける生物なんだということが、この五分で身に染みて分かっていた。  
だというのに、  
 
ざば、ざばり  
 
どうして声を掛けられない。なぜ背中が薄ら寒くなるんだ?  
なぜ、「ここから逃げ出したい」なんて思ってしまうんだ。  
 
下駄箱の間から、長く伸びた影がはみ出してくる。  
どうやらだいぶ大柄な奴らしい。頼りがいがありそうだ。  
 
ざば、ざば  
 
ゆっくりとした足取りは大物のような風格すら感じられる。少なくともビビってはいないようだ。  
俺はさっきまでの怯えを気のせいだとして無理矢理飲み下し、声をかけようと口をあけた。  
そこで動きが止まる。  
 
魚が歩いていた。  
 
身長約2メートル、  
全身を青緑の鱗でおおい、首のない頭についた目は空ろで鈍い銀色、  
半開きの口からは剣山とピラニアの合いの子のような歯がびっしりと覗いている。  
その「肉を噛み裂くため」にあるゾロリとした歯並びを見ていると、自然と鳥肌が立ってきた。  
 
着ぐるみ、だと思いたい。  
 
でも、  
鰓がしゅこしゅこ動いているのは電動モーターか何かだとしても、この鼻の曲がりそうな魚臭さはなんだろうか。  
中の人はきっと慢性鼻炎に違いない。  
(アレは捕食者、俺は獲物)  
不意に浮かび上がってきたそんな言葉を必死に押し殺し、あえてなんでもないように考えてみる。  
 
上下水管が破裂してなぜか圏外になった学校の中で着ぐるみを着た慢性鼻炎で半魚人コスプレ男と遭遇  
 
凄いドッキリカメラだ。見なかったことにして逃げよう。噛まれたら大変だ。  
「コスプレは噛まないのでは?」とか思ったがあえて無視。  
アレはコスプレということにしておかないと気が狂いそうだ。  
ゆうに合計300度はありそうな奴の視界に納まらないうちにこっそり逃げようとした俺だったが、  
そのとき「あるもの」が視界に入ってしまった。  
 
繰り返すが、俺は校舎の「コ」の字の下棒からココに来た。  
したがって真っ直ぐ前を見ると上棒とタテ棒のつなぎ目の廊下が見える。  
ついでに体育館への渡り廊下も見える。  
 
そのスノコの上を、人が歩いていた。  
 
女生徒だ。  
見事に小麦色をした小柄な身体を、ウチのブレザー(黒の上下)に包んだショートカットのおんなの子。  
黒のニーソックスはポイント高め。  
背負ったリュックのベルト部分に指を引っ掛けつつ、余所見をしながらこっちにむかって歩いてくる。  
・・・なんかたっぷり50メートルはあるのにずいぶん細かいところまで見えてしまうのは、俺がスケベだからではなく、ノルアドレナリンの働きだということにしておきたい。  
怪獣一匹、餌はふたつ。  
あの子と俺、サカナから見て美味しそうなのはどっち?  
 
「逃げろぉぉぉぉぉ!」  
俺は大声で叫ぶと、後ろを向いて走り出した。  
 
一体俺は何がしたかったのか?  
馬鹿な事をした、その自覚はある。  
無駄なことをした、それも分かってる。  
だってそうだろう。(希望的観測として)ドッキリだったらいい笑いものだ「アンタビビリすぎ、かっこわる」とスタジオのコメンテイターのおねーさんに大爆笑されるだろうし、  
本当にあの子を助けたいと思っているのならば、今すぐ半魚人に殴りかかるべきだろう。  
ついでに叫んだことで確実にあいつの注意を引いたことは間違いない。  
あと50メートル有るのなら、ふと前を見たあの子が自然に奴に気づいたかもしれない。  
というか、気づくだろ普通。  
でも。  
気づいてからあの子がマトモな反応を示すまでに、どれぐらいの時間が掛かるだろうか?  
「悲惨な幼児体験のせいで不感症(っぽい)奴」と陰で噂されている俺でさえ、たっぷり五秒は現実逃避してしまったんだ。  
コイツはトラックにミンチにされた両親の死体よりヤバイ。  
この半魚人は、ヒトならば見ただけですくみ上がっちまうぐらい、異様な気配を振り撒いている。  
(ついでに、気絶しそうになりながらも、あまりの臭さに目が覚めてしまうぐらい魚臭い)  
ただの女の子が、いきなりそんなものを見せられて、はたして「逃げる」ことを素直に実行できるだろうか?  
また、「女の子が美味しく魚の餌にされている間に遠くまで逃げる」という選択肢は0.1秒で却下されていた。  
どうやら俺は思ったよりおせっかいだったらしい。自分でも意外だ。  
ただ、俺という奴はだからといって化け物退治に乗り出せるほど勇敢でもアホウでもなかった。  
だから、このけったいな魚に追いかけられるところを見せれば、あの子も反射的に「逃げる」ことを思いつくだろう、と思ったのだ。  
後は奴を振り切り、どこかに隠れればいい。  
なんせミニチュアのゴジラみたいにのたのた歩いてる奴だ、きっと鈍いに違いない。  
 
というわけで、、俺の取った「女の子に注意を呼びかけつつ必死に遁走する」という行為は、  
決して場当たり的で無意味などっちつかずのパニックの産物ではなく、  
生存本能と男の意地とを秤にかけた結果、合理的判断によって脳内多数決的に可決された、  
女の子に覚悟を決める為のごく短い(だが貴重な)数秒を提供しつつ、自らの命を可能な限り守ろうとした、  
自己犠牲精神と人道主義に溢れた、ついでにクレバーでスマートな行動だった、ということにしておいてほしい。  
 
・・・どうせ無駄だったんだ。せめて美しい思い出として美化させてくれ  
 
ザバァァァァッ!  
一秒後、俺は踵を跳ね上げられて、水しぶきと同時につんのめった。  
忘れていた。  
ゴジラは水中を50ノットぐらいで泳げるのだ、ということを。  
水深三十センチの水を「泳いだ」身長2メートルの半「魚」人は文字通り一瞬で俺を捕獲したわけだ。  
まだ幸運だったのは、奴の手(前足?)はヒレであってカギ爪ではなかったことと、  
ついでに引っかけられたのがズボンの裾だったので、身体に傷がつかなかったことだろう。  
奴はゴジラではなかった。本物のゴジラには爪があるのだ。  
いや、どっちも肉食ですが。  
 
シャギャアアアアアッ  
 
濁水の中で動けない俺に向かい、半魚人は大きく口を開けた。  
一面に棘のような歯がびっしりと植わった口が、まるで地獄の入り口のようにぱっくりと開いて視界を埋め尽くした。  
目をつぶってしまいたくとも、それすらも許されない圧倒的なまでの恐怖。  
凍りついた心臓を、一息で噛み砕くような光景。  
バネ仕掛けのおもちゃのように迫る口は一瞬で相対距離をゼロにし、今までとは比較にならないほどの腐った魚臭さが襲い掛かってきた。  
ああ、喰われたな。  
そう思った瞬間、「それ」はやってきた。  
 
風が吹いていた。  
その風は奴の背後から吹いていたというのに、前進を少しも助けようとはしなかった。  
それはまるで、背後から投げかけられた絞首縄のように背後から奴を捕らえ、  
此処ではない何処かへと引きずりこもうとしているかのようであった。  
 
奴の歯が眼前3ミリのところでピタリと止まる。  
吐き出される瘴気をもろに吸い込んでしまい、胸が悪くなった。  
だが、奴の動きはそこで止まっていた。  
必死に前進しては食いつこうとしているようなのだが、風はそれを許さなかった。  
 
♪〜〜〜♪♪〜〜〜♪  
 
気がつくと、笛の音が聞こえていた。  
だがそれは一体如何なる楽器による、如何なるメロディなのだろうか。  
フルートのようにも聞こえる「ソレ」は今までに聞いたこともないような、そして一瞬たりとも覚えていられないような、  
不思議で狂った音律を奏で、俺の心を揺さぶっていた。  
魚の口とは比べ物にならないほどの異質さ、飲み込まれるような存在感。  
ずっと聞いていたいような、今すぐにでも耳を塞ぎたいような、  
心をかき乱される音色だった。  
 
♪〜〜〜♪♪〜〜〜♪  
 
音にあわせ、不可解な風が吹く。  
風に引かれ、半魚人が揺れ動く。  
ゴジラと見まがう魚は、いまやプリンかババロアのようにプルプルと震えていた。  
やがて、まるで力づくで引き抜かれる頭髪のようにごっそりと崩れ去ると、赤黒いジャムのようなモノになった。  
灰色に濁った水は内側に大量の赤を受け入れ、その色をより濁ったものへと変えていく。  
視界が開けた。  
二メートルの魚がジャムになったおかげで、俺はとんでもないものを見てしまった。  
 
ブラックホール  
に似た何か  
 
それは真っ黒な穴であり、直径は三メートルぐらいであり、例の風はそこから此処へと吹き込んでいた。  
見る見るうちに魚だったジャムは赤黒い霧となり、穴へと吸い込まれていく。  
絞首縄のような風は半魚人だったものを余さず捕らえ、穴へと運んでゆく。  
赤黒く変色した水の中の肉片、血の一滴すらも水分子から選り分けているかのように吸い上げ、  
「ここではないどこか」へと運び込んでいった。  
後にはただ、何も無かったかのように、灰色の水がゆらゆらと揺れているだけだった。  
 
♪〜〜〜♪♪〜〜〜♪  
 
狂った笛の音が止むと、穴は消え、風も止んだ。  
そこには銀色のフルートを咥えた黒衣で小麦色の少女がひとり、ぽつんと立っていた。  
 
彼女はフルートをリュックにしまい、へたり込む俺のところへ歩いてくる。  
何気ない歩みはどこまでも無造作で、あきれるほどに普通だった。  
黒目がちの目はピタリと俺を見据えており、俺を目指していることは間違いない。  
ざばざばと水をかきわけ、とうとう彼女は俺の目の前に来た。  
 
喉がひりつく。  
ヒトの形をしているというのに、彼女はさっきの半魚人より、俺から「遠い」。  
トラックにミンチにされた両親の死体より「遠い」さっきの半魚人より、ずっとずっと「遠い」。  
その「遠い」少女が今、俺の目の前にいる。  
心臓がドクドクと早鐘を打ち、顎の先から冷や汗が滴った。  
背筋が凍りつく。  
ごくり、と喉が鳴る。  
目が離せない。  
仰向けにだらしなく足を投げ出し、後ろ手に上体を支えたまま、俺は瞬きすらできずに少女を見つめていた。  
すっ、と彼女の右手があがる。  
てのひらをこちらに向けていた。  
「キミ、いつまでそうしているの」  
小柄な外見に見合った、どちらかというと可愛らしい声だった。  
それでも、俺は動けない。  
ショートカットの黒髪の少女はふぅ、と小さくため息をつくと、  
「このみず、トイレの水も混じって」  
「うおわあぁぁあっ」  
ザバアッ!  
そのあんまりにも日常的な(かつ、無視できない)言葉に俺は思わず彼女の手を掴み、一息に立ち上がっていた。  
 
「あ、よーやく立った」  
そういって少女はにっこりと笑った。  
「あ、あぁ、あ、あー」  
なんといか、声も出ない。  
化け物を越えたバケモノさんは、あまりにも普通の女の子だった。  
「この水、あんまり浸からないほうがいいよ。キタナイし」  
「あ、あぁ、そう、だよな」  
ふつうの会話は、ふつうの精神状態を引っ張り出してくる。  
「変な魚、さっきまでいたよな」  
「うん、いたよ」  
ようやく、舌が動いてくれた。  
「俺、襲われてたよな」  
「うん、襲われてたよ」  
一つ一つ、確かめてゆく。  
「夢じゃないよな」  
「うん、夢じゃない」  
まるで中一の英語の教科書のようなやり取りが、俺を急速に正気づかせてゆく。  
「助けてくれた?」  
「うん、助けたよ、そのつもり、だったんだけど・・・」  
少女は急に不安そうな顔をした。  
「怖かった?ごめんね」  
申し訳なさそうに謝る少女に、  
「怖かった。でも、助けてくれて、アリガトな」  
俺はようやく笑いかけることができた。自然な笑み。  
 
・・・ただ、誰かがいてくれる  
たったそれだけでも、人っていう奴は落ち着ける生物なんだということが、この1分で身に染みて分かってきた。  
 
すると少女はちょっとびっくりしたように俺を見つめ、  
「怖いのに、そんなふうに笑えるの?」  
と聞いてきた。  
「怖いことは、怖い。でも、それは別として、礼ぐらい笑顔できちんとしたいじゃないか」  
そう、俺の危機感は前座の半魚人ですでにいっぱいいっぱいで、とっくにオーバーフローもいいところなのだ。  
怖いものは怖い。でも、あがいても無駄なものは無駄。  
死にたくなくても10トントラックを受け止めることはできないし、両親に死なれて悲しくても時間は巻き戻らない。  
そんなどうしようもないことよりも、今、やりたいことをやり遂げたい。  
昼寝しかり、礼しかり。  
・・・こんな性格だから「奇人変人」呼ばわりされるんだろうな、多分。  
 
「ちょっと意外。普通は恐怖のあまりおかしくなって電信柱と世間話するところだよ」  
あるいは髪の毛掻き毟りながら大絶叫するとか、そんなことを少女は言った。  
「まあ、俺はこういう奴だから。ところで、君は誰?他に誰かいなかった?」  
この子、名札をしていない。おまけに見覚えのない顔だ(女生徒の顔と名前に詳しいわけではないが)。  
慎ましやかな胸元を凝視する俺を嫌そうに見返した彼女は、やがて名札というものの存在に思い当たったのか、バツの悪そうな顔で首を振った。  
「うんとね、ボクはニセ学生だから、知らなくて当然だよ」  
「・・・偽学生・・・」  
「あるいは潜入工作員!」  
えっへん、って、胸張るところですかそこは。  
その突っ込みは次の一言で凍りついた。  
「ついでに、人間じゃないから」  
一瞬、あたりの空気が変わる。忘れていた冷気がぶり返し、背筋は再び冷や汗をかき始めた。  
 
「ココでは今、ある儀式が行われている」  
厳粛な顔と声色は、話の内容の突飛さを笑う隙を与えてくれなかった。  
「完成したら、あんまり嬉しくない事になるだろうね」  
ボクにとっても、ヒトにとっても。少女はそう付け足した。  
「ボクはそれを止めに来た」  
「正義の味方?」  
思い返すと、あまりにもベタで頭の悪いやり取りだが、このときは大真面目だった。  
いきなり魚の餌になりかけた身としては、安っぽくてもいいから正義のヒーロー(あるいは魔法少女?)というものがいて欲しかった。  
無力な一学生を不思議な力で助けてくれる便利なオールマイティー(類型:未来から来たネコ型ロボット、あるいはクラスの一番後ろ、もしくは触手な魔法少女)  
が、問題の一切を解決してくれる。そしてメデタシメデタシ。  
そうであって欲しかった。  
「違うよ。そんないいものじゃない」  
現実は無常だった。  
「でさ、ちょっと手をかして欲しいんだけど」  
ついでに阿漕だった。  
「だいじょうぶ、もしかすると死んじゃうぐらいの労働だから、全然平気」  
さらに無茶苦茶だった。  
「死にたくないってば!」  
「なら、契約成立だね。よろしく〜」  
やたらといい笑顔でトンでもないことをのたまってくれました。  
「人の話を聞けェ!」  
「聞いてるよ」  
 
表情を消した少女は黒目がちな目でこちらをじっと見据え、諭すように語り掛ける。  
「いい、このまま『儀式』が完遂されると、よくて日本沈没、悪くて世界の終焉がやってくる。  
でもそれ以前に、キミきっと食べられちゃうだろうね。」  
どこかから、しゃぎゃー、とか奇声が聞こえた気がする。  
「あとさ、キミ、僕の話の真偽を判別できないよね。」  
アタリマエだ。俺の人生経験に「半魚人に襲われる」なんて入っていない。  
いわんやその半魚人を吸い込む黒い穴をや。  
この子が大嘘をついていたとしても、それが嘘だと見抜く方法はないんだ。嗚呼、悲しき一般人。  
「で、ほっといたら死ぬ。多分」  
ここまではいい?と聞かれて、うなずかざるを得ない自分が悲しい。  
「それをボクに協力するだけで『多分』を『もしかすると』まで減らせるなら、ずいぶんとトクすると思わない?」  
にっこり。  
 
これはあれだ、「拒否権は有りません」というやつですか。  
自分から詐欺師(かも知れない奴)に身を投げ出せ、といいますか。  
 
「・・・まずは警察に電話を掛けさせて欲しい・・・」  
クーリングオフが効かないなら、せめて契約書ぐらいよく読ませて欲しいものだ。  
 
「どう?つながった?」  
「・・・ダメだ。」  
少女は意外と素直に公衆電話までついてきた。  
そのまま受話器を手渡してくれる。  
だがやはり不通だった。完全に無音。10円もテレカも無反応、非常ボタンもダメ。  
「これで『警察を呼ぶ』は無理だと分かってもらえたね」  
「なら『このまま走って逃げる』というのは・・・」  
昇降口の外は一面の水だった。だが、完全な無人だった。  
半魚人は速い。だが、見つからなければ逃げ切れるかもしれない。  
「実はあやしげなちからで『結界』が張られています。効果は通行禁止、ならびに警報。って言ったら・・・信じる?」  
 
ぐ。  
 
ソレはホントのコトですか?それともオオウソですか?  
もし『真』だとしたら、生きて帰ってこれない。  
『偽』だとしたら、無事生きて帰れる。  
 
だが、一面に続く水は、はたして一体どこまで広がっているのか。  
そう、校門の外にみえる町並みも、見渡す限り水没していたのだ。  
加えてよく見ると、この町はなんだかおかしい。  
人影が全く見えないのだ。助けを待つ人も、来てしかるべきな警察、消防も。  
犬の吠え声ひとつしないというのはあまりにもおかしすぎる。  
・・・隣家のクソ犬、夜になるとワンコラワンコラうるさいんだっつの。散歩ぐらい連れて行ってやれ飼い主。  
 
さらに、彼女は今まで嘘をついていない(怪しげなセリフは山ほどあったが。たとえば世界の終焉とか)。  
嘘をつくメリットが・・・あるのかどうだか確認してみよう。  
「あのさ、俺に何させたいわけ?」  
すると少女はあごにひとさし指を当てて「えーっとぉ」とか考え出した。  
・・・考えてなかったのかよ。  
「道案内とか?おとり・・・かなぁ?あと・・・・・・いろいろ」  
「おとりって、死ぬだろそれは!」  
「だいじょぶ!運がよければ助かるから!・・・きっと」  
なんかもう、ぐでぐでだなぁ。  
少女は一生懸命説得しているようなのだが、話せば話すほどボロが出る。そんな感じ。  
話術としては三流未満だ。ダメダメすぎて・・・笑えるし泣けてくる。  
「・・・」  
「ホントだよ、ちゃんと精一杯助けるから!ひょっとするとムリかもしれないけど、でもウソじゃないから!」  
そういう時は普通、うそでも誇大広告でも「絶対助ける」って言いませんか?  
「・・・・・・ダメ、かな?」  
答えは決まった。  
しょぼくれた顔をしてこっちを上目遣いに見上げる少女に、微笑みながら右手を差し出す。  
「いいよ、精一杯協力するから、なるべくなら助けてくれ」  
 
これが三流の話術による最悪の欺術だとしたら、  
それに引っかかった俺は、正真正銘本物の馬鹿者なのだろう。  
 
―でも、なんというか、ほっとけなくなってしまったんだから仕方がないじゃないか。  
この子がここまでして入れ込む理由は、正直全然皆目見当がつかない。  
でも、「ここまで」しなければならない理由が、彼女にはあるということなんだろう。  
だというのなら、  
できる限りのことをしてあげたとしても、バチは当たらないんじゃないだろうか―  
 
すると少女はきょとん、と俺の顔を見つめて、  
「ありがとっ!」  
と本当にうれしそうに笑いながら、差し出した手を両手でしっかりと握ってきた。  
その手は本当に小さかったけど、とても暖かくて、そして柔らかかった。  
 
少女は今、苦悩の表情で呻いていた。  
それはまさに、「苦虫を噛み潰したかのような」という形容がヒトガタを取ったらまさにこういう形になるのではないか、  
といわんばかりの苦悩っぷりであり、  
それに右のコメカミに当てられた細いひとさし指と、  
右ひじを支えるかのように掴んでいる左てのひら―腕組みと『考える人:作 ロダン』のアイノコのような思考ポーズ―と、  
地の底から響いてくるような唸り声によるサポートがくわわり、人類史上未だかつてないほどの完璧さで、  
少女の内面を外界へとアピールしていた。  
「なあ、そんなに変なこと、俺聞いたかなあ」  
下手人はおそるおそる自分の罪状を確認、可能なら否定しようとする。  
「う゛〜〜〜〜ん゛」  
返答は人の物とは思えないような唸り声。  
「いやでも、みんなやってることだって!というか、普通聞くでしょこれ!というか協力するなら、聞くのが常識じゃん!」  
「う゛う゛〜〜〜っ」  
地底人ハウリングは鳴り止まない。というか、ますます強くなっていた。  
というか、人を説得する際、「みんなやってる」「普通」「常識」や「あたりまえ」といった言葉をいきなり使うのは下策中の下策である。  
 
「みんな」や「普通」といった抽象的で曖昧な表現には具体性は含まれておらず、「常識」や「あたりまえ」などといったコトバにいたっては、  
時と場合と人によって千差万別に変化するものだからである。  
また、こういった言葉の使用が好まれる用法は主に、相手に言葉尻を掴ませたくない、加えてノリと気分を掻き立てて勢いで相手を流してしまいたい場合、  
ようするにキャッチセールスの勧誘などに多い。  
あるいは、具体的なデータを準備できなかった間抜けが、苦し紛れに舌を動かしているかのどちらかである。  
誠実に相手を説得するのならば、客観的に信頼できるデータを、相手の理解力に合わせて提示するのが、最低限の礼儀というものであろう。  
もし、それを煙たく思うような相手であることが分かれば、改めて舌先三寸で丸め込むことにすればいい。  
逆の手順は言語道断だが、この場合は「打ち解けてきた、あるいは気さくな人柄だ」といったイメージを相手に植えつけることができる。  
閑話休題。  
 
鳴り止まぬ鳴動をバックに少年はひとりごちた。  
「名前聞くのって、そんなに悩むことかなあ・・・スリーサイズならともかく」  
「う゛〜〜〜〜っ」  
 
ぴたり  
唐突に唸り声を収めると、少女はにっこりと笑った。  
「ボクのなまえ、何がいいとおもう?」  
 
ずぴし  
 
「〜〜〜〜っ」  
返答はでこピンだった。  
「あのなお前、それはちょっとあんまりじゃないか。」  
少年は半眼だった。  
「呼び名ぐらい、初めに名乗るモンだろう?」  
「『ボク』にはまだ名前がないんだよ。偽名を名乗っても、なぜかすぐバレちゃうし。ふしぎふしぎ」  
「ばれると、なんかまずいのか?」  
「・・・潜入工作員として、カッコつかないよぅ」  
おでこを赤くして、なみだ目で弁解する少女。いや、もうすでにカッコついてないから、手遅れだから、と口ほど雄弁な目をした少年。  
なんというか、登場シーンのシリアスムードのカケラすら残ってないぞ。  
あの時とは180度逆のベクトルで、コイツは「遠い」と感じはじめた少年は、はぁっ、とため息をついた。  
「だからさだからさ、ボクの名前、キミが付けてくれたら、うれしいな、なーんて」  
そんな少年に、若干慌てながら、とりなすように言いすがる。  
 
(『ボク』にはまだ名前がないんだよ)  
少年は、その言葉を反芻していた。予想外なほど、ショックだった。  
どうやらこの子は、本当に「遠い」存在らしい。  
名前がない。それはすなわち、呼んでくれる相手がいないということだ。  
ひとりぼっち、ということだ。  
もしもこの『自称:潜入工作員 特記:人間じゃない』が、機械や昆虫のような奴だったら、ここまで衝撃は受けなかったに違いない。  
ほほえんだり、はしゃいだりする情緒を持ち合わせている、自分と同じような「ヒト」だったからだ。  
「遠い」存在であったとしても、  
うれしい、と感じられる存在だということは、  
さびしい、とも感じられる存在だということだ。  
だれにも呼んでもらえない、ということは、  
きっときっと、想像もつかない位、さびしいことなんだろう。  
そう思った。  
この「遠い」少女は、もっと近くの存在になって欲しい。そう感じた少年は、頭を回転させて、少女にふさわしい発音を探した。  
 
「音色」  
ぼそりとつぶやかれた言葉は、これまでの流れから若干浮いていた。  
だから少女は聞き返した。  
「え?なんか音するの?・・・あの『しゃげー』は音色なんて感じじゃないよ、奇声とか咆哮だよ」  
「そうじゃなくてさ、お前の名前『音色』ってことで、どうかな?」  
「え?」  
両耳に手を当ててダンボにしながら、おどけたようにしゃべっていた少女は、ぴた、とその動きを止めた。  
どこからともなく半魚人のものとおぼしき奇声が聞こえていたが、二人ともそれどころではなかった。  
「イ、イヤその、初めてのときの笛の音があんまりにも印象的だったから!あと色黒いから!イタリア語でNEROだし黒って!」  
「音色・・・NEIRO・・・ねいろ・・・」  
あたふたする少年と、噛み締めるように繰り返す少女。  
「でも安易過ぎたらゴメン。また考え直すから!」  
「ボクの名前・・・他人につけてもらえた名前・・・音色・・・」  
二人とも、互いの話を聞いてない。  
「たとえばえーっと、そのぉ」  
「これいい!すごくいい!気に入ったよっ」  
くるくるとよくかわる少女の顔は、今までで一番いい笑顔を作っていた。  
「ボクは音色!キミの名前は、なんていうのかなっ?」  
 
予想というものは、時として裏切られるモノであり、時として人をたじろがせるモノである。  
この時少年をたじろがせたものは、『鼻をかみたくて商店街の福引に挑んだら温泉旅行が当たった』的な大きすぎる配当である。  
ぶっちゃけ笑顔に見とれてしまい、その後照れ臭くなった。  
「なんというか、そんなにはしゃぐことか、自己紹介って」  
だから、つっけんどんになってしまったのにはさしたる理由はない。  
強いて言うなら、ボウヤだったからである。  
「だって、ボク自己紹介するの初めてなんだもん。ね、それより、キミの名前教えてよ」  
少女―音色―はそんな少年の青臭い葛藤などに気づきもしないぐらい浮かれていた。  
「夏箕。楠木 夏箕だ。」  
「夏箕・・・・・・うん、覚えた。よろしく、なつみっ」  
はしゃいで再度夏箕の手を取り、ぶんぶんと大きくシェイクハンズする音色を見ながら、  
夏箕はかつて「女みたいだ」とからかわれ続けて嫌いに思ってきた自分の名前を、少しだけ好きになれた気がした。  
今はもういない両親に、今更ながら感謝したいと、少しだけ思っていた。  
 
背筋を襲っていた冷感が綺麗さっぱり消えてなくなっていたことに夏箕が気付いたのは、ずいぶん後になってからだった。  
 
「あ、そだ」  
ぺいっと夏箕の手を放り出し、音色はリュックを下ろして―水に浸からないように注意しながら―中をごそごそやりだした。  
「名前のお礼に〜」  
ふんふーん、と鼻歌何ぞやりながら、牛乳瓶ほどの入れ物―というか牛乳瓶―を取り出し、ちょいちょい、とかがむように手招きし、  
あ〜んして、といいつつビンのフタをきゅぽっと開け、  
「ボクのとっておき、分けてあげるっ」  
と、開いた口の中へと丸いものを放り込んだ。  
 
甘い。  
感想はその一言だった。  
口の中でコロコロと転がる「ソレ」は、どうやら飴玉のようだった。  
「あまい」  
へへーん、と得意げに金色の飴玉のつまったビンをちゃらちゃら振る音色にそう告げる。  
「はちみつ?」  
「と、あといろいろ〜」  
口の中でさらりと蕩けはじめる飴玉を転がしながら、俺はコイツとしばし会話を楽しむ。  
しかし美味いなこの飴。  
砂糖とは違う蜂蜜ならではの芳醇でコクのある甘みと口どけ、加えて舐めていると身体が温かくなってくるような気がする。  
アルコールでも入っているのだろうか。  
疲労や緊張がゆっくりと溶けていくようだ。  
「そのまま聞いててね〜」  
「ん〜」  
なんかまったりしてきた。  
「ボクの目的は、儀式の阻止。あと、なつみの生還」  
「ん〜」  
おまけでも忘れてないみたいだな、よしよし。って、俺おまけかい?  
それでも気分がささくれ立たないのは飴玉によるリラックス効果のせいか。  
「で、そのためにはまず、生存者を確保する必要があるの」  
「ん〜」  
コロコロ  
「だからまず、夏見にしてもらいたい協力は、ボクを人のいそうなところに連れて行くコト!」  
「ん〜、わかった〜」  
コロコロ  
「さっそく、案内いいかな?」  
「わかった。・・・保健室だな、こっちだ」  
口解けのいい飴玉は、惜しいことだがもう無くなってしまった。  
俺は保健室においてきた戸追手のことを思い出し、音色を案内することにした。  
先に立って彼女を案内する。ざばざばという水音がついてきたので、後ろは振り向かなかった。  
 
・・・このときのやり取りに、どれほどの婉曲で深刻な意味が含まれていたのかに、楠木夏箕は気付いていない。  
加えて背後の音色が口内で呟いていた「『釣魚』第一段階:完了。時間調整済み。スケジュールに問題なし。むしろ順調すぎ、要修正」  
という呟きと、ゾッとするような怪しい微笑にも、気付くことはなかった。  
 
「ねぇねぇ、なつみ〜?」  
「なんだ?」  
「手、繋いでいいかな?」  
「・・・ほれ」  
「わーい、ありがとっ。」  
「わーい、って、コドモかおまいわっ」  
 
足音と水音が角を曲がり、遠ざかっていった。  
あとにはもう、シンと静まり返った水面だけが残されていた。  
 
「ところでさ、ボクの名前、音色じゃイヤだ、って言ってたら、何にするつもりだったのカナ?」  
「んー、花子とか、A子とか、イッパイアッテナとか?」  
「・・・音色にしといて正解だったよ・・・ホントに・・・」  
 
 
戸追手 似亜(2−C)は苛立っていた。  
爪は噛まないようにしていた。もうそんな子供っぽいクセは抜けたはずだった。爪はお洒落のポイントなのだ。  
それでも、気がつくとガジガジ噛んで居た。小学校4年生には、きっちりとやめたはずなのに。  
身だしなみを整え、着飾ることの楽しみを覚えたからだ。自分が綺麗になるのは、良い。  
鏡を見てキレイになった自分の姿を確認するたびに嬉しくなった。  
髪を伸ばすことも、スタイルの向上のためにエアロビをすることも、パックをすることも爪や睫毛の手入れも、楽しかった。  
失敗もした。それでも、『キレイになる』という目的と『キレイになっている』という達成感は、彼女に自信と、前向きな努力を習慣づけさせる原動力となっていたのだ。  
そして気が付いたら、いわゆる美少女になっていた。  
良い意味で噂になる快感というものも、おまけで付いてきた。  
悪くない。そう思ったらもう、努力は苦痛ではなくなっていた。  
自分を安売りはしない。援助交際などというのはマトモなやり方では自分の魅力を引き出せなかった「二級品」が、  
なけなしのナニカを振り絞ってようやくひり出したマガイモノのエッセンスの、あきれるほどの安売りにすぎやしない。  
マトモな恋愛もできない根暗や引きこもりや脳筋の成れの果て相手に、たかだた数万円で売り付けた「程度」と釣り合うほど、  
私という人間の時間と形は安くはないのだ。  
それが私という「ちょっと派手目で毛色の変わった優等生」の矜持である。  
だというのに、  
何故私は、今の私の原点でもある「整えられた爪」をこうしてダメにしているんだろう。  
 
その理由が、本能的な恐怖であることが理解できないまま、  
戸追手 似亜(2−C)はただひたすらに苛立っていた。  
 
似亜と夏箕は入学以来の顔なじみである。  
注目される快感を知っている似亜ではあるが、自己向上を第一とする彼女にとって、それは時としてストレスを感じさせるものでもあった。  
要するに「うっとうしい」というヤツである。  
そんな時彼女は、迷わず貧血になることにしている。  
彼女が彼に出会ったのは、ある日フケこんだ保健室での、春の陽気に包まれた昼下がりの出来事だった。  
 
あの日扉を開けた彼女が見つけたものは、  
窓際のベッドの上にうつ伏せになって、一心に野良猫に猫じゃらしを振る男子学生の姿  
だった。  
こちらのことなど一切見向きもせず、小汚い野良猫を「ほれほれ」と挑発する姿は、なんというか奇妙だった。  
美少女でありたい「日常モード」の彼女であったら、不愉快に思うなり彼の気を引くなりしただろう。  
だがこの時は「お疲れモード」だったのだ。  
何もしたくなく、何もしなくていい、というのは正直ほっとしていた。  
 
見るとはなしに、彼と猫を見る。  
大きく開いた校庭側のガラス戸の外、日当たりの良いコンクリートの上であくびをする猫と、  
一心、あるいは無心に猫の気を引こうとする男子学生。  
野良猫は良い具合に年老いているようで、お世辞にも可愛いとはいえない顔つきをしていた。  
だが、あからさまな無関心を装いつつも、ネコジャラシにあわせて左右に振られる尻尾は何よりも雄弁だった。  
猫がもししゃべれたなら「子猫でもあるまいし、そんなものに興味はない」とでも強がったところだろう。  
なんだかおかしかった。  
だいたい保健室前に猫が居る、という状況からしておかしい。  
普通動物は強いにおいを嫌う。そしてココは薬臭い。  
おそらく、縄張り争いに疲れた猫が、一時の避難場所として、競争相手の居ないところを選んだ、といったところなんだろう。  
警戒することも、餌をねだることも、同族と戦うことも、  
猫にとってはアタリマエの日常であり、そして否定など出来ようもない生命のあかしなのだろう。  
それでも、時には疲れることもある。  
そんな時ふと立ち寄った逃げ場所には妙なニンゲンがいて、もう忘れたはずの子供時代をさかんに掻き立てるように振舞っている。  
それを、精一杯知らないフリをしながらも、じっと見つめてしまう。  
似亜は猫に親近感を感じていた。  
どっこいしょ、と空いたベッドに腰掛けたところで、何気なしに掛けられた、  
「猫、好きなのか」  
という問いに、  
「ああ、小さいころは、ペットショップの店員になりたかったよ」  
と答えていた。  
それが、その日の唯一の会話だった。  
 
静かで暖かな薬臭い一室。  
自分と、ソイツと、猫。  
誰一人目線を合わせないままに交わしたやり取りが、腐れ縁の始まりだった。  
 
ちなみに恋愛感情は全く無い。  
 
というか、美少女としては、仮にも男のが見ている前で味つき煮干をバリバリかじって野良猫の気を引いたりはしない、できない。  
だから脳内的には「男」ではない。  
もっというなら、保健室の外で会った事もない。噂にもなっていない。  
ちなみに、眠れない夜のひとり遊びのイメージ喚起に使用したこともない。ちなみにもっとサドっぽい美形が愛用イメージだ。  
戸追手 似亜が戸追手 似亜ではないときに出会う、お気に入りのCDの親戚のような存在に過ぎない。  
むこうもそう思っているらしいことが、妙に嬉しかった。面倒でなくていい。  
 
似亜にとっての夏箕とは、そんな相手だったからこそ、普段絶対に見せない甘えの裏返しのヒステリーを起こしたわけだが、  
それが彼女の明暗を分けていた。  
 

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