※ 前回投下よりかなり間が空いたので、主要登場人物およびあらすじをつけておきます。
なお、これは長編「閉ざされた海」の一環であり、「第0章」に連続しています。
これまでに出ている主要登場人物
浅網 渉:退役海兵隊士官。退役時の階級は1尉。現役時は特殊舟艇部隊に所属。
シャルロット・ゴドウィン:海兵隊3等陸曹。シングルマザー。海の女。目下、海兵隊予備役より現役編入中。
ミス・カロツキー:河畔の研究所にいた女。
J・P・ロビンソン:カロツキーに会いに行った男。
これまでに出ている話のあらすじ
訳あって、浅網はある島に隠棲している。
一方、ゴドウィン軍曹など海兵隊員たちは、地元の税関と協力して麻薬の密輸船を急襲、これを検挙した。
それらに先立つこと数年、ロビンソンは床に伏すミス・カロツキーに会いに行っていた。
密林を遡り、彼はついに河畔の研究所に辿りつく。
蝿の国の物語(I)
「――風の声を聞いたように思った、とは言っても、別に超自然的なものを云々するつもりはない。
むしろ僕が言いたいのは、悪に超自然的な根源の存在を信じる必要はどこにもない、ということなんだ。
人間のみがあらゆる邪悪をなす能力を備えているのだからね」
何かを誦するようにそこまで語り、ロビンソンは息をついた。
「煙草を吸ってもいいかな?」と彼は聞いた。
「構わないよ」と浅網は答えた。
小さな明りが点り、やがてロビンソンの痩けた顔を微かに照らした。
「君が連れてきた女の子、あれは君の恋人かい?」
「いや。友人だよ」
「そうか。彼女は頼りになるだろうか?」
「ああ。疑いの余地なくね」
「そうか。それなら、早いところ話をはじめなけりゃいけないな」
「聞きたいことがある。ミス・カロツキーとは何者なんだ?」
ロビンソンは手を上げて制した。
「物には順番というものがある。まず僕が話す。次に君が訊く。それでどうだい?」
「ああ。それでいいだろう」
「だが、さて、どこから話したものかな」
そう言って、一服した。
「まあ、時の流れに沿って話すのが順当なところかな。
結局のところ、それがいちばんしっくりいきそうな感じがするんだ」
彼は煙草を灰皿に押し付けた。
「彼女がそもそも何をしていたのかは、僕には分からない。そういうことは聞いてないんだ。
僕が彼女と初めて会ったのは、例の河沿いの研究所だった。それまでに、僕は彼女についての報告書を読み、
――もちろん、例の若者からさんざん戯言を聞かされはしたけどね、彼女のことをちゃんと教えてくれたのは
その報告書だけだったのさ。つまり、あの研究所に行くまでの僕にとって、ミス・カロツキーは、名前と一片の
説明を知るに過ぎない存在だったということだ。もっともその一片の説明だけで、既に圧倒されるに足るもの
ではあったのだけれどね」
彼はそこで一息ついた。
「彼女が、いかに素晴らしい女性であったか――確かに美しくもあった、しかしそれは問題ではない。
真に彼女を特徴付けていたのは、その崇高な頭脳だった。
高邁な理想、高潔な人格、明晰さの中に深い憐愛の情を秘めた、僕のような人間には計り知れないほどに有能な、
いわば埒外の人とでもいうべき女性だった。
「だが、カロツキー、カロツキー、――確かランビア語で短いという意味だったね? その名前が、それを与え
られた彼女の人生そのものを象徴しているかのように、僕には思えて仕方がないんだ。
思い返してみれば、今日の堕落の前兆とでも言うべきものが、その名声の絶頂において既に片鱗を見せていたよう
にも思うんだよ。
「学会の論文ではなく、雑誌か何かに寄せた文だったと思うんだが、彼女はその雑誌社か何かに頼まれて、
こう書いていた。
『人々の眼に超自然的存在として映るのはやむをえない――吾々はあたかも神の如き力をもって彼らに接するの
である』云々、というような議論にはじまり、
『吾々はただ意思の働きだけで、ほとんど無際限の道徳的能力を行使することが可能である』云々、といった
調子で、あとは天馬空を行くの概に、僕はすっかり魅了されてしまった。
まことに雄弁、一語一語が躍動し燃え上がるようで、紡がれる言葉は天翔けるように格調高く、それが実に十頁
以上も続いていたんだ」
彼は苦しそうに言葉を切った。
「しかし今となっては、この文は僕に不吉な予感を与えずにはおかないんだ。
神の如き力! 全き自由、束縛無き自由を、君は想像できるかね?
自由、それが彼女の魂を雁字搦めに縛り上げていたんだ。彼女は全てを憎みつつもやめられなかった、
全てを渇望せずにはいられなかったんだ。
慢心、そして堕落――浅ましい弁訴、卑屈な威嚇、底知れぬ醜い欲望、魂の醜劣さ、苛責、嵐のような懊悩――
『私の研究、』と言った彼女のあの言葉を、ぜひとも君に聞かせたかったよ。
『私の研究員、私の研究所、私の河、私の……』
一切が彼女のものだった。実際、僕はあの荒野が、夜空をも揺るがすような高笑いをはじめはしないかと固唾を
呑んだものだった。
そうだ、一切が彼女のものだった――だが、実はそんなことは何でもないんだ。
問題は、その彼女の魂をしっかり掴んでいたものであり、いかにおびただしい闇の力が彼女の魂を占めていたか
ということだった。
「もちろん人間の中には、道を踏み外すことさえできない莫迦もいれば、闇の存在にすら気付かない鈍感もいる。
莫迦が悪魔に魂を売った例はないんだ、莫迦が莫迦すぎるのか、悪魔が悪魔すぎるのか、それは分からないがね。
しかし今の僕には分かるんだが、彼女はあの有能さ、あの高潔さにもかかわらず、やはり心のどこかに虚ろな
ところがあったんだ、そしてその空虚に何かが巣食った時――巨大な闇が生まれたのだ。
それを思うと僕は戦慄せずにはいられない。
想像することさえも――不可能であり――そして、禍でもあった。
彼女はかの地の悪魔どもの間にその首座を占めたんだ――文字通りにそうだったんだ」
「そして、それがこの島で解き放たれたんだね?」
「そうさ。その通りだよ」