その部屋を前にした瞬間、僕は軽く既視感(デジャビュ)……違うな、郷愁(ノスタルジー)……精神外傷(トラウマ)? うん、これが一番ぴったりだ。  
 と、まあ自分の中に生まれた感情を判明させて若干の後悔をした。いきなりテンションを最下層に落としつつも、服装におかしなところが無いかのチェック。久しぶりに来たスーツは幸い虫に食われている事も無くホッとする。  
 さて、大至急といわれてきたのだからこれ以上ダラダラしている訳には行かない。覚悟を決めて部屋の扉をノックする。  
「はい」  
「あのう、先ほど連絡を受けて参りました。田村慎一郎です」  
「少々お待ちください」  
 
 実際にはほとんど待つ事無くその扉は開けられた。  
昔来た時には自分から扉を開けたものだが、どうやら今の自分は向こうから扉を開けてもらえる立場らしい。  
扉が開くと、目の前には僕より一回り程若く見える女性と……さらにもう一回り若いよく知る少女が椅子に座っているのが見えた。  
「突然お呼び立てしてすみません。どうぞ、こちらの席にお座りください」  
 扉を開けた女性に促されて僕は少女の隣にあたる席に、女性は机を挟んで僕と少女に向き合う位置に座った。  
女性が机の上の資料のようなものをパラパラとやっている間に部屋を観察してみると、先ほどの限りなくトラウマに近い懐かしさが再び湧き上がる。  
人が6,7人も入れば狭く感じられそうな広さ。椅子と机しかない殺風景さ。丁度目の前の女性が逆光になる位置にある窓。  
僕の頃には更に竹刀が壁に立てかれられてあったが、さすがに最近は無いものらしい。  
 
 ちょんちょん、と袖を引っ張られるのを感じて、それまで意識してそちらに向けなかった視線を少女に向ける。  
何? と視線だけで問いかけると僕の耳元に口を寄せて少女が呟く。  
「なんか学校で会うと、少し新鮮な感じがしない?」  
 何でコイツはこんな場所でこんなことが考えられるんだろう?   
と考えて、コイツの父親もそうであったことを思い出して納得した、そんな自分が納得できなくはあったが。  
 
 
ほぼ20年ぶりに入った『生徒指導室』には、やっぱり僕にとって碌なことは待っていなさそうだった。  
 
 
「今日お呼びしたのはですね、そちらの一条楓さんのことについてなんです」  
「……はい」  
 まったく予想どおりの話だった。  
 僕はとうに高校を卒業している。街中でタバコを吸おうが、居酒屋で酒を飲もうが、  
本屋でアレな本を買おうが生徒指導室から呼び出しがかかることは無い。  
 というか、そもそもこの高校に通ったことが無い。  
 となると僕の知る高校生に関係していることで呼び出されたのだろうと予想するのが自然なことで、  
僕のかかわる高校生なんていうのは一人しか存在しなかった。  
「実は最近、校内で楓さんの噂が流れていまして……」  
 一瞬、いじめ問題かなんかだったら良かったのに等と考えてしまった。勿論、この少女がそんなものを(甘んじて)受けるタイプではない事はわかっているが。  
 
「その内容というのがですね、楓さんが男性と『同棲』しているというもので……」  
 ああ、やっぱりそういう話なのか。ちらりと隣の少女、楓のほうを見ると平然と、というよりもむしろつまらなそうな顔をしていた。  
「そこで楓さんに話を聞いてみたところ『幼馴染みのお兄さんと同棲している』と言われて」  
 思わず顔をしかめてしまう。目の前の女性……おそらく担任と思われる先生は苦笑いをしながら話す。  
おそらく彼女の中での『幼馴染みのお兄さん』のイメージと僕との間に激しいギャップがあったのだろう。  
「さすがにこれは放っておくわけにはいかないと判断して、  
まずはご両親にお電話しなければと思って彼女の自宅に電話をかけようと思ったのですが」  
「どうせ誰も出ないってわかってたから、ウチの電話番号を教えたの」  
「確かに留守だったようなので、田村さんにお電話させていただいたというわけです」  
 確かに、楓の自宅(決して僕の家を指す『ウチ』ではない)は長いともぬけの空だろう  
 
「ええと、まず訂正させてもらいたい事がですね」  
「はい」  
「同棲、では無く同居。もしくは彼女が居候をしているということです」  
「それは……そうでしょうね」  
「あら、それじゃあ意味とかニュアンスが変わってこない?」  
 変えているんだ阿呆。家に居るときだったらそう言ってやるが、この場は無視。  
この場は先生と二人だけで話を進める事にする。  
「私も『幼馴染みのお兄さん』というより『お父さんみたいなお兄さん、もしくはおじさん』というようなもので」  
「あたしから見たら、生まれて一番最初の友達なんだから。『幼馴染みのお兄さん』であってるわ」  
 頼む、黙ってくれ。  
 
 こほん、と咳払いをして真面目な顔をする。  
「実は楓の父親がしばらく前から行方不明でしてね」  
「まぁ、行方不明!?」  
「いや、手紙や養育費なんかはたまに送られてくるんですがね。とにかく家に居ないんですよ」  
「とりあえず生きてることは確かなのよね」  
「……えーと、それは良かったですね」  
 複雑そうな、呆然としたような表情で先生が言う。正直、何も良い事は無いのだが。  
「ご存知かもしれませんが楓の母親は早くに亡くなりまして。そこで年頃の女の子が一人での生活は心配だ、  
ということでちょくちょく様子を見ることはしていたんですがね。最近はうちに入り浸るというより住み着いちゃいまして……」  
「あの、彼女の親戚とかは?」  
 パラパラと資料をめくりながら聞いてくる。もっともな質問だった。  
両親が居ないとなれば、真っ先に頼るのは親戚縁者だろう。しかし、それに対する回答も用意してある。  
 
「あ、一応私と楓は親戚に当たる関係でして」  
「ああ、なるほど。それならば……」  
「家系図を3代位上って別ルートで下ったところの姻族とかだっけ? ほとんど他人よね」  
 隣で楓が言わなくてもいいような詳しい情報をしゃべった。  
 
「結婚できるんだよね?」  
 
 流石にこの台詞に、その場の空気が(楓を除いて)凍りつく。  
「あら、あたし何かマズイ事言ったかしら?」  
マズイも何も、問題が大アリの発言だが、一番の問題は楓がそれをわかっていて言っていることだろう。  
「えーっと! とにかくですね、古い頃からの親友で何より『親戚』でもある楓の父親からも  
『楓を頼む』と言われてしまいましてですね!!」  
「親公認の間柄」  
 言葉のチョイスがグレーゾーンだ。  
「そこで今は私が『保護者代わり』という訳なんです、詳しくお話しするのがこのような席で申し訳ありません」  
 
「……大体の事情はわかりました。今後どうするかは彼女の担任やお父様とも話をしてからになると思いますが、  
おそらく問題はないかと……思われ、ます」  
 できればはっきりと言い切ってほしい。あれ、今の言葉に引っかかるものがあった。  
「あの、先生は楓の担任では?」  
「あ、すみません。申し遅れました。  
彼女の担任は今病気で休みをとってまして、私は臨時の担任の山岡と申します」  
「あ、そうなんですか」  
「柳内先生にはある程度事情は話してたんだけどね」  
 
 
 おそらく柳井先生と言うのが楓の本来の担任なのだろう。  
そういえば楓の担任はもっと年をとった男の先生だと聞いたことがあった気がする。  
「では、本日はこれで帰宅させても?」  
「はい、ご足労頂きありがとうございました」  
 挨拶を済ませて、早いこと退散する。あまり長いことここに居るとまた楓がいらない事を言い出しそうだ。  
その楓はというと、さっさと部屋から出て行こうとしていた。  
あわててその後ろを追いかける。あまり知らない学校の中を一人でウロウロしたくは無い。  
 
帰りの車内では僕のほうから楓には話しかけなかった。  
しかし楓のほうはそんな僕の態度にかまわず話しかけてくる。  
「怒ってる?」  
「何で、より、事態をややこしくする様な事ばかりするんだ」  
「あたしは、素直に話をしただけよ」  
 明らかに怒っている僕の声に対して、楓は拗ねた様な声で返す。  
「あたしは慎兄ちゃんが保護者だから、そばに居るわけじゃないわ」  
「だけど、お前は僕が保護者であることを利用して僕のそばに居るだろう」  
 素直に生きたいのは勝手だが、それを実行する方法が如何せんずるいというかなんと言うか。  
 
「結婚してくれるって言ったじゃない」  
「それは……お前がまだ子供の頃だろう」  
「でも、慎兄ちゃんはその頃にはもう大人だったわ」  
 しばらく無言で車を走らせる。多分、僕の中にも楓の中にも何か罪悪感のようなものが存在してるんだろう。  
「今日は、自分の家に帰れ」  
「あの家の鍵はウチに置いて来たわ」  
「……一度取りに行って、それから戻ればいい」  
「ウチにある夕飯の材料、一人じゃ食べきれないじゃない」  
 どうやら、楓はまだしばらくウチに住み着くつもりらしい。  
 
「だったら、明日でもいい」  
「今週分の食料は、まだたっぷり残ってるわ」  
 ちなみに、今日は月曜日だ。  
「……来週」  
「その話は、また週末にすればいいじゃない」  
 
……帰る気、ゼロ。  
 

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