夕暮れ。就業時間も終わり、多くの人々が家路につく。五十嵐あずみもそのひとりだ。  
以前は夕食を共にする相手もいたが、今はいない。何年も付き合っていたが、  
ふとした心の行き違いがもとで別れてしまった。  
「秋人(あきと)、どうしてるかな‥‥」  
 寄り添って歩く恋人達を見ながら、ここ数ヶ月一度も口にしなかった言葉が漏れた。  
彼女自身、自分の心に全く気付かなかったわけではない。夕食をとるために立ち寄ったレストランが  
何故か自宅よりも別れた男の家に近い場所にあったり、よく待ち合わせ場所にしていたところへ  
必然性もないのにうっかり通りがかってしまったり。そんなときに、彼女はいつも自分の心の隅に  
わだかまる少し屈折した想いに気付く。別れるべくして別れたのだと思ってはいても、奥底では  
後悔しているということに。でも、それを口にすることは彼女のプライドが許さなかったし、  
ましてや当の男に会いたいなど、考えることさえ馬鹿馬鹿しいと思っていた。  
‥‥うっかり出会ってしまうまでは。  
 
「‥‥あ、秋人‥‥」  
「あ、あずみ?」  
 あろうことか、真正面からの再会だった。  
「久しぶり‥‥元気だった‥‥?」  
「うん。あずみも元気そうだね」  
「‥‥」  
 言いたい。でも言い出せない。間が悪く、どうにもやりにくい。この男は鈍さにかけては相当なものだと  
思っていたが、こちらの気持ちに気付かず会話の助け船も出さないあたりは本当に相変わらずのだめ野郎だ。  
と、彼女はすべて相手のせいにした。  
「‥‥ねぇ、あれから私、考えたんだけどさ‥‥」  
「うん?」  
 相変わらず本当に鈍感だ。だが、それ以上に妙に時計を気にしている。早くどこかへ、一刻も早く  
どこかへ行きたい。そんなそぶりだ。  
「‥‥急いでるの?」  
「うん、彼女が待ってるから‥‥」  
 さりげない一言。重苦しい衝撃が、じわりとあずみの心に押し寄せてくる。いくら鈍感でも、  
秋人がこれほど無神経な言葉を投げつけてくるとは思わなかった。悲しみ、怒り、そんな感情が渦を巻き、  
彼女を無言で走らせた。  
 突如走りだした元恋人を不思議そうに見ると、秋人は元の進路を歩く。.  
初めから誰にも会わなかったような足取りで。  
 
 * * * * *  
 
「あずみ、なんかあったの?」  
「え?」  
 休憩時間、職場で同僚が声を掛けてきた。  
「え、じゃないでしょー。なんだか上の空だし、そうかと思えば機嫌悪いし。どしたの?」  
「あ‥‥うん、大丈夫。どうってことないから。ありがと、気遣ってくれて」  
 そう返事はしたが、缶コーヒーを飲み干すと、ふぅ、と溜息が出た。  
(全然大丈夫じゃないじゃん)  
 同僚はそう思ったが、声には出さずにさっさと自分の友人達のところへ戻っていった。  
(そういえば‥‥秋人は別に「全然もてない男」じゃなかったな)  
 同僚達の楽しげなさえずりを遠くに聞きながら、あずみは思い返す。  
 十人並みの容姿だったが、その良く言えば純朴、悪く言えば鈍感で単純な性格はそれなりの魅力が  
なかったわけではない。もっとも、そのおかげで本人は「もてないわけではない」ということに  
全く気付いていなかったのだが。  
(彼女ができても‥‥そんなに不思議じゃないのかな、よく考えたら。  
‥‥でも‥‥なんなのよあの態度は‥‥!)  
 冷静に考えようとしていたが、思い起こすとふつふつと怒りが再燃してくる。最後のあたりは  
ほとんど声になりつつあった。  
 
 * * * * *  
 
 退社時間。彼女は決意を胸に猛然と会社を後にした。  
(見てやろうじゃないの、あんたの「彼女」ってのを!)  
 きのう出会った場所と秋人の向かった方向から見当をつけ、秋人が通りかかるのを待ち伏せた。  
もちろん秋人が今日も「彼女」に会いに行くとは限らないが、それならそれでいい。今日でなくても  
かまわないのだから。  
 しばらくすると、やはり今日も秋人が現れた。そのいそいそと歩く様子が見えるや、あずみの胸は  
締め付けられると同時に怒りの炎が燃え立つ。そしてそれを周りに悟られないように、彼女は努めて  
平然と秋人の後ろをつけた。  
 
 秋人は歩く。かなりのスピードだ。脇目もふらず、歩調を乱すこともなく、一心不乱に歩く。  
いつの間にかあたりは繁華街から遠ざかり、住宅街にさしかかりつつある。人通りが減る。  
いま、秋人が振り向けば間違いなくあずみに気付くだろう。だが、彼は前だけを見つめて歩き続けた。  
足音はすでにふたつだけになり、むしろ振り向かない方が不思議なほどだ。  
(それにしても‥‥どこへ行く気なのよ‥‥。女の家ってわけ?)  
 しばらくすると、唐突に秋人は右へ曲がった。尾行者は慌てて電柱の陰に隠れたが、  
もし隠れなくとも秋人は気付かなかったに違いない、とあずみは確信めいた不思議な考えを既に持っていた。  
 ただし、曲がった先は――彼女の考えからはあまりにもかけ離れたものだった。  
廃ビル。おそらく、もとは事務所などが入っていたのだろう。秋人は平然とその敷地へ入り、  
駐車場側の入り口から中へ足を進める。そしてあずみも、おずおずとその後に続いた。  
 
 声が聞こえた。  
 あずみは思わずびくりと体を震わせると、陰になった壁に身を添わせる。  
 声は、想像されたとおり、ふたつ。秋人の声と――女の声。  
「‥‥遅かったのね‥‥待ってたわ‥‥」  
 同性のあずみでさえ、ぞくりとするほど艶のある声。  
「ごめん‥‥どうでもいい仕事が多くて‥‥」  
 こちらは秋人の声。  
「そう、まあいいわ‥‥んっ‥‥」  
 衣擦れの音がすると、ふたりの言葉がとぎれた。あずみもふたりの行為は想像がつくが、  
内から突き上げる衝動を留めることができずに陰からのぞき見た。  
 ふたりは唇を重ねていた。長い髪の、妖しい雰囲気を漂わせた女が秋人の首に腕を絡ませ、  
秋人はその女の腰を抱きすくめて唇を重ね、ついばみ、舌を絡み合わせていた。秋人が女の体を抱きしめれば、  
女もそれに応えて抱きしめ返す。唾液の音、甘い吐息が、まるで目の前で聞こえるかのように響く。  
あずみは視線を外すことができなかった。  
 あの秋人が、あんな女と。あの秋人が、あれほど積極的に。あの秋人が――。  
 怒り、悲しみ、嫉妬、侮蔑、さまざまな負の感情が沸き立つ。握りしめた手に爪が食い込み、  
痛みを感じるほどになっていた。  
 そして唐突に、その彼女の胸にもう一つの負の感情が押し寄せた。  
 女と、目が合った。  
 それは「恐怖」だった。  
 あずみは顔を陰に隠すことさえ満足にできなかった。女の目が特異だったわけではない。  
怒りや憎悪のこもった視線で射すくめられたわけでもない。ただ、ただ、怖かった。  
なにかが、圧倒的な「なにか」が、そこにいる――彼女は、そう感じた。  
 ばくばくと音を立てそうな胸を押さえ、あずみは壁に寄りかかる。  
(‥‥なによ‥‥一体なんなの‥‥あの女は‥‥秋人も‥‥)  
 逆巻く感情を瞬時に押しつぶした恐怖と戦いながら、彼女は逃げ出したくなる気持ちを  
押しとどめようとする。何のためにここまできたのか。どんな女が秋人の「彼女」なのか、  
見届けてやろうという気持ちだけだったはずだ。  
 当てが外れた――そのことは、彼女の奥底は認めていた。女は、彼女がかなう相手ではなかった。  
美貌も、肢体も、声も、雰囲気も、すべての面であずみでは足元にも及ばない。  
 確かに別れたとはいえ、恋人だった男を奪ったその女と目が合った――嫉妬と怒りが荒れ狂うはずだった。  
なのに、私は一体どうしたのだろう。気丈な女だと自負していたのに、なぜ私は隠れて震えるほどの恐怖に  
怯えなければならないのだろう。  
 彼女は少しずつ落ち着きを取り戻そうとした。なぜ恐怖を感じたのだろう――できるだけ平静な心を  
維持したまま、もう一度自問しようとしたその時、長々と続いていたらしい口づけの音がとぎれ、  
声が聞こえた。秋人の声だ。  
 
「――もう‥‥我慢できない‥‥抱いてくれよ‥‥お願いだから‥‥」  
「ふふ‥‥相変わらずこらえ性がないのね。だめ、もっと楽しんでからよ‥‥」  
 そして、湿った音が響き始めた。くちゅ‥‥ぴちゃぴちゃ、じゅる‥‥。明らかに口を使った行為だろう。  
その音は廃屋に響き、それに混じって甘い吐息が耳を打つ。  
 愛した男が、見知らぬ女に愛撫を与えている‥‥その感覚は、さっきの不可解な恐怖感を再び押しのけ、  
彼女の心を占領しはじめた。  
 見たい。秋人は、あの女とどんな顔で交わろうとしているのだろうか。でも、見たところで  
どうなるというのだろう。一層の嫉妬と、一層の怒りが燃え上がるだけではないか。  
そんなことは百も承知だ。それでも、彼女は見るべきでない光景を敢えて覗いた。  
 
 見てはならない光景だった。  
 
 余りのおぞましさに、彼女は声を出すこともできずへたりこんだ。鞄がドサッと音を立てて落ちたが、  
それでも彼女は動けなかった。目を見開き、息が詰まり、すべてが壊れてしまいそうだった。  
 
 睦み合っていたのは、男と女ではなかった。秋人と――化け物だった。  
 全裸になった秋人が「女」の腰にしがみつき、肉の割れ目に舌を這わせている。肉をかき分け、  
その中を味わう。舌が動くたびに「女」はけだるげな息をつき、その手で秋人の頭をなでる。  
秋人の股間のものはすでにはち切れんばかりに天を衝き、ぴくぴくと震えている。そしてそれを、  
「女」の脚が――黒く、鋭く、硬質の質感を思わせる光沢を湛えた脚が巧みにしごき上げる。  
さらに別の脚が、陰嚢を弄ぶ。その「脚」が蠢くたびに、秋人は顔が切なげに歪む。  
互いの秘部を高ぶらせているのは、男と化け物。かつてあずみと愛し合った男と――妖艶な美女の半身を持った、  
巨大な蜘蛛の怪物だった。  
 
「ひ‥‥いや‥‥秋人‥‥」  
あずみはへたりこんだまま後退しようとする。だが、ショックに麻痺した体がうまく動くはずもない。  
そんな彼女を目に留めると、蜘蛛の化け物はにたりと嗤った。だが、それ以上に関わろうという様子も見せず、  
穢らわしい営みを続けるつもりのようだ。  
「秋人‥‥いいわ、そろそろ抱いてあげる。ふふ、たっぷり感じて、感じさせて‥‥」  
 男なら誰でも――いや、女でさえも官能に溺れそうなほど甘く、艶やかな声が誘う。  
秋人がそれに応えて顔を上げ、さっきまで顔を埋めていた淫裂に高ぶりをあてがう。  
すると、怪物は両腕で秋人を抱きしめ、二本の脚を器用に操ってその身体を持ち上げた。  
「あ、ああぅっ――!」  
「くううぅっ!!」  
 持ち上げられると同時に、秋人の剛直が淫裂に呑み込まれる。瞬間、ふたりはくぐもった喘ぎを漏らした。  
「い、いい‥‥やっぱり凄いわ、あなた‥‥ぁくっ、はぁっ、動いて‥‥そう、あぁあっ、そうよ‥‥!」  
 ぐちゅ、ぬぢゅ、という肉と粘液の音がするたびに、秋人のそれがますます張りつめ、  
てらてらとツヤを帯びる。数ヶ月前までは、時にはあずみの身体を貫き、悦びを味わわせていた肉の剣。  
それは今や、女怪の淫肉に突き刺さり、引き抜かれ、妖しくも美しい音色を奏でさせている。  
 あずみは何も考えられないまま、見開いた目でその光景を凝視していた。  
顔を埋めていた先ほどまでならばともかく、今ならば秋人からは自分が見えるはずだった。  
 秋人は、きっとあの化け物に操られている。正気を奪われて、貪られているだけに違いない。  
だから自分の姿を認めれば、きっと、きっと秋人は正気に返る。――おとぎ話じみた、あずみの空想。  
だが、彼女に残されていたその最後の望みも、もう消え果ててしまった。  
 秋人には目の前の、濃艶な美女、醜悪な蜘蛛の怪物しか見えていない。  
そして彼は、喜んで「それ」を抱きしめ、貫き、巧みに腰を振っている。「それ」も秋人の行為に激しく反応し、  
ますます燃え上がる。  
「い‥‥く、ああ、す‥‥ごい‥‥っ‥‥!!」  
 びくん、びくんと大きく何度か痙攣する。深い吐息をつく間もなくその唇はふさがれて、  
そしてまた熱っぽく淫猥な音色を奏でる。  
 
 * * * * *  
 
 どれだけの時が経ったのだろうか。ふたりは飽くこともなく狂い合った。秋人の体が汗でぬめり、  
そこへ女の髪がまとわりつく。秋人が腰を打ち付ければ、女はのけぞり喘ぐ。肉と肉が打ち合う響き、  
淫らな液が奏でる妖しい水音。男の荒い息づかい、女の熱い吐息と狂おしい嬌声。  
 観念が崩れ、恐怖さえも壊れてゆく中で、あずみはようやく理解した。そこに渦巻いているのは  
紛れもない「愛」だった。男の満ち足りた表情、化生の女の甘く淫らな――だが幸せそうな笑み。  
あずみが思ったように秋人が操られ支配されているのだとしても、それでもあんな顔をする男と女の間にあるのは、  
愛情以外に考えられなかった。そしてそれは、彼女にとって最悪の、耐え難い事実だった。  
「ああぅ‥‥またいく、ああぁ、もっと‥‥もっとイかせて、  
だめ‥‥っ、あ、あああっ、あああああぁぁぁあああ――!!!!!」  
「うあああぁあああ!!!!」  
 首筋を思い切りのけぞらせて、ひときわ大きく化け物が叫ぶ。それに合わせて秋人が女の体を全力で抱きしめ、  
共に叫んだ。  
 叫びは長々と続いた。それが響き終えると、怪物は力尽きた。支えきれなくなったのだろうか、  
突っ張っていた六本の脚がずるずると開き、ふくれあがった胴が床につく。  
それとともに秋人の体も床に下ろされ、怪物の上半身はそれに覆い被さるように崩れ落ちた。  
 ふたりはなおも体を震わせていた。黒く長い脚がぴくぴくと震え、汗でぬめる白い体が扇情的に痙攣する。  
秋人はその身体を柔らかく抱きしめる。女の答えは甘く優しいキスだった。  
「‥‥好きよ‥‥あなたは私の大事な‥‥」  
 
「‥‥俺も‥‥愛してる‥‥」  
 
 あずみの心は破裂した。なにもかもを振り捨てて走り出した。わけのわからないことをわめき散らしながら、  
意味もなく走った。つまづいて転び、車のヘッドライトがその姿を捕らえ、急ブレーキの音が響き――  
 
――彼女がようやく気がついたのは、どこかの病室だった。  
「あ、気がついた?」  
 四十歳くらいだろうか、快活だが穏やかな声の看護婦が声を掛けた。  
「あの‥‥私‥‥一体‥‥」  
「道路に倒れてたんだって? 大丈夫?  
ケガは大したことない、って先生は言ってたけど‥‥あ、先生呼んでくるね」  
「あ‥‥はい」  
 身体の痛みや倦怠感はあるが、不思議に落ち着いた気分だった。  
ベッドに体を横たえたまま周囲を見回す。やわらかな午前の陽光が、清潔な白い壁を温かく照らしている。  
ふと見ると、ベッドの脇には可愛らしい花が生けてあるようだ。  
 
 ふと、気が付いた。花に、虫が――  
 
「ひ‥‥いや、蜘蛛、蜘蛛が――ひぃぃ‥‥いやぁぁぁぁあああああ!!!!」  
 
 
(終)  
 

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