第0章
黎明の洋上で、2機のヘリコプターが緊密な編隊を組み、超低空を飛翔していた。ローターの作り出すダウン
ウォッシュが黒々とした海面を叩き、闇の中にも白い飛沫の輪を作り出している。しかし、新設計の複合素材製
ローターのおかげで、その爆音は驚くほど小さい。両機にはファスト・ロープが取り付けられ、それぞれに6名
の海兵隊員からなる強襲チームが1つずつ乗り組んでいる。
先導機〈ジャニター・ワン〉のパイロットであるスザンヌ・パスカル海軍大尉はダースヴェーダーじみたヘルメ
ットをかぶり、赤外線暗視装置の緑色がかった画像を睨んでいた。
コクピットには、パスカル大尉と副操縦士のファビエ中尉に加えて2人の同乗者がいる。
1人は地元の税関の職員。もう1人はクロエ・フロトン海兵隊少尉である。
〈サザランド〉の艦橋では、艦長のアンヌ・ベダ中佐と地元の税関の職員が並んで立っていた。
税関の男は興奮を隠せなかった。これまで彼らは、洋上哨戒能力が貧弱なせいで海上での犯罪に手をこまねき、
そのためにヨーロッパへと麻薬を発送するための中継基地として使われる羽目になってきた。
しかし、先頃発効したMIPA(中部条約機構)との合意により、その状況は変わるだろう。
「目標針路に変化なし。基線より10海里、速力8ノット、針路2-6-8」
「よし――執行せよ」
ベダ中佐が艦内電話で告げた。
CIC(戦闘情報センター)では、セルジュ・クレール海兵隊大尉が無線機に向かって言った。
「コンバット・チェック」
『シックス・チェック』
『ジャニター・チェック』
『オーメン・チェック』
『フィーチャー・チェック』
『ナイフ・チェック』
『コンバット(CIC)より全員、異常なし。行動準備――実施』
両機のキャビンでは、海兵隊員たちが薬室に弾を送り込み、安全装置をかける金属音が響いた。
『全員に告ぐ、こちらコンバット――1分前。以上』
『全員に告ぐ、こちらコンバット――30秒前。以上』
『全員に告ぐ、こちらコンバット――15秒前――10秒前――5秒前――用意、用意、用意――
――突入! 突入! 突入!』
パスカル大尉はさっと機体を起こし、目標の上空20メートルで機体をホヴァリングさせた。
レノルズ兵曹長が投げ落としたロープの輪が甲板に命中し、重い音を立てた。パイロットが細心の注意を払って
機体を静止させるなか、次々と海兵隊員がロープを掴み、闇の中へと身を躍らせる。
闇の中から亡霊のように現れたフリゲイトから何本もの光芒が伸びた。
艦首の主砲が狙いを定めて回り、拡声器が怒鳴った。
『THIS IS THE HESPERIAN NAVY. HEAVE TO AND PREPARE TO BE BOARDED.
REPEAT!
THIS IS THE HESPERIAN NAVY. HEAVE TO AND PREPARE TO BE BOARDED. 』
斥候がロープを掴み、機関拳銃を構えつつ一気に滑り降りた。素早くコンテナを盾にとり、船橋を牽制する。
2人目の斥候が降り立ち、極端に省略した動作で胸に下げたカービンを構えた。
船橋の賊が銃を構えようとしたが、機関拳銃の連射を胸に浴びて死んだ。
擲弾手のペアが降下し、船橋めがけて立て続けに催涙弾を叩き込んだ。その下を2人の斥候が走った。
一番機は素早く上昇し、キャビンのレノルズ兵曹長がドアの汎用機関銃について援護に回った。
その下で二番機が静止し、キャビンのドアを引き開けて第2班が降下を開始した。
相手がレーダー画面のエコーに気づいているかどうかは分からなかったが、そうだと想定してかからなければ
ならなかった。シャーロッテ・ゴドウィン軍曹は波を観察し、そのリズムを飲み込んだと確信すると、襲撃に備
えて身構えた。彼女の部下と税関の職員もそれに倣った。
黒い複合艇もその乗員も、完全に闇に溶けている。ゴドウィン軍曹と5名の海兵隊員は、彼らが好んで“マン
・イン・ブラック”と呼ぶ黒装束に身を包み、タグボートを偽装した売人の船へと迫りつつあった。斥候として
舳先に潜む二人の兵長は、消音装置をつけた機関拳銃を構えている。普段は軽機関銃を扱うブロー上等兵も、他
の海兵隊員と同様にカービンを携えている。税関の職員は自動拳銃を抜き、海兵隊員と同様に防弾型の救命胴衣
を着けていたが、自信が無さそうな風情だった。
「我々は、その…奴らのフネに…飛び移るんだな?」
彼は不安そうにゴドウィン軍曹に聞いた。
「そうですよ」
と、彼女は事も無げに言った。
「しかし…もし海に落ちたら?」
「大丈夫ですよ。海は温かいですから、凍える心配はありません。挟まれたら保証の限りではありませんが――
ナニ、ちょろい仕事ですよ」
ゴドウィンは笑ったが、税関の職員は冗談ではないという表情であった。
『――突入! 突入! 突入!』
艇長が艦載複合艇を敵船にぐっと近寄せた。
うねりが複合艇を持ち上げると同時に斥候のマイヤー兵長,ヤニク兵長が身を躍らせ、甲板に降り立った。
素早く機関拳銃を両手で構え、足場を固めて警戒する。
さらにゴドウィン軍曹を含めた4人の海兵隊員と税関の職員が乗り移ると、
「ドライ・フィート」
とゴドウィンが送信した。今や彼らは敵船の甲板上にあった。
予測とは異なり、彼らはまだ敵に発見されていなかった。
船首から人が騒ぐ声が聞こえてくる。船体がわずかに傾ぎ、加速するのが靴底に感じられた。
ゴドウィン軍曹が2人の斥候を見て拳を握り、彼らが肯いた。
彼女は2丁の消音銃を両舷に配した。2人の斥候が機関拳銃で危険を探りながら船首へと前進し、その後にカー
ビンを構えた海兵隊員、そして税関職員が続く。
船橋では売人たちが恐慌の真只中だった。それゆえ、彼らは背後から忍び寄る“メン・イン・ブラック”
(および“ウーマン・イン・ブラック”)に全く気づいていなかった。
「動くな! 銃を下に置け」
カービンの背後からゴドウィンが警告し、
「おまえたちはB級麻薬(大麻)密輸の容疑で逮捕された」
と税関職員が付け加えた。
「甲板にうつ伏せて両足を広げろ――早くしろ!」
「厭なら頭をぶち抜いてやっても良いんだぞ」
ロレー伍長が脅した。
ゴドウィンと税関職員、ブロー上等兵が船橋の捕虜を確保し、2人ずつの捜索班が船内の捜索を開始した。
「サー――サー――我々は麻薬など運んでいません。ただドルを――たくさんのドルを――」
赤毛の男が抗議を迸らせた。
「ドルだけなら、な」
と税関職員が言い、左手でさっと赤毛の髭を掴みとって高笑いした。
「ほう、ほう、ほう――懐かしのベリコソスじゃないかね?」
「手配犯ですか?」
「国際手配済みだ。殺人に強盗、麻薬密売に武器密輸,売春斡旋やらなんやら、両手に余る罪状で逮捕状が出て
る。おい、いつかはもう少しのところで逃したが今度はそうはいかんぞ!」
海兵隊第3班が捕虜 / 容疑者を連れて意気揚々と帰投し、複合艇がダビットで引き上げられたとき、
ちょうどヘリコプターの二番機が格納庫に引き入れられようとしているところだった。
税関の職員たちは自前のヘリコプターを待って帰投することになっている。甲板上を歩き回る彼らは興奮に身を
震わせ、躍り上がらんばかりに喜んでいた。
初めて洋上での要撃を成功させ、手配犯2人と300キロに及ぶ精製済みの大麻を抑えた。
そして何より、MIPAの協力姿勢が本物であることが証明された。
今回の作戦には、ヘスペリア海軍の最新鋭戦闘艦である〈サザランド〉および同艦乗艦の海兵隊が全面的に協力
している。例え油断しきった軽武装の麻薬業者相手と言えど、最新鋭戦闘艦を丸ごと貸し出すというのは生半可
な態度ではない。
水兵たちが起こしたセーフティ・ネットに、先に降りていたパスカル大尉が寄りかかっているのが赤色の照明
に浮かび上がって見えた。遥かな水平線には曙光の気配がわずかに窺える。
(とんでもない夜遊びだったな、海兵隊)
とゴドウィン軍曹は思った。
シャーロッテ・ゴドウィン3等軍曹(特技章保持)は25才、新しいタイプの海兵隊員――正確には海軍歩兵コ
マンドー軍団(COFUSCO)隊員――の一人である。かつて色白だった肌は洋上勤務のおかげできれいな
小麦色に焼けていて、それがまた実に佳い。
7年前、彼女は高校を出たばかりで、生んだばかりのダニエルを抱えていて、いっそう悪いことに道を踏み外
しかけていた。のちに示す恐るべき海兵隊魂からは想像しがたいが、それまで彼女はごく普通の少女にすぎず、
幼子を抱えて社会に出る準備などできていなかった。そのとき、「白馬の王子」が彼女を救った。もっとも、
通常の意味においてではなかった――彼は親戚だったからである。ちょうど「砂漠の嵐」が終わったばかりで、
そろそろ退役して夫婦だけの生活を送ろうと考えていたゲルサン夫妻が彼女の家を訪ねたとき、見る影も無くな
った彼女と出くわした。翌日、彼女は飛行機に放り込まれ、南洋へと送り出された。
沿岸での2ヶ月の「訓練航海」の間にゲルサン船長はこの少女の中にあるものに気づき、COFUSCOで
身につけた全てを伝える気になった。ゲルサンは現役時代、卓越した教師でもあった。
ちょうどそのとき、とある水族館との契約によってゲルサン夫妻とその愛船である〈スフリュールII〉は半年間
の航海に出ることになり、そして彼はその航海にゴドウィンを同道した。
陸では決して得られない自由が海にはあった。そしてゲルサンは、海は傲慢なものを決して容赦しないこと、
しかし準備と知識と鍛錬、そして自分に向き合うだけの正直さがそろえば、どんな種類の危険にも対処できるこ
とを、つまり適切に立ち向かえば危険など恐れるにたりないことを教えた。
その航海の後、ゴドウィンは確実な変化を遂げていた。
不本意な形で女にされた、挫折感を抱えた少女はすでになく、今や彼女は自信に満ち溢れた海の女への着実な一
歩を踏み出していた。
ゲルサンとしては、ゴドウィンが海軍歩兵として彼自身と同じ道を辿ってくれればよいと思っていたが、彼女
がダニエルからそれほど長く離れることを喜ぶはずがなかった。
双方が妥協し、ゴドウィンは海軍歩兵予備役の下士官志願兵を志願した。
当時の海軍歩兵予備役は、貴重な技術を持つ人材のプールというよりかなり少ない海軍歩兵の兵力を戦時に増強
する手段として見られており、戦闘職種としての選択肢は歩兵しかなく、血気盛んな彼女は後方職種を不当に低
く見るという悪癖を抱えていた。もっとも、年に2週間戦争ごっこをするだけで月に30ユーロ支給されるという
のは決して悪い話ではなかった。
そのようにして、5年が過ぎた。しかし最近、彼女はダニーの将来についてちょっとばかり考えて、彼を大学
まで上げてやるためには、彼女だけではいささか財政的に不安があることに気づいた。そして、彼女は常々ダニ
ーに構いすぎているような一抹の不安を覚えていた。
もう7才になるのだし、そろそろ独立心を持たせる頃合いではないか?
そんなわけで、彼女は2年間の現役編入を志願した。
ここで、彼女をどこに配属すべきかと言う点で、海軍歩兵コマンドー軍団の上層部ではちょっとした論議がまき
おこった。
ゲルサン最先任上級曹長は、軍団随一の艇長だった。コマンドー・ユベールや近接戦闘部隊の小隊長たちが
戦闘任務を命じられたとき、支援してほしい人物リストのトップには常にゲルサン曹長がいた。その士官たちの
多くは昇進し、COFUSCOの幹部となっていた。実のところ、軍団長自らがコマンドー・ユベールの元隊長で、
ゲルサンのファンであった。
ゴドウィンはそのゲルサンの直伝の弟子に当たる。その点で、彼女の持つ舟艇要員特技章は金色の特技章で
あると言えよう。おまけに事務処理上では彼女は単なる歩兵であり、従って、彼女を得れば専門職の舟艇要員に
加えて員数外で熟練の舟艇要員を抱えることができるのだった。彼女が予備役であり、また女性であることは
問題にならない。ゲルサン退役最先任上級曹長が“よし”と言ったなら、それは神の審判も同然なのである。
各部隊が必要性をさんざん主張したあげく、軍団長自らの裁断により彼女は艦隊防御グループに配属された。
これは、単に艦隊防御グループがその種の才能の持ち主を必要としていたためだけではなく、政治的な問題でも
あった。
艦隊防御グループは海軍艦艇などに分遣隊を派遣し、洋上および錨泊地における艦艇の警備などを担当する
部隊である。軍団長は、彼女を新型の多用途フリゲイトのプロトタイプ、すなわち〈サザランド〉に配属することに
していた。すべては、軍までもが「政治的公平性」とやらを求められるはめになった結果であるのみならず、
冷戦の終結に伴い、海軍歩兵コマンドー軍団に求められる役割が変化したことの結果でもあった。
早くから女性を部隊配置してきた陸軍,空軍とは異なり、閉鎖的な環境での勤務を強要される海軍においては
女性の進出は遅れてきた。
そして、餓狼のごとく残虐非道な野党がそれを見逃すはずがない。
毎年まいとし国会では海軍長官が「男女同権」の大義名分のもと集中砲火を浴び、もともと苦手なブルボン宮周辺
での陸戦において大苦戦を余儀なくされてきた。補給艦など補助艦艇への配置でお茶を濁してきたが、
いい加減圧力にも耐えきれなくなるころだった。
そのためもあって、今度就役する〈サザランド〉では女性乗員の乗艦が前面に押し出されていた。同艦はヘス
ペリア海軍で初めて女性の乗艦を前提に設計された戦闘艦であり、今は艦長のベダ中佐を筆頭にして12人が乗艦
しているが、必要であればさらに20人強にまで増やすことができる。それに加え、海兵隊に女性下士官、しかも
シングル・マザーを配属すれば、海軍が女性を決して軽視しておらず、そして「働く非婚の母」への支援を惜し
まないことを広告できる。
しかも、そのシングル・マザーがかのゲルサン曹長直伝の弟子ともなれば、「広報活動のために現場に役立たず
を押し付けた」という部内からの非難も躱せる。おまけに、海外領土など遠隔地での洋上作戦が主となる艦隊防
御グループが彼女のような熟練の舟艇要員を必要としていることも確かなのだった。
それは、〈サザランド〉の海兵分遣隊にとっても朗報といえた。分遣隊を率いるクレール大尉はゲルサン曹長
を直接には知らず、その弟子と言われてもピンとこなかったし、彼女が予備役からの現役編入組であるというこ
とはその信頼を増加させるものではなかったので、彼女が率いる第3班の2人の伍長のうちの1人にはコマンド
ー・ユベール出身のロレー伍長をあて、彼女を補佐させようと考えた。
しかし実際のところ、彼女の実力は現役組に何ら劣るものではなかった。
海軍歩兵予備役の訓練は(その人材が民間から来ているにも関わらず)現役と全く変わらず、おまけに彼女は発
展訓練まで受けていた。
特にその舟艇取り扱い能力は本職の海軍艇長にもほとんど劣らないほどのもので、5メートルのゾディアックから
11メートル級複合型艦載艇、15メートル級の哨戒艇に至るまで、海軍歩兵が関わるすべての舟艇を自在に操るこ
とができた。そしてその彼女の右腕となるのは、COFUSCO所属の特殊部隊であるコマンドー・ユベール
出身のロレー伍長である。
そのような次第で、クレール大尉が当初は予備兵力として使うつもりでいた第3班は、事実上舟艇専門の立ち入
り検査隊として運用されるに至っていた。
つまるところ彼女の配置は、現場と管理の双方が納得できるという点で、まことによろしい人事といえよう。
そしてまた、それは彼女にとっても決して悪い話ではなかった。彼女は特技章を持っているので、実質的には
2等軍曹と同等の給与等級にいた。配偶者がいないので扶養手当は倍になるし、おまけに艦隊防御グループに
配属されたおかげで俸給の16%の乗組手当+1日あたり15ユーロの航海手当が出る。
しかし、可愛い息子から離れての洋上生活が嬉しいはずがない。その寂しさを少しでも紛らわそうと、彼女は
毎晩衛星通信を通じて息子にメールを送っていた。そのメールはゲルサンによって印刷され、毎晩ダニエルに
手渡されることになっている。翌朝返事を読むのが、毎日の一番の楽しみだった。
彼女が今晩のメールの文面を練っていたとき、人影がパスカル大尉に歩み寄ってくるのが見えた。
ゴドウィンはにやりと笑い、立ち去った。今夜の冒険を、ダニーに聞かせてやるのが楽しみだった。
クレール大尉とパスカル大尉が手を打ち合わせる音が、その背中を追いかけてきた。
本当に、こんなことになろうとは、どこの誰に想像できたろうか?
海兵隊時代のさまざまな冒険や、信じがたいほどに入り組んだ私生活を生き抜いてきたその男は、その落ち着く
先がこんなふうになろうとは、本人にも思いもしなかったものを手にしていた。
幸せな日々を。
その島は亜熱帯に位置していたが、海流の悪戯のおかげで熱帯と言っても差し支えない温醇な気候と海洋生物
に恵まれていた。大洋によって陸地から隔絶され、喧騒には程遠い。
そんな島の中でも、そこは町から丘を挟んで反対側で、両側をこじんまりとした、岬と呼ぶことがはばかられる
ような岩に挟まれているということもあって、プライベート・ビーチと言っても差し支えないほどだった。
体にぴっちりと合った細いビキニの娘を期待してここに来たとしたら、落胆することだけは保証できよう。
その男は、自分で思っているような「年寄り」などではなかった。
実際、サングラスを掛けて日陰に寝そべる彼の姿は老人には程遠く、そして実態にも程遠かった。
つまり、英雄にも。
海岸の静寂を破ってエンジンの音が響いてきた。
しかし彼も、隣に寝そべる彼の妻も、そのことに苛立ったりはしなかった。
次の瞬間、大岩を回ってボートが現れた。
彼らの娘が舳先にしゃがみ、東洋人の青年が舵輪を握っていた。青年はいつものように、桟橋に達する前にエン
ジンを切った。惰性で艇が海面を滑り、一回も後進を掛けることなく桟橋に接した。
少女が桟橋に飛び移り、両親に向かって小さく手を振った。
彼女の名前はニコール。「まさしく火の玉娘、まぎれもないカミカゼ娘というのがぴったり」というのが、
その娘が8歳のときに与えられた評価だった。その後2年が経ち、彼女のエネルギーはどう少なく見積もっても
倍増していたが、思慮深さがそれに伴っているかどうかは――いかにも判断しかねるところであった。
そのようにして、浅網渉――例の東洋人の青年――とスワガー一家は、一夏を共に過ごした。
今でも、浅網はその夏のことをあらゆる部分を鮮やかに思い出すことができる。
しかしそれと同時に彼は、その夏のその出来事が、実際には起きていない、どこか別次元での出来事であったよ
うにも感じるのだった。
浅網はボブが泊まっている別荘の管理人であり、また申し分ないホストだった。
しかしそれと同時に、しばしば立場が入れ替わったように感じることもあった。つまり、ボブやジュリィ、ニッ
キーによって、浅網が支えられているように思うことがあった。そしてそれはしばしば真実だったろう。
彼はシャープだった。彼は細かいところまで見逃さなかった。
しかし何よりも彼を特徴づけるのは、その徹底した沈黙だった。
一緒にいる間、初めから終わりまで、ボブは浅網に対して、質問らしい質問は一切しなかった。
夜中、二人だけで座っているときに浅網が不可解な沈黙に落ち込むことがあっても、彼は決して無理にこじあけ
ようとはしなかった。彼は何かを誤魔化したり、否定したりせざるをえない立場に浅網を追い込むことは決して
なかった。
一度だけ、何かを尋ねようとするかのように口が開きかけたことがあった。しかし彼は視線を落として微笑み、
首を振って再び沈黙するのだった。
そのような次第で、穏やかな時間が流れていった。ボブは本当にリラックスして過ごしているようで、ジュリ
ィはそのことが心から嬉しかった。
一回だけ、夜中にふと目を覚ますと、隣に夫がいないことがあった。ボブはバルコニーに出て、月明かりのも
とで静かに座り、そこに隠された意味を見出そうとするかのように本を見つめていた。
「それ、なんなの?」
「これ? ああ、『悪魔との握手』という本さ。著者はオリバー大佐となってる」
彼女が近寄ると、彼は表紙を見せた。白髭の男の写真だった――普段なら堂々とした、男前の顔であったろうと
想像できたが、その写真では目は落ち窪み、口は堅く結ばれ、むしろ途方に暮れているというか、焦燥を感じて
いるというか――精魂尽き果て、抜け殻になっていると言うか、そんな顔に見えた。そして彼は、国連のパッチ
がついたベレー帽をかぶっていた。
ボブは本を開き、頁を繰った。
「なぜ、これが『悪魔との握手』という題名だと思うかい?
オリバー大佐は、インテラハムェ(Interahamwe)のリーダーたちと会う機会が二度あった。
そのとき、彼はそのリーダーたちと握手した。その手は冷たかった――ただ体温が低かったというだけでなく、
まるで別の生物であるかのようだった。その目は邪悪なものを宿し――オリバーには、彼らは悪魔だとしか思え
なかった」
ボブは本を閉じた。
「でも彼らは人間だった――我々も、同じさ」
2週間の休暇が過ぎ、明日には出発するという日、渉はささやかなパーティーを企画した。
楽しい夜だった。主賓の希望でアルコールは一切出なかったが、それは決してその楽しさを減退させるものでは
なかった。デジタルカメラで取った水中写真を褒められて、ニッキーは大いに満悦の態であった。
夜もふけたころ二人の客が帰り、ジュリィがニッキーをベッドに促し、渉とボブはきれいに片付けられたテーブルを
挟んで向かい合っていた。
亜熱帯の夜だった。全き闇がすべてを覆い、その奥からかすかな波の音といささか喧しいほどの虫の声が聞こえ
てくる。
ボブが机の上に一冊の本を置いた。
「『悪魔との握手』――実に恐るべき、戦慄すべき本だ。
だが実のところ、君はこれとさして変わらないことを、実地に体験していると思う」
ボブは手帳を開き、そこに書き付けてある文句を読んだ。
それは異国の言葉ではあったが、まるで彼自身が考え出したものであるかのように滑らかに発音した。
「――日本語で、『黄色い霧』という意味である、ということだ」
そう言われて、渉の表情に動揺が走ったのが感じ取れた。
「私が照会した人物は、この語からジェームス・ハーバートの『霧』を想起したそうだ。
しかし、君が考えているのは、それとは若干異なる意味であろうと思うが?」
渉は相変わらず一言も喋らない。
ボブは身を乗り出し、机に肘をついて両手を組んだ。
本題に入る時だった。彼ほどの男が2週間もの間、立ち入ることを躊躇いつづけた話題に。
渉が舵柄を握り、彼らを水上飛行機のプラットフォームへと送り届けた。
飛行機がプラットフォームに横付けし、ニッキが機内に駆け込んだ。ジュリィがそれを追い、束の間、ボブと
渉だけが乗降口のところに取り残された。
昨夜、浅網は結局一言も発さずじまいに終わった。一瞬、彼の目の中で何かが動くのを見たように思った――
しかし次の瞬間、彼は再び頑なな殻の中に引きこもってしまったのだった。
ボブは渉の手を握り、言った。
「いつでも、いつ何時でも、連絡をくれたまえ。私はいつでも待っている」
一瞬、悲しげな表情をした。
「私は早くに正規の教育を離れた――私は生きるためにヴェトナムに学んだ――仕事のために独学をした――
君は違う――君は立派な教育を受けている――」
彼はそこで問題から外れていることに気づいた。
「君には助けが要る――幸いにも、君は独りではない。
私でも、提督でも構わない。躊躇わず、いつでも連絡をくれたまえ」
そしてもう一度強く手を握り、彼は家族のあとを追った。
ボブは、自分には何もできなかったと思っていた。オルレンブロール提督の狙いは外れたと思っていた。
だが実のところ、提督は正しかった。
ボブは多くを語らなかった。しかしそれでもなお、彼は渉に多くを与えたのだった。
彼の名はボブ・リー・スワガー。
ジュリィの良き夫であり、ニッキの良き父であり、優れた馬の療養師である。
そこから西へとはるか、はるかに離れたところに、なかば叢林に埋没した滑走路があった。
ある早暁、小型のコミューター機がその滑走路に降り立った。埃っぽい路面に飛び降りた男は機上から鞄を
受け取った。鬱蒼と茂る密林の間にぽっかりと空いた空間から黎明の紫色の空を仰ぐことができただろうし、
おそらく彼はそうしただろう。
その滑走路を中心として居留地が作られていた。そこでは人も物も建物もみなごった返していて、そのくせ何を
しているとも見当がつかない。だが、やがてロビンソンにも、そもそも目的など存在しないことが明らかになっ
てきた。彼らはただ「何か」を得ることができるだろうという期待のもとに集まり騒ぎ、熱気に浮かされたよう
にスターリング銃を抱えて当て所もなく歩き回りながらお互いに陰謀を巡らしているのだった。もっとも彼の見
るところ、彼らの報いられるところは病だけであったようだが。
ロビンソンは迎えを待って、この居留地に十日間留まった。そして、その女について彼が初めて詳しく――人名
以上のものを聞かされたのもこの地だった。到着した直後、支配人に挨拶に赴いた彼は、ふとカロツキーについ
て訊ねた。ミス・カロツキー、この女こそ彼が訪ねて来た相手であった。その途端、支配人は顔を歪めて吐き捨
てた。
「全く不愉快な奴ですよ、あの女は、――女のくせにこんなところに来るという時点でいかれてますがね、
自分の仕事のことしか頭にない、物凄く高飛車な奴です。実に厭な奴ですよ。最初は私も助手などつけてやって
世話をしていたんですがね、あるときその助手を送り返してきましてね、こんな男と仕事をするなど耐えられな
い、こんな役立たずはとっととこの大陸から追い出してしまえと抜かすんですよ。おまけに本国のほうも奴をえ
らく高く買ってましてね、まるで天気まで左右しかねないような扱いで――たかが一人の女をですよ、まったく
忌々しい話ですよ。しかし奴さんどうやら熱病にかかったようで、いい気味ですよ。その後九ヶ月も消息があり
ませんからねえ、案外もうくたばってるんじゃないですかねえ」
ある朝、二台のトラックが停まり、一台目の運転席から青年が顔を突き出した。
「ミスタ・ロビンソンですね? さあどうぞ、乗ってください! 私がご案内します」
その青年には道化芝居のハーリ・クインを連想させるものがあった。
服は褐色の麻か何かでできているようだったが、それが満身補綴だらけで――青,赤,黄と恐ろしく派手な補綴
布――それが背中といわず前といわず、そこらじゅうに貼り付けられ、おまけに日が当たると、それが突拍子も
無く派手に、また驚くほど洒落て見える。つまりそれほどその補綴は美しく出来ていたのだ。
髭の無いどこか子供っぽい顔、小さくて円らな碧い眼、金髪白皙だが、顔にはこれといって特徴はない。
驚くほど陽気で、ロビンソンがタジタジとなるほどにペラペラとまくしたてるのであった。おまけに秋空のよう
に表情をくるくると変え、今落ち込んでいるかと思うと次の瞬間にはまた陽気に喋りだすという具合であった。
そして荷台の男たちはスターリング銃を抱え、熱気に眼を爛々と輝かせていた。そのくせ、彼らが知っている
のは、「何か」を得られる「何処か」に行くということだけのようだった。
そのような次第で、とにかく彼は奥地へと出発した。
だが、その道と来たら! 確かに二車線あるが舗装はされておらず、風が吹くと埃で前が見えないという有様で
あった。その車もまたひどく、前世紀のものといっても不思議ではないほどのものであり、爆音と排煙で
咽び、熱気に噎せつつ一刻も揺られれば体の節々が痛む程。窓を開けても吹き込むのは熱と湿気に冒された風、
ひとたびエンジンを止めれば澱んだような湿気が肌に纏わりつき、死の静寂が包み込み、ちっぽけな人間を押し
潰そうと迫ってくる。
運転席の青年から絶え間なく流れ出る戯言を聞き流しつつ、彼はふとカロツキーについて訊ねた。
だがこれは失策であった。とたんにその青年は饒舌さを増し、ミス・カロツキーへの賛辞を徒に重ねるのであっ
た。ミス・カロツキーが如何に高潔であるか、その言葉が如何に心を打ち「土人」たちの頑迷な魂を蕩かすか、
延々と喋りつづけるのであった。そしてまた、ミス・カロツキーの詩も青年の惜しみない賞賛の的となった。
「是非ともあの人が詩を読むのを一度聞いてみるべきですよ」と青年は熱に浮かされたように言った。
ミス・カロツキーがああ言った、ミス・カロツキーがこう言った、あまり長く聞かされたためにまだ見ぬ
ミス・カロツキーの声が彼の耳奥で反響するほどであった。
「ミス・カロツキーとは話はしないのかね?」と訊いてみた。
「話をするなんてものじゃありませんよ、――こちらはただ聞くだけですよ、あの人の話をね、」と青年は得意
満面に答えたが、そこで頭を一つ振ったかと思うと、
「でも、それももう…」と呟き、忽ちに悄然とした失望の表情に一変した。
密林を切り開いて作られた白い道は、緑の化物の胎内へと落ち込んでいくかのようにうねっていく。蔦と木の
葉が絡み合い、彼らを光から隔絶する。風の狂暴な叫喚が木々の奥へと響いていけば、沈黙し脈動する闇黒の叢
林が頭上に襲い掛かるように思え、豪胆な彼にすら心胆を寒からしめる程。
虚しくよじる道は滅多に陽光を見ず、得体の知れぬ虫が肌を蝕む。道を遡れば遡る程に木々は密度を増し、汁が
涌くような闇のなかで頼ることが出来るのは弱々しい車の灯だけ、時折その灯に白眼がぎらりと光る。
闇黒! これこそがもっとも性悪なものであった――そこには人間の心に恐怖を植え付け、それでいて何故だか
魅惑するような何者かが潜んでいた。文明を以って飼いならされた胸の奥にも、その猥らな闇黒に魅惑される
かすかなものがある、それはもはや原始の闇黒からあまりに遠ざかってしまったためにかすかな不安としてしか
到底理解し得ないものであったかもしれぬ、――それでもそれは確かにそこにあるのだ。
思ったとおり、やがて車が壊れた。彼らは修理の間野営することにし、車を並べて停めた。
そのうちに霧が出てきた。何か浸蝕性の液体のような、気味の悪い霧だった。
突然何か異様な喚声が、不透明な大気の奥から沸き起こった。まるで霧全体が突然に、そして八方から、いっせ
いにこの騒がしい悲痛な叫びをあげたかのようだった。やがてそれは、急き込んだ、ほとんど絶え入らんばかり
の悲鳴に高まったかと思うと、そのままピタリとやんだ。例の男たちはしばらく茫然と口を開けて立ちすくんで
いたかと思うと、車のなかからスターリング銃を引っ張り出し、やにわにぶっ放した。甲高い銃声が霧のなかで
奇妙に反響し、不可解な化物の叫びのように響いた。そして、撃ちこまれた銃弾は虚空へと飛び去っていった。
やがて車が直り、彼らは再び出発した。
窓にこつんと木片が当たった。雨が降るような音を立てて、屋根やらフロントガラスやらに落ちてくる。
南無三、矢だ! 森の中から喚声が上がった。停めろと叫ぶや否や、彼はサイドウィンドウを半ば下げて拳銃を
突き出し、続けざまに発砲した。一瞬の閃光に、木々の奥で蠢くおびただしい数の人影が浮かび上がる。
彼が二本目の弾倉を撃ち尽しかけたとき、青年がクラクションを鳴らした。
ひときわ高い叫喚が響いたかと思うと、唐突に静寂が蘇った。
再び走り出してしばらくして、青年が全く動じていないことに驚いた。
「警笛をひとつブーッとやる方が、銃なんかよりよっぽど効き目があるんですからねえ。とにかく単純なんです
よ」
彼は拳銃を懐に滑り込ませた。
「やはり僕等を殺しに来たんだろうかね?」と訊いてみた。だが、
「とんでもない、」と青年は叫んだかと思うと、怒ったような顔になった。
「じゃ、何故僕等を襲ったのだい?」と詰め寄ると、これには青年もちょっと詰まって、オドオドしながら、
「あの人が往っちまうのを、厭だと言ってるんですよ」
「ええ?」と思わず彼は身を乗り出した。青年はなにか神秘と智慧に輝いたような表情を見せて肯いた。
「ええ、本当なんです、あの人は僕の心を広くしてくれました」
青年は大きく両腕を広げたかと思うと、小さく碧い円らな瞳を一杯に見開いて彼を見た。
道の所々に哨所が見られるようになった。いわばそれらは、巨大な闇黒の端っこに、どうにかやっとしがみつ
いたといった形だった。崩れかかった小屋から、小銃を抱えた白人たちが飛び出してきて、歓喜と驚きと歓迎の
大袈裟な身振りをして迎えてくれるのだが、それがかえってひどく異様に見える、
――何か呪いに縛られた俘囚とでもいったように。
そして彼らは、静かな敵意が漲る沈黙の叢林を遡っていく。
やがて、哨所に詰める男たちの肌の色が変わった。彼らは「御仕着せ」つまりどこかの放出品の迷彩服と
アーマライト銃を抱え、惨めな小屋の中から車を見る。青年に言わせると、彼らは「ミス・カロツキーに啓蒙
された土人」で、カロツキーは彼らを使って軍隊のようなものまで作っているということであった。
「じゃ、ミス・カロツキーは好かれていたのかい?」
「そんなことはありませんよ、あの人は雷親爺みたいな態度で臨むんですからね、――土人たちとしてもはじめ
ての経験だったでしょう――死の恐怖です。
そうです、一つ違えばとても恐ろしい人でした。
あの人の偉大さはとても言い表せません。
とても普通の人間を見る眼で、あのカロツキーさんを判断しちゃあ駄目ですよ」
ミス・カロツキーは彼らを率いてしばしばさらに奥地へと踏み込み、様々なものを掠奪した。しかし、たいて
い彼女は一人で闇黒の奥へと踏み込んで行った。
「あの方が何を求めていたのかは誰にも分かりませんがねえ、」と青年は言った。
「ランダ-ランダ(Landa-landa)とかいう噂に興味をお持ちのようでしたよ――
ナニ土人の噂ですよ、大したことじゃないんですがねえ、」
だが、ミス・カロツキーはようやく求めていたものを手に入れたらしく、数週間前に最後の――一人だけの
遠征から帰ってきたときには意気軒昂たる有様であった。
ところがそのとき、病で倒れた。
「ああ――ひどく悪い、危篤なんです。早くあの人をこんなところから出して差し上げないと…
ここにはまともな病院もないし、衛生兵もいない…薬だってろくにないんです…」
青年は憂慮のあまり身も世も無いという具合であった。ロビンソンはその泣き言を聞き流しながら前を見据えて
いた。
突然、視界が開けた。
車は荒野の中を走っていた。
背の低い叢の所々に枯れ木が立ち、それ以外に朽ちかけた柵の名残と言った具合で杭が何本か並んで突き立って
いた。
ロビンソンは何気なく双眼鏡を取り上げた。
その杭の尖端には装飾と思しき円い球がついていて、辺りの風物が荒涼としているだけに、むしろ異様に感じら
れた。
だが、丹念に見ていくと、すぐに自分の思い違いに気づくことになる。
つまり、その円い球は装飾ではなく、むしろ重大な象徴なのだった。
ロビンソンは反射的に頭を反らせ、やがてゆっくりと見直してみた。
干からびて半ば緑色に変じ、瞼は閉じたまま、肉はすっかり落ちつくしている――まるで杭の天辺で静かに眠っ
ているかのようでもあり、萎びた唇からは真白な歯並さえ細く見えている。
彼は双眼鏡を置いた。
と、今まで物言わぬ微笑を投げていたかのようであった首は、たちまちまるで天空の果てへと飛び退いたかのよ
うに見えた。
これには、このカロツキー礼賛者も流石に多少しょげたようであった。青年はひどく早口で口篭もりながら、
自分もあの――象徴とでもいうか――あれだけは取り除けるわけにいかなかったのだと説明した。
つまり、あれはカロツキーの権勢の証なのだった。
この辺りの部族の長たちが伺候しに来るとき、彼らに見せつけるためのものなのだった。
「あなたは当時の事情を知らないからなんですよ」と青年は言った。
「この首は、みんな叛逆者のものなんです」
叛逆者! ロビンソンは笑い出していた。それはひどく甲高い、我ながら癇に障る笑い声であった。
これには青年もひどく驚いたらしかった。
「あなたにはお分かりにならないんだ、こうした生活が、どんなにカロツキーさんのような人を苦しめるか…」
もう胸が一杯になって口がきけないらしく、プツリと黙ってしまった。
「ああ、僕にはもう何が何やら分からない、」
そう呟いた次の瞬間には言葉を迸らせるのだった。
「ずいぶんひどい見放し方ですよ。あの人、あの素晴らしい思想の持ち主をね!
恥じるがいい!
恥じるがいい!
ボ、ボクは、この十日間というもの、一睡もしていないんですよ…」
青年の声は薄暮の静寂の中に消えていった。
話している間に車は丘を越え、小さな村落を見下ろしつつあった。
森の蔭が丘の背を這い下り、例の象徴的な柱列の向かう側にまで長く伸びていた。
村落の向こうを流れる河の水面だけが落日を浴びて輝いていたが、もはや辺りは深い薄暮の闇一色に塗り込めら
れていた。村には人影の一つ炊煙の一本とて見えず、叢林も葉ずれの音一つ立てない。
死の夢幻の王国へと丘を下る車内で、風の歌のなかに人声を聞いた。
「夢を長く見続ける者は、己の影に似てくる」
<第0章・終>