ふと、窓の外を見ると、もうだいぶ暗い。時計は八時過ぎを指していた。
少し前ならまだ明るい時間だったのに。
思わず、夏が終わっていくのを実感してしまう。
喜多を見ると、まだ時々びくりと背をのけぞらせている。僕のメランコリックな気持ちには全然気づいてないようだ。
「起きなさい。起きなさい、僕のかわいい薫や……」
僕が軽く体をゆすると、うっすらと目をあけた。
が、すぐにまた閉じてしまう。
しかたない。もうちょっと待ってみるか。
僕は暇つぶしのために喜多の胸に手を伸ばした。
あいかわらず小さい胸は、彼女が寝返りをうとうが、悲しいかなほとんど形を変えない。谷間とは今までも、そして、これからも縁がなさそうである。
それでも突つくと柔らかいのだから、これが女体の神秘というやつなのだろう。
胸が膨らみ始める境の辺りの張りのある感触を愉しんでいると、体に触れられているのを感じたのだろうか。喜多がぱちりと目を開けた。
油断しきっていた僕は、彼女と目があってしまった。そらすこともできない。
数秒の間、じっと見つめあう。
終わりは始まりと同じように唐突だった。
「やばいっ!」
跳ね起きると、彼女はどたばたと本棚に向かった。
なにもない空間でドアノブをひねる仕草をすると、そのまま本棚に突撃する。
「ぁたっ!」
彼女の背中を、僕は唖然として見ていた。
それ以外に常人である僕になにができるだろうか。
全裸の彼女が奇妙なパントマイムを繰り広げるのを生暖かく見守ってあげる以外のなにが。
顔を抑えてきょろきょろしている喜多に、僕は声をかけた。
「喜多さん?」
「うわっ!」
声をあげて、振り向く彼女。
「えっ!? 桐野!? あっ!」
どうやら寝ぼけていたらしい彼女は、正気づくと、顔を真っ赤にしてわめき散らした。
「こ、これは違うからな! 笑うなボケっ!」
無理だ。
僕は腹筋が引きつりそうになった。
ひぃひぃとかすれた声がもれる。
「桐野っ! 笑うなっつってんだろが!」
「ぐっ、ぷっ、む、無理だ」
それだけを言うと、僕は腹を抱えてのたうちまわりながら爆笑した。
「こっ、この野郎っ!」
その後、僕の口をふさごうとする喜多と、笑い続ける僕の壮絶なグラウンドでの攻防がしばらく続き、決着までに十分程度をようした。
桐野対喜多戦、試合結果。
全裸に気づいた喜多が戦意喪失、タオルケットに包まり、試合を放棄したため、桐野の勝ち。第一ラウンド九分二十五秒。
あぐらをかきながら、喜多がぶつぶつと文句を言っている。
「しかたないだろ。自分の家と間違えたんだから」
ドアノブがないので気づくだろ。とは言わず、僕は別のことを口にした。大人の対応というヤツだ。
「わかった。もう言わないし、笑わないから早く話してくれよ」
「なにを」
この期に及んでしらばっくれようとするとはいい度胸をしている。
僕はわきわきと指を動かしながら喜多の胸元へ近づけた。
身の危険を感じたのか、彼女が胸元を手で隠す。
「おっ、おい。なにをする気だ」
「質問はすでに拷問に変わっているんだぜ。まだ答えない気なら、気を失っても攻め続けてやる」
「責め、責めるってなにする気だっ」
「もちろん胸をめちゃめちゃに」
「っ……このボケっ! なんかあるとすぐに胸責めて言うこときかせようとしやがって! そっ、そういえばあたしが寝てる間にもなんかしただろ!? なんとなく触られてた気がするし。そんなあたしの胸弄るのが楽しいのか!」
桐野戦法ナンバーワン、口げんかでは言いよどむな。こういう口先での戦いは怯んだほうが負けだ。きっぱりと言い切ってやらねば。
「楽しい。喜多さんのおっぱいなら一生触ってても飽きない自信がある」
「いっ、一生!? う、嘘つくなボケっ! 一生なんか飽きないわけないだろうがっ。でたらめ言うな!」
なぜか急に挙動不審になってうろたえだす喜多。変なところに食いつくな。
まあいいか。
桐野戦法ナンバーツー、相手がヒートアップしたら力を抜け。適当に合わせてやろう。
「いやいや。僕の喜多さんの胸への探究心と開発心は海よりも深く、山よりも高いから」
「一生だぞ!」
喜多が顔を真っ赤にして叫ぶように言った。
どうしたんだろう。まださっきの興奮が残っているのかもしれない。
「一生飽きないね」
「言ったからな! ほんとに一生だな」
本当に妙な部分にこだわるな。
「しつこいな。一生飽きないよ。」
同じようなやり取りを何度か繰り返すと、さすがの喜多も飽きたのだろう。
ピンクに染まった頬のまま、ぐっと黙り込んでしまった。
やけに熱い視線を浴びせられていると感じるのは僕の気のせいだろうか。
喜多が一瞬うつむいたかと思うと、勢いよく顔を上げた。
そして、かすれるような声で呟いた。
「……一生だからな」
さすがにうんざりしてきた。僕は肩をすくめ、彼女をせかした。
「だから一生だって。それより早く教えてくれよ。僕を好きになったきっかけ」
そう言うと、喜多がなぜか憮然とした顔をした。
「……おまえはそういうヤツだよ。人の乙女心を弄びやがって」
「乙女心?」
そのまま繰り返すと、喜多はなぜか赤面し、枕を投げつけてきた。
「このボケっ」
喜多は再びタオルケットに包まると、僕を睨みつけ、
「夏休みによ、あたしが助けてもらってからだよ」
どこかふてくされたようにそう言った。
助けた? 僕が? 喜多を?
まるで記憶に無い。
「それっていつ頃のはなし?」
「だいたいお盆が終わったぐらい。ほら、あの駅前の公園であたしが追いかけられてたときに、助けてくれただろ」
……。
はっきり言って思い出せない。
僕が頭をひねっていると、喜多があせったように言葉を続けた。
「あの、夜に、あたしが走って逃げてて、公園のトイレに隠れようとしたとき、お前が近くにいて」
まだ思い出せない。
「あたしがトイレに隠れて様子を窺ってたら、あたしを追いかけてきた三人組にあたしを見なかったかって聞かれて……」
……!
あった!
確かにそんなことがあった。夜中に僕がコンビニに行った帰り、近道をするために公園の中を歩いていたときのことだ。
前のほうから必死で誰かが走ってくるのに気づいた。
こんな夜中に元気なヤツだ。と思ってみていると、ぐんぐんこちらに近づいてくる。
すぐに僕の目の前まできたのだが、なんだかそいつの顔に見覚えがある。
深夜のマラソンランナーはクラスメートの喜多だったのだ。
一回りはサイズが大きいであろうだぼだぼのジャージ――それも真っ赤で目立つやつ――を着て、荒い息をついている。
今思い返してみると、なんだか汚れていたり、顔に痣があったような気がしないでもない。なにぶん薄暗かったのだから、気づかなかったとしても、そのときの僕を責められないだろう。
声をかけるべきか迷っていると、彼女は僕が目に入っていないのか、辺りをきょろきょろ見回すと、近くにあったトイレに飛び込んだ。
そんなにトイレに行きたかったのか、確かに必死の形相だった。と、間抜けな勘違いをしていると、また向こうのほうから誰かが走ってくる。今度は三人の男だった。
そいつらは僕の前で立ち止まると、高圧的な口調で僕に尋ねてきたのだ。
「おい、コラ。赤いジャージ着た女知らねーか。隠したりすんじゃねえぞ」
僕が黙っていると、男の一人が僕を睨みつけた。
「テメェ隠すなよ!?」
見知らぬ人にこんな風に質問されて、相手に好感を抱く人は少ないだろう。いたらそいつは体の芯までマゾだ。
当然僕は気分を害した。
まあ、クラスメートを助けてやろうという気持ちも多少はあった。
「赤ジャージの女の子だったら駅前のほうに」
そう言って、僕は適当に自分が歩いてきたほうを指差したのだ。
感謝の言葉もなく走り去った三人組の後姿を見送っていると、トイレから喜多が姿を現した。
なんだか僕のほうを見つめている気がしたので、ばいばい。と手を振って僕は家路についた。
確かに僕は喜多を助けていた……らしい。そんなにたいしたことでもなかったので、すっかり忘れていた。
「ああ、そんなのあったね」
「そっ、そんなのあったねって……オマエ……!」
なににそんなにショックを受けているのか知らないが、喜多が口をパクパクさせて僕を指差した。
「どうかした?」
「あ、あたしはう……」
どんどん声から力が抜けていって最後のほうはなにを言いたいのかさっぱりわからない。
うつろな顔でぶつぶつ呟いている。これはかなり重症のようだ。僕が意図せず放った一撃は彼女に随分とダメージを与えたらしい。
「え? なんて」
僕は喜多の口元に耳を寄せた。
「あたしは……う、運命の、運命の出会いだと思ったのに……」
これまた時代錯誤と言おうか、大仰と言おうか、嘘・大げさ・紛らわしい出会いは公共出会い機構へと言おうか。
「よくある勘違いということで話を丸く……」
「あっ、あたしはほんとに運命だと思ったのにっ! 夢にだってみたんだ!」
だめだ、僕の声なんか届かない。助けて仁鶴師匠! 四角い仁鶴がまーるくおさめて!
「それなのに――そんなのあったねって、そんなので納得できるわけねぇだろ! 桐野なんか、桐野なんか……!」
ぐっ、と硬く握り締めたこぶしを悔しそうに見つめている。
いまさらよく覚えていると言ったところで、信じてもらえないだろうし、事実僕はすっかり忘れていた。
確かに喜多の気持ちはよくわかる。自分は運命だと思っていたのに、全部一人で踊っていただけなんてひどすぎる。
かと言って、ここで僕があやまるというのもなんだかおかしい気がする。第一、ごめん、僕は運命だとは思わなかったんだ。なんて言おうものなら、僕の顔面は陥没するだろう。
ステゴロなら喜多だな。との噂を聞いたこともある彼女をブチギレさせるなんて想像もしたくない。
ここは様子を見るべきだ。
僕は解決役を時間に任せることにした。彼もしくは彼女は往々にして事態をひどくするだけだが、奇跡的に今回は違ったようだ。
「桐野なんて」
ごくりと僕の喉が鳴った。
「ちくしょう――いまさら嫌いになれるかよ」
僕は彼女に飛びついた。
「おい、ちょっ」
あせる喜多を無視して思い切り抱きしめる。
心底悔しそうに言った今の言葉に僕の体が勝手に動いてしまった。
僕の行動にうろたえ、じたばたともがいて僕の腕の中から出ようとする喜多を、それでもなお、ぎゅっと抱擁する。
「本当に悪かった。喜多さんがそんなにあのことを大事に思ってたなんて知らなかったから」
「いいよ、いまさら。あたしが間抜けだっただけなんだからな」
「いや、僕の気がすまない」
「すまないっつったって」
「よし、わかった。そしたらお詫びに喜多さんの願いを三つ聞こう」
「お願い? あっ、あたしの言うことをなんでもか!?」
「三つまでなら。僕にできる範囲でだけど」
ぴんと立てた三本の指を、喜多が食い入るように見つめる。
「別にないんなら別のことにするけど」
立てた指をおろそうとすると、彼女はあわててそれを掴んだ。
「あっ、ある! あるからおろすな!」
「じゃあ願いを言ってよ」
「ちょっと待てよ……」
額に手をやりながら、喜多がもう片方の手で僕を押しとどめる。
真剣な表情で頭をひねっている彼女を見ていると、僕の心にむくむくと苛めたい心が湧き上がる。
「えー、カウントダウンを開始」
「え!?」
あせる喜多を尻目に、僕は冷静に数字を数えていく。
「……3、2」
「え、おい!? ま、待てっ、いま言う!」
「1。しゅーりょー!」
「あ……、あっ」
喜多は行き場のない手で宙をかいた。
「ウソ、ウソだって。ちゃんと三つ言うこときくから」
「……テメ、このっ!」
喜多の目がみるみる吊り上っていく。
なにか言われる前に目先をそらさないと。
「ほら、早く願い言って。次は本当にカウントダウンするかも」
「え? ……お、おう。もうあたしを焦らしたりすんじゃねぇぞ」
喜多は願いを考えるために、再び思考の海に飛び込んだ。
コントロールしやすくて助かる。
それからしばらく、なにを想像しているのか、ときどき一人で含み笑いをしている喜多を眺めることになった。
「よし! 決まった!」
満面の笑みを浮かべて、喜多が宣言した。
「よろしい。それでは願いを聞きましょう」
「一つ目はだな、あ、あたしを……お姫様抱っこしてくれ」
「……」
「なんか言えよ! 恥ずいだろうがよ」
「ご、ごめん。なんかこう、予想外の願いだったから。で、二つ目は?」
「ふっ、二つ目はっ!」
妙に意気込んでいるというか、気合が入っているな。
どんな願いを言うつもりなのか心しないと。
「あ、あたしに向かって、す、すっ……好きだって言ってくれっ!」
ぎゅっと布団のシーツを握りながら、半ば絶叫のように言うと、彼女は大きく息を吐いた。
僕の眉毛がピクリと動く。
「……そんなのでいいの?」
「いい!」
ああ、君の笑顔は輝く太陽のようだ。
……なんだか二人の間に温度差を感じるな。
「まあ、喜多さんがいいならいいけど。それじゃ最後は?」
「そ、それは後で言うから、先にいま言った二つをかなえてくれよ」
「わかった」
僕がそう言うと、喜多はきらきらした瞳で僕を見つめてきた。なんだかやりにくい。自分がひどく悪人のような気がする。
しかし、とんちは一休さんから続く日本の伝統のはず。
とんちでこの恥ずかしい願いを見事切り抜けるのだ。
「あ、あたしが立ったほうが抱えやすいか」
うきうきと腰を浮かしかけた彼女を制する。
「立たなくていい。その願いはもうかなえたから」
「は?」
「お姫様抱っこした」
「あぁ? なに言ってんだよ。されてねぇだろあたし」
「いや、さっきしたから。気絶してる喜多さんを下からこの部屋に運ぶときに」
「はぁ?」
「で、次の願いだけど。好きって言って欲しいってやつ。もちろん約束だから言う、言うが、今回まだその時と場所の指定まではしていない。そのことを喜多さんにも思い出してもらいたい」
「え?」
「つまり、僕がその気になるまで、言うのは一ヶ月、二ヶ月後でも可能だろうということ」
「……え?」
思考が止まっているのか、事態を理解したくないだけなのか。喜多は間抜けな声を出すばかりでまともに反応しない。
「さあ、最後の願いを言ってくれ」
「ん? ……あぁ?」
「ないなら終わるけど」
「……ある」
まだ反応が鈍いな。状況を理解する前に先に進めてしまおう。
「それを言って」
「最後はだな……あ、あれだよ。わかるだろ?」
どんなやつがそれでわかるんだよ。
僕が黙っていると喜多は、言いたくないけど、という風にゆっくりと唇を動かした。
「だから鈍いやつだな。こ、ここまできたら雰囲気でわかるだろ。こ、このあと、その、あれだ、な? す、する……わけだろ。だからだな、そのときはできるだけ、や、や……優しくしてくれっ」
言い終えると、喜多はタオルケットで顔を隠してしまった。
僕からは見えないが耳まで真っ赤にしているに違いない。
ああ。くそっ、なんでこんなに可愛いんだ。
わかったとも。もちろんオーケーだ。
できる限り優しくするとも。
ただし、僕の優しさを喜多も優しさだと思うかは別として。
「薫っ!」
「はひっ!」
突然名前を呼ばれて、裏返った声で返事をした彼女は、隠していた顔を少しのぞかせてこちらを見ている。
僕はタオルケットを剥ぎ取ると、有無を言わさず薫を押し倒した。
「え、ちょっ、ぁあっ!?」
「すごく好きだ薫。愛してる」
数十秒前の僕は、こんな恥ずかしいこと死んでも言うかと考えていた。
だが、人間、頭脳の命令ではなく、体が勝手に動いてしまうということが本当にあるのだ。
そして、不思議なことに、僕の心には照れなんてまるでない。
今まででも十分染まっていた顔に、まだ桃色に染まる余地があったのかと思うほど、薫の顔に血が昇る。ゆでだこ以上だ。
「桐……ぁむっ、ん」
彼女がなにか言いかけたのを無視して、唇をふさいだ。
心の準備もできずに閉じたままのそこに、むりやり舌をこじ入れる。
「ん……ぁ」
二人の唇の隙間から甘い息の音が漏れた。
おどおどと動きのない彼女の舌に、自分のものを絡ませる。
僕の舌が触れると、薫はびくりと震えた。
自分からはなにもせず――できずに、だろうか――、僕に為されるままになっている。
柔らかく、暖かい彼女の舌を舐めまわしていると、彼女の唾液以上に素晴らしい液体はないような気がしてくる。
僕はいったん唇を離すと、舌先でちろちろと薫の唇をなぞった。
荒い息の中、感極まった声で彼女がささやく。
「ぁ、あ。桐野が、好きって……」
これ以上恥ずかしくなることを言われる前に、黙らせなければ。
彼女の唇を歪めながら、僕は再び薫の口内を犯すことにした。
熱く、やわらかい彼女の口の中で舌を動かしていると、うっとりした心地になってくる。
薫はまだ僕の動きを受け入れるのが精一杯なのか、自分から舌を動かそうとはしない。
少しそれが物足りないが、今までの感じ方を見るにつけ、キスだけでもかなり感じるのだろうと考えると仕方がないか。
唇を離すと、キスの形を残したままのそこが二人の唾液で濡れていた。
どこかうつろな表情で僕を見上げる薫を見つめると、彼女がかすかにうなずいた気がした。