閉ざされた海 Blockade Zone
死の夢幻の王国にありて
尚更に我を行かしむるなかれ
また殊更に我を装わしめよ
鼠の衣 鴉の皮 十字なす杖もちて
野中に立ちて
風の身ぶりを振舞わしめよ
尚更に行かしむるなかれ――
この薄明の王国にて
かの究極の出会いを我は願わず
(T・S・エリオット『うつろなる人々』より)
序章
ゲルサン船長は良い船乗りだった。赤い髪は潮と日に焼かれて赤銅色の縞ができ、そのオリーヴ色の目は
指一本で嵐を操るような毒々しさには欠けるが、いわゆる「船乗りの目」だった。恐るべき正確さで舵と綱を操
り、汐と風について一種独特の勘を持っている。その腕は、かつて同様に船乗りであったその叔父に勝るとも劣
らない。しばしば火のついていないパイプを咥えているが、それは船長が苦心して作り上げたイメージに合わせ
るためである。同様の理由から、操舵室のGPS受信機は巧みに擬装されている。
我々がいるのは、タビル海外県の主都であるアケンドラ市近郊の海上。植民地帝国が音を立てて瓦解していく
なか、最後まで保持された海外領土の一つである。「さながら制止しがたい顔の痙攣のように存続している」
というにはいささか美しすぎる街であった。市街の中央には、西洋人がこの地に足を踏み入れる遥か以前に
何者かによって建てられた建物の名残がある。人々はその壁に手を当て、歴史に刻まれることもなく消えていっ
た人々に思いを馳せる。
一荒れ来そうな気配を感じさせる空模様だった。
機関を止めた舟は、大きな周期の波の上でゆっくりと揺れていた。
そのうち、船長がやってきて、私の隣に座った。私は本を置き、この新しい友人と紅茶を飲んだ。
私は読んだばかりの本の粗筋を語った。
一人の男の狂気により、一つの島が荒廃に帰す。脱出を試みた島民の舟は撃沈され、女たちは首を括られる。
その惨劇は、その男の死によって幕を閉じる。生存者たちは、救出に来た貴族とともに、彼らが後にした死の島
へと思いを馳せる。
「彼らは反撃すべきだった」
と船長は勇ましいことを言った。私は、敵は謎に包まれていて、しかも主人公は人数で既に圧倒されていたのだ
と説明した。
しばしの沈黙の後、船長は実に興味深い話を聞かせてくれた。
かつて、ひとつの島があった。豊かな自然に恵まれた美しい島であった。その海に魅せられ、多くの人々が訪
れた。だが、やがてその繁栄に陰りが見えはじめた。新たな観光地に客を奪われ、衰退がはじまった。それでも
なお海は美しく、それに惹かれるものもいた。しかし、破滅は唐突に訪れた。
嵐が迫るある夜、全ての住民が一夜にして発狂した。救援に赴いた艦までがこの不可解な――だが明らかに伝
播する狂気に呑み込まれるに至り、現地の当局は恐慌状態に陥った。
そして、全てが消え去った。嵐は三日三晩荒れ狂い、戦神が自らの手で謎を覆い隠した。
「鎮まったとき、艦と全ての人間――生死に関わらず――が消えていた。混乱の中で島は見捨てられた」
ゲルサン船長は頑丈で、整った顔立ちと明るい目をしている。船長はそのときサングラスを外し、わずかに
霞んだ目で灰色の海をじっと見つめた。目元の皺がその印象を一変させていた。
私は、船長が今浮かべているような表情を持った男を知っていた。彼は某国でのPKOミッションに派遣された
が、その任務は結局無に帰した。彼の指揮官は今でも罪の意識を乗り越えられずに精神科に通院し、同僚たちの
中には飲酒や薬物の問題を抱える者も多い。彼自身もそのことをほとんど語らない。
そしてそんな表情を、船長は湛えている。
質問をしようとしたとき、海面上に鮮やかなオレンジ色のフロートが突き出した。
翌日、船長に会いに行った。しかし既に出港した後で、3日は帰らないと言うことだった。
その翌日、私はその国を発った。それだけなら、突拍子も無い奇妙な話というだけで終わるはずだった。
しかし、それで終わらなかった。
一週間ほどして私はゲルサン船長から一通の封書を受け取った。封を切ると便箋と数葉の写真が落ちた。
『同封した写真はアケンドラ市の南方500キロの海上で撮影されたものである。3枚は全て、同じ艦をそれぞれ
別の角度から撮影したものだ。ロリアンのDCN工廠で建造され、シンガポールへ回航後、インド洋において慣熟
航海中のフリゲイト〈フォーミダブル〉である――とされている』
その写真は艦首正面上方から撮られたもので、割合に背が低い上部構造物や艦橋天蓋上に据えられたピラミッ
ド型の多機能レーダーなどが見て取れる。写真には撮影された日付が添えてあった。
『しかし、これは〈フォーミダブル〉ではない』
2枚目は左舷艦首寄りから撮影されたもので、全般的にのっぺりとした中央船楼型の艦体や艦首から船楼後尾ま
での顕著なナックル・ラインなど、「フォーミダブル」級の特徴を容易に看取できた。しかし、煙突周りや艦橋に
どことなく違和感があるほか、艦首には「715」という艦番号が白文字でくっきりと描かれている。「フォーミダブル」級
の艦番号は、ネームシップの〈フォーミダブル〉が「68」であり、もっとも数字が大きな〈シュプリーム〉でも「73」である。
『三枚目の写真に注目されたい。『フォーミダブル』級には1機分の格納庫しかない。しかし、この艦には2機分の
格納庫があることが、写真からはっきりと確認できる。
さて、このことは何を意味するのであろうか?』
ワープロで打たれた手紙はそこで終わり、最後に流麗な筆記体で「C・G」とサインされていた。
私は3枚目の写真を取り上げた。それは艦尾方向から撮られたもので、可変深度ソナー繰り出し口と囮発射口、
そして船楼後尾のヘリコプター格納庫が見て取れた。
そこには左右に並んだ二枚のシャッターがくっきりと写っていた。
記録に当たるまでもない。数年前、唐突に冷戦が熱い戦争と化し、散発的な交戦の末、危うく踏み止まったこと
があった。そして、西太平洋で1隻のフリゲイトが撃沈された。艦番号はF-715、艦名は〈サザランド〉。
予算要求は「ラファイエット」級フリゲイトの6番艦としてなされたが、次期多用途フリゲイトのプロトタイプとして
建造されたため、事実上はまったくの別型艦と分類してよい。艦体は延長され、変更点は主機や主砲、レーダー
やソナーなど多岐に渡る。そして、その主機をオリジナルの「ラファイエット」級と同じディーゼルに戻し、領海警備
任務を主眼として改設計されたのが、シンガポールの「フォーミダブル」級である。
〈サザランド〉はステルス化演習中であったため、その最後の航海は謎に包まれている。
無寄港・単艦で大西洋を南下、途中他のMIPA軍と共同で演習を行い、また麻薬取締りに関する協定に従って
現地の税関に協力したことは分かっている。しかし、喜望峰を越える前後からの航跡は全く明らかになっていない。
この写真が撮影された一週間後、〈サザランド〉は姿を消す。あらゆる報道によると、彼女は西太平洋、インド洋
に近い海域で交戦し、撃沈された。しかし、通常の巡航速力である18ノットはおろか、公表されている最大速力で
ある28ノットで急行していたとしても、交戦海域へ到達することは不可能である。例え1週間に渡って28ノットで航
走したとしても、なお1000キロ余りもの大洋によって隔てられているのだ。(よくあることだが)海軍当局が最大速
力を大幅に少なく公表していたとしたら、例えば1週間に渡って33ノットで航走していたとしたら、交戦海域へ到達
することは、可能ではある。だがその場合、なぜ彼女は燃料の浪費を犯してあえて全速で航行していたのか
という疑問が生じる。
ここで、船長の話を想起せねばなるまい。
『――救援に赴いた艦までが消えた――』
その艦とは――〈サザランド〉であったのであろうか?