「くぅっ・・・うっううぅぅっ・・・はぁっはぁっ・・・。」
静寂に包まれた冬の夜、すっかり雪に覆われた人の世界から遠く離れた
山奥の一角にある社の中から静寂を破る声が漏れていた。いや声と言うよりも
苦痛の喘ぎであろう、激痛に喘ぐ声が漏れ流れている。一体何の騒ぎだと言う
のだろうか、その尋常とはとても取れない喘ぎ声は、社の中に敷かれた一幅の
布団の上にいる者から発せられていた。
発している者の姿は人ではない、人と獣の要素をあわせ持った存在であった。
そしてその者は女なのだろう。臨月を迎え膨らみきった腹が今彼女の身に何が
起きているのかを、この喘ぎと共に雄弁に物語っていた。大きく開かれた口から
は舌が垂れ荒い息が吐かれる、尻尾は大きく振られて目も半ば白目になり掛け
ていたその時何かが現れた。途端に彼女を襲っていた産みの苦しみも消え
大きく息を吐く、そして間髪置かずに体勢を切り替えると紐の様な物を・・・
臍の緒を噛み切った。
彼女が一息ついたその時から先程の喘ぎを凌ぐ泣声が響き渡っていた、
それは半ば絶叫しているそれは新たな生命が健全に生まれた事の表れであった。
その泣き叫ぶ赤ん坊から彼女は羊膜を舐め取りつつ、閉じられた彼女の目蓋の
目尻には喜びの表れとも取れる涙が浮んでいた。
「あの・・・すみません。」
「あぁっはいはい・・・何でしょうか。」
その時、窓口に詰めていた若い駅員は客が来た事に全く気が付いてなかった。
内心では慌てつつも表向きは平静を装って、急いで向き直した所で再び駅員は
大きく驚かされたのだが、それとは対照的にその客は淡々と必要な事柄だけを
口にしていた。
「・・・までの切符を大人1枚。」
「えー・・・までですね、2560円です。すぐに使いますか?」
無言で首を縦に振りながら金額通りに差し出された代金、駅員は確認して
切符に判子を押してそのまま渡した。すると客・・・まだあどけない様子の
残る客は、一礼してホームへ続く地下道を下って行った。
"今時珍しい・・・コスプレじゃないだろうしあの感じは・・・驚いたな。"
とその後ろ姿を窓口から顔を突き出して見送るのだった。
「ではお先に失礼します。」
「あぁっご苦労さん。」
その日、バイト先を出ると外はすっかり夜になっていた。
見渡す限り澄みきった雲一つ見られない空には銀色をした満月だけが、
寒さを象徴するかのように煌々と輝いている。
思わず目を奪われてしまいそうなその光の中を自転車を漕いで家路を急ぎつつ、
心なしか何処か気分が何時にも増して良いと感じながら走る事20分余り。
自宅に帰り着くと、裏の勝手口の脇に何時も通りに自転車を止めて敷地を
回って表の玄関へ向う。
"あぁ今日も疲れたな・・・早く風呂に入って寝よ。"
生あくびをかみながら玄関の鍵を挿し込んだその時、ふと脇から妙な気配が
感じられた。そっと視線を向けたその顔はすぐに驚きの表情を浮ばせる事となる。
そしてつられて体もそちらを向き、ためらい無く差し出された手の先には
一匹の子犬と思しき生き物の姿があった。
「かわいいなぁ、寒いだろうから中に入れちゃおうかな・・・。」
と呟くとそのままそっと抱き抱え、抱えられた子犬も特に動じぬまま玄関の扉は閉められる。
そして家の中に明かりが灯る・・・満月の煌々と輝く冬の晩、2人が初めて出会ったのはそんな晩だった。