「おい、お前図書委員になったからな」
風邪で学校を休んだ次の日、かばんを自分の机に置いた途端に、僕は幼稚園からの腐れ縁だった広尾に告げられた。
「はぁ? マジで?」
「おう、マジ。で、女の図書委員なんだけどよ……。あ、また後でな」
広尾がなにか言いかけたところで止めてしまった。ドアを見ると先生が出席簿を手に教室に入ってくるのが見えた。
「お、おいちょっと待てって」
声をかける僕を無視して、広尾は自分の席に着いた。当たり前だ。もし僕が広尾の立場だとしてもそうする。
先生が朝のホームルームを始めるのを、ぼんやりと聞き流しながら、僕は黒板の横に張られている紙切れに目をやった。
一番上には『二学期の委員』とでかでかと印刷されていて、その下には学級委員に始まって保険委員や僕がなったらしい図書委員、はては悩み事相談委員、宿題回収委員なんてわけのわからない委員まで、やたらとたくさんの役職が書かれている。
一学期にも思ったが、どうしてこの学校はこんなにも無駄な委員をおくのだろう。まるでよく頑張ったで賞とか、綺麗に色が塗れたで賞みたいな、ものすごく子供だましな気がする。
しかし、どうして僕が図書委員なんかに……。そういえば広尾が女子の図書委員がどうとか言っていたけど。
僕は自分が二学期を通して一緒に図書委員をするのが誰なのか気になった。別に好きな子がいて、その子がいいなんてことはないが、嫌なやつよりは気の合う子のほうがいいというものだ。
ちょっとした期待を込めて視線を投げかけると、そこには予想もしなかった名前が書かれていた。喜多薫。
「なんで!?」
思わず声がでてしまった。あわてて僕はあたりを見回すと、クラスメートが驚いた顔をしている。
「馬鹿もん! なんでも、かんでもない。夏休み明けの始業式の日に休むお前が悪いんだ。いいな、ちゃんと今日の放課後の図書委員会に出席するんだぞ」
なぜか会話が成り立っている。どうやら、そんなにタイミングをはずしたセリフではなかったようだ。
しかし、なに? 図書委員会? 今日の放課後? 僕の混乱は収まらない。
「ちょっ、え、今日の放課後ですか?」
「馬鹿もん! なんど言わす気だ。これが最後だぞ。今日の放課後、図書委員会があるからお前と、喜多はきちんと出席するように。よし、それじゃあ今日も勉学に励めよ」
いつも通りのしめの言葉を口にすると、先生はまだ呆然としたままの僕をほうって出て行ってしまった。
僕の通っている高校は進学校というほど勉強にいそしんではいないが、札付きの不良が集まるやくざ予備校というほどでもない。実に中途半端な、至極普通の高校だ。
だから、生徒にはまじめな高校生から、不真面目な奴、スポーツマンにオタクにヤンキーと幅広い生徒が通っている。
そのなかで僕は、この普通の高校にかようにふさわしい、ごく平凡な生徒だ。
しかし、僕と同じ図書委員をやる喜多薫は違う。立派なヤンキーだ。タバコを吸っているところを見たこともあるし、授業もサボる。噂では暴走族に入っているという話もある。はっきり言って僕とは共通点がまったくない。
その喜多がなぜ図書委員なんかをやることにしたんだ? 他のクラスは知らないが、うちのクラスの委員は基本的に立候補制だから、先生に強制的にやらされたということもないだろう。
なんで喜多が図書委員なんかに。
僕は朝の出来事を思い出した。
いつものように家を出て学校に向かって、通学路の土手をのんびりと歩く。
最近の日本では珍しいだろう綺麗な自然が残っている場所で、川のせせらぎとともに、春には桜が咲いたりして季節ごとに姿をかえる中々に素晴らしい場所だ。
今は夏なので、青々とした光景が広がっていて、草の香りが心地よい。
学校に行くのは正直だるいが、そこを通っているときは自然って素晴らしいなぁ。などと柄にもないことを考えてしまう。
ところが今日はそれがぶち壊しだった。
なぜなら、さわやかな朝の空気を切り裂いて男の悲鳴が聞こえたからだ。
僕以外にも数人いた学生やサラリーマンが一斉に声のしたほうを見る。
そこには股間を押さえてへたりこんでいるヤンキーがいた。
状況を察するに、男を見下ろしている女が男の大事な部分を蹴りつけたのだろうということはすぐにわかった。
女は真っ青になっている男の顔面に思い切りサッカーボールキックを食らわした。
男がへたりこんでいるせいで蹴りやすい位置に顔があったからだろう。
しかし、だから蹴ってよいかというと、そうじゃない。
男は盛大に鼻血を撒き散らしながら、後ろに吹っ飛んだ。もしかすると歯も折れているかもしれない。
這いずりながら逃げようとする男に、女はさらに蹴りを加え続ける。
「てめぇ、しつこいんだよ! お前がなれなれしくしたせいで、朝のすがすがしい時間が台無しだろうが! ぼけっ! あたしの爽やかな通学を返せっ」
それはこっちのセリフだとあたりにいた誰もが思っただろう。
これから一日頑張ろうってときに、こんなバイオレンスシーンを見せられたのではたまらない。
しかし、周囲の人間は、そんな抗議は一切せずに、それぞれの職場や学校に向かいだした。
僕も当然そうするつもりだったのだが、ぼけっとその光景を眺めていたせいだろう。小刻みにしか動かなくなっていた男を蹴りまくり、あげくのはてに噛んでいたガムを男に吐き捨てた女と目が合ってしまったのだ。
僕はすぐさま視線をそらし、学校に向かおうとした。
だが、不運なことに女は僕を知っていた。そのうえ、あろうことか僕に声をかけてきたのだ。
「よ、よう桐野」
そう、クラスメートであり、今学期の僕の相棒――図書委員限定――の喜多だった。
ずんずんとこちらに近づいてくる彼女を、無視する勇気など僕にあるはずもなく、突っ立っているしかできない。
どうして喜多の靴は赤く汚れているのだろう。地面には赤いものなんておちていないはずなのになぁ。僕がつらい現実から目をそらしていると、厳しい荒波が僕に襲い掛かった。
「一応言っとくけど、あたしは毎日こんなことをしてるわけじゃないからな」
喜多はまずいところを見られたという顔をしていた。
「そうだろうね」
されていては困る。ここは世紀末救世主が必要な時代ではなく、輝かしい二十一世紀なのだから。
「あのバカがなれなれしく肩組んできた上に、む、胸を触ったから、しょうがなくだな」
「……知り合い?」
「違う。いや……前にどっかで見たような気もするけど。なんだろ、友達の知り合いかなんかかな、それとも集会のとき会ったやつかもしれない」
「まあいいけど」
それから、僕は気まずい思いをしながら、喜多と二人で学校に向かったのだ。
「よぉ、ガム食べる?」
「いいよ」
僕はガムを吐きつけられた哀れな男を思い出してしまって、とてもじゃないがそんなものを食べる心境ではない。
「いまさぁ禁煙してるからさ、代わりにガム噛んでんだよ」
「禁煙……」
「やっぱり普通の男はタバコ吸ってる女嫌いだろ?」
「まぁ人にもよると思うけど」
「……えっと……さぁ、じゃあ、お前はどう?」
「なにが」
「タバコ吸ってる女は嫌いかどうか」
「まぁ吸ってないに越したことはないと思うけど」
「な。やっぱり禁煙してたほうがいいだろ」
「少なくとも健康にはいいだろうね」
途中で友達と何人もあったけれど、僕と一緒にいる相手を見ると、誰も声をかけてこなかった。
ぼんやりと図書委員にはまるで必要ないエピソードについて、僕が考えている間に一時間目が終わったらしい。
授業の終了を告げるチャイムが聞こえ出した。
チャイムが鳴り終わるのと同時に広尾の元に向かう。
「どうした桐野」
広尾がのんきな顔で言った。
「なんで喜多が図書委員なんかやってるんだ?」
「あれ、なんで知ってんの? ああ、もう黒板の横に委員の表張ってあるもんな」
一人で納得している広尾に、僕はもう一度同じ質問をする。
「なんで喜多が図書委員なんかやってるんだ?」
「さぁ、やりたかったんじゃねぇの」
「ヤンキーが図書委員なんかやりたがるか、普通」
「普通のヤンキーじゃねぇんじゃねぇ?」
広尾からまるで馬鹿みたいな答えが返ってきた。
小さいときからの腐れ縁じゃなかったら、とっくの昔に友達じゃなくなってるかもしれない。
「だって自分から立候補したんだから」
僕の冷たい視線に気づいたのか、広尾があわてて付け足した。
「喜多が?」
「おう。えっとな……昨日の委員決めのとき男子で図書委員やりたがるやつが誰もいなかったから、俺がお前を推薦したんだよ」
この馬鹿のせいで僕は図書委員になったのか。
僕の内心の怒りを知らずに、広尾は言葉を続ける。
「そんで、女子もやりたいやついなかったんだよ。したら、そのあと喜多が図書委員やるって言って。それで喜多になった」
「ふぅん」
「みんなビビッてたぜ。なんで喜多が図書委員なんだって。でも、もう他に宿題回収委員みたいのしか残ってなかったからかもしんねぇけど。まぁ適当に頑張れよ。喜多ってちょっと怖いけど結構美人だし、楽しいかもよ」
広尾が気楽そうに言うと、二時間目のチャイムが鳴った。
あいつは朝のお子様には見せられない光景を見てないから、そんなのんきなことが言えるのだ。
僕は、あらためて広尾がもてるのはその整った顔のせいだ、ということを実感しながら、席に戻った。
その後は、いつもどおりに一日が過ぎていった。まだ夏休みボケの抜けない頭を学校に慣らしながら、適当に授業を受けていると、あっという間に放課後になった。
「それじゃあ、また明日も勉学に励むように」
いつもどおりのしめの言葉で、いつもどおり先生は出席簿をばしんと叩き、教室をでていった。
「おう、それじゃあお先。図書委員頑張ってくれ」
気楽にひらひら手を振ると、広尾が教室を出ていった。どうせ下駄箱に女の子を待たせているのだろう。
が、さっさと下駄箱に向かえばいいものを、去り際にドアのところから顔だけ出してこっちをにやにや見ている。
僕がいぶかしげな視線を向けると、待っていたように口を開く。
「もし、いい感じになったら女友達紹介するように言っといて。そっち系の女の子にあんま知り合いいねぇから」
僕は広尾と友達をやめるカウントダウンを、今この瞬間に開始した。
気まずい、ほとんど会話もしたことない殺戮マシンと同じ委員をやらなければならない僕の苦痛をわからないとは。
喜多のほうを僕がちらりと見ると、ちょうど椅子から立ち上がろうとしているところだった。
「喜多さん」
「あぁん?」
にらみつけられたが、これぐらいでひるんでいられない。
「そろそろ図書委員会行こう、もうすぐ始まる」
なんだか、妙にぎこちないしゃべりになってしまった。
最悪だ、これじゃあ声かけるのに緊張してるの丸分かりじゃないか。
「わかった」
以外に素直な返事だったので、僕は少し驚いた。
だるいからそんなもん行くわけねぇだろ。とかそんな言葉を予想していたのだ。
僕たち二人は気まずい沈黙のまま、委員会を開く会議室に向かって廊下を歩いた。もっとも、居心地の悪い思いをしているのは僕だけで、喜多のほうはなんとも思っていないのかもしれないが。
喜多は他のクラスのやつにも知られているらしく、会議室に入ると中の人間に緊張が走った。
ま、しかたないだろう。不良と図書館、ミスマッチにもほどがある。
委員会自体は三十分程度で終わった。今日から持ち回りで、一組から順番に図書室の本の整理をしろということを通達して、その整理の際の注意事項を伝えるだけの簡単なものだったからだ。
しかし、僕はその通達を受けると同時に、少しテンションが下がってしまった。僕は一組なのだ。
委員会が解散すると、僕と喜多は図書室に向かった。当然だがその間、ほとんど言葉を交わさなかった。
図書室に入ると、司書のお姉さんがさわやかな笑顔を向けてきた。
今の僕にはまぶしすぎる笑顔だ。きっと、僕が喜多とどんな会話をすればいいか、ここに来る途中で百万通りのシミュレーションをしたことなんてまったく想像もしていないのだろう。
「あ、君たち図書委員の子? それじゃあこっちにある本を向こうの書庫にジャンル、作者別に分けてね」
「あたしそんなに本に興味ないからジャンルなんてわかんないんだけど」
本に興味のないやつが図書委員なんかに立候補するな! ぶっきらぼうな口調の喜多に僕がひやひやしていると、司書のお姉さんはそんなことは気にせず、あいかわらずの笑顔で答えた。
「大丈夫よ。ちゃんと背表紙のとこに貼ってあるシールに書いてあるから。それ見れば誰でもわかるわよ」
そのあと、細々とした指示を与えられた。
説明が終わるころになると、僕はこの司書のお姉さんの笑顔は別に笑っているわけではなく、笑顔が顔に貼りついているだけなのだと思い始めていた。
「それじゃ、よろしくね。私は別のところで作業してるけど、サボっちゃだめよ」
自分がサボるんじゃないのか。僕のもっともな思いは当然、口には出さない。
再び、僕と喜多の二人だけになってしまった。
さっさと終わらせて帰ろう。そうすれば、この苦痛からも開放される。
「えっ……と、僕こっちのほうやるから、喜多さんはそっちの書庫頼む」
「ああ、いいよ」
短い返事を残して、喜多は僕に背を向けて歩いていった。どうやら僕はあまり嫌われてはいないらしい。
しばらくのあいだ、僕はまじめに本の整理をしていたが、単純作業のため、どうしても集中力が切れてしまう。
僕はぐるりと首を回し、大きく伸びをした。すると、離れたところにいる喜多が目に入った。
驚くことに、喜多は眼鏡をかけていた。気の強そうな喜多の顔つきに、それはなかなか似合っている。将来、できるキャリアウーマンになるかもしれないな。たしか頭は悪くなかったはずだ。
馬鹿な想像をしてぼんやりしていると、喜多は自分へ向けられる視線に気づいたらしい。
「なんだよ、あたしが眼鏡しちゃ悪いか」
自分ではイメージに合わないと思っているのだろう。眼鏡姿を見られて少しばつが悪そうにしている。
「まさか。似合ってるなって思っただけだよ」
僕の言葉に、喜多は驚くべき反応を示した。なんと照れくさそうに頬を染めたのだ。しかし、口から出る言葉はその可愛らしい様子とはまるで違っていた。
「うっせぇ。勝手なこと言ってんじゃねぇよ」
さすがに迫力がある。僕は素直に謝り、再び作業に没頭した。
本の山を少しずつ切り崩していると、どうも誰かに見られている気がする。
顔をあげると喜多と目が合った。
「なにこっち見てんだ!」
見てたのはそっちだろう。そう思ったが口には出さない。僕も大人だ、これくらいは広い心で許してやろう。決して殴られるのを怖がったわけじゃあない。
重ねて言う。宝物を蹴り上げられてうずくまった朝の男なんか、頭に浮かびもしていない。
軽く肩をすくめ、本を手に取った。
図書室を沈黙が支配する。
いつまでたっても減らない目の前の山にうんざりしていると、再び視線を感じた。
喜多のほうを向くと、やはり目が合った。
「だから見んなって言っただろ!」
真っ赤な顔をして喜多が怒鳴る。
ちょっと待て。なんで僕がキレられなきゃならない。いや、落ち着け僕。
そう、相手は触れるものみな傷つけるような女なんだ。
海のように広い心で許してやろう。
「わかった。もう見ないよ」
僕は小さく溜息をついてそう言った。
すると、なぜか喜多が少し残念そうな顔をした。
「わ、わかればいいんだよ」
もごもごと取り繕うように唇を動かすと、そのままうつむいてしまう。
ギザギザハートの持ち主は難しい。
そして、やっぱりというべきか。五分もすると、喜多の視線を感じはじめた。
こういうものは一度気になるとどうにもならない。
僕は顔をあげた。
これで喜多と目が合うのは三度目か。
「いい加減にしろっつってんだろ」
例によって喜多の声が図書室に響く。
しかし、今回は僕の対応が違う。
仏の顔は三度までだが、僕の顔に三度目はない。
黙って立ち上がると、本の隙間をぬってずんずん喜多に近づいていく。
今までと違う僕の態度に、少しひるんだ様子で彼女がこちらを見つめている。
「な、なんだよ」
目の前に突っ立っている僕に、喜多が問いかけた。
僕は喜多を見下ろしながら、口を開く。
「あのさ、僕のことが嫌いならそれでいいけど、そのうっとおしい因縁のつけ方やめてくれ」
ブチキレて拳が飛んでくるかとも思ったが、喜多はぽかんとした顔で僕を見上げるだけだった。
僕が目の前から立ち去りかけると、喜多は僕の服の裾をひっぱり、勢いよく立ち上がろうとした。
突然の出来事に僕は思わずバランスを崩してよろけてしまう。
「おわっ!」
「えっ?」
すると、僕を捕まえていた喜多の体勢も崩れる。
僕たちは二人仲良く図書室の床に倒れこむこととなった。
周りに積み上げられた本が僕の上にどさどさと落ちてくる。
僕は本が凶器になりうることを知った。角がやばい、角が。
ファイナルファンタジーの学者を馬鹿にしていたが、今ならナイスチョイスと褒めることができそうだ。
古い本ばっかりだったのだろうか、あたりが埃まみれになってしまった。
僕が咳き込んでいると、体の下から心配そうな声が聞こえた。
「おい……大丈夫か?」
喜多だった。
「え、まあ大丈夫だよ。埃がうっとおしいけど」
「もしかしてあたしをかばってくれたのか?」
そう! 僕はサーの称号を授かってもいいぐらいの紳士なのだ。体が自然と女の子をかばってしまう。わけがない。喜多の上に覆いかぶさったのは偶然だ。
しかし、わざわざ真実を告げるほど僕はバカ正直じゃない。
「さあ」
あいまいにとぼけてみせる。
「その、えっと……ありがと。一応礼は言っとくよ」
素直にお礼を言われた僕は、驚きのあまり喜多を見つめてしまう。
余計なことしてんじゃねえよ。とか言われると思っていたからだ。
今日は喜多の意外な姿をよく見る日だ。もしかすると評判よりもいいやつなのかもしれない。
眼鏡のレンズ越しに見える喜多の鋭い瞳に、僕の顔が映っている。
近い!
そのとき初めて、僕は今の自分が喜多と密着していることに気づいた。
少しつりあがった気の強そうな目は、僕に猫科の獣を思わせる。そう、豹がイメージにぴったりだ。
「あ、あんまり見るなよ……」
図書室に着てから、もう何度も同じようなことを言われているが、今までとはまるで違う響きだった。
喜多が顔をそむけると、眼鏡の上に髪の毛がかかって、視線を隠してしまった。
黒髪ではない、きっと脱色剤で痛んでいるであろう金髪だ。
最近は手入れを怠っているのか、根元のほうから元の黒が金をじわじわと侵食していて、いわゆるプリン頭になってしまっている。
弱々しく、今にも消えてしまいそうなか細い声。
恥ずかしそうにそむけられた顔。
うっすらと桃色に染まった頬。
かわいい。
頭に浮かんだその四文字を僕は否定することができない。
目の前にある本の背表紙を見つめながら、喜多がわずかに唇を開いた。
「はやく……どけよ」
ついさっきまでのけんか腰はどこかへいってしまったのだろう。
どうも僕に覆いかぶされてからの喜多は態度がおかしい。
この密着した体勢が原因なのだろうか。
そうすると、以外にも喜多はあまり男慣れしていないのかもしれない。
僕はこの状況を利用することにした。
喜多の元にやってきた問題を解決することにしよう。
「どうして僕をじろじろ見るんだ?」
「別に見てねぇだろ。いいからどけよ」
「いいや、見てた。本の整理してるとき」
「み、見て……ない」
なんて強情な女なんだろう。
まあいい。
「わかった。じゃあ見てないってことでいいけど、なにか僕に文句でもあるのか」
「は?」
ぽかんとした顔で喜多が間抜けな声を漏らした。
「なにが気に食わないんだ。ケンカ売られる理由がさっぱりわからない」
「なんの話だよ?」
のみこみの悪い女だな。それとも、まだとぼけるつもりなのか。
「だから、僕に文句があるからずっとガン飛ばして、にらんでるんだろ」
これだけ言って駄目なら、もう喜多のことはほうっておくしかないな。
僕がそう考えていると、喜多は眉を寄せて考え込んでいた。
本気でなんのことかわかってないのか……?
しばらく僕のことなど忘れたように喜多は悩んでいたが、ようやく思い当たるふしがあったらしく、小さく声をあげた。
「あっ!」
「なんで自分のことなのにそんなに考える必要があるんだ」
「あっ、あれは睨んでたわけじゃねぇよ。このぼけ!」
くそっ。さっきかわいいと思ったのは気の迷いだった。
「じゃあなんで僕のこと見てたんだ」
「そっ……それはうっせぇ! 関係ねぇだろ、ばか」
「バカはそっちだ。見られてる本人が関係ないわけないだろ」
「ぐだぐだ言うなよっ!」
「ぐだぐだ言ってるのはそっちだろう、どうして僕を見てたのか早く言え」
「……」
喜多は返事をせずに、ぎりぎりと歯軋りしながら、僕のことを睨んでいる。
さすがの迫力というべきだろうか。けっこう怖い。
そして……認めたくはないが、怒っている彼女の顔は綺麗だった。
ひそかに喜多を好きな男が多いらしいというのもうなずける。
しかし、いつになったら理由を教えてくれるのだろうか。
「なんでわからないんだよっ!」
口を開いたと思ったら逆ギレとは。なんともはや。
「わかるほうが不思議だと思うけど」
「鈍感! お前神経ないんじゃないのか!」
なんて無礼な女だろう。しつけのためにおしおきが必要だ。僕は喜多のほっぺたをつねってやった。
「ひたいっ。なにひゅるんだ」
唇の端から空気が漏れて、間抜けなしゃべりかたになっている喜多を、僕はにやりと見下ろした。
「いいかげんに理由を言えってば」
「わかったよ、言ってやる。言ったらいいかげんあたしの上からどけよ」
「そういう、素直な言葉を待ってたんだ。教えてくれたらどくよ」
「くそっ! 好きな男を見るのに理由なんかあるかバカっ」
今度は僕が眉をひそめ、間抜け面をさらす番だった。
「普通わかるだろ! なんで気づかないんだよっ! ちくしょう、このまぬけ野郎!」
僕が喜多の言葉を咀嚼している間にも、ぽんぽんと威勢のよい言葉が浴びせかけられる。
うるさいな。こっちは状況を理解するのに必死なんだ。ちょっとは黙ってくれ。
「この腰抜け! 男のくせにぺらぺら口ばっか達者で。日本が不景気なのもお前のせいなんだよっ! だいたい……」
だんだん僕とは関係ないものの責任まで背負わされている気がするが、それはこの際どうでもいい。
「今、なんて言った?」
「あぁん? この前サイフ落としたのもお前のせいだって……」
それはいくらなんでも自分のせいだろう……。
いや、そうじゃない。
「ちがう。その前」
「買いたかった服を先に買われたのも……」
僕はおちょくられてるのか?
「ちがう! その前、僕を見る理由だよ」
「ちくしょう! バカにしてんのか! そんなこと何回も言えるわけねぇだろ!」
「僕を好きだからって言ったな?」
言うと、これまでの態度が一変して、喜多はもじもじと恥ずかしそうに、そっぽを向いてしまった。
「そ……そんなふうに言われると恥ずかしいだろ……」
「まさか・・・」
「まさかじゃねぇよバカ! ここまで言わせといてケンカ売ってんのか」
ということは……喜多は僕のことが好きなのか!
なんともはや……すごい展開になってきた。
頭がくらくらする。
しかし、とてもじゃないが好きな男に対する態度じゃないな。
「おい、告白したんだからさっさと返事しろよな」
「は……?」
「だから、私はお前のこと好きだって言ったんだから、その返事だよ」
「……」
「どうなんだよ。あぁ!?」
これが告白の返事を待つ女のセリフか?
普通はどきどきと一世一代の決心で、愛しい相手に想いを告げたのなら、その返事を待つ間は、不安と期待を行ったり来たりしながら、もうまともではいられないはずじゃないのか。
それが『あぁ!?』ときた。まるでガンとばしてるみたいじゃないか。
好きと言われたのは嫌ではない。むしろ嬉しいぐらいだが、ちょっとその態度には納得できない。
「ちゃっちゃと答えろよ。あたしのこと好きなのか嫌いなのか。付き合うのか付き合わないのか。どっちなんだよ」
僕はカチンときた。
もう少し殊勝な態度でいるべきじゃないのか?
喜多にはお仕置きが必要だ。
「喜多」
名前を呼ばれると、さすがに緊張するのか、喜多は黙ってこちらを見上げた。
しかし、僕がいつまで経ってもなにも言わないので、焦れてきたらしい。
「おい、もったいつけないで早く言えよ」
「告白した相手に対する言葉じゃないよな」
「はぁ?」
「もっとしおらしい態度でいるべきじゃないのか」
「なに言ってんだお前」
「だから……僕がしつけてやる!」