――げにや色に染み 花に馴れ行くあだし身は
はかなきものを花に飛ぶ 胡蝶の夢の 戯なり――
(能「胡蝶」より)
住宅街の一角に、ささやかな神社がある。この社の裏手にかつては小さな塚があった。
蜘蛛塚と呼ばれたその塚も、この住宅地が造成される時に取り壊された。事前の考古学調査では
女性のものと思われる長い髪がわずかに発見されたが、他に特徴的な出土品は見つからなかったという。
この神社の前の通りを西に行き、三番目の交差点を右に曲がってしばらく行ったところに小さな
喫茶店がある。店は地味で小さいし、コーヒーにさほどのこだわりがあるわけでもないので
あまり客の入りは良くない。もっとも、マスターは儲けることについてもあまりこだわりはないので
特に不満はなさそうだ。ニュースを流しながら新聞を斜め読みし、いちおう客の相手もするのが
日課で、それ以上の高望みをしないのが処世訓らしい。とりあえず何ごともかなり大雑把なので、
特に用事もなくだらだらと長時間過ごすにはそれなりに具合の良い店ではある。
* * * * *
夕方、きょうもブラウン管の中できまじめそうなアナウンサーが淡々とニュースを読み上げる。
「‥‥六人の女性にわいせつな行為を働いたとして、市職員村川仁容疑者(28)を
婦女暴行の疑いで逮捕しました。調べによると村川容疑者は‥‥」
ふう、と女は溜息をついた。言うまでもなくニュースの内容に関してだ。件の容疑者は
彼女の知り合いだった。だが普通、知人が破廉恥な犯罪で逮捕されたと知って「溜息」で
済ますものだろうか。
コーヒーカップを紅い唇からテーブルへ下ろすと、彼女は小さく独り言。
「‥‥また新しいのを探さなくちゃ、ねぇ。せっかくのイイのを見つけたと思ったのに‥‥」
まるでお気に入りのおもちゃを無くしたような口ぶりだが、彼女にとっては同じことだった。
昨夜、そのおもちゃがもっと楽しいモノになるようにと「ちょっとした工夫」をしてみたものの、
どうやらそれが裏目に出てしまったらしい。「素敵なおもちゃ」になったはいいが、昼間から
六人もの女性を襲ってお縄を頂戴してしまっては何の意味もない。テレビの中では、容疑者氏の
近所に住んでいるという中年女性が「まさかあの真面目で大人しい人が」と、紋切り型の言葉で
驚いている。
「あいつの色狂いも放っておけば治るだろうけど、ま、あたしの知ったことじゃないわね。
‥‥ああ‥‥でもいい夜だった‥‥燃えた‥‥熱くて‥‥奥まで‥‥あぁぅ‥‥欲しい‥‥」
思わずその「工夫をした」夜のことを思い出してしまった。知らず知らずのうちに独り言は
熱を帯び、その左手は胸元を鷲づかみにし、右手は股間へ伸びていた。
はっ、と気が付く。
周りの視線が集中――いや、明らかに集中していたが、彼女が我に返った瞬間、
誰もが「何も見てません」というような態度をとっていた。どちらかといえば短気な彼女は
そのあからさまな態度に少なからず気分を害したが、日のあるうちから騒ぎを起こしては
なにかと具合が悪い。カップを置いて立ち上がり、代金を払うと彼女はそそくさと店を後にした。
さすがに急いだのか、その場にハンカチを忘れたことにも気付かずに。
「なんだ? あのねーちゃん‥‥」
「さあ、痴女ってやつか?」
彼女はさっさと店を出たつもりだったが、だからといって客たちに与えた印象が
小さかったわけではない。とはいえ、そもそも客は少なかったしマスターはニュースばかり
気にしていたので、彼女の痴態を目撃したのは五人ほど。そして実際に彼女に興味を抱いたのは
二人の若い男だけだった。そのかたわれ、平沢雄也はことに彼女が気になるようだ。
「どうするよ、あのハンカチ持って追いかけてみるか? うまくすりゃあ‥‥」
容貌に恵まれたせいか生来の性格か、彼は美人と見れば声を掛けたくて仕方がないという性分だ。
‥‥「声を掛ける」だけでことが済んだりしないのは言うまでもない。
「おいおい、ハンカチの礼にカラダを要求する気か? 俺は遠慮しとくよ。
ヤク中とか病気持ちとかだったらヤだしな。ま、手ェ出すってんなら止めないけど」
「へへ、じゃあ俺がもらうぞ。あ、コーヒー代はちょっと立て替えといてくれよ。明日払うからさ」
「はいはい。じゃ、食い殺されないように気を付けろよ」
「ちっ。淫乱美女の彼女ができても貸してやんねぇからな」
シルクと思しきハンカチを手にあわただしく店から出ると、雄也は瞬間的に左右を見わたした。
繁華街にやや近いとはいえ住宅街に位置しているため、近くの女子校から帰る高校生や買い物に行く
主婦以外はほとんど歩いていない。となれば、スーツ姿の美女は否応なく目に付くはずだ。
――いた。
彼女は黒髪を風に靡かせながら歩く。だが、普通なら地味あるいは清楚と言いうるはずの衣服には
不釣り合いな、不思議な雰囲気を漂わせていた。風向きのせいか、その空気が男をかすめる。
その瞬間、ずくっ、と何かが疼くのを感じた。彼は口説き文句を考えながらその後を追いかける。
女は住宅地の、やや寂れた方へ歩くようだった。これには雄也も少々困った。繁華街の方へ
行くだろうと勝手に決めていたので声を掛けるタイミングを逸してしまったのだ。これでは
うまくお近づきになれても連れ込む店もなければ、ましてやホテルなどどこにもない。攻め方を
考えあぐねて焦る男を尻目に早くも夕闇が立ちこめ、まばらな街灯に照らし出されるのは
自分と女の影だけになっていた。
* * * * *
後ろに男がいる。若い。
彼女は思わず唇を舐めた。いつからつけているのかは知らないが、明らかに自分を目当てに
ついてきている。彼女はそういう積極的な男が嫌いではない。いや、一時的な相手としては
申しぶんない、とも思っている。そういう男は大抵彼女にとってあしらいやすく、しかも女の扱いに
慣れている。つまり手軽に、たっぷり楽しめるというわけだ。
さあ、今夜の相手は決まった。あとは声を掛けさせるだけ。幸い周りに人影はなく、おりしも日は
落ち行くところだ。くすり、と笑うと彼女はわずかに歩みを遅らせ、髪を掻き上げた。細く繊細な髪が
舞い――甘い妖香を振りまく。
* * * * *
前を歩く女が髪を掻き上げる。雄也はこの行為がこれほどまでに扇情的なものとは知らなかった。
女が漂わせていた不思議な雰囲気が――いまやそれが強烈な色香だとはっきりと分かるほど濃密になり、
二人の距離に立ちこめる。心臓が、脳がずきずきと疼き、それが雄也の逡巡を吹き飛ばした。
「あ、ちょっと――‥‥!?」
男の声に、女の足が止まる。そしてその顔が振り返り――雄也は続く言葉を失った。
切れ長の美しくも鋭い眼、真っ直ぐに通った鼻筋、血のように紅い唇。その美貌は獲物を見つけた
猛獣のような、凄絶な笑みを確かに浮かべて――いた、ような気がした。
「なにか?」
女の問いかけで、男は我に返った。おそらく、凍り付いていたのは一秒にも満たなかっただろう。
本能が鳴らした警報を忘れ、彼は所期の目標を思い出して口を開く。
「あ、さっきの喫茶店で忘れてましたよ、このハンカチ」
おかしい。舌がうまく回らない。だいたい、雄也は初対面の女が相手であっても、下心で
話しかける時には丁寧語など使うような男ではない。だが、この女の前ではいつものように
振る舞えない。相手は喫茶店でオナニーを始めそうになるような変態女だ。絶対に肉体関係に
持ち込める。そう確信していたはずなのに、実際に向き合ってみると得体の知れない圧迫感に
気圧される。
「あら、ふふ‥‥忘れてたのね。ぜんぜん気付かなかったわ、わざわざありがと。
‥‥お礼に、どう? あたしの家、すぐそこなんだけど」
心にそこはかとなく立ちこめる不安を女の言葉が破る。しかも女の方から誘いを掛けてきた。
(やっぱり淫乱だな、こいつ)
さっきまで感じていたかすかな恐怖が心底ばかばかしい。多少萎えかけていた戦意が急速に高まる。
少々問題のある連中と付き合うことで培われた彼の生存本能は並の人間より鋭敏だったのだが、
女の色香と自身の欲望がそれを鈍らせていた。
言葉通り、彼女の家はまさにすぐそこだった。その位置について、近辺に住んでいる者なら
違和感を感じたかも知れない。が、雄也はこの住宅地の住人ではなかったし、仮にそうだったとしても
欲望をたぎらせている今の精神状態ではそんなことも感じなかっただろう。
案内されるままに部屋に入り、申し訳程度の雑談をかわし――数分も経たないうちに、
二人はそれぞれの欲望のままに唇を重ねていた。
くちゃ、くちゅっ、びちゃり。互いに互いの舌と唇を貪りながら、服を脱がしあう。
女の白い指先が男の高ぶりを捕らえ、男の指先が女の柔らかい胸を揉みしだく。
「んふ‥‥あ‥‥」
女の吐息が鼻から抜け、甘い声を立てる。
「感じやすいんだな、あんた。――そういや、名前は?」
得意の場面になったこともあって雄也の舌もいつも通りの能力を発揮できるようだ。彼は優しく、
だが的確な愛撫を与えながら彼女に尋ねた。
「ふふ‥‥名前なんてどうでもいいじゃない‥‥んはぁっ!」
花びらの狭間をいじっていた指先が肉芽をつまみ、彼女に嬌声を上げさせた。
「教えてくれないなら入れてあげない」
雄也は耳元で意地悪く囁いた。実際に名前に興味があるというより、性技で女を
支配するきっかけにするためだ。
「あんっ、はぁっ、っく、はぁ‥‥巧いわ、あなた‥‥」
「そうじゃなくて、名前は?」
「まだ教えない――あ、あああっ!!」
蜜壺の一点をえぐるような指先に、彼女は大きく喘いだ。
「人前でオナニーしそうになるほどの淫乱女だろ? 名前ぐらいで恥ずかしがんなよ‥‥」
「はっ、あふっ、っく! ああ、すご‥‥い! あはぁっ、んぐっうぁぁはぁっ!」
「教えろよ」
「っく、あ、ああああっ! だめ、あっ、くぅぅっ、いく、いくぅっ!!!!」
男に後ろから抱えられたまま、彼女は達した。
「‥‥はぁ、はぁ‥‥。ほんとに巧いわ‥‥。ねぇ、そろそろ抱いてよ‥‥」
「さっきも言ったろ、名前を教えてくれるまでは入れないよ」
楽しげな笑みを浮かべる男に、彼女も淫らな笑みで答える。
「んふふふ‥‥。じゃ、そうすれば? あなたは我慢できるの?
ここまでしておいて、あたしを抱かずに帰れる?――あ、あはぁっ!!」
雄也は返事をする代わりに、先ほどの指技をもう一度彼女に味わわせる。女は喘ぎ、悶え、
よがり、絶叫する。そしてまた名前を聞く。やはり答えない。さらに指でイかせる。
これを何度か繰り返し、折れたのは――雄也の方だった。
「くそっ‥‥。だめだ、もう我慢できねぇよ」
「あぁ‥‥はぁっ‥‥はぁ‥‥」
女は息も絶え絶えに喘ぎ、言葉を返すどころではない。が、その眼は男を嗤う光を見せている。
雄也は苛立たしげに彼女を押し倒すと、既にいきり立っている怒張で彼女の秘部を一気に貫いた。
肉杭を握りしめ奥へと誘う蜜壺を楽しみながら、男は腰を深く沈める。下の唇が湿った声で歓び、
上の唇が低く深い喘ぎを漏らす。突き上げれば突き上げるだけ、二箇所の淫らな唇は激しく反応し、
その両方からよだれを垂らしてさらなる快楽を求める。不意に入り口が強く締まり、
中が広がり――びくびくと身体をくねらせ、淫女はベッドに沈み込んだ。
「イキやすいんだな、あんた‥‥。すげえ‥‥」
「ああぅ‥‥はぁ‥‥ふふ‥‥ホントに上手いのね‥‥。
たまらないわ、あなたの精力、全部あたしに叩きつけて‥‥!」
雄也は求めに応じてさらに強く犯した。張りのある見事な乳房を揉み潰し、洪水を起こして
溢れかえる淫裂を貫き、子宮の入り口を突き破らんばかりに連打した。獣のように咆哮する牝を
何度と無く絶頂に追いやり、自らの怒張も何度か脈打った。それでも止まらなかった。
女は絶頂に次ぐ絶頂を求め続け、男はそれに応え続けた。
女も沸騰していた。これほどまでに楽しめる相手だとは想像もしなかった。
奥底を力強く打ち抜かれ、大きく張り出したカリで思いきり抉られる。彼女はこらえようもなく
エクスタシーに突き落とされる。普段は男から搾り取ることばかり考えている彼女だが、
今はそれどころではなかった。荒れ狂う快楽の嵐を乗りこなすこともできず、ひたすらに溺れ、
絶叫し、しがみつき、腰を振りたくる。
「はぁ、はぁ、はぁ‥‥」
何度目の射精だろう。雄也はさすがに疲労の色濃い顔色で、女に倒れ込んだ。一瞬前まで
断末魔のような絶叫をあげ続けていた女は、しかし秘部に突き刺さったままの肉棒を
逃がさずくわえ込み、まだ精を貪ろうとする。
率直に言って、信じられなかった。彼の経験からして、これだけのペースで、これだけのテクニックを
費やして、これだけの回数の絶頂を味わわせれば、確実に相手は失神する――はずだった。
肌を重ねた相手は失神させる、それが雄也の「優越感」だった。だが、女性に対して「絶倫」という
形容が当てはまるなら、まさに目の前の女がそれだろう。自分がそうだといわれたことはあるが、
まさかその自分を超えるほどの性欲と体力をもった女がいるとは考えもしなかった。
「ねぇ‥‥もう終わりなの?」
名も知らない女が囁く。雄也の自尊心にビシリ、とひびが入る。
(なめやがって‥‥絶対失神させてやる‥‥ブッ壊して廃人にしてやる‥‥)
怒りと歪んだプライドを原動力にして、男は萎えかけた逸物を奮い立たせる。
そしてもう限界に近い体力を振り絞り、人間離れした精力の女を突き上げた。
* * * * *
「あ、っくぉ、‥‥あ゙、あ゙ああぁぁあぁぁぁ!! っ――――」
「――ぐっ‥‥!!」
渾身のピストン。そして、ペニスの先から残った体力のすべてをはき出す。凄まじい咆哮が
尾を引いたあと、女はついに倒れた。身体をのけぞらせたままベッドに崩れ、全身を不規則に
痙攣させながら。激戦を耐え抜いた名刀を引き抜くと、膣内に留まりきらなかった精液が溢れる。
「‥‥ざまあみろ、売女」
肩で息をしながら、雄也は憎々しげに勝利宣言をした。もし彼が望むだけの余力があれば(そんな
人間はいないだろうが)、恐らく本当に彼女が廃人になるまで抱いたことだろう。
だが、その勝利宣言の効果はたちどころに消滅することになる。
「ふ‥‥ふふ‥‥」
「なっ‥‥!?」
笑っていた。女が、ベッドに沈んだまま。
「最高‥‥最高だわ、あなた。まさか生身でここまで狂わせてくれる男がいるなんてね‥‥。」
「バケモンかよ、あんた‥‥」
「化け物‥‥?」
雄也が思わず漏らした素直な感想に、彼女は鋭く反応した。淫らな喘ぎや艶やかな挑発とは
まるで異なる――冷たくどす黒い響きがこもったその声音に、雄也は部屋の温度が下がったように
感じた。それを知ってか、あるいはそんなことは興味がないのか、彼女はベッドから身を起こし、
「ふふふ、だとしたら? だとしたらどうするの?
ねえ、教えてよ。あたしが化け物だったら、どうするの? っくくくく、ほら、答えなさいよ。
逃げる? 殺す? 抱く? ‥‥ねえ、どうするの?」
狂気を帯びたふくみ笑いを交え、彼女は男に詰め寄った。その声は高く低く響き、いやましに本能を
震わせる。雄也は思い出した。この女に声を掛けた瞬間の、得体の知れない恐怖感。自分という餌を
前にして狂暴な獣が舌なめずりをしたような、言いようのない圧迫感。
ドクン。ドクン。
突然、自分自信の鼓動が、徐々に大きく、速く響きはじめる。
(――この女はヤバい)
本能が叫ぶ警報にようやく気が付き、逃走を考えた時には――既に遅かった。
素早くベッドから立ち上がろうとした瞬間に、衝撃が襲った。衝撃自体はさほど強いものではない。
急いで歩いている時にいきなり後ろから襟首を捕まれたような、そんな衝撃だ。
「ふふ、逃げるの? 逃げられる?」
女が笑う。
疲れのせいだと考えた男は、もう一度ベッドから降りようとした。が、今度は足首にも衝撃を受けた。
「無駄よ。あなたはこのベッドから降りられない。だって‥‥ねえ?
ほら、あたしはまだ満足しきってないわ‥‥ほら、もっと抱いてよ‥‥ふふふ‥‥」
「な‥‥どういう意味だよ!?」
「そのままの意味、よ。だってあなたの首筋も、手も、足も、
あたしの糸がとっくに捕まえてるんだから‥‥逃げられるはずないじゃない。
逃がしてほしいなら、抱いて‥‥あたしが完全に満足するまで‥‥」
卑猥な声音でわざと唾液の音を響かせながら、女は嗤った。
「‥‥俺はてめーみたいなイカレたアマとこれ以上遊ぶ気はねえんだ。
‥‥なめたこと言ってるとブッ殺すぞ‥‥」
雄也は正体の分からない恐怖を怒りで覆い隠そうとするが、その脅しが中身を伴っていないことが
女に分からないはずもない。
「あっはぁん‥‥やってみれば?」
髪を掻き上げ、乳房を揉みしだき、絵に描いたような媚態をみせつけ、くすくすと笑う。
それが雄也の怒りという名の恐怖心を破裂させた。
「‥‥テッメェ!」
怯える動物は吼え、かみつくものだ。雄也は女の顎を砕こうと拳を唸らせた――が、拳は不自然な力で
外へそれて顔の横を行き過ぎ、それに引っぱられるように雄也の身体はベッドに倒れ込む。
「あはははは。何やってんの? ま、女を抱くしか取り柄のないバカに言っても意味ないか。
仕方ないわね、あんたにも分かるようにしてあげる‥‥」
彼女がそう言った途端に、男の身体が飛び起きる。だが、それは人間が起きあがったと言うよりも
まるで操り人形が糸に引かれて起きあがったような、奇妙なぎこちなさを伴う動作だった。
その不自然さは動作を起こした当人も信じがたいらしく、顔がいくぶん青ざめている。
が、それでも不自然な動きは止まることなく、男はまるで自分はそうしたくないと言わんばかりの様相を
見せながら、女の身体を抱きしめた。
「な‥‥なんだよこれ‥‥からだが‥‥」
「ふふっ、声が震えてるわよ雄也ちゃん。
おねえさんにしっかりつかまってなさい‥‥お楽しみはこれからなんだから」
彼女の低く冷たい挑発が終わらないうちに、変化が起きた。
雄也は最初、自分の身体を抱きしめたまま彼女が立ち上がったと感じた。それは半分は正解だった。
雄也を抱きしめたまま、彼女の高さが変わる。立て膝で座るような姿勢だった雄也の身体もそれに伴って
上へと持ちあがり、膝が伸び、ついに足がベッドから離れた。
――いや、ベッドはなかった。さっきまでベッドだったそれは、極めて細い糸で編まれた網に
なっていたのだ。
「ひ‥‥ああ‥‥」
「どうしたの‥‥? かわいい声で怖がるのねえ‥‥うふふふふ‥‥」
女の肩越しに眼にした光景に、雄也の顔が凍る。
この世の光景ではなかった。少なくとも、雄也の知っている世界に、こんなものがいるはずが
なかった。細かな毛に覆われた丸い胴を持つ、巨大な節足動物などいるはずがなかった。
しかもそれは、不可解な方法で自分を抱え上げる女の、すぐ後ろに蠢いている。
つまり、今の姿勢では見えないが、自分の真下に頭があるに違いないのだ。
「たす‥‥たすけてくれ‥‥! 蜘蛛が、蜘蛛が‥‥いやだ、食われたくない、死にたくない‥‥!」
「んふふ‥‥。そう、蜘蛛が見えたのね。どう? その蜘蛛はあなたを狙ってそう?」
うわべだけは優しい声。女の言葉に、抱きしめられたまま思わず視線を動かした。蜘蛛の動きが
知りたかったのだ。が、蜘蛛はどうやら動く気配はないらしい。自分は真上になっていて、
蜘蛛から見て死角なのだろうか――? それを知ろうと、彼はさらに視線を動かして蜘蛛の様子を見た。
「――ひっ‥‥!! あ、ああああ、化け物、離せ、離してくれ、うあああああ!!!」
知りたくもない真実。それを知った雄也は、今まで誰にも見せたことのない表情で叫んだ。
悪夢だった。巨大な蜘蛛の身体は、「蜘蛛」ではなかった。彼を抱きしめ、
淫らにあざ笑う女――それこそが蜘蛛の「身体」だった。
「離せ?‥‥どうして? あなたがあたしに声を掛けてきたんじゃなかったかしらぁ?
あたしと絡みあいたかったんでしょ‥‥ねぇ、さっきの続きをしてよ。
あの快楽、もっと味わわせてよ‥‥ふふふ、相手が人間じゃなくてもできるでしょ?」
「ひぃっ‥‥た‥‥たのむ‥‥助けてくれ‥‥ま、まだ、まだ死にたくない‥‥」
「殺すなんてまだ言ってないのに、気の早い男ね。一体何度言わせるの? 早く抱いて。
あんたのその自慢のヤツで、さっきみたいにイかせて‥‥」
蜘蛛女は軽蔑も顕わに言う。その口調には、先ほどまでの妖艶だが冷たく残忍な声に加えて、
明らかに苛立ちが加わっている。
雄也は恐怖と嫌悪で怯えきっているが、実は彼女に他意はない。抱け。抱いて、思い切り狂わせて
欲しい。人間を装っていたさっきまでならともかく、怪物としての本性を現した今となっては、
生半可な快感では到底満足できない。エネルギーに溢れた精液をいやと言うほど注いで欲しい。
もちろん、恐怖に縮み上がった男を、本人の意志にかかわらず奮い立たせる方法は彼女も熟知している。
おぞましい怪物に怯え泣き出さんばかりの男を、嬲り、挑発し、快楽で堕とす――それは彼女一流の
技であり、また最高の楽しみでもある。だが、今の彼女はそんな悠長な方法をとる気はなかった。
目の前の獲物は彼女が今まで手に入れた中で最高の快楽を味わわせてくれた。この歪んだ性欲の
権化なら、きっと、もっともっと楽しめる。
「ほら、ねえ、早く抱いて」
彼女は男を抱きしめたまま、一対の脚を使って雄也の身体をまさぐった。会陰部を刺激し、
しなびた肉棍をもてあそぶ。だが、熱戦に次ぐ熱戦で体力も精力も尽き果て、さらに恐怖で精神も
萎縮してしまった雄也の身体はほとんど反応しない。苛つく妖女はそのトゲを隠そうともせずに問う。
もはや笑みも失せ、怒りに近い表情が透けて見える。
「ねぇ、勃たせて。あたしをブチ抜いて。早く。‥‥できないの?」
「‥‥お‥‥お願いだ‥‥ゆ‥‥るしてくれ‥‥もう‥‥たすけて‥‥」
返事は涙声。
「――そう。もういいわ、あなた。二人で楽しめると思ったのに、とんだ興ざめね」
静かな声。
「‥‥え‥‥?」
雄也は思わず顔を上げた。逃がしてくれるのか。その顔はそう問いかけている。しかし返事はない。
妖女の唇が軽く重ねられ、耳元で囁く。
「楽しかったわ‥‥じゃあね」
助かる!――雄也が愚かにもそう信じた瞬間。
ずぶり。
「――――――!!!」
雄也は声にならない悲鳴を上げた。女の口が、首筋に食らい付く。鋭く尖った牙が深々と食い込む。
勢いよくあふれ出る生命の液体を、ごくごくと喉を鳴らして飲み下してゆく。
「が――あが‥‥ぎ‥‥ぃっ――!!!!」
激痛に身体がこわばる。抵抗も意味をなさない。一分ほどその状態が続くと、女妖は口を離し、
にたりと笑う。
「あんまり鳴かないで‥‥。耳元で騒がれるとうるさいわ」
そう言うやいなや今度はのど笛に牙が沈む。雄也の口から悲鳴の代わりに鮮血が溢れ、
ごぼごぼと濁った音を立てる。飛び散る血潮で美貌の半分を濡らしながら、残虐な笑みを浮かべて
のど笛を食いちぎる。拍動に合わせて噴水のように吹き上がる鮮血を豊満な乳房で受け止めながら、
ひゅうひゅうと音を立てる雄也の顔を両手で抱え、囁く。甘く、淫らに。
「そういえば、あたしの名前を聞きたがってたわね‥‥。
いいわ、もうお別れだから教えてあげる。あたしの名前はね――」
瀕死の男の耳元で、形の良い紅い唇を動かす。別れの囁きが終わる瞬間、鋼のような爪先が
雄也の身体を引き裂いた。
* * * * *
「なんだよ、なんで目撃者がいないんだよ!」
警察署。焦りと怒りをあらわに声を荒げるのは、あの日喫茶店で雄也と無駄話に興じていた男だ。
数日たっても雄也の姿が見えず連絡も取れないという事態に及び、彼は警察に捜索を依頼したのだが――。
「しかしなあ、誰もそんな女は見てないと証言してるんだ」
「店の親父は!? 常連客は!? 夕方だったんだ、通りには買い物客も歩いてたろ!?
誰も見てないなんて、そんなハズあるかよ!!」
だが答えは変わらない。
「我々もそのあたりはちゃんと捜査したつもりだよ。その結果が今言ったとおりなんだ。平沢さんが
失踪したという日、きみが言った時間帯に、その店にスーツ姿の若い女はいなかったし、通りにも
歩いていない。そうそう、平沢さんの目撃情報自体も、神社――なんていったかな、
あの小さい神社――のあたりでの目撃が最後だ。そのときも彼は独りで歩いていたそうだ」
「そんな‥‥」
若い男は絶句した。それからもしばらく話を聞いていたがそれ以上得る所はなく、彼は呆然として
警察を後にした。
* * * * *
「――神社って‥‥ここか」
近隣の住民に道を聞き、友が近くで消息を絶ったらしい神社へその日の内にたどり着いた。
あまりにも小さく、ほとんど存在にも気付かないほど小さく寂れた神社が住宅街にひっそりと
埋もれている。その規模に準じた小さな鳥居に、扁額がかかっていた。その古色蒼然とした木の額には、
かろうじて「土蜘蛛神社」と読み取れる文字が見える。しかし来てはみたものの、
やはりそれ以上のことはなにもない。
ふと、古ぼけた案内板が目に入った。祭神の名のほかはほとんど何も書かれていないが、
男はそれを一瞥して神社を後にした。
鎮座の神は「佐沙我禰比売」――振り仮名によると「ささがねひめ」というらしい。
(終)